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広島市立大学博士学位論文
『南蛮屏風における南蛮船の図像と西洋帆船の差異』
2017 年 3 月
2 <目次>
・序章
・第一章 南蛮屏風の分類
第一節
.南蛮屏風の分類
第二節
.南蛮屏風が描かれていた時代背景
・第二章 16世紀から17世紀の帆船について
・第三章 南蛮船について
第一節
.図像の形態と分類について
第二節
.南蛮屏風と実在する帆船との比較について
・第四章 銅版画と世界地図について
・第五章 南蛮船における描写と表現について
・結論
<凡例> ・本研究では南蛮船と西洋帆船の比較について論じるにあたって、近年発刊された南蛮屏 風に関する書籍で最も充実した図版を掲載している『南蛮屏風集成』(中央公論美術出版) を主に参照する。同書は南蛮屏風に関する図版が最も充実しており、近年の研究成果も まとめられている。 ・本文中の作品タイトルは『南蛮屏風集成』(中央公論美術出版)の作品目録に記載されて いる表記に従っている。 ・本文中での作品名の表記は“作品番号.「作品名」(制作者 所蔵)”と表記する。 しかし、作者不明の場合は、括弧内に所蔵のみ表記する。 また、既出の作品名の場合、括弧内は所蔵のみとし、他を略して表記する。 ・掲載される図版は展覧会図録などの出版物から複写しており、図版の出典は、巻末の参 考文献中に記載する。3
< 序章 >
1543年(天文12年)に種子島に一隻の中国船が難破し、そこに乗船していたポル トガル人と日本人が初めて接触したことで、日本はキリスト教などの西洋文化との交流が 活発になっていった。こうした情勢の過程で、日本国内で日本人によって制作された南蛮 屏風には異国の人々が日本に来航し、日本人と交流する様子や彼らの姿が描かれている。 わずかな期間しか制作されなかった画題ではあるが、およそ100点近い作品が確認され ていることから当時の日本人に大変好まれた画題であったと考えられる。 その南蛮屏風には多くの異国のモチーフがちりばめられているが、多くの作品で、主要 なモチーフとして描き込まれているのが南蛮船である。日本の帆船とは明らかに違ったフ ォルムを持っており、現実とはかけ離れたようにさえ見える派手な装飾が施され、異国趣 味の華やかな画面の中でも一際異彩を放っている。描かれている南蛮船の形状はいくつか の系統で分けることができる。表現技法などについても細部などを見てみると制作者の個 性がよく表れている。あきらかに日本の船とは違ったフォルムを持っている南蛮船は、南 蛮屏風を象徴するモチーフの一つといえるであろう。そんな南蛮船を観察していくうちに、 南蛮船はどこまで実在の帆船に則して描かれているのだろうかという疑問を持つようにな ったのである。この南蛮船と実在の帆船との関係については先行研究の中でも論じられて いるが、大まかな分類だけにとどまっている印象を受ける。 本研究では、まず、南蛮船に焦点を当て、南蛮屏風が描かれた時代の現実の帆船につい ての解説を行い、次に南蛮屏風に描かれて南蛮船の分類と作品との比較、そこから実在の 帆船と南蛮船を比較し、どの程度実物を参考にして屏風が描かれていたのかを考える。す ると、時代背景や南蛮屏風の図様の変化に伴って、南蛮船の意味や重要性が大きくなるの ではないかという疑問も生じてくる。南蛮屏風がどのような絵画で、どのような目的で制 作されたのかについても触れたい。そして次に帆船と南蛮船の特徴を述べ、両者を比較し てそれぞれの共通点を見つけていく。それに合わせて当時日本に輸入されていた世界地図 や銅版画とも比較して南蛮船のリアリティーはどのようなものであったのかについて探っ ていきたい。そしてこれらの情報を総括していきながら、南蛮屏風の中でもこれまで重要 視されなかった南蛮船の写実性や絵画的意図について考察していくものである。< 第一章:南蛮屏風について >
第一節.南蛮屏風の図様と分類 南蛮船について述べる前に、まず南蛮屏風とはどのような絵画であるのかについて触れ たいと思う。南蛮屏風が描かれたのは16世紀から17世紀頃のおよそ100年間という4 短い期間であるが、洛中洛外図屏風に次ぐ作品数が確認されている。現存する南蛮屏風を 描いているのはほとんどが無名の町絵師であり、作者や制作年が正確に特定できるものは 非常に少なく、落款などで屏風の作者名が判明しているのは狩野孝信(1571-1618)、狩野 内膳(1570-1616)、狩野友信(1642-1726)、伝大和絵絵師・住吉如慶(1598-1670)のみ である。作風のみで判断すると狩野派による作品が大半を占めるが、中には長谷川派、土 佐派、大和絵系の作者が描いたとされている作品も確認されている。(註1) 作品の現存数が多いことから南蛮屏風に関係する研究には蓄積があり、新たな研究によ る変更はあるものの、南蛮屏風の図様や描かれているモチーフについて、美術史上の考察 が形成されてきているのではないだろうか。南蛮屏風の研究は日欧交渉史やキリシタン史、 船舶史など、広い専門分野にわたっており、洛中洛外図屏風の研究と共通する部分が多い。 また、現代の南蛮屏風研究における基礎的な考え方を提唱しているとされており、塚本美 加氏は高見氏の指摘した、作品の図様による分類は今もなお南蛮屏風の研究の一つの指針 となっていると指摘しており(註2)、坂本 満氏も貴重な屏風の出所について触れている 資料と位置付けている。(註3)。一方で、南蛮屏風の中でも有名な作品についての調査は 行われているが、その他の作品は展覧会などで展示される機会も非常に少ない印象を受け る。有名な作品についても、論じられるのは人物や建造物の考察が大部分を占めており、 本研究で論じるような南蛮船については、屏風に描かれている数多くのモチーフの一つと して触れられているのみである。加えて、絵画に描かれているものが実物を正確に描いて いるかどうかにこだわっているとも指摘されている。(註4)そのようなことからまだまだ 課題の残っているテーマであるとも言えるであろう。 南蛮屏風の図様をそれぞれ比較すると、同じモチーフがほぼ同じ配置に描かれているこ とから、図様の元となる粉本(下図)が存在し、その粉本を写しながら制作されていたこ とが見て取れる。また南蛮屏風は西洋人と接触してからすぐに生まれたものではなく、そ れ以前に描かれた画題が基になっていて、そこから一つの画題へと変化して広まったので はないかと考えられる。過去の研究で15世紀に成立されたとされる室町時代の日明貿易 の様子を描いた「唐船図屏風」「唐人入京図」という画題が南蛮屏風の図様に影響を与えて いると指摘されており、狩野孝信が描いた「腰屏風」(日光東照宮)の図様と同じ図様が2. 「唐船・南蛮船図屏風」(狩野孝信筆 九州国立博物館)にも描かれていることから制作時 期とされる17世紀前半にはすでに伝わっていることが推測できる。さらに中華思想にも とづいて制作された異国風俗画の「朝貢図」「王会図」の画題のなかには南蛮屏風に描かれ たモチーフと共通する内容の作品が確認できる。例をあげると、「唐閻立本職貢図」では国 はわからないが、中央に傘を指した騎馬を中心とした使節団の行列が描かれており、南蛮 屏風のカピタン・モールの行列と非常に酷似している。そして、中華異国風俗画を日本人 の視点から制作された「国々人物図巻」(伝雪舟筆 京都国立博物館)では中国や異国の風 俗に加えて、ゾウやラクダ、驢馬、羊、イノシシ、ジャンク船が描かれている。これらの
