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日本佛教學協會年報 第11号 006上田天瑞「真言律と其の系統」

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日 本 悌 数 挙 協 曾 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 一 八 I

直 ︵

一 一

一 、 序

l

日本係数戒律思想史 一 二 、 有 部 の 一 ユ 伶 坊 五、四分汲と有部派との論静 一 一 、 律 の 三 信 坊 四 、 由 民 言 律 の 系 統 六、真言宗と戒律

一、序!日本悌教戒律思想史

戒律の根本と言ふべき小乗戒は何人も知る? 7 に律法主義であり極端な禁欲主義形式主義であり、父消極的自 利的であ回、かフいふ戒律ぞ形式的文字通りに絶卦厳守しこれが出家の民大義務なめとするのが所謂小薬品開教で ある。大乗悌教は是の如き小一来の戒律主義に封する反動として起つにものと首ひ得る、郎ち形式的な戒律。か悌教 の根本精神ではなくして悌殺の本質はもっと荒要なものが他にあるのであってこれを忘れに戒律は却って悌敬の 棋本生命治失ふものであるとし大乗菩隣より見て小乗者や聾聞として極端に庇斥したのである。かの維摩哩には 持戒第一の優波離は却って罪そ増長するものと叱責され、コ品原の陣地に蓮華そ生ぜす、卑漁の波泥に乃ちこの華 を 生 す ﹂ と 一 一 員 ひ 、 ﹁ 無 明 三 毒 一 切 の 煩 悩 こ そ 如 来 の 種 な り ﹂ と 喝 破 し て ぞ る つ 要 す る に 大 乗 悌 教 は 悌 教 の 本 質 は 絶

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封無碍の生命の獲得と填の生命ぞ活かす大慈悲の精神にあり形式的外儀の如きは末なりとするのである。然しな がら印度及ひ支那の大乗者はこの大信念に住しながら其の宜際生前においては出家持である限り禁欲的形式的持 戒 生 活 そ し て 来 た の で あ る 。 然るに日本に来って港に小乗戒が貰際上にも排棄される様になった、惇敬大師と親溝型人とはこの運動の二大 先駆者である。俸教大師は叡山に大一楽園頓戒檀そ建立して大乗者には大乗猫特の戒があるべくこれのみによって 大乗の菩薩借となり得ると主張し、五十二歳の年白ら小乗具足戒冶葉捨

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れに。父親驚聖人は更に一歩ぞ進めて 持戒自力による往生は不可能であるとし一切の戒を捨てて非借非俗の凡夫として禰陀の絶封大悲に浴し在俗的生 活 に 安 住 さ れ に の で あ る 。 日本側款の戒律に封する態度にはこの二の流がありこれが最も有力な系統である、結局日本悌教は思想的にも 貰践的にも所謂戒律を捨てたのである。然し日本側教に於いても上述二系統の捨戒主義に封して印度支那以来の 持戒主義を維持しこれそ復興せんとする一波が存し七、これが即ち律宗異言律宗左中心とする戒律主義の一群で ある。この汲は音際上の勢力は最も微弱であつにがこの汲こそ悌陀の正法沿其の偉の姿にて維持せんとし倒教の 正統治奥さんとしにものであってこの一流は日本悌教の主流ではないが印度支那そ含めに全悌教より言へば少く とも表面的には正統波なりと言はねばならぬ、彼等が既倒そ起さんとせし努力奮闘は誠に悲壮なるものがあった のである。この汲は勿論日本悌款として大乗悌教の精神そ根本信念とすることは他汲と異ならぬけれども﹁内秘

“ 菩薩行、外現聾聞形﹂と一言ふ如く内に大乗の精神に住しつつその外儀に於いては例陀の正法の正しき姿をもって 巌椅なる持戒生活をなさんとするものである。 長言律と共の系統 一 一 九

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日 本 傍 敬 血 中 協 舎 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 二 O 3 鑑具和尚は六度渡海を企て謹に建中失明の厄じ遭ひつつも悌陀の聖戒を我が口本に俸へんとし天卒勝賓六年 ① ︵一回︶六十六歳の老齢をもって雨都に来り其の日的生達しに。和尚の俸戒によって一時戒律は行はれにがやがて 衰へて形式的に飴命冶保つに至り、卒安末藤原時代の官能悌救享柴悌教は全く無戒の航態を現出し律瞳の大本山 ① 唐招提寺の如きも既に休む人もなく僅かに耕作の一残惜を止むるの肢となった。これに加ふるに借兵の蚊屋は慈 悲清涼の精舎をして修羅の巷と化し去つにのである。 是の如品川、堕落備教に封して反動として起つにものが浮土、蹄の鎌倉新併殺であり、これに刺戟されて奈良の奮 悌教も復活するに至り殊に戒律の復興がけ醒しかつに。この戒律復興の先駆者は中川の賀範上人であり、大成者 は唐招提寺の大悲菩隣組買盛、西大寺の興正菩薩叡章であり、京都泉桶寺の俊持律師である。叉笠置の解脱上人、 株尾の明恵上人等も戒律復興にカ沿査し仁人々である。向興正窓口慌の弟子匙性菩薩良観は鎌倉に極柴寺沿創して 関東に倖瞳沿翻し亡、興正菩薩と忠性菩隣とは戒律思想を民衆に普及するに大なる功積あり、特に戒律精紳より 一 枇 舎 救 漕 蓮 動 浮 化 運 動 に カ ル 孟 し 我 が 園 側 救 枇 曾 事 業 の 最 も 偉 大 な る 貢 献 者 で 士 山 一 る 。 これ等鎌倉時代に於ける戒律復興者の多くは呉言の人々である、印ち宜範上人、興正菩際、芯性菩隣、俊務伴 師は共に昆言の人であり、大悲菩薩も亦回以言に闘係深い。中にも興正 t A H隣叡隼は密殺沿己が宗と定めて出家し醍 醐 の 国 明 阿 閣 梨 ︵ 金 剛 界 ︶ 、 且 窓 阿 閤 梨 ︵ 胎 械 界 ︶ に 雨 部 の 大 法 冶 受 け 、 更 に 安 貞 一 万 年 二 十 七 歳 に し て 醍 醐 松 橋 流 の 一 海 靖 子 翼 民 ひ 霊 能 道 場 に 於 い て 松 崎 流 の 貝 文 挫 頂 主 け 弘 法 大 師 よ り 十 五 代 の 議 選 高 橋 流 の 玄 奥を究め仁が後自ら一流な編み出して松橋流の一支流にる聞大寺流を聞いにのである ο 又後に小島流の能草の法 服沿も受けてゆぞり東密事相史上極めて重要な人である。この故に後世唐招提寺境盛の流を作宗と一吉ふに針して西

