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cf. : Duviols 1985: 33 86

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1. はじめに 廃墟と遺跡 我々は 「遺跡」 という言葉を英語にしようとしたとき, しばしば “ruins” という単語を 用いる。 しかし, “ruins” を辞書で引いてみると, 第一義として 「廃墟」 という意味がそ こに書かれていることに気付くであろう。 この “ruins” というひとつの単語で包括される 「廃墟」 と 「遺跡」 という二つの日本語の持つ意味の違いは, 本研究においては重要な意 味を持っている。 人間の生活の場は, その人間がそこで活動することを放棄した時点で廃 墟となる。 その廃墟のほとんどはそのまま忘れ去られてしまうが, その中には幸運にも (不幸にも?) 何らかの形で後に再発見されるものがある。 そういった廃墟は, 後世に生 きるものによって何らかの意味づけがなされることで, 「遺跡」 と呼ばれる。 遺跡はしばしば現在そこに住んでいる人々の祖先への思いと結びつき, それは時に地域, あるいは国家アイデンティティーの象徴的存在として祭り上げられたりもするなど, 政治 的な意味合いを持ってきた。 また, 昨今の観光産業の隆盛は, 人々の文化遺産への関心を 喚起し, 遺跡も観光資源として経済的な意味合いを持つようになってきた。 遺跡そのもの は相変わらず同じ場所に存在し続けるにもかかわらず, 意味づけられたが故に, 遺跡はそ の意味づけに応じるように様々な顔を我々に見せることになる。 それはあたかも遺跡を取 り巻く現代社会を鏡のように映しだしているかのようである。 遺跡を意味づけるということは, いいかえればイメージの形成, あるいは生産である。 それは対象である遺跡にあるまなざしを向けることによって起こることであるが, このま なざしの源泉となるのはやはりイメージである。 その際, そこではまずイメージの消費が 行われている。 本研究では, 様々な遺跡の顔のうち, 観光の側面における遺跡の意味づけの問題を, 遺 跡をどうやって見せているかという視点を通して扱いながら, そこで展開されるマヤ・イ メージの形成と消費について考えてゆく。 対象となるのは, メキシコのキンタナ・ロー, ユカタン両州の, 特にカンクンおよびリヴィエラ・マヤ地域を中心とした観光圏における マヤ遺跡である (第1図)。 だがその前に, まずはマヤ・イメージというものが形成されてくる過程について, 歴史 的な見地から押さえておくことにしたい。

マヤ・イメージの形成・消費と古代遺跡

マスツーリズム状況下を生きるマヤ遺跡公園のイメージ戦略

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2. 観 光 以 前 2. 1 大航海時代ヨーロッパ人のアメリカ観 我々が議論しようとしているマヤ・イメージの根底には, 大航海時代のヨーロッパの人々 のアメリカ観が存在していると考えられる (もちろん, この時代にはマヤ・イメージとい うものは存在していないが)。 観光におけるマヤ・イメージの形成と消費について考える 前に, まずはこの辺りから考えてゆくことにしたい。 大航海時代には, ヨーロッパ人は人間をキリスト教徒と異教徒の二つに分けて考えてい たということは, しばしば語られることである。 そのような当時のキリスト教中心主義的 な考え方では, 世界の中心であるキリスト教徒のヨーロッパは 「文明」, 周辺の異教徒は 「野蛮」 という明確な区分がなされたことは言うまでもない (cf. 増田 1965: 22 23)。 そ して, キリスト教的規範に反した 「野蛮」 な生活をおくるアメリカ人に関して述べるとき, 悪魔崇拝, 食人, 人身御供といった非人道的イメージがしばしば強調され, 時には無頭人, 巨人, そして非人間的な怪物などとして描かれることもあったこともよく知られている (Duviols 1985: 33 86)。 すなわち, この両者の対立関係の内には 「ヨーロッパ:アメリカ =キリスト教徒:異教徒=文明:野蛮」 という図式が厳然と存在し, ヨーロッパ人のアメ 第1図 カンクン,リヴィエラ・マヤ観光圏の主な遺跡公園

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リカ観の根底を支えていたのである。 しかし, この 「アメリカ=野蛮」 イメージが, 自らのアメリカ征服とその植民地化を正 当化するためにスペイン人によってことさらに強調され利用されてきた一方で, 全く異な ったアメリカ観も存在していたのも事実である。 1580年に書かれた エセー 第一巻で, モンテーニュは次のようにアメリカ先住民の純粋さを讃美している。 それはヨーロッパが 文明化する以前の原初的な世界の人々のイメージでもあった。 「それら新大陸の住民たちは, 人間の精神の手をほんの少ししか加えられておらず, 彼ら の生来の純朴さに非常に近いために, 野蛮だと思われるのだ。 自然の法則が, 人間の法律 による変質をほとんど受けないままに, まだ彼らを支配している。 (中略) 経験を通して われわれがこれらの民族のなかに見てとったものは, 詩歌が黄金時代を飾るのに用いたあ らゆる描写や, 人間の幸福な状態を思い描くのに用いたあらゆる思いつきを越えているだ けでなく, 哲学の考えていること, 願っていることをさえもしのいでいる」 (モンテーニ ュ 1967: 170) エリック・リードの指摘によるならば, 異境の地で思いもかけず異教徒であるその住人 と出会ったとき, ヨーロッパ人はキリスト教化以前の 「黄金時代」, あるいは 「楽園」 の イメージを彼らに付与したのである (リード 1993: 210 212)。 ヨーロッパ人は, ギリシ ャ, ローマに起源を持つヨーロッパ文明という確固とした枠組みがあって, これにパレス チナに起源を持つキリスト教という大きな理念が分かちがたく結びついて形成されたひと つの世界観の中で当時暮らしていた。 ここでこのパレスチナがその当時すでに異文化圏, すなわち外部世界に属していたことは重要である。 キリスト教徒が外の世界に想像力を働 かせたこのような局面では, 旧約聖書に描かれているイエス・キリスト出現のはるか昔に, その外部世界であるところのパレスチナの地にあったという 「楽園」 のイメージが, その 想像力の中に投影されることになったことは容易に理解できよう。 コロンブスの航海日誌 を見てみると, そこには従順で, おとなしく平和に暮らす先住民の姿や, 島々の豊かな自 然の様子が多く描かれている (コロン 1977)。 新世界に関する様々な情報が飛び込んでく る中で, こういった情報もヨーロッパ本国に伝えられたが, そこからこの新世界の様子を 想像しようとしたとき, ヨーロッパの人々は上記のごとくキリスト教的歴史観, 世界観の 枠の中に位置づけられる 「楽園」 のイメージをこれに照らし合わせたのである。 また同時 にそれは魔女狩りに象徴されるような社会不安の中で日常生活に汲々とし, 戦争に明け暮 れる文明化した本国と対照をなすイメージとして, ヨーロッパ人がアメリカに希求したも のでもあったということも考えなければなるまい。 この 「ヨーロッパ:アメリカ=堕落: 楽園=戦争:平和」 という図式は, 植民地期には, 前述した 「アメリカ=野蛮」 イメージ と平行して, 当時のヨーロッパ人のアメリカ観の中に存在していたのであった。

