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具体的符合説における客体の特定について--方法の錯誤と客体の錯誤の区別を中心として---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

具体的事実の錯誤すなわち犯罪行為に際して行為者の認識した事実︵認識事実︶と現実に発生した事実︵実現事実︶ とが同一の構成要件内において食い違う場合のうち、客体の錯誤、すなわち、Aの殺害を意図して、Aであると思っ た人物に向けて銃弾を発射し命中させたが、Aと思った人物は実は別人のBであったというような場合については、 法定的符合説も具体的符合説も人違いであったBに対する殺人の故意を肯定する点で結論に相違はない。しかし、方 法の錯誤、すなわち、Aの殺害を意図してAに向けて銃弾を発射したが、銃弾はAをそれてBに命中してこれを殺害 したというような場合については、法定的符合説では、AもBも構成要件的に同価値の﹁人﹂であることにはかわり がないとして、Bについて殺人の故意が認められるのに対して、具体的符合説では、狙いを定めた﹁その人﹂である

具体的符合説における客体の特定について

一 方法の錯誤と客体の錯誤の区別を中心として−

一 はじめに

小 島

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二 Aではなしに﹁その人﹂ではないBに侵害結果が生じたとして、Bについては殺人の故意が認められないことになる。 このような結論の相違は、法定的符合説においては、殺害を意図したAも侵害結果が発生したBも殺人罪︵刑法一九 九条︶ の構成要件において同じ﹁人﹂ であり、﹁およそ人﹂ の殺害を認識して﹁人﹂を殺害したのであるから結果に ついて故意が認められると考えて、﹁人﹂という抽象的なレベルで客体を捉えることになるのに対して、具体的符合 説においては、殺人罪における故意としては、﹁およそ人﹂では不十分であり、具体的な対象として﹁その人﹂を認 識する必要があると考えて、﹁その人﹂という︵法定的符合説に比べて︶ より具体的なレベルで客体を捉えることに なるためである。もっとも、具体的符合説においても、客体の錯誤の場合には実現事実について故意を認めるのであ るから、﹁Aという人﹂という程度にまでは客体を具体化するものではない。したがって、わが国で主張されている 具体的符合説も、その限りでは客体の抽象化を行うのであり、法定的符合説と具体的符合説の相違は、客体の抽象化 ︵1︶ の程度にあるといってよい このように、法定的符合説においては、客体の錯誤も方法の錯誤も、ともに実現事実について行為者の故意を認め ることに違いはない。これに対して、具体的符合説においては、客体の錯誤については故意を認め、方法の錯誤につ いては故意を認めないことになり、両者で結論が異なることになる。このため、具体的符合説においては、客体の錯 誤と方法の錯誤の区別が重要となるのであるが、とくに法定的符合説から具体的符合説への批判の一つとして、現実 の事例においては客体の錯誤か方法の錯誤かの区別は明確でないあるいは困難であると指摘されてきている。たしか に、具体的符合説によれば、たとえば客体の錯誤について、﹁﹃その人﹄を殺そうと思って、﹃その人﹄を殺した﹂ の であるから故意が認められると説明されることが多い。しかし、このような説明そのままでは、﹁その人﹂というこ ︵4︶ とが客体をめぐるいかなる事情を認識することになるのかは、一般的な形では示されていない。また、客体を眼前に

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具体的符合説における客体の特定について(小島) H 直接的な知覚のある場合 直接的な知覚のない場合についての検討に先立ち、まず、典型的な事例、すなわち、行為者が客体を眼前に捉えて いるときのように、客体について直接的な知覚を有する場合について、考えてみることにする。前述のように、具体 的符合説においては、客体の錯誤については故意が認められ、方法の錯誤については故意が否定される、という結論 三 している場合のように、行為者が客体を視覚︵または聴覚︶で直接的に知覚している場合には、このような基準によっ

ても客体の錯誤と方法の錯誤との区別にそれほどの困難は伴わないと思われるが、行為者が客体を直接的には知覚し

ない場合、すなわち、離隔犯や共犯事例を問題にするときには、このような基準はたちまち明確性を失い、その結果、

︵5︶ 具体的符合説をとる立場においても見解が対立することになるのである。具体的符合説における﹁その人﹂という基

準は、行為者が﹁そこにある﹂と思った客体が、認識した通りの態様・個数で現実に存在するという前提条件が充足

︵6︶ されない限り通用することはできない、という指摘もされている。したがって、具体的符合説において、客体の錯誤

については故意を肯定し、方法の錯誤については故意を否定するという定式を維持するのであれば、行為者が客体を

直接的に知覚しない場合における、客体の錯誤と方法の錯誤の区別、さらにより根本的には、客体の特定についてど

のような基準を定立するのかが大きな課題となるのである。そこで、本稿では、具体的符合説に立った場合の客体の

錯誤と方法の錯誤の区別、および、客体の特定の基準について、行為者が客体を直接的に知覚しない場合のうち、と

くに離隔犯および共犯事例のうちの被教唆者が客体の錯誤に陥った事例を中心に、検討することとする。

二 直接的あるいはそれに準ずる知覚のある客体の特定

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四 が提示される。たとえば、行為者が、Aを殺害しようと考え、暗がりでAを待ち伏せしていたところ、それらしき人 物が近づいてきたので、これに向けて銃弾を発射し、銃弾は狙い通り命中したが、銃弾が命中して死亡した人物はA ではなく実はBであった、というような客体の錯誤の事例については、具体的符合説においても、︵法定的符合説と 同様に︶ Bの殺害について行為者の故意は認められる。これに対して、Aを殺害しょうと考え、Aを狙って銃弾を発 射したが、銃弾は狙いをそれて傍にいたBに命中しこれを死亡させた、というような方法の錯誤については、具体的 符合説においては、︵法定的符合説とは異なり︶Bの殺害について行為者の故意は認められないという結論に達する。 そして、この理由として、客体の錯誤については、行為者は ﹁その人﹂を殺そうとして﹁その人﹂を殺害したのであ るから認識事実と実現事実に敵靡はなく、﹁その人﹂がAであるのかBであるのかは動機の錯誤に過ぎない、しかし、 方法の錯誤については、狙った﹁その人﹂とは異なる ︵別の︶ 人に結果が発生したのであるから認識事実と実現事実 とは異なり、認識していなかった実現事実について故意を認めることはできない、と考えるのである。このような基 準は、少なくとも、行為者が被害者を眼前にした場合のように客体を直接的に知覚した場合には、簡潔に事例を説明 できるものといえる。 客体を特定する方法としては、①その行為の持つ危険が実現した客体という意味での相当因果関係の範囲内におけ る侵害の対象としての特定、②時および場所による特定、③法益主体あるいは法益の性質に基づく特定が挙げられて ︵7︶ いる。そこで、上述の ﹁その人﹂という基準をこのような分類に当てはめてみると、②時および場所による特定であ ると考えることができる。すなわち、﹁その人﹂とは、行為のとき、たとえば銃で狙いを定め銃弾を発射しょうとす るその瞬間に、行為者が狙いを定めた場所に存在する人、というように、ある時︵時間︶ある場所︵空間上の位置︶ に存在する人という意味であり、﹁その人﹂という基準は、客体を﹁時と場所﹂ で特定することに外ならないのであ

