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、はじめに
生 涯 学 習 時 代 の 大 学
-A.
マークス論文を手がかりにして-藤 田 弘 之
本稿は、イギリス、スターリング大学教育研究所の A. マークス(A.Marks) が著した 4つの 論文を検討しつつ、生涯学習時代における大学のあり方を考察することを目的とする。 さて、我が国では2004年4月をもって、国立大学が法人化され、各大学はそのあり方について の検討を迫られている。とりわけ、地方大学においてはこの影響を大きく受ける可能性があり、時 代状況を明敏に見定め、長期的な観点から着実に改革を進めていかなければならない。 ところで、イギリスにおいても特に1990年代以後、大学をはじめとする高等教育機関が極めて 大きな変革にさらされている。そして、それらは様々な影響をうけ、変化し、また矛盾が生じてい る。こうした中で特に地方大学は大きな影響を受け、自らの改革のゆくえは大学そのものの存立を 左右するとも言われている。 本稿で取り上げるマークスは、新進の研究者であり、これまで多くの論稿を出している。彼は、 このうちの一定の論文において、地方大学の立場からそのあり方を論じている。特に、彼は地方大 学を生涯学習の中に位置づけ、有職の成人、特に男子成人を多数受け入れ、地方において核になる べきことを論じている。 当然のことながら我が国とイギリスの状況は異なっており、彼の論が直載的に参考となるわけで はない。また、彼の論にはすでに議論されていることも多い。しかしここでは、検討の一つの素材 としてこれらを取り上げ、また我が国の論議の位置を確認しようとしたのである。なお、彼に着目 したのは、イギリスの生涯学習、大学改革の体系的かつ、包括的な検討の結果からではなく、自ら の研究の過程で遭遇したものであることを断っておく。2
、生涯学習時代の大学と新職業主義
まず取り上げるのは、「真に有用な知識:高等教育における新職業主義と成人学生への影響J と いう論稿である。(1)彼はこの中で、最近のイギリスの大学で強まっている狭い,章味の職業準備化、 産業との密接化の動向と成人学生の立場と関わって大学のあり方を問題にしいる。以下彼の論であ る。 (1)今日イギリスの大学における年齢構成は大きく変化し、成人学生の数が増加する傾向にある。 その理由はいくつか考えられるが、第1は、 20世紀末から今世紀にかけて、人々のライフコースや 年齢相応に生ずることが急激に不安定化し、変化していることである。それは例えば、少年時代の 短縮化、高齢期、モラトリアム時代の長期化などである。第2は、 18歳人口が減少し、高齢者が増 加しているという人口学的な理由からであり、その結果年長者の大学への入学機会が拡大され、こ うした人々が増える傾向にあることである。ただし、大学に一定の授業料を導入するという近年の 政策はこうした動きを抑制する可能性が大きい。第3
は、労働市場の不安定化である。これは成人-1-が雇用を維持し、または再雇用を得るために、より多くの資格を必要とする状況が生じており、こ れが成人学生の増加を生んでいる。雇用の不安定化は労働者階級だけではなく、中産階級について も急速かつ広範に進んでいる。労働市場の不安定化は新卒者の場合にも言える。すなわち、これま でのような大学卒業者に応じた仕事は減少しており、学士号はこれまでそれを必要としなかった職 種の基礎資格となるような状況が生じており、新卒者にとっても雇用を確保するために新しい資格 が必要となっている。 ( 2)特に成人学生は、彼らの労働市場での地位をよいものにするために、特定の目的で学位を獲 得しようとする。そして、大学において、特別な仕事のために訓練、又は再訓練を行うこと、すな わち、職業主義的な動きが強くなり、リベラルな教育の狭臨化を生じた。こうした動きは、大学に おいてリベラルな教育を重視し、これを保持しようとする人々から反発を生じ、リベラルな教育か 職業教育かの対立が生じている。
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)