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2. 2 マヤ・イメージ成立前夜 マヤ地域においては, 植民地時代に多くの 「廃墟」 を宣教師や軍人, 役人などが既に訪 れていたものの, 残念なことに彼らが残した報告書のほとんどは19世紀後半以降になるま で完全に忘れ去られていたといってよい。 その唯一の例外ともいえるのが, 18世紀にデ・ ソリス神父が訪問して以降, その名が知られるようになり, 好事家, 冒険家, 学者, ある いは旅行家がひっきりなしに訪れるようになったチアパス州のパレンケ遺跡であった (ボ ーデ他 1991: 36 58, Matos Moctezuma 2002: 20 21)。 18世紀後半のヨーロッパでは, 啓蒙主義思想の広がりの中でルソーの 「高貴な野蛮人」 に代表されるような自文明批判が展開されていた。 そこに19世紀初頭, ナポレオンのエジ プト遠征の際に収集された古代エジプト文明の遺産が紹介されるといった出来事があり, それはヨーロッパ人のエキゾチックな 「古代文明」 というものに対する高い関心を呼ぶこ とになったのである。 ちょうどそんな風潮の中でヨーロッパに伝えられた中米の古代文明 に関する情報は, 一部の学者, 好事家たちの中に, 初めて未知の 「マヤ文明」 に対するさ まざまな想像力を刺激していった。 そして, 19世紀のヨーロッパの学界では古代エジプト 人説, カルタゴ=フェニキア人説, イスラエルの失われた民族説, アレクサンダー軍の一 部説, アトランティス文明の残存者説など, 「マヤ文明」 の担い手の起源に関する議論が 雑多に飛び交うことになる (cf. Wauchope 1962, etc.)。 だがこういった諸説がさかんに論 じられている中で, この文明のアメリカ起源説が一学説として認められるには, 旧世界と の関係ばかりに気を取られることなく, キリスト教世界の古典的知識の呪縛から解き放た れる必要があったのである (ボーデ他 1991: 46 47)。 結局, 現在では誰も疑うことのな い, 旧世界と接触することなく全く独自に発展してきた 「マヤ文明」 という考えが, 諸説 に伍してようやく市民権を得るようになったのは19世紀半ばのことであった。 2. 3 マヤ・イメージの成立 イギリスやフランスの植民地支配においては, 多くの探検家が各地に送り込まれ, その 博物学的興味から様々な物品が収集され, さらに民族学, 文化人類学という学問もそのよ うな風潮から生まれてきたことは, 今さら説明するまでもなかろう。 そのような19世紀後 半はマヤ地域にとっても探検の時代であり, その点では英仏の植民地と何ら変わらない状 況であったのである。 そんな中で, 「古代マヤ文明」 のイメージが欧米で広く知られるようになったのは, ア メリカ人ジョン・ロイド・スティーブンスによって出版された 中央アメリカ, チアパス, ユカタンの旅の事物記 (Stephens 1841) と ユカタンの旅の事物記 (1843) の一連の 著作によるものといえる。 スティーブンスの冒険心, そしてユーモア溢れる文章は多くの 読者を魅了した。 しかし, 評価されるべきは, 彼が空想や勝手な解釈, 推論に基づかず, いちいち根拠を示しながら慎重な記述につとめたことである。 そのため, 現在でも十分 「読める」 だけの内容をともなった文章に仕上がっているといえる。 また, その成功はキャザウッドによる精密な銅版画が添えられてこそのものであったこ

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とを忘れることはできない。 写真が一般的でなかった時代に, この正確に描写された銅版 画の挿し絵は, 欧米の読者に 「マヤ文明」 の視覚イメージを強烈に植え付けるのに大いに 役立った。 そして, その成果に触発される形で, 19世紀後半にはフランス人デジレ・シャ ルネイ, イギリス人アルフレッド・モーズレー, オーストリア人テオベルト・マーラー等 が相次いでマヤ地域を探検し, 当時発明されて間もない写真技術を駆使して 「マヤ文明」 の視覚イメージを欧米に紹介している。 この時期の欧米の人々による 「マヤ文明」 の 「再発見」 と 「意味づけ」 は, 古代マヤ人 が残した 「廃墟」 を 「遺跡」 に変えた。 この再発見においては, かつてスペイン人征服者 がアメリカを 「発見」 した際と同じプロセスを経たことは容易に想像できよう。 すなわち, 想像を絶するほど巨大な未知の文明の遺産を目の当たりにしたとき, 自分たちの想像力の 範囲内で, 既知の事例をもとにこれを 「意味づける」 という作業が行われたのである。 チ チェン・イツァ遺跡やウシュマル遺跡, パレンケ遺跡など古くから欧米に紹介されていた マヤ遺跡では, 現在でもその主要な建造物の名称にこの当時からの呼び名である城, 宮殿, 尼僧院, 教会などがそのまま用いられていることが多いが, これは植民地期の建造物のイ メージを古代マヤの建造物に照らし合わせたひとつの西欧的な 「意味づけ」 であるといえ よう。 そういった 「意味づけ」 の中に, 植民地期のアメリカ観は引き継がれ, 「マヤ=楽 園=平和」 というイメージはこの頃に確立したのである。 また, もう一つのイメージであ った 「アメリカ=異教徒=野蛮」 も変質し, 「謎」, 「神秘」, あるいは 「エキゾティシズム」 と名前を変えて受け継がれてゆくことになったと考えられる。 1891年から94年までハーバード大学ピーボディー博物館によって実施されたコパン遺跡 の考古学調査によってマヤ地域は探検の時代を終え, 考古学による学術的調査の時代に入 る。 その後この地域でおこなわれた大規模な調査は, そのいずれもがピーボディー博物館 や, ペンシルバニア大学, チューレーン大学そしてカーネギー研究所といった米国の研究 機関によるものであったといってよいだろう。 このように探検の時代からこの初期の考古 学の時代にかけては, 常に欧米のまなざしが 「マヤ文明」 を意味づけてきたといえる。 3. ユカタン半島北部地域の観光化とマヤ・イメージ 3. 1 初期のメキシコの観光 メキシコにおいて海外に向けた観光のプロモーションが始まったのは, 1920年代といわ れている。 そのパイオニアとされているのは, 1921年にフェルナンド・バルバチャーノ・ ペオンという人物が企画したチチェン・イツァ遺跡ツアーである (Mayaland Resorts n.d., Mayaland tours 1940, Ellis and Ellis 1964: 145 149)。 また, 1928年にはコスメル島に最初 のホテル, グラン・オテル・ルーブルが開業し, 同島の観光化が始まるが, このコスメル 観光のオプションとしてトゥルム遺跡観光が含まれていた (     1998: 393 394)。 このように, 20世紀前半のユカタン半島における初期の観光においては, チチェン・イツァやトゥルムといったマヤ遺跡が非常に重要な役割を果たしてきた。

