明治・大正期中等工業教育の模索と海軍工廠技手養成制度
~高等工業学校との分化過程に即して~
谷口雄治
能力開発システム
The secondary industrial technical education in Meiji and
Taisho eras, and ‘Gite’ technician training system
of the naval arsenal
- Based on the differentiation process
with the higher industrial professional school -
TANIGUCHI, Yuji
Human resource development system
Keywords: naval shipyard, factory school, middle-class engineer training system, higher industrial professional school
1.はじめに 本稿の目的は、わが国工業化の過程において学校工業 教育制度の発展と並行しつつもその枞外として海軍工廠 内部に形成された中級技術者養成制度が、海軍工廠外部 の学校工業教育体制に対してどのような意味と位置づけ をもつのかについて、主に海軍工廠造船部門における中 級技術者の調達・任用施策から明らかにすることである。 海軍工廠内の中級技術者養成制度とは、わが国工業化 の起点の一つとされる横須賀造船所1)に設けられた内部 養成制度を起源2)として、昭和 20 年の大戦終結まで長期 にわたって存続したものである。当該養成制度に関する 先行研究は、大きく二つの問題関心に分類される。第一 は、工業教育の嚆矢としての関心、すなわち工業教育成 立史研究である3)。その時代対象は、必然的に幕末期およ び明治初期に限定され、高等・中等レベルの学校工業教 育制度が整備される以前となる。第二は、企業内教育と しての関心によるものである。学校工業教育制度の整備 以降、当該養成制度は企業内教育として位置づけられ、 労務管理形成史を視角とする研究の対象となるのである 4)。つまり、先行研究において当該養成制度は、初期には 工業教育としての研究対象でありながら、学校工業教育 制度の枞外となって以降は学校工業教育史の視点から評 価するものが見られない。三好信浩が「日本の工業学校 は、統一化や系統化の明確な論拠をもって成立し発展し たものではなく、工業化の過程において、西洋先進諸国 の例を参考にしつつ、各種各様の学校が、その必要に応 じて簇生し、徐々に法的な根拠を与えられた5)」と述べる 模索の工業教育発達史観でみるとき、当該養成制度が学 校工業教育制度の枞外であれ視点を共有することは可能 である。そこで、本稿では海軍省が造船部門中級技術者 の調達を内部制度から外部制度(学校工業教育制度)へ と切り替えた後再び内部制度に戻すことを行った一時期
を両制度比較参照にとって最も格好な接点ととらえ、当 該養成制度の学校工業教育史における意義と位置づけに ついて検討する。 2.造船工練習所の廃止と理由 海軍工廠における造船関係の中級技術者養成制度は、 明治 30 年 9 月以降「海軍造船工練習所」(以下、「造船工 練習所」)として運営されていたが、明治 40 年 3 月末に 廃止された。ところが、12 年後の大正 8 年 4 月に中級技 術者養成のための「海軍技手養成所」(以下、「技手養成 所」)が海軍工廠内に設けられた。まずは、造船工練習所 の廃止理由について検討してみよう。造船工練習所の卒 業生であり海軍技手6)を経て海軍技師にもなった八木彬 男氏は次のように記している。 「同じ明治三十年以後に於て、大阪にも高等工業学校 が設立されましたところ、此高工には 始(ママ)めて造船学 を教授する科が出来て、年々卒業生を送り出すに至っ たのであります。夫迄の日本には、造船学を教えてる 所は、其の程度の差は別として、東京帝大と黌舎以来 の練習校の二ヶ所(外に東京に夜学で教えてる私塾が あったとか)があっただけでしたが、之で又一ヶ所 植(ママ) えたのであります。大きく之を見ますなら、其頃余り 卒業生の捌け口も無いのに、国の施設が二重だと云う 議論も、起こってるとか何とかの風説は能く伝わった ものでありました。それかあらぬか、明治四十 一(ママ)年 海軍の練習校は廃止となりました7)」 八木氏の記述は、造船工練習所廃止の背景に大阪高等 工業学校の造船関係学科の設立が関係していることを匂 わせている。そのことを裏付ける資料として条例改正に かかる公文書がある。まずは、廃止決定の勅令(明治 39 年 12 月 8 日勅令第三百十一号)より約 2 ヶ月遡る明治 39 年 10 月 13 日付けの閣議請求「海軍造船工練習所条例廃 止ノ件」(海軍大臣から内閣総理大臣あて)に、「海軍造 船ノ事業ニ従事セシムル技手ハ従来海軍造船工練習所卒 業者ヨリ採用セシモ官立高等工業学校ノ卒業者ヨリ採用 スルコトトシ其養成ヲ同校ニ依託スル以上ハ造船工練習 所ノ必要ナキニ依ル8)」との廃止理由の付記がある。この 請求を受けて、同年 11 月 22 日付けで法制局長官から内 閣総理大臣あてに、「別紙海軍大臣請議海軍造船工練習所 条例廃止ノ件ヲ審査スルニ右ハ将来海軍造船ノ事業ニ従 事セシムル技手ノ養成方ヲ官立高等工業学校ニ依託スル カ為本練習所ヲ存置スルノ必要ナシト云フニ在リテ相当 ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決定セラレ可然ト認ム9)」 との回答をしている。さらに、先の閣議請求(「海軍造船 工練習所条例廃止ノ件」)の 1 ヶ月後、11 月 13 日付けで 「海軍造兵生徒条例中改正ノ件」について「海軍造船生 徒ヲ養成スルノ必要アリ」との趣旨で勅令案および理由 書を添えて閣議請求(海軍大臣から内閣総理大臣あて) を行っている10)。添付の理由書では次のように理由を述 べている。 