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【博士論文本文】上海における近代的女子教育の展開:愛国女学校と務本女塾を中心に

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Academic year: 2021

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Title

上海における近代的女子教育の展開―愛国女学校と務本女塾を中心

に―

Author(s)

晏,

Citation

奈良女子大学博士論文、博士(文学)、博課 甲第546号、平成

26年3月24日学位授与

Issue Date

2014-03-24

Description

【関連コンテンツ:全文の要約】http://hdl.handle.net/10935/3892

URL

http://hdl.handle.net/10935/3610

Textversion

ETD

(2)

上海における近代的女子教育の展開

――愛国女学校と務本女塾を中心に――

2014 年

奈良女子大学大学院 人間文化研究科

博士後期課程 比較文化学専攻

晏 妮

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【目 次】

序章 (一)伝統的女子教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 (二)近代的な女子教育―研究史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 《註》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 第1章 中国女学堂 Ⅰ 中国女学堂の設立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 (一)教会女学校の設立―聖マリア書院を中心に―・・・・・・・・・・・・・・12 (二)聖マリア書院の教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15 (三)梁啓超・経元善と中国女学堂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 (四)中国女学堂の設立経緯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19 Ⅱ 中国女学堂の教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 (一)教育内容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 (二)聖マリア書院の教育との比較・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 (三)中国女学堂の意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24 《註》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25 第2章 愛国女学校 Ⅰ 愛国女学校の設立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27 (一)教育改革・拒俄運動・革命運動と中国教育会の設立・・・・・・・・・・・27 (二)中国教育会と拒俄運動・革命運動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36 (三)蔡元培と愛国女学校・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40 Ⅱ 愛国女学校の教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51 (一)五つの章程・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51 (二)愛国女学校の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 (三)教育内容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56 小結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 65 《註》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 67

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第3章 務本女塾 Ⅰ 務本女塾の設立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 (一)呉馨と務本女塾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73 (二)務本女塾の設立日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76 (三)設立直後の務本女塾―河原操子の回想を中心に・・・・・・・・・・・・・79 (四)務本女塾における教育課程の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82 Ⅱ 務本女塾の教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84 A「小学」教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 84 (一)尋常科、預科、高等小学科・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 84 (二)務本女塾の「小学」教育(1905 年)と清朝の女子「小学」教育(1907 年)の 比較・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 89 B「中学」教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 96 (一)務本女塾と愛国女学校における「中学」教育の比較・・・・・・・・・・ 97 (二)務本女塾における「中学」教育の再編(1909 年)・・・・・・・・・・・100 (三)務本女塾「1905 年規則」と「愛国章程」(1904 年)の比較・・・・・・ 102 (四)務本女塾卒業生の回想のなかでの両校の比較・・・・・・・・・・・・・105 C「師範」教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106 (一)務本女塾の師範教育と日本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106 (二)務本女塾の師範教育の役割・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109 (三)務本女塾の女子師範教育と清朝の女子師範教育との比較・・・・・・・・111 (四)務本女塾における師範教育の再編(1909 年)・・・・・・・・・・・・・114 D 附属幼稚園・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 117 (一)附属幼稚園の設立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 117 (二)附属幼稚園の教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119 小結・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125 《註》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・127 終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134 参考史料【史料1∼6】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145 参考文献【和文】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 158 参考文献【中文】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 159 参考サイト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・160 史料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161 関連業績一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・162

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序 章 1904 年に上海で創刊された『女子世界』は、創刊号に掲載された<女子世界発刊詞>で、 「女学を振興し、女権を提唱する」ことを謳い、女権の伸長とともに、「女学」すなわち女 子教育の振興を目標として掲げた。その『女子世界』第3 期(1904 年 3 月)に、本論文で 考察の対象とする愛国女学校の校長をのちに務めることになる蒋維喬は、かれの号である 竹荘の名で社説を書いた。その社説「中国女学興らざるの害を論ず(「論中国女学不興之 害」)」1の冒頭でかれは、 地球、人を生んで以来、斯に男女有り。男女は同に天地の間に在り、同に天賦の権利 有り、同に争存の能力有り。故に文明の国は男女並びに重んぜられれば、教化日び進 み、国力日び強し。独り我が中国の女子のみ、五千年来、柔脆・怯弱・黒闇・惨酷の 世界に沈淪す。是れ何の故か。吾れ一言もて之を蔽いて曰く、女学興らざるの害なり と。 といい、本来、女性は男性と同じ権利・能力をもち、文明国では男女同権によって教育も 進み、国力も強くなっているのに、中国の女性だけが五千年来、暗黒の世界に沈んでいる 理由は、女子教育が行なわれていないからであると、女子教育の欠如に警鐘を鳴らした。 その上で、女子教育の欠如が、個人、家族、社会、国家にもたらす「害」について、よ り具体的に論じたのち、 近歳以来、滬濱明達の士、始めて女学校を創設する者有り。務本女塾、前に起こり、 愛国女校、後に起こり、而して文化、宗孟、城東女学社、之に継ぐ。 といい、近年以来、上海の開明的な紳士のなかに、はじめて女学校を創設するものが現れ た。まず務本女塾が設立され、ついで愛国女学校が設立され、その後、文化、宗孟、城東 の各女学校が設立されたと、上海で女学校が相継いで設立されたことに言及したのである。 本論文は、蒋維喬が社説で言及した上海の女学校のうち、愛国女学校と務本女塾を対象 として、上海において展開された近代的な女子教育について考察するものである。考察に 先立ち序章では、まず、中国において近代的な女子教育が行なわれる以前の状況、すなわ ち伝統的な女子教育について概観する。ついで、中国における近代的な女子教育の展開に 関連する先行研究を整理した上で、本論文における研究課題を設定することにしたい。 (一)伝統的女子教育

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周の封建制が衰えて世襲的な身分制が解体し、個人の能力が求められるようになった春 秋・戦国時代には、いわゆる諸子百家と呼ばれる思想家群が輩出したが、多くの弟子を抱 えた思想家たちはある意味で教育家でもあった。諸子百家のなかから孔子を祖とする儒家 が次第に台頭し、漢代には儒教として国家を支える権威として確立する。 こうして儒教的な価値観は伝統中国の規範としての地位を獲得したが、儒教の古典(「経 書」)のひとつである『大学』の八条目のなかに「修身、斉家、治国、平天下」とあるよう に、儒教的な道徳能力は、個人(「修身」)を出発点として、宗族(「斉家」)、地域社会(「治 国」)、そして国家(「平天下」)にまで一貫して求められる性格のものと認識され、儒教的 な道徳能力を有する人格の育成は、伝統中国における教育の最も重要な目標となったので ある。 ついで、隋代に官僚登用を試験で行なう科挙が始まり、その試験科目のひとつに「経義」、 すなわち儒教の古典の解釈を問う科目が含まれたことは、伝統中国における儒教の地位を さらに強固なものとし、科挙に合格して官僚になることを目指した知識人階層の男子は、 幼少のころから儒教的な教育を受けることになる。 こうして儒教的な教育を行なう学校が国家と民間の双方に設立された。特に、明代から 科挙が学校制度と連結され、地方の行政区画である府・州・県に設置された学校の生徒(「生 員」)にならないと、科挙の第一段階である郷試(省レベルの試験)を受験できないことに なった結果、科挙を目指す男子は家庭教育を受けたのち、裕福なものは家庭教師をつけて、 貧しいものは塾にかよって受験勉強に励み、まずは学校の生徒になるための試験(「童試」) の合格を目指した。また、中国各地には、童試や科挙の受験勉強よりも高いレベルで儒教 の古典について研究するために、著名な学者を院長とする書院も設立された。書院には、 官立、私立、半官半民と、さまざまな形態があった。 以上は伝統中国における男子をめぐる教育状況であるが、女子についてはどうだったの か。 伝統中国の規範となった儒教には、女性について、「三従」と「四徳」という言葉がある。 「三従」とは、『儀礼・葬服』に、「婦人には三従の義務がある。故に、嫁ぐまでは父親に 従い、嫁いだら夫に従い、夫が亡くなったら息子に従え」とあり、女性は生涯、父親、夫、 息子といった男性に従うべきであるという内容である。 「四徳」については、後漢の女性で歴史家でもあった班昭がその著『女誡』のなかで次 のように述べている。女性には四つの徳が必要である。一は婦徳、二は婦言、三は婦容、