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地域での局地的なものでしかなく, メキシコが観光国家となってゆく端緒を開きこそすれ, そのためのインパクトになるほどのことにはならなかった。 メキシコ国家において本格的 な観光開発が行われたのは, 1940年代半ばに行われたアカプルコの開発が最初であり, ユ カタン半島北部地方のそれは, 1970年代のカンクン開発まで待たねばならなかったのであ る。 3. 2 観光を取り巻く状況の変化 アカプルコが世界的な高級リゾートとしての地位を揺るぎないものにしていた1960年代, それは世界の観光に関わる諸々の問題がまさに大きく変化しようとしていた画期であった。 まず, キューバ危機に象徴される東西冷戦の緊張の中で, 国連により国際旅行・観光会議 が1963年にローマで開催され, 国際観光の促進が国際政治, 経済における重要課題として 提起されている。 そして, この国際観光の重要性が世界的に認知され, その促進に向けて 世界が動き出そうとする流れの中で, 1969年のジャンボジェット機の就航に象徴される航 空旅客機による大量輸送が, 豪華客船にかわって一般的な旅行手段となり, 先進諸国にお ける観光はマスツーリズム時代へと突入していったのである。 石森秀三が 「第三次観光革命」 と呼ぶこの現象 (石森 1996: 19 21) は, 日本を含む先 進国の高度経済成長の中で発生したものである。 しかしその一方で, この高度経済成長の 結果, 1970年ごろになると各国で深刻な公害問題, 自然破壊等が頻発するようになってい た。 そして, それによって右肩上がりの成長がもたらす環境問題への危機感が芽生え, ま たさらに 「資源は有限であることを認識すべきである」 という世論が世界的に広まってい ったのであった (真板 2001: 17)。 そういった環境問題への国際的関心の高まりの中で, 1972年に開かれたストックホルム国連人間環境会議における議論や, これを受ける形で締 結された世界遺産条約やワシントン条約などによって, 自然遺産が文化遺産と等しく価値 のあるものと考えられるようになっていったのである。 3. 3 マヤ・イメージの変質 1920年代にユカタン半島北部地方の観光が産声を上げて以降, この地域においてはホス トとゲストのどちらからも 「古代マヤ文明」 の存在は常に意識されてきたといえる。 それ は現在でも基本的に同じことではあるが, この地域の観光はマヤ・イメージというものを 抜きにして語ることはできないのである。 だたし, この地域に向けられたまなざしの源泉 となるマヤ・イメージは, 地域を取り巻く様々な要因によってたびたび変質してきた。 1950年代までのマヤ・イメージとは, 「古代マヤ文明」 のイメージとほぼ同義であった と考えられる。 そこには, 「謎」 あるいは 「エキゾティシズム」 を求める 「探検」 のイメ ージと, 「失われた文明」 という19世紀の啓蒙主義思想, あるいはさらにさかのぼって16 世紀のモンテーニュの思想にも連なる, 伝統的な 「楽園」 のイメージがあったことは先述 したとおりである。 ところが, 先に述べた1960年代以降の世界的な環境問題や自然保護へ の関心の高まりは, マヤ地域に 「手つかずの自然」 という新たな 「楽園」 イメージを加え

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ることになったのである。 こうして1970年ごろを境に, マヤ・イメージといったとき, そこには 「古代マヤの失わ れた文明」 と 「手つかずの自然」 という2つのイメージが並行して存在する形になる。 そ して, それまではマヤ・イメージから排除されがちであった生きた先住民も, この 「手つ かずの自然」 イメージに組み込まれるかたちで認知されることになったのである。 このようにマヤ・イメージは, 上で述べた自然環境に対する認識の変化に応じて, この 時期に大きく変質したのである。 そして, この新たなマヤ・イメージのあり方は, カンク ンが開発されて以降, 現在に至るまでのキンタナ・ロー州における観光のあり方に, 重要 な意味を持つことになった。 3. 4 カンクン開発とムンド・マヤ計画 カンクンは, そういう時代を背景として産声をあげたのであった。 さらにこれには, こ の時期アカプルコの開発開始からは既に20年以上が経過し, リゾートとしてのアカプルコ の新鮮味が薄れてきているという危機感を, メキシコの観光関係者が持っていたという別 の背景もあった。 そこで, 1970年に始まるエチェベリア政権は, アカプルコに続く大規模 リゾートとして, 1970年代初頭にまずキンタナ・ロー連邦直轄区 (当時) のカンクンとゲ レロ州のイスタパに白羽の矢を立て, その観光開発を開始したのである。 エチェベリア政権のもとでは, 観光省 (   ) や観光推進 国家基金 (Fondo Nacional de Fomento al Turismo: FONATUR) といった連邦政府の観光 政策を担う組織が再編成され, 後者はカンクン, イスタパ - シワタネホ, ロス・カボス, ロ レ ー ト , ウ ア ト ゥ ル コ の 5 カ 所 を 「 総 合 的 に 計 画 さ れ た 観 光 セ ン タ ー (Centros Integralmente Planeados: CIP’s)」 として選択し, そのリゾート開発のマスタープランを作 成している ( 1979: 20 21, Clancy 2001: 56 58)。 だが, それらの中で, 他のどの場所と比べても, カンクンは開発, およびその後の発展において際だっているこ とは間違いない (写真1)。 第1期開発プロジェクトが終了するのを機に, カンクンでは1981年10月に23カ国の首脳 が集まったいわゆるカンクン・サミットが開催された。 これがメディアを通して世界中に 報道されることで, カンクンは高級リゾートとしての国際的な知名度を上げ, その後, 堅 調にその訪問者数をのばしていった。 そして, 次の第2期の開発計画が進められる中, 1986年にはついに外国人訪問者数でアカプルコを上回り, 晴れてメキシコ最大の観光地の 地位を獲得することになる (Clancy 2001: 59)。 そんな観光開発の第2期のピークを迎えていたカンクンは, それ以降大きくその観光地 としての位置づけをかえてゆくことになる。 その背景には, 1984年にメキシコが世界遺産 条約を批准し, 国内の歴史遺産と自然遺産の世界遺産登録にむけての準備が進められてい たこと, それまで10年ほど続いていた内戦にピリオドを打った中米和平が1987年に達成さ れたこと, そして1988年に就任したサリーナス大統領が新自由主義政策を打ち出したこと などがあった。 サリーナス大統領は, 就任と同時にメキシコ国内の観光の近代化と成長を

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うたった5カ年計画を発表したが, その中で最重要課題に数えられているもののひとつに, ムンド・マヤ計画があった (Clancy 2001: 115)。 いまだ中米和平に向けての努力が必死で行われていた1986年に, メキシコ, グアテマラ, ベリーズの3カ国によってルータ・マヤ (Ruta Maya) と呼ばれる国際観光開発計画が発 足している (翌年にはホンジュラスとエル・サルバドルも参加)。 この計画は, かつて 「マヤ文明」 が栄えたこの地域において, 遺跡などの観光資源を, 国境を越えて結ぶこと で, より魅力的な観光エリアを創り出そうとするもので, そのために, 道路やホテルをは じめとした観光インフラの整備やプロモーションの展開が具体的に計画された。

ところで, 1987年には環境と開発に関する世界委員会 (World Commission for Environ-ment and DevelopEnviron-ment, ブルントラント委員会) で 「持続可能な開発 (sustainable develop-ment)」 という概念が提唱されている。 それは世界的な風潮として観光分野にも大きく影 響を与え (石森 2001: 7), マスツーリズムにかわるオルタナティブ・ツーリズムという ものが提唱された。 エコツーリズムはその代表的な形態のひとつである。 この風潮の中で, ルータ・マヤ計画は, 参加域内の自然・文化遺産の保全と観光資源としての活用, そして これによる地域経済の活性化を目指す総合観光開発計画という性格を持つムンド・マヤ計 画 (Programa Mundo Maya) へと発展的に形を変えていったのである。

この計画は, 「ムンド・マヤ」 という名の示すとおり, 「マヤ」 というイメージで地域を ひとつにまとめようとしたものであるといえるが, このプロジェクトについては世界観光 機関 (WTO), ヨーロッパ共同体, 米国ナショナル・ジオグラフィック協会, 中米のタカ