5 獣は南蛮屏風にも描かれている動物たちであり、いずれもカピタンや宣教師からの献上品 として贈られたものである。またジャンク船が描かれているのは、動物や異国の人々がど のような乗り物に乗ってやって来たのかを表していると考えられるため、南蛮屏風との関 連性が伺える。(註5) こうした動物たちの全てが西洋から運ばれたわけではない。当時の遠洋航海は季節風と海 流を利用していたため、ポルトガルから片道に2、3年を要したと考えられる。また直接 日本へ向かったわけではなく、ポルトガルとインドの間に定期航路が設けられていたため、 大型船数隻が一団になってインドを目指す。そしてインドから出向している定航船がそれ ぞれの貿易国へと向かうような仕組みになっていた。日本に来航していた西洋船は主にこ のインドを出港した定航船であったと考えられる。(註6)そのため南蛮屏風に描かれてい る動物はこうした中継地に生息する獣を積んでいたと推測される。特に狩野内膳が描いた 「南蛮屏風(内膳本)」(神戸市立博物館所蔵)に登場する一頭のゾウや南蛮屏風にたびた び描かれる馬については豊臣秀吉と深い関わりがあることが分かっている。また秀吉はヴ ァリニャーノが運んできたインド副王からの献上品の中でも、アラビア馬に非常に興味を 示していたという。戦の軍事兵器として使用されていた馬は、ステイタス・シンボルであ り権威の象徴ともいえるものであった。屏風に描かれているアラビア馬を見てみると、馬 に騎乗している人物は豪華な南蛮衣装を身に纏っており、このことから南蛮屏風に馬を描 くことで権威の座への憧憬の意味を込めたのではないかと考えられる。
6 次に泉 万里氏の詳細な比較検討から南蛮屏風の画面がどのような場面を描いているか で、大きくA類・B類・C類の三つのグループに分けることができることについて述べて おきたい。(註7) まずA類は両隻に日本と唐の港町の様子が描かれている。2.「唐船・南蛮船図屏風」(九 州国立博物館所蔵)には左隻に唐の港に多くの白い唐船が停泊しており、右隻には日本の 港に南蛮船が来航し、人々と交流している様子が見てとれる。このA類の図様で描かれた 作品は「唐船・南蛮船図屏風」(九州国立博物館所蔵)と1.「南蛮屏風」(大阪城天守閣所 蔵)の2点しか現存していない。しかし、中に描かれている個々のモチーフの図様はボス トン美術館やリスボン美術館所蔵の作品に継承されていることが確認できるので、この様 式が一つの粉本的な役割を果たしていることになる。また「唐船・南蛮船図屏風」の左隻 に描かれている唐の港は、室町時代に行われていた日明貿易の様子を描いた「唐船図屏風」 を意識されたと考えられる「腰屏風」(日光東照宮所蔵)に非常に似ている。 B類はA類と同じく、左隻に異国の情景、右隻には日本の情景が描かれているが、A類 と異なる点は左隻に描かれているのは唐の港町ではなく、想像上の異国の情景である。 3.「南蛮屏風(内膳本)」(神戸市立博物館所蔵)の異国は、建物の様式や飾りなどが中国 風であるが、周囲にいる人物や人物の着ている服装は西洋風で、建物の屋根の先には十字 架が据えられており、明らかに西洋を意識した異国が表現されている。特に狩野内膳筆の 作品は独自性が強く、個人的な考案が大きい。またB類のなかではこの内膳本の図様が典 型となり、B類のなかでは圧倒的に数が多い。 C類はA類とB類と異なり、唐も想像上の異国も描かれず、日本の港に南蛮船が来航し てきた情景だけが描かれている。またこのC類は現存する南蛮屏風の中で最も数の多い図 様である。その構成は左隻にA・B類よりも大きく描かれた南蛮船と南蛮船から小型の和 船に乗り移った南蛮人のみというシンプルな構成となっている。右隻では上陸した南蛮人 の一行とそれを見物しようと商店の前に集まった日本人が描かれている。 泉万里氏や成澤勝嗣氏の研究からA、B類は日本と唐・想像上の異国を組み合わせた図 様で、慶長期の正当な狩野派による作品が多く、桃山後期狩野派の内部で粉本のやり取り が行われ、描かれている内容から為政者の異国への憧憬の意味が込められていると考えら れ、逆にC類は日本のみを描いた図様で、最も多い作例が確認されている。この図様にな るとこれまでのような異国への関心が見られなくなり、需要者が裕福な商人へ変化すると 同時に南蛮船は宝船、南蛮人は財福神へ変化し、屏風における意味が現世利益を求める風 潮となったと指摘している。(註8)この需要者と屏風の図様の変化の背景にはキリスト教 に対する禁教政策が大きく関わっており、屏風の中に描かれている南蛮寺の窓は閉め切ら れ、中に置いてあった聖体や十字架は描かれなくなっている。しかし、商人達の南蛮への 関心から南蛮屏風を商売繁盛や縁起物として描かせたことがこうした禁教を生き延び、後
7 世に作品を残す結果となったといえる。南蛮屏風の画題、特に異国風景に関しては「唐船 図」「唐人入京図」の他にも、「聖徳太子絵図」が唐から送られた品々を描いたものから、 異国から船で珍しい品々を日本に運ぶというテーマが南蛮屏風の南蛮船で南蛮の品々を揚 陸させるというテーマと共通している。(註9) ①A類・・・両隻には日本と唐の港町の様子が描かれている。 このA類の図様で描かれた作品は「唐船・南蛮船図屏風」(九州国立博物館所 蔵)と「南蛮屏風」(大阪城天守閣所蔵)の2点しか現存していない。 唐の港は、室町時代に行われていた日明貿易の様子を描いた「腰屏風」(日光 東照宮所蔵)によく似ている。 ②B類・・・A類と同じく、左隻に異国の情景、右隻には日本の情景が描かれているが、 左隻に描かれているのは唐の港町ではなく、想像上の異国の情景である。 ③C類・・・A類とB類とは異なり、唐も想像上の異国も描かれず、日本の港に南蛮船が 来航してきた情景だけが描かれている。 現存する南蛮屏風の中で最も数の多い図様。
8 第二節.南蛮屏風が描かれた時代背景 それでは南蛮屏風が描かれた時代はいったいどのような時代であったのだろうか。 南蛮屏風の制作年代がはっきりと判明しているのはごく少数であることは少し触れたが、 作風や作者によって16世紀から17世紀初頭に制作されていたことは明らかである。当 時の日本は戦国時代と呼ばれている時期で、戦国武将が自己の権威をぶつけ合っていた時 代であった。そんな中種子島に流れ着いた異国人によって、様々な珍しい物が日本にもた らされ、武将たちは自分の権威を誇示するために異国の品々を集めるようになった。実際 に織田信長や豊臣秀吉が所有していたとされる西洋式の甲冑やマントも現存している。 現存最古の南蛮風俗画である「都の南蛮寺図」(狩野宗秀筆 ホノルル美術館所蔵)に描 かれた南蛮寺は、京都におけるイエズス会の聖堂で、四条坊門姥柳町(中京区蛸薬師通室 町西入る)に建造されていた。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による伴天 連追放令によって破却されたことから、聖堂はたったの10年間程しか存在していなかっ た。このことから作品の制作年代を特定させることができる。唐物屋には異国の帽子など が置かれていることから、渡来する南蛮船の積載品が主に中国からの品々であったという 現実的な事情とも合致する内容といえる。二つのモチーフは、後に描かれる南蛮屏風の「キ リスト教の教会と南蛮品を扱う商店」という題材として画面に加わっていくことになる。 (註10) さらに南蛮寺の存在だけでなく、南蛮屏風と関係の深い事象がいくつか残されている。南 蛮屏風の中心的なモチーフであるカピタン・モール(ヨーロッパやインドからアジア各地 へ派遣される船団の司令官)の一行が描かれるきっかけともいえる出来事が、天正19年 (1591年)、イエズス会巡察使ヴァリニャーノが天正少年遣欧使節4人とポルトガル人 と共に豊臣秀吉を訪問した際に起きている。この時秀吉は伴天連追放令を出した後で、そ の秀吉にキリスト教に対して 懐柔かいじゅうしてもらおうと考えた彼らは秀吉に関心を寄せてもら えるように、華やかなデモンストレーションを行う必要があった。そこで実践されたのが 豪華な衣装で着飾って都の町を練り歩くというものだった。すると人々は物珍しそうに彼 らを見物し、秀吉もこの入京の様子を聞くと、たちまち喜んだという。行列を目撃した人々 に強い印象を残したであろうこの出来事は、南蛮屏風を制作する立場からすれば、非常に 目の引く題材であったであろう。(註11) 次に西洋帆船を多くの人々が目にする機会はあったのかについて考えたい。西洋帆船が 頻繁に来航してきたのは沿岸部の都市だけで、特に九州沿岸の都市が多い。ポルトガル人 が来航していた九州地域の中でも鹿児島が一番多い。鹿児島の具体的な地名を挙げると山 川、坊津、阿久根、根占、京泊に加え、宮崎県の外浦、細島、大分県の府内(大分市)、日 出、佐賀関、福岡県の博多、長崎県の平戸などが確認されている。対外交易の港で真っ先 に地名が浮かぶ長崎でも西洋人が布教を中心とした活動を行っていたことが分かっている。