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具体的符合説における客体の特定について(小島) 出 直接的な知覚の延長線上にあると考えられる場合 たとえば、Aを脅迫しようと考え、A宅に電話したところ、電話回線の故障で電話はB宅に通じBが電話に出たが、 行為者は、相手が電話を取るやいなや、電話に出たのがAであると思い込み、Bに対して脅迫の言葉を捲し立てた、 というような事例︵本稿では﹁回線誤接続による脅迫電話事例﹂と呼ぶことにする︶ について考えてみたい。この事 五 ︵8︶ る。また、具体的符合説の他の論者からは、因果力という観念を用いることによって客体の特定が論じられている。 すなわち、客体が直接的な知覚によって認識されている場合については、﹁行為の効果、因果力という即物的な観念 を用いることによって、客体の錯誤において、﹃Aを殺すことになる﹄といった表象が排除されることを根拠づける ことは可能であろう。即ち、直接的に知覚された﹃その人﹄を侵害することの表象があれば、因果カヤ効果の認識と しては、充分であるし、行為者表象において﹃その人﹄は﹃A﹄であっても﹃B﹄であっても、因果力の及ぶ客体の ︵9︶ 認識に誤りは生じてないと言える﹂とする。また、別の論者からは、﹁その客体に向けて因果的危険行為が設定され ︵10︶ て、その客体に結果が生ずれば、客体の錯誤、別の客体に結果が生ずれば、方法の錯誤である﹂というように、因果 的危険行為の方向としての客体特定が論じられている。そして、これらのように論じられるとき、そこではやはり、 へ〓− ﹁時と場所﹂による客体特定が語られているものと解される。 このように、客体に対して直接的な知覚を有する場合については、﹁時と場所﹂による特定は十分にその役割を果 たすことができると考えられる。しかし、問題は、この基準が離隔犯や共犯事例においても基本的に維持できるのか、 あるいは、﹁時と場所﹂という基準を放棄して他の基準を用いる必要があるのか、である。そこで、以下では、直接 的な知覚を有しない場合における、客体の特定の基準について検討することとする。

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六 例は、行為者が客体を眼前にしていない、少なくとも場所的に距離があり、行為者は﹁直接的に﹂知覚することがで きない ︵仮に、行為者が相手の声を聞いたとしても、それは電話回線を通じた電気信号によるという意味で、間接的 な知覚にとどまるといえる︶ということで、離隔犯としてしばしば議論の対象ともなる事例である。 この事例については、行為者がA宅への接続を意図して、実際にはB宅に電話回線が接続された、という点を捉え れば、Aを狙ったもののその狙いがそれてBに銃弾があたったと同じような構造となり、方法の錯誤とも考えられる。 これに対して、実際に電話に出たBをAだと思って脅迫した、という点を捉えれば、客体の錯誤と考えることもでき る。そして、このような相違は、脅迫の実行着手をどの時点と考えるのかによって生じるものと考えられる。すなわ ち、脅迫における実行の着手を、電話をかけるときと捉えれば方法の錯誤となり、脅迫の言葉を伝えるときと捉えれ ば客体の錯誤となるであろう。しかし、本尊例のような場合には、実行の着手は脅迫の言葉を電話に出た相手に伝え るときと考えるべきである。﹁ダイヤルを回すことが脅迫のための予備行為であることは、あたかも毒殺するつもり で毒入のコーヒを作ることがまだ毒殺の予備行為であるのと等しい。脅迫の相手に対して害悪の告知を開始したとき ︵12︶ に着手だとされるのは、毒入コーヒを客に提供するときに殺人の実行着手とされるのと同じである﹂。したがって、 行為者は、相手に向かって脅迫の言葉を伝える時点において、電話に出たその人を脅迫行為の客体として脅迫行為を 行っているのであり、ただその相手は行為者が考えていたAではなくBであったというのであるから、客体の錯誤で ︵13︶ あると考えられる。 回線誤接続による脅迫電話事例においては、行為者と客体との間には電話回線といういわば遮蔽が存在している。 そのため、行為者には客体に対する直接的な知覚が存在しない。同様な事例として、たとえば、自動車に乗っている 者の姿はみえないが、もし誰かがその中にいるとすればAであると思って銃撃したところ、中にいたのは別人のBで

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具体的符合説における客体の特定について(小島) あり彼が死亡したというような事例︵本稿では﹁自動車内への銃撃事例﹂と呼ぶことにする︶が考えられる。この事 例においても、自動車という遮蔽を隔てて、行為者は、銃弾を発射する時点において、自動車の中にいる人を攻撃の 客体として特定し、ただその人が行為者が考えていたAではなくBであったのである。したがって、行為者は自動車 の中にいる人を狙って﹁その人﹂を殺害しているのであるから、そこには方法の錯誤は存せず、客体の錯誤であると ︵14︶ 考えるべきである。 このような行為者と客体との間に直接的な知覚を妨げる遮蔽が存在する場合について、具体的符合説の論者から は、行為者が知覚によって客体を認識するということは、そもそも行為者の推測を含むものである、との指摘がされ ている。すなわち、﹁感覚的な認識それ自体は外界の対象をそのときの場所で把握するものであろう。そして、その 際、そのときそこに人がいるという推測がそれに加わることで、行為者はその人を表象することができると考えられ ︵15︶ る﹂とし、﹁行為のとき感覚的に認識できる範囲の場所にある感覚的な認識をさえぎるものの向こうにいる客体を、 その障害に対する感覚的な認識とそのときその向こうに客体が存在するという推測をもとに、殺そうと考えている場 合は、その客体を感覚的に認識して表象していたのに準じて、その客体を殺すつもりだったと考えて良いように思わ ︵16︶ れる﹂と考えるのである。 たしかに、回線誤接続による脅迫電話事例あるいは自動車内への銃撃事例のように、行為者の直接的な知覚を妨げ る遮蔽が存在する場合にも、行為者は、その遮蔽を越えてその向こうの﹁その人﹂を特定しているといえる。そして、 それは、直接的な知覚だけではなく、﹁推測﹂を介在させることでそのような特定を可能にしている。一方、客体を 眼前に捉えたような典型的な事例についても、行為の時にその場所に存在する客体を狙って銃弾を発射してはいるも のの、厳密に考えれば、銃弾が客体に到達する短い時間ではあるが二疋の時間の経過の後にも狙ったその場所に客体 七

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1\ ノ が存在するという推測を行っているといえるのである。ただ、その時間が短く客体がその場所に存在し続ける蓋然性 が高いがゆえに、行為者はそのような推測を意識せずに︵すなわち無意識のうちに︶行為に出ているものと考えられ る。したがって、回線誤接続による脅迫電話事例あるいは自動車内への銃撃事例のように、直接的な知覚を妨げる遮 蔽が存在するような場合については、行為者の推測が介在するという事情は直接的な知覚がある場合とで大きな相違 はないのであり、ただし、その推測が行為者の主観的な過程に占める割合は直接的な知覚がある場合と比べて比較的 大きいという違いがある、ということができよう。しかし同時に、回線誤接続による脅迫電話事例あるいは自動車内 への銃撃事例における行為者と客体との﹁時間的・空間的な隔たり﹂は、以下で検討する離隔犯や共犯事例と比べて ︵17︶ 小さいものともいえ、その意味では、直接的な知覚の延長線にあると考えることができるのである。そして、このよ うな場合には、実行行為の時点を正確に捉えることによって、直接的な知覚がある場合と同様に﹁その人﹂という基 準を大きく修正あるいは変更することなく適用することが可能であると考えられる。回線誤接続による脅迫電話事例 においては、脅迫文言を伝えようとしている﹁時﹂に当該電話口に出ている﹁その人﹂、あるいは、自動車内への銃 撃事例においては、銃弾を発射する﹁時﹂に自動車の中にいる﹁その人﹂という意味で、客体はやはり﹁時と場所﹂ により特定されているといえるのである。 H 方法の錯誤と理解する見解 それでは、離隔犯として議論される他の事例についてはどうであろうか。たとえば、Aを殺害しようと考え、Aが

