岡山大学
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2021 Spring江戸時代の鹿田遺跡
岡山大学鹿田キャンパスにある鹿田遺跡は、JR岡山駅の南2㎞足らず
の中心市街地にありながら、弥生時代から現代まで通時的に歴史をたど
ることができる資料が豊富に眠る遺跡です。
鹿田遺跡では、弥生時代中期から江戸時代初めまで、1700年にわたる
人びとの暮らしが営まれてきました。特に中世には溝で区画された屋敷
地が整然と並ぶ街並みが復元されています。
その後、岡山城下町の整備にともない、この景観は大きく変貌します。
江戸時代については絵図や文書等の文献史料も多くありますが、発掘
調査で得られる遺構・遺物から、直接的に日常生活をうかがい知ることが
できるのは考古学の醍醐味でしょう。
江戸時代の鹿田遺跡の景観について、遺構・遺物からみてみましょう。
(岩 志保)
用水路の脇に並ぶ野壺群 用水路の脇に並ぶ野壺群 (第17次調査地点 西より)(第17次調査地点 西より)鹿田遺跡では、平安時代後半から江戸時代初めま での屋敷地がみつかっています。溝に囲まれた屋敷 地内には井戸があり、建物が建っています。発掘調 査から、こうした屋敷地がいくつも並ぶ景観が復元 されています。 江戸時代に入るとまもなく、屋敷地は姿を消し、 鹿田遺跡の全域は耕作地として利用されます。発掘 調査では用水路やその脇に連なる土坑、用水路にと りつく「ため池」が見つかっています(図1)。これら の遺構は17世紀後半∼幕末にかけての遺物が出土す るものがあり、長期に使われたことがうかがえます。 ため池からは17世紀中頃∼後半の遺物が出土し、耕 作地への変化の始期を示しています。 江戸時代の土坑の多くは平面形が円形の素掘りの もので、形や大きさが定型化していません。同じ 場所で重複して形成されるのが特徴です。こうした 土坑の機能については、水路の脇につくられている 点で、後述する大正時代の野壺と共通していること から、野壺と考えられます。長期にわたり使われて いることから、肥料が多く必要となる畑作が盛んで あったことが想定されます。 大正時代になると(図2)、用水路の両脇に大畦畔 があり、一部に小さな区画の畦畔が残る耕作地のよ うすがわかります。用水路の位置は江戸時代から踏 襲されていますが、野壺の数と形は変化しています。 多くの野壺が重複する状況から、耕作地の一角に1 基の野壺が作られるように変わり、中には桶が設置 されています。桶を設置することで、野壺の耐久性 は増したことでしょう。 1917(大正11)年に岡山医学専門学校がこの地に移 転します。一帯は耕作地のなかに校舎が並び、景観 が大きく変わったことでしょう。そして現在、岡山 大学鹿田キャンパスの周辺は、すっかり市街化し、 田畑の面影はのこっていません。
耕作地となった「鹿田」
野壺に据えられた桶の取り上げ 野壺に据えられた桶の取り上げ(第17次調査 土坑17)(第17次調査 土坑17) 桶は直径1m、高さ0.65mを測ります 桶は直径1m、高さ0.65mを測ります 図1 江戸時代の溝と土坑 図1 江戸時代の溝と土坑 図2 大正時代の耕作遺構 図2 大正時代の耕作遺構 江戸時代の野壺は白抜き、大正時代の 江戸時代の野壺は白抜き、大正時代の 用水路・畦畔・野壺をトーンで示しています。 用水路・畦畔・野壺をトーンで示しています。 ● ●● ● ●● ● ● ● ● ● ● ●● ● ● ● ● ●● ● ● ●●● ● ● ● ● ● ●● ●●● ●● ●●●●●●●●●●●●●●● ● ● ●●●●●●● ● ●● ● ● ● ● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ●●● ● ● ●● ● ● ●● 出土 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● ● ●●● ● ● ● ● ● ●● ●● ●● ● ● ● 第17次 調査地点 (図2) ●ࠉᅵᆙ ࠉࠉ⁁㸦⏝Ỉ㊰㸧 ࠉࠉࡓࡵụ Ⓨ᥀ㄪᰝᆅⅬ ⏝Ỉ㊰ ␏␁ ␏␁ 〈第17次調査地点〉 土坑17 (上の写真)Ѝ