「海軍造船ノ事業ニ従事セシムル技手ハ従来専ラ海軍 造船工練習所卒業者ヨリ採用シ来リシモ大坂(ママ)高等工業 学校ニハ造船科、舶用機関科ノ設備アリ殊ニ其卒業者 ハ成績良好ニシテ海軍技手ニ適当ナリト認ムルヲ以テ 将来同校ノ卒業者ヨリ採用スルヲ可トスト雖モ官費ヲ 以テ之ヲ養成スルニアラスンハ遽カニ其人ヲ得ルコト 難シ故ニ今ヨリ之カ養成ヲ同校ニ依託シ其所要ニ充テ 海軍造船工練習所ハ之ヲ廃止セントス是本案ヲ提出ス ル所以ナリ且一般ニ官立高等工業学校トセルハ将来他 ノ官立高等工業学校ニ相当ノ設備ヲナシ適当ナル造船 技手ヲ採用シ得ル場合本条例ヲ適用センカ為ナリ11)」 では、当該人材の調達を官立高等工業学校に転換する という海軍当局の方針にはどのような背景があったので あろうか。前掲の2つの閣議請求の理由では、ともに海 軍技手の養成を官立高等工業学校に「委託」することを 上げている。「委託」とは、明治 32 年に勅令第二百十四 号「海軍造兵生徒条例」を定め、造兵分野12)の技手レベ ル技術人材を安定的に確保するために設けた制度に倣っ たものと考えられる。この制度は、東京工業学校の在校 生のみを対象として「海軍造兵生徒」を募集し、試験に よって年間 10 名程度採用するというものである。海軍造 兵生徒として採用されると、その身分は海軍省所属とな り、東京工業学校に対しては「委託生徒」となる13)。つ まり、先行する海軍造兵生徒制度による採用実績から、 同制度を拡張して「海軍造船、、生徒」制度を設け、これに より代替が期待できるとの見通しをもったと考えられる。 こうして明治 39 年 12 月 8 日に勅令第三百十号により海 軍造兵生徒條例を改正し、条例の名称を「海軍造船生徒 及造兵生徒条例」に、「海軍造兵生徒」を「海軍造船生徒
及造兵生徒14)」に、「東京工業学校」を「官立高等工業学 校」に改めた。また、海軍造兵生徒条例改正の勅令と併 せて勅令第三百十一号により造船工練習所の廃止が下さ れた。二つの勅令は明らかに一対であり、勅令番号から 解釈するならば、第一は造船分野の海軍技手の養成を官 立高等工業学校に委託すること、このための造船工練習 所廃止であり、造船工練習所廃止のための官立高等工業 学校への委託ではないということになる。 以上のことから、造船工練習所廃止の理由は、当該人 材の調達を内部養成から外部教育機関である官立高等工 業学校へ転換することであったといえる。 3.造船工練習所廃止の計画性 造船分野の技手養成の官立高等工業学校への委託およ び造船工練習所廃止の決定は、綿密な計画に基づき周到 に行われたとはいえない。なぜなら、第一に、廃止決定 の勅令の 3 ヶ月前の 9 月 11 日に造船工練習所が新たな練 習生の入学を挙行していたのである。つまり、この時点 では廃止の結論が出ていないことは明らかである。廃止 案が新練習生の入学以前から水面下で検討されていたと しても、入学延期の措置をとるほどには廃止案が具体化 していなかったことになる。しかし、入学のわずか1ヶ 月後には海軍大臣が廃止のための閣議を請求したのであ る。この1ヶ月間の状況の変化は著しく急激なものとい える。また、廃止に伴う在籍練習生に対する措置には、 計画性の乏しさがみられる。造船工練習所廃止の勅令(12 月 8 日)を受けて海軍工廠では 12 月 25 日付けで廃止に 向けて在籍練習生の措置について次の照会を行っている。 「現在ノ練習職工中第二第三学年生ハ曩ニ同所廃止 ノ後内議有之候節速成ノ目的ヲ以テ教授時間ヲ増加 シ爾来其方針ニ依リ教授セシメツツ有之候ニ付不充 分ナカラ年度内ニ全科卒業セシメ得ヘキ運ヒニ相成 リ居候ヘ共昨年九月十一日入所セシメタル第一学年 生ニ在テハ到底卒業セシムヘキ目途無之ニ付彼等ヲ シテ各自前途ノ方向ヲ定メシムルノ必要ヲ認メ候ニ 付テハ此際第一学年ニ限リ教授ヲ停止シ解散ヲ命シ 度尤モ引続キ在学ヲ希望スル者ニハ特ニ本年度内相 当ノ教授ヲ為サシムル儀敢テ差支無之候条何分御詮 議相成度此段上申候也15)」 この照会に対して、明治 40 年 1 月 11 日に「第二第三 両年生ハ年度内ニ全科卒業セシメ第一学年生ハ全部教授 ヲ停止シ此際解散スヘシ16)」との回答があった。『横須賀 海軍工廠史』では、この回答に従うかたちで明治 40 年 3 月27 日に「第七期及第八期練習職工卒業証書授与式挙行」 との記録がある17)。しかしながら、当該練習生たちの履 歴書18)では、第三学年生(7 期生)は「明治 40 年 7 月」 を、第二学年生(8 期生)は「明治 41 年 4 月」をそれぞ れの卒業年月として一様に記載しており、『横須賀海軍工 廠史』に記録された「卒業証書授与式」の明治 40 年 3 月 27 日を卒業年月としていない19)。ちなみに、第一学年生 (9 期生)については明治 40 年 3 月末に元の所属工廠に 帰還している。つまり、実際には明治 40 年 3 月末の廃止 以後も彼らの在学は、7期生では本来の卒業時期である 明治 40 年 7 月まで、8 期生にいたっては本来の卒業時期 より 3 ヶ月短縮となる明治 41 年 4 月まで継続したのであ る。履歴書が海軍大臣決裁の稟議書に添付されるにもか かわらず当該練習生たちは廃止後の年月を卒業年月とし て記載し、それが誤りや虚偽であれば稟議の過程で訂正 が入るはずであるが、そうした例はみられない。前掲の 照会回答「第二第三両年生ハ年度内ニ全科卒業セシメ」 に反し、年度を越える在学延長という措置は、横須賀海 軍工廠単独ではなく海軍省本省も認めたものであろう。 さて、海軍省は、造船分野の技手の調達を官立高等工 業学校に切り替えて造船工練習所の廃止を決定した以上、 この決断には妥当であるとの見通しがなければならない。 海軍省が官立高等工業学校からの採用見通しを立てたと するならば、それはどのようなものになるのであろうか。 技手人材調達の転換のために、海軍造兵生徒條例を改正 し海軍造船生徒制度を設け、さらには東京高等工業学校 に限定していた生徒募集対象をすべての官立高等工業学 校に拡大させた。当時の官立高等工業学校の造船関係学 科は、大阪高等工業学校の造船科と舶用機関科である。 海軍造船生徒制度による今後の採用見通しを立てるなら ば、その際の判断材料は大阪高等工業学校からの採用実 績であろう。ただし、採用実績といっても同校造船関係 学科の歴史が浅いために、第1期生が卒業した明治 36 年 7 月から明治 39 年 7 月までのわずか 4 年間の実績でしか ない。この 4 年間で 4 カ所の海軍工廠全体で採用した同 校造船関係学科卒業者の合計は造船科 11 名、舶用機関科 12 名である20)。つまり、造船・造機両分野の年間平均採 用数は各科 3 名程度である。しかも、一方ではこの 4 年