三 離隔犯における客体の特定

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具体的符合説における客体の特定について(小島) 毎朝自動車を使用して通勤することを突き止め、ある日の晩にAの自動車にイグニッションキーを回すと起爆するよ うな装置をしかけ、翌朝Aが通勤のために自動車を使用したときに爆発するよう爆弾をセットしたところ、翌朝、行 為者の予期に反してAの家族Bがその自動車を使用して爆死した、というような事例 ︵本稿では﹁自動車爆弾事例﹂ と呼ぶことにする︶ について検討することとする。自動車爆弾事例は、回線誤接続による脅迫電話事例あるいは自動 車内への銃撃事例とは異なり、行為者と客体との間に存在する﹁時間的・空間的な隔たり﹂は、決して小さいものと はいえない。そこで、具体的符合説においてこのような事例をどのように考えるのかが問題となる。 自動車爆弾事例については、具体的符合説の中で、これを方法の錯誤と理解する見解と客体の錯誤と理解する見解 ︵18︶ とが対立する。まず、これを方法の錯誤と理解する論者は、﹁方法の錯誤とは因果的やり損ない﹂であるとして、﹁行 為者がAの車のなかに時限爆弾をしかけたのは、翌朝、いつものようにAがその事を駆って仕事にでかけていくこと を期待したからであって、Bがそれに乗って買物に行くかもしれないとの予想があってのことではない。もしそうだ とすれば、本件は行為者がしかけた因果力がもともとこれに向けられていたAの上にではなく、別人Bの上に生じた ︵19︶ ものとして方法の錯誤だとせねばならないであろう﹂とする。また、別の論者も、客体の錯誤と方法の錯誤の区別の ︵20︶ 基準は、﹁客体を巡る諸事情のうち行為者の行った因果予測に影響を及ぼす事情について錯誤が生じたか否かである﹂ と定義したうえで、﹁行為者は、まずAを念頭において、そのAが毎日、朝一番にその車を利用している、という彼 の行動様式についての経験的知識を基礎として、翌朝もAが最初にその車に乗るであろう、とAの将来の行動を予測 している。加えて、爆弾の一般的効果の認識、及び、イグニッションキーのメカニズム、さらに、自らがセットした 装置の機能、という法則的知識をも動員した上で、最初にその車を始動させた者が死亡する、という行為手段の効果 を予測している。この両者を結び付けて初めて、行為者は、﹃人が死ぬ﹄という結果の予見に至っているのである。 九

(10)

一〇 この場合、Aが﹃標的﹄となっており、そのAの行動の予測を基礎として、結果の予見が成り立っているがために、 客観的には存在する、他の人物に対する危険は行為者主観においては排除されている。従って、この場合、A以外の ︵21︶ 人物に生じた結果は、行為者の認識に覆われていない﹂としてBに生じた死亡結果については、方法の錯誤として故 ︵22︶ 意を否定するのである。これらの見解では、故意の内容として、現状の認識と同時に因果的な予測が重要な役割を担っ ているといえる。すなわち、実行の着手時点で因果力が向かうように設定された客体について結果が発生した場合は 客体の錯誤、これに対して、予測した因果がその後逸脱して展開した場合には方法の錯誤である、とする基準が用い ︵23︶ られていると考えられる。 このような見解については、次のような疑問が向けられている。すなわち、自動車爆弾事例を修正して、行為者は、 Aの行動日程表を入手して、車に爆弾を仕掛けようとしたが、その直前に計画が変更され、翌日迎えに来た自動車で 出勤し、Aが日常通勤で使用する自動車はBが使う予定に変わっており、行為者はそれを知らずに爆弾をしかけたと する。この場合には、行為者の設定した因果力は、すでに実行の着手時点で客観的にBに向けられているのであるか ら、上述の基準によれば客体の錯誤になるものと思われる。これと異なり、予定の変更はかねてから話題に上ってお り、ほぼAは別の自動車を使うことになっていたが、行為者が爆弾をしかけた後に最終的にその予定変更が決定され、 Bが当該自動車を使うことになった場合には、上述の基準に従えば、方法の錯誤ということになるのであろうか。そ の区別は、どの時点でAが車に乗ることはないという因果逸脱が決定されたかの判断にかかることになる。このよう に修正事例を考慮に入れると、行為者の因果予測の精密さが区別基準なのではなく、客観的因果状況であるというこ とが明らかになる。そうだとすると、客観的因果の流れは、行為者の認識にもかかわらず、従前からほぼ決定されて ︵24︶ いるともいえないことはないので、客体の錯誤の場合が多くなるであろう、とするものである。このように、つねに

(11)

具体的符合説における客体の特定について(小島) 変動する生活事象の中で考えると、どの時点から因果の流れが変わったのかは明らかでなく、上述の基準は明確な基 ︵25︶ 準にはならないと考えられる。 また、方法の錯誤と理解する別の論者は、﹁﹃A﹄という同一性を想起することでAを表象し、その客体︵だけ︶ を 殺そうとも考えていたこの事例では、行為者が考えていた ﹃爆発のときその単にのっている人﹄を殺すということか ら、Bを含む﹃およそ人﹄を殺すという意味は失われているのではなかろうか。筆者には、この事例では行為者はA だけを殺すつもりだったというべきであるように思われる。そして、そうだとすると、実際にはBを殺したのである から、この事例では行為者は殺すつもりでなかった人を殺したということになるであろう﹂として、自動車爆弾事例 ︵26︶ を方法の錯誤と理解する。ここでは、﹁同一性﹂ということが客体の特定の基準となっていると考えられるが、その ︵27︶ 同一性については、必ずしも名前のことではないとしながら、﹁行為者が、自己の有するある特定の人の同一性を想 起することによってその客体を表象した場合、そこにおいて同一性の観念という形で考えられたのが誰なのかという ︵器︶ ことは、⋮個別具体的に判断せざるを得ないかもしれない﹂とされるだけで、その具体的内容は明らかでない。また、 同一性という観念それだけを持ち出すならば、明らかに客体の錯誤と理解される事例、たとえば、眼前のAと思った 人物を銃撃したところそれはAではなくBであったという場合において、これを方法の錯誤でなく客体の錯誤である とする根拠が見出せなくなるように思われる。 なお、自動車爆弾事例を方法の錯誤と理解する見解の中には、他の者の乗車を防止するに足る有効な手段を講じて いないのであるから、そのしかけた因果力が他の者の上に発生することをも許容するものだといわなければならな ︵29︶ い、としてBの爆死について未必の故意を認めようとする見解も見受けられる。また、方法の錯誤であっても、例外 ︵30︶ 的には客体の錯誤と同様に扱う方が適切な場合があるとする見解もある。このような見解は、錯誤論上の解決では安 一一

(12)

国 客体の錯誤と理解する見解

自動車爆弾事例について、これを客体の錯誤であると理解する論者は、たとえば、﹁行為の開始時に行為者が認識

していた客体︵A︶と実際に結果の発生した客体︵B︶とが食い違っているのであるから方法の錯誤のようにもみえ るが、行為が客体に作用する時点で考えると、車のエンジンをかけるのがAだと考えていたらBであった、というこ ︵32︶ とで客体の錯誤とみることができよう﹂として、行為の客体への作用時点を基準に客体の特定を考える。また、﹁結 ︵33︶ 果発生の危険︵結果としての危険︶﹂が生じた時期を基準に離隔犯の事例を客体の錯誤と理解する見解も同様の考え

を基礎としているのであろう。しかし、﹁行為が客体に作用する時点﹂あるいは﹁結果発生の危険が生じた時期﹂を

結果の発生により近づけて考えると、客体を直接的に知覚する典型的な方法の錯誤の場合にも、﹁銃弾があたる時点﹂

において﹁銃弾があたるその人﹂がAであると考えていたが実はBであったということになり、客体の錯誤と判断さ

れ得るとも思われる。したがって、これらの見解は、客体の特定の基準としては不十分なものといえる。

自動車爆弾事例を客体の錯誤と理解する別の論者は、前述︵三H︶の﹁予測した因果がその後逸脱して展開した場

合が方法の錯誤﹂であると考ゝ意見解に対して、﹁被害者の生活行動に関する知識に基づいて行為した限り、被害者

を眼の前にした客体の錯誤であることが疑われない事例にも故意を否定しなければならなくなり、妥当とは思われな

い﹂として、﹁問題は発生事実が故意的に実現されたといえるかどうかであるから、行為者による危険予測は現実に

一二

当な結論を得られない場合には、未必の故意の承認あるいは例外的措置によって妥当性を部分的に確保しようとする

︵31︶ 意図があるように思われるが、自身の拠って立つ錯誤論から得られる結論の妥当性に対して、自ら疑問をロ王している

ものと思われる。

(13)