B.ラッセルは、「ルネッサンスにおいて、学習することは、飲むことや愛することと同じく生 の喜びの一部であった。これは文学のような学習だけでなく、より厳格な学習についてもそうであ った。」と述べているが、大学の教育は必ずしも直接的な実利を求めず、このことは成人の教育に ついても同様であった。これまでイギリスにおける大学内の成人教育は、国家によって援助された が、それらは国家介入を排して高度の自治を得ていた。そして、リベラルで、民主的で、論理的で、 イデオロギーを持たない学習が行われきた。こうした学習によって、成人はより広い経験と多様な ものの見方を獲得することができた。それは「よりよく訓練された労働者」ではなく、「よりよい市 民Jを育成するという,章図の下に行われてきた。こうした教育は選ばれた少数者達に対して行われ、 実用的かつ職業的教育を無視し、または軽蔑する立場を生じた。仕事を遂行するための特定のスキ ルの学習は一般大衆のものと考えられたのである。(
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)今日イギリスでは、教育制度の職業化の方向が強まっている。いずれの政党も、これまでの 教育制度が実際の職業との関連を欠いていたという認識で一致し、またより直接的な職業の学習を 要求し、カリキュラムにおいて産業の問題を含めることを強く要求するという点で一致している。 職業教育は、国家が助成する価値がある投資であり、非職業教育はあまり価値のない消費であり、 個々の大学の責任で財源を調達すべきというような見方が出ている。そして、実際の教育政策にお いても、職業化の方向が進んでおり、特に成人の学習においては顕著である。 確かに、仕事の教え込みのようなものではないキャリアー教育は、実際の仕事を知った上で職業 選択するという点でよいことであるが、それが直接的な職業の教え込みのような形で行われれば、 いわば、「自動車に適当なように体を作りかえることを要求するJ というようなことにもなる。実 際、導入されてきた職業教育は、この国の制度に内在するスノーバリー的なことからうまくゆかな かった。また、いぜんとして職業訓練は優秀なものの下位にあるものという見方も強い。(
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)サッチャ一政権は、「教育はそれそのもののために重要である。」という議論を理解せず、ま た決して受け入れなかった。保守党は、大学を一種の「利益を得る中央市場」のように変えた。そ こでは教育の価値は、貸借対照表に見られるような価値によって急速に侵害されてきた。 今日では成人学生が増える傾向にあり、逆に中等学校の新卒者の割合が減じつつあるが、教育政策はなおこうした状況を顧慮せず、後者を前提としたものになっている。また、近年の教育政策で はでは、成人の大学での自由な学習を抑制し、狭陥化するような傾向が見られる。例えば、社会保 障関係で仕事に役に立たない学習を行う人々を批判し、彼らに対する諸手当てを減じるなどである。 また、教育省 (Departmentfor Education)については、成人の学習は直接仕事に通じる学問や コースを前提に考えられており、リベラルな成人教育は軽視されつつある。さらに、給費の廃止と 侵業料の導入は、成人の大学での学びを抑制する可能性が指摘されている。近年、生涯学習に関す る政府の文書が相次いで出されたが、それらの内容は、大学と産業のより密接な結びつき、高等教 育の民営化、提供されるコースの職業化、地方経済へのより大きな貢献、全ての学生への職業的ス キルの育成などを中心としている。 政権が保守党から労働党に変わってもこれらの方向に大きな変化はなく、労働党政権は生涯教育 を職業訓練、再訓練、再々訓練以上のものとみていない。労働党政権は、「産業のための大学J (University for Industry)という提案をしているが、経済のための手段以上のものではなく、必要 な場合、個々の会社の必要に応じたコースや学習資源を、規則的にアップデートなもので発展しよ うとしている。 (6 )“教育を仕事の準備として利用すること"は、“仕事のために教育するこど'と同じではない。 「我々は、思慮深く、創造的な市民になるように人々の潜布力を極大化するのを援助して、人々の 生活や知性を強化する教育制度を望むのか。それとも人々をあらかじめ定めた仕事の役割を果たす ように作り上げ、知的創造性を詰め込むソーセージ工場を望むのか。一一一大学は同じように職業化 されるべきなのかけということを考えたとき、健全な教育制度、また健全な社会は知識がそれ自 体目的であるときにのみ維持されると主張できる。学生よりも産業の必要性に応じるよう計画され た教育制度は、決して教育というものではない。 また、職業的なものと、非職業的なものとは容易に区別できない。それは状況によって変わるも のである。