間に造船科卒業者 6 名、舶用機関科卒業者 2 名が、早々 と退職し民間造船所等へ流出している21)。これに対して、 海軍工廠全体における造船・造機分野の技手の年間任用 数は、表 1 のとおり直近の 10 年間では年平均で 17.3 名 である22)。つまり、年間 17 名程度の造船分野の技手人材 の需要を満たすには、大阪高等工業学校造船関係学科の 供給および定着の実績は明らかに乏しく、この実績から 採用見通しを立てるならばかなり厳しい結論になるであ ろう。こうしたことは、前掲の閣議請求「海軍造兵生徒 条例中改正ノ件」における理由書にも「将来同校ノ卒業 者ヨリ採用スルヲ可トスト雖モ官費ヲ以テ之ヲ養成スル ニアラスンハ遽カニ其人ヲ得ルコト難シ」と分析してい る。したがって、廃止決定の判断は海軍造船生徒制度に よる官費給付の誘因効果を期待したものにすぎないので ある。以上のことから、造船 工練習所廃止に伴う措置に 関する計画の不十分さに加 え、代替給源についての見通 し分析の甘さが指摘できる。 これらは、廃止の決定がきわ めて急激であったことに由 来するものと考えられる。 4.造船工練習所廃止後の高 等工業学校の代替機能 造船工練習所の廃止後、廃 止理由の意図どおり高等工業学校が代替をなし得たので あろうか。まずは、海軍工廠における技手人材の給源が どのように変化したのかについて確認しよう。表2は造 船部門の海軍技手の年間任用数について最終教育歴別に 集計したものである23)。各年度の技手任用数に大きなバ ラツキがみられるのは、技手の任用が各海軍工廠の技手 ポストの欠員に対して行われるからである。同表のとお り、技手任用数の推移は、技手の給源にみられる特徴に よって概ね 6 期に区分できる。各期の特徴をあげると次 のとおりである。1 期(明治 31~34 年)は、専門技術の 教育的背景をもたない[小学校、高等小学校、不明]が 技手任用の中核となっている。これは、造船工練習所の 前身である技手練習所が規則上は 3 年 9 ヶ月間存在した ものの、この間にわずか 1 回しか練習生の採用がなかっ たことによる技手練習所卒業者の空白期が背景にある。2 期(明治 35~40 年)は、造船工練習所の卒業者が技手任 用の中核となっている。3 期(明治 41~45 年)は、造船 工練習所が廃止されたものの、技手に任用されていない 同所卒業者と方針どおり徐々に増加する官立高等工業学 校卒業者とが技手任用の中核となっている。4 期(大正 2 ~6 年)は、造船工練習所卒業者に取って代わるかたちで 官立高等工業学校卒業者が技手任用の中核となっている。 5 期(大正 7~10 年)は、官立高等工業学校卒業者による 技手任用が減尐し、これを補うかたちで、専門技術に関 する教育的背景をもたない[小学校、高等小学校、不明] および基礎的技術教育といえる[工廠内職工教育24)]の 修了者が技手任用の中核となっている。6 期(大正 11 年 以降)は、技手養成所卒業者が技手任用の中核となって いる。また、各期でコンスタントに任用がみられた[小 学校、高等小学校、不明]が大正 13 年以降に任用されて いないことも特徴である。なお、各期を通じての特徴と して、学校工業教育の[実業補修学校]および[実業学 校]の修了者の技手任用数が相対的に尐ないことが指摘 できる。 では、造船工練習所の代替という官立高等工業学校に よる人材供給成果について技手任用数から確認してみよ う。造船工練習所の廃止以後に注目すると、上記区分の 3 期(明治 41~45 年)の当初は、官立高等工業学校卒業者 の技手任用が急激には増加しなかった。造船工練習所卒 業者の技手任用に滞留があったからである。これを裏付 ける資料として、明治 40 年 6 月に開催された工廠長会議 において艦政本部が提出した諮問に「現ニ従来練習所卒 業者ニシテ未タ技手ニ採用セラレザルモノモ多数ナルノ 今日ニ於テ本年ハ高等工業学校ニ海軍生徒教育ノ委託ヲ ナサス25)」との記述がある。このような背景から当初伸 びなかった官立高等工業学校卒業者の技手任用数は、明 治 43 年以降増加し始め、明治 45 年に 12 名を数えた。造 船工練習所卒業者の大部分が技手任用を終えた上記区分 の 4 期(大正 2~6 年)では、官立高等工業学校は技手の 給源の中核といえる。しかしながら、上記区分の 5 期(大 正 7~10 年)では、技手の全任用数が他の時期と比較し 造 船 分 野 造 機 分 野 合 計 明治30年 3 5 8 明治31年 1 1 2 明治32年 2 2 4 明治33年 12 11 23 明治34年 3 5 8 明治35年 15 14 29 明治36年 7 6 13 明治37年 12 15 27 明治38年 18 23 41 明治39年 7 11 18 合計 80 93 173 表1 海軍工廠造船 部門の海軍技手任用