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大 寺 叡 傘 の 流 沿 異 一 一 1 H 律 宗 と 呼 ぶ 様 に な つ に の で あ る 、 而して後位体に於いてはこの西大寺叡傘の流冶汲むものが 最 も 多 い の で あ っ て 、 この意味よりすって後代の律は殆んレ﹂炭き立味に於いての民言律宗であると言ひ得るので あ る 。 然らば後位に所謂且 A 百 律 京 大 る 割 隼 の 律 が 其 の 教 義 上 質 行 上 に 於 い て 且 ・ 一 れ の な 場 に 京 っ て 猫 特 の も の で あ っ 七 かと一言ふに決してきうではない、体に於いては唐招提寺も西大寺も共に同じく鑑亘の説に従ひ四分伴そ依用し ① に 、

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雨者の間に惜悔の法について異説があった.かこれは何ん等卑 YH の宗義に闘係しにものではない、従って 西大寺ぞ中心とする旦言律宗とは躍に,民言の人が行ふ律なることを示すのみであって作そのものに莫言による特 別の教義態度があるわけではない。 註 ① ① ① ① ① 雑誌悌敬一各二披拙稿参照。 唐大和倫東征停等。 律 苑 働 旧 費 俸 巻 十 o 持 作 苑 償 資 停 止 甘 十 二 、 興 正 菩 薩 俸 等 。 凝 然 、 一 週 受 比 丘 陵 悔 雨 寺 不 同 記 。 二 、 律 の コ 一 借 坊 、 如 訟 真 一 一 一 H 律 、

律 鎌倉時代の戒律復興運動により一時の盛蓮在日凡に戒律もやがて再び衰微

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蹄し仁、その後約三百五十年冶粧て 慶長の始めに去り山城棋尾山平等心王院に問忍律師が出で碧雲、友軍の同志一一一入と共に栂尾山に於いて自誓受戒 4 し 再 び 伴 瞳 そ 翻 す に 至 つ に 。 長 雪 日 律 と 主 ︵ の 系 統

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日 本 偽 教 且 平 協 舎 年 報 へ 第 十 一 年 ﹀ 明 容 律 一 蜘 ︵ ニ ニ 誤 1 ︶ は 京 都 の 人 で 慶 長 四 年 二 十 四 歳 の 時 高 尾 の 晋 栴 借 正 に 従 っ て 剃 髪 し 俗 一 止 よ り 密 一 法 を 受 け

体を再興せんと祈願して春日神此に参詣し偶ミ同志の菩雲︵法華宗の入、丹波中山寺︶と趨返し共に戒を興さんと 誓ひ西大寺に入って友章に遭ひ三人共に律を探り老徳ににづね慶長七年二十七歳にして栂尾山に於いて雲章二師 と共に白誓受戒し嘉頑の昔大悲興正の芳朗 o q 慕ひ摩れにる律を興さんことを誓つに。かくて晋海僧正の支援によ って横尾山ぞ律再興の道場とし由学徒そ集めに。律師は更に入宋して別受の戒ぞ俸へんと欲し横尾山の後事ぞ雲牢 一 一 師 に 托 し て 針 馬 に 至 つ に が 謹 に 其 の 志 そ 得 令 コ 一 十 五 歳 の 壮 齢 冶 も っ て こ の 弧 島 に 病 残 し に 、 然 し な が ら こ の 後 律 師 の 士 山 や 種 、 ぐ の 士 相 究 い で 出 で 戒 律 は 一 時 の 盛 観 を 示 す に 至 っ た 、 かくて律師は近世興律の始組と言ふべきで あ る 。 明忍律師の滅後棋尾山では慧雲友章の二師が衆徒や卒ゐて体の弘布仁つとめにがこの他に棋尾山より律ぞ受け ② て こ れ そ 興 行 す る も の が 各 地 に 出 で に 、 郎 ち 高 野 山 の 良 永 律 師 ︵ ニ 一 一 一 法 l ︶ は 故 郷 針 岡 崎 に 師 つ に 時 明 志 一 律 師 に 謁 して其の款により更に棋尾山に至って韮岬室師から受戒し高野山に創って元和五年莫別庭園通寺ぞ創立して高野山 に 於 け る 律 の 本 慮 と し に 。 ① 究に良永律師の資快園恵窓和向は和泉大烏山の神鳳寺ぞ復興して律固とし、明忍律師の孫弟子である慈忍聾猛 律 師 ︵ ニ 一 一 一 計 四 | ︶ は 河 門 野 中 止 寸 に 結 界 し 大 ︵ 棉 糊 ⋮ 謹 一 盤 古 ︺ 一 ︶ 。 こ の 棋 尾 山 、 大 鳥 山 及 び 野 中 寺 径 一 世 に 律 の 三 俗 坊 と 稽 し 律 療 の 中 心 ー と な っ に の で あ る o この律の三僧坊は其の開組はいづれも奨言ぞ宗とし律の復興ぞ圃りし人で あってこれ等を暴言律宗の三汲と云ふことが出来る、然し其の後や櫨ぐものは寧ろ律密宗とし且言を忘れにかの ④ 観 あ り 、 四 分 律 宗 と ・ 一 月 は れ る 様 に な つ に 。