具体的符合説における客体の特定について(小島) 行われた行為に即してのみ重要性を持ちうるに過ぎないと考えるべきである。そうだとすれば、結果発生までの経路 が長く意図通りのコントロールが困難な危険を意識的に設定した者には、その危険の実現として生じた結果につき故 ︵34︶ 意犯の成立を認めてよい﹂とする。また、同様に客体の錯誤と理解する他の論者も、﹁一般に行為者は、Aを侵害す るために相当と思われる危険行為を行い、効を奏するのを待つのであるが、その危険行為は、現実的危険が及びうる 範囲をもっている。この危険行為を因果を予測しながら主観的に統制するのが、故意である﹂という前提にたち、﹁危 険行為の開始のときに意図された客体Aについて感覚的知覚が全くない場合には、Aの行動の因果予測を行って、一 定の方向に向けて危険行為を設定する。ここにおいて、行為者が自ら統制・操縦できる因果経過は、危険行為のみで あり、Aの行動は予測可能であるだけで、通常、それに影響力を及ぼすことはできない﹂とする。そして、﹁主観的 な危険行為の設定方向と現実に設定した危険行為の方向とが予定された危険の射程を越えて敵歯するときは、方法の 錯誤であ﹂り、また、﹁行為者が、危険行為を設定する場合に、他の客体に結果が生じることのないように、その危 険行為そのものの作用領域をとくに﹃意図された客体﹄Aに限定する措置を講じていない限り、意図された客体の行 動予測がくるってその危険領域に他の客体が入ってきたため、他の客体に結果が発生した場合、客体の錯誤である﹂ ︵35︶ とするのである。 これらの見解については、二つの点に着目することができる。第一は、﹁危険予測は現実に行われた行為に即して のみ重要性を持ちうる﹂あるいは﹁行為者が自ら統制・操縦できる因果経過は、危険行為のみであり、Aの行動は予 測可能であるだけで、通常、それに影響力を及ぼすことはできない﹂とする点、第二は、﹁結果発生までの経路が長 く意図通りのコントロールが困難な危険﹂あるいは ﹁予定された危険の射程﹂とする点である。まず、第一の点につ いて、論者はこれをさらに敷術し、方法の錯誤とは、﹁行為者の設定する危険行為自体のもつ因果力が、行為者の操 一三

(14)

一四 縦ミスから、予定した範囲に到達しなかった場合のみをいうのであって、行為者の支配下にない因果の流れの予測を 間違って、別の客体に結果が発生した場合には、危険行為の向けられた客体を錯誤したもの﹂ であり、﹁故意の向け ︵36︶ られる客体とは、つねに、そのような主観的に統制された自らの危険行為の向けられる客体なのである﹂と論じる。 すなわち、因果経過を行為者の主観的支配の及ばない因果予測と行為者が主観的に設定し統制しうる危険行為の因果 力とに明確に分離し、方法の錯誤とは危険行為の統制の失敗を意味するというのである。この点は、離隔犯における 錯誤の問題を検討するための重要な視座となるものであると思われる。 一方、第二の点については、同様の見解として、﹁行為者が認識していた事情だけを考慮に入れたときにも、狙っ た客体とは別の客体に結果が発生する類型的な危険性を肯定できる状況の下においては、生じた具体的結果は行為の 危険が実現する一つの態様またはバリエーションに過ぎなかったものと見て、結果帰責を肯定し得る場合が多いと思 われる﹂として、離隔犯のように﹁因果経過の支配を多かれ少なかれ手放すような形で成り行きにまかせるときも、 行為者が、思い描いた客体以外には結果が発生しないように充分に配慮したというような例外的事情がある場合を除 ︵37︶ いては、結果の帰貢を認めてよいと思われる﹂とする見解も存在する。そして、この第二の点に対しては、﹁未必の ︵38︶ 故意を認定︵あるいは否定︶するための判断資料が問題とされているように見受けられる﹂との指摘もなされており、 もしこれらの見解が未必の故意を取り込むことを意図するものであれば、錯誤論はそもそも未必の故意すら認められ ない場合に故意の符合を論じるものであるという観点から、このような考え方は適切ではないであろう。しかしなが ら、﹁この危険行為の向けられる客体とは、感覚的知覚のない場合には、その危険行為の及ぶ範囲に具体的危険の発 生の時点で存在する同一構成要件に属する客体なのであり、故意も、とくに別の客体に及ぶ危険を防止する手段が講 ︵39︶ じられていない限り、その客体に及ぶのである﹂とされるとき、﹁故意の向けられる客体とは、つねに、そのような

(15)

具体的符合説における客体の特定について(小島) 日 検討−離隔犯における客体特定の基準について それでは、客体の特定の基準について、どのように考えるべきなのであろうか。まず、殺人罪や傷害罪あるいは器 物損壊罪のように、通常錯誤が問題となるような事例では、客体の攻撃態様として、銃弾を命中させる場合であれば 物理作用、あるいは、毒薬を服用させる場合であれば化学作用というように、自然科学的な作用による侵害が考えら れる。そして、このような自然科学的作用の対象としての客体については、その特定の方法も自然科学的な要素によっ てなされるべきであり、それは﹁時と場所﹂ ︵時間と空間︶ である。その意味で、従来から多くの論者が用いてきた ﹁時と場所﹂という特定の基準は、十分に肯定できる。ただし、これらと異なり、たとえば、虚偽告訴罪において虚 偽告訴の対象としての被告訴人を考えた場合、客体への攻撃態様は誤った刑事司接作用という社会的作用であり、そ のため被告訴人の特定は、社会システムにおける要素、すなわち、被告訴人の氏名や現住所等を行為者が外部︵社会︶ に向けて表示しょうとすることによってなされるものと考えるべきである。したがって、行為者が告訴状に記載する 氏名・住所等を書き間違えて客観的には別人に対する告訴となった場合にも、行為者がその書き間違えた内容を認識 している限り、行為者が特定した客体はあくまで告訴状等で特定される人物であり、それが行為者の意図した人物と ︵40︶ 異なっていたとしても客体の錯誤にすぎないと考えられる。このように、客体の特定の基準は、客体に対する攻撃態 一五 主観的に統制された自らの危険行為の向けられる客体なのである﹂との前述の説明と相まって、﹁時間的・空間的隔 たり﹂ のゆえに ︵あたかも距離が遠くなればそれだけ銃撃の誤差が大きくなるように︶ 主観的に統制しうる危険行為 の誤差も大きくなり、危険行為がもたらす危険の範囲も拡大する、という意味では、錯誤論の世界に未必の故意を潜 り込ませるというような批判は必ずしもあたらないように思われる。