小 学 校 ・ 高 等 小 学 校 ・ 不 明 実 業 補 習 学 校 工 廠 内 職 工 教 育 私 塾 中 学 校 実 業 学 校 工 業 系 各 種 学 校 海 軍 造 船 工 練 習 所 海 軍 技 手 養 成 所 官 立 高 等 工 業 学 校 私 立 専 門 学 校 高 等 学 校 大 学 合 計 明治31年 2 2 明治32年 4 4 明治33年 16 1 3 3 23 明治34年 7 1 8 明治35年 11 4 14 29 明治36年 3 9+(1) 13 明治37年 9 3 2 (1) 10+(2) 27 明治38年 6 5 2 1 23 1 3 41 明治39年 4 1 1+(1) 2 7 2 18 明治40年 7 2 2 1 2 16 3 33 明治41年 2 1 1 7 1 12 明治42年 3 1 7 1 12 明治43年 2 5 3 1 11 明治44年 2 4 6 5 1 18 明治45年 4 1 1 2 7 12 27 大正 2年 4 3 6 13 大正 3年 6 11 17 大正 4年 1 5 2 8 大正 5年 5 1 2 6 1 15 大正 6年 6 2 2 1 1 2+(2) 7 2 25 大正 7年 11 10 4 2 1+(2) 1 1 (1) 33 大正 8年 10 1 13 6 1 2 2 2 37 大正 9年 9 2 3 2 1 1 2 1 1 22 大正10年 18 1 11 4 (2) 3 3 2 4 2 50 大正11年 4 3 1 (1) 4 2 1 2 18 大正12年 2 2 8 8 3 1 24 大正13年 1 11 1 2 15 大正14年 1 1 3 10 2 17 大正15年 2 2 昭和 2年 1 1 7 1 1 11 昭和 3年 7 7 157 7 63 34 6 14 27 121 49 83 16 3 12 592 表2 年間技手任用数(教育歴別) *括弧内は中退者 合計 5 期 6 期 1 期 2 期 3 期 4 期 て低下していないにもかかわらず、官立高等工業学校出 身の技手の任用数は減尐した。この間の技手の需要を満 たしたのは、[小学校、高等小学校、不明]および[工廠 内職工教育]の修了者である。 次に、官立高等工業学校の技手の供給機能について、 技手在任期間という側面から検討しよう。技手としての 在任期間は、技手から技師へ昇任するまで、または技手 として退職するまでである。検討対象とした官立高等工 業学校卒業者は、造船工練習所が廃止された明治 40 年 4 月から技手養成所が最初の卒業者を出した大正 11 年 3 月 までに海軍工廠の造船部門に採用された者のうち技手に 任用された者68名である。これら68名のうち6名(8.8%) が工手26)で採用され、平均 1 年 10 ヶ月で技手に昇任して いる。因みに、伍長または組長での採用は 15 名(22%)、 技手での採用は 2 名(2.9%)である。また、技手に任用 された者 68 名のうち 18 名(29%)が技師に昇任し、そ れらの技手の平均在任期間は 7 年 10 ヶ月である。なお、 海軍工廠に入廠した官立高等工業学校卒業者は必ずしも 技手に任用されるとは限らない。大阪高等工業学校の造 船科および舶用機関科の卒業者の例でいえば、上記検討 対象と同じ期間に同校両学科を卒業し海軍工廠に就職し た者 111 名27)のうち技手に任用された者は 43 名(39%) である。つまり、技手に昇任する前に退職(死亡退職を 含む)した者が 68 名(61%)に上る。その平均在職期間 は、3 年 9 か月である。なお、それら早期に退職した者の 殆どが民間造船業に職を得ていた28)。
以上のとおり、官立高等工業学校は、造船工練習所の 代替として期待されたものの技手任用は思うように進展 せず、技手として職務を担える在任期間においても技手 給源としての代替機能を充分に果たせなかったといえる。 5.造船工練習所および技手養成所の人材供給機能 では、造船工練習所および技手養成所それぞれが果た した人材供給機能は何であったのだろうか。まずは、廃 止前の造船工練習所の人材供給実績を確認しよう。造船 工練習所の人材供給面の実績は表3のとおりである。同 表は、造船工練習所の 1 期生(明治 31 年 4 月入所、明治 34 年 4 月卒業)から 8 期生(明治 38 年 9 月入所、明治 41 年 4 月卒業)までの全卒業者のうち造船部門すなわち 造船分野と造機分野の技手に任用された者の割合をまと めたものである29)。全卒業者の技手への任用率は、造船 分野 98%、造機分野 88%であり、両分野を合わせた平均 が 92%である。なお、同所卒業者が海軍技師(以下、「技 師」と省略)に任用される割合は、造船分野 57%、造機 分野 55%、両分野を合わせた平均が 56%である。また、 同所卒業者が技手に任用された時期すなわち明治35 年か ら明治 45 年までに、両分野で技手に任用された者 242 名 (全数)における同所卒業者の技手任用者は 116 名であ り、その割合は 48%である。また、同所卒業者の技手任 用者 116 名は、同所全卒業者 133 名の 87%である。同所卒 業者が卒業から技手任用までの過程は、工手を経る場合 (35 名:技手任用者の 30%)では平均 4 年 11 ヶ月、工手 を経ない場合(81 名:技手任用者の 70%)では平均 3 年 2 ヶ月である。なお、これら技手任用者 116 名うち技師に 昇任した者は 52 名(49%)で、その技手在任期間は 15 年 6 ヶ月である。この技手在任期間は、高等工業学校卒業者 の技手在任期間 7 年 10 ヶ月の 2 倍である。こうした卒業 者の工手任用率および技手の任用率・在任期間から、造 船工練習所の人材供給機能は、工手であるより技手とい える。 一方、大正 8 年 4 月に設置された技手養成所の人材供 給実績は、表4のとおりである30)。また、『海軍職員進退 録』中の履歴書を資料として昭和 3 年まで31)の技手任用 者 49 名(内訳は、大正 11 年卒業 28 名、大正 12 年卒業 14 名、大正 13 年卒業 6 名、大正 14 年卒業 1 名)を対象 として分析すると、昭和 3 年時点での技手任用率は、大 正 11 年卒業者(1 期生)では 85%に達するが、大正 12 年卒業者 52%、大正 13 年卒業者 21%、大正 14 年卒業者 4%と次第に低下し、大正 15 年卒業者以降では 0%になる。 「技手養成所」と称しても卒業後直ちに技手に昇任する ものではないことがわかる。卒業から 6 年経過し 85%が 技手に任用されている大正 11 年卒業者 28 名に注目すると、 卒業から平均 8.5 ヶ月で工手 に昇任し、さらに平均 1 年 9 ヶ 月で工手から技手に昇任して いる。表4に示すとおり 10 期 生(昭和 6 年卒業)までの技手 任用率の平均は、造船 94%、造 機 89%と高率である。これは造 船工練習所の技手任用率とほ ぼ同等といえる。