9 1570年に西洋人が長崎の港を測量し、港として最適であると判断し、その翌年から毎 年のように西洋船が来航して、同時に日本各地から商人が長崎に集まったことから、長崎 や周辺部の地域が大きく発展していった。(註12)さらに1580年に長崎のキリシタン 大名であった大村純忠が長崎と西洋人が島原に渡る際に利用されていた茂木を、在日宣教 師が属するイエズス会に譲渡した。このことにより1587年に豊臣秀吉に没収されるま での間、カトリック修道会が領するキリシタンの町として発展したのである。実際に西洋 帆船を目にしたという大きな事象では、秀吉の九州行きや朝鮮出兵である。天正15年(1 587年)に博多でイエズス会のフスタ船(小さなガレー船)を見物したとされているが、 このフスタ船は南蛮屏風に描かれている帆船とは形状が異なっている。ほかにも常陸水戸 城主、佐竹義宣の家臣・大和田近江重清という人物が自身の日記によれば、文禄3年(1 594年)の7月12日にカンボジアからきたという船を見物し、14日には別の南蛮船 を見物したと記されている。さらに長崎に赴いた際には黒塗りの西洋帆船と唐船を見物し たとされている。この時期に関してフロイスは文禄元年(1592年)に秀吉は母・大政 所を見舞うために京都へ戻ったため、朝鮮出兵の前線基地であった肥前名護屋城には多く の殿たちが西洋帆船を見物するため長崎を訪れたと報告している。この時に南蛮船のイメ ージが認識されるようになった可能性がある。そのことから「南蛮人交易図」が制作され たのは、九州の地で交易に関係した南蛮人に狩野派絵師らが接触する機会を得た1590 年(天正18年)以降であると考えられている。(註13)また長崎のような西洋帆船が多 く来航していた港町には日本各地の商人が訪れていたとされることから、その港に滞在し ていた商人が帆船についての情報を見聞きしたのではないかと考えられる。(註14)ほか では58.「南蛮船駿河湾来航図屏風」(九州国立博物館所蔵)の研究で日本滞在中の朝鮮 通信使が1607年5月19日に駿河で西洋船を見たと記述した文献(慶七松『海槎録(か いさろく)』)と本作が関係していると指摘している。駿河にはフランシスコ会とイエズス会 の布教所・レジデンシアがあり、西洋人の来訪を確認することができるが、その描写は現 地での取材の成果ではなく、江戸時代以前の名所画との共通点が見られることから、古画 を参考に創りあげられたものと指摘されている。(註15) 補足になるかもしれないが、南蛮屏風に描かれているような異国の品々とはどのような 物であったのかについても触れておきたい。1552年2月頃、インド総督の公式使節と して周防の山口を訪れたザビエルは大内義隆に謁見し、その際に多くの献上品を送ったと されている。その内容は大時計、火銃、楽器、緞子(どんす)、眼鏡、望遠鏡、鏡、ポルトガ ル布、酒、書籍、絵画などの13種の品々であったと言われている。また、文禄元年に豊 臣秀吉が始めた朱印船制度により、長崎、京都、堺の商人に朱印状が渡され、朱印船の貿 易範囲は交址(こうち)、東京(とうきん)、東埔寨(かんぼちゃ)、六昆(りごろ)、暹羅(しゃむ)、 呂宋(るそん)などの東南アジアにも及んだ。その際に島津、松浦、鍋島らの西南大名や京都、 大阪、長崎の豪商が貿易に従事し、主な貿易品として銀、銅、硫黄、しょう脳、刀剣を輸 出、生糸、絹織物、綿布などを輸入していた。さらに日本では鉱山の開拓が盛んに行われ
10 ており、1542年2月に但馬(たじま)(兵庫県北部)の生野銀山が発見され、同年には佐 野の鶴子銀山も発見されている。これらの鉱山で採掘された鉱物資源を海外に輸出してい たことも判明している。特に世界遺産にも登録されている島根県の石見銀山から採掘され た銀は対外交易に大きく貢献していたことが分かっている。(註16)1568年(永禄1 1年)、ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが、インドのゴアで作っ た「日本図」(スペイン・マドリード、アルバ公爵家所蔵)にはポルトガル語で銀鉱山王国 を意味する「R・AS MINAS DA PRATA(ミナス ダ プラタ)」と記載されている。また日 本にキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからポルト ガルのシモン・ロドリーゲス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島々(日本)をプ ラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。」と書かれており、当時日本が世界における銀の一大 産地であったことがわかる。他の国の文献にも日本の銀山から銀を輸入していたことを示 す記述が残されており、石見銀山などの日本銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることが できる。石見銀山では17世紀前半の年間産出量が一万貫(約38トン)にも及んでいた と推定されている。(註17)このように、日本と西洋との交易によって船で運ばれている 品々の存在が、後に記述する西洋で制作された世界地図や南蛮船から宝船への変化に関わ る一つの要因ともいえるのである。 3.「南蛮屏風(内膳本)」に描かれているような空想の異国が中国的な様相で描かれて いる理由は、異国でも比較的資料が豊富であったということが大きな理由の一つであるが、 島国に住む日本人にとって西洋人も新奇な唐人とみなされたという武田氏の指摘はこれま でとは異なった視点で非常に興味深い。本来西洋から来航しているはずの南蛮船に多くの 中国風の旗が飾られているのは、彼らを西洋人ではなく唐人として認識されていたからな のかもしれない。実態不明な西洋人に対して日本人は、未知なる南蛮世界を中国的なもの に置き換えることで異国として納得せざるをえなかったのであろう。(註18) 南蛮屏風の制作を依頼した人物も時代によって大きく変化した。南蛮屏風が描かれ始め たのは武将が活躍していた時代で、彼らは自分の権威を示すために様々なことを行ってい た。戦場でも変わり兜などを被り自分の存在をアピールしていたこともその一つであろう。 武将だけでなく為政者も自己のアイデンティティを示すために異国の品々を集めるように なっていった。しかし依頼主が武将や為政者から商人へと変わっていったことが窺える。 このことから南蛮屏風に描かれているモチーフの意味が作品を依頼した依頼主がどのよう な人物であったかによって大きく変化しているのではないかと考えられる。多くのモチー フの中でも南蛮船は依頼主による影響が大きいモチーフであろう。先述したように、キリ スト教禁教政策が始まると異国モチーフである十字架やイコンなど、初期の南蛮屏風に描 かれていたものが隠されてしまっている。南蛮船にもその影響が及んでおり、マストの先 端や旗に取り付けられていた十字架などが描かれなくなった。しかし、最も特徴的なモチ ーフである南蛮船自体は形が変わっていても最後期の作例でも隠されることなく描かれて いることから、南蛮屏風の主要モチーフとして必要不可欠なものであったのではないだろ