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航空など様々な国際組織や民間企業が強力に支援していった。 そして, このムンド・マヤ 地域内で最大の観光客収容キャパシティーを持ち, 知名度も高く, 国際線の発着する空港 があるカンクンは, 必然的にこの地域の最大の観光拠点ということになった。 こうして, それまで観光の目的地のひとつにすぎなかったカンクンは, ムンド・マヤというより広い 地域の中の観光の広がりにおける中心地, あるいは観光拠点として期待されるようになっ ていったのである。 3. 5 「マヤ世界」 と 「ムンド・マヤ」 上記したように, マヤ地域では19世紀以来アメリカを中心とした欧米の研究者や域内各 国の研究所によって遺跡が調査され, 開発もされてきた。 そういった中で我々はあるマヤ ・イメージというものを持つに至ったのである。 そのマヤ・イメージがもたれている地域 をここでは 「マヤ世界」 と呼ぶことにしたい。 この 「マヤ世界」 は強いて規定すれば, か つてマヤ語系の言語が話されていた地域という括り方ができるかもしれないが, 明確な境 界がないか, 場合によっては実体としてそのようなものが存在しているのかどうかという ことすら議論の俎上に上り得るような, あいまいなものであったといえる。 これに対して 「ムンド・マヤ計画」 の対象となっている地域, すなわち 「ムンド・マヤ」 は現在のメキ シコ5州と中米4カ国という行政区分によって明確に境界づけられていて, 中には上記の 「マヤ世界」 には含まれない要素も含んでいる。 このように, 「ムンド・マヤ」 は観光開発 という共通の利害で結びついた, 全く新しい地域の創出であるということができる。 人類学的な関心を通して形成されてきたともいえる 「マヤ世界」 から, 観光を通して世 写真2 雑誌『MUNDO MAYA ― マヤ以外の文化要素も紹介されている

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界に開いている 「ムンド・マヤ」 へと古代マヤ遺跡が置かれている場所が変わった現在, カンクンやメリダに滞在し, チチェン・イツァやトゥルムなどの遺跡公園に足を運ぶ観光 客は, 遺跡については相変わらずの一定のイメージを持ってやってくるものの, そのほと んどの場合, 遺跡観光だけが滞在の目的ではない。 「ムンド・マヤ」 では遺跡もひとつの 観光の目玉として他の観光資源とともに同列に陳列されているに過ぎないのである。 MUNDO MAYA という英語とスペイン語の2言語で書かれた雑誌だけでなく, テレビや 映画などが描き出す映像情報, 旅行会社の宣伝, そしてインターネット等により 「ムンド ・マヤ」 地域には 「マヤ世界」 にはなかった様々なイメージが付与されてきた (写真2)。 そして, そこへやって来る観光客も様々な目的を持つようになってきたのである。 そのよ うな 「ムンド・マヤ」 の現実のもとでは, 国際的にその名前とイメージが知られ 「売れる」 遺跡であるはずのチチェン・イツァ遺跡やトゥルム遺跡でさえ, そのような観光客をライ バルとなるその他の様々な観光資源と奪い合いながら, 生き抜いてゆかねばならない状況 下に置かれてしまったのであった。 そして, それぞれの遺跡公園で, その様々な状況に合 わせた独自の意味づけ, あるいはイメージ操作が行われるようになったのである。 4. マヤ遺跡の生き残り戦略 4. 1 カンクン, リヴィエラ・マヤ観光圏の遺跡公園 1990年代後半以降, カンクンの南側にあるプエルト・モレーロスからトゥルムにかけて の海岸線地帯を中心にリヴィエラ・マヤと呼ばれる観光エリアの開発が急ピッチで進んで きた (第2図)。 この地域は, アメリカ合衆国からの観光客を主に受け入れているカンク ンに対して, ヨーロッパからの観光客を多く迎え入るという観光戦略をとっており, 現在 ではカンクンを凌ぐほどの成長を遂げている。 リヴィエラ・マヤの 「リヴィエラ」 は言う までもなく, 世界的に有名な, 北イタリアのリグリア海に面した海岸の名前である。 南仏 のコート・ダジュールへと続いてゆくこの海岸地帯は, ヨーロッパの人々にとっては, 高 級海岸リゾートとして一定のイメージが付与された場所であるといえる。 よって, その名 を冠した 「リヴィエラ・マヤ」 という命名自体が, この海岸リゾート, リヴィエラ海岸の イメージを利用しながら, 主にヨーロッパの人々に対してこの地域をプロモートしてゆく という明確な意図の現れであるということができる。 かくしてキンタナ・ロー州北部海岸 地帯には, カンクンにリヴィエラ・マヤを加えさらに大規模化した一大観光圏が形成され, 現在のメキシコ観光産業を牽引している。 このカンクン, リヴィエラ・マヤ観光圏で, 遺跡公園化され公開されている遺跡にはチ チェン・イツァ, トゥルム, コバー, エク・バラム, ヤシュナ, シカレ, シェルハ, ムイ ル, タンカー, エル・レイ, エル・メコ, サン・ヘルバシオなどがある (第1図)。 この うち, 上で述べた 「ムンド・マヤ」 の現実の中でも, 現在なんとか生き抜いているといえ るのは, チチェン・イツァとトゥルム, コバー, エク・バラム, そしてテーマパークとし て観光客を集めるシカレくらいのものであろう。 それでは, それ以外の遺跡公園はどうであろうか。 どこもアクセスに問題があってレン

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タカーか, もしくはタクシーを使用しなければならず, しかもその管理体制は, いずれも 入口の事務所に担当者がひとりだけ常駐してチケットの販売と公園内の清掃などを行って いるというような状況である。 例えば, トゥルム遺跡の北に位置するシェルハではテーマ パークの入口を表す標識の立派さと対照的に, 遺跡の存在を示す道路標識もあまり目立た ず (それでも他の中小遺跡公園に比べれば, 幹線道路である国道307号線沿いにあるシェ ルハはかなりましな方であるのだが), 最初からこの遺跡を訪れるつもりで探さなければ, つい通り過ぎてしまいそうになる (写真3)。 当然のごとく, 来訪者の数は非常に少なく, 第2図 リヴィエラ・マヤの観光マップ

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テーマパークが常に非常に多くの観光客を集めているにもかかわらず, 道を挟んで向かい の内陸側にある遺跡公園の区画では, 1日の平均来訪者数は10名以下で, ハイシーズンに も20名を越えることはほとんどないという。 このような遺跡公園の問題点は, その遺跡あるいは建造物にこれといって特別な意味づ けがなされることもなく, ただ無表情に淡々と展示が行われているだけということにある。 そこには修復された建造物があって, その前に国立人類学歴史学研究所 (INAH) が設置 した解説プレートが置かれているだけである。 建造物が有名であるとか, 非常に巨大であるとか, 何かその建造物にまつわる物語があ るというような, 何らかの個性があればともかく, この地域に点在する中小遺跡公園に展 示されている建造物自体は, いずれも同じ石灰岩を積み上げてできていることもあり, 一 見して他と区別できるような特段の特徴があるわけではない (写真4)。 周りの自然環境 も比較的似ている。 来訪者がそこから強い印象を受け, 古代への想像力を働かせるための 材料に乏しいのである。 ある程度の知識があり, あらゆるものを見てやろうという強い興 味を持ってやって来る考古学マニアでもない限り, 建造物はどれも同じに見えるだろうし, 現状ではチチェン・イツァ遺跡公園あたりを訪れておけば, もうそれで十分ということに なってしまう。 それでは, 一方でカンクン, リヴィエラ・マヤ観光圏に数ある遺跡公園の中でも成功し 写真3 国道307号線に面したシェルハ遺跡公園の入口