なお、同所卒 業者の技師への昇任率は、表4 の元資料である同窓名簿が発 行された昭和16 年10 月時点で は最終的な値とみることはで きないが、年長の 1 期生、2 期 生の技師任用率は造船工練習 所のそれより高く、1 期生の技 造船 造機 計 計(率) 計(率) 1期生 明治34年 8 17 25 8 100% 15 88% 92% 6 75% 10 59% 64% 2期生 明治35年 9 8 17 9 100% 8 100% 100% 5 56% 6 75% 65% 3期生 明治36年 4 7 11 4 100% 7 100% 100% 2 50% 4 57% 55% 4期生 明治37年 9 18 27 9 100% 16 89% 93% 4 44% 9 50% 48% 5期生 明治38年 9 10 19 9 100% 8 80% 89% 4 44% 5 50% 47% 6期生 明治39年 6 5 11 6 100% 5 100% 100% 5 83% 3 60% 73% 7期生 明治40年 4 10 14 4 100% 8 80% 86% 2 50% 4 40% 43% 8期生 明治41年 2 7 9 1 50% 5 71% 67% 1 50% 4 57% 56% 51 82 133 50 98% 72 88% 92% 29 57% 45 55% 56% 表3 海軍造船工練習所卒業者の海軍技手・技師への任用率 期生 卒業年 卒業数 海軍技手任用数/率 海軍技師任用数/率 造船 造機 造船 造機 合 計 造船 造機 計 計(率) 計(率) 1期生 大正11年 16 17 33 15 94% 16 94% 94% 14 88% 15 88% 88% 2期生 大正12年 13 14 27 11 85% 13 93% 89% 9 69% 10 71% 70% 3期生 大正13年 13 15 28 13 100% 12 80% 90% 5 38% 8 53% 46% 4期生 大正14年 12 16 28 11 92% 14 88% 90% 7 58% 6 38% 48% 5期生 大正15年 13 11 24 12 92% 10 91% 92% 4 31% 6 55% 43% 6期生 昭和2年 12 14 26 11 92% 12 86% 89% 1 8% 3 21% 15% 7期生 昭和3年 9 14 23 9 100% 13 93% 96% 0 0% 1 7% 4% 8期生 昭和4年 11 13 24 10 91% 12 92% 92% 0 0% 0 0% 0% 9期生 昭和5年 12 13 25 11 92% 11 85% 88% 0 0% 0 0% 0% 10期生 昭和6年 7 10 17 7 100% 9 90% 95% 0 0% 0 0% 0% 表4 海軍技手養成所卒業者の海軍技手・技師への任用率 期生 卒業年 卒業数 海軍技手任用数/率 海軍技師任用数/率 造船 造機 造船 造機
師任用率はほぼ 9 割に達している。以上のことから、技 手養成所においてもその人材供給機能は工手であるより 技手であったとみることができる。 6.技手人材調達の変転の要因 では、技手人材調達の変転の要因、つまりは官立高等 工業学校が海軍工廠造船部門の技手人材供給機能を果た せなかった要因は何であろうか。まずは、官立高等工業 学校の造船関係学科卒業者の就職行動に影響をもたらす 造船技術者の労働力需給状況について検討する必要があ る。『日本近代造船史-大正時代-』32)では、明治末およ び大正年間におけるわが国造船業が第一次世界大戦の影 響を強く受けたとして、大戦の前・中・後の 3 期に分け て概況を述べている。大戦前の概況については、「日露戦 後の一般経済沈滞期の影響を受け、造船業の経営漸く困 難となりたり33)」との低調期としている。また、大戦中 については、「各交戦国の船舶は徴発・撃沈・抑留せらる るもの年と共に増加し、軍需品輸送の為めに船腹著しく 不足せしかば純貨物船の需要頓に増加したり34)」との活 況期としている。さらに、大戦後については、大正 9 年 までは大戦中の受注の余勢もあったが、「海運界には休 船・繋船続出し、船価暴落して海運業者又は造船所の没 落せるもの尐からざりき35)」との景気の後退期としてい る。大戦後の建艦競争における「八八艦隊」計画によっ て軍艦建造を受注し工事量を維持した大造船所であって も、大正 10 年のワシントン軍縮会議による計画中止は事 業縮小を余儀なくした。このような明治末および大正年 間におけるわが国造船業の景況は、図1に示す進水高の 推移によっても確認できる。大正 5 年から 8 年にかけて の民間造船所の進水高の急伸はまさに“バブル”ともい える様相である。こうした造船業の景況に対して、大阪 高等工業学校の造船関係学科新卒者がとった就職行動は、 同図に示すとおり民間造船所の生産量の増減と連動して いる。大正 5 年から 9 年にかけては当該新卒者の大多数 が民間造船所に就職したが、大正 10 年以降では民間造船 所への就職が減尐し、ワシントン軍縮条約直後の海軍工 廠も主な就職先とはなり得ず、造船以外の分野である鉄 道、電気、官公庁等で補完されている。このように、海 軍省は技手人材の調達の転換を図ったものの、予測し得 ない第一次世界大戦の勃発による造船技術者需給状況の 大きな変化が海軍省の目論見を外したといえよう。 しかしながら、調達方針の変転の要因をタイミングの みに帰することができない海軍工廠側の調達転換に関す る総括とみなせる資料がある。その一つは、大正 8 年度 海軍造兵部長会議における「高等工業学校出身者ハ技手 トシテ何日迄モ満足スル者ニアラズ然ルニ工場技手ハ必 ズシモ斯ノ如キ学力ヲ要セズ36)」との決議事項である。 また、大正 8 年 4 月 16 日に挙行された技手養成所開所式 において、工廠長は開所の辞で「練習工廃止以来已ニ十 有二年此ノ間海軍技手養成ハ唯国内各地ノ高等工業学校 ニ俟ツノ方針ヲ採リタルモ眞ニ海軍特種ノ進歩ニ伴フベ キ優良ナル技術者ヲ得ントスルニハ従前ノ如ク海軍ニ養 成所ヲ再興シ」とも述べている。