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四は婦功。婦徳とは、必ずしも才智がとびぬけていないこと。婦言とは、必ずしも口達者 ではないこと。婦容とは、必ずしも顔形がきれいではないこと。婦功とは、必ずしも手先 が人より器用ではないこと。清らかで貞節を守ることを婦徳という。悪口を言わず、人に 嫌われないことを婦言という。服飾がいつもさっぱりして、挙措動作が端正で重々しいこ とを婦容という。専ら紡織に励み、潔らかに酒食を調えることを婦功という。班昭によっ て定められた女性の「四徳」は、歴代の支配者に尊重され、女性の道徳性を判断する際に 最も重要な基準となったのである2。 さらに儒教には「三綱五常」という言葉もある。人間関係の基本的な在り方として、前 漢の董仲舒は「三綱五常」を唱えた。「三綱」とは、「君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の 綱」であり、「五常」とは「君臣に義あり、父子に親あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、 朋友に信あり」であり、いずれも夫婦関係において夫の妻に対する優位を唱えている。 このような儒教的な価値観・道徳観における女性の理想的なあり方について、『隋書・経 籍注』によれば、劉向の『列女伝』、『古列女伝』、班昭の『女誡』、劉歆の『列女伝頌』、曹 植の『列女伝頌』、杜預の『女記』、虞通之の『妬婦記』、王相の『女四書』、宋若昭の『女 論語』など、女性教育の専門書が多く作成されたが、いずれも前述したような、儒教が理 想とする女性の生き方を説き、美徳に生きた女性、悪徳に滅びた女性を例示して女性の教 訓とする内容となっている3。また、これらの書物は、明・清時代に大量に出版され、たと えば、『女誡』、『女論語』、『内訓』、『女範捷録』の合刻本である『女四書』は、日本にも伝 わり、特に『女誡』は日本にも大きな影響をあたえた4。 一般に、女性に対して儒教的な教育が行なわれた場所は、社会と家庭である。儒教的な 女性観は、いわば社会の慣習・風潮となって女性の生き方を制約した。儒教的な女性観に 従う女性は社会によって賛美・顕彰され、逆に逆らう女性は「反社会」的な存在として批 判・攻撃の対象となったが、いずれの場合も女性本人だけでなく家族・宗族を巻き込む形 で賛美されたり、批判されたりした。 こうした社会における規範の要請と密接な関係にあったのが、家庭内における教育であ る。儒教的な女性観は、親から娘に教える形で伝えられた。また、儒教には、「男女内外の 別(「男は内を言わず、女は外を言わず」『礼記・内則』)といい、家庭内のことは女性に任 された側面があるので、たとえば、前述したように、科挙を目指す知識人階層の男子の初 期教育は家庭において母親によってまず行なわれた。 以上のように、伝統中国においては、儒教的な規範にもとづく「三従」「四徳」に代表さ

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れる女性観が強固に存在し、そうした女性観を満たす理想的な女性を「良妻賢母」(中国語 としては「賢妻良母」と表現される)と呼んだ。要するに、中国における伝統的な女子教 育は、儒教的な女性観にもとづき「良妻賢母」の育成を目指すものであった。 (二)近代的な女子教育―研究史 アヘン戦争(1840∼42 年)前後から、伝統的・儒教的な女子教育は変容を余儀なくされ ていく。イギリスとの戦争であるアヘン戦争、英仏両国との戦争である第 2 次アヘン戦争 に清朝は敗北した。その結果、中国は多大な権益を奪われると同時に、伝統的・儒教的な 価値観、中国を中心とする華夷思想的世界観は動揺し始める。 こうして、1860 年代から開始されたのが、洋務運動である。洋務運動とは、西洋の技術、 特に軍艦や大砲などの軍事技術は中国よりも優れているから、中国もそれらを取り入れて 自強を図ろうという運動で、具体的には西洋式の軍艦や大砲などを製造した。そのため、 西洋の軍事技術に通じた人材や外国語を習得した人材の育成、また欧米への留学生派遣も 行なわれるようになる。 洋務運動を導いた思想は、代表的な洋務官僚のひとりである張之洞が言った「中体西用 (「中学為体、西学為用」)」に表現されているように、体制・制度面はあくまでも中国の伝 統的な在り方(「中体」)が優れており、西洋が優れているのは技術面(「西用」)にすぎな いという認識である。しかし、中国の知識人のなかには、体制・制度面においても西洋の 優位を主張する変法思想が次第に台頭してくる。 このようなアヘン戦争以後の政治、経済、文化に及ぶ変化に対応できる人材を育成する ために、中国における伝統的な儒教教育にも変化が現れ、近代的な教育が導入されること になる。ところで、こうした中国における近代的な教育に関する通史的研究5は、男性の教 育が中心で、女性については補足的に言及されるのが通例である。 さて、中国における洋務思想や変法思想の台頭と同時に、より広く西洋文化を中国に直 接もたらしたのが、キリスト教の宣教師であり、特にアヘン戦争後には、プロテスタント (新教)の宣教師であった6。そして、伝統中国における儒教的な女性観を批判して近代的 な女子教育を中国に導入したのも、キリスト教宣教師たちであった。 そこで、盧燕貞、杜学元、熊賢君、崔淑芬による近代的な女子教育を扱った通史的研究7 では、まずキリスト教の宣教師や教会による近代的な女子教育について述べられている。 キリスト教の宣教師・教会による女子教育については、高等教育に関する朱峰の研究8もあ

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るが、本論文でも検討する上海の聖マリア書院については、同書院を運営したアメリカ聖 公会の資料を駆使した林美玫の研究9がある。 こうしたキリスト教の教会女子教育の影響を受けて、富国強兵の立場から西洋式の近代 的な女子教育の導入を提唱したのが、梁啓超ら変法派の知識人であった。そして、梁啓超 の女子教育論を受け止めて、中国人による最初の近代的な女学校を設立したのが、経元善 である。経元善は1898 年 5 月に上海で中国女学堂を設立した。この中国人による最初の近 代的な女学校である中国女学堂については、前掲の通史的研究が言及したのはもちろんの こと、大濱慶子、小野和子、深澤秀男、高橋孝助、夏暁虹、喬素玲、谷忠玉らによる多く の研究10がある。これらの研究によって、中国女学堂が、伝統的な儒教文化教育と西洋文 化の教育によって良妻賢母を育成しようとしたことが解明されている。 ところで、1898 年 9 月の戊戌の政変によって変法運動が挫折した結果、中国女学堂はわ ずか二年という短命で閉校を余儀なくされた。 その後、清朝が教育改革に取り組むようになるのは、義和団事件(1900∼1901 年)後の ことである。すなわち、義和団事件後、実権を掌握していた西太后はようやく改革の必要 性を認め、1901 年 1 月のいわゆる変法上諭から立憲制を目指す一連の改革、いわゆる光緒 新政に着手するが、その一環として教育改革にも取り組むことになる。新設された学堂に ついては阿部洋の研究11、学堂と廃止された科挙との関係については早川敦の研究12、地 方における教育改革については蔭山雅博、高田幸男、宮原佳昭の研究13がある。 また、教育改革を進める際、改革の手本とされたのが、明治日本の教育制度であった。 中国の教育改革と日本の教育制度との関係については阿部洋の研究14、日本の教育制度に ついて中国が行なった視察については汪婉、呂順長の研究15、日本への留学についてはさ ねとうけいしゅう、黄福慶、黄尊三、厳安生、周一川の研究16、中国に招聘された日本人 教師については汪向栄、蔭山雅博の研究17などがある。 日本の教育制度を参考にしながら進められた清朝の教育改革の成果は、1902 年の「欽定 学堂章程」(壬寅学制)を経て、1904 年の「奏定学堂章程」(癸卯学制)として結実する。 「欽定学堂章程」と「奏定学堂章程」については、前掲の通史的な研究をはじめとしてど の研究でも言及され、二つの章程が女子教育についてはほぼ沈黙していたことも前掲の通 史的研究が一応に指摘したところである。 さて、清朝が女子教育を正式に開始するのは、1907 年 3 月に「女子小学堂章程」と「女 子師範学堂」を制定してからである。この女子教育の正式な開始については、当然ながら、