一つの学問はある人にとっては職業的であるが、他の人にとっては純粋の興味の対象で ある。 成人学生にとって、高等教育の価値は、功利性という点から考えた場合は、必ずしも大きくない かもしれない。しかし、調査によれば、成人が教育に復帰した経験は、多くの精神的な充実や喜び を生ずるものとされている。「有用性のないルネッサンス教育はなお本質的に、また非本質的に有 用であるというラッセルの主張は支持できる。もし個人が自らの意識を高められ、その能力が用い られ、それが喜びにつながるならば、個人にとっての恩恵は、一般社会にとっての利益になるであ ろう。主婦や母親の大学生は子ども達の学習に対する情熱を生じることができるであろう。失業者 である学生は図書館を利用でき自らの学習を進める時間を有効に費やすことができる。人生の途上 で、高等教育が個人的成長の過程であると見出した学生は、はるかによりよい社会の有用な成員に なるであろう。したがって、直接有用でない教育はなお社会的に有用なことである。成人の学習の 真の結果がわずかの資格の獲得以上のものではないとしても、それはなお有益であり正当な価値あ る事業である。J こうしたことを考えたとき、資格の問題は重要な問題ではない。成人が選択する 学位の取得は、目的のための手段ではなくそれ自体が目的であると考えられる。 (7)今日、生涯学習は政治的手段として論じられ、それに関わる政策が進んでおり、成人の学習 は明らかに目的のための手段となっている。そして、成人の学習が内面的に価値あることであるこ
-3-とについての合産が得られていない。大学では「新職業主義」が生じつつあり、それは成人の学習 に影響を及ぼしている。彼らの学びは、職業に通じるものであり、非職業的なコースにいる人々は お金の無駄として排斥されている。職業教育の提供を否定するものではないが、こうした教育が成 人の人生を豊かにするような学びのためのものになっているか疑問であり、成人の人間的社会的成 長のために広い全体的な学習機会を提供することが必要である。
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、生涯学習時代の地方大学
次に取り上げるのは、「生涯学習と一家の稼ぎ手Cbreadw
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)
というイデオロギー :マーシ イサイドにおける高等教育への男子の労働者階級成人の参加の欠如の問題についてJ (2) という論 文と、「地方大学を求めて: 成人学習者の大学へのアクセスの問題の検討J(3) という論文であ る。後者の論文は、調査を基礎とした前の論文を踏まえて論じられており、ここでは後者を中心し、 適宜前者を補う。これらの論文で彼は、大学は主として地方の施設であると認識し、地方の生涯学 習体系の中で中核的役割を果たすべきこと、地方の成人を多数受け入れ学習の便宜を与えるべきこ とを論じている。以下は、彼の論である。 (1)彼はまず、大学が本来、地方の人々のためのものではなかったことを指摘する。これまで大 学は外部の干渉を排し、神秘性をおびた機関であった。象牙の塔といわれるような状況も生じたが、 一般的にはよいこととされ、大学は自治を享受してきた。こうした大学は、国際的、国家的、地方 的という違ったレベルの役割を持つべきであるが、戦後の大学は地方的な役割を無視し、圧倒的に エリートとしての役割を担ってきた。それはあたかも、財政問題には顧慮せず、農民達が称賛する ように作られた中山の大寺院のようなものであった。大学は地方の人々から見れば、畏敬の念を持 って見上げるような存在であり、その学生の多くは地元以外から集まった。これに対しポリテクニ ックは「貧民のための教育的なスープ」とも言える存在であり、大学に入れない地方の人々のため の機関であった。地方の人々は、大学からはあまり思恵を受けず、せいぜい定員を充足できないコ ースの補充学生として、または、パートタイム学生として受け入れられた。すなわち彼らはマージ ナルな位置しか与えられなかったのである。 C2