これらは、海軍工廠に おける技手人材の要件と高等工業学校の教育との齟齬を 指摘するものであろう。 以上のとおり、官立高等工業学校が海軍工廠造船部門 の技手人材供給機能を果たせなかったのは、調達転換の タイミングの不運さもあるが、海軍工廠の技手人材の要 件と高等工業学校の教育内容・程度との齟齬も要因とし て指摘できる。 7.教育目標水準に関する比較 上記の海軍造兵部長会議の決議事項における「工場技 手ハ必ズシモ斯ノ如キ学力ヲ要セズ」とする高等工業学 校教育との齟齬について検討するために、高等工業学校 (具体的には大阪高等工業学校造船関係学科)、造船工練 習所、技手養成所の各教育が定めた目標水準について比 較しよう。表5は、それぞれの規則等から教育の目標水 準に関わる事項を整理したものである。まずは、海軍工 廠内の養成制度である造船工練習所と技手養成所につい て比較する。両者の設置学科、修学年数、卒業後の処遇 方針、卒業後の勤続義務、生徒の応募要件については殆 ど異ならないが、入学試験の程度および教育内容につい ては相違がある。入学試験の程度は、造船工練習所にお ける英語の「ユニオン第一読本」、算術の「四則、分数、 比例」が技手養成所では英語・数学を「中学校第三学年 修了ノ程度」となっている。英語は第二次小学校令(明 治 23 年 10 月 7 日公布)により高等小学校の加設科目と なり、その加設率は明治 30 年代では全国平均でわずかに 6%である37)。また、小篠敏明38)によれば、ユニオン第一 読本は旧制中学校の 5 ヶ年分に相当する 5 巻 1 セットの 英語教科書の第 1 巻目である。語彙数で内容・水準を推
図1 年次別進水総トン数および大阪高等工業学校造船関係学科新卒者の就職先推移39) 0% 10% 20% 30% 40% 50% 60% 70% 80% 90% 100% 0 100000 200000 300000 400000 500000 600000 700000 明 治 四 〇 年 明 治 四 一 年 明 治 四 二 年 明 治 四 三 年 明 治 四 四 年 明 治 四 五 年 大 正 二 年 大 正 三 年 大 正 四 年 大 正 五 年 大 正 六 年 大 正 七 年 大 正 八 年 大 正 九 年 大 正 十 年 大 正 十 一 年 大 正 十 二 年 大 正 十 三 年 大 正 十 四 年 (進 水 総 ト ン 数 ) 民間造船所 海軍工廠 民間造船就職率 表5 規則等による教育の目標水準に関する比較 し量るなら、ユニオン第一読本の語彙数 1013 語は、明治 時代に最も広く用いられ同じ 5 巻セットであるナショナ ル(National Reader)の第 2 巻目の累積語彙数 1235 語 とほぼ等しい。語彙数のレベルでは、ユニオン第一読本 は中学校 1 年生よりむしろ 2 年生の程度に近いと考えら れる。したがって、造船工練習所の主要な入学対象とし て高等小学校卒業程度の者を直ちに想定できない。ユニ オン第一読本が暗示する学習準備の程度は、尐なくとも 中学校1~2年の課程を終えた者あるいは高等小学校卒業 程度の者が私塾等により英語の補習教育を受けた者が想 海軍造船工練習所 (廃止時点、明治 40) 海軍技手養成所 (設置時点、大正 8) 大阪高等工業学校 (明治 40 年~大正 8 年時点) 機 関 の 目 的 「海軍造船職工ヲ教育スル所 トス」(造船工練習所条例第 1 条) 「海軍職工ニ海軍技手ノ素養ニ必要ナ ル造船造機ニ関スル学術技能ヲ教授ス ル所トス」(技手養成所令第 2 条) 「工業ニ従事スヘキ者ニ必要ナル高等ノ 学術及技芸ヲ授クルヲ以テ目的トス」(学 校規則第一条)※「実地工業ニ従事スヘキ 者」(入学志願者心得) 科造船科、造機科 造船科、造機科 造船科、船舶機関科、ほか 5 科 年 数3 ヶ年 3 ヶ年。必要に応じ補修科(年限 1 年) 3ヶ年 処 遇 方 針 「卒業証書ヲ有スル者ハ海軍 技手トナルベキ資格アル者ト ス」(条例 11 条) 「卒業証書ヲ有スル者ハ海軍技手トナ ルベキ資格アル者トス」(規則 29 条) 「卒業者ハ海軍技手ニ任用スルコトヲ得」 (←海軍生徒に対して、造船生徒及造兵生 徒条例、明治 41 年 9 月以降) 勤 続 義 務 卒業後10 年以上海軍の業務に 従事 卒業後 10 年間海軍の業務に従事 10 年間海軍の事務に服する義務(←海軍生 徒に対して、造船生徒及造兵生徒条例、明 治 41 年 9 月以降) 応 募 要 件 ・年齢満 21 年以上満 30 年未 満 / 海軍造船職工として 引き続き満 3 年以上現業に服 し居る者 ・年齢 21 歳以上 ・海軍職工として引き続き 3 年以上服 業し居る者 年齢満 17 歳以上の男子で下記の内一つ該 当する者 中学校卒業、工業学校卒業、専門学校入学 者検定合格 入 学 試 験 英文(「ユニオン」第一読本)、 読書(漢字交じり文)、算術 (四則、分数、比例)、作文 (通俗文、記事文) 国語、漢文、外国語(英語)、数学(算 術、代数、幾何)、雑問(専門技術)に 関し「中学校第三学年修了ノ程度」 「中学校卒業ノ程度」 国語(読書・作文)、英語(書取・文典・訳 解)、数学(算術・代数・幾何・三角衡)、 物理及化学、図画(自在画・用器画) 教 育 法 「半日ヲ学術ノ練習時間ニ充 テ半日ヲ実業ノ時間ニ充ツ」 「学術教育ハ毎日午前ニ於テ之ヲ行 フ」、「実業教育ハ毎日午後ニ於テ之 ヲ行フ」 「就業上必要ナル諸学科目ヲ授ケ併セテ 各科所設ノ工場ニ於テ学理ヲ応用シ実地 製造ノ法ヲ授ケ」 教 育 内 容 技手養成所に無い教科:邦文 (読文) 造船工練習所に無い教科:化学、電気工 学、工業経済学 造船工練習所及び技手養成所に無い教科 目:工場建築法、簿記、兵式体操 補修科:微分・積分、熱力学、水力学、 工場管理法、艦船計画、艤装計画製図 技手養成所補修科の工場管理法、艦船計 画、艤装計画製図は高等工業学校に無い
