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労働市場の国際化--20世紀初頭のドイツにおける外国人労働者問題---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

叫255−

労働市場の国際化

20世紀初頭のドイツにおける外国人労働者問題−

佐 藤

忍 はじめに Ⅰ 3っの民族移動 1.海外移民 2.国内移住 3.外国人労働者 Ⅱ 外国人労働者政策 1.非ポーランド化政宗 2.外国人労働者登録制度 3.対外的乳轢 Ⅲ 外国人労働者の就労 1.、雇用量の変動 2巾 労働者組織の対応 むす び はじめに 「日本人もまた、他の諸国民がそうであるように、資本主義の軍刀のもとに おかれており、厳しい苦境こそが、異国に生活の糧を求めるべく、彼らをその 祖国から追いやっているのです。この哀れな兄弟たちを温かく受け入れ、保護 し、そして彼らとともに資本主義と闘うことが、社会主義者の責務でありましょ う。1)」

1)Eckart Hildebrandt,Inler71ationale BeschifiigungshonhurrenzZur natio7Wler

Arむe加ゎeぴ∂Zゐer捉7唱e花αmβeま甲土eg derA比SZゐ几derわeSCんゐ/王立g乙↓7堵£花 derβ㍑几deSre一

(2)

香川大学経済学部 研究年報 31 −256− J99J こ・れは1907年のシュトゥットガルト国際社会主義大会における、移民輸出国 としての利害を主張した日本側代表者−おそらくは片山潜−の弁である。 この大会の決議については本稿の末尾で触れることになろう。 日本がそうであったように、ドイツもかって移民輸出国であった。そのドイ ツが第2次世界大戦後にはガストアルバイターの導入にみられるように、労働 輸入国に大きく変貌したわけであるが、その転換点は今世紀の初頭にあった。 本稿の課題は、ドイツにおける移民輸出国から労働輸入国への転換に照準を定 め、その実態を解明することである。 Ⅰ 3つの民族移動 1.海外移民 世紀転換期のドイツには3つの民族移動が、同時に、あるいは相前後して、 生起した。そのうち2つはドイツ人によるものである。アメリカへの海外移民 と、ドイツの東部から西部への国内移住とが、それである。そしてし†まひとっ は外国人労働者の流入である。 民族移動の諸形態をみる前に、まず当時における人口の自然変動から考察を はしめよう。 ドイツをはじめとする先進諸国の自然出生率、自然死亡率は現在だいたい10 パーミル前後のところで推移している。人口1,000人当たり10人といったあた りでほぼ均衡しているわけである。当時のドイツはといえば、自然出生率と自 然死亡率とのあいだには10ポイント以上の懸隔があり、しかも両者の絶対水準 は現在よりも相当に高かった。自然出生率は35パーミル強、自然死亡率でも25 パ・−ミル前後である。出生率は1990年を境に、死亡率はそれよりも20年ほど早

く、現在の水準に向けた長期低落の軌道にはいる。医療、衛生状態の改善、あ

るいは社会保険の国民諸階層への浸透、そしてまた性生活の近代化などが、さ しあたりその理由として挙げられよう。 出生率と死亡率との開きは、人口の爆発をもたらす。

1860年から1880年にかけて死亡率が27パーミルでほぼ一足しているとき、出

生率は上昇を続け、1875年には42パーミルを記録している。1880年から1900年

(3)

労働市場の国際化 ー2Jアー には出生率は37パ・−ミルあたりで安定するが、死亡率は減少していく。その後 出生率は死亡率よりも早い速度で低下していくのである。かくして人口は、 1880年からわずか20年のあいだに、4,500万人から5,600万人に膨張したのであ る2)。 人口爆発のこの20年は経済的にはちょうどいわゆる大不況の時期(1873年∼ 1896年)にあたる。19世紀最大かつ最長といわれる海外移民フイ・−バーの発生 するひとつの背景がここにある。この期の海外移民は、先行する二つのそれ

(第1波:1846年∼1857年、第2波:1864年∼1873年)にたいするとき、19世

紀のドイツ移民史のなかでは第3波を形成している(第1図)。 大不況期の最初の7年間(1873年∼1879年)は、恐慌のショックから、それ までの海外流出を一・時的に停止させた。1873年にほまだ110,438人を数えたが、

その後47,671人(1874年)、32,329人(1875年)、29,644人(1876年)、22,898人

(1877年)にまで落ち込む。1879年がこの収縮の最後の年である。 翌1880年には…挙に117,097人に海外移民の数が増え、海外移民フィーバ、− が始動する。年間の移民規模は最大で220,902人(1881年)、最低で83,225人 (1886年)のあいだで振幅をみせている。80年代の前半だけで860,000人、移民 熱が一応の終息をみせる1893年までには180万人が海外に流出している。その ほとんどすべて(92%)がアメリカに向かう流れである。 大不況が終わりに近づくとともに、そしてそれに引き続いて第一次世界大戦 まで持続する好況のなかで、海外移民の流れは、その開始がそうであったよう に、急速に収縮する。1893年にはまだ87,677人を数えたが、その後40,064人

(1894年)、37,498人(1895年)、33,824人(1896年)、24,631人(1897年)へと

減少する。この水準は、戦争勃発によって途絶えるまで、しかしながら維持さ れることになる3)。 2)WoILgangKbllmann,Bevt)1kerungsgeschichte1800−1970,HermannAubin,Wolfgang Zorn(hrsg),HandbuchderDeLLtSChen WirtschqftsundSoziaLgeschichte Bd2,1976, S24−25

3)KlausJBade,Massenwanderunざund Arbeitsmarktimdeutschen Nordosten VOn1880bis zumErstenWeltkrieg Uberseeische Auswanderung,interrneAbwande− rungundkontinentaleZuwanderung,in:ArchiL7fiirSoziaなeschichleXXBd1980 270−272

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香川大学経済学部 研究年報 31

ー25β− J99J

第=図 海外移民の規模と推移(1830年から1932年まで)

1846−18571684−18731880−1893 1923

1830 1840185018(;0187018801890190019101920 1932

(出典)KJBade:MassenⅥ′anderung und Arbeitsmarkt

im deutschen Nordosten von1880bis zum Ersten

Weltkrieg,in:ArchLUjur Sozialgeschichte BdXX

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労働市場の国際化 −259一 アメリカ行きを決意した人々の中心は、なんといっても小農たちであった。 進行する農民層分解のなかで、非プロレタリアートの生括様式を保持するため に、その可能性をアメリカに求めたのであった。そこで土地を買い、自立した 自営農民としての人生を家族のために建設しようとしたのである。こうした植 民的タイプの移民から、労働移民的タイプのそれへと、海外移民の性格がシフ トしたといわれている。自由な土地ではなく、賃労働のチャンスを工業部門に もとめるそれである。それゆえ移民先の労働市場と景気循環により強く規定さ れ、したがって家族−・緒ではなく単身で移住する傾向がでてくる。家族を連れ ての移住と単身移住との比率をだしてみると、1880年代でおよそ6対4である が、しだいに後者が増えて、1920年代には3対7となっている。それにちょう ど符合するように、海外移民における農業従事者の割合も減少している。20世 紀の最初の5年間にはまだ306%を占めていたが、1920年代の初頭には5分の 1以下に低下するl)。 問題は、こうした長期的なシフトがいっの時点で生じたとみるかである。た とえばケルマンは、海外移民の第3披終了の時点、すなわち95年頃とする。植 民的タイプの移民を可能ならしめるアメリカ西部のフロンティアがその時点で 消失したとみるのである。だから−と論は展開するのだが−海外移民のタ イプに変化が生まれ、後述するように、移住の流れは国内移住へと方向転換す る、と考えるわけである5)。 これにたいしてバーデほ、第3披開始の時点から、すなわち80年からそのシ フトは進行していると主張している。たとえ出入国管理統計から意図としての 植民的タイプが認められたとしても、はたしてそれに成功し得たかどうかとい う、移民たちのその後の消長は読み取れないというのである。 ドイツ人移民の就業構造を簡単にみておくと、1900年時点で、彼らのおよそ