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図3 岡山城下町のようす 『備前岡山地理家宅一枚図』(池田家文庫:岡山大学附属図書館所蔵)を 現代の市街地図に重ねて加工したものです。ࡼ ࡋ ⬟ ࡃ ࢅ 鹿田遺跡で耕作地の変化が見られる17世紀中頃∼ 後半は、池田光政(藩主在位1632∼1672年)・綱政(同 1672∼1714年)の在位時期にあたります。文献や絵 図史料によると、光政・綱政の時に岡山城下町の形 はほぼ完成したことが知られています。武家や町人 を城下に集住させ、侍町・町人町が整えられていき ました。 こうした城下町の整備と鹿田遺跡の変化は軌を一 にしたものといえます。 江戸時代後期(1863年)の絵図を市街図に重ねてみ ると、鹿田遺跡は城下町の外であることがわかりま す。その立地から、商品作物の需要が多く、貴重な 肥料を入手しやすい環境だったことでしょう。城下 町近郊の農村の姿が、発掘調査で浮かび上がってき ました。
絵図でみる岡山城下町とその周辺
野壺に据えられた桶の取り上げ(第17次調査 土坑17) 桶は直径1m、高さ0.65mを測ります 図1 江戸時代の溝と土坑 図2 大正時代の耕作遺構 江戸時代の野壺は白抜き、大正時代の 用水路・畦畔・野壺をトーンで示しています。 㮵⏣㑇㊧ 㮵⏣㑇㊧ ᒸᒣ㥐 ᒸᒣ㥐 ᑎ♫ᆅ ㊊㍍ᒇᩜᆅ Ṋᐙᆅ ⏫ேᆅ ⸬ᙺᡤ ୗᒇᩜᆅ ⤮ᅗࡢ⠊ᅖ ᒸᒣᕷᙺᡤ ᒸᒣᕷᙺᡤ 図3 岡山城下町のようす 図3 岡山城下町のようす 『備前岡山地理家宅一枚図』(池田家文庫:岡山大学附属図書館所蔵)を 『備前岡山地理家宅一枚図』(池田家文庫:岡山大学附属図書館所蔵)を 現代の市街地図に重ねて加工したものです。 現代の市街地図に重ねて加工したものです。 図4 漆塗り櫛と金線の文字 (鹿田第12次調査)出土品からみえる農村のひとこま
江戸時代の土坑から漆塗りの櫛が出土しました。 土坑はその形状から墓との意見もあります。櫛は黒 漆と朱・ベンガラで装飾されたもので美しい状態で見 つかりました。材質はイスノキを用いています。漆 の塗膜分析によると、使われた下地や漆の質は上質 ではないようです。 漆の上に金線で書かれた「よしのくえ」の文字は、 量産品の商品名の可能性が指摘されています。こう したことから「吉野参り」の土産物とも考えられます。 江戸時代には旅が盛んであったことが、紀行文や 浮世絵等に描かれていることからわかります。そ うは言っても旅に出るのは、農民にとって一大イベ ントだったことでしょう。鹿田の人びとが出かけて いったのか、もしくは貰った旅のお土産を大切にし ていたのかもしれません。農作業の合間に土産話に 花が咲く、そんなひとこまが垣間見えます。 それまでの鹿田遺跡では、貴族や武士に好まれる 特注品の品々が見つかっています。そうした状況と は異なる量産品の出土は、ここで暮らす人の変化を 物語っています。 幅11.3cm×長さ2.7cm2021年3月26日 発行 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター 〒700-8530 岡山市北区津島中3丁目1番1号 TEL・FAX (086)251-7290 [ホームページ] https://www.okayama-u.ac.jp/user/arc/archome.html 用水路の脇に並ぶ野壺群 (第17次調査地点 西より)