11 うか。
< 第二章:16世紀から17世紀の帆船について >
実際に日本に来航してきた西洋帆船とはどのようなものであったのだろうか。大航海時 代によりスペイン、ポルトガルを中心とした欧州の貿易船が世界中を闊歩するようになる と、その交易に大きく貢献した木造の大型帆船が多く建造されるようになった。 このような帆船群は、キリスト教の布教という名目によりインドやアメリカ大陸などを植 民地としていった。それは日本も例外ではなかった。1543年(天文12年)にポルト ガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝え、1549年(天文18年)には日本人アンジロー と共にフランシスコ・ザビエルらが鹿児島に来着し、本格的なキリスト教の布教が始まる こととなった。その後のおよそ100年間に、長崎、博多を中心に外国船の往来が活発に なり、南蛮寺や港が多数建造された。「南蛮屏風」とは、まさにこうした情景を絵画化した 作品なのである。 では、大海原を乗り越えてくるこのような帆船はどのようなものであったのだろうか。 当時使用された帆船で、南蛮屏風に多く描かれているのがコロンブスの乗ったサンタ・マ リア号と同様の形態である<カラック(ナウ)型>とカラック型の改良型であり、海賊船 としてのイメージが強い<ガレオン型>である。 カラック型とガレオン型の説明に入る前にまずこの二つがどのようにして発展していっ たのかを『人間は何を造ってきたか 交通博物館の世界③ SHIP 船 NHK 編』(註19) をもとにして発展の流れを述べてみたいと思う。帆を使った船は古代エジプトの遺跡から も発掘されていることから、かなり古い時代から使われていたことはわかる。そうした中、 9世紀以後になると地中海沿岸にはラティーンという大きな三角帆を備えつけた帆船が登 場する。構造は現代のヨットと同じで、どんな風でも航海ができるようになっていた。こ の形態の帆船は9世紀から14世紀頃まで地中海で多数使われており、こうした帆船を総 じて「南方船」と呼ばれる。一方では別の系統の帆船が発展していき、9世紀頃にヴァイ キングが使っていた四角帆を備えた北方系の帆船「北方船」が登場してくるのである。北 方船は一枚の大きな四角帆が進行方向に対して直角に取り付けられ、櫂を漕いで航海をす る。このような四角帆は横帆とも呼ばれるが、この形状をした帆は自由に動かせないが、 追い風に強くスピードが出やすいのが特徴である。この北方船はドイツやイギリスに伝わ り、ドイツ地域で使用されたハンザゴシップやシングポートシップからイギリス東海岸で 使用されたイングリッシュ・シップへと発展していったのである。さらに、12世紀から 13世紀へと変わると北方船の構造に大きな変化が現れたのである。それはこれまで備え つけられていた船尾片側ないし両側の櫂のような舵から船尾中央舵に変化したことであり、 これにより操作性と航行性が向上したのである。 そしてこの二つの形態を合わせたものが、15世紀後期に登場したサンタ・マリア号の12 形態であるオランダのカラック型であるとされている。残念ながらカラック型に至るまで の経過を示すものが、オランダのロッテルダムのプリンス・ヘンドリング海洋博物館にあ る15世紀中頃に制作されたとされる「ナオ型」の帆船模型だけであり、また、『ビジュア ル版 船の百科事典』に掲載されている1470年頃にオランダ人芸術家が制作したとさ れる版画に見られるカラック型が、最も古く詳しい資料であるとしていることから、そこ までに至る詳しい発展経緯はわからない。(註20)しかし、『人間は何を造ってきたか 交 通博物館の世界③ SHIP 船 NHK 編』によれば、ナオ型の帆船模型がカラック型によ く似ている点や三角帆が備えつけられた形跡がみられるとし、また15世紀前半のマラガ の酒盃に三本マストのポルトガルの帆船の絵が描かれていることや、1466年のルイ・ ド・ブルボンの印章に全装帆船が使われていたと記述されており、ここから帆船模型が制 作される以前から南方船と北方船の特徴を備えた帆船がすでに存在していたことが窺われ る。(註21) カラック型に至るまでの発展の説明は以上とし、サンタ・マリア号を参考にカラック型 の主な特徴を確認していきたいと思う。余談になるかもしれないがこのカラック型を調べ ていく際に注意しなければならないのが、カラック型がナヴ型もしくはナウ船といった名 称で記述されているという点である。この二つの種類としては大きな差異はないため、幾 度となく「カラック(ナヴ)型」と表記されるのだが、本の解説によっては「カラック型」 である時もあれば「ナヴ型」と呼ばれるときもあるので、別物として考えてしまうことも あるので気を付けて頂きたい。そのようなカラック型の特徴は船体がこれまでの帆船より も大型化し、船底部分がふっくらとした丸みを帯びた形状になっている。またマストも船 体中央に四角帆を二枚有した中央マストをはじめ、前部にも四角帆の備わったマスト、後 部に南方船の特徴でもある三角帆のマストに、船首の前部に伸びたマストといったように その数が増えているのである。またカラック型は種類としては<商船>の部類に入るため、 武装は必要最低限にとどめている。船首には船楼がつくられており、船尾も後ろ大きく迫 り出している。しかし、この船楼は船首の重量を重くし、外洋への航海では下から打ち付 ける大きな波に弱いというデメリットが生じる。当時、航海にでた帆船の多くは沈没、も しくは別の国に漂着するという事態が多発したという。(もちろんそれはこのカラック型の 帆船のみならず、ガレオン型の帆船でも同じことが言える。)16世紀初期に建造されたイ ギリスの軍艦「グレート・ハリー(アンリ・グラサ・デュ)」は軍艦ということもあり、サ ンタ・マリア号よりもマスト数やトン数も多く、船尾、船首の船楼は一際巨大な造りにな っている。この形態の帆船はスペイン、ポルトガルを中心に、イギリス、オランダ、フラ ンスでも独自の改良型が使用されるようになったのである。中には1519年にフランス で建造されたフランスの「ラ・ドーフィネ」は2本マストのカラベル型で、船首の吃水面 が他に比べてずんぐりとした形状をしたものや、グレート・ハリーやポルトガルの「サン タ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ」といった船首、船尾上に二層構造の船楼を備えたも