4)KJBade,Diedeutsche uberseeische Massenauswanderungim19 und frilhen 20Jahrhundert:Bestimmungsfaktoren und Entwicklungsbedingungen:in:KJ Bade(hrsg),Ausu)anderer−Wanderarbeiter−GaslarbeiterBeuuherung,ArbeLts−

marhlund WanderunginDeLLtSChland seit der MLlte des19Jahrhunderts:Band

l;ScriptaMercaturae Vrer1ag1984:S276−277

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香川大学経済学部 研究年報 31 一26β− J9タブ 4人に一人が農業に従事している。その割合はスカンジナビア(スウェ、−デン、 ノルウェー・、デンマ・−ク)出身者の3人に仙人には及ばないが、絶対数ではア メリカ農民の3人に一人がドイツ人であるというように、スカンジナビア系農 民の構成比(23%)をも大きくひきはなし群を抜いている6)。山方、都市部 をみると、たとえばシカゴでは、不熟練労働者の4人に仙人がドイツ人である。 不熟練労働者からすぐに連想されやすいアイルランド人は197%、針−ランド 人は16%であるから、ドイツ人はここでも最大の規模である7)。まだ植民的 タイプの移民が主流を占めていたとみられる1870年から1890年までの間に、ア メリカ合衆国において農業に従事するドイツ系移民の数は15フラ人の増加をみる が、それにたいして第2次・第3次産業にはその3倍強にあたる50万人が新た に就職している8)。 ドイツ系移民の就業構造と居住地の変化から、バーデは次のように述べてい る。「失われた昔を新世界でもう一度つかみ取ろうとの想いでアメリカへの旅 にでた、かの保守的な潜在的植民タイプの移民の大部分は、だからこそ国をで ることにしたあの、なんとしても避けるべき現代への一歩をかくして踏みだし たのである。9)」 アメリカへの移民の流れが、フロンティアの消滅とはさしあたりかかわりな く、実態として工業部門における賃労働に逢着しているとす−れば、その流れは

‘プロレタリアートの大量移住’’(Proletarian Mass Migration)というこ とになろう。そうであるとすればその移住の規模と方向とは、労働力需要の大 いさと景気変動とに基本的には規定されてくるといえる。ドイツ工業の労働力 需要が大不況から脱出して活発になってくれば、ブロレタリアートの流れは国

6)KathleenNeilsConzen,DeutscheEinwandererimlandlichenAmerika:Problem− felder und ForSChungsergebnisse,in:KJBade,(hrgS)Auswanderer‥・,QP

Cよ£,S351−353

7)Hartmut Keil,Die deutsche Amerikaeinwanderungim stadtischindustriellen Kontext:das BeispielChikago1880−1910,in:ibid,SL39&

8)KJBade,DiedeutscheuberseeischeMassenauswanderung‥・,qPCit,S281 9)KJBade,Massenwanderung‥・,OP Cit,S285

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労働市場の国際化 ー26ノー 内移住へとおのずとキャナライズされることになるだろう10)。 2.国内移住 ドイツの国内における束部から西部への労働者の移動は、90年代から海外移 民にかわる太い流れ・となる。最も遠距離ば、東プロイセンからル・−リレ重工業地 帯へむかうそれである。近くは、ザクセン渡り(Sachsengangerei)と呼ばれ る農業への季節的出稼ぎがある。こうした当時の国内移動を、ドイツ史上で最 大の民族移動であったと評価するむきもある11)。 海外移民も国内移住もともにドイツ束部に源を発しており、労働者を押し出 す規定的な力はいずれも農業危機にあった。 低廉な穀物の外国からの流入は農業恐慌を惹起した。ひとっの政策的対応ほ 保護関税の設定であった。いまひとつには、割に合わなくなった穀物栽培から 根菜栽培に切り換えることであった。馬鈴薯の栽培やそれを使った火酒の製造、 あるいはまたてんさい栽培、それを原料とする精糖工場の経営などである。農 業の純生産額を恐慌前の75年、恐慌直後の95年そして第1次世界大戦の前年で みると、たとえば最も深刻な影響を被った大麦は、78プラ→72万→マイナス117 万トンと推移している。激しい輸入超過へ転落したわけである。これにたいし ててんさいをみると、生産額ほ221万→1,075万→1,780万トンと急激に伸びて いる12)。 てんさい栽培の普及は、三園式から輪作式への農法の集約化とともに、ドイ ツ農業に重大な変化をもたらした。すなわち労働市場の季節化の尖鋭化が、そ れである。農業労働に季節性はつきものであるが、農繁期における労働需要と 10)アメリカヘ移住した人々のうち一定の割合はドイツにふたたび帰還している。モルトマン によると、年間の帰還率は1850年代:66%、1860年代:184%、1870年代:223%、そして 1お0年代は142%である。80年代の帰還率が低いことについて、モルトマンは東欧諸国の出 身者がこの時期ドイツ、とくにブレーメンからの移出民のなかに多く含まれていたからだと している。それを差引けば、80年代の帰還率はもう少し高くなるかもしれない。

CfGilnter Moltmann,Amer1kan−German return migrationinthenineteenthand ear1y twentieth centuries,in:CeTuralEurQPeanHis10rγVolXIIIN04,1980,383 11)WKbllmann,QPCil,S20

12)渡辺寛「資本主義と農業」大内力編著『農業経済論』経済学全集15、筑摩書房1967年、

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−262− 香川大学経済学部 研究年報 31 J99J

農閑期におけるそれとの比率は、穀物栽培の場合で2:1であるのにたいし、

てんさい栽培では4:1と、季節性は強まる。輪作式経営は、需要の季節性を

さらに倍加する。そのうえさらに脱穀機の導入は、冬期の打穀作業を激減させ

るのである。

農繁期におけるてんさい栽培にかかわる労働の賃金単価は、穀物栽培の労働

よりも高いのが常であったので、てんさい農場は穀物農場から労働力を吸引で

きた。ザクセンを拠点に広がったてんさい栽培は、それゆえザクセン渡りを呼

び起こしたのである。その吸引力は、土地に緊縛された農業労働者をして契約

破棄に駆るはどのものであった。農業恐慌のなかで鴨ぐ穀物栽培の農業経営は

それによってさらに苦境に追い込まれることになった。できるだけ高い賃金で

労働力を販売する行動様式が農業に働く労働者をとらえはじめたのである。農

業労働者のプロレタリア化の進展といってよい。

かくしててんさい農場に吸引された労働者たちは、4月から12月までの夏期

労働を終えたあと、食いっなぐために出稼ぎするか、あるいは農業労働を見限っ

て西部の工業でより安定した生活の程を探すようになる。また冬期に

大農のところで打穀作業に従事して生宿していた零細農たちもやがては挙家離 村を選択するようになるのである1さ)。

こうした事態の進展は、東エルベの農業を特徴づけたあの領主制農場経営の

根幹をも揺るがしはじめる。 まず雇主である領主とそのもとに直傭され労働を提供する労働者およびその

家族(インストロイテ)との雇用関係が変容する。インストロイテはもはやか

ってのように打穀分け前にあずかる−L種の共同生産者ではなく、農業恐慌のも

とで圧縮される収益から支払われる貨幣を受け取る賃労働者と化してしまった。

そしてまたインストロイテに雇われて領主のために各種の賦役を提供するべき

労働者たち(シャルヴュルカー)の調達はきわめて困難になった。ほとんどが

もっと実入りのいい仕事を求めて西に流れ、手にはいるのは‘片端か老人,と

13)KJBade,Massenwanderung・・・,QP Cit,S296−299 大薮輝雄「ドイツ農業における外国人出稼労働力の存在形態一19世紀末から20世紀初頭−」 入江猪太郎編『経済政策の現代的課題 大泉行雄博士還暦記念論文集』勤草書房、1963年所 収をも参照。