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ているといえるものは, 観光客をどのように受け入れているのであろうか。 以下では, チ チェン・イツァ遺跡公園とトゥルム遺跡公園そしてコバー遺跡公園について順に見てゆく ことにする。 なお, 考古学的にはそれほど価値が高いとはいえないものの, テーマパーク 化することでその地位を獲得したシカレについては, 高度に商品化され, 利潤が追求され る場所で行われているマヤ・イメージの形成と消費の仕方に特殊性があり, 非常に興味深 いものの, ここではふれないこととし, 別の機会に議論を譲ることにしたい。 4. 2 チチェン・イツァ遺跡公園 チチェン・イツァ遺跡は19世紀半ばにジョン・ロイド・スティーブンスによって紹介さ れることで世界中に知られるようになったが, その頃以来, 現在までに積み上げられてき た国際的な知名度とそのイメージから, この遺跡は 「マヤ文明」 に関する一般の興味や関 心の中で常にその中心的な存在でありつづけてきた。 現在の遺跡公園 (第3図) の形は20 世紀前半にアメリカのカーネギー研究所によって行われた調査・修復によってほぼ決まっ たといっていい。 そして, 1988年にはユネスコの世界遺産に登録されている。 ちなみに最 近よく目にする日本からのカンクンに行くツアーやカリブ海クルーズのパンフレットや広 告の中でも, 必ずといっていいほどチチェン・イツァ遺跡公園へのオプショナルツアーが 写真入りで紹介されている。 ここへはカンクンからは高速道路を使って2時間あまりで行 写真4 エル・メコ遺跡公園

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けるので, とても人気のあるツアーなのだ。 チチェン・イツァは観光客にとっては見どころの多い遺跡公園である。 後で見るように, その主要な石造建築物やセノーテ・サグラード (いけにえの泉) は, ドラマチックですら ある強烈なイメージや物語性をそれぞれが持っている。 また, 石造建築物のいくつかにつ けられた, 城郭, 戦士の神殿, 教会, 尼僧院といった植民地期のスペイン人による意味づ けの名残ともいえる名前は, 遺跡に独特のニュアンスを加えている。 このチチェン・イツァ遺跡では, 公園内の整備が極めて行き届いている。 もともとこの 遺跡は全体が灌木で覆われていたが, 現在ではその中心となる新チチェンと旧チチェンと いうふたつの区域の石造建築物群の周囲の木は切り払われ, 芝生が広がっている。 また, 現在では観光客が建造物の上に登ることは禁止されている。 このような整備は, 1988年の遺跡の世界遺産登録を契機として大きく進んだといってよ い。 そこでは, その 「先スペイン期の都市チチェン・イツァ」 という登録名にそぐわない 要素を遺跡のイメージから切り離し, 排除することで, 古代都市チチェン・イツァのイメ ージを 「囲い込む」 ということが行われたのであった。 この 「囲い込み」 によって風景が意図的に作り出されることで, 遺跡の石像建造物は, 最も美しい姿で観光客の目に触れることになる。 まさに, このとき遺跡に観光客が求めて いる要素とは, その強烈な個性の部分, すなわち, 建造物の大きさや美しさ, そして遺跡 にまつわる物語などである。 こうしたイメージはガイドブックやパンフレットのみならず, テレビやインターネットなど様々なメディアを通して一般に広く流布されていることなの で, 大半の観光客は事前に何らかのイメージを獲得している。 彼らは実際にここを訪れる 第3図 チチェン・イツァ遺跡公園の俯瞰図(1996: 160 を一部修正)

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ことでこのイメージを確認しようとするのである。 筆者は, 2002年以降, 毎年チチェン・イツァ遺跡公園に赴き, そこで実施されているガ イドツアー (写真5) の調査を行ってきた。 この遺跡公園は広い敷地内を自由に歩き回れ るようになっているが, ガイドツアーがたどるコースについても特に決まりはなく, 案内 するガイドの裁量に任されている。 それでも, 短時間で効率よく回る必要があるため, い くつかのパターンはあっても, 極端に他と違うコース取りをすることはまずないといって いい。 こうしたガイドツアーに共通して見いだすことができた特徴は, 建造物が最も美し く見えるポイントを必ずといっていいほど押さえているということである。 建造物の解説 はそこで行われ, 多くの場合, その建造物を別の場所から見るか, あるいはこれに登るか については, その後の観光客個人の判断に任されるのである。 実は, このポイントこそ観 光客が既に目にしたことのある写真のイメージと同じ景色が見られる場所なのだ。 その一方で, 観光客が興味を示さない傾向の強いものは, 意図的にツアーのルートから はずされることになる。 例えば, エル・カスティージョの近くに戦士の神殿という建造物 がある (写真6)。 これもチチェン・イツァを代表するものの一つであり, その写真イメ ージはガイドブックには必ず載っているものだ。 この建造物には階段上にチャックモール と呼ばれるいけにえの心臓を具えるための石像があることで非常に有名なのであるが, 階 段を上ることが禁止されて以降, この建造物の前まで行くガイドツアーは非常に少ない。 写真5 チチェン・イツァ遺跡公園のガイドツアー

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それは階段の下からはチャックモールが見えないためで, どのガイドもわざわざ近づくこ とをせず, チャックモールの存在が確認できる少し離れた木陰でこの建造物の解説を済ま せてしまうのである。 チチェン・イツァのようなカンクン観光圏の遺跡公園では, 観光客が遺跡について事前 に獲得し, また期待するマヤ・イメージに対応するように, それぞれ独自の遺跡の見せ方 を示そうとしている。 そして, 観光客にありのままを見せるのではなく, 観光客が遺跡に 求める要素を強調, あるいは追加して提示する。 すなわち, そこでは観光客に見せるもの, そしてその見せ方が意図的に操作されているということだ。 ここで見てきた, チチェン・ イツァ遺跡公園における建造物などの展示の仕方と, これを案内するガイドの姿勢を見れ ば, そんな様子が具体的に理解できるだろう。 だが, こういった具体的な行為の前提とな るところで, 遺跡の意味づけに関わる考古学言説までもが操作されているのだ。 チチェン・イツァ遺跡公園には, 我々の 「古代へのロマン」 を刺激するものがたくさん ある。 チチェン・イツァという言葉は先住民の言葉で 「イツァ族の泉の入り口」 を意味す るという。 だから, この遺跡はまずはセノーテ・サグラードと呼ばれる巨大な水たまりを 抜きにしては語れまい。 16世紀の年代記作者ディエゴ・デ・ランダ神父の ユカタン事物 記 にも, 干魃の時などに生きたままの人間や様々な供物をセノーテ・サグラードに投じ る習慣が, チチェン・イツァにはあったことが記されている (ランダ 1982: 445)。 そし 写真6 戦士の神殿