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夏 に さ 烏 一 棋 の 快 凶 よ り 受 戒 し た 浮 般 律 師 ︵ 一 一 一 一 一 ヨ

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︶ は 密 教 の 事 相 ︵ 新 安 流 の 組 ︶ 救 相 次 び 悉 曇 に 於 い て 不 一 刊 の 効績を残した人であるが末法の陵威を慨き如法の俗資ぞ立てんと欲し如法民・一治体や唱道して戒律の復興を闘っ に 。 印 ち 延 質 五 年 に 河 内 に 延 命 寺 そ 創 し て 加 法 異 ・ 一 八 律 の 本 所 と し 、 一 克 雄 四 年 五 代 将 軍 綱 吉 の 外 護 に よ り 江 戸 湯 島 に 賓 林 山 霊 雲 寺 そ 創 建 し 闘 八 州 五 言 律 宗 総 務 帆 に 殺 せ ら れ た ︵ 碍 一 概 脚 一 較 ︶ o 汗 殿 山 間 師 の 如 法 義 一 一 二 円 律 は 従 来 の 暴 言 作 と 同 じ く 民 言 猫 特 の 律 の 立 で は な く 如 法 に 作 そ 持 す る 呉 ・ 一 二 円 心 不 印 ち 仰 陀 の 正 法 に 従 ふ 且 ム 一 円 宗 の 意 味 で あ る 、 而 し て 其 の 律 と は 顕 密 大 小 の 伴 で あ り 、 小 乗 作 と し て は 同 分 作 刊 を 用 ゐ る の で あ る ︵ 津 巌 作 昆 言 律 排 ︶ 。 霊 雲 寺 汲 が 律 二 一 僧 坊 と 異 な る 貼 は ど こ ま で も 且 言 を 主 と し 宗 と し 如 法 の 晃 一 汁 師 ち ら ん が 矯 に 律 を 護 持 す る と 一 一 パ ふ 黙 で あ っ て こ の 貼より律宗に非守して昆言宗である。 叉 野 中 寺 の 系 統 巻 構 ∼ る 慈 雲 一 号 有 ︵ ニ 疋 臥

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︶は人の知る如く正法律の開組にして近世の大律匠である。章者は 賓暦六年三十九歳の時高井田長楽寺に於いて末世の弊儀沿捨てて凡て悌陀の正法による俗資をにてんとして正法 律ぞ宣布し、天明六年六十九歳河内高貴寺を正法律本山として認許せられに。章者は悉曇、律、神道の研究に民 も 力 h q 症がれたが賓践門に於いては律と耀とを設も重んじられに様である。 その正法律は曇俗一貫の律として十 善戒在高張しにが出家の律としてはやはり主として四分律ぞ採用し有部律等の他律をも必要に膳じ研究し用ひら れ大様である、故に正法律は純粋の四分律宗ではなく寧ろ批判的に悌陀の棋本意趣によらんとせるものと見るこ と が 出 来 る 。 慈 雲 象 者 と 同 時 代 に 尾 張 の 八 事 山 興 正 律 寺 に 諦 忠 一 律 師 妙 龍 ︵ ニ 医 一 一

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︶ あ り 、 律 的 畢 の 研 錆 じ 浸 一 蹴 す る こ と 釣 年 資 暦 三 年 に 律 苑 行 事 問 解 十 巻 ︵ 罫 一 一 語 間 一 一 肌 律 ︶ 冶 撰 し た o 律師は密律苧佐賀場せる人でその事問の態度は自由奔放で 6 国 呈 一 日 律 と 其 の 系 統

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日本偽数拳協合年報︵第十一年︶ 一 二 四 あって俸統的律に封しでも銃く批判して取るべきは取り捨つべきは拾っと言ふ態度そ示してそる、南山、一万照等に 封しでも屡