(9)

労働市場の国際化 −263− いわれる有り様であった14)。 プロレタリア化の進行した農業労働者たちは、西へ西へと流れていくのであ る。それは組織的な抵抗の手段をもたない者たちの、よりよい生活を追求する 個別的方途であった。 3..外国人労働者 民族移動の3つ目の形態は、外国人労働者の流入である。 1907年6月12日の時点でドイツに就労する外国人の数は、公式統計に捕捉さ れているところによれば、882,315人である。そのうちおよそ3分の1にあた る334%は農業など第1次産業に、半分強の567%は炭坑・建設を含む第2次 産業に、そして残りの1割弱はサーゼス産業に従事している。詳細は次節以下 でみることにするが、あらかじめいえば、農業にはオーストリア=ハンガリー 帝国およびロシア帝国内のポーランド人一以下でたんにポーランド人という とき、とくにことわらないかぎり、この外国籍のポーランド人をいう一が重 点的に雇用されており、工業にはむしろイタリア人が多く働いている15)。 本項では外国人労働者にかんする当時の論調のうち、行論との関連で興味あ ると思われる2つの議論を紹介しよう。ひとっは当時のアカデミーを支配した 駆逐仮説(Verdrangungstheorie)とよばれるものであり、いまひとつほ社会 民主党内部で展開された、いわゆる出産ストライキ論争(Gebarstreik−Debatte) である。 【馬区逐仮説】 この説を最も代表する人物は、他でもないマックス・ヴェーバーである。彼 は1891/92年に、農業労働者調査を実施し、わずか一年で膨大な調査報告書に まとめた。そこで展開された論理がここにいう駆逐仮説である。 「ロシアからの労働力の輸入は、賃金水準ならびに文化水準へのその圧力の ゆえに、ザクセン渡り、ひいては西への離村および海外移民のたんなる結果で 14)KJBade,ibid,S299L302 鼓輩堆『マソクス・ヴェ・−バーと労働問題』お茶の水書房1971年、12−27頁をも参照。 15)UlrichHerbert,GeschichtederAuslゐnderbeschゐ/ligungin Deutschland1880bis 1980 Saisonarbeiter,Zwangsarbeiler,Gastarbeiter,Dietz1986,S26Tab2

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香川大学経済学部 研究年報 31 一264− J99J はけっしてなく、その原因である。16)」 外国籍ポ・−ランド人は、ドイツ籍ポーランド人のたとえばインストロイテを 駆逐することばない。なぜなら後者は前者と同じような低い文化水準にあり、 免疫をもっているから。ドイツ人の農民は彼らのよ●うな低い生活水準には耐え られないので、しだいに駆逐されてしまう。ヴェ.−バーは、これを異なる胃袋 をもった二つの民族の生存闘争と表現した。そしてさらに一人のポーランド人

労働者が駆逐する数は、一人のドイツ人ではなく、その家族であるから、駆逐

の規模はポ・−ランド人労働者にドイツ人農家の平均扶養家族数をかけたものに なるという。このようにしてヴェ∴−バーは、ドイツ人労働者の馬区逐と東部の掛− ランド化とを予測するのである。東部国境の即時閉鎖とポーランド人労働者の 流入阻止とをヴェーバ・− が政策的に提言するのが、この農業労働者調査から3 年後のことである17)。 ヴューバーは、憐れな労働者の保護という「慈悲心主義」を厳しく排し、諸 民族の権力闘争のなかでは、国民の権力利害に立脚する冷徹なまでの国民主義 をこそ、政策原理の根幹と捉えていた。こうした彼のうちだす国民的観点は、 駆逐仮説にも影を落としているとみるべきであろう18)。 粁−ランド人労働者の輸入は、ヴェt一バ・− のいうように、海外移民の原因だ ろうか。海外移民第3彼のピークは、ちょうどポーランド人労働者の排斥と新 規入国の禁止が政策的に講じられていた1885年から1890年のあいだにある。そ して入国の禁止が解除されはしめた90年代に入って、海外移民ほ激減するので ある。この連関はポーランド人労働者の導入が海外移民の直接的な原因である とする主張に動かしようのない反証を提示している。ただヴェ・−バーが先の報 告書をまとめていた91/92年には、ドイツ東部からの海外移民が移民総量のピー クからややずれて最後のピ・−クを迎えている。ヴェ・−バー はこのごく短期的な 局面から−・般的な因果関係を導き出してしまったのかもしれない19)。 ザクセン渡りと外国人労働者との関連についてはどうだろうか。ヴェーバー 16)KJBade,Massenwanderung・・・,QP Cit,S318 17)Jわid,S318−319 18)中村貞二『マックス・ヴューバー研究』未来社1972年、とくに第2章を参照。 19)KJBade,Massenwanderung・・・,OP Cil,S319q320

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労働市場の国際化 ー26ざ− はこの点について随所で貴重な分析と示唆とを展開しているけれども、にもか かわらず議論の基調はポー与ンド人労働者がドイツ人労働者のザクセン渡りを 引き起こすという、いわば一元的な馬区逐仮説である。農業の構造変化、ポーラ ンド人労働者の導入そしてザクセン渡り、−それらのあいだにある一元的で はない、重層的な、1あるいは構造的な関係、それらがお互いを相互に規定し合 う関係は、ヴューバ・−の論理展開のなかに明らかに読み取れるけれども、山元 的規定関係の背後に退いてしまっている20)。 農業における労働市場の季節化は、ドイツ人労働者の流出を誘い、それがポー ランド人季節労働者の導入をよび、それがまた労働市場の季節化を加速する。 つまりポーランド人労働者の流入は、ドイツ人離村のたんなる原因でも結果で もなく、そのいずれでもあるというのが実相であろう。ポーランド人労働者の 流入は、まず第一・義的には、労働市場の季節化の結果であるが、それが季節化 をさらに加速しドイツ人労働省の流出をプッシュするように働くという点では、 原因でもある。 【出産ストライキ論争】Zl) 出産ストライキ!なんと奇妙な表現だろう。“Gebarstreik”がその原 語である ベルリンに住む二人のともに社会民主党員である医師−アルフレート・ベ ルンシュタインおよびユリウス・モーゼスーが

、警察当局の見守るなか、聴

衆を前に、母性保護のために出産制限の必要と、その権利とを女性たちに唱道 した。1912年のことである。これがいわゆる出産ストライキ論争の発火点となっ た。 翌年6月には、ベルリンの社会民主党本部で会議がもたれている。議題は、 “出産ストライキ反対”であった。出産制限は労働者に可能な唯一のものであ 20)Jゐよd,S320−322 21)ドイツ社会民主党にかんするわが国の豊富な研究史のなかで、この論争がとりあげられた 事例を筆者は寡聞にして知らない。筆者にこの論争の存在を教えてくれたのは、R P