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て, いつしか西欧的ヒューマニズムによって脚色されたいけにえにまつわる悲しいイメー ジが, この 「いけにえの泉」 すなわちセノーテ・サグラードに物語性を与え, 西欧の人々 の共感を誘うようになったのだ。 また, このセノーテ・サグラードと並んで, 新チチェン区域の建造物は, チチェン・イ ツァ遺跡公園の中でも特に個性的なものがそろっている。 先ほど触れた戦士の神殿は, そ の建築様式とそこに置かれたチャックモール像が, 遠くメキシコ中央高原のトゥーラ遺跡 の神殿Bのそれと非常に似通っていることが古くから指摘されてきた。 このことは10世紀 にトゥーラで政争に敗れたケツァルコアトル神官王 (あるいはセ・アカトル) が, 必ず戻 ってくることを約束して東方へ去り, その一行がチチェン・イツァに至って, ククルカン 王となったという伝承と結びつき, その物語性はこの戦士の神殿に大きなイメージを与え ている。 また, 大球戯場はメソアメリカ最大の規模を誇るだけではなく, 壁面のレリーフ の図像が重要である。 そこで描かれた, 球戯に勝った方のチームのキャプテンが首をはね られるといった場面について, 西欧的な考え方からは奇異に感じうる様な儀礼としての球 戯という説明が加えられることで, 「マヤ文明」 の神秘性を観光客に呼び起こさせている のだ。 さらに, エル・カスティージョ (写真7) はその四辺の階段各91段と最上部の1段 の合計が365段, すなわち1年の日数と同じ段数になるということ, および毎年春分と秋 分にピラミッド自身の影が階段部分にヘビの像を描き出すということが知られており, そ 写真7 エル・カスティージョ

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れらは天文台であったとされる旧チチェンのカラコル (写真8) とともに, 我々現代人が 想像するよりもはるかに高度な天文学的知識を持っていた 「マヤ文明」 のイメージをアピ ールしている。 これらの建造物を含め, 現在我々が見ることのできる建造物のほとんどが, 米国カーネ ギー研究所が1924年から40年まで実施したチチェン・プロジェクトの際に修復されたもの である。 このプロジェクトを率いていたシルヴェイナス・モーレーは, このプロジェクト 開始当初からチチェン・イツァ遺跡を 「マヤ文明」 の栄光を象徴するモニュメント的なも のと考え, その修復に力を入れている。 これは, ほぼ同時期にカーネギー研究所がグアテ マラで実施していた 「ワシャクトゥン・プロジェクト」 の純粋に考古学的な目的を持った 調査とはまったく方向性を異にするものだった (Black 1990: 273)。 このモーレーのチチェン・プロジェクトにおける姿勢には, 当時のマヤ文明観が反映さ れていたといえるだろう。 この時代, 古代マヤの人々は王と平民からなる単純な構造を持 つ社会で, もっぱら星を眺めながら平和に暮らしていたというようなイメージを持たれて いたのだった。 この時代のマヤ文明研究を代表していた巨人モーレーにとっても, 古代の マヤは楽園のような世界だったのである。 しかし, 1960年代以降, 考古学方法論の発達やマヤ文字解読の進展などによって, マヤ 考古学は急速に発展し, 「マヤ文明」 に関する新たな 「事実」 が次々に解明されてくる。 写真8 カラコル

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その結果, マヤ社会が, 実は非常に複雑な構造を持ち, そこでは戦争や権力闘争を繰り広 げていたダイナミックで血なまぐさい歴史をもつことなどが明らかになり, それまで語ら れてきた 「マヤ文明」 とは全く違った文明像を我々に提示するに至ったのである。 ジェレ ミー・サブロフはこれを 「新モデル」 と呼び, それ以前の 「マヤ文明」 像である 「伝統的 モデル」 と明確に区別している (Sabloff 1990: 137 163)。 現在では 「伝統的モデル」 で 「マヤ文明」 を考える考古学者は一人もいないはずである。 また, 遺跡の観光化にあたっても, ティカル, パレンケ, コパンといった他の大きなマヤ 遺跡では, 文字資料の解読が進められた結果, 都市毎に王朝史が復元されており, その歴 史性が利用されている。 まさに 「新モデル」 の提示である。 そこではある建造物が特定の 王などと関連づけられて展示されているということも珍しいことではない。 そして, 遺跡 公園に付属する博物館施設や観光ガイドによる解説, そして売店で販売されている古代マ ヤの解説書が, 「新モデル」 による説明に関して不足している部分を補うことになる。 しかし, チチェン・イツァ遺跡公園の場合, 他の遺跡に見られるような 「新モデル」 的 な 「マヤ文明」 観はあまり感じられない。 その建造物の持つイメージ, あるいはその強烈 な個性は, モーレーの時代から変わっていないのである。 この遺跡で発見された文字資料からは, 当時の支配者階級の人々にまつわる歴史的なス トーリーを構成することができていないという事情もあるだろう。 また, それには新たに おこなわれた調査の成果が, なかなか十分かつ速やかに公表されないというメキシコ考古 学界の事情なども全く無関係ではないかもしれない。 だがそれよりも, 結局チチェン・イ ツァ遺跡公園においては, 観光客の 「古代へのロマン」 を最も強く刺激するのは, それぞ れの建造物やセノーテ・サグラードの持つドラマチックですらある強烈なイメージや物語 性であるという事実が何よりも大きいのではないだろうか。 「新モデル」 によって書かれた最新のマヤの解説書は, 世界中のアマチュア・マヤ研究 家たちの知的好奇心を刺激しているのは確かなことであるし, 実際チチェン・イツァ遺跡 公園の売店でも当然のようにそういった書物が販売されている。 またこの遺跡で働く観光 ガイドの説明も, そんな知的好奇心を持ってやって来る観光客の期待にそれなりに応えて いるはずである。 だが, 観光客を受け入れる側の, 当の遺跡公園のあり方は, むしろ昔な がらの 「伝統的モデル」 的なイメージを強調する。 それは, あえて考古学の言説を操作し ているという行為に他ならない。 一般の 「古代マヤ文明」 のイメージを一変させた 「新モ デル」 も, 観光という脈絡においては, チチェン・プロジェクト終了時点で既に定着して しまったこの遺跡の強力なイメージを覆すことはできていないのである。 このように, チチェン・イツァ遺跡公園では, 建造物の大きさや美しさ, そして遺跡に まつわる物語といったこの遺跡の強烈な個性の部分を観光客は期待しており, 遺跡公園の 整備は, その期待に最大限答えようとするかのように行われているのである。 4. 3 トゥルム遺跡公園 真っ青なカリブの海に映える白い石造建築物。 そんなトゥルム遺跡のイメージは, しば

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しば観光に関係する様々なメディアを通して, 我々の目に飛び込んでくる (写真9)。 既にふれたように, トゥルム遺跡は1843年にジョン・ロイド・スティーブンスによって

出版された ユカタン旅の事物記 の中で, フレデリック・キャザウッドの銅版画ととも

に紹介されて以降, 世界的に知られる代表的なマヤ遺跡のひとつとなった。 また, 1984年 のアメリカ映画 「カリブの熱い夜」 (原題:Against All Odds) の中で, トゥルム遺跡がそ の舞台として登場し, フィル・コリンズが歌うその主題歌のミュージックビデオが, MTV などのテレビ番組を通して, 我々の目に頻繁に触れるようになったことは, 観光者 がちょうど増えつつある時期に, その鮮烈なイメージを世界中の人々の目に焼き付けたと いう意味で, 非常に大きな出来事だったといえる。 この遺跡はリヴィエラ・マヤ地域南部のカリブ海に面した断崖の上にあるが, 陸側は三 方が先スペイン期に築かれた石壁で囲まれており, その周辺はとげの多い樹木が生い茂っ ているというようなロケーションにあるため, かつては陸路でのアクセスはきわめて困難 であった。 唯一, 断崖の切れ間の狭い砂浜になっている部分 (おそらくそこは船着き場だ ったのだろう) を通して, かつてこの町は海に向かって開かれていたと考えられている。 現在でも建造物に残る壁画には, メキシコ中央高原のアステカ, あるいはオアハカ地方 のミシュテカ様式を思わせるタッチで描かれたものもあり, 往時にはそこから海洋を介し て遠方の都市と交流関係を持っていたことを推測させる (Miller 1982: 71 76)。 なお, 征 写真9 トゥルム遺跡公園とカリブ海