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従来も通史的な研究をはじめ多くの研究で言及されてきた。というよりも、近代的な女子 教育に関するこれまでの研究は、上述の二つの章程をはじめとする清朝の取り組みを中心 に行なわれてきたといってよい。 他方、民間における近代的な女子教育の取り組みについてこれまでの研究では、辛亥革 命(1911 年)前の中国各地にいつ、どのような名前の女学校が誰によって設立されたかに ついて、下表「1902 年∼1907 年女学校一覧表」18のように一覧表として示されて簡単に 説明されたものの、それぞれの女学校についての詳細、すなわち設立の経緯や教育内容に ついてはほとんど解明されていない。その結果、近代的な女子教育の展開をめぐる民間の 取り組みと清朝の取り組みとの関係についてもまったく明らかにされていない。 1902 年∼1907 年女学校一覧表 学校名 創立者 創立年 場所 務本女塾 呉懐疚 1902 上海 上海愛国女学 経元善・蔡元培等 1902 上海 蘇州蘭陵女学 徐江蘭陵 1902 江蘇省蘇州 争存女学 何承畴・顧実于 1902 江蘇省常州 育賢女学 張竹君 1902 広東省広州 培英女学 杜清持 1902 広東省広州 厳氏女学堂 ❋ 厳修等 1902 直隷(今の河北省) 私立公益女学堂 ❋ 馬励芸・杜清持・張竹君等 1902 広東省広州 通州女子師範学堂 劉坤一 1903 江蘇省 銅梁県女学堂 ❋ 黄徳潤 1903 四川省 上海城東女学社 楊士照 1903 上海 湖南女子第一学堂 龍紱瑞・兪蕃等 1903 湖南省 湖南女子第一学堂❋① 陳婉行・童同雪 1903 上海 胡氏女子小学堂 胡和梅 1903 江蘇省無錫 上海崇明女学 (不詳) 1903 上海 蘇蘇女学 蘇英 1904 (不詳)

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淑貞女学 ❋ 曾広鏞 1904 湖南省長沙 山東女学堂 ❋ 王伯安 1904 山東省済南 南昌女学 康愛徳 1904 湖北省南昌 女工伝習所 兪樹萱 1904 上海 速成女子師範伝習所 姚義 1904 上海 敬節学堂 張之洞 1904 湖北省 貞文女学 恵興 1904 浙江省杭州 民立第一女子小学堂 張止峰・毛紹権 1904 天津 旅寧第一女子小学堂❋ 沈鳳楼・張通典 1904 江寧 杭州女学堂 ❋ 高白淑 1904 浙江省杭州 九江民立女学堂 ❋ 徐廷蘭 1904 江西省 湖南第一女子小学堂❋ 龍紱瑞 1904 湖南省 貴陽達徳女学校 ❋ 黄斎生 1904 貴州省 容県龍胆女学 ❋ (不詳) 1904 広西 南通女子師範学堂 張謇 1905 江蘇省 福州鳥石山女塾 ❋ 陳溲庵 1905 福建省 第一幼女女学堂 ❋ 端方等 1905 湖北省 淑慎女学堂 陳氏 1905 奉天 豫教女学堂 ❋ 沈鈞・服部宇之吉 1905 北京 中西医学院 張竹君 1905 上海 競志女学 侯鴻鑑 1905 江蘇省無錫 揚州女工伝習所 呉連民 1905 江蘇省揚州 杭州工芸女学堂 高孫薿 1905 浙江省杭州 私立上海女子養蚕学堂 史家修 1905 上海 蘭儀官立女子小学堂❋ 舒樹基等 1906 河南省 競化女学堂 ❋ 張振塤 1906 安徽省 四川女学堂 (不詳) 1906 四川省 産科女学堂 梅福禄 1906 浙江省杭州 崇実女学堂 (不詳) 1906 北京

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志成女学堂 (不詳) 1906 山東省濰県 北洋女医学堂 天津衛生局 1906 天津 直隷小学 張仲山 1906 直隷 女工師範講習所 張漁卿・姚建勛 1906 四川省 外城女学伝習所 江亢虎 1906 北京 江南女子公学 呂恵如 1906 江蘇省南京 湖南女学 梅氏 1906 湖南省 恵仙女工学 (不詳) 1906 浙江省杭州 幼女学堂 ❋ 林伝甲 1906 黒龍江省 山西女学堂 ❋ 馮済川 1906 山西省 雅閣女校 ❋ 閻培索等 1907 陝西省 開封女学 朱挙宅 1907 河南省 杭州養蚕女学堂 楼文鑣 1907 浙江省杭州 表中の❋は、1902 年∼1907 年の間に各省が設立した最初の女学校である。 以上のような中国における近代的な女子教育の展開に関する研究状況を踏まえたとき、 民間の取り組みを解明することが急務であるが、本論文では、研究の対象地域として上海 に注目し、上海における民間の取り組みを考察する。 周知のように、上海は蘇州の「外港」的な港町だったが、アヘン戦争後の南京条約によ って1843 年に開港すると、中国一の貿易港として発展する。また、上海には事実上、中国 の主権が及ばない租界が設定されたが、上海租界は西洋文化が中国に紹介・導入される際 に最も重要な窓口の役割を果たした。本論文に関係する教育の分野に限っても、上海では キリスト教宣教師が積極的に活動し、多くの教会や教会学校が設立されている。また、情 報の面でも近代的なジャーナリズム、すなわち西洋式の新聞・雑誌はまず上海から始まり、 たとえば近代的な女学校の設立などの教育情報も上海からただちに中国各地に伝えられた。 要するに、「近代的」なものの発展は、教育にかぎらず、ほとんど上海が主導的な地位を占 めていたのである19。 本論文が上海に注目する第二の理由は、前述した中国女学堂との関係である。中国人に よる最初の近代的な女学校である中国女学堂が設立されたのも上海である。中国女学堂は