Neumann,WorkingClassBirth Controlin Wilhelrnine Germany,in:Comparatiue

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香川大学経済学部 研究年報 31 一266− Jβ9J るとして出産ストライキを力説するモーゼスにたいして、クララ・ツェトキン やローザ・ルクセンブルクといった当時を代表する女性マルキストたちは、次 のような出産ストライキ反対の論陣をはった。 ツェトキンはいう。 「社会民主党内部の人間が労働者階級の状態を改善するために、やぶ医者療 法を推奨しているのは、まったく奇妙です。……−・ 部のブルジョア自由主義者 は出産率低下あるいは避妊を文明開化の兆候だといっています。私の考えでは、 問題ほ逆です。……(出産制限はそれ自体)プロレタリア、−トを階級としてで はなく、むしろ個々の家族からなるものとみなしています。解決方法として個 人主義的な生活スタイルが提唱されているのです。ブルジョア社会にたいする 意識的な階級的行動ではないのです。……さらには、現在の資本主義国家にた いしてできるだけ兵士を供給してはならないとさえ言われているのです。プロ レタリアートが兵士を提供しなければ、それだけ革命家の数が減るのだという ことを、彼らはまったく忘れてしまっているのです。プロレタリアートが考え なければならないことは、できるだけ多くの闘士を蓄積することなのです。㌶)」 一・カ、ルクセンブルクはこういう。 「モーゼスさんの言われていることを耳にするとき、マルクスやラブサール といった人物はこの世に存在しなかったということになります。……社会問題 は自助によって解決することはまったく不可能であり、大衆が力を合わせては しめて可能になるのです−。プロレタリアートの武器としてみても、出産制限は 断固として拒絶されねばなりません。出産制限によって最終目標に到達するこ とはできないのですから。23)」 出産ストライキの提唱は、かくして塵から相手にされなかった。「やぶ医者 療法」だとして批判するツェトキンの主張はまったく正しい。出産ストライキ

が、後述のように、社会民主党の要人たち−ベルンシュタイン、ケッセルそ

してカウツキーー のあいだで論議の対象となったとき、当初のいわば戦術論 22)J机d,p413 23)Jぁまd,p414

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労働市場の国際化 ー267− のような域をでて、もっと具体的な時代背景との絡み合いのなかで論争が展開 されたのである。すなわち外国人労働者問題とのかかわりにおいてである。こ こに注目するならば、出産ストライキ論争は実際には外国人労働者をめぐる論 争だったということになる。出産ストライキ論争というヴェ・−ルに包まれては いるが、われわれぽそこに外国人労働者問題にたいす−る社会民主党の当時にお ける理解を垣間みることができるのである。

では、まず最初にLケッセルの論文からみよう。

L.ケッセル「出産ストライキの経済学」飢) 出産ストライキは、ケソセルによると、プロレタリアートの空洞化に帰着す る。海外移住を斡旋する業者の登場や、あるいは東部農村地域から西部工業地 域への労働力の移動にもすでにその兆候はみられるとする。そしてこうしたプ ロレタリアートの空洞化によって惹起された資本関係の弱体化(例えば労賃騰 貴)にたいする、いわば妖怪狩りとして、外国人労働者の導入が行われている と、みる。

外国人労働者は、一彼によれば−賃金を引き下げる機能をもつから、ド

イツ人の生活は出産ストライキにもかかわらず、低下する。これが出産ストラ イキ反対の第1の根拠である。 −・方、ドイツ民族という観点から、次のようにもいう。外国人の流入とドイ ツ人の減少という事態ほ、ドイツ民族の防衛力を低下させる。それゆえ出産ス トライキ反対闘争は、とりもなおさずドイツ民族の存否にかかわる闘争である、 と。これが反対の第2の論拠である。 Eいベルンシュタイン「出生率後退、国民性および文化」25) ケッセル論文をうけて、ベルンシュタインはそれを批判している。 「『出産ストライキ』を唱える喧々騒々たるアジテーションは、わずかばか

24)LQuessel,Die6konomie des Gebarstreiks,in=So2ialtsttscheMonalshd乙eBd

光,1913,S1319−1325

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香川大学経済学部 研究年報 31 ー26β− J99J り開いているドアから入り込み、−・部役に立たない論拠をもちいて、すでに存 在するものを正当化するたぐいのものである。」この点では、ケソセルと異な りはしない。 相違は、外国人労働者問題の経済的。民族的理解にある。 まず、経済的理解から。ケッセルは、外国人労働者の流入はドイツ人労働者 の賃金を必然的に引き下げるものだと想定していた。これにたいしベルンシュ タインは、「その例として立証可能な事例もないではないが、問題を大きな国 民経済的観点からみると、同志ケッセルとは異なる結論に到達する」と述べる。 そして熟練工と不熟練エとのあいだには量的な照応関係のあることを確認した うえで、「一般的にいって、工業において外国人労働者の流入は本国人労働者 の賃金水準を押し下げはしない、逆にかえってそれを高める」(強調−ベル ンシュタイン)と結論する。 次に民族的理解。ケッセルは、出産ストライキによるドイツ民族の防衛力の 低下を恐れた。これにたいしベルンシュタインは、「ヨーロッパ文化圏に属す る民族および民族性という大きな家族を念頭において」、つぎのように主張す る。すなわち「社会民主党の課題は、外国人労働者を国民的ならびに文化的意 味において、同胞にするような政策、すなわち社会政策のために闘うことであ る。」 ケソセル=ベルンシ.ユタイン論争はまだ続く。 L‖ケッセル「出産ストライキの哲学」26) ケツセルは、この論文でベルンシュタインヘの反論を試みてい る。 出生率の低下傾向のなかに「プロレタリアートの性生活におけるインテリ化 の過程」をみとめ、「性にかんする哲学と倫理の新時代が黎明を告げている」 と述べている。出生率低下の現実を直視し、将来を見据えた認識といってよい。 その上で、反論がくる。 ベルンシュタインが外国人労働者の国民的・文化的統合を社会民主党の課題 としたのにたいして、ケツセルはつぎのように問い返す。 26)LQuessel,DiePhilosophiedesGebarstreiks,inこibid,S1609−1616

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労働市場の国際化 ー269一 「スラブ人労働者は文化的に統合されようと欲しているか」(強調−ケッ セル) 彼の答は、否である。「スラブ人労働者がそこで職を求めるその国の言語− −彼によれば言語は文化の重要な構成要素である−を無抵抗に受け入れる 時代はとっくの昔に一終わっている。」スラブ人労働者は「スラブの飛地」を形 成し、「同一領土内に言語を異にする民族が梶在することになる」。そのさい 「二つの民族の文化が相互に対等である」か、もしくは少数民族の「民族性の 自覚が確固としている場合には」、同化は困難となり、「民族間の対立」が生 まれる。まさに現在はその萌芽であり、出産ストライキがこれからも続けられ るならば、それはいっそう激しさを増すであろうーと。さらに続けていうこ とには、したがって、ベルンシュタインのいうように、外国人労働者の統合政 策を押し進めるならば、それは社会民主党にとって宿敵(Todfeindschaft)を

迎え入れるのと同じことになると、彼は断言する。そして最後にいわく。「私

の見解によれば、なお時が要請するかぎり、主として資本主義によって惹起さ れる諸民族の混在化に抗して、民族の安寧(Nationalitatenfrieden)のため に立ち向かうことこそが、社会主義の重要な課題であろう。」 最後にカウツキーが登場する。 K.カウツキー「出産ストライキ」27) ケッセル=ベルンシュタイン論争が『社会主義月報』誌上で展開されたのに

たいし、カウツキーのこの論文は『新時代』に発表されている。彼もまた、

「当面、出生率の低下を憂慮する理由はない、その扇動を鼓舞す−る理由はさら さらない」とし、出産ストライキには反対である。そしてここにおいてもその 反対論拠のなかで外国人労働者問題が顔を覗かせている。

反対論拠のひとつは、軍隊の構成にかかわる。つまり、労働者階級の人口が

絶対的にも減少することになるから、軍隊は、農民などの「最も反動的な部分」 から編成されてしまう。社会主義革命を軍事的に支援すべき軍隊が反革命勢力 によって掌握されてしまう。 27)KKautsky,Der Gebarstreik,in:DieNezLeZeit Bd31,1913′S904−909