)近年、大学は地方の機関としての役割を果たすこと、また地方の成人を受け入れるべきとい う認識が高まったが、その背景の一端に次のような事情がある。すなわち、近年政府は、学生への 給付を縮小し、一定の授業料負担を導入したが、それは学生に大きな影響を与えた。いわゆる銘柄 大学はそうでない大学よりもより多くの侵業料を徴収でき、大学の社会的経済的階層化が進んだ。 これは、特に成人学生にも大きな影響を与え、彼らの教育機会を縮減する懸念があった。こうした 経済的な事情から、とくに成人学生は移動を避け地元で学ぼうとし、地方大学への要請が高まり、 大学はこうした要請に応じる必要が出てきた。また、大学とポリテクニックの区別が排され、ポリ テクニックの多くは大学の地位を獲得し、拡充整備されたが、このことは地方の人々の大学への関 わりを強めた。 ( 3 )以上のような背景もあるが、 21世紀において全ての大学は、地方の機関としての役割を重視 することが必要である。各大学は“地方のアイデンティティ"を持った存在であるべきであるが、それは地方大学が国家的、あるいは国際的なレベルの学生を集められないからではない。地方大学 は、地方の学生をひきつけ、地方のニーズや条件に応じる慎重な政策を持つべきである。また、生 涯学習ということが単なる口先だけのことでないならば、大学は多様な背景から成人学生を受け入 れるべきである。そのために入学の条件は緩和される必要がある。 (4 )ところで、大学の地方成人への開放、地元大学志向に関わって問題がある。まず第lは、成 人たちの学習動機や意欲の差である。実際、大学利用者の多くがホワイトカラーであることは、調 査の結果明らかになっている。人口構成から見れば、ブルーカラー層や労働者層が多く、大学はこ うした人々を受け入れるような方法を検討する必要がある。真に生涯学習の大学であるためには、 それは多様な背景をもつあらゆる階層の人々を受け入れる努力をすべきである。学習動機や,意欲の 差は、それまでの学校時代の経験と関わることが明らかになっている。すなわち、一定の人々にと って学校教育は必ずしも快適なものではなかったことである。これは個々人がさらに学習しようと することに否定的な影響を与えており、階級と密接な関わりがある。第2は、別の大学で学びたい にもかかわらず、経済的事情から地方大学にとどまらざるを得ないことの問題である。確かに、オ ックスブリッジのような伝統的な大学での学習、よりステイタスの高い大学での学習、特殊な学科 の学習など地元以外の大学での学習の誘因はある。しかし、オックスブリッジの全てが他より優れ ているわけではなく、その位置は変化している。また大学のステイタスについてであるが、大学の 研究力と同時に、教育力ということを考慮する必要がある。また、大学のランクづけが必ずしも実 際の質を反映したものでないことを認識する必要がある。新しい大学は伝統的な大学より劣るとみ なされることが多いが、実際は正当ではない。学びが進むに従って大学を移動することができる。 すなわち、一人の人が、地方大学で学士号を取得し、修士号や博士号では別の大学に移って取得す るということも可能である。学びたい学科が地方にない場合もある。もちろん特殊な場合は別であ るが、一般的な学科の場合、新設が可能である。また、スタッフの相互交流、インターネットを利 用した講義やゼミなどで地方の大学でも学習が可能となる。 ( 5)大学は、国家的、国際的なレヴェルで他の大学との関わりを維持する必要があるが、同時に、 真に地方、地域社会の中で、産業、自治体、学校、カレッジ、専門団体などと連携し、その一部と して中核的な役割を果たすべきである。実際、大学を生涯学習との関わりで与えることは重要であ り、そうしたことを望まない大学は、「化石化し、独りよがりな知的自己満足に満ち、無関係な象 牙の塔となる。一一生涯学習は、政府、社会、大学自らに、大学と非大学部門との差、基礎研究と 応用研究の差、理論的な訓練と職業訓練の差を慎重に検討することを促している。」大学は地方の 人々を受け入れ、生涯学習の体系に位置づくべきであり、そうしなければ「死滅した恐竜」のよう になる。
(
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)大学は一つの共同体として、その内部に対する責任とともに、その外部に対する責任も認識 すべきである。とりわけ、すでに述べたこととも関わって、外部の地域社会との関係を再検討する 必要がある。大学はこれまで主として財政的な支持某盤があったことから、自らを自己完結的にと らえ、地域社会と積樋的に関わってこなかった。現在、大学に昇格した旧ポリテクニックも、かつ てのように地方の問題に密接に関わることがなくなり、旧来の伝統的大学と同じような問題を生じ ている。大学は、図書館やスポーツ施設などその持つ様々な施設設備を地方の人々に開放する必要-5-がある。また、例えば犯罪の増加など、地方、地域の社会問題について、積械的に関わる必要があ る。