13 のなどが登場する。この二段構造の船楼については『ビジュアル版 船の百科事典』(註2 2)のなかで、戦闘が行われた際に甲板上の敵をマスケット銃や小型砲などで攻撃できる ように、また敵が甲板に登ってこられないように、背を高くした設計になっていると記述 している。確かにこの著書に掲載されている二段構造の船楼を持つ船体はほとんどが軍艦 もしくは海賊対策のために重武装をした商船であることが見て取れる。現在の大型貨物船 が狙われるように、当時でも貴重な品々を満載した商船は、海賊にとっては格好の獲物で あったであろう。もともと最小限の武装しかしていなかった商船に対して海賊対策を講じ るのは当然の状況といえる。このことから高い船楼は軍艦などの対戦を想定した船体には 標準的に備えつけられたのではないかと考える。あるいは、この船首楼を備えたカラック 型とサンタ・マリア号のような初期のカラック型と後に改良されて登場するガレオン型の 間に考案された形態である可能性も考えられるのである。 さまざまな形態のカラック型が建造されるなか、その改良型として16世紀半ばに登場 したものがガレオン型である。ガレオン船の由来は諸説あるが、ガレー船がもとで、ガレ アス船へと発展してガレオン船となったとされる。これはガレオン型の船首突出部とガレ ー船の船首突出部が非常に似ていることからであろう。またガレオン船は速い速度を出す ことができたため、後に戦列艦やフリゲート艦へと発展していくこととなる。1974年 に復元されたイギリス船「ゴールデン・ハインド号」は上に挙げた特徴をほぼすべて備え た典型的なガレオン型帆船であるといえる。船体の特徴としては、カラック型が全体的に ふっくらとした船体であるのに対して、ガレオン型は細長く抵抗が少なくなったため、快 速帆走が可能になった。背が低くなった船首楼がやや後ろに後退しており、それに合わせ て船尾形が平らになり、船尾楼が大きく迫り出している。またカラック型には見られなか った、船尾から側面にかけて回廊が設置されている。船体が広く平らになったため、以前 より多くの大砲が搭載できるようになったため、ガレオン型帆船は大砲の数が多いという 点も一つの特徴である。ゴールデン・ハインド号は小型のガレオン型であり、『SHIP 船 の歴史文化図鑑―船と航海の世界史―』に掲載されている1610年に使用されたイング ランドの「プリンス・ロイヤル号」のような1200トンクラスの大型船も登場している。 (註23)これに加えて商船として建造された帆船がこれまで以上に数を増やしている。 商船は軍艦よりもマストや帆の数が増え、最大の特徴は船体の幅が広くなり、より深くな ったことである。しかし、船体を狭くしたことで快速帆走が可能になったのに、広くした ら水の抵抗が増すのではないだろうか。そもそもなぜ広くする必要があるのかを考えてみ た。これはより多くの積荷を載せることができるようにするためなのはもちろんだが、戦 闘が目的ではないからではないかと考えられる。1、2隻で航海する場合はある程度のぶ そうは必要となるが、武装が必要ないとなると恐らく商船団として複数の船と共に航海を していたのではないかと思われる。そういう形式で航海をすれば、積荷を運ぶ商船とそれ を守る護衛艦の構成で運ぶことに専念できるのではないだろうか。
14 カラック型 ガレオン型 ・船体がこれまでの帆船よりも大型化し、船底部分 がふっくらとした丸みを帯びた形状になっている。 ・マストも船体中央に四角帆を二枚有した中央マス トをはじめ、前部にも四角帆の備わったマスト、後 部に南方船の特徴でもある三角帆のマストに、船首 の前部に伸びたマストといったようにその数が増 えている。 ・カラック型は種類としては<商船>の部類に入る ため、武装は必要最低限にとどめている。船首には 船楼がつくられており、船尾も後ろ大きく迫り出し ている。 ・カラック船の改良型として16世紀半ばに登場。 ・カラック型が全体的にふっくらとした船体である のに対して、ガレオン型は細長く抵抗が少なくなっ たため、快速帆走が可能になった。 ・背が低くなった船首楼がやや後ろに後退してお り、それに合わせて船尾形が平らになり、船尾楼が 大きく迫り出している。船尾から側面にかけて回廊 が設置されている。 ・船体が広く平らになったため、以前より多くの大 砲が搭載できるようになったため、ガレオン型帆船 は大砲の数が多いという点も一つの特徴である。 余談にはなるが、このガレオン船が海賊船のイメージが強いと述べたが、これは国公認 の海賊船、私掠船としてこのガレオン型が広く使われたことが原因である。スペインとポ ルトガルが独占的な政策を行っていることに対して、他国は「私掠船」という二国の商船 などを襲撃するといった海賊行為を行う船で対抗した。この私掠船は敵国の船に対しての み襲撃しても良いという許可証を持ってはいるが、実際はほぼ手当たり次第に襲う無法状 態にあったといわれている。日本にも来たフランシス・ドレーク船長のゴールデン・ハイ ンド号もイギリスの代表的な私掠船であった。特に有名なのは1577年から1580年 にかけてのスペイン領の南アメリカ太平洋岸で略奪行為を行い、逃亡の末、世界一周を果 たしたということである。この時にスペインの財宝船「カカフェゴ」から莫大な量の財宝 や香料を持って帰国し、当時の女王エリザベス一世はこの財宝の一部を受け取り、船長の ドレーク船長を貴族にまでし取り立てたのである。この成功にイギリス国民は狂喜し、次々 と私掠船が現れ、略奪行為が横行するようになった。このことに大国スペインは激怒した。 そしてこの事によりスペインがイギリス征服を決意し、1588年のアルマダの海戦へと 向かうきっかけとなったのである。こうした経緯があったことから、私掠船として多く使 用されたガレオン船は海賊船としてのイメージが世界各国で強く根付いたのである。(註2 4) さらに、上記で帆船のトン数のことに触れたので、ここで一度帆船のトン数について述 べたいと思う。このトン数(排水量)に関しては、坂本 満氏が日欧交易の学者であるC・ F・ボクサー氏の研究をもとに非常に詳しく述べているので、その記述と『ビジュアル版 船の百科事典』の数値等を参考に当時の造船事情について触れたいと思う。 サンタ・マリア号は諸説あるが、80トンから110トンほどあり、帆船の中では小型
15 にあたる大きさといえる。カラック型の資料は非常に多く残っているが、16世紀後半の 東インド地方(インド以東)のポルトガル領で運用されていた帆船には大型の帆船が多く と建造されていたと考えられる。1540年頃までは400トン以下の船体がほとんどで あったが、ドン・ジョアン三世時代(1521~57年)には600~900トンクラス の船体も現れた。その次のドン・バスティアン王(1557~78年)は航海の安全性と 能率性を考慮して、1570年にインドのカラック型(ナウ・ダ・カレイラ・ダ・インデ ィア)は300トン以上で450トン以下でなければならないという法令を発布し、その 効果は後世でも評価されるようになったのである。しかし、1580年から1640年ま でに至るスペインによるポルトガル併合時代になるとこの法令の執行が緩和され、毎年1 000トン以上の大型帆船が2、3隻建造されるようになった。実際に、1588年にス ペインの無敵艦隊を迎え撃った英国の「トライアンフ」は排水量が1100トンにも及び、 英国艦隊の中では最も大型のガレオン型であったとされており、1592年に英国船に拿 捕された大型カラック型帆船「マードレ・デ・デウス」は推定1600トンであったとさ れるほどの巨大さである。このような大型の船体には、従来よりも多くの武装や積載が可 能になったが、その反面航行の安全度には大きな問題があり、1590から92年にイン ドを出発した22隻のうち、無事リスボンに到着した船体はたったの2隻であったという。 もちろんこの数字は、嵐などの自然現象による遭難のみではなく、私掠船や海賊による略 奪も含まれていると思われるが、いずれにしても当時の航海の危険性を物語る記録である といえる。