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香川大学経済学部 研究年報 31 ・−ご符)− J99J そしていまひとつは、労働力構成にかかわる。強欲な労働者にかわって、結 社の権利も選挙権も剥奪された外国人が増える。それは労働者大衆から闘争能 力が削り取られていくことでもある。 かくして、出産ストライキの果てにカウツキ・−がみるものは、社会主義革命 に決定的に不利な社会構成である。すなわち、「社会民主党貞が人っ子ひとり いなくなってしまった軍隊、完全に自分の自由になる権利というもノのをいっさ い持たないプロレタリアート」、これである。 このように社会民主党は、出生率の低下と、それにつれて増大する外国人雇 用とを、ベルンシュ.タインのような前望的視点は別として、社会主義の前進に とって好ましからざる事態と考えていたといってよい。そうした悲観的な理解 は、後述するシュトゥットガルト国際村会主義大会の決議(1907年)に高らか に謳われたプロレタリア国際主義の堅持の、しかし底流にうごめいていた本音 の部分に触れていると思われる。 Ⅱ 外国人労働者政策 1.非ポーランド化政策カ) 第1次世界大戦前の外国人労働者政策は、まずなによりもプロイセン政府の “非ポーランド化政策”(Abwehrpolitik)によって刻印されている。それは ドイツ東部のポ・−ランド化という、マックス・ヴューバ・一によって提起され、 社会民主党の内部、少なくともその山部にまで浸透していた当時の危機感を政 策的に体現したものである。 非ポーランド化政策のもとで追求された政策課題は、およそつぎの2点であ る。 まず第1に、外国人労働者、わけても粁−ランド人労働者の定住を阻止する こと。この課題を達成する手段のひとつは、いわゆる待機期間(Karenzzeit)

28)KJ】∋ade,Preu8enganger und Abwehrpolitik Auslanderbeschゑftigung, Auslanderpolitik und Auslゑnderkontrolle auf dem Arbeitsmarktin PreuBen vor dem Ersten Weltkrieg,in:ArchiufiirSo2iaなeschLChleBdXXrV1984,Sl12∼121

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労働市場の国際化 ,・・・・−ご7ノーー の設定であった。いわゆる待機強制にもとづく強制ロ1−テーションである。そ れは農業労働市場の季節化にあわせて、毎年11月15日から4月1日におかれた。 (その後この期間は二度にわたって短縮されている。)つまりこのあいだポーラ

ンド人労働者はドイツをいったん離れて、春まで国外で待機していなければな

らないのである。ごれたよって農場経営者の利害を損ねることなく、ポーラン ド人の定住阻止が押し進められることになる。 待機強制は農業労働のサイクルには即応しているが、工場労働には馴染まな い。実際にも工業におけるポーランド人の就労は原則として認められていない。 彼らの雇用は建前上は農業でのみ許容されているのである。 非農業におけるポーランド人の就労は、原則にたいする例外としてのみ、個 別具体的ケ・−スとかかわって、認められた。たとえば鉄道敷設工事、運河建設

工事、幹線。道路工事は、首尾一署して例外とみなされた。それらの工事は屋

外作業のため、冬期には労働需要が自然とへるので、かの待機期間は効力をも つことができると考えられたからである。場合によっては内務省が特別許可を 与えることもある。いずれにしてもポーランド人の非農業における雇用は、例 外的事実にとどまった。 非ポーランド化政策の第2の課題は、外国人労働者を可能なかぎり非ポーラ ンド人で代替することである。それはとくに同じガリチア出身のポーランド人 とルデアニア人との処遇上の差別に顕著にみられた。 ガリチアというのは、正式にLはガリチア。ロドメリ王国(K6nigreichGalizien und Lodomerien)をいい、1772年のポーラ・ンド第1次分割において、ハブス プルク帝国の管轄下に入ったものである。オーストリア・ハンガリー帝国にお いて独自の行政権を保持していた。1900年時点でみると、ガリチア総人口の 5475%がポーランド人、4220%がルチアニア人という構成になっている。宗 教的には前者がカトリノク、後者がギリシャ正教と分かれている。両者の対立 は、ポーランド人の大土地所有者とルテアニア人の農業労働者という経済的な 利害対立を基本にして、深刻であった甜)。

29)Johannes Nichtwei8,D乙e aLLSlゐndischen SaisoTWrbeLterin deT LandwLrlschqFt

derと)S£Zよcんe花昆托d m土£〃e′e花Geわ乙e£e desヱ)e比とsc九e花月e乙Cんesノβ9ロープ9J4

(18)

−ごこフーー 香川大学経済学部 研究年報 31 ノ99J

ルデアニア人は待機強制から解放され、農業のみならず、製鋼所など大経営

を含む製造業においても、就労してよいことがはっきりと認められている。工

場労働に雇用しようとするさいの雇主にとっての障害は、ポーランド人よりも

ルテアニア人のはうがはるかに少ないのである。ま・たポーランド人には許され

ていない家族を連れての移住もルテアニア人には許された。さらにそのうえ、

すでにルデアニア人が働いている職場では、よほどの特例でないかぎり、ポ、−

ランド人の就労は認められない。非農業部門におけるポ・−ランド人の例外とし

ての就労にもかくして非ポ・−ランド化の楔が打ち込まれているのである。

2..外国人労働者登録制度

外国人労働者を募集・斡旋する方法には、いくつかの形態がある。

第1の形態は、最も古典的なものである。手配師(Schlepper)がかき集め

てきた労働者の一行を、大農経営者から命をうけた者が国境で受け取り、職場

まで連れていくやり方である。その役割を担う者は、「親方」(Vorschnitter)

と呼ばれ、足技きや脱走を見張る監視役をもつとめる。こうした非営利の募集

形態は、ザクセン渡りにも観察された。

第2の、最も一般的な形態は、斡旋業者をっうした労働者の調達である。

1905年の調査によれば、ドイツ全土に少なくとも7,000人の斡旋業者がいたと

いわれる。プロイセンだけで年間381,000人が斡旋業者の手で売買された。斡

旋の対象には、もちろんドイツ人の季節労働者も含まれていた刃)。たとえば次

のような広告がある斡旋業者によちてばらまかれている。

「ガリチア人、 20,000人、

男、女、少年

農耕、煉瓦積み、工場

時間給、日給、月給(出来高給含む)

格好の条件で調達致します。

30)KJBade,Arbeitsmarkt,Auslanderbesch畠ftigungundInteressenkonLlikt:Der

Kampf umdieKontrolleilberAuslanderrekrutierungundInlandsvermittlungauS−

1andischer ArbeitskrafteinPreu8envor demerstenWeltkrieg,in:FreTndarbeiter− pogよとよゐdesJJ7軍erまαg£Sm混SHeftlO,1981,S29−30

(19)

労働市場の国際化 一2只ヲー なお当方にて監視人を用立てさせていただければ、 作業終了まで足技きなきこと請け負います。 ご希望のむきには、契約書を直ちにお送りいたします。31)」 斡旋業名は、労働者と雇主の双方から手数料をとっている。労働者の支払う 手数料は、1マルクから10マルクのあいだ、雇主については5マルクから30マ ルクのあいだにあった。最高の手数料は、最も人手不足に苦しめられていたプ ロイセン東部の農場経営者からせしめていた。たとえばガリチア人の相場は、 12へノ15マルクといったところにある。ドイツ農業が斡旋業者に支払った手数料 総額は、運賃を含めて、年間3,000万マルクから3,500万マルクにのばると推計 されている32)。 そして斡旋業者のなかには当然悪質なケースも多くみられた。手配師なとと 同じ手口を用いて、虚偽の事実で労働者を呼び寄せておいて、一度斡旋した労 働者に契約破棄をけしかけ、そうすることで労働者の回転率を意図的に高め、 斡旋収入の増殖を謀るといった類は、あとをたたなかった。また労働者の足技 きを防止するということで、斡旋した労働者の賃金を業者のはうで保管し、そ のうえー人当たり月15マルクを賃金から控除するという手口もあった。契約途 中にして脱走する労働者が出てくるのも、ある意味では事の成りゆきであった。 1906年から1907年のあいだにポメルン州ではロシア出身ポーランド人の135% ∼15“4%、ガリチア出身ポーランド人の20%∼235%が、契約破棄の行動にで ているお)。 こうした状況にたいする農場経営者の側からの対応として、農業会議所 (Landwirtschaftskammer)による州レベルの職業紹介所が設立さればじめた。 戦略上の目標にはおよそ3つあった。斡旋業者によってつり上げられた斡旋料 を引き下げること。農場経営者が負担しなければならない労働者の渡航費用を、 鉄道輸送によって引き下げること。そして最後に、斡旋業者が誘引している契 約破棄に歯止めをかけること。 国内外の手配師を使った斡旋業者の労働者調達網にたいして、農業会議所は 31)u Herbert op c乙l,S36 32)KJBade,Arbeitsmarkt‥・,S31 33)Ibid=S31UHerbert,OPCil,S34