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服期の1518年に, この海岸線を探検していたスペイン人, フアン・デ・グリハルバが海上 から見たと記録されているマヤ先住民の町は, おそらくこのトゥルムであろう, とスティ ーブンスは述べている (Stephens 1843: 384)。 カンクンの開発が開始された頃には, 海岸線に沿って走る国道307号線も開通しており, トゥルム遺跡も陸路でアクセスすることもできるようになった。 現在では, この道路の整 備拡張工事も進み, トゥルム遺跡公園を訪れるためには, カンクンからでも乗用車を使っ て3時間足らずで遺跡の入口に着くことができる。 トゥルム遺跡公園は, シェルハのテーマパークとセットになったカンクンからの日帰り ツアーの目的地として非常に人気があり, その駐車場にはいつも多くの観光バスが停まっ ている。 この駐車場の他, ガイドツアーの受付, レストラン, 民芸品市場などは国道から 入ってすぐのところに置かれており, それらがまず観光客を受け入れることになる。 そこ では, 観光客向けのアトラクションとして, 日常的にボラドールという見せ物が行われて いるが, マヤではなく, メキシコ湾岸のトトナカの文化要素とされるこのボラドールを, 民族衣装をまとった先住民の演じる曲芸として楽しんだ観光客には, これも 「マヤ・イメ ージ」 として刷り込まれることになる。 石の壁で囲まれた遺跡の区画は, そこから 1 km ほど離れており, 密集した灌木を切り 開いて作られた一本の舗装道路が両者を結んでいる。 訪問者はその道を歩いてもよいが, トラクターを改造した車両で客車を引いて走るシャトルも頻繁にそこを行き来している。 チケット売り場はこの道が遺跡の区画にぶつかる地点にあり, 訪問者は灌木を切り開いて 造られた小径を辿って区画の北側から入ることになる。 こうして石の壁の外側を回り込む ように緑の中を歩くルートは, 2008年頃に新たに設定されたものであるが, 同遺跡公園の 管理担当者の話では, それはチアパス州のパレンケ遺跡公園で最初に実践された 「環境・ 考古学公園 (   )」 の考えを取り入れたものということであった。 これは次に述べるコバー遺跡公園のあり方にも通じることであるが, 現在のメキシコにお ける遺跡公園整備のひとつの基本的な考え方になっているようだ。 だが, 石の壁の内側に入ると, そこは別世界である。 19世紀中頃にスティーブンスらが 訪れたときには鬱蒼と茂っていたはずの樹木は, 若干の灌木を残して大半が伐採され (写 真10), 芝生の張られた地面に計画的に配置されたと思われる大小の建造物が並んでいる のみである。 そしてその先にはカリブの青い海が横たわっているのであるが, エル・カス ティージョと呼ばれるこの遺跡最大の建造物後方の崖下は狭い砂浜になっており, 常に多 くの観光客が水着姿で海水浴を楽しんでいる。 かつて建造物を覆っていた樹木の緑色を後退させてしまうことで, むき出しになった石 灰岩の建造物や地面, そして砂浜の白い色と, 海の青い色とのコントラストが際だつこと になる。 そして, その2色のコントラストの中では水着姿の観光客も違和感なくとけ込ん でしまう。 いったん石の壁の内側に入ってしまえば, 森に分け入って遺跡を探すアドベン チャーのイメージも, 樹木に囲まれてひっそりと眠る遺跡のイメージもそこにはもうない。 ここで起こっているのは, やはり遺跡の 「囲い込み」 であるといってよい。 トゥルム遺

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跡公園ではちょうど石の壁が遺跡を 「囲い込」 んでいるというのも, ある意味で象徴的で はあるが, そこで 「囲い込ま」 れているのは, 「この町の海洋との深いつながり」, そして 「真っ青なカリブの海に映える白い石造建築物」 というイメージであり, これはすなわち 「リヴィエラ」 イメージということができる。 このように, トゥルム遺跡公園はこの海に 向かって開かれた 「リヴィエラ」 イメージによって加工された独自のマヤ・イメージを観 光客に提示することで, 遺跡公園として成功しているといえる。 4. 4 コバー遺跡公園 トゥルムの町から国道307号線を離れ, 47 km ほど内陸に行ったところに, コバー遺跡 公園がある。 コバー遺跡のある場所は, 行政上トゥルム市に属しているということで, 現 在ではリヴィエラ・マヤ地域の観光メニューの中に入っているが, 元来はこの海岸地帯と の直接的なつながりは全くなかった。 コバーは, 1973年にトゥルムからの道路が開通して はじめて海岸地帯と結びつくことになったのだった。 それ以前は, コバーからは 44 km ほ ど北にあるヌエボ・シカンまで行き, そこからメリダとプエルト・フアレスとを結ぶ国道 180号線に出るルートしかなかったのである。 コバー遺跡に観光客が訪れるようになった のも, このトゥルムからのルートが確立されてからのことであり, またその本格的な観光 化はさらに遅く, 1988年にムンド・マヤ計画が発足し, その観光開発プログラムの中に取 写真10 トゥルムのエル・カスティージョ

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り上げられて以降のことである。 内陸にあるゆえに, コバー遺跡公園を取り巻く自然環境は, 当然のことながら海岸地帯 とは全く異なる。 比較的背の高い樹木が生い茂る森林が広がる中に, 古典期に建設された 大型のピラミッド型石造建造物が木の上に頭を出している様は, グアテマラ北部ペテン地 域のジャングル地帯にあるティカル遺跡などの風景を思い起こさせる。 ちなみに, 1920年代後半にこの遺跡を訪れた米国カーネギー研究所のエリック・トンプ ソンが作成した地図には, その当時のアクセス道路として遺跡の中心部 (グルーポ・コバ ー) から西のバリャドリッド方面に向かう一本の小道が細く点線で描かれているのみで, 道沿いのコバー湖畔にはチクレーロ (チクレ採取者) のキャンプが点で表されている (Zapata Alonzo 1998: 30)。 すなわち, この当時の遺跡の周辺は, チクレーロ以外の人間は 誰も入り込まないような場所だったのだ。 コバーは, 古典期後期 (西暦600年 900年) という時代が最盛期であった都市であり, この遺跡で見ることができる建造物や石碑などに, グアテマラ北部からベリーズにかけて は無数に点在する同時代の都市との類似点を多く見いだすことができる。 そこには, 「密 林にひっそりと眠る古代都市遺跡」 というオーソドックスな古代マヤ文明のイメージが存 在している。 ただし, このような遺跡はユカタン半島北部にはそれほど多くは存在してお らず, リヴィエラ・マヤ地域ではほとんど唯一のものといってもよい。 コバー遺跡公園の西側の, かつてチクレーロのキャンプとして地図に表されていた場所 には, 現在人口1000人ほどの同名のコバー村があり, 外部からやって来る観光客は必ずこ の村の中を通って遺跡公園に向かうことになる。 レストランや土産物店は警察署のある村 の中心部と, 500 m ほど離れた遺跡公園入り口付近の2つのグループに分かれている。 2010年8月の時点で, この村の宿泊施設としては, ヴィジャス・アルケオロヒカス・チ ェーンの高級ホテルがある他は, 村の中心部の土産物店が部屋を貸すという形のバックパ ッカー向けの安宿が2軒あるのみであり, ツアーを利用せずにコバー遺跡公園を訪れる観 光客は非常に少ない。 しかも, ツアーのバスも路線バスも遺跡公園入口前の駐車場に直接 向かうので, 村の中心部の施設を利用するのはレンタカーを利用して訪れるごく少数の観 光客ということになる。 コバー村の南側には同名のコバー湖が広がっているが, 遺跡公園の付近には他にもいく つかの湖があり, 水の確保が常に大きな問題となるユカタン半島北部において, コバーと いう都市がこういった湖の近くを選んで建設されたということがよくわかる。 このような 湖には無数の小魚やカメの他, ワニも生息しており, 遺跡公園入口に近いコバー湖畔のあ る土産物店では, このワニに餌を与えるのを, アトラクションとして観光客に見せるサー ビスを行っている。 遺跡公園といっても, コバーの場合は全体がひとつにまとまっているのではない。 遺跡 公園の入口はグルーポ・コバーという建造物群の近くにあるが,そこからそれぞれ 1 km ほ ど離れたところにグルーポ・マカンショク, グルーポ・チュムックムル, グルーポ・ノホ ッチムル, グルーポ・デ・ラス・ピントゥーラスなど, それぞれ独立した建築物群が存在