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短命に終わったが、20 世紀に入ると、中国女学堂を継承する女学校が設立される。それは、 本論文が考察の対象とする愛国女学校と務本女塾である。いずれも1902 年に上海で設立さ れた。序章の冒頭で紹介した蒋維喬の社説が述べたように、また、本論文でも詳細に検討 するように、務本女塾の方が愛国女学校より数か月早く設立された。しかし、本論文の第2 章でまず、愛国女学校を取り上げ、務本女塾は第 3 章で取り上げることにした。その主な 理由は、中国女学堂の設立者である経元善と、愛国女学校の設立者である蔡元培には密接 な関係があったからである。また、本論文では、愛国女学校と務本女塾の比較も行なうが、 「中学」教育を行なった愛国女学校に対して、務本女塾には「小学」教育、「中学」教育、 「師範」教育という三つ教育課程があり、両校を比較する便宜上の利点からも、まず愛国 女学校、ついで務本女塾の順で考察することにする。 中国女学堂について多くの研究があることは前述したが、愛国女学校と務本女塾につい ては、前述した通史的な研究以外にも、その存在に簡単に触れる研究20があるものの、詳 細についてはほとんど研究されていない。まず、愛国女学校については、設立者がのちに 北京大学の校長になる蔡元培である関係で、清末における蔡元培の革命運動との関連で愛 国女学校に言及されることはある21が、愛国女学校の設立経緯や教育内容の詳細にまで深 く考察されたことはない。ただ、愛国女学校の設立日については、宋培基・銭斌の研究22 ある。他方、務本女塾については、設立者の呉馨が蔡元培ほど有名ではなかったこともあ り、愛国女学校以上に研究されていない。楊玉珍、姜波、杉本史子、姚霏の研究23で一部 言及されているが、設立の経緯や教育内容の詳細はまだ解明されていない。 以上で述べたような研究状況を踏まえて、本論文では、清末上海の民間における近代的 な女子教育の展開について、まず第1 章で、1898 年にはじめて中国人の経元善によって上 海で設立された近代的な女学校である中国女学堂の設立経緯と教育内容について、聖マリ ア書院などの教会女学校との関係にも留意して、先行研究を参照しながら概観する。その 上で、1902 年に上海で設立された二つの女学校について、第 2 章では愛国女学校について、 第3 章では務本女塾について、それぞれの設立経緯と教育内容を詳細に考察するとともに、 両校を比較し、清朝の女子教育への取り組みとの関係にも留意することにより、中国にお ける近代的な女子教育の黎明期にみられた諸特徴を解明したいと考えている。

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註 1『女子世界』第一冊、第三期、易行責任編輯『中国近現代女性期刊匯編』線装書局、2006 年、175∼181 頁。 2 崔淑芬『中国女子教育史―古代から一九四八まで―』中国書店、2007 年、20∼21 頁。 3 同上、25 頁。 4 同上、37∼38 頁。 5 陳青之『中国教育史』商務印書館、1937 年。陳景磐編『中国近代教育史』人民教育出 版社、1979 年。 6 顧長声『伝教士与近代中国』上海人民出版社、1981 年。 7 盧燕貞『中国近代女子教育史』文史哲出版社、1989 年。杜学元『中国女子教育通史』 貴州教育出版社、1995 年。熊賢君『中国女子教育史』山西教育出版社、2006 年。崔、 前掲書。 8 朱峰『基督教与近代中国女子高等教育:金陵女大与華南女大比較研究』福建教育出版 社、2002 年。 9 林美玫『婦女与差伝:19 世紀美国聖公会女伝教士在華差伝研究』社会科学文献出版社、 2011 年。 10 大濱慶子「清末中国における女子教育近代化と経正女学堂」『人間社会研究科紀要』(日 本女子大学)第4号、1998 年。小野和子「経元善と中国女学堂」『女性歴史文化研究所 紀要』(京都橘女子大学)第8号、1999 年。深澤秀男『戊戌変法運動史の研究』国書刊 行会、2000 年。高橋孝助「「公益善挙」と経元善―人的な集積とネットワーク」、日本 上海史研究会編『上海―重層するネットワーク』汲古書院、2000 年。夏暁虹『晩清女 性与近代中国』北京大学出版社、2004 年。喬素玲『教育与女性:近代中国女子教育与 知識女性覚醒(1840∼1921)』天津古籍出版社、2005 年。谷忠玉『中国近代女性観的 演変与女子学校教育』安徽教育出版社、2006 年。 11 阿部洋『中国近代学校史研究―清末における近代学校制度の成立過程』福村出版、1993 年。 12 早川敦「清末の学堂奨励について―近代学制導入期における科挙と学堂のあいだ」『東 洋史研究』第62 巻第 3 号、2003 年。 13 蔭山雅博「清末江蘇省における「日本型」学校制度の導入課程―張謇の活動を中心とし て」『国立教育研究所紀要』第121 号、1992 年。高田幸男「清末地域社会における教 育行政機構の形成―蘇・浙・皖三省各庁州県の状況」『東洋学報』第 75 巻第 1・2 合併 号、1993 年。同「清末江蘇における地方自治の構築と教育会―江蘇教育総会における 地域エリートの「改造」」『駿台史学』第111 号、2001 年。宮原佳昭「清末湖南省長沙 における民立学堂設立と新教育界の形成について―胡元倓と明徳学堂を中心に」『東洋 史研究』第62 巻第 2 号、2003 年。 14 阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版、1990 年。 15 汪婉『清末中国対日本教育視察の研究』汲古書院、1998 年。呂順長『清末中日教育文 化交流之研究』商務印書館、2012 年。 16 さねとうけいしゅう『中国人日本留学史(増補版)』くろしお出版、1970 年。黄福慶『清 末留日学生』、中央研究院近代史研究所専刊(34)、中央研究院近代史研究所、1975 年。 黄尊三(さねとうけいしゅう・佐藤三郎訳)『清国人日本留学日記、1905−1912 年』 東方書店、1986 年。厳安生『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』岩波書店、1991 年。周一川『中国人女性の日本留学史研究』国書刊行会、2000 年。 17 汪向栄(竹内実監訳)『清国お雇い日本人』朝日新聞社、1991 年。蔭山雅博『清末日本 教習与中国教育近代化』雄山社、2011 年。 18 崔、前掲書、174∼177 頁、杜、前掲書、331∼332 頁を参照して作成。なお、「一覧表」

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中の❋①の「湖南女子第一学堂」は「宗孟女学堂」が正しい(杜学元『中国女子教育 通史』貴州教育出版社、1995 年、329 頁)。 19 劉恵吾主編『上海近代史』上冊、華東師範大学出版社、1985 年。 20 前掲の通史的研究のほか、たとえば、楊潔「女子教育的最初嘗試―従上海女学看中国女 子教育的早期発展」『浙江学刊』2001 年第 6 期。小林善文『中国近代教育の普及と改 革に関する研究』汲古書院、2002 年。 21 たとえば、桑兵『清末新知識界的社団与活動』生活・読書・新知三聯書店、1995 年。 22 宋培基・銭斌「愛国女学成立時間考辨」『史林』(上海社会科学院歴史研究所)2006 年 第3 期。 23 楊玉珍「清末中国における幼稚園教育の導入」『筑波大学教育学系論集』第16 巻第1号、 1991 年。姜波「日中両国における近代女子教育」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』 第3 号、1997 年。杉本史子「辛亥革命期の湯国梨と務本女塾―女性教員、女性運動家 として」『立命館文学』第608 号、2008 年。姚霏『空間、角色与権力―女性与上海城 市空間研究(1843−1911)』上海人民出版社、2010 年。