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一六 様の性質に応じて定められるべきものと考えられる。 また、放火罪において、A宅に放火しようとして火炎びんを投げ込み、それが方向を誤ってB宅に到達して火がつ いた場合に、行為者が特定した行為対象としての客体︵﹁行為客体﹂︶という視点からは、﹁時と場所﹂によって特定 されたA宅ではなくB宅に結果が生じたということになり、その限りでは方法の錯誤とも考えられる。しかし、構成 要件的観点から判断される﹁侵害対象﹂としての客体︵﹁侵害客体﹂︶としてこれを見た場合には、行為者が侵害しよ ぅとした客体はA宅やB宅を含む﹁その地域の公共の安全﹂であり、行為者が意図したA宅ではなくB宅に火がつい たとしても、﹁侵害客体﹂である﹁その地域の公共の安全﹂はなんら取り違えられていないのであるから、行為者の ︵41︶ 行為客体についての錯誤は放火罪の故意の成否には影響しない ︵故意は肯定される︶ということになる。すなわち、 行為客体と侵害客体とが異なる場合には、当該罪における故意の対象としての客体の特定は侵害客体に対してなされ るべきである。このように、故意の対象としての客体の特定を考えるとき、行為者の認識をそのまま純粋に反映させ ることは適当でなく、やはりそこには構成要件という法的枠組みの中で一定の抽象化がなされる必要がある。その意 ︵42︶ 味で、具体的符合説は、やはり具体的﹁法定符合﹂説なのである。 次に離隔犯の場合について考えてみよう。一般に、行為は結果発生にいたる因果経過の制御であり、故意はその認 識であると考えられる。一方、離隔犯の場合には、行為者が主観的に認識する因果経過は、行為者により因果経過を 制御することが可能な行為︵﹁危険行為﹂︶の部分と行為者の制御の及ばない予測の部分とで構成されると考えられる。 したがって、﹁犯罪を犯す意思﹂︵刑法三人条︶としての故意とは、制御の及ばない予測の部分とは切り離された、因 果経過を制御すことができる﹁行為﹂の部分に対する認識であり、行為者の故意における客体の特定とは、そのよう ︵43︶ な﹁行為﹂の方向によって決定されるべきである。たとえば、自動車爆弾事例では、行為者が制御可能な部分は、自

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具体的符合説における客体の特定について(小島) 動車に爆弾を設置してイグニッションキーを回せば起爆するように設定することまでである。そのような爆弾が設置 された自動車に最初に乗り込むのがAであろうということは、あくまでも行為者の ︵因果経過の︶ 予測に過ぎず、行 為者が制御できるものではない。したがって、行為者の故意においては、当該自動車の﹁イグニッションキーを最初 に回す人間﹂、すなわち、爆弾が設置された﹁その自動車﹂ ︵=場所︶ において爆弾が設置された以後﹁最初に﹂イグ ニッションキーを回す︵=時︶ ことになる客体に特定されたのである。そして、Aの家族Bが翌朝当該自動車を使用 して爆死した場合にも、行為者にとっては、まさに﹁時と場所﹂ によって特定した客体に被害が発生し、ただし、そ れが予期に反してAではなくBであったという意味で制御の及ばない予測の部分に離舵があったに過ぎず、客体の錯 誤となり、故意は阻却されないことになる。 そして、このような判断構造は、実は行為者が客体を眼前にしたような典型事例においても同様なのである。すな わち、行為者が、Aに狙いを定めて銃弾を発射したという場合について、行為者は、眼前にいるAという意味で、行 為の時点における一定の場所︵すなわちAのいる場所︶ に存在する客体をめがけて銃弾を発射する、という因果経過 を設定するのであるが、正確には、それに加えて、銃弾が設定地点に到着するとき ︵銃弾発射後一秒に満たない、あ るいは、数秒程度の後︶ にも、Aはそこにいるという因果予測が存在するのである。その意味では、典型事例の場合 も、判断構造そのものは離隔犯の場合と同じであり、ただし、典型事例の場合には、離隔犯の場合と比べて、一般的 に因果予測が介在する時間的範囲が非常に狭く、行為者の予測が実現する蓋然性が高い、という相違があるにすぎな い。典型事例の場合にも、銃弾を発射する時に行為者が設定した地点に存在した客体に命中し、ただし、それが行為 者が予測したAではなくBであったという場合には、﹁客体の錯誤﹂として故意が肯定され、一方、銃弾を発射する 時に行為者が設定した地点に存在したAには当たらずに、銃弾を発射する時に別の地点にいたBに命中した場合に 一七

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一八 は、﹁方法の錯誤﹂として故意は阻却される、と考えるのである。そして、行為の時に行為者が設定した地点におい て客体が特定されるのであるから、例えば、銃弾発射の時に、行為者が設定した地点にいたAが、銃弾発射後その到 達前にBと入れ替わって ︵現実には考えにくいかもしれないが、瞬間移動のようなものをイメージすればよいかもし れない︶、その結果銃弾がBに命中したとしても、行為時に設定した地点に存在する客体に命中したのであり、この 場合は﹁客体の錯誤﹂として故意は肯定される。自動車爆弾事例も、その基本的な判断構造はこの事例と同じである。 一方、これとは異なり、Aをめがけて銃弾を発射したものの、その後突然銃弾の軌道上を横切ったBに命中した場合 には、行為者の特定した客体は、行為時に設定した ︵Aのいた︶ 地点に存在する客体であるから、軌道上とはいえ設 定した地点には存在しないBに命中したことは、行為者が特定した以外の客体に命中したということになり、﹁方法 の錯誤﹂として故意は阻却されるのである。 目 方法の錯誤と理解する見解 次に、狭義の共犯の事例について検討することとする。たとえば、教唆者が被教唆者に対してAの殺害を教唆した ところ、被教唆者は教唆者の教唆に従ってA殺害の行動に出たが、人違いでBを殺害したというような場合、すなわ ち、被教唆者が客体の錯誤に陥った場合について、離隔犯の場合と同様に、具体的符合説の中でも、これを教唆者に とっては方法の錯誤であり故意は否定されるとする見解と、教唆者にとっても客体の錯誤であり故意は肯定されると する見解とが対立する。

四 狭義の共犯における錯誤事例について

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具体的符合説における客体の特定について(小島) まず、被教唆者における客体の錯誤は教唆者にとっては方法の錯誤であると理解して教唆者の故意を否定する見解 は、たとえば、﹁客体の名前を告知され、表示意思の内容となっている以上、これを教唆者にとっても単なる客体の 錯誤にすぎないと解することはできないように思われる。このことは、教唆者が被教唆者に、単に﹃Aを殺せ﹄との み指示し、被教唆者がBをAだと誤信して殺害したという場合を考えれば明らかであろう。⋮教唆者の殺人教唆の故 意は、その内心は勿論、表示意思においても、Aに対してしか向けられていない、従って、教唆者にはA殺害につい ての反対動機しか設定されていないのである。そうだとすれば、この場合、Bの死亡は、教唆者にとってはやはり打 ︵44︶ 撃︵方法︶の錯誤だというべきであろう﹂、あるいは、﹁教唆者が適切かつ明確に攻撃客体としてAを特定したにもか ︵45︶ かわらず、被教唆者が客体の錯誤に陥ってBを射殺した場合は、教唆者は方法の錯誤とすべきである﹂として、教唆 者において特定された客体はあくまでも教唆者が観念した﹁A﹂であるとする。また、﹁観念的にある特定の人の同 一性を想起して、その特定の人を殺させるつもりだった、と考えることはできるだろう。そして、さらに、ここでは その特定の人というのがAだったということも特に問題ないようである。これらのことから、この事例では、教唆者 はAを殺させるつもりだったと考えられる。ただ、そうだとすると、実際にはBを殺させてしまったのだから、この 事例では、結局、教唆者は︵正犯者を通じて︶攻撃するつもりでなかった人を攻撃したということになる。それゆえ、 ︵46︶ この事例では、教唆者の錯誤が方法の錯誤ということになるのである﹂とする見解も同様である。さらに、因果力あ るいは因果的予測という観点から、﹁教唆者の故意は被教唆者が客体の錯誤をした瞬間に予定の進路を外れ、ただ被 教唆者の動機のうえでのみ継続しているにすぎず、⋮動機の継続性を、教唆されていだくにいたった故意の継続性に ︵47︶ 移し替えてはならない﹂、あるいは、﹁結果発生と危険創出とが、時間的、空間的に隔たっている場合には、A・Bと いった同一性による個別化が行為者の因果予測にとって決定的窒息昧を持つのである。従って、正犯者の客体の錯誤 一九