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している。 コバー遺跡公園は, それらの集合体なのである。 これらの建築物群には, 例え ばグルーポ・ノホッチムルには高さ 42 m とユカタン半島北部では最も高いピラミッド (写真11) があって頂上まで登ることができ, グルーポ・マカンショクには古典期の石碑 が多数残っているなど, それぞれに見所が用意されている。 先スペイン期にはこれらの建築物群を結ぶようにサクベ (「白い道」 の意) が縦横に走 っており, そのうちのひとつが約 100 km 離れたヤシュナという都市まで続いていたこと はよく知られている。 この遺跡公園では, この古代のサクベが, それぞれが数百 m から 1 km くらい離れて存在している上記の建築物群の間をつないでいる。 訪問者はその道を歩 いてもよいが, 遺跡公園の入口近くで営業しているレンタサイクルを利用することもでき る (写真12)。 このような森林の中につけられたルートをたどって次の建築物群を目指すという遺跡観 光のあり方には, アドベンチャー的な要素が含まれている。 また, その過程で鳥や魚など 様々な生物とふれあい, 森と湖の自然を満喫するという観光のあり方は, まさにエコツー リズムに通じるものでもあるといえるだろう。 このように, コバー遺跡公園では, 個性を持った各建造物群が, リヴィエラ・マヤ地域 では他に見られない 「密林にひっそりと眠る古代都市遺跡」 というイメージで, それぞれ 「囲い込」 まれている。 それらをリヴィエラ・マヤ地域の観光の重要な要素である自然と 写真11 ノホッチムル

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アドベンチャーの 「サクベ」 によってつなぎ合わせることにより, エコツーリズム色を際 だたせることで, その遺跡観光を成功させているということができる。 5. ま と め 遺跡というのは, 廃墟となり, 再発見されて現在にいたるまでの長い間に, 様々な経験 をするものである。 その過程で, 例えば記憶に新しいところでは, アフガニスタンのバー ミヤンの石仏がそうであったように, 宗教上の問題などから破壊行為を被ったり, あるい は, 盗掘を受けて大きく傷つけられたりすることもあるだろう。 そういったことまでも含 めて, 先人の知恵や経験を積み重ねながら, 遺跡はその時その時を生きてきたのだ。 遺跡 の側から見れば, 発掘調査という科学的な手続きを踏むということで許される破壊行為も, その後の修復・保存活動も, そして観光化のための整備も, それぞれこうした過程で起こ る出来事のひとつに過ぎない。 そんな中で, 本報告は観光化という出来事に対応して遺跡 が見せる顔について扱ったものということになる。 橋本和也は, ピアーズ・ブレンドンにならい, 観光客の 「まなざし」 をとらえるのは 「よく知られたもの」 であって, 決して 「真正」 なものではないと述べている (橋本 1999: 148)。 これに従えば, 遺跡が考古学的に重要であるということは, 必ずしも観光客にと っての魅力とはならないということになる。 だが, たとえ観光客の 「まなざし」 をとらえ 写真12 コバー遺跡公園の遺跡群を結ぶサクベ

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るのは 「真正」 なものではなく, 「よく知られたもの」 であったとしても, 考古学によっ て意味づけされた遺跡を観光化した遺跡公園は, 「真正」 であることを前提として存在し なければならない宿命がある。 だから, この両方の要請に応えるために, 遺跡として一定 の 「真正性」 を示しつつ, なおかつ基本的に観光客のまなざしの中にある期待感を裏切ら ないようにふるまうことが遺跡公園にとっての最低条件となる。 そして, その上に何らか の方法で訪問者に強いインパクトを与え, その想像力を十分に刺激することで, 彼らに満 足感を持たせることができて, 初めて観光資源としての遺跡公園は成功することになる。 だから, 様々なライバルと競う中で, 遺跡公園は観光客にありのままを見せるのではな く, 観光客が遺跡公園に求める要素を強調, あるいは追加して提示するようになった。 こ の観光客が遺跡公園に求める要素とは, その遺跡の強烈な個性の部分, すなわち, 建造物 の大きさや美しさ, 遺跡にまつわる物語, 周辺の自然環境, そして冒険心を刺激するアト ラクションなどである。 このとき, 観光客が興味を示さない傾向の強いものは, 意図的に 見学ルートからはずされることもある。 このように観光客が遺跡公園について事前に獲得 し, また期待するマヤ・イメージに対応するように, 遺跡公園はそれぞれ独自の遺跡の見 せ方を示すべく変化してきた。 それは, すなわち遺跡公園独自のイメージ戦略である。 巨大なマスツーリズムという枠組みの中で, カンクン, リヴィエラ・マヤ観光圏の遺跡 公園は, マヤ・イメージの形成・消費のあり方を変化させながら, 戦略的に現在を生き抜 いているのである。 謝 辞 本稿は, 文部科学省平成14年度科学研究費補助金 (基盤研究(B)(1)) マヤ・イメージの形 成と消費に関する人類学および歴史学的研究 (課題番号:14401009) および同19年度科学研 究費補助金 (基盤研究(B)) 日常的実践におけるマヤ言説の再領土化に関する研究 (課題番 号:19401036) (ともに代表は吉田栄人東北大学准教授) による研究成果の一部である。 桜井 三枝子教授には, この両研究プロジェクトでご一緒させていただき, 常に貴重かつ適切なコメ ントを頂戴してきた。 想えば桜井先生には, 筆者が大学院の博士前期課程の学生の頃より, 時 に優しく, また時に厳しく叱咤, 激励をいただいてきた。 筆者が今あるのは桜井先生のおかげ であるといっても過言ではないと思っている。 今回, こうした形で, このかけがえのない先輩 の退職を祝う機会を与えていただいたことに感謝するとともに, 今後の桜井先生のさらなるご 活躍を祈念したいと思う。 文 献 Black, Stephen L.

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参照

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