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第1 章 中国女学堂 Ⅰ 中国女学堂の設立 (一) 教会女学校の設立―聖マリア書院を中心に― (1) 西洋近代女性観の中国への伝播 中国の伝統的な女子教育に大きな影響を与え、その近代化を促したのは、広く言えば西 洋文化であり、直接的には西洋近代における女性観であった。そのような西洋文化、近代 的な女性観を中国にもたらすことに大きな役割を果たしたのが、キリスト教の宣教師であ り、教会だった。 アヘン戦争(1840∼42 年)の敗北により、清朝は南京条約と一連の不平等条約を締結さ せられ、上海など五港の開港、領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇などの権益を、 イギリスをはじめとする西洋諸国に認めた。ついで、第2次アヘン戦争(1857∼60 年)の 敗北により、1858 年に天津条約、1860 年に北京条約を締結させられた結果、清朝は西洋諸 国にアヘン貿易の合法化、開港場の追加、内地旅行権などの権益を与えた。 西洋諸国が獲得した権益には、キリスト教宣教師による内地布教と学校設立の権利も含 まれていた。統計によると、アヘン戦争後の30 年間における在華宣教師の人数は毎年増加 し続け、1845 年に 31 人だったのが、1848 年に 67 人、1855 年に 75 人、1858 年に 81 人、 1864 年に 189 人、そして 1874 年には 436 人にのぼった。これらの宣教師の中には多くの 女性も含まれていた。欧米の女性解放運動はすでにフランスで1789 年 8 月 26 日に「人お よび市民の権利の宣言(人権宣言)」が発せられてから始まっていた。しかし、これは男性 の権利宣言にすぎず、女性と女性市民の権利は排除されていた。これを最初に批判し、「女 性および女性市民の権利宣言」を書いたのが、詩人、劇作家であるオランプ・ドゥ・グー ジュであった。彼女の宣言以後、女性の権利の要求は、教育、経済、政治的諸権利など広 範囲にわたって展開され、女性の私法上の権利も、1792 年の法律で部分的に実現した1 こうして西洋諸国では女性解放運動が行なわれて女性の地位、権利は著しく向上した。そ して、権利を獲得し、地位を向上させた女性たちは宣教師として中国の社会に入り、中国 における女子教育の近代化においても重要な役割を果たすことになる。

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(2)教会女学校の創建と増加 アヘン戦争後の南京条約で開かれた5つの港である広州、廈門、福州、寧波、上海と、 イギリスの植民地となった香港において宣教師たちは布教しながら、教会に附属する女学 校を設立していった。最も早く創建された教会女学校は、1825 年にイギリス人女性グラン ト(Miss Grant)がシンガポールに開いた女子学塾であったが、中国においては、1830 年 代、アメリカ人宣教師エリザ・ブリッジマン(Elizah Bridgman)によって広州で創建され た女学校であった。ついで1844 年、イギリスの「東方女子教育協進社」の社員でもあった 宣教師のアルダーシイ(Miss Aldersey)は寧波に女子学塾を設立した。その後、教会学校 が続々と設立され、1847 年から 1860 年にかけて 12 ヵ所の教会学校が設立された2。こう して、西洋諸国の宣教師によって教会女学校が設立されると、中国の伝統社会、そして、 女子教育にも大きな変化が起こることになる。 ところで、初期の教会女学校は非常な困難に直面した。長く続いた閉鎖的な女子教育、 特に「才能がないのが女性の徳である(「女子無才便是徳」)」という伝統的な考え方が社会 に浸透していたからである。古来、儒教の教育思想では道徳教育と人格教育を重んじ、孔 子の儒学、孟子の仁学などが教育主旨となっていたが、それは科学的、キリスト教的な教 育を受け入れ難いものとしていた。その結果、最初の教会女学校では授業料から食事代ま で全て無料としたにもかかわらず、入学者数は極めて少なかったのである。 第 2 次アヘン戦争で天津・北京条約が締結された後、教会学校はさらに増え、宣教師の 布教活動も一層強まった。教会学校は中国の沿海地域だけではなく内陸部にも設立され、 統計によると、1860 年から 1875 年までに、教会学校の総数は約 80 ヵ所に達し、そこに学 ぶ学生数も 2 万人に上るようになった。この時期における教会学校は、小学校が中心にな っていたが、中学校も幾つが現れて、女学校も増加した3。そして、教会女学校は、中国の 女子教育に新風を吹き込み、西洋文化が中国の伝統文化に大きな影響を与えることになる。 (3)聖マリア書院の設立 1881 年、上海で聖マリア書院(St. Mary’s Hall)が設立された。以下、聖マリア書院に ついては、聖マリア書院設立50 週年を記念して編纂された「聖瑪利亜女書院校史」4と林 美玫氏の研究5に主に拠りながら述べる。 さて、聖マリア書院を設立したのは、アメリカ合衆国のプロテスタント団体であるアメ リカ聖公会(The Protestant Episcopal Church in the United States of America)である。 1881 年、アメリカ聖公会のシェレシェウスキー主教(Bishop Schereschewsky)は、俾文

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女学(The Bridgman Memorial Schools for Girls)と文記女学(Emma G. Jones Memorial School for Girls)を合併して聖マリア書院を設立したのである。

聖マリア書院の前身のひとつである俾文女学は、その英文名にあるように、前出したア メリカ聖公会に属するエリザ・ブリッジマンによって1861 年に亡くなった夫であるアメリ カ公理会の宣教師エリヤ・ブリッジマン(Elijah C. Bridgman)を記念して同年に上海で 設立されていた。また、もう一つの前身である文記女学もその英文名にあるように、アメ リカ聖公会のエマ・ジョーンズ(Emma G. Jones)によって 1851 年に上海で設立されて いた。 設立当時の文記女学には入学者があまり来なかったので、授業料を無料にした上で、お 金や服までも提供した。それでも学生がこなかったという。その後、エマ・ジョーンズが 病気のため帰国したので、キャサリン・ジョーンズ(Catherine Jones)が引き継いだ。しか し、南北戦争の勃発で経費が不足し、また1863 年に痘瘡が流行して学生だけでなく、キャ サリン・ジョーンズも亡くなったので、文記女学は一時閉校となった。その後、1872 年に 再開し、ネルソン(M. C. Nelson)が校務を担当し、黄宗娥が補助した。もう一つの俾文女 学は、1872 年にエリザ・ブリッジマンが亡くなったので、トムソン(Rev.E.H.Thomson) が引き継いでいたが、1881 年に文記女学と合併して聖マリア書院となったのである。同じ アメリカ聖公会が上海の梵王渡に設立していた聖ジョン書院(St.John’s College)の近くに 新しい校舎を建て、黄宗娥が校長となった。当初の学生は40 人あまりで、そのうちには文 記女学からの11 名、俾文女学からの 9 名が含まれていた。 1881 年の設立以後、辛亥革命(1911 年)までの聖マリア書院の歴史を年表風に概観する と、次の通りである。 1885 年、育嬰堂を附設。中文名は「梵王渡玉成堂」、英文名は、St. Mary’s Orphanage. 1888 年、新校舎を附設。 1889 年、黄宗娥校長は学内に伝道のため「清心会」を設立。 1890 年、黄宗娥校長が聖ジョン書院の校長と結婚したため、ドッドソン(S. L. Dodson) が校長に就任。このころの学生数は32 名。 1900 年、正式な第 1 回卒業式を挙行。卒業生は、朱静貞ひとり。 1902 年、「思丁堂」(「丁瑪莉女士紀念大楼」)を設立。 1903 年、「琴科」(音楽部、Music Department)を設置。従来からの英文部(English Department)、中文部(Chinese Department)と合わせて3部の教育課程とな