(20)

香川大学経済学部 研究年報 31 Ⅶ274− J99ノ 東部国境に独自の斡旋事務所をもうけた。ブランデンプルクの農業会議所は、 ガリチア人を斡旋する拠点として、斡旋事務所をミスロゲィッツ(Myslowitz) に、南ハンガリー人のそれを・アンナベルク(Annabe柑)に、そしてルチアエ ア人のそれをノイベルン(Neuberun)に開いた。同じようにしてポメルンの 農業会議所はロシア・ポ・−ランド人の斡旋事務所をシ.ユトラルコヴォ6tralkowd に設けた。シュレジェン農業会議所は、ミスログィッツに独自の事務所を開い て、ブランデンブルク農業会議所に対抗した。そのほかの農業会議所は、それ ぞれ特定の斡旋業者(いわゆる契約業者)と提携して、労働力の安定的な供給 を確保しようとした飢)。 しかしながら農業会議所が相互に対抗しあうという関係は、結局のところ、 その対抗関係につけいる機会を斡旋業者に残してしまう。そこで州の境界をこ えてドイツ農業全体の利益のために、外国人労働者の募集・斡旋を組織的に一L 元化しようとする動きが出てくることになる。 かくしてわれわれは、外国人労働者の募集・斡旋の、第一・次世界大戦前にお けるある種の到達点にたどりつく。すなわち、外国人労働者調達本部の設置と、 それにもとづく外国人労働者登録制度(InlandslegitimierungSZWang)の導入 が、それである。

外国人労働者調達本部(Deutsche Feldarbeiterzentrale)−以下、調達本

部と略称−は、1905年、ドイツ農業のための外国人労働者の募集・斡旋を統 一するための本部として産声をあげる。そして1908年2月1日から外国人労働 者登録制度が実施されるが、その排他的権限はこの調達本部に委譲される。ほ ぼこの時点で調達本部を中心とし、その下に農業会議所や契約業者を配置する、 外国人労働者の調達機構が出来上がる。その機構を以下に説明しよう。 調達本部は、東部国境沿いを中心に開設している入国管理局(Grenz益mter) で、入国する外国人労働者を登録する。入国管理局は、1913年時点でみると、 39カ所ある。そのほか事務局(Ab壬eItigungsstelle)が3カ所、そして総務局 (Geschaftsstelle)が4カ所に配置されている35)(第2図)。 34)KJBade,Arbeitsmarkt・・・,S32−33 35)JNichtweiβ,QP Cit,S138−143

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−ご7言− 労働市場の国際化 第2園 外国人労働者調達本部の配置図

、ヽ聖堂

Braunschw(〉 P/OUわz Scん由s由几 22 Friedla,nd.KrWaldenburg Mit,telwalde,Kr.Habelschwerdt 34567nO901 22222り︼233 Ratibor・ PleB Kattowits Kattowitz L11blinitz KT.Rosenberg Kreuzbu曙 T Rosenberg OS Annaberg,Kr Neuberun,Kr Myslowitz,KT Kattowits,K【 Pr HeTby,Kr Rosenberg OS KreuZburg,Kr Landsbe唱 K A 入国管理局 1Ⅲowo,Kr Neidenburg 2 NeidenbuT・g,Kr Neidenburg 3 0rtelsburg,Kr O日々1sburg 4Johannisburg KrJohannisburg 5 Prostken▲Kr.Lyck 6 Eydtkunen,Kr.Sta11uponen 7 Tilsit,Kr Tilsit Prouわz Wesとpreαβen 8 Thorn.Kr Thorn 9 G011ub,KrBriesen lO Strasburg,Kr.Strasburg 11 Lnutenberg Kr Strasburg P/OUめz Po9e几 121∼lihelmsbruck,Kr Kempen 13 Kempen.KrKempen 14Grabowlむ Schudberg 15Ostrowo,Kr Ostrowo 16 NeuskalmierSChutz.Kr(おtr○ヽ∼0 17 Pleschen,Kr.Pleschen 18 Wreschen,Kr Wreschen 19Stralkowo,Kr Wreschen 20 Kruschwitz Kr Strelno 21HohensaLza Kr Hohensalza ProぃわzScん由sMめg−ガ0よs亡eわ 32 Hadersleben Kr Hadersleben 33 Scherrebeck Kr:Hadersleben P′OUわz.打αn几0乙Jβr 34 Weener,Kr W恍ner P′0乙ノわ2休es擁ぉれ 35 Gronau Kr Aarhus 月加ゎ′Ol血2 36 Emmerich,Kr Rees 37KaldenkirChen,Kr Kempen 38 Aachen Stadtkr 一生achen

点ゐαβ−エ0亡ん/加g(・れ 39 Met2:(fr SaarbrGcken) B 事務局 + C 総務局\ノ\/〉\

(出典)JNichtweiB,DieaLLSlゐndischenSaisonarbeiterinder

・.‥・・、‥・・− ・.、・・・‥ ‥・・‥・・・・・・∴

DeLLtSChenReiches1890−1914,Riitten&Loening1959,S141

(22)

香川大学経済学部 研究年報 31 J√99J −2裕一 入国管理局にたどりつくル・−トにはだいたい2通りある。ひとつは外国人に よる募集活動が認められている地域から来る場合である。その場合には調達本 部の契約業者がその地域の斡旋業者などと連携しながら、労働者を集める。そ のさい契約業者はすでに雇主からの斡旋依頼書と契約書とを所持している。一 方、外国人の斡旋活動が認められていない地域では、労働者たちは業者の引率 なく自力で事務所までやってきて、そこではじめて雇主の代理人と会い、その 場で契約を交わすことになる。つまり前者では契約が労働者のところにやって くるが、後者では労働者たちが契約を目拇してドイツに向かうわけである。後 述のように、前者がガリチア、後者がロシアである鎚)。 入国管理局ではその後簡単に検疫を済ませ、登録証が渡される。登録証には 労働者自身の名前と雇主の名前が記入される。まだ雇主がはっきりしていない 者には、仮登録証が発行される。そのうえで当該地域の農業会議所の関係者に 引き渡されて、職場まで連れていかれる。 このようにこれまでは対抗関係にあった斡旋業者や農業会議所とのあいだに 緊密な協力体制を築きあげることに.よって、労働者の調達費用は著しく圧縮さ れることになった。ロシアからの労働者の調達が仙人当たりわずか3マルクで 済み、ガリチアからでも4マルク、ハンガリーからも5マルクで足りる。6人 以下や3人以下の“小口注文”にはそれぞれ1マルク、2マルクの割り増しが かかるが、その場合でも“小口注文”の雇主たちは共同で発注することができ た。かくして以前のコストに比べると、少なく見積もっても5分の1程度で労 働者が調達できるようになったのである37)。 ロシアから確かな当てもなく危険を承知で国境までやってくる人々は、たい てい契約にこぎっけるまでには日数を要する。管理局の一・時収容所で泊まるこ とになる。なかには当然引き返す者も出てくる。一月85ペニヒで4日泊まった とすると、3マルク40ペニヒである。雇主が労働者の調達にあたって支払う額 よりも多い。そのうち財源切れて、窮迫販売に追い込まれることにもなりやす い。そのうえさらに、無事契約できたとして、登録手数料がかかる。一・人当た 36)KJBade,Preu8eng畠nger・・・=S123 37)KJBade,Arbeitsmarkt・・・E S38