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老馨妄説の語をもってこれぞ非難し何れかと言へば南山の湾律冶排するが如ま言辞が多いが行事問 排 九 に ﹁ 一 議 浮 懐 素 ノ 説 モ 可 否 相 半 ス 、 全 分 依 用 シ 巨 シ 、 宜 シ ク 可 ナ ル 者 − 一 ハ 従 ヒ 不 可 ナ ケ 者 ハ 信 受 ス ベ カ ラ ズ L 7 と言ふ如き批判的態度や取つに様である。 一 語 ① 明忍律師の俸は律苑償費俸巻十五、本朝高伶俸巻六十二等に見えるが慈光編一一一合同法棄ヘ高大圏書館、三賓院寄托篤本︶ 巻十四には次の諸簿記を集録してをるo 横尾山平等心主院輿律始組明忍律師行業記 寛 丈 四 年 ︵ 滅 後 五 十 四 年 ︶ 州 山 沙 門 妙 子 記 横尾平等心王院故弘律始祖明忍和的同行業由記 貞 享 四 年 我 山 沙 門 道 激 月 宿 体 制 説 明忍大律師行業賛顔 横尾山明恐律師塔銘 これ年の諸俸の中妙子の行業記が最も古く、由記は最も委はしい。又慈雲館者の律法中興縁由記︵全集刊︶は寧者がそ の附貞紀和品川より体問せる所により律師の戒律復興の由来を委はしく記してをる。山川横尾山西明寺には現に律師の筆 になる手記が保存されてをる。 良永作附の俸は律苑併賓俸巻十五に見えるが前記の三合同法棄には高腎山報恩院智燈撰、高野山新別庭閉山律師俸を録 し て を る 。 ① @ 快聞は紳鳳寺を中興して比六の師たる民政岡山山律附︵同県別廃止用二代︶を諦じて開組としたのである o 血 中 如 律 師 ﹁ 有 部 作 行 問 答 ﹂ 中 ﹁ 律 差 別 之 事 ﹂ 参 照 υ 慈雲大和的問停戒記︵得者作、全集 U ︶によれば命者の減作相承を次の如く記す。 ① ①

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春日明納 l 明 広

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良治問公 l 慈 忍 へ 野 巾 寺 ︶

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洪草川 l d 山 綱 ︵ 貞 粗 利 付 ︶

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慈 雲 。 ⑦ 作 苑 行 事 問 鉢 の 序 に 日 く ﹁ 予 雄 一 一 得 昧 一 町 受 具 以 来 医 二 同 作 策 之 間 二 二 一 一 十 年 、 於 枠 制 ア 寄 付 、 同 局 日 漸 阿 賀 レ 有 レ 附 \ 巡 時 町 一 仰 諜 ご 毛 穎 子主川流爾録レ之耳﹂と o 二、有部の三僧坊 上 に 蓮 ベ ー に 諸 律 匠 は 何 れ も 民 ・ 一 二 同 の 宣 慌 で あ っ て 作 ケ 復 興 し に 人 で あ る 、 而して其の律のケ一而に於いては艮言猫 特の律にる一一味一耶戒は勿論これぞ前一ん歩るが律復興の主眼とする小一楽作じ於いては問分伴を川ゐたのである︵諦 忍 律 師 は 多 少 県 内 な る が ︶ 。 然 る に 慈 雲 傘 持 、 一 誠 忍 律

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殆 ん h p ︸同時代山首暦年閉じ至って高野山昌別慮に妙瑞和尚 ︵ 品 別 慮 第 八 代 ︶ が あ り 、 丘 、 の 門 下 に 密 門 ︵ , 昆 別 一 瞬 ︶ 、 安 謹 一 拍 王 寺 の 皐 如 、 密 門 の 資 丹 後 松 尾 寺 山 寺 本 一 の 三 大 律 師 が 出 T' 弘法大師の二一皐録には真一吉宗所撃の小山市律としてあぐるものは説一切有部毘奈耶五十器等の有部律一百六 十八発なるが故に民一言の徒は四分に依ら令して有部に依るべしと主張し、所刑制有部律一復興の蜂火をあけるに至つ に。この後再三律として有部伴が各地に唱道せられるに至り四分律ゆ伝説く律の三惟坊汲殊に霊雲寺汲との聞に四 分律か有部作かについて大いに論詩せられる様になっに。民別慮、一騎王寺、松尼寺を前の棋尾山等の枠の二一倍坊 に封して批に有部の三僧坊と言ふのである。 密門等の三大律師が有部律復興ぞ主張しにのは其の師大る妙瑞和尚の款によるものであるが妙瑞和尚は更に高 野山成蓮院の民源阿閤梨の懲憩によって密徒は有部伴に依るべきこと伝説くに至ったゃうである。長源阿閤梨

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︶は野山聾明皐に於ける功持者で密室野明系説明匹、の他数一棋の著作あり、叉種々の啓明本そ刊行した入で 8 民言律と北︵の系統 五

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日 本 偽 数 拳 協 ム 町 田 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 一 一 六 9 ① あるが有部律の研究についても重要な入である。阿閤梨は慈雲象者と曾して一見意気投合し、 賓暦八年春には慈 雲象者に書冶寄せて南海寄断俸の校訂をすすめた、章者が南海寄蹄俸解崎紗七径の撰蓮に若手したのは全く阿閤 梨の懲憩によるものである。然るに章者が同年七月廿七日額田不動寺に於いて解縄鍛冶摘筆する前六月十九日に 阿 闇 梨 は 高 野 山 で 入 滅 し に 、 章 者 は こ の 事 を 蓮 べ て 後 其 レ 誰 ト 輿 ニ カ 語 ラ ン ﹂ と 記 し て そ る ︵ 耕 輔 剛 山 木 一 計 一 一 時 金 ︶ 。 異 源 阿 閤 梨 は 叉 慈 雲 象 者 の 有 部 衣 相 略 要 に 践 文 そ よ せ て ︵ 草 瓜 ︶ 莫 言 の 八 組 は 有 部 に よ る も のにして大師が三事録に有部律を載せられたのはこの故であり、有部伴は諸体中設も翻諜整備せるものである、 ﹁ 臆 哲 人 既 ニ 逝 ク 、 国具言の徒は有部律ぞ皐・ばぎるべから十と説示、この書の成ったこと堂前組の冥顧によるものとして随喜し、妙瑞 和尚に請フて序を寄せしめてをる︵諮育論議∼︶ o 同書の妙瑞師の序にもこの亨伊︸委はしく述べてをる︵周 一 前 ︶ o 置 に 且 源 阿 閣 梨 は 賓 岡 田 有 部 再 興 の 創 唱 者 と J 一 月 ふ ベ く 、 附 の 懲 認 に よ り て 妙 瑞 、 慈 雲 の 有 部 律 研 究 が あ り 、 こ れより密門、撃如、等空の三大律師出でて蘭菊其の美や競ふに至ったと A 百 ふ べ き で あ る 。 妙瑞和向︵ニ雪駄 1 i ︶ は 填 別 慮 国 型 寸 の 第 八 代 で 顕 密 の 皐 に 精 通 し 事 教 の 艦 − 奥