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る。 1908 年、「師範科」を増設。「琴科」の第 1 回卒業式(卒業生 2 名) 1910 年、師範科の第 1 回卒業式、卒業生は 10 名。 (二) 聖マリア書院の教育 他の教会女学校と同様、聖マリア書院の教育内容は3種類に分けることができる。すな わち、キリスト教教育、西洋の自然科学教育、そして、中国の伝統的儒教文化教育である。 まず、第1のキリスト教教育について、『聖経』(バイブル)を始め、『真理回答』・『猷太 地理史』・『二約叢書』などを重点的に教えている。『聖経』は最も重要な授業であり、毎日、 他の授業よりも多くの時間をかけている。また、日曜日の礼拝会、祈祷会、勉励会などに 学生全員が参加しなければならなかった。 キリスト教会が設立した学校におけるキリスト教教育について、1890 年に、アメリカ聖 公会の宣教師で聖ジョン書院の校長だったフランシス・リスター・ホールスポット(Francis Lister Hawlspott)は、「教会学校は教会の布教活動のために宣教師を育成することを方針 とし、中国人の宣教師を育成して中国における将来の指導者とし、これからの中国に西洋 の影響を与えるべきである」と述べ、また、聖マリア書院の校長スター(Starr)も 1895 年の報告書のなかで、「本学の目的は優秀な中国人の女性キリスト信者を養成することであ る」と述べている6。 したがって、聖マリア書院の学生は現実に、キリスト教信者の娘にほぼ限られており、 社会において反キリスト教の風潮が強く、反キリスト教事件(「仇教案」)も頻発していた 当時の中国で入学生の確保は、前述した文記女学の事例が示すように、大変な困難を伴っ ていた。そこで、重要な役割を果たしたのが、1885 年に附設された育嬰堂の存在である。 中国では「溺女」といって女児を間引く慣習があり、女児の捨て子もみられた。聖マリア 書院の育嬰堂は、これら捨て子の女児を収容して育てるとともに、彼女らが就学年齢に達 すると、聖マリア書院の学生としたのである。 第二の教育内容は、西洋の自然科学教育である。聖マリア書院では、宣教師が編纂した 『科学入門(Science Primer)』を教科書として、自然科学の知識を教授した。また、世界 の地理や歴史も教えた。 こうしたキリスト教教育と西洋の自然科学教育は、広く西洋のキリスト教文化を中国に もたらすとともに、西洋近代の女性観をも伝えることになる。その結果、西洋の男女平等

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思想やアメリカの女性解放思想を伝えた聖マリア書院の教育は、「三従」「四徳」「才能がな いのが女性の徳である」という中国の伝統的・儒教的な女性観を否定し、女性における「才」 の重要さ、女性の権利を教えた。聖マリア書院をはじめとする教会女学校の教育は、教会 女学校がキリスト教宣教師たちと連携して進めた纏足に反対する運動7とともに、19 世紀末 における中国人女性の解放、知的な女性人材の養成に大きな影響を及ぼしたのである。 しかし、以上のような教育内容と一見矛盾するのが、第三の教育内容である中国の伝統 的儒教文化教育の存在であり、聖マリア書院の教育が、「中西混合式」と称される所以であ る。聖マリア書院では、儒教の古典である「四書五経」のほか、『女考経』や『列女伝』の ような儒教的女性観にもとづく書物をテキストとした教育も行なっていた。また、刺繍、 裁縫、編み物、織物など、いわゆる「女紅」も教授したり、英語と標準中国語のほかに上 海方言も通用させたりするなど、聖マリア書院の教育方針には、中国の伝統や上海現地の 文化・慣習に適応する側面も見られた。伝統文化が強固に存続する中国社会においてキリ スト教を布教することの難しさ、そして、何よりも中国人女性のキリスト教信者や宣教師 を育成するために入学生を確保することの困難さに直面していたことが、聖マリア書院を はじめとする教会女学校にこのような適応主義を採らせたと考えられる。 (三)梁啓超・経元善と中国女学堂 (1) 梁啓超の女子教育論 キリスト教宣教師がもたらした西洋文化を受け入れ、技術面だけでなく制度面でも西洋 の優越を認めたのが変法派であり、その変法派の中国人によってはじめて設立された近代 的な女学校が中国女学堂である。そして、変法派のなかでも中国女学堂の設立に思想的な 影響を与えたのは、梁啓超である。梁啓超(1873∼1929 年)は広東省新会県の出身、字は 卓如・任甫。号は飲冰室主人・任公。日本名は吉田晋。近代中国の啓蒙思想家・ジャーナ リストで、変法運動の推進者である8。かれは1897 年に「倡説女学堂啓」で次のように述 べている。 ・・・泰西の女学は、都鄙駢わせてみちており、医を業とし、蒙に課すのは、女師を 専らとしている。絶域の俗にあるといっても、はるかに先王の遺制のようであり、女 学の功は、時に盛んである。外国から宣教師が来ると、中国が苦しみに溺れていくの を憫み、盛んに義学を建て、中国の児童を求め、教会はいたる所、女塾と軌を接して

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いる。それは、他人がまさに中国人が苦しみに溺れているのを助けようとし、中国人 は、みずからに梏をしているようなものであり、・・・中国の羞である9。 すなわち、梁啓超は、外国では女学が盛んであり、女子の医者や、教育者がいること、 また宣教師が中国に来ると、教会と女学校を建てていることを肯定的に述べながらも、そ れは中国の羞であるとも述べている。しかし、これが中国にとって羞であるかどうかは、 現在の視点から検討する必要があると思う。確かに、西洋諸国は教会を利用してキリスト 教文化で中国の伝統的な文化に影響を与えようとしたのかもしれないが、結果として中国 における女子教育の近代化に積極的な影響を与えたとも言える。だから、今の視点から考 えてみると、決して中国の「羞」ではなく、むしろ中国にとって「幸」だったのではない だろうか。 さらに、梁啓超は続けて次のように述べる。 ・・・男女は、平等の権利を持っており、米国が盛んとなったのは、女学が流布した からであり、日本が強くなり、国を興し、民を智からしめたのは、ここに始まらない のではない。三代女学の盛は、どうして米、日に遜する所があろうか。遺制は綿々と して居り、流風は、まだうたかたとはなっていない。だから前代の遺規を復し、欧米 の美制を採り、先聖の明訓にのっとり、保種の遠謀を急ぐならば、海内の魁桀がどう して游民、土番の害う者を恫すことが無かろうか。人形のように苦しみに溺れ、どう して瞳目坐視することを忍ぶことができようか10。 すなわち、日米が強国になったのも男女平等の権利にもとづき女学が盛んになったから だと彼は見ており、女学を盛んにすべき理由として梁啓超の富国強兵策がうかがわれる。 周知のように、梁啓超は、1896 年 7 月に変法派の旬刊誌『時務報』を創刊し、政治改革の 必要性を広く知識人たちに訴えた。『時務報』のなかで、とりわけ重要な意味をもったのが 教育改革であるが、このうち女子教育について論じた「論女学」が掲戴されたのは、1897 年3 月から 4 月にかけてのことであった。 「論女学」で梁啓超は次のように論じている。人間には「利を生む人」と「利を分かつ 人」の 2 つがある。「利を生む人」とは、労働に従事してモノを生み出す人であり、「利を 分かつ人」とは分配をうけモノを消費する人である。中国の人口の半ばを占める女性はこ の「利を分かつ人」であって、生産的な労働に従事することなくモノを消費することばか り、他人に養ってもらわなければ生きていけない。働くものが優越した立場に立つことは 当然で、男女の不平等はここに起因する。中国の貧困は、このように 1 人の労働に何人も