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労働市場の国際化 −277一 り2マルクである。かくして、外国人雇用のリスクはいまや労働者の肩に重く のしかかっているのであるめ。 さて国境のこちら側に目を向けよう。 新規入国者の数は、調達本部の登録件数からだいたい計算できる。それによ ると年間30万から40フラの外国人労働者が新たに登録され、ある特定の雇主のも とで農業労働に従事するために、入国している。調達本部が自ら斡旋した外国 人労働者の人数は6フラから7万といったところにある。そのうち農業に従事す る割合は、およそ80%と推計されている。これにもとづいて調達本部による斡 旋率を算出すると、せいぜい14%ないし15%になる。おおめに見積もっても18 %程度である(第1表)。ちなみに第2次世界大戦後における連邦労働庁によ る外国人労働者の斡旋率は、送出諸国についてみると1960年代の前半で50%か ら60%のあいだにある。つまり外国人労働者の調達にかんするかぎり、当時は 第1表 外国人労働者調達本部による農業労働者の斡旋件数及び斡旋率 (2) (3) (4) (5) 斡旋件数 農業へ・の 農業労働 斡旋率 斡旋率 斡旋件数 者の登録 (り (Ⅱ) (1)×08* 件数 (2)/(3) (1)/(3) 1908/09 60,225

48,204 335,824

14小4

179

1909/10 66,210

52,968 374751

141

17。7 1910/11 66,927

53,542 387,902

138

173

1911/12 70,726

56,581 397,364

14小2 17小3 1912/13 78,044

62,435 411,706

152

190

(出典)KDohse,A比Sgゐ花dよ5C′乙eノ4rわeま乙er乙↓花dわ㍍rgerg土cんer5£ααと,

Anton Hain1981,S40

(注)*斡旋件数のうち農菓労働者のしめる割合は、1907/08のデータから77%で ある。ここから斡旋総数のおよそ8割が農業への斡旋と推定される。 論)Jわよd,S39

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香川大学経済学部 研究年報 31 J99J −2ア8− 国家の政策的介入からかなり自由であったといってよい。労働需要を外国人労 働者で埋めようとする雇主の判断と行動とは、登録手続きを経由するかぎり、 はとんど制限されていないのである謂)。 調達本部の存在理由は、かくして調達される外国人労働者を‘‘非ポーランド 化政策,,にしたがって監視することにある。そのための手段こそが、外国人労 働者登録制度である。 登録制度は1909年からあらゆる国籍の外国人に適用されたが、そのさい官吏、 職員、工場長など頭脳労働を遂行する労働者は除外された。登録の対象は、肉 体作業に従事するいわゆる現場労働者である。 入国管理局で発行される登録証は、その年仙年限り、しかも明記されている 雇主のもとでのみ、有効である。それは外国人労働者が合法的に就労している ことを証明しうる唯≠の書類である。ポー・ランド人を容易に区別するために、 登録証は色分けされている。ポーランド人の赤色にたいして、ルテアニア人は 黄色、イタリア人は緑色、オランダ人とベルギ一人は青色、デンマーク人、ス ウェ・−デン人、ノルウェー人は茶色、そしてその他は白色といった具合である。 農業労働者の登録証にはそのうえさらに一本の縞模様があるiO)。 労働者は職場につくなり登録証を雇主に預ける。契約関係が満了したとき、 あるいは滞在期限が切れるとき、登録証は労働者に返される。ポーランド人以 外の外国人は、登録証を更新すれば、雇用関係を継続できる。しかしながら雇 主の変更は、入国管理局が登録証に新しい雇主の名前を書き込むことによって、 はしめて認められるから、制度的には可能ではあるが、容易ではない。 ところがポーランド人には、そもそもそうした職場変更の可能性すら与えら れていない。彼らは待機強制のため、待機期間がくるたびごとに、入国管理局 で登録証を返却し、あらためて春に申請し直さなければならない。そのうえ彼 らの場合、契約書には次の一句が必ず書き込まれている。すなわち、「正当な 根拠にもとづく労働者の解雇は、被傭者による雇用関係の違法な破棄に等しい」。 39)KnuthDohse,AuslあdischeArbeiterundbiLrgerlicherStaatGeneseundFun兢on

乙ノOJIS£ααとんcんeJt.4乙JSg(わderpogェ∠∠ゐ昆几d∴4usJd花deγreC如 V’07乃宵αまserre乙C/乙 ゐ乙S Zur

βは托desr印比b肋βe辻‡SC九∠α托d..ノゝnton Hain1981.S3943

(25)

労働市場の国際化 −−ご「p一− 雇主と労働者とのあいだに、たとえば賃金をめぐってなんらかのもめごとが発 生した場合、それは契約書ゐ第8条b項(雇主の侮辱)ないしC項(行為によ る雇主への反抗)にあたり、解雇を正当化する。しかもそれはポーランド人労 働者による違法な契約破棄とみなされるのであるから、その時点から彼らの登 録証は無効となり、′ドイツにおける就労(滞在)資格も喪失することになる41)。 そうした危険を冒してまでもドイツの労働市場で自己の利害を追求しようと試 みる粁−ランド人労働者は、強制送還と背中合わせの不法就労の地位に身を投 じなければならない。 登録証は3部複写され、そのうち2部は調達本部のデータに、そしていまひ とつは警察のカードにアルファベット順に整理される。ベルリンにある調達本 部の中央デー・夕は、55名の職員によって管理されている42)。 入国管理局は、登録した外国人が働いているはずの職場が立地する市議会と

郡警察とに、毎週、登録人数と雇主名とを、通知する。そして警察当局には随

時職場を巡回して、確認し、あわせて不法就労の摘発に努めるよう、通達が出 されている嘲。 ところが極度の労働力不足のもとでは取り締まるべき不法就労も黙認せざる をえなくなる。なによりも外国人労働者たちがドイツのこうした威圧的な制度 のために働きに来てくれなくなってしまってはどうしようもないのだから。そ こでたとえば1908年1月31日の回状では次のような指示が与えられている。 a.契約破棄にもとづいて強制退去処分をうけた者は、翌年1年間について のみ入国を差し止めること。すなわち入国禁止規定は緩和された。 b..不法入国者および不法就労者は、非ポーランド人にかぎって、手数料5 マルクにて事後的に登録手続きを認めること。 ポーランド人の不法就労は非ポーランド人の場合よりも厳しく処罰されたが、 それでもいかなる場合にも国外退去につながるというケースはきわめて稀であっ