さらに、学生が地方の問題に積極的に関わるような活動をサポートすることも必要である。た とえば、学生のボランティアー活動を実励し、それを積極的にカリキュラムに位置づけることであ る。これらは、地方と大学のかかわりを増幅し、成人学生にとっても有用である。こうして大学と 地域社会の垣根を取り除くべきである。 ( 9)大学、その全ての部門は、全ての人々の利用、また全ての人々の,恩恵のために存在するもの と認識する必要がある。特に地方大学は、他の諸施設、機関と協力して、成人たちがよりよく学べ るような大学になるように努めるべきである。すなわち、第1に、学習の資格要件を緩和し、また はその要件を多様化することである。第2に、成人にとって有用な学科やコースを整えるべきであ る。ただしそのことは、かつてのように職業的なもの、学問的なものという 2分化で考えるべきで はない。一般に、有用なものが重視され、アカデミック教育の古典的理想は終えられ、無用な科目 の学習の可能性は少なくなるという傾向にあると見られるが、これは極論であり、必ずしもこうし た結論にはならない。調査によれば、成人学生は、自分が興味を持っているもの、また職業市場で 通用する科目やコースを選択する。それは必ずしも狭い,童味の職業教育的なものではない。第3は、 成人男子の学びを促すために、雇用者の理解と協力を得るように努力することである。第4は、地 方大学での学びについて、その意欲がない人々を学びに引き込む努力をすべきである。この点につ いては例えば、ジョーンムアーズ大学 OohnMoores University)では、「教育パスJ を走らせ、 地方の人々に学びが可能なことを示しており、また「学習ショップJ(study shop)を設けてい る。リパプールホープ大学(Liverpool Hope University)では、リパプール ・アルパート・ド ックにコーヒーショップを設け、その訪問者にカレッジの要覧やコースの詳細を示し、カレッジに ついてのビデオ視聴の便宜を図っている。 (10)地方大学の位置や役割を以上のようにとらえるならば、大学関係者がその意識を根本的に変 え、大学自らが改革を行う必要がある。大学は、唯一若い人々の学びのためだけではなく、全ての 人々のためのものである。大学はエリー ト機関から大衆組織へと変化する必要があるが、なおこう した組織にはなっていない。成人が学生集団の重要な部分になり、彼らの存在が特異なことでなく なることが不可欠である。
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、生涯学習時代の大学改革
マークスによって最近に出された論文は、「成人の大学?生涯学習のためのマニフェストJ(4) と題するものである。この中で彼は、大学を生涯学習に位置づけ、成人にも広く開放すること、そ のため大学は改革を行いその条件作りをすべきこと、また成人の大学教育への参加を促進する方策 を検討すべきことを指摘している。以下彼の主張である。 (1)今日急激な変化の時代にあって、大学の本質とそのあり方が根本的に問われているが、長く 続いてきたエリート主義的な立場と、生涯学習の考え方を支持し、その門を広く開くという立場の 間で対立が生じている。これからの大学は、恩恵を受けうる全ての国民に聞かれるべきであると考 えるが、特に成人を受け入れ、彼らの生涯学習に資するべきであると考える。その際、次のような問題がある。第1は、生涯学習の概念が不明確で、そのあり方や目的などに ついて多様な立場があり、それは一定政治的,意味合いを持ってきていることである。すなわち、政 府はそれを不安定な余剰労働力のスキルアップや再訓練との関係で考え、雇用者は有用なスキルを 持った教育ある労働者の補給源と考えている。また、大学そのものは、各コースの欠員補充の手段 と考えている。さらに社会政策の立場からは、十分な教育機会の恩恵を受けなかった人々に第2の チャンスを与える手段と考えている。最近の政府の政策では、成人男子の失業者への手当てを打ち 切り、教育を受けることを望まない労働者に学習を強いるというようなことがなされているが、こ れらは必ずしも成功しているとは思えない。第2は、新自由主義的な市場原理から大学を一つの事 業としてとらえ、それを費用対効果で考える立場が大きな影響を持っていることである。特にこう した観点から職業主義的な考え方が有力になっている。第3は、大学はもともと18歳から21歳の年 齢人口を前提に考えられており、成人を受け入れる条件や構成員の意識がなお備わっていないこと である。したがって、現状では大学は成人が学ぶのに適切な場所になっていない。
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)大学が成人のためにも存在すべきであるとすれば、彼らを受け入れるように大学が改革され、 またその条件作りをすべきである。 その第lは、すでに指摘したように、これまでの大学は独身の、地理的に容易に移動可能な18歳 から21歳の年齢の学生を前提に考えられているが、大学は成人のものでもあることを認識し、例え ば、大学において託児所を整備するというような、成人の必要性に応じた施設や学習条件を整える 必要がある。第2は、成人の中には、これまで幸福な学校時代を経験しておらず、学校に拒否反応 を示す人も多い。こうした人々に対して、大学の学習の意味や内容を示し、啓発する活動が重要で あり、いわば一定期間成人のためのていねいな学習ガイダンスを行う必要もある。第 3に、大学の 成人に対する学習の提供は、今日新しい形で外部化される傾向にあるが、それが成人に疎外意識を 生じないように行われる必要がある。すなわち、成人への学習提供は、キャンパスから出て、地域 の中で提供され、またはオンラインを活用したバーチャル大学などが生じている。これらは地理的、 時間的、経済的観点から積極的な産味もあるが、それらがいわば、「年齢アパルトヘイトJ という ような状況を生じる恐れがある。したがって、成人に対する学習の提供にあたっては学校内での学 習と学外での学習のバランスが必要であり、とりわけ教師と学習者、学習者どうしの相互交流を可 能にするようの条件を整える必要がある。第 4は、大学への入学試験の問題である。試験は成人が 大学で学ぶことを阻害する大きな要因である。試験は、入学のための一時的なものであり、真の学 問的能力を測定できるものではない。また、試験で準備する浅薄な知識は、深い学習の妨げになり、 最終的には廃止されるべきものであるが、そのあり方については十分な検討が必要である。(
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)生涯学習の一環として一つの位置を占める大学は、成人たちにどのような教育を提供すべき であろうか。今日、労働市場は不安定で、また偶然が支配する状況になっており、インフレ化した 大学卒業資格はあまり意味をなさなくなっている。そうした中で、大学が成人に提供する教育につ いては、その有用性を重視する立場とアカデミズムを重視する立場がある。 有用性を重視する立場は、大学が現実の仕事により関連するように努め、雇用者逮が必要とする 特別な能力を育てる教育を増大させるよう努めるべきという立場である。これに対してアカデミズ ムを重視する立場は、学習することそのことの価値を改めて重視する立場であり、世界全般にとっ ての教育ある個々人の価値を強調すること、換言すれば、学位以上に教育の価値を強調する立場で 7ある。 今日上記の社会状況の中で、現実の職業に密接に関わる職業主義が影響を及ぼしつつあるが、 “ためにする学習"は若者の特権とみなされるべきではなく、大学教育から,恩恵を受ける全ての 人々の権利として強調されるべきものである。教えられるのは特定の仕事に特化したスキルではな い。生涯学習は、単に短期的な労働市場の変動に伴う短期的な再訓練として提供されない場合にの み意味があるのである。
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)
大学が成人の学習にとって重要な役割を果たすべきものであるとすれば、こうした機会を利 用する成人たちを増加させる措置を講じる必要がある。 1980年代から1990年代の大学改革により、大学での学習機会は大幅に拡充されたとされる。し かし、成人についてみた場合それは部分的な成果しかない。すなわち、 18歳人口は減少しつつある が、大学拡充はより多くの18歳年齢人口を吸収した。また、必ずしも高等教育の大衆化は進まず、 むしろエリート層の拡大という状況がある。 成人の多くには、大学の学習機会が増加したという認識が薄く、こうしたことを承知していない。 成人の大学の利用者は依然として中産階級の人々、そのなかでも特に女性が多く、労働者階級の男 子の利用は非常に少ない。これはすでに指摘したとおり、彼らのこれまでの学校経験が非常に関係 している。こうした経験により、教育の価値への懐疑が生じ、その意欲や動機を生じることが困難 になっている。