日本にも1564年(永禄7年)にドン・ペドロ・デ・アルメイダ率いる3隻 のカラック船が平戸に入港、旗艦の「サンタ・クルス」は1600トンにも及ぶ巨大なも のであったとされることから、このような大型船を日本人が目にする機会が少なからずあ ったと推測される。ガレオン型も同様に時に連れてその船体を大きくしていったのである。 当初は600トンを超えることは少なかったのだが、後に800~1100トンクラスの 大型船が登場するようになったのである。(註25) こうした両種の帆船の大型化には、帆船の建造技術が上がったことと同時に、植民地の 領土拡大が起こったからではないかと推測される。スペイン、ポルトガルが南米や東南ア ジアに進出していき対外貿易が盛んになると、本国では獲得するのが難しい物資が得られ るようになる。当時は香辛料や織物といったものが大きな輸入品であったと考えられるが、 そうした物資を運ぶ輸送船の材料も植民地で調達、もしくはその地で建造までも行うよう になっていったのである。坂本 満氏も同様のことを指摘しており、ゴア、ダマン、バッ サン、交趾で建造された船のほうが、本国で造るよりも耐久性にすぐれており、マニラに いたスペイン人もインド製のポルトガル船を好んだと述べている。(註26)現に中国、明 代では1405年から1433年にわたって将軍鄭和が率いる「宝船艦隊」が東南アジア、 インド、さらにはサウジアラビアやアフリカのケニアやソマリアにまで到達しさまざまな 物資を中国に持ち帰っている。そのとき使用された大型帆船(ジャンク船)の大きさは1 498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカット沖に辿り着いたときに使用された「サ
16 ン・ガブリエル号」のおよそ5倍の大きさであったとされる。これは1962年に南京を 流れる長江の南岸、明代に使われた濠(ドック)から発見された長さ11メートルに及ぶ 木造の舵取り棒から方向舵が取り付けられた跡が見つかり、この船の舵が42平方メート ルもの大きさであったのではないかと推測する要因になったのである。(註27)こうした ことから明代の中国では、このような途方もない巨大な帆船を建造するのに必要な良質な 材木が採取できたということを示している。またインドでは現在でも近海漁をするための 大型木造船を建造している場所もある。 以上のことからもわかるように16世紀から現代にいたるまで、中国南部から東南アジ アでは良質な造船用の資材(当時主に使用されていたのはチーク材)が多く採れる場所で あることが窺える。植民地の拡大は、産業の発展と同時に、こうした造船技術、工業力の 向上においても大きな役目を果たしていたということが、このような帆船の発展経緯から も証明できると言えるのではないだろうか。また日本に来航してきた帆船がどのくらいの 大きさであったかは不明ではあるが、南蛮屏風に描かれている異国からもたらされた多く の品々や動物たちが実際に積載されていたと考えるとある程度大型の帆船であったのでは ないかと考えられる。先でも述べたが、豊臣秀吉にアラビア馬やゾウが献上されていたこ とがわかっているので、屏風の中に多くの大型の動物が描かれていることは上記で挙げた ような事象を反映させているのであろう。
< 第三章:南蛮屏風の帆船 >
第一節.図像の形態と分類について 実際に使用されていた帆船と同様に、南蛮屏風に描かれている南蛮船にも多様な種類が ある。船体が丸いものもあれば、直線的でシャープな印象をもつもの。マストや甲板に多 くの旗を取り付けた派手な装飾をしたものや、ほとんど装飾を施していないものなど、屏 風を描いた作者の個性が大きく現われているモチーフである。 複数の先行研究から南蛮屏風全体の図様も大きく分けて三つの種類に分類できると指摘 され、『南蛮屏風集成』では<1.日本と唐を組み合わせた図様>、<2.日本と想像上の 異国を組み合わせた図様>、<3.日本のみの図様>と分類されている。 改めて南蛮船という一つのモチーフに着目し、観察していくと、南蛮船も図様と同様に、 ある一定の共通性と時代によるグループ性が見て取れたのである。そこで一度屏風に描か れている南蛮船の大きなグループ分けをしていき、南蛮船の図像に見られる共通性や作品 との関連性を探っていく。なおこのグループ分けは、『南蛮屏風集成』の図版(註28)を もとに筆者が独自でまとめたものである。 まず南蛮船の図様をタイプAからJと各タイプの類似型を含めた11のグループに分類 し、それぞれの特徴を述べていく。17 ・タイプA:船体が長細く中国船のような細長い外観をしている。三本マストで先端には赤旗がはためい ている。側面には6門の大砲が備えつけられ、船尾には屋根のついた部屋がついている。(こ の部屋を便宜上「船尾室」と呼ぶことにする。) ・タイプB:ヨーロッパ船で船体の前後に船楼が建てられている。三本マストの湾曲した丸い船体をして おり、装飾的な外観をしている。マストの先端には十字架が取り付けられている。大砲の数 もAに比べて多いが、船尾室も備わっている。 A B ・タイプB+:タイプBの類似系であるこの南蛮船は船体の前後に箱型の船楼が建てられている点などは Bと同様だが、船体が平たく、船尾室によく似た部屋が船体の側面にも取り付けられてい る。三本マストである。 ・タイプC:ほかの作品にくらべてヨーロッパ船(ガレオン型)の特徴を正確に写している。三本マスト の船体でマストや甲板上には中国風の旗が取り付けられている。船尾室は備わっていないが、 船尾から側面にかけて回廊が取り付けられている。船尾の甲板も二段構造になっている。派 生型のC+もある。 B+ C
18 ・タイプD:船体がタライのような形状をしており、船底が丸みを帯びている。四本のマストの先端には 十字架が取り付けられている。また見張り台が他の図様に比べて平たく多いのも特徴である。 またマストを支える縄梯子に波状にロープが絡みつくように描かれている点にも注意したい。 C+ D ・タイプE:タイプBに似ているがより簡略化されている。三本マストの船体には窓が多く描かれており、 その窓には数本の大砲が備えつけられている。船尾室は二段構造で、船尾は三段の階段状に なっている。これはタイプAにもみられる特徴である。派生型のE+もある。 E E+ ・タイプF:三本マストの船体は、立体感が強調された表現がなされている。帆船というよりは建築物を 連想させるような印象を受ける。船尾室は取り付けられていないが、船首の船楼には中国風 の屋根が取り付けられている。また小舟が横付けして、大きな梯子を渡しての荷下ろしが行 われている図様である。 ・タイプG:形状はCやBに似ているが、甲板上を中心に装飾が施されており、側面にはほとんどない。 大砲も側面にはなく、船首、船尾にのみ装備されている。Fのように小舟が横付けされた図 様である。
19 F G 「 ・タイプH:船体が全体的にずんぐりとした形状をしている。船首、船尾の上部、甲板の手すりがブロッ ク調に描かれている。このように描かれている艦は他にも見られるが、Hの場合はそのブロ ック調がより強調されているようにみられる。またF、G同様に小舟が横付けされ、荷下ろ しが行われている。 ・タイプI:ヨーロッパ船と和船を足したような姿をしている。船尾やマストはヨーロッパ船の特徴が見 られるが、船首や船体の形状は和船に近い。また船尾の甲板には中国風の小部屋が建てられ ている。 H I 「 「 ・タイプJ:和船もしくは唐船のみが描かれている図像とする。 J 「