41)Jurius von Trzcinski,Russisch−POlnische und Galtzische WaTlderarbeiter Lm

Gro8herzoglumPosenMhnchener VolkswirtschaftlicheStudien Neunundsiebzigs−

tes Sthck,1906,S65¶67,88

42)KJBade,PreuBenganger・・・,S125−126

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香川大学経済学部 研究年報 31 J99J −−ゴJ(トー たといわれている。粁−ランド人の雇用が許されていない経営で不法就労が摘 発されたとき、その雇主はたしかに無条件でそのポーランド人を手放さなけれ ばならない。しかしそのポーランド人が実際に国外追放されるのは、ポーラン ド人の雇用が許されている経営に就職口がないと確認されたあとである現)。 このように外国人労働者登録制度は、逼迫する労働力不足のもとで、その原 則をしだいに弛緩させていったのである。 そしてまた上にみてきたような待機強制とワンセソトの登録制度は、プロイ セン邦以外には、ザクセン、ザクセン・マイニンゲン、ブラウンシュヴァイク で取り入れられたにすぎない。その他の諸邦ではずっと緩やかな制度が、プロ イセンの圧力に抗して存続したのである。バイエルン、ヴュルテンペルクといっ た南部の諸邦では、待機強制も登録制度も採られていない鳩)。牢固にみえたポー ランド人にたいする監視体制も、かくして内にも外にも、ほころびがみられた わけである。 3〃 対外的乱轢 労働市場の組織化と外国人労働者の募集にかかわる国家間の調整の枠組みが ない状況のもとでは、外国人労働者政策は絶えず対外的な乳轢にさらされるこ とになる。 まず募集活動にかかわって。 ロシア政府は、先に触れたように、自国領土内における他国の人間による募 集活動をいっさい禁じている。そして国境5マイル以内に居住するロシア国籍 のポーランド人にたいしてのみ、ドイツへの渡航を認めている。それゆえドイ ツの農場で働く意志のあるポーランド人はひとまず独力で国境まで行かねばな らなかった。 これにたいしてガリチア政府の対応は異なっていた。ガリチア政府は、プロ イセン農場経営者の代理人による自国領土における募集活動を、そのための許 可証を付与したうえで、認めていた。ところがいったん代理人による募集活動 亜)Jあよd,S127【128 45)JNichtwei8,OP‖dlL S144T148

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労働市場の国際化 一一ごメノーー を認めてしまうと、許可証をもたない代理人や、あるいは渡航経験者による違 法な募集が繁茂してしまった。それはガリチア内での賃金の高騰を惹起してい た。そこでガリチア政府は、1904年3月16日に職業紹介法を成立させた。それ は国内の労働市場をコントロールするためのものである。各行政管区にそれぞ れ職業紹介機関を設置し、その活動はレンベルクの中央労働局の監督下におか れる。さらに同年秋には、国境のミスロブィッツに領事代理をおいて、すべて のプロイセン渡りを統制しようとする措置が講じられた。外国人労働者調達本 部は同年暮れ農務省に宛てて、この事態への対応策を懇請している46)。 −・方ロシア政府は、プロイセン渡りを利用して、ドイツとのさながら関税戦 争を自己に有利に導こうとしていた。1893年の交渉にさいしても渡航禁止を圧 力にして翌年の妥協にもちこんだ。その後においてもロシア政府がポーランド 人の渡航に何らかの変化をみせると、あるいはその気配がうかがえるだけで、 農場経営者から農務省・内務省の官僚にいたるまで、戦々恐々としていた。そ うしたドイツ側の心理状態は、1901年3月11日付けの中央党機関誌『ケルン人 民日報』(K61nische Volkszeitung)における次のような描写によく示されて いる。 「ドイツ全土の農業はロシア政府の善意に身を委せている、いまやこう 述べることが許されるであろう。東エルベの農場経営者からわが党に宛てて、 文書攻撃が殺到しており、そこに書かれていることは、もしロシアがダモクレ スの剣を落とせば、彼らは完全に破滅してしまうということです。47)」 1894年の関税協定の改正交渉の場では、関税とは別に、プロイセン渡りにか んする要求がロシア側から提出されている。要求の項目は、次のごとくであっ た48) ① 契約期間、労働内容、労働時間といった基本的な労働諸条件を統仙・的に 規制すること。 ② ロシア当局発行の出稼ぎパスポp卜(ArbeitspaB)を携行させること、 それを所持していない者の雇用は禁ずること。 ③ 紛争解決にあたる専任担当官(Amtsvorsteher)をおくこと。 46)J玩dゝS117−118 47)/飢d 48)Jゐ£d.S122−124

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香川大学経済学部 研究年報 31 〝2&2− J99J ④ 外国人登録証は、雇主でなく役所が保管すべきこと。

⑤ 賃金支払、食事、違約金の確定にかかわる紛争は、救貧法の適用をうけ

ること。 これらのうち、たとえば第1点は労働諸条件の集団的規制にかかわる。ヘル・ イム・ハウゼ的観点が労使関係を律している状況のもとでは、外国人労働者に ついてだけ例外とすることば不可能であった。あるいは第2点は、外国人労働 者の供給を送出国側がその質・量について実質的に規制することを意味してい た。これもロシアからのプロイセン渡りに依存しているドイツ農業にとっては 容易には受け入れられない要求であろう。結局これらの点をめぐる駆け引きは、 政府間協定としてではなく、ドイツ側にとっては努力目標に近い性格の省庁間 の覚え書きの交換ということで一応の決着をみることになる。1905年11月のこ とである。 外圧は、外国人登録制皮の導入を契機としていっそう厳しくなった。 オーストリア・ハンガリー政府は、「最もすばやく、そして表面上は最も激 しく」、外国人登録制度にたいする疑念を次の4点について表明した49)。 ① ドイツ国民とオ・−ストリア・ハンガリー国民とを経済的な諸点で平等と 規定している「ドイツ・オーストリア通商協定」(1891年)第19条に違反 している。少なくとも自国民の地位の変更にかかわる事柄はその政府の了 解なしに実施されてはならない。 ② 登録証が国家機関によってではなく農場経営者たちの組織によって交付 されるということによって、ドイツで働こうとす−る人々はより強く雇主の 私的利害に左右されてしまいやすくなる。 ③ 登録手数料2−5マルクは高すぎる。 ④ 外国人登録は当初ロシアとオーストリア・ハンガリーからくるポーラン ド人にのみに課せられていたから、その点で他の外国人よりも劣等に扱わ れている。 オーストリア・ハンガリー政府のとった最初の対抗策は、まず未成年者の出 稼ぎを規制す−ることであった。1908年5月の法令によって18歳以下の未成年は 49)乃えd,S187−191

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労働市場の国際化 ー2β3−

後見裁判所(Vormundschaftgericht)の同意がなければ、外国で働くことは

禁止された。ドイツのてんさい栽培を経営する農場主は、コストの面からも、 未成年の若い労働者をほしがっていたから、この法令は彼らにとって大きな痛 手であった。 つづいて1913年1()月には、出稼ぎ規制法(Auswanderungsgesetz)が起草さ れた。それは労働力の流出を食い止め、自国の人手不足に対処する必要から生 まれた。法案によると、渡航希望者は出稼ぎパス掛一卜をヰ話しなければなら ない。前述したように、これはすでにロシア政府が考案していたものである。 パスポ・−卜は、身元確認のうえで、州当局が発行する。そのさい兵役義務を終 えていない者にはパスポートは発行されない。そしてまた雇主が自らの事業所 のために、あるいは雇主団体が加盟する構成員の需要に答えるかぎりにおいて のみ、募集の許可が与えられる。手配師などの斡旋業者による募集活動はこれ をもって禁じられている。募集活動の許可を付与された個人または団体は、オ■− ストリアの法律にしたがって、ニカ国語で書かれた労働契約を、か−ストリア の国内で締結しなければならない。そのうえ、労働契約がきちんと遵守される ように、ならびに旅費その他の経費をまかなうために、募集活動の程度によっ て250から500クロ・−ネの保証金を雇主に課すとしている別)。 ロシアでもこれと同じ趣旨の法案がほぼ2カ月遅れて(1913年12月18日)提 出されている。そこでは、労働契約の締結を斡旋委員会(Vermittlungskammer) の監督下におくこと、そして自国労働者を保護し適切な援助を与えるために、 渡航の主要経由地に渡航事務所(KuratOrie)を、ドイツのロシア領事館には

出稼ぎ労働者担当委員(Auswanderungskommissare)をおくことなどを規定

している。ドイツ農業で働くポーランド人のおよそ3割がフトーストリア・ハン ガリ、一出身のとき、ロシア出身は5割をこえているから、法案にたいするドイ ツ側の反響はロシアにたいするほうが大きかった。 “ロシアの脅威,,が語られ たはどである5ユ)。 出稼ぎ規制法案にもとづいてドイツとのあいだで政府間交渉が続けられたが、 50)乃よd,S195−200 51)Jわよd,S205−207

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