政府は、給付金を廃止することによって、労働者達に教育を強いようとしているが、 それはいわば「恨み」を生じ、逆の効果をもたらすことになる。いずれにせよ、成人の学習意欲を 喚起し、動機付けを行うことが重要な検討課題である。 労働者階級の成人が再び学ぼうとしないことについては、他にも幾つかの理由があると思われる。 その大きな理由がコスト言卜算である。すなわち、彼らの一定のものは高等教育によって得られる可 能性がある便益を計算し、学習するかどうか決定する。すなわち、知的発展、経歴の強化可能性、 給与の増加、より給与の高い仕事の獲得などと学習に伴う損失、収入の減少などを計算するのであ る。こうしたことが誤りであると論じ、批判することはまちがいであり、おかどちがいである。 確かに労働者にとって、学ぶことは楽しみの追求ではないが、彼らが学習を始めることによって そのような見方を変え、学習が内面を充実させる楽しい活動になるとともある。また、労働者につ いてその学習活動の成否を単に一つのコースを終了したということだけで判断しではならない。大 学で学習している労働者は、そのコースを終了できなかったものが多いが、その過程で一定の満足 と自信を獲得し、文化的、知的地平を拡大することができる。 いずれにしても、多くの成人に高等教育を拡充して行くことが必要であり、彼らの大学への接近 を一層増大させるような施策と工夫が必要である。5
、おわりに
以上本稿は、A.マークスの 4つの論文をとりあげ、生涯学習時代における大学のあり方について 述べてきた。マークスの場合、生涯学習とは成人の学習をさし、彼は社会経済が不安定化する中で、 これからの大学が成人に対して多様な、また真の学習機会を提供する必要性を強調している。そし て、大学がこうした成人の学習への阻害要因を取り除き、学びを可能にする条件作りをすべきとし ている。さらに、大学は、地方の大学として独自のアイデンティティを持ち、地域社会と密接にかかわり、多様な機関と連携協力すべきこと、地域の中核的存在になるべきことを主張している。そ の際、職業教育の必要性は認めるものの、それは狭い憲味の、特定の職種のための職業教育ではな く、これらは直接実用とは関係のない、いわゆる本質的な学問・研究を軽視することではなく、そ れと補完の関係にあるべきであると述べている。また、これまで大学は、もともと学習意欲を持た ない、その動機がない人々とは関係のない存在であった。彼はこうした人々にもその恩恵を拡大す べきとしており、そのための啓発、普及をすることも重要であるとしている。 以上のような主張は、我が国における論議と多くの点で重なりを持っている。指摘された点です でに検討され、具体化されていることもあるが、見直し、参考にすべきこともある。これらはこれ からの大学のあり方について、その論議の位置や状況を確認するのに一定有益であると考えられる。 注、
(1) Marks,A., "Really Useful Knowledge : The new vocationalism in higher education
and its consequences for mature students", British Journal of Educational StudieS,
Vo
.
1
47, No.2, 1999.(2) Marks,A., "Lifelong Learning and the Breadwinner Ideology: addressing the
problems of lack of participation by adult, working-class males in higher education on
Merseyside",.EducationalStudie~, Vo
.
1
26, No.3, 2000.(3) Mar ks,A.,“In search of the Local University: considering issues of access for mature
learners",Journal of Further and Higher Education, Vo
.
1
24,No.3,2000.(4) Mar ks, A.,“A grown up university? Towards a manifesto for lifelong learning",
Journal of Education Policy, Vo1.17, NO.1, 2002.