定される。 造船工練習所および技手養成所の教育は、どちらも 3 ヶ年の修学期間であるものの、「半日ヲ学術ノ練習時間ニ 充テ半日ヲ実業ノ時間ニ充ツ」(海軍造船工練習所規則第 十七条)、「学術教育ハ…毎日午前ニ於テ之ヲ行フ」(海 軍技手養成所細則第二条)、「実業教育ハ…毎日午後ニ 於テ之ヲ行フ」(同細則第三条)とする方式である。し たがって、造船工練習所と技手養成所の入学時点での学 習準備程度の差、すなわち高等小学校卒業程度と「中学 校第三学年修了ノ程度」の差は、両者の教育目標水準の 相対的な差になるとみられる。また、教育内容について は、化学、電気工学、工業経済学が技手養成所で新たに 加わった教科であるが、これらは 12 年の時差による造船 技術の進展がもたらした技手に必要な素養の変化を表し ていると考えられる。 次に、造船工練習所および技手養成所に対する官立高 等工業学校の教育目標水準に関する相対的な差異につい て検討しよう。先の検討で入学対象が高等小学校卒業程 度とみられる造船工練習所と「中学校第三学年修了ノ程 度」を入学対象とする技手養成所に対して、中学校卒業 者を入学対象とする官立高等工業学校は明らかに高い学 習準備水準が要求される。さらに、官立高等工業学校は、 海軍の両養成機関と同じ 3 ヶ年の修学期間であるが、フ ルタイム制であるために学術教育の総時間数が海軍の両 養成機関の 2 倍程度になることは明らかである。これら のことから、技手養成所は官立高等工業学校の代替には なり得ず、また代替を意図していないといえる。 以上の検討から、技手養成所は、造船工練習所と比較 して入学のための学習準備水準が若干高まっているもの の入学応募条件や教育方法等多くの点で差異がないこと から造船工練習所の再興とみることができる。しかしな がら、この両者と官立高等工業学校が想定する教育目標 水準には明らかな差異があることがわかる。 8.おわりに これまでの検討をまとめると、次のとおりとなる。① 造船工練習所廃止の理由は、中級技術者の調達を内部養 成から外部教育機関である官立高等工業学校へ転換する ことであった。②この転換には計画の不充分さに加え、 代替給源についての見通し分析の甘さが指摘でき、これ らは廃止の決定がきわめて急激であったことに由来する ものであった。③中級技術者の給源として期待された官 立高等工業学校は、技手の任用数および技手職務在任期 間において期待の機能を充分に果たせなかった。④官立 高等工業学校が中級技術者供給機能を果たせなかったの は、調達転換のタイミングの不運さもあるが、海軍工廠 の技手人材の要件と高等工業学校の教育内容・程度との 齟齬も要因となっている。⑤大正 8 年に設置された技手 養成所は、その名称が示すとおり技手人材の供給を担い、 この機能は入学応募条件や教育方法等多くの点で差異が ない造船工練習所を継承するものであり、官立高等工業 学校の代替をねらったものではないといえる。 以上のことから、海軍工廠内部養成制度は先行研究が 明らかにしていない学校工業教育制度との葛藤を経るこ とよってより堅固な制度として再生したことがわかる。 その堅固さは、その後同制度が造兵部門、航空機部門に も適用され、昭和 20 年の大戦終結まで堅持されたことが 証している。本稿で明らかにした中級技術者の調達をめ ぐる海軍工廠における葛藤は、当該養成制度の学校工業 教育史における新たな意義および位置づけを提供したと いえる。そのことは、本稿検討の対象時期と同時期の連 合工業調査委員会による答申「工業教育刷新案40)」が高 等工業学校の問題を指摘し新たな中等工業教育の枞組み を提案した問題背景を明示していると考えられる。この 点についての検討は今後の課題としたい。 註 1) 「横須賀造船所」は明治 4 年 4 月 7 日から明治 22 年 5 月 28 日までの言わば明治前半期の名称であるが、徳川幕府による 創設期の名称は「横須賀製鉄所」である。なお、明治 22 年 5 月 28 日以降「横須賀鎮守府造船部」に、明治 30 年 9 月 3 日 以降「横須賀海軍造船廠」に、明治 36 年 11 月 5 日以降横須 賀海軍工廠にそれぞれ改称している。 2) 起源のとらえ方については必ずしも定まっていない。たとえ ば海軍当局の認識は、技手養成所の設置に関する上申「海軍 造船造機練習所設置ニ関スル件」(大正 7 年 5 月 1 日技本第 1056 号、海軍技術本部長から海軍大臣宛て)において、「明 治二十二年五月横須賀鎮守府造船部内ニ海軍造船工学校ヲ設 立シタルハ、実ニ我海軍ニ於ケル技手教育ノ起源ニシテ」と している。他方、「学友交誼会」という当該養成制度の同窓会 組織では、明治初期の黌舎(正則)を創始とし度々の変遷を 経て技手養成所へと連なる一つの系統を同一の同窓会として 名簿を作成している。 3) 工業教育の嚆矢としてフランス人による造船技術伝習につい て論じた主な先行研究を掲げる。 岩内亮一「技術導入期における工場内教育-明治前期の官営 工場を中心に-」『東京教育大学教育学研究集録第 4 集』、1965 年。 堀内達夫「技術教育の成立における日仏関係-横須賀黌舎の
設立史-」『フランス技術教育成立史の研究』多賀出版、1997 年。 飯田史也「横須賀製鉄所における技術教育の特質」『広島大 学大学院教育学研究科博士課程論文集第 12 巻』、1986 年。 4) 企業内教育形成史の視角から論じた主な先行研究を掲げる。 隅谷三喜男編著『日本職業訓練発達史〈上・下〉』日本労働協 会、1970 年。兵藤釗『日本における労使関係の展開』東京 大学出版会、1971 年。西成田豊『経営と労働の明治維新- 横須賀製鉄所・造船所を中心に-』吉川弘文館、2004 年。 5) 三好信浩『日本工業教育発達史の研究』風間書房、2005 年 12 月、58 頁。 6) 旧海軍の官吏は事務系と技術系に大別され、技術系の上級官 吏(高等官)である技師に対し、技手は下級官吏(判任官) である。技師同様、技手には工廠ごとに定員があり、欠員に よって任用が行われる。氏家康裕(「旧日本軍における文官等 の任用について」防衛研究所紀要第 8 巻 2 号、2006 年 2 月) によれば、判任官は軍人の階級に照らすならば下士官に相当 する。 7) 八木彬男『明治の呉及呉海軍』株式会社呉造船所発行(非売 品)、昭和 32 年、120 頁。 