20 以上が南蛮屏風に描かれている南蛮船の分類である。次にどの作品がどのタイプに当ては められるのかをまとめてみたいと思う。 まず、タイプAは1.「大阪城天守閣本」のみ、タイプGは35.「リスボン国立古美術 館本C」のみに見られる特徴である。恐らくはおおもとの見本をもとに作者が改変させて描 いたことで、一つの形態になるまでの独自性が生まれたのではないだろうか。タイプBも 2.「九州国立博物館本A 唐船・南蛮船図屏風」と4.「所在不明(笹原家旧蔵)」の2点 のみの特徴である。共に制作された年代が17世紀前半とされている。またタイプFも1 1.「ボストン美術館本A」と12.「個人蔵(Y 家)本」のみの特徴で、やはり制作年代は 共に17世紀前半とされており、BもFもそれぞれ共通の下図が存在し、それをもとに同 じ工房での制作が行われていたのではないだろうか。 タイプBの派生形であるタイプB+は5.「サントリー美術館本」や9.「個人蔵(K 家) 本」などを含めて20点が確認できます。これは南蛮屏風に描かれている帆船では最も多 い型となります。このタイプの作例は17世紀前半に描かれた作品がほとんどで、一種の 流行があって描かれたものではないだろうか。また『南蛮屏風集成』の作品解説では、5. サントリー美術館本は狩野山楽系の画家が制作、55.「ピーボラディ・エセックス博物館 本」では元和期の狩野派絵師として見なそうとしている。(註29)このことからこの帆船 の図様式は狩野派(京狩野の系統かもしれない)の考案したものであり、17世紀半ばに 描かれたとされる73.「逸翁美術館本A 岬教会の南蛮屏風」が大和絵系町絵師の筆とさ れるため後年に大和絵系にも伝わった可能性もある。また、75.「個人蔵本」や90.「所 在不明本B(三正旧蔵)」の二点は、帆や船体が過度な装飾で飾られており、他の図様とは 明らかに異なっている。特に90.「所在不明本」はすべての帆に花や菊花のような柄を金 で描かれている。船尾上には屋根つきの小屋が置かれ、屋根の上には鶏がいるなど華やか な様相となっている。しかし、ロープについた滑車や舫の結び方など、細部描写は最も正 確である。 タイプEの形式である10.「個人蔵(T 家)本(和歌山県 雲蓋院旧蔵本)」や57.「シ カゴ美術館本」も形状はタイプBに似ており、船体の前後に高い船楼が建てられている点 などは同じといえる。しかし、タイプBよりも装飾が少なく、細部も簡略化されている。 窓が多く、そこから大砲を数門突き出して描かれている。船尾の甲板が三段構造になって おり、船尾室が二段造りになっている、さらにB+にある船体の側面に取り付けられてい る小部屋も存在しないのも特徴的である。また、57.「シカゴ美術館本」、59.「長崎歴 史博物館本」、60.「出光美術館本」の三点は10.「個人蔵(T 家)本」の帆船に比べて、 船尾が湾曲して鋭く描かれている。(71.「室生寺本」も船体の後部が画面から切れてい るため確実ではないが、このタイプの特徴が見られるので、ここではタイプE+としてくく
21 ろうと思う。)10.「個人蔵(T 家)本」の左隻に帆船とともに狩野派の描くような松や岩 が描かれていることから、『南蛮屏風集成』の作品解説ではこの作例は狩野派筆であること が窺われており、制作年代も17世紀前半と推測されている。(註30)さらに、ほかの作 例でも制作年代が17世紀前半から半ばにかけてとかたまっているため、このタイプの下 図が存在し、それをもとにした作例ではないかと推測する。 続いて南蛮屏風の作品群のなかで最も実在したガレオン船の特徴を正確に描いたタイプ Cであるが、このタイプの作品数は15点が確認でき、最も初期の作品である3.「神戸市 立博物館本A(内膳筆)」でもわかるように作者である狩野内膳の名がはっきりとわかるた め、このタイプが狩野派の作り出した図様であることは明白といえる。このタイプの作品 は、15.文化庁保管本や作者の個性が色濃く表現された18.「個人蔵本」など15点が 確認できる。また、この図様で描かれた作例は17世紀後半、19世紀のものも確認でき ることから、政治が混乱する直前まで受け継がれた型であることがわかる。中でも異色な 作例は、17世紀半ばに描かれた28.「大安寺本」である。形状はタイプCではあるが、 外観が非常に装飾的で工芸品を思わせるような姿をしている。三本マストの前部の帆には 大きな龍が描かれている。また甲板上に取り付けられた旗には ○吉や王、通貨の図柄が描か れている。この通貨柄には「寛永通貨」と思われる文字が書かれている。この文字から正 確な年代を割り出すヒントになるのではないだろうか。このタイプCの派生型であるタイ プC+の特徴を持つ、29.「東京国立博物館本」と30.「神戸市立博物館 B(談山神社 旧蔵)本」の南蛮船にも一部装飾が施されているのが確認できる。外観の図様はタイプC であるが、側面に部屋や大砲が多数装備されているなど、細部が微妙に異なる。描写は簡 略化されているが、船首の舳には麒麟のような動物の彫刻が取り付けられている。また船 首側の龍骨には十字架型、もしくは百合型の飾りが付けられているのが特徴的である。 タイプDは16世紀末~17世紀初期に制作されたとされる6.「南蛮文化館本」や17世 紀前半に制作されたとされる49.「クリーブランド美術館本」から、初期に考案された図 様であったことがわかる。さらにこの2点の作品はともに『南蛮屏風集成』の解説では長 谷川派絵師による作例とされており、また51.「本泉寺本」は古土佐派の筆ではないかと 推測されていることから大和絵の系統による図様式ではないかと推測する。(註31)また 作品数も17点と、全体の中でタイプB+に次ぐ多さから、人気があった形態であったこ とがわかる。 タイプHは全体の形状や構成物はタイプBやタイプEと同系統ではあるが、実在の帆船と は似ても似つかないほどまでに簡略化に、また誇張して描かれている点などから、 17世紀に描かれたとされる76.「逸翁美術館本B」、77.「岡崎市立図書館旧蔵本」、8 0.「埼玉県立歴史と風俗の博物館本」の一部に描かれている三点の作例が当てはまるとい
22 える。またこの作例にはタイプFのように、共に制作年代が17世紀前半で、小舟が側面 に横付けして荷下ろしを行っている様子が描かれていることから、Fの図様と同様、もし くは派生させた下図をもとに制作をしたのではないだろうか。また80.埼玉県立歴史と 風俗の博物館本の作例ではタイプHと後述するタイプIとが混在しているためHとIの図 様が手元ないし工房内に存在していたこととなる。 上記のことを踏まえてタイプIの帆船が描かれている作例を見てみる。作品数は80.「埼 玉県立歴史と風俗の博物館本」に、82.「神戸市立博物館本D(粉本)「南蛮人交易図」」、 84.「所在不明本」、85.「堺市博物館本B「港風俗図屏風」」の四点。さらに87.「パ リーズ・コレクション本」と88.「個人蔵(O 家)本」の二点はIの帆船にまた違った形 状の帆船群が描かれている。いずれも制作年代が17世紀後期から18世紀初頭にかけて であることから、南蛮屏風の図様では最後期に考案された図様ではないかと推測される。 帆船の描き方のみならず、街中の図様もこれまでの作例とは大きく異なり、おそらく狩野 派ではないが、大和絵系の作風を感じさせるところからみてもその系統の絵師が描いた作 例ではないかと考える。 タイプJは、和船か唐船のみが描かれている作例で、13.「リスボン国立古美術館A(金 子家旧蔵)本」と79.「太平洋セメント本「南蛮人遊楽図屏風」」の2点が確認できる。 79.「太平洋セメント本」の唐船は細部が微妙に異なるが、2.「九州国立博物館本A」 の左隻に描かれている船体を白く塗装された唐船とよく似ており、この白塗りの唐船は日 光東照宮に由来する「唐船図」にも同じ形態、塗装の船が描かれている。(註32) ここまでが、南蛮屏風に描かれている南蛮船の分類となる。多くの種類の図像に分ける ことができたが、それぞれに元となる図像との共通性を見ることができる。それを顕著に 表した作例が、タイプCの3.「神戸市立博物館本A(内膳本)」などやタイプB+の5.「サ ントリー美術館本」など、タイプDの6.「南蛮文化館本A」などであり、これは作品数の 多さからもわかることである。 第二節.南蛮屏風と実在する帆船との比較について ここで第一節に述べた図像を参考に作品数が5点以上確認される、タイプB+、C、D、 Eから実際の帆船と南蛮船の形態を比較してみることにする。 まず当時の銅版画などに描かれている帆船と南蛮船が非常によく似せて描かれているこ とから、南蛮船の制作では銅版画や絵画が参考にされていたというのが定説のように思わ れる。しかし南蛮屏風に描かれている南蛮船は大きく形状が改変されているものがほとん どであり、実際の帆船の形式に当てはめることが困難ではあるが、全体を通して、北方船