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二〇 ︵48︶ ︵胡こ は、教唆者にとっては、打撃の錯誤となる場合が多いであろう﹂と論じる見解も存在する。 これらの見解においては、教唆者における客体の特定の基準としては、﹁時と場所﹂ に代えて、法益主体の同一性 という基準が用いられているように思われる。とくに、このような考えをとる論者が、﹁確かに、教唆者が日時、場 所等のみによって客体を表示した場合には、正犯における客体の錯誤が同時に教唆者にとっても客体の錯誤であると ︵50︶ いうこともありえよう﹂とするとき、﹁日時、場所等のみによって表示した以外﹂ の場合においては、教唆者におけ る客体の特定の基準としては、明らかに﹁時と場所﹂という基準が排除されているといえる。しかし、法益主体の同 一性を客体の特定の基準としたときには、客体を直接的に知覚した場合における典型的な人違いの事例についても方 法の錯誤と判断せざるを得ないように思われるが、仮に、客体の特定の基準として、典型事例においては法益主体の 同一性以外の基準を用い、その一方で少なくとも狭義の共犯の事例においては法益主体の同一性を用いるのであれ ︵51︶ ば、そのように客体の特定の基準を使い分けることについての論証が必要であろう。しかし、これらの見解には、そ のような論証は十分に示されていない。 H 客体の錯誤と理解する見解 被教唆者における客体の錯誤は教唆者にとっても客体の錯誤であると理解する見解として、まず、教唆者が指示し た客体に関する客観的な内容に応じて結果が発生する限り、教唆者の意図に反する客体に結果が生じても客体の錯誤 に過ぎないとする見解がある。この見解は、﹁教唆者が被教唆者に、﹃Aを殺せ﹄と言って、Aの容貌を説明したとこ ろ、被教唆者がAを探しまわり、それらしい容貌の者をAと思って殺したところ、それはBであったという場合、被 教唆者にとっては客体の錯誤であるが、⋮教唆者が指示した者を被教唆者が殺したのであるから、やはり教唆者にとっ

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具体的符合説における客体の特定について(ノト島) ︵52︶ ても客体の錯誤というべきである﹂とする。しかし、このような見解に対しては、教唆者の意思方向は、あくまでも ︵53︶ 主観的なものでなくてはならず、客観的な教唆行為の方向によってそれを代替させることはできないのであり、もし、 客観的な内容によって行為者の意思方向を判断するとすれば、拳銃でAを撃ち殺そうとする場合に、実際には銃口が ︵行為者が認識していない︶Bの方を向いていればBに対しても故意を認めざるを得ず、具体的符合説の結論とは矛 ︵封︶ 盾することになる、との批判が向けられている。 被教唆者における客体の錯誤は教唆者にとっても客体の錯誤であると理解するあるいは教唆者の故意を否定する見 解の多くは、共犯形態の特殊性、すなわち、教唆者は被教唆者︵正犯者︶ の行為を通じて結果を惹起するのであり、 その意味で教唆者の客体に向けられた因果力は被教唆者の意思に基づく行為が介在することで間接的なものになると いう点に着目する。たとえば、教唆行為は、被教唆者に決意をさせるという心理的・精神的影響を通じ、さらに被教 唆者の実行行為を組みこんで、構成要件的結果の実現に向かっていくのであり、教唆者は被教唆者の実行行為を指示 し規定することによって因果経過へ関与することになるとして、﹁その実現結果が構成要件的意味において教唆者の 故意に包摂され︵教唆犯の主観的構成要件︶、かつ、実行行為者の行為が教唆者の﹃行為の指示・規定﹄の範囲内に ︵55︶ あるときには︵客観的構成要件︶、この結果が教唆者に帰貢されることになる﹂とする。また、別の論者は、﹁共犯の 場合、被害者の最終的な同定・確認はつねに正犯者に委ねられざるを得ないということである。いいかえると、教唆 者による因果経過の﹃支配﹄はあくまでも弱いもので、少なくとも二疋の客体にのみ排他的な形で結果を生じさせる ように事態をコントロールすることは至難なのである。⋮教唆者としては、教唆行為が終了した時点で、以後の展開 をいわば成り行きにまかせ、﹃自分の手から手放す﹄のであって、そこに存在するのは、いずれかの同種の客体に結 果が生ずることだけが︵ある程度の蓋然性をもって︶保証された状況なのである。しかも、教唆者はそのような状況 二一

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二二 を認識して行為しているのであるから、発生結果は行為者が認識した危険が実現するバリエーションの一つにすぎ ず、逆にいえば、行為者は、結果において実現した危険を認識していたといい得る。したがって、発生結果を故意的 に実現された結果と評価するのに障害はなく、たとえ教唆者が特定の被害者だけを表象していたとしても、それはい ︵56︶ わば﹃願望﹄にすぎず、法的意味を認めることはできない﹂として、教唆行為そのものが持つ客体特定の不確定性、 および、そのような性質を持つ教唆行為自体に村する教唆者の認識をもって、教唆者の結果に対する故意を認めよう ︵57︶ とするのである。 また、客体の特定において行為者の因果予測と危険行為を分離して考え、行為者が主観的に統制しうるのは危険行 為のみであると考える論者は、﹁例えば、たんに、﹃Aを殺せ﹄と教唆する場合⋮には、教唆者には因果経過の具体的 予見は全くなく、危険行為の設定方向は、被教唆者の実行行為に委ねられている。従って、教唆者が、危険行為設定 の方向を被教唆者に委ねているときは、想定した危険行為とは被教唆者の危険行為そのものであるので、現実の危険 ︵58︶ 行為設定と敵歯はなく、客体の錯誤である﹂とする。同様に、他の論者も、﹁客体の特定の役割が正犯者に任された 場合、それは正犯行為の一部となっており、共犯者の行為はそのような正犯行為を促進するということに処罰根拠を 持つことに求めざるを得ないであろう。つまり、教唆者が、自己答貢的な正犯者の行う客体の特定を促進する関係に あればよいのであるから、教唆者の故意は、正犯者が指示の範囲内で合理的に行為するであろうという予測だけで十 分なのである。したがって、教唆者が客体の具体化を完全に正犯者に任せるかあるいは正犯者に客体の特定には十分 でない指示を与える場合には、そのような指示の範囲内で実現されたすべての客体の侵害に故意が及ぶと考えてよ ︵59︶ く、意図しない客体にも教唆者の故意は肯定される﹂と論じる。 これらの見解は、教唆者の犯罪実現は被教唆者の実行行為に依存することから、教唆者の故意にはつねに不確定要

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具体的符合説における客体の特定について(小島) 臼 検討1狭義の共犯における客体特定の基準について 前述︵三日︶ のように、少なくとも殺人罪や傷害罪の場合には、客体は直接的には﹁時と場所﹂によって特定され ると考えるべきである。しかし、その特定とは、直接行為者である被教唆者︵正犯者︶によってなされるものである。 すなわち、客体の特定の基準としての﹁時と場所﹂は、客体と被教唆者との関係において妥当するのである。これに 対して、教唆者は、客体に対して教唆者を介して因果的関与を与えるにすぎず、客体に村する因果経過を少なくとも 直接には制御することはできない。一方、故意とは、因果経過を制御することができる﹁行為﹂の部分に対する認識 であり、行為者における客体の特定は、因果経過を制御する﹁行為﹂の方向によって決定されるべきである。したがっ て、教唆者が直接制御することができるのは被教唆者に対する働きかけまでであり、教唆者における客体の特定は、 そのような被教唆者に対する働きかけによってのみ決定されうる。そして、教唆者が被教唆者に与える影響︵因果性︶ がもっぱら心理的なもの ︵心理的因果性︶ であることに鑑みれば、教唆者における客体の特定は、教唆者が被教唆者 ︵61︶ に与える情報の範囲内でなされるものと考えられる。 たとえば、教唆者が被教唆者に対して﹁Aという名前﹂ のみを告げて殺人を教唆した場合には、教唆者が制御した 二三 素がつきまとうという状況を直視したものといえる。このため、教唆者にこのような﹁不確定故意﹂が認められない ︵60︶ 場合には、具体的符合説の基本に立ち帰って教唆者の故意を否定すべきであるとの批判も向けられている。しかしな がら、教唆者における客体の特定を考えるに際して、単独犯の場合と異なり、教唆者と客体との間に被教唆者の故意 に基づく行為が介在するという事情に着目することは、共犯事例における教唆者の故意を検討するうえで重要な視座 を与えるものと思われる。