8) 国立公文書館、御署名原本(明治三十九年)勅令第三百十一 号の添付文書。 9) 同上。 10) 公文類聚・第三十編・明治三十九年・第十四巻、「海軍造兵生 徒条例中ヲ改正ス」。 11) 同上。 12) この当時の海軍工廠の主要な技術分野は、船体に関わる技術 分野を「造船」、機関とその関係機械に関わる技術分野を「造 機」そして兵器に関する技術分野を「造兵」とした。 13) 造兵分野の中級技術者調達を造兵生徒制度という外部教育機 関への「委託」に頼ってきた理由については、海軍技術本部 長が「造兵事業ニ関係スル技手ハ工事ノ性質上従前通リ専門 学校、県立工業学校出身者ヨリ採用スル」(大正 7 年 10 月 10、 11 日の工廠長会議)と述べている。つまり、造兵分野を構成 する専門技術が機械から電気、応用化学まで多岐にわたって 分化しているため、内部養成は教育コスト面で合理的でない からである。ただし、「委託」とは言え、海軍仕様の特別カリ キュラムを東京工業学校に委託するものではない。 14) この場合の「海軍造船生徒及造兵生徒」は、造機を「造船」 で包括しており、造機分野の生徒を除外している訳ではない。 15) 『横須賀海軍工廠史第四巻』横須賀海軍工廠、昭和 10 年 11 月、497 頁。 16) 同上書、497 頁。 17) 同上書、497 頁。 18) 防衛研究所所蔵『海軍職員進退録』に綴られた判任官以上の 任用に関する稟議書に添付された履歴書。 19) 同窓会「学友交誼会」発行の『横須賀海軍造船学校出身者同 窓名簿-第三回』(大正 15 年 9 月 1 日調、非売品)でも、造 船工練習所7期生(勅令当時三学年生)が「明治 40 年 7 月」、 8 期生(勅令当時二学年生)が「明治 41 年 4 月」を卒業年月 としている。 20) 『大阪高等工業学校一覧』(大阪高等工業学校編、明治 31 年 以降各年度)に掲載された明治 36 年から明治 39 年までの卒 業生名簿より抽出した。 21) 同上の卒業生名簿により抽出した。 22) 前掲 18) と同様『海軍職員進退録』の履歴書より抽出した。 23) 同上。 24) 「工廠内職工教育」とは、本稿が問題とした養成制度ではな く、呉海軍工廠がその内部で独自に設定した職工を対象とす る中学程度の普通教育と初歩の専門教育を行う教育機会であ る。これを呉工廠造機部では「座学」、同廠造船部では「講習 会」と名付けている。造機部の座学は普通科(3 ヶ年)と普 通科修了者を対象とする特別科(1 ヶ年)がある。受講例で は特別科まで合計 4 ヶ年受講する者が多数を占める。他方、 造船部の講習会は、普通科(1 ヶ年~4 ヶ年)、高等科(また は「補習科」、1 ヶ年)があり、合計 5 ヶ年履修する者も多い。 これらは、造船工練習所の廃止以前に開始しているため、造 船工練習所の代替として現場レベルで開始したという理由付 けはできないが、結果的にはこれらの修了者が大正 7 年から 10 年にかけて官立高等工業学校卒業者に代わり技手人材の 供給の中核を担ったのである。 25) 明治四十年公文備考・巻一官職・諸会議(三)、防衛研究所史 料閲覧室所蔵。 26) 「工手」の身分は、職工の最上位とするか職員・技術員の最 下位とするかで揺れ動いたが、明治 42 年以降、職務は職員ラ インに就くものの身分は職工の扱いとするとの位置づけが固 定された。結果的には判任官(=職員=月給制)である「技 手」に対し、工手は職工(=日給制)である。本稿が対象と する年代の工手以下の階層は、工手-組長-伍長-一般職工 である。 27) 『大阪高等工業学校一覧』の「卒業生及其就職場所」欄から 抽出した。造船・造機部門以外(造兵などその他の部門)の 海軍工廠就職者を含む。 28) 同上。 29) 川島瑞枝氏所蔵『海軍技手養成所系統出身同窓名簿』(昭和 9 年 10 月 1 日調、第 11 回、非売品)より作成した。 30) 川島庄太郎氏(学友交誼会会員、名簿事務局担当)の縁戚関 係者所蔵『海軍技手養成所系統出身同窓名簿』(昭和 16 年 10 月 1 日調、第 18 回、非売品)より作成した。なお、技手養成 所造兵科の前身である海軍造兵職工講習所の 1 期生(大正 10 年 8 月卒業)から 3 期生(昭和 2 年 12 月卒業)も同名簿に掲 載されているが、同表ではこれを省略した。 31) 前掲 18)と同様『海軍職員進退録』中の履歴書。昭和 3 年ま でを範囲としたのは、昭和 4 年以降の『職員進退録』が開示 されていないからである。 32) 造船協会から昭和 10 年 12 月に発行されたが、筆者は原書房 による復刻版(昭和 48 年 8 月発行)を参照。 33) 造船協会『日本近代造船史-大正時代-』造船協会、昭和 10 年 12 月、185 頁。 34) 同上書、186 頁。 35) 同上書、186 頁。 36) 海軍省公文備考、大正八年度造兵部長会議概要報告。 37) 江利川春雄『近代日本の英語科教育史』東信堂、2006 年 10 月、233-234 頁。 38) 小篠敏明『明治・大正・昭和初期の英語教科書の計量的分析』、 平成 15 年度~16 年度科学研究費補助金研究成果報告書、平 成 17 年 4 月。 39) 海軍工廠については、前掲書 31)の 44-49 頁、民間造船所に ついては同書の 354-355 頁をもとに作成。なお、民間造船所 については千トン以上の船舶の集計。大阪高等工業学校卒業 生の就職動向については、『大阪高等工業学校一覧』の「卒業 生及其就職場所」欄から抽出して作成した。大正 15 年以降は 卒業生個々の勤務先の掲載がないため、大正 14 年までの抽出 となった。 40) 内閣の設置した臨時教育会議が工業教育に関して何等の考慮 もなかったことへの不満を背景として、工学関係学会・協会 14 団体は工業教育改善を課題とする連合工業調査委員会を 設置し、大正7 年 11 月 4 日から1 年 4 ヶ月かけて行った調査・ 審議の成果として「工業教育刷新案」を取りまとめた。同案 は、大正 9 年 3 月 1 日の第 4 回連合工業調査委員会総会で可 決され、同年 6 月に内閣総理大臣ほか関係方面に配付された。