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寄生していることにある。国を強くするためには、女性に教育を行ない、職業をもてるよ うにしなければならない11。 このように、梁啓超は富国強兵を達成するために女子教育がいかに必要であるかを説い た。それは女性の権利に根ざした女子教育であるよりは、むしろ富国強兵のため、また児 童の未来を託す母親教育のためであった。 そして、中国女学堂を創建した経元善は、1898 年に『女学集説附』で次のように述べて いる。 中国宜開女学之議、吾友香山鄭陶斎観察已于盛世危言之極透、元善服膺非一日矣。新 会梁卓如孝廉時務報第二十三冊、二十五冊刊登女学論、有未経人之処、読者咸服其精 詳、上海女学之設、源実筆于這12・・・ すなわち、梁啓超は『時務報』第23 冊、25 冊に女学論を連載したが、これはまだ誰も言 わない所を言ったものであり、読者はその論理の精密さに感服した。上海の女学堂の設立 はこれに淵源すると経元善は述べている。 以上で述べたように、中国女学堂の設立は、梁啓超ら変法派が提案していた女子教育を 経元善が実践しようとしたものであった。 (2)中国女学堂の創設者経元善 経元善(1841∼1903 年)は、清末上海の銭荘(民間の金融機関)の経営者、洋務企業の 経営者、のち変法運動を提唱した社会改革者である。浙江省紹興府上虞県の生まれ。字は 蓬山、蓬珊、号は居易子、小蓬池主人。父は銭荘を経営し、茶の貿易で巨富を築き、その 資産を社会の慈善事業に寄付し続け、清朝から表彰され、知府の肩書きを得た。 このような家庭環境のなかで成長した経元善は学問を好み、社会活動に強い関心を持っ ていた。そして、父の死後、銭荘の経営を引き継ぐと、積極的に慈善事業として寄付活動 を展開した。こうした活動の先頭に立って商人たちに呼びかけ、その実力と組織力によっ て上海金融業界の重鎮となり、1883 年に上海南市銭業公会董事、89 年には北市銭業界の董 事も兼任した13。このように、彼は、父から継承した金融業界の有力者、慈善事業者とし て上海社会における地位を確かなものにしていたのである。 また、その後の慈善活動には、多少オーヴァーラップしながらも、次々に新しい「善士」 が加わり広がっていた。拠点も、善堂・銭荘から招商局・電報局へと拡大していった。救 済の対象も一時的・重点的なものから、深刻な状況が生ずれば、ただちに拠点のうち幾つ かがこれに対応するという、恒常的な救済活動を行なうようになった14。

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しかし、彼は湖北省の洋務運動(湖北織布局)について、「官気は上海よりもひどい」と 失望し、官僚の腐敗と独占がいかに事業の近代化を阻んでいるかを、身をもって体験した という15。このような状況のなかで、彼は人材育成の必要性を痛感し、教育事業に着手し た。彼は1899 年に友人に宛てた手紙(「致鄭陶斎、楊子萱、董長卿論 女公学書」)のなか で次のように回想している。 中国には、日本の伊藤博文・大隈重信・陸奥宗光のような、体・用ともに優れ富国強 兵の策に秀でた人物がいません。かつて曾国藩は最初の留学生を率いてアメリカに赴 かせかせましたが、・・・果たして優秀なものは少なく、せいぜい通訳の任に当れるに すぎませんでした。・・・そこで、根本的な解決を考えると、留学生の派遣だけでは駄 目だ、と思いました。教師の質も悪くなってこれでは救済は難しい。聞く所では西洋 の教育では100 のうち、母親によるものが 70、友人によるものが 20、先生によるもの は僅かに10 でしかないそうです。この時期の幼児教育についてはすべて母親による教 育が基礎であることがわかります。母親の教育が必要ならまず女子教育をやらなけれ ばいけません16。 また、彼は「西洋の女性は殆んどよく勉強しているので、国も強くなった。わが国は自 強を求めるのならば女学校を設けなければならない。・・・私は思い上がっているかも知れ ないが、同志の者の力を借りて先ず上海で女学校をつくることから始め、徐々に全国に広 めようと思っている」と女学校創設の動機を述べた17。 (四)中国女学堂の設立経緯 1897 年秋、中国女学堂を創設するための集会が 4 回にわたって行なわれた。 (1)第1 回集会(光緒二十三年十月二十一日、西暦 1897 年 11 月 15 日) 出席者は、『事務報』・『蘇報』などに関係するジャーナリスト、変法派の知識人、変法派 に好意を寄せる官僚など約 50 名で、「紳商大会」と銘打たれ、女性はひとりも参加してい ない。この集会で議題になったのは、中国女学堂創設のための資金募集とその運営であっ た18。また、「光緒二十三年十月二十一日(1897.11.15)滬上創弁中国女学一品香会議第一 集」には、「凡銀銭事公議、悉与興仁里寿康荘為往来、而請泥城橋‶不纏足会″代司出納・・・」 19とあり、資金募集については、この事業が民族を強化し孔子教を保つ上で未だかつてな い大善挙だとして、「強種保教」を善挙のひとつと位置づけ、「達官」「巨商」らの善士たち が義捐金を寄せることを期待している。運営について、経理を担当するのは、不纏足会の

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経理(帳房)で、金銭の出納には、経元善・康広仁・梁啓超の 3 人のサインが必要で、銭 荘の寿康荘に送って金銭を支出するとされた。 また、「議堂宇、既公定上海南桂別荘墅里、赶緊絵就屋図一幅、遍呈公鑑。外盖華房、内 用西式装飾、庶幾中西合璧・・・」20とあり、女学堂は、上海の城南の桂墅里に設立され、 外観は中国風建築、内装は西洋風である。そして、教室は当面3 教室、収容人数 60 人。こ の月の26 日に起工し、翌年 3 月の完成が見込まれた。 さらに、「議本堂之設、章程第一条、堂中一切皆用婦女為之」21とあり、女学堂ではその 章程の第一条に、女学堂の人員はすべて女性を当てると規定された。また、後日、寄付に 応じた官僚の夫人や令嬢に集まってもらい、開学の準備会を開き、ミッション・スクール の教員たちも来賓として招待する、という申し合わせがなされたという22。 そして、「議女学現創于上海、亟宜造就師範人才、三数載後、得可以覚後覚者若干人、即 当勉力推広」23とあり、この女学堂は、教師となる人材を育成するためのもので、3、4 年 後には、義捐金の集まった地方から順次、同様の女学堂を中国各地に設立するとされた。 このように、経元善の構想は上海という一都市に限られず、広く中国全体に向けられてい たのである。 (2)第2 回集会(光緒二十三年十月二十七日、西暦 1897 年 11 月 21 日) 「光緒二十三年十月二十七日(1897.11.21)滬南桂墅里池上草堂会議第二集」には次のよ うに記載されている。 「本日到者、曾重伯太史、陳敬如軍門、厳小舫、鄭陶斎両観察、施子英、経蓮山両太守、 康幼博通守・・・」24。今回の集会は比較的小規模なもので、参会者は曾広鈞・陳季同・ 厳信厚・鄭官應・施則敬・経元善・康広仁の 7 人である。これが女学堂設立の中核メンバ ーと思われる。また、陳季同については、妻のフランス人頼媽懿が女学堂の建設に中心的 な役割を果たしていた。陳季同はこの時、フランスでの経験に鑑みて女学堂の規則の原案 を妻頼媽懿に依頼し、彼女の提案に基づいて具体的なカリキュラムについて意見を述べた。 この後は、女学堂の華提調(中国人教頭)に沈瑛、洋提調(西洋人教頭)に頼媽懿の就任 をそれぞれ依頼することが決まったという25。 (3)第3 回集会(光緒二十三年十一月八日、西暦 1897 年 12 月 1 日) 第 3 回集会の前、経元善の依頼によっておそらくアメリカ監理会の宣教師ヤング・アレ ン(Young J. Allen 1836∼1907 年)が奔走し、上海在住の外国人を集めた茶話会がもたれ た。最初は弁護士担文(ドラモンド)の夫人、ついでスペイン領事夫人主宰によるもので

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(11 月 7 日)、中国人と外国人の双方が招待された。この席で中国側は外国人夫人たちの協 力を要請し、大いに激励を受けたという26。 そして、翌日の集会は、女学堂の創立に関わっている人々の妻、または子女が会する集 会で、おそらく男女の参加が生む様々な嫌疑を避けるため、男性はひとりも参加しなかっ た 。 集 会 そ の も の が ど の よ う に 進 行 し た か に つ い て 、「 光 緒 二 十 三 年 十 一 月 初 八 日 (1987.12.1)内董事桂墅里会商公宴駐上海中西官紳女客第三集」には、「据提調沈女史函称: 席散已晏、諸位太太小姐均不及発議、允俟十三大会各抒抒所見。惟康小姐文才敏捷、援筆 立論、古人男女并重、其学為人之道一也・・・」27とあり、閉会になって宴会が始まった が、夫人、令嬢たちはなかなか発言しようとしないため、13 日の大会で各自意見を述べる ことになった。ただ、康有為の令嬢(康同薇)のみは、なかなか文才があり、筆を執って 次のような意見を述べたという。 古代では男女をともに重んじて、人間としての道を学ばせようとした。そこで、『詩経』 は国風を最初に置き、『礼記』は『内則』において女性の行うべき道を説いたのである。 時代は既に変わったとはいえ、学問の道において男女は同じはずだ。西洋では男女と もに6 歳で義務教育の制度を敷いているし、日本では女学生が 202 万を越え・・・堂々 の中国を以てして女学堂がない、というのはまことに恥ずかしい限りである28。 (4)第4 回集会(光緒二十三年十一月十三日、西暦 1897 年 12 月 6 日) 4 回目の集会は女性たちの最初の大会であり、参加者はすべて女性で併せて 122 名であっ た。 大会開催の通知は、11 月 12 日付けの上海の新聞『申報』に掲載された。参会者は西洋人 4、50 名、中国人が 100 人程度の予定で、午後 2 時に中国人の女性が入場、3 時に西洋人の 女性が入場する順番になった。この集会は「一己の私宴ではなく」「天下の大局」に関わる 公事であり、「中国と西洋の友好・教化・大同の誼」を通じる好機である。官僚の夫人のみ ならず、広く「上海在住の官紳・士商の名門・良家の夫人、令嬢」にも参会を期待して、 新聞でのアピールとなった。会議は、経元善の夫人魏氏、梁啓超夫人李端蕙、女学堂の華 提調沈瑛、洋提調頼媽懿らによって進められた。午後 3 時開会、リトル夫人らが来賓挨拶 を行った後、沈瑛が、甥の妻章蘭の協力を得て準備した女学堂章程を披露し、参加者の意 見を求めるという形で進められた。女学堂章程は梁啓超の作成した章程とは違って、当時 の女子教育に対する一般の人々の認識を示すものである。女学堂の生活について具体的で あるが、女学堂の理念やカリキュラムの内容については殆んど語っていない。また学生が

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下女を連れて入学することを予想しており、官僚や裕福な商人の子女であればそれが当然 と考えられていたのであろう。女性の生活の自立がなされないまま、女子教育が始まろう としていた29。 ところで、今回の集会では、できる限りの中国の女性たちを動員しようとしたが、参会 者は半数近くが西洋人女性だった。100 人予定された中国人の女性は予定通りには集まらな かった。彼女たちは、康同薇らごく一部を除いて集会で発言するものは少なく、むしろ集 会の中で大きな位置を占めたのは、宣教師などの西洋人の妻たちであったという30。 こうして中国女学堂がいよいよ設立されることになると、当初の意気込みとは違って、 社会の女子学校教育に対する見方は冷淡であった。女学堂を設立するための集会に参加し た人たちは、それぞれ母・妻・妾などの名において、女学堂開設の基金と運営費を寄付し、 その寄付額は『時務報』『申報』『知新報』などで公開されたが、これだけでは不十分であ った。そこで盛宣懐に、当時の電報局の管理下にあった水害救済基金の利息分から寄付金 を援助してもらいたいという要請がなされた31「光緒二十四年(1898)経元善在上海議設 女学堂禀南北洋大臣稿」には次のようにある。 ・・・為禀報創設女学堂、請在備賑生息項下歳拔規銀三千両・・・以応創設女学堂各 項用款。一俟募集有余裕、即行停止32。 すなわち、女学堂の経費が不足しているため、備賑生息銀の項目の中から毎年規銀 3 千 両を支出し、寄付が大いに集まって余裕がでれば、直ちに停止することを経元善は要請し ている。 このような困難はあったが、1898 年 5 月 31 日、中国人による初めての女学校である「中 国女学堂」が上海で正式に開設された。当初、女学堂は上海城南桂墅里にあるために「桂 墅里女学会書塾」と命名されたが、のちに清朝政府に対して学校の公印を申請する際、「中 国女学堂」と改称された。最高責任者は変法派の経元善、その夫人が総務を担当したので、 女学堂は「経正女塾」あるいは「経氏女塾」とも呼ばれている33。

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Ⅱ 中国女学堂の教育 (一)教育内容 開校初年度における中国女学堂の生徒数は少なかった。前期は16 名であったが、後期は 20 名増えて 36 名に達した。2 年目は 70 名を超えた。中国女学堂の教育方針については、 1897 年に決定された「女学会書塾開館章程」によれば、「新たな女性経道を開拓、民智を高 め」、「女徳を養成、身体を健康で優れた賢母、賢婦を育成する」と規定されている。 この教育方針に基づく教育内容は、中国の伝統的儒教文化教育と西洋文化教育の二種類 に分けることができる。中国の伝統的儒教文化教育では、主に『女孝経』、『幼学須知句解』、 『内則衍義』、『女四書』、唐詩、古文などを教えているが、その後また、『儀礼』、『詩』、『書』、 『記載内則』、『女誡』、『女訓』および『女講経』、『閨範』、『論語』などの儒教に関するも のが増えた。その目的は、孝、敬、礼、教、慈、勤、譲、学など八つの女徳基準を生徒に 学ばせ、崇高な婦徳を持つ良妻賢母を養成することであった。 他方、西洋文化教育は、算術、地理、英文、絵画、医学のほか、写経、体操、琴学、紡 織、裁縫などであった。学科は数学、医学、法学、師範学の4科に分かれ、西洋的な構成 となっていた。また、中国人による中国初の女学校であるため、学校の管理は大変厳しか った。まず、教員も職員も全て女性であること、男性は校内への立ち入りを禁止された。 生徒は8 歳から 15 歳の「良家」出身の女子とされ、奴婢出身の子は受け入れなかった34 (二)聖マリア書院の教育との比較 中国女学堂の教育内容には、前述した聖マリア書院の教育内容と共通した点が見られる。 すでに述べたように、聖マリア書院の教育内容は、キリスト教教育、西洋の自然科学教育、 中国の伝統的儒教文化教育の三種類から成っていた。一方、中国女学堂の教育内容は、前 述のように中国の伝統的儒教文化教育と西洋文化教育の二種類から成っていた。聖マリア 書院にあったキリスト教教育が中国女学堂にないことは当然として、それ以外は要するに 西洋文化に関するものと中国文化に関するもので共通している。聖マリア書院の教育が「中 西混合式」と称されていることは前述したが、中国女学堂の教育も「中西混合式」である。 また、そうした「中西混合式」の教育を聖マリア書院が行なった、あるいは行なわざるを 得なかった理由として中国の伝統文化の強靭さを指摘したが、同じことは、「中西混合式」 の教育を行なった中国女学堂についても言えるだろう。

参照

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