23 から発展したという象徴ともいえる四角帆を有した三本ないし四本マストを持ち、船体色 も腐食防止のために塗られたタールの黒色を忠実に再現しているといえる。マストに巻き ついているロープや船体とマストの間を繋いでいる縄梯子の接合部や形態などの細部もお およそ忠実であるといってもいいだろう。 制作者に関しては、南蛮屏風の制作者を特定させるのは難しいが、流派や銘が確認でき るのは、狩野内膳、友信、山楽系などの狩野派絵師や長谷川派、土佐派の系統である。特 に狩野派の作例が多く、最も現存しているタイプB+を含めて上記の三つのタイプも狩野 派筆とされているため、元となる手本を制作しているのは狩野派であり、広くその図様が 普及していたと思われる。制作年代も17世紀初頭から爆発的に増えており、狩野派の知 名度が大きかったことがここからもよくわかる。 さて南蛮船についてだが、典型的なガレオン型の特徴を持つタイプCを除いて、B+、 D、Eの帆船を含むほとんどの図像では共通に船体下部が大きく丸みを帯びている点であ り、この特徴はカラック型の帆船に見られる特徴にも一致する。またほとんどの南蛮船は 船体の前後に箱型の船楼が備えつけられており、船尾部が後方に迫り出した特徴などもよ く表現されているといえる。特に57.「シカゴ美術館本」や59.「長崎文化歴史博物館 本」に見られるタイプE+の形態はこの後部に迫り出した形状をより強調させた表現で描 かれているのがわかる。実在のカラック船でも一度触れたが、この船首に造られた船楼は 敵対する国の軍艦や積荷を狙った海賊への攻守を目的として建造されているため、船楼の 側面にある窓のような砲門からは大砲が覗いているのである。10.「個人蔵(T家)本」 のタイプEや上記のタイプE+の南蛮船にも船首楼、船尾側面の全ての蒲鉾型の窓から大 砲が突き出している様子がはっきりと描かれている。しかし、3.「九州国立博物館本A」 や4.「所在不明本(旧笹原家)」のタイプBをはじめ、タイプDなどを含む多くの南蛮船 には船体側面にこそ大砲が確認できるが、タイプEのように船楼の砲門から突き出した大 砲という作例は少ない。もちろんこのように船首楼が備わっている帆船が全て武装してい るとは限らないが、砲門でないにしろ商船などであれば、外からの明かりを取り入れるた めの窓が備わっていても不思議ではない。こうした違いはタイプE+に限らず、どの形態 の南蛮船でも大砲のあるもの、窓があるもの、過度の装飾が施されているものなど個々の 形態にも実際の帆船に備わっているものが、描かれていたり、描かれていなかったりとま ちまちである。特に南蛮船の特徴でもある船尾やB+の右側面に備えられた船尾室は実在 の帆船を見ても、このような形態の船室は確認されない。先述の実在の帆船の説明ではカ ラック型、ガレオン型ともに構造上下からの波に弱いため、船尾の船室は船体と一体化さ れているのである。そのようにして考えるとこのような船尾室は航行上非常に危険であり、 構造としても現実的ではないのではないかと考えられる。つまりこの船尾室も実際の帆船 像を参考にしたというよりは、装飾の一部として描かれたものと考えられる。いずれにし てもこのような違いというのはもとの手本を制作した作者の取材不足なのか手本の写し間
24 違えなどの形の単純化のためなのかを確定させるのは難しいが、このことが南蛮船と実際 の帆船を結び付けることが困難な理由の一つといえるであろう。坂本満氏が述べているが、 南蛮船と同じように実際の帆船でもはっきりとカラック型とガレオン型とを見分けること ができないほど、その特徴や外観に大きな違いは見られないのである。両種を区別するた めの大きな特徴は、船体の形状と船首全体の構造、そして船尾に備えつけられた回廊ぐら いといえるが、このような違いが実際にあったとしても絵画として画面に取り込む際に多 少のデフォルメがなされるか、あるいは大幅な改変などが行われる。現にもっともガレオ ン船の特徴を捉えて描いている3.「神戸市立博物館本A」のタイプCの図像でさえも、細 部や船体の構造はガレオン型であるにも関わらず、船体の形状はカラック型のようにふっ くらとした丸みを帯びている。さらに言えば、南蛮船の多くは帆を畳んだ状態、すなわち 停泊中の姿で描かれているのだが、タイプCや一部の南蛮船は航海中の姿で描かれている ものもある。遠目に見た可能性がないとは言い切れないが、当時の人々、あるいは制作者 が帆走している西洋船の姿を見ることはできるのかという疑問が出てくる。これも絵画と して多少のデフォルメが施された姿の銅版画などを媒体にして帆走中の帆船を写したこと で、さらに実際の姿とは違った姿で描かれる要因となっていると考える。 また、3.「神戸市立博物館本A」のみならずタイプCの南蛮船はどれも大砲が描かれて いないのである。もともとガレオン型は船体内部がカラック型に比べて広くなりこれまで より多くの大砲が積み込めるようになったので、軍艦としての役割が多くなった形式であ るといえる。加えて、『SHIP 船の歴史文化図鑑』に掲載されている商船「メイフラワ ー号」の帆船模型には他のガレオン型に対して、数が極端に少ないが側面に数門の大砲が 備えつけられている。これは何度も記述しているように、対海賊対策によるための武装で ある。海賊行為自体は現代でもソマリアを中心に問題になっているということは認知して いるが、それでも「海賊」という存在は、遠い過去の存在であり、半ばファンタジー的な 扱いとなっているところがある。しかし、当時の船乗りや人々にとって、突然現れては積 荷を強奪していく海賊という存在は、生活を脅かし、さらに言えば命の危険性のある恐怖 の存在であったのではないだろうか。そんな海賊をけん制、撃退するためには必要最低限 の武装や装備は備えなければならない。カラック型の帆船についてでも述べたが船首に建 てられた大きな船首楼もその一つといえる。図像全体にいえることではあるが、そうした 航海をする上で必要な要素や特徴というものが、南蛮屏風のなかの帆船には描かれていな いということが多くある。このことについては坂本満氏が論文の中で船乗りたちの陽気な 図像に対して南蛮屏風のなかでは異国のモチーフとして南蛮人とわかればいいため、船乗 りたちの苦労などを描く必要性がない(註33)と指摘しているが、南蛮船も同じように、 南蛮船にも海賊や敵国の軍艦との戦闘や航海の危険を乗り越えるための改良などの考証な どは画家にとってはあまり関係のないこととして扱われているのではないかと考えられる。 そのため本来は敵の攻撃を防ぐために備えられた高い船楼や大砲の存在もただの記号的な ものとして扱われ、かわりに本来は備わっていないはず船室やキリスト教国を示す十字架