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⋮ 側 め し 大 接 匠 で 開 講 繍 化 の 事 蹟は近畿四回関東等枚象に暇ない担刊である、著作も法性大日義、大日経本地恒設義等教十容に及んで h q る。妙瑞 和尚は前述の如く民源阿閤梨の懲憩によ h v 有部作の研究に士山し大ものの如く慈雲章者の衣相略主に奨源阿閤梨の テ ノ ニ パ ア ハ シ ア ユ じ ノ デ す す め に よ り 序 そ よ せ て 異 言 皐 徒 の 有 部 ぞ 壊 ぶ べ き こ と そ 読 ま ﹁ 入 = 豆 一 一 一 日 門 一 不 v ニ 有 部 − 者 如 F v家不 v ニ 尖 布 引 札 v 風為 v F 王 小 山 王 子 兆 民 主 が 乎 花 落 退 場 税 同 県 一 一 一 昼 徒 一 チ か ニ 踊 ⋮ 勝 一 風 v 一 有 部 仲 町 日 比 古 川 一 組 本 来 品 開 訓 − 也 ﹂ ︵ 吋 F F t 伝子︶と蓮べてをる。かくて和向の著作中にも有部一体に闘するものとしてこの衣相略要の序の外に有部標目︵本匂 戸 時 制 ︶ な る も の が あ る 、 こ れ は 延 一 ? 同 年 ︵ 詳 ︶ か ら 同 五 年 の 間 に 撰 し た も の で 有 部 一 作 中 、 有 部 見 方 小 耶 五 十 在 、 有 部

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律掻十四巻、破俗事二十巻、芯務尼昆奈耶二十巻、百一掲磨十巻.有部尼陀耶五巻等そ讃んで其の内容目録を作 ったもので和尚が各地に講演巡行せる傍暇に撰したものである、和尚の講演巡行の口記中にもこの事冶誌してそ る の ぞ 見 る 。 国 呉 別 慮 は 従 来 は 作 の 二 一 伶 坊 と 同 じ く 四 分 律 や 用 ゐ ー に の で あ る が 妙 瑞 和 尚 か ら 是 の 如 く 有 部 を 研 究 し 特 に 密 門 和 向 以 後 は 全 く 有 部 そ 依 用 し 有 部 一 律 の 道 場 と な っ た 川 町 で あ る ︵ 綜 ⋮ 閉 山 内 ︶ 0 向前に記した様に正法律の開組燕雲象者も有部の研究に志し・南海寄蹄俸の註騨解撹紗七巻を作 h り 、 叉 根 本 説 一 切有部衣相略要一挙管撰して有部によって正しき法衣を定めんとして在る。叉同書には有部生械に﹁踏むとし て有部律の除律に勝れたることを述べてぞる、然し慈雲命者は有部の研究をなしたが有部の三倍坊の如く専ら有 部に依るべしとされたのではなく随行に於いては寧ろ問分に依る所多かっ大様である。 密 門 ︵ 二 四 四 八

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︶は阿波の人で二十二歳にして高野山に登り一一十七歳の時国遁寺妙瑞より求寂戒冶受け票日六 年 固 遁 寺 の 席 巻 構 い で 其 の 第 九 世 と な っ 大 。 和 尚 は 師 妙 瑞 の 士 山 や 拙 憎 い ぎ 同 志 準 加 と 共 に 有 部 律 の 官 一 暢 に 心 力 や 査 し 、 基別慮の戒道場をもって鼻言宗所皐有部一律の根本遁場と定めた o 其 の 著 作 に 鼻 言 宗 持 物 園 稗 一 巻 ︵ 附 設 輩 出 一 ︶ の 外 に 通 受 益 義 憤 法 不 同 記 黒 白 紗 一 巻 、 店 長 時 八 年 ︵ 謹 一 千 嗣 ︶ 、 有 部 律 異 形 問 答 一 巻 、 明 和 七 年 ︵ 綿 一 僻

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時 開 設 、 ︶ が あ り、賓暦十三年二一月には一拍王寺の事如律師が有部律撞ぞ刊行するに序をよせて、密宗の八組は有部ぞ受戒し、大 師は三撃錯そ奏して宗徒の有部や壊ぶべきゅ管制したまひしに中世戒律復興以後四分に依って有部沿行ぜ令、これ 高組の教に蓮するものなり、人 1 有部在再興しこの書の刊行されること随喜に唱へ歩と述べてそる。 早 如 ︵ ニ

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一 一

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︶は安事の入、高野山に登って妙瑞に師事し密門と共に律儀の復興室百ひ、本困一踊王寺に眠り苦 修練行し、有部律。守備典し密款を弘めんとして賓暦九年仁和寺山討の許命を得て金亀山幅王寺を有部伴の道場とな 10 員言律と其の系統 七

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日 本 偽 数 且 宇 協 ム 百 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 二 八 11

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、 専 一 一 一 日 体 行 問 答 そ 撰 し て 有 部 件 道 場 そ 興 す 所 は そ 示 し 、 昆 一 日 目 の 皐 徒 は 有 部 を 謬 行 す べ き ぞ 読 ま 、 叉 真 一 一 員 の 持 戒 は作京の持戒と其の精抑に於いて異なる所あるべきを論じて有部律汲の錦に高丈の気焔ふぜあけてをるつ有部律復 興についてその歴史的救義的論操在論断する闘将として感知律師は古代第一人者であつに。後に述べる様に呉言 体行問答には四分汲より痛梨なる反駁論が起き事如律師叉これに封して盛んに鼎難往復し一歩も梢かゴるの慨を 示してをる o 著 作 と し て こ の 律 行 問 答 ︵ 謹 ⋮ ︶ の 外 に 異 言 八 組 有 部 受 戒 問 答 一 審 ︵ 諸 一 ︶ 、 排 旭 照 霜 露 編 一 巻 ︵ 楠 吠 刊 ︶ あ り 、 羽 人 前 記 の 如 く 明 和 一 克 年 じ は 布 部 律 踊 十 四 谷 ぞ 刊 行 し て を る 。 ① 等 − 本 一 ︵ 二 一 一 一 廷 l l ︶は丹後の人、十七歳にして高野山に登り功徳院南瑞及び園通寺の密門等について宗一来像霊誌 ⑦ 沿研鑓し同県別虚に於いて具足戒を受け密門感知等と共に有部律の復興そ志した。間糊密事故に通達し満山の事侶の ① 能化となったが後思ふ所ありて山を下って丹後松尾山に蹄り観法修蹄怠らす講経につとめ有部伴の復興につくし し に 。 後 松 尾 寺 を 弟 子 龍 海 に 譲 り 諸 方 に 法 輪 そ 碑 じ に が 松 尼 寺 は 龍 掘 の 時 二 一 賓 院 宮 の 令 行 ぞ 蒙 っ て 寛 政 一 一 一 年 十 一 一 月 有部律専行の道場とせられに。ここじ於いて民別慮、一踊王寺、松尼寺な有部の三戒壇となすの京願そ満にし等準大 徳は密門、皐如雨律師の貴唱にこたへ得にりと一随喜しに。大徳は皐匠として稀に見る才幹や有し多くの著作を残し にが律関係のものとして有名なものは作持門詞何要集一山俗である、この書は有部律による伴行儀式の戎第詞勾を 集録したものである︵一読む、文化十二年寂、書八十二である o 等宅は蓄章者との交友あり、害往来し、音信 絶 え す 、 時 の 壊 徒 評 し て 仰 天 の 日 月 と 言 つ に と 一 マ 一 日 ふ 。 龍海︵ニ阻伝

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︶、寝門の資であり叉等本一の弟子でもある、天明八年に等本の喝によって松尼寺を管しにが密門 の寂するや其の泣命によって同通寺の第十世となつに。師には嬬痛感慮日月孝二容及び陀羅尼宗所感有部作儀一

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て精致である。 山僚があり、中にも後者は準如師の説ぞ受けっき議徒が有部体を皐行すべきことを論断せんとするもので議満州内め 其の他有部作系の律師としては民別慮に龍悔の弟子限錦、降一鎮の孫弟子祭殿等あり、更に明治の雲間律師は高 延一万年二一十四歳の時高覚寺で四分伴によって具足戒を受け行事紗等ぞ皐ん立が警交久元年にはいけ川野山民別掲で楽 般和向に従って有部によって重ねて受戒し、女久三年より一一一ク年間莫別慮に於いて有部作在研究し、後東京に戒 律皐校︵目白俗閥︶ぞ興し大のである、有部と正法律の雨系冶継ぐ入と一式ひ得る。 12 詰i ① ① 大 山 会 淳 氏 著 ﹁ 藤 明 の 歴 史 及 品 目 日 律 = 六 八 | 九 頁 参 照 。 妙 瑞 師 の 俸 記 研 究 の 好 資 料 と し て 民 別 庭 に は 和 命 白 筆 の 日 記 六 品 川 が 蔵 さ れ て を る 、 こ れ は 延 享 一 一 一 年 ︵ 五 十 一 歳 ︶ 上 り 策 廃 八 年 ︵ 六 十 一 一 一 歳 ︶ に 至 る ま で 各 地 に 出 張 せ る 講 演 日 記 で あ る 。 衣 相 略 要 序 に 妙 瑞 師 一 言 は く ﹁ 越 河 陽 慈 雲 律 匠 木 叉 洞 蓬 特 精 一 一 有 部 − 掌 信 荷 負 会 ﹂ と ︵ 全 集 第 一 一 一 、 一 ニ O 九 頁 ︶ O 有 部 の 十 勝 と は ︵ 一 ︶ 禦 数 殿 官 、 ︵ ニ ︶ 符 本 詳 悉 、 九 一 ニ ︶ 翻 俸 精 備 、 ︵ 凶 ︶ 回 天 所 崇 、 ヘ 五 ︶ 依 論 適 従 、 ︵ 六 ︶ 古 徳 所 依 、 ︵ 七 ︶ 部 分 無 濫 、 ︵ 八 ︶ 血 中 業 易 成 、 ︵ 九 ︶ 品 開 業 可 修 、 ︵ 十 ︶ 法 式 一 定 で あ る ︵ 全 集 第 三 、 Z 二 一 | 一 ニ 一 一 一 頁 ︶ 0 ク ν 一 ア ノ ヲ コ 等空の作持門詞勾要集序には﹁佐賀幌市十二歳合壬牛十一月十日固泡寺密門律的金翁山拳如芯匁深慨;此下墜−途閏衆和 J Y ク グ ヲ 敬 遠 紹 エ 有 部 之 絡 緒 − 爾 衆 運 行 之 徒 綿 聯 ﹂ と 言 ふ 。 等空の俸に篤本等空大徳略俸︵高大圏書館、光墓院寄托︶あり o 撰者及び年代を記せぎるも等空の俸として筆者の見た 唯 一 の も の で あ る 。 等容一大徳俸に日はく﹁:::忽チ蹄丹ノ念ヲ生セリ、大徳時二年四十五歳安永八年丁酉二月ナ布、方サニ蹄 h w ユ 臨 ン デ 良 別 慮 ユ 詩 リ 門 和 尚 二 一 一 別 7 述プ、遥々準如和上ノ来 u w ニ遇フ、雨公態態ニ之ニ座ヲ議メ相倶ニ慨歎ジ旦 y 委嘱ジテ 白グ、品開輩夙ニ有部律輿復ノ意願ヲ起 V 諮エ初メテ戎壇ヲ関グヤ子 ρ 其入壇ノ最初 MFV パ帰米倫本旨ヲ紹ギ之ヲ述べ 之ヲ大ニセシ宅ノハ唯リ子ノ頼ムアルノミ、噴余輩銃二番セ守、願グハ他日勝妙ノ楼幅削ヲ樹シヨトヲト、大徳郎チ謹 @ ① ① ① ⑦ 長言律と其の系統 一 二 九

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日本悌数準協合年報へ第十一年︶ 一 三 O 13 諾ス﹂とo ①大徳俸に日はく﹁常ユ門弟子ヲ策関ジテ日グ、一一区学ノ中惟 ν 戎ヲ地ト矯ス、悲ジ精ジグ持セメンパ萱エ成品開ノ儀範ナ ランャ、今其 ν 大丈夫見何ノ幸ゾ出世ノ大道ニ入リ中ユ就テ此密教ユ遇 7 、各宜グ身ニ戎法ヲ持ジ心蹄定ニ住 V テ 盆 々貨智ヲ生ズベ引 γ 、砦ジ徒グ口頭ヲ拳パパ飢テ喬餅ヲ喰ブ炉如キノミ、庶幾伊丹由党王ノ数迩ヲ践ミ本初ノ心殿日一還シ ヨ ト ヲ ト 、 柏 崎 テ 座 下 ニ 集 h w 号ノニハ先 4 ノ求寂戎ヲ授ケ自撰ノ作持門詞匂要集ヲ皐パジメ頻リニ有部律揺及ピ発籾経ヲ 講述ス、夜ハ必ラメ時間ヲ刻 V 阿字叡又ハ求開持ヲ修セ V ム ﹂ と 。 回 、 真 一 一 一 一 口 律 の 系 統 上に述べ大所によって明な如く康い意味での異言律宗はこれぞ種々の系統に分つことが出− M h る、先づ四分律祇 として棋尾、大鳥、野中の所謂律の二一僧坊があり、大鳥汲の系統そ引く霊雲寺汲もこれであり、有部律汲として は莫別慮、幅王寺、松尾寺の所謂有部のコ一借坊がある。この他正法律と八事山は共に批判汲とも言ふべきもので ある、これを圃示すれば共の如くなる。 律 借 坊 一 ? 庭 窓 l I 慈 忍 ︵ 野 中 寺 汲 ﹂

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洪 昔 Z E − − 忍 制

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慈 雲 ︵ 正 法 律 ︶ : : : 鑑 虞 : : : 叡 稼 ︵ 西 大 寺 ︶ : : : 一 明 忍 ︵ 模 尾 ︶ | 一 員 一 1 一 一 夏 依 止 五 夏 割 一 i 友 傘 ︵ 西 大 寺 ︶ 寸 良 永 ︵ 岡 県 別 鹿 ︶ | 快 闘 ︵ 大 鳥 扱 ︶ 1 l 浮 殿 ︵ 蜜 雲 寺 ︶ : ・ i 汲 一 1 雲 ︵ 中 山 寺 ︶ ! 一 五 夏 依 止 有 部 二 一 一 信 坊 ︵ 員 別 蕗 汲 ︶ 0 1 2 3 司4 0 ρ q o o o n u 胃 よ T A 良 永 | 闘 忍 快 闘 ; : ・ 妙 瑞 | 斗 | 符 門 ︵ 民 別 虚 ︶

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龍海 1 降 一 鎚 ド i 間 沼 祭 殿 l 智 等 険 路 : : : 一 l 如 ︵ 繭 王 寺 ︶ ﹁ 等 定 ︵ 松 尾 寺 ︶

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異 一 一 品 作 諸 波 0 匹l 分 i民

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返 野 大 根 雲 中 島 吊 寺 寺 a J反 汲 汲 汲 手~i 準妙 m; 慈議 j事良明叡鑑 門 如 瑞 源 雲 忍 躍 永 忍 主 主 長 14 法 ① 等 ()

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部 汲

「一寸

松 品 局 長 国 主 別 寺 寺 庭 汲 汲 汲 張 要 事 項 年 去 一 一 二 円 一 一 . ︵ 持 続 天 皇 一 冗 Y 一 凹 一 一 一 二 ︵ 天 千 賓 字 七 ︶ 一八六一︵建仁一元﹀ f 一 九 五 O ︵ 正 悠 一 一 一 ︶ 一一二三六へ天正四︶ i 一 一 一 一 七 O ︵慶長十五︶ 二二四五れ天正十三︶!こ三 O 七 ︵ 正 保 四 ︶ 二 二 九 九 ︵ 明 正 十 六 ︶ 一 一 一 一 一 六 二 ︵ 元 禄 十 五 ︶ 二三六五︵賓永一一︶二四四六︵天明六︶ 二 三 七 八 ︵ 享 保 三 ︶ 二 四 六 回 ︵ 文 化 元 ︶ 二三間九︵一万称二︶二四一入︵賓暦八︶ 二三五六︵元旅九︶二同二四︵明和一冗︶ 一 一 三 七 六 ︵ 享 保 一 冗 ﹀ ! 三 四 一 一 一 一 一 一 ︵ 安 永 二 ︶ 二四四入︵天明八︶ Eさ 二 四 O 五 ︵ 延

) 二四七六︵文化十三︶ 享 明 二 一 一 一 六 六 ︵ 賓 永 ︶ 二 円 二 一 一 一 ︵ 賓 暦 十 一 ニ し 民言律と其の系統

批 判 ① 派 I I }¥ i巳 法 伴 ︿ 慈 雲 ︶ ヰ千 山 ︵ 諦 日 戸 川 ︶ 体 戒 一 回 一 四 ︵ 天 卒 勝 賓 六 ︶ 什 誓 受 戒 一 八 九 六 ︵ 嘉 禎 二 ﹀ 白 昔 日 受 戒 二 二 六 二 ︿ 慶 長 七 ︶ 国民別慮開創二三七九︵一万和五︶ 出現雲寺閉創二三五一︵元総四︶ 伴苑行事問解二円一一二︵賓暦一一一︶ E 法 律 創 唱 二 回 O 九 へ 寛 延 二 ︶ 腕部衣相略雄一一四一八︵賓暦八︶ 有 部 標 日 一 一 回

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七 ︿ 延 享 四 ︶ 賢 一 百 律 行

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: 、 幅 王 者 弘 司 一 四 一 九 ︵ 賓 暦 九 ︶ 有 部 律 嬬 序 二 四 二 四 ︵ 明 利 一 冗 ︶ 有部単一形問答二四三

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︵ 明 和 七 ﹂ 松 尾 寺 蹄 位 二 四 一 二 九 ︵ 安 永 八 ︶ 密 宗 風 中 銭 童 問 一 一 四 二 O 頃 F ︵ 賓 廃 十 ︶

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日本偽敬挙協曾年報︵第十一年︶

15 註 賞 智 龍 ① 海 有 部 律 儀 二 四 五 一 ︵ 寛 政 三 ︶ 明 程 静 岡 銭 二 四 五 九 ︵ 寛 政 十 一 ︶ 相 旭 照 霜 露 編 二 四 二 八 ﹁ 明 和 五 ︶ 慈雲隼者の正法律汲及び八事山諦忍の律については其の系統、内容分類につき品川少しく研究の要あり、今概略につき 俄習に批列沃とす o 息 一 e如律師の良一吉律行問答には惑雲象者を許して﹁頃日夕 γ 有部律 7 鏡仰ジ衣ノ沙汰ドモス断人ア ν ドモ受毛随行モ四分ユジテ有部ヲ行 ρ メ 高 組 ノ 三 第 一 一 一 於 テ ρ 儀所々々 V グ 蹄 ト 律 ト ヲ 事 ニ ジ 口 県 言 7 ハ 傍 灘 セ h N 勢 ニ 見へ待断、是亦我黛ニ非ズ﹂と云ふ 0 ︵ 長 谷 本 九 頁 右 ︶ 。 法明、智明、貧相については次項参照。 二 四 一 六 ︵ 賓 二 三 九 六 ︵ 元 丈 暦 六 ︶ 一 一 四 八 O ︵ 文 一 万 γ 一 一 四 七 一 二 ︵ 文 化 政 十 三 '-._/ '---" ①

四 分 汲 と 有 部 汲 と の 論 語 有部律再興の諸師の中最も早く且つ熱心仁これや主張しその賓行に若手しにものは踊王寺の皐如律師である、 律師は資暦九年に有部律再興の趣意書として且言律行問答一容を撰し呉言の皐徒は大師一一車 a録の雅訓により有部 律 そ 依 用 す べ く 、 羽 入 国 笠 一 日 の 宗 徒 は 鼻 ﹂ 一 同 一 一 一 昧 耶 戒 の 見 識 に 住 し て 有 部 伴 や 持 す べ く 四 分 伴 家 の 徒 の 如 く 作 在 最 上 と し偏執するの態度はとらざる所なりと主張しにのである。これに封して四分律汲なる律の二一僧坊殊に霊雲寺汲よ り痛斜なる反針論そ生じこミに有部汲と四分汲との聞に激烈な論詩が展開されるに至つに。

皐如の体行問答仁針して霧雲寺第四代の法明は病宗阜銑童間在者はし大師二一皐録の趣意は有部沿皐ぶべきこと 冶 一 不 さ れ し の み に し て 受 戒 随 行 は 大 師 自 ら 東 大 寺 の 戒 壇 に て 問 分 に よ り 受 具 し 給 ひ 、 ぷ 人 承 和 の 御 蓮 誠 じ ・ 未 定 は 東 大寺にて受具すべしと示される所よ h りして四分によるべきