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「客観的」価値の認識の客観性-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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「客観的」価値の認識の客観性

笠 原 俊 彦

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序 さきの論文において,わたくしは,規範科学の一つの理想型を形成すること に努めた。その場合のわたくしの観点は,社会科学における価値判断と認識の 客観性との関係を明らかにすることにあった。すなわち,わたくしは, このた めの手段として,規範科学の一理想型を形成しようとしたのである。だが,そ こでは,わたくしは,この理想型を用いて社会科学における価値判断と認識の 客観性との関係を解明すること自体には立ち入らなかった。 この論文においては,わたくしは,わたくしがさきの論文において残してお いたこの問題をとりあげたい。ただし,わたくしは,ここで,この問題を全面 的に論じようとするわけではなし、。この論文においてわたくしが意図するのは, さきの論文において示した理想型に関して,規範科学の基本的問題の一つを論 じることである。それは,具体的には,わたくしが示した規範科学の理想型の 第二の標識に関わる問題,とりわけ,規範科学における真の価値ないし客観的 価値の認識の客観性の根拠に関わる問題である。 規範科学は,真の価値ないし客観的価値が存在すると考えるのみでなく,こ れが客観的に認識できると考えるものであった。ここに客観的価値とは,人聞 にとってただ一組だけ存在し,あらゆる時間および空間における個人に無条件 に妥当する価値であり,また,客観的認識とは,誤りのないまたは正しい認識 を意味した。客観的価値のこの客観的認識の可能性の主張こそ,わたくしが規 (1) 笠原俊彦稿 「規範科学の一理想型一価値判断と客観性一Jr香川大学経済論叢』第59 巻第2号.1986年9月。

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範科学の理想、型の第二の標識としてあげたものである。それは,シェーンフ。ノレー クが規範科学の主要標識とした価値判断の公準

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を 特質づけるものであった。かれにおいては,価値判断とは何よりも真の価値の 認識を意味したのであり,この認識が客観的に可能であるという主張こそ,規 範科学的思惟の根幹をなすものだったのである。 わたくしは,この論文において,このような主張における認識の客観性の根 拠を考察しようとする。この考察によって,わたくしは,社会科学における価 値判断と認識の客観性との関係の研究について一歩を進め,わたくしがこれか ら辿ることのできる途を展望したいと思うのである。

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規範科学におけるニつの存在概念 規範科学が主張する真の価値の認識の客観性について,この根拠を考察しよ うとするとき,わたくしは,まず,すでにさきの論文で簡単に説明した,規範 科学における存在の概念に注目しておきたい。 わたくしは,そこで,規範科学においては存在はこつの意味をもっと述べた。 一つは本源的存在ないし本質であり,もう一つは実在である。規範科学にとっ て重要なのは,このこつの存在のうち,本質であった。規範科学においては, 本源的存在としての価値は真の存在であり,これに対して実在としての価値は, 概ね偽の存在であった。それのみではない。規範科学にとっては,実在として の価値のみならず,これを含む実在そのものが,基本的には偽の存在である。そ れゆえにこそ,規範科学においては,実在は,真の存在としての価値ないし規 範に一致するかぎりにおいて意味をもち,また一致するよう変更されるべきだ とされたのである。だとすれば,規範科学にとっては,二つの存在のうち,真 (2) 笠原俊彦前掲稿, 69ー70ベージを参照のこと。 (3) ここでわたくしが「概ね」および「基本的には」と但蓄をつけたのは,規範科学におい て,実在のうちに本質と一致するものの存在することが承認されるからである。 なお,ここで,実在が価値の他に何を含むのかについては,いまだ,わたくしの考察の 及ぶところではない。これに対する解答は,一つには,価値をどのように理解するかに依 存するであろう。

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475 「客観的」価値の認識の客観性 -131-の存在ないし真の価値の認識への寄与こそ,真理を追求する科学の課題たらざ るをえないことが明らかである。 ところが,それにもかかわらず,規範科学は,その課題を真の価値の認識へ の寄与のみに限定するものではなかった。それは, さらに実在の認識をもその 課題としたのである。このことは,真の価値が実在としての人聞に対する命令 であり,実在の世界において実現されるべきものであることによる。真の価値 のこのような特質こそ,この価値の認識への貢献を意図する規範科学にその実 現を要請し,そのために実在の認識をも必要ならしめたものにほかならない。 このようにして,規範科学は,そのいわゆる真の存在のみならず偽の存在をも 認識せざるをえないのである。 この場合,規範科学が真の存在の認識への貢献のみに自己の課題を限定し, 偽の存在の認識を排除することは,不可能ではない。だが,そのためには,規 範科学は,真の価値を実在世界において実現することを諦めなければならない。 そして,そのとき,真の価値は,いわば,たんなる天空の存在となり,実在す る人聞にとって意味の大半を失う。このことによって,それは,実在する人間 の認識行動においてとりあげるべき意義の大半を失うのである。 さて,規範科学が本源的存在のみならずこれと異質の存在である実在をも承 認するとき,そこには,規範科学の支持者を悩ませるいくつかの間題が生じる ことになる。例えば,実在の世界は何故にかくも真の価値の世界から議離して いるのであろうか,このように超越者の意志あるいは真理に反する実在世界が 何故に生じるのであろうか, という形而上学的問題がこれである。だが,この ような形而上学的問題は, ここで、のわたくしの関心事ではない。ここで町わたく しの関心を引くものは,そもそも規範科学のいう真の価値の客観的認識は可能 であるか, という問題である。

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本質としての理性と「客観的」価値の認識 規範科学においては,真の価値は理性によって認識されるものであった。理 性は超越者によって類としての人間に与えられた客観的存在であり,同じく超

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越者によって類としての人聞に与えられた真の価値は,この客観的存在として の理性によって客観的に認識される。ここに理性が客観的存在であるとは,理 性が単一の普:遍的存在であり,か、つ無条件に機能する存在であることを意味す る。ここでは,認識の正しさないし客観性は,認識の源泉である理性が上記の 意味で客観的存在であることによって保証される, と考えられるのである。 さて,理性は,真の価値と同じく,類としての人間したがって先験的存在と しての人聞に与えられているものであるがゆえに,それ自体,先験的存在であ る。これに対して,科学は,類としての人間,先験的存在としての人間ではな く,実在する人間としての個人またはこの集団による認識行動およびこの結果 である。したがって,それは,このような人間の認識行動およびその結果との 関わりにおいてのみ問題となるのであり, このような人闘を超越する類として の人間のそれとの関わりにおいて問題となるわけではない。科学における客観 性とは,実在する人聞の認識結果の客観性にほかならないのである。そこで, 規範科学は,これが科学であると主張するかぎり,先験的存在としての理性を 経験的存在としての人聞に関連づけなければならない。 この関連づけは,先験的存在としての理性を経験的存在としての人聞に与え ることによって行われる。理性は,この限りで実在化される。いわば天上の存 在が地上に降りてくるのである。このような理性の実在化によって,規範科学 は,個人が真の価値を客観的に認識することができると主張する。理性を与え られた個人は,この理性によって真の価値を客観的に認識することができる, と。 だが,この場合,わたくしは,つぎのことに注意しておかなけ‘ればならなし、。 それは,規範科学においては,人間の理性と個人による認識との結びつきが偶 然的であることである。類としての人間の理性は,規範科学の考えるようにこ れが個人に与えられているとしても,すべての個人に与えられているわけでは ない。または,少なくとも,すべての個人に平等に与えられているわけではな い。しかも,これを与えられている,あるいはこれをよりよく与えられている 個入札理性をつねに有効に働かせることができるわけではない。したがって,

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477 「客観的」価値の認識の客観性 -133ー 真の価値は,かりにこれを認識することが可能だとしても,すべての個人によっ て認識されるわけではなく,むしろ,個人のうちの特定のものによって認識さ れ,しかもまた, これを認識する個人もつねにこれをなすことができるわけでh はない。理性がすべての個人に平等に与えられており,すべての個人がこれを つねに有効に働かせることができるとすれば,すべての個人がつねに真の価値 を認識することができ,その認識結果は同一であるはずなのであるが, このよ うなことが事実に反することは明らかだからである。普遍的に存在し無条件に 機能する先験的存在としての理性は,それが経験的実在としての個人に実在化 されるや否や,その普遍性とその機能の無条件性とを失うのである。 このことから,一つの無視できない結果が生じる。理性を与えられていない, または少ししか与えられていない個人が, さらにはこれをよりよく与えられて いる個人でさえ,かれがその理性をどの程度働かせているかを知ることなく, その時々に,真の価値を認識したと考えるならば,認識された真の価値なるも のがひとによって異なり,また,場合によっては,特定個人についてさえ異な ることがこれである。だが,真の価値は, どこかに一つしかないはずなのであ る。 このようにして,規範科学における認識の客観性の根拠づけは,その認識の いわば源泉の説明によって完了しうるわけではなし、。規範科学は,さらに,そ の認識の結果が客観性をもつことを証明す!る必要に迫られる。真の価値を認識 したと考える個人は,その認識結果が正しいことを証明しなければならなし、。 このことによって,かれは,他の諸個人に,その認識結果な承認させることが できる。 それでは,規範科学における認識結果の客観性の証明は,いかにして可能で あろうか。わたくしの知るかぎり,真の価値の認識結果の客観性を証明する方 法は,いまだ存在しない。たしかに,このような認識結果を他の諸個人に承認 させる方法は,この有効性の程度を問わないとすれば,存在する。 その第一は,真の価値として認識されたものが実在する価値と一致すること を指摘する方法である。この方法は,ここに用いられる実在する価値がその社

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会において有力または一般的であればあるほど,他の個人に認識結果を承認さ せる点で有効であろう。 だが,実在する価値との一致は,真の価値の認識の正しさを証明するもので はない。なぜなら,規範科学においては,実在する価値は,概していえば偽の 価値であるはずなのであり,このような価値との一致は,真の価値の認識を何 ら保証するものではないからである。わたくしは, ここで,実在する価値のな かに規範科学にいわゆる真の価値ないし客観的価値が含まれる可能性を否定す} るわけではなし、。だが,実在する価値のなかから偽の価値と区別して真の価値 をとりだし,これとの一致を指摘するのでないかぎり,実在する価値との一致 は,真の価値の認識の正しさを証明することができない。そして,実在する価 値を真の価値と偽の価値とに区別するためには,まさに,真の価値の認識その ものを必要とする。このようにして,実在する価値との一致によって真の価値 の認識の正しさを証明しようとする試みは,循環論に陥ることになる。 すでに述べたように,シェーンフツレークの定式化において,規範科学は検証 を拒否するとされたのであるが, これは,真の価値の認識の正しさが実在する 価値との一致によってはけっして保証されないという,それ自体では正しい思 惟にもとづくのである。 真の価値の認識結果を他の諸個人に承認させる第二の方法は,認識結果を信 じるよう他の諸個人に要請することである。この要請は,認識者がその認識結 果を真であると信じるほど,強力になるであろう。それは,極端な場合には, 強制になることもある。 この方法が真の価値の認識の正しさを証明するものでないことは明らかであ る。この方法は,第一の方法と異なり,そのような証明を試みようとさえする ものでない。それは,そのような証明と無関係に存在することができる。 もともと規範科学は,認識の客観性よりも真の価値の存在の方を重視する。 規範科学は何よりもまず,真の価値の存在を前提し,その後で付加的に認識の ( 0 笠原俊彦前掲稿, 66ベージを参照のこと。

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479 「客観的」価値の認識の客観性 -135-方法を考える。そこでは,真の価値の存在に対する信仰の強さに比べて,それ を認識するための方法の考察は等閑にされている, とさえいうことができる。 真の価値の存在に対するこのような信仰は,みずからの生活ないしは行動に 意味を与えたいという人間の衝動を表している。ここに追求される意味は絶対 者によって保証された意味でhあり,人聞は,このために真の価値ないし規範を 求め,みずからの行動をこの基準に合致させようとする。このことは,逆にい えば,このような基準を自明のものとして与えられていない人間の苦悩を表す ものである。実在世界における諸価値の相対性と対立は,人間に真の価値の存 在を希求させる。規範科学は,このような望みを科学においても実現しようと する人聞の試みである。

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実在としての理性と「客観的」価値の認識 わたくしは,前節において,規範科学の主張をできるだけ肯定しようとする 立場から真の価値の認識の客観性の根拠を考察してきた。すなわち,わたくし は,真の価値の認識の客観性を肯定し,これをいかにして根拠づけるかという, この意味で積極的立場から,思考してきたのである。だが,この立場は,真の 価値の認識の客観性の根拠についてとることのできる立場の一つであるにすぎ ない。わたくしは, ここで, もう一つの立場が存在することに注意したい。そ れは消極的立場ともいうべきものであり,真の価値の認識の客観性に否定的な 立場,その認識の源泉が誤り多いこと,そしてまた認識の結果が誤り多いこと を認め,認識の誤りを明らかにしようとする立場である。 この立場は,第一に,先験的存在としての理性という誤ることのない認識源 泉ではなく,経験的存在としての誤り多い認識源泉を前提とする。 たしかに,われわれ研究者は,理性によって真理を明らかにすることができ ると信じ,この信仰にもとづいて,科学的研究に勤しんでいる。だが,ここに いう理性は,規範科学のし、う先験的存在ではない。それは,実在する人間にあっ て認識を司る機能者であり,これを理性とよぶならば,実在としての理性ない し実在する理性である。研究者は各自,その理性,実在する理性を働かせて,

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日々,真理を追求しているのである。 規範科学の支持者は,このような研究者の理性のうちに本質としての理性な いし先験的理性が具現されており,この具現された先験的理性の働きによって 真理が明らかにされるのだ, というであろう。だが,多くの研究者は,その理 性すなわち実在する理性が時として誤ること,むしろ,誤り多いものであるこ とを知っている。そして重要なことには,かれらは,その理性のうち,誤りを もたらす理性すなわち偽の理性と真理を明らかにする理性すなわち真の理性と を区別することができない。かれらにとっては,その理性は,真理を明らかに するかにみえながら,しかも誤り多い一つの存在である。 消極的立場の第二の前提は,このような理性の前提から生じる。すなわち, 誤り多い実在する理性にもとづくがゆえに,その認識結果も誤り多いものとな らざるをえないことがこれである。このとき,研究者は,みずからの,および 他の研究者の認識結果について,つねに疑いをもたざるをえない。この疑念が, 研究者を,認識結果の誤りの発見に向かわせるのである。 この場合,認識結果の誤りの発見は,たんに認識結果を否定するために行わ れるわけではない。認識結果に対する疑念は,真理を追求する研究者において は,認識結果の誤りを発見し,可能であれば,この誤りを正して,よりよい認 識結果を得ょうとする行き方と結びつく。真の価値の認識の客観性の根拠につ いての消極的立場は,この意味では積極的立場なのである。 このような立場からみるとき,わたくしは,規範科学における真の価値の認 識の客観性の根拠, とりわけその認識結果の客観性の証明について,重大な困 難を指摘することができる。以下,これを論じよう。 実在する理性による認識結果の誤りとして,わたくしは,ここで二つをあげ ることができる。第一のものは論理的誤りであり,これは,認識結果内部の論 理的矛盾として現れる。この誤りを発見し修正する手段は,論理的批判である。 ここに論理的批判とは,何らかの学説あるいは言明を,この学説あるいは言明 の論理的前提から出発して,その内的な論理的推論の過程を辿り,論理的矛盾 とこの解決の方途とを明らかにする手続きである。それは,ここで、は,認識結

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481 「客観的」価値の認識の客観性 -137-果について,その論理的前提からはたしてその論理的帰結が演揮できるか,そ の論理的前提からすればし、かなる論理的帰結が生じざるをえないか,さらには, その論理的帰結が生じるためにはいかなる論理的前提が存在せざるをえない か,を考察する。ここでは,理性による認識結果の誤りは,いわば理性みずか らによるこの認識結果の吟味によって明らかにされ,この修正の糸口が示され るのである。 このような吟味は,これを真の価値の認識結果についてみるとき,吟味され るべきこの認識結果が複雑であれば,そしてまた少なからず見られることであ るが, この認識結果が陵味であれば,骨の折れる仕事である。そして,この仕 事の質は, しばしば,吟味者の論理的思考の資質と熟練とに依存する。しかし ながら,いかに骨が折れるにせよ,認識結果の論理的誤りを発見し,これによっ てその誤りを修正し,論理的斉合性ある結果を得ょうとするこの過程を不可能 とするものは, ここでは,理論上,存在しない。 実在する理性による認識結果の誤りの第二のものは,規範科学における真の 価値の認識が存在するものの認識であり,ここに,認識結果内部の論理的関係 とは異なる,存在するものとこれについての認識結果との対応関係が成立する こと,から生じる。この対応関係は,認識結果における論理的前提および論理 的帰結が合意する存在するものの観念とこれに対応する存在するものとの関連 である。そして,実在する理性による認識結果の誤りは,第二に,この対応関 係における誤りに,すなわち存在するものに対応するべき観念がそれに対応し えていないところに,見出されるわけで、ある。この誤りが何らかの存在を認識 しようとする科学にとって決定的であるのはいうまでもない。 (5) 読者は,この過程が辿りつく極限状態として,認識結果が,計算可能な一連の論理式と その計算結果として明確に表現された状態を想起されたい。 (6) ここで,わたくしは,存在するものとこれに対応する観念とを区別しているのである が,このように存在するものの観念と対応させられる存在するものも,厳密にいえば,存 在するものの観念としてのみ,われわれの意識のうちに存在する。したがって,存在する ものと存在するものの観念との対応関係は,われわれの意識においては,存在するものの 観念と存在するものの観念との対応関係としてのみ存在するのである。だが,このことお よびこれに伴う問題については,この論文では,とくに論じないことにしたし、。

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この意味における誤りは,認識結果に含まれる存在観念とこれに対応する存 在とを対比させることによqて吟味されなければならない。この手続きは,こ こにいう存在が実在である場合には,検証である。だが,ここにいう存在が本 源的存在である場合には,この手続きは致命的な困難に遭遇する。なぜ、なら, 本源的存在は,本源的存在の観念と対比できる形で与えられておらず,したがっ て,この観念の誤りをこの観念の対象によって正そうとする手続きは,無力と なるからである。 このようにして,真の価値の認識は,これが実在する人間の理性によって行 われる以上,つねに誤る可能性を有しており,したがってその認識結果は吟味 を必要とするにもかかわらず, この認識結果に含まれうる決定的誤りを正すべ き方法を欠いている。

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結 この論文において,わたくしは,規範科学の第二の標識,すなわち真の価値 を客観的に認識することができるとする主張,をとりあげ,この主張の根拠を 検討した。わたくしは,科学が実在する人聞による認識行動およびその結果で あり,したがって実在する人聞の誤り多い理性にもとづいていることから,規 範科学といえども,これが一つの科学として主張される以上,その認識結果は 誤りを含みうるといわざるをえず,規範科学の支持者は,この誤りの発見と修 正とに向かわざるをえないと考えた。そして,規範科学が,そのいわゆる真の 価値についての認識結果に含まれうる決定的誤りを発見し正すべき方法を欠い ていることを明らかにしたのである。真の価値の認識, したがってこの意味で の価値判断については,以上の理由から,その客観性を主張することができな し、。 さて,このように考えるとき,科学的研究に携わる者は,どのような方向を とることができるであろうか。規範科学の支持者のあるものは,以上の指摘に もかかわらず,なお,真の価値の認識が客観的に可能であると主張するかも知 れない。だが,このような主張をするためには,かれは,その主張についてわ

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483 「客観的」価値の認識の客観性 -139-たくしが指摘したその問題性に答えなければならない。このことは,真の価値 の認識結果に対応する真の価値の存在が,諸個人に等しく知覚できる形で与え られなし、かぎり,不可能で、あろう。そして,このような価値の存在は,おそら くは超越者による奇跡としてのみ,諸個人に示されうるものである。 神ならぬ身のわたくしには,このような奇跡あるいは一種の最後の審判が起 こらないとは断言しょうがなく,したがって,真の価値の存在が将来において も諸個人に等しく知覚できる形で与えられることはないとはし、えない。しかし, わたくしは,このことがあるということもできないのである。そして,わたく しは,このような奇跡が起こるまで腕を扶いて待つわけにはいかなし、。 このような状況において,わたくしがとることのできる途は,真の価値の客 観的認識をひとまず諦め,科学的研究にとって残された可能性を探ることであ る。このことは,経験一実在的とよばれる精神的態度をとることを意味するで あろう。経験的実在の世界によって画される限界を意識し,これを尊重する研 究態度が,これである。このような研究態度からするとき,価値の認識は,本 質としての価値ではなく実在としての価値の認識へ,真の価値ではなくむしろ 偽の価値の認識へと向かわざるをえない。そして,この認識においては,研究 者は,もはや,真の価値が有するとされた諸特質を前提とすることができない。 このような諸特質は,その一つ一つが検討を要するのである。価値の認識にお けるこのような態度は,また,真の価値およびこの客観的認識の可能性に関わ る規範科学の標識のすべてを検討するよう要請することにもなる。

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