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二四 因果経過は被教唆者が﹁Aであると判断する人物﹂に対して殺害行為を行うように仕向けることであり、実際に被教 唆者の侵害行為が教唆者の意図したAに向けられるということは教唆者にとっては制御の及ばない予測に過ぎない。 したがって、教唆者によって特定された客体は、被教唆者が﹁Aであると判断する人物﹂ということになる。そこで、 被教唆者が﹁Aであると判断﹂して﹁その人﹂を﹁時と場所﹂によって特定した以上、その人が実際にはAではなく Bであったとしても、﹁その人﹂が被教唆者によって﹁Aであると判断された人物﹂である限り、被教唆者にとって 客体の錯誤であると同時に、教唆者にとっても客体の錯誤であり故意は肯定される。同様に、教唆者が写真を見せる などしてAの名前と同時にその容貌等を被教唆者に伝えた場合にも、教唆者が制御した因果経過は被教唆者が﹁その ような容貌であると判断する人物﹂に村して殺害行為をするように仕向けることであり、実際に被教唆者の侵害行為 が教唆者の意図したAに向けられるということは教唆者にとっては制御の及ばない予測に過ぎない。したがって、教 唆者によって特定された客体は、被教唆者が﹁そのような容貌であると判断する人物﹂ということなる。そこで、被 教唆者が﹁そのような容貌であると判断﹂して﹁その人﹂を﹁時と場所﹂によって特定した以上、その人がAではな くBであったとしても、﹁その人﹂が被教唆者によって﹁そのような容貌であると判断された人物﹂である限り、教 唆者にとっても客体の錯誤であり故意は肯定されるのである。さらに、教唆者が日時と場所を告げて犯行を指示した 場合には、そのように被教唆者に伝えられた﹁時と場所﹂に存在する人物が教唆者の特定した客体となる。したがっ て、被教唆者がその通りに実行すれば、それが教唆者が意図した人物でなくても、教唆者にとっては客体の錯誤であ ︵62︶ り故意は肯定されるのである。 これに対して、被教唆者が方法の錯誤に陥った場合には、教唆者から与えられた情報によって特定される客体以外 に結果が発生するのであるから、教唆者にとっても方法の錯誤となり故意は否定される。また、被教唆者が教唆者の

(25)

具体的符合説における客体の特定について(小島) 以上で論じてきたことを要約すると、次のようになる。 まず、殺人罪、傷害罪あるいは器物損壊罪のように、客体への攻撃態様が物理作用や化学作用といった自然科学的 な作用である場合には、その自然科学的作用の対象となる客体の特定の基準としては、﹁時と場所︵時間と空間︶﹂と いう自然科学的な要素によって構成されるべきである。そして、放火罪における、たとえばA宅のように行為の対象 としての行為客体と、その地域の公共の安全という侵害の対象としての侵害客体とが異なる場合には、故意の対象と しての客体の特定は、侵害客体に対してなされるべきである。 また、行為者が主観的に認識する因果経過は、行為者により因果経過を制御することが可能な行為︵﹁危険行為﹂︶ の部分と行為者の制御の及ばない予測の部分とで構成されると考えられ、行為者の故意における客体の特定とは、因 果経過を制御することができる﹁行為﹂ の方向によって決定されるべきである。したがって、離隔犯たとえば自動車 爆弾事例では、行為者は、爆弾が設置された﹁その自動車﹂ ︵=場所︶ において爆弾が設置された以後﹁最初に﹂イ グニッションキーを回す ︵=時︶ ことになる人に客体を特定したのであり、それが意図した人物とは別の人物であっ たとしても制御の及ばない予測の部分について敵蔚があったに過ぎず、客体の錯誤として故意は肯定される。 二五 指示あるいは情報によって具体化される範囲を意図的に逸脱した場合には、そこにはもはや教唆行為と結果との相当 ︵63︶ 因果関係が存在しない、あるいは、客観的帰属が否定されるのであり、教唆者の罪責は否定されると考えるべきであ ろ、つ。

五 おわりに

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二六

さらに、被教唆者における客体の錯誤については、教唆者は、客体に対して被教唆者を介して因果的関与を与える

にすぎず、教唆者が直接制御することができるのは被教唆者に対する働きかけまでであるから、教唆者における客体

の特定は、教唆者が被教唆者に与える情報の範囲内でなされるものと考えられる。したがって、教唆者が被教唆者に

村して﹁Aという名前﹂のみを告げて殺人を教唆した場合、あるいは、Aという名前と同時にその容貌等を伝えた場 合、教唆者が特定した客体は、それぞれ被教唆者が﹁Aであると判断する人物﹂あるいは被教唆者が﹁そのような容 貌であると判断する人物﹂であり、被教唆者が﹁Aであると判断﹂してあるいは﹁そのような容貌であると判断﹂し て﹁その人﹂を﹁時と場所﹂によって特定した以上、その人がAではなくBであったとしても、被教唆者にとって客

体の錯誤であると同時に、教唆者にとっても客体の錯誤であり故意は肯定されると考える。

本稿で提示した結論あるいは考え方に対しては、そもそも方法の錯誤においても行為者の故意は阻却されないとす

る法定的符合説の論者からはもちろん、具体的符合説の論者、とくに客体をより具体的に捉えようとする論者からも

批判が向けられると思われる。現在わが国で主張されている具体的符合説も、﹁具体的法定符合説﹂という名称が示

すように、構成要件という法的枠組みの中で客体についてある程度の﹁抽象化﹂を行うのであり、その限りでは、法

定的符合説︵抽象的法定符合説︶と根本的に考えを異にするものではない。そして、具体的符合説︵﹁具体的法定符 合説﹂︶ の中でも、客体の﹁抽象化﹂︵法定的符合説との対比でいうならば﹁具体化﹂といった方がよいであろう︶の

程度については相違が存在し、それが離隔犯や共犯事例における結論の相違にも結びつくものと思われる。

なお、本稿では、客体の錯誤と方法の錯誤との区別が問題となる事例のうち、離隔犯と狭義の共犯の事例に限って

検討を行った。共同正犯および間接正犯については検討の対象外としたが、基本的には本稿で述べた考えがあてはま

るものと思われる。また、客体の特定という観点からは、離隔犯あるいは共犯事例において、行為者の意図に反して

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具体的符合説における客体の特定について(小島) 複数の結果が発生する併発事実の場合についても検討する必要がある。併発事実そのものについては既に別稿で論じ ︵朗︶ たが、本稿で論じた議論との関係を再度検討する必要があろう。いずれにしても、錯誤の問題は、従来からの盛んな 議論にもかかわらず、現在でも検討すべき課題が少なからず存在する。本稿が、微力ながらその一助になれば幸いで ある。 ︵1︶ 具体的符合説の立場においても、たとえば傷害の意思で被害者の右脚を狙って左脚にあたったという場合に、その部位は傷害罪 における構成要件的評価においては重要でないとして、傷害罪の故意を認めるのが一般である。この意味で、この見解においても、 構成要件的な符合を認めるのであり、﹁具体的法定符合説﹂と呼ぶのが正確である ︵これに対応して、法定的符合説は﹁抽象的法 定符合説﹂と呼ばれる︶ ︵平野龍一﹃犯罪論の諸問題︵上︶総論﹄ ︵一九八一年︶七五頁︵初出﹁具体的法定符合説について﹂法学 教室一号︵一九八〇年︶ 五六頁以下所収︶︶。しかしながら、法定的符合説および具体的符合説という用語法が一般的であるため、 本稿でもこの用語法を用いることにする。 ︵2︶ 大塚仁﹃犯罪論の基本問題﹄ ︵一九八二年︶二四四頁、前田雅英﹃刑法総論講義[第四版]﹄ ︵二〇〇六年︶二四五頁、大谷賓﹃刑 法講義総論[新版第二版]﹄ ︵二〇〇七年︶一八四頁。 ︵3︶ 平野龍一﹃刑法総論Ⅰ﹄ ︵一九七二年︶一七五頁、同﹁故意︵刑法の基礎⑲︶﹂法学セミナー一三〇号︵一九六七年︶ 二四頁。 ︵4︶ 葛原力三﹁打撃の錯誤と客体の錯誤の区別︵一︶−具体的符合説の再検討﹂関西大学法学論集三六巻一号︵一九八六年︶一〇〇 頁。 ︵5︶ 山中敬一﹁具体的事実の錯誤・因果関係の錯誤﹂中山研一他編﹃刑法理論の探究−中刑法理論の検討︵中義勝先生古稀祝賀︶﹄ ︵一 九九二年︶一九九頁。 ︵6︶ 井田良﹁故意における客体の特定および﹃個数﹄ の特定に関する一考察︵二︶﹂法学研究︵慶應義塾大学︶ 五八巻一〇号︵一九 八五年︶ 五八頁以下。 ︵7︶ 井田・前掲注︵6︶ 六〇頁、長井長信﹃故意概念と錯誤論﹄ ︵一九九八年︶ 二四三頁︵初出﹁方法の錯誤について﹂南山法学一 九巻二号︵一九九五年︶ 五七頁以下所収︶。ただし、井田・前掲注︵6︶ 六一頁では、第三の法益主体による特定は、名前による 二七

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22 2120 17161514 13121110 二八 特定と同値とされる。 長井・前掲注 ︵7︶ 二四三頁以下。 葛原力三﹁打撃の錯誤と客体の錯誤の区別︵二・完丁具体的符合説の再検討﹂関西大学法学論集三六巻二号︵一九八六年︶九 九頁。 山中・前掲注︵5︶ 二〇二頁以下。 長井・前掲注︵7︶ 二四四頁。 中義勝﹁方法︵または打撃︶ の錯誤について﹂関西大学法学論集三二巻六号︵一九八三年︶一五頁。 中こ別掲注︵望一五頁以下、斎藤信治﹁事実の錯誤﹂芝原邦爾・堀内捷三・町野朔・西田典之編﹃刑法理論の現代的展開 総 論Ⅱ﹄︵一九九〇年︶七頁、曽根威彦﹁方法の錯誤﹂同﹃刑法の重要問題︵総論〓補訂版]﹄︵一九九六年︶一七〇頁、長井・前掲 注︵7︶二六六頁、寺田泰孝﹁具体的事実の錯誤における攻撃客体の特定と故意の範囲1具体的符合説の立場から﹂早稲田法学七 四巻四号︵第二分冊︶ ︵一九九九年︶ 五一八頁。 中・前掲注 ︵12︶ 二一頁以下。 寺田・前掲注︵13︶ 五一六頁。 寺田・前掲注︵13︶ 五一七頁以下。 葛原・前掲注︵9︶九九頁において﹁客体が直接的知覚によって、あるいはそれに近い形で特定されている場合︵傍点は筆者︶﹂、 ぁるいは、山中・前掲注︵5︶二〇二頁において﹁意図した客体について感覚的知覚が何らかの形で与えられている場合、あるい ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ は、感覚的知覚の延長的継続範囲内にある場合︵傍点は筆者︶﹂とされるのも、同旨であると思われる。 中こ別掲柱︵12︶ 二二頁。 中・前掲注︵望一九頁以下︵ただし、原文中の﹁A﹂、﹁B﹂および﹁F﹂を本文中ではそれぞれ﹁行為者﹂、﹁A﹂および﹁B﹂ に改めた︶。 葛原・前掲注︵9︶一三八頁。 葛原・前掲注︵9︶一三〇頁。 このほかに、浅田和茂﹁教唆犯と具体的事実の錯誤﹂西原春夫先生古稀祝賀論文集編集委員会編﹃西原春夫先生古稀祝賀論文集 二彗︵一九九人年︶四二八頁も、錯誤の有無・種類については行為者の認識・予見が基準となるとして、自動車爆弾事例におい

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具体的符合説における客体の特定について(小島) ︵23︶ ︵24︶ ︵25︶ ︵26︶ ︵27︶ ︵28︶ ︵29︶ ︵30︶ ︵31︶ ︵32︶ ︵33︶ ︵34︶ ︵35︶ ︵36︶ ︵37︶ ︵38︶ ︵39︶ ︵40︶ える︶ のであれば、仮に方法の錯誤が生じたとしても﹁侵害を受ける客体﹂としての国家は変わることはないから、この限りでは 行為者の錯誤は故意の成否に影響しない、といえよう︵本文、後述︶。なお、井田良﹁故意における客体の特定および﹃個数﹄ の 特定に関する一考察︵一︶﹂法学研究︵慶應義塾大学︶ 五八巻九号︵一九八五年︶ 四六頁注︵三〇︶ は、特定の人に犯罪などの嫌 二九 中・前掲注︵12︶ 二〇百︵。 斎藤・前掲注︵13︶ 二〇頁。 山中・前掲注︵5︶一人四頁。 曽根こ別掲注︵13︶一七一頁︵ただし、原文中の﹁Ⅹ﹂を本文中では﹁行為者﹂に改めた︶。 長井・前掲注︵7︶ 二六五頁。 中森喜彦﹁錯誤論二−構成要件的錯誤﹂法学教主一〇七号︵一九八九年︶ 五一貫。 山中・前掲注︵5︶ 二〇三頁︵ただし、原文中の﹁Ⅹ﹂を本文中では﹁行為者﹂に改めた︶。 山中・前掲注︵5︶ 二〇五頁。 井田良﹁故意における客体の特定および﹃個数﹄ の特定に関する一考察︵三︶﹂法学研究︵慶應義塾大学︶ 五八巻一一号︵一九

八五年︶ 八八頁以下。 死の予見はないのであるから、現に生じたA以外の者の爆死は故意に包摂されておらず、方法の錯誤とすべきである、とする。 ては、爆弾設置時点で行為者には爆弾設置の認識と自動車に乗るはずのA ︵原文ではH︶ の爆死の予見とがあり、A以外の者の爆

長井・前掲注 ︵7︶ 二六四頁。 山中・前掲注︵5︶ 二〇五頁。 もっとも、通説・判例のように国家的法益をも虚偽告訴罪の保護法益と考える 寺田・前掲注 ︵13︶ 専田・前掲往 ︵13︶ 専田・前掲注︵13︶ 山中・前掲注︵5︶ 山中・前掲注 ︵5︶ 山中・前掲注︵5︶ 二〇一貫。 二〇一頁以下。 二〇四頁以下。 五三三頁︵ただし、原文中の﹁Ⅹ﹂を本文中では﹁行為者﹂ に改めた︶。 五一九頁。 五二〇頁。 ︵むしろ、国家的法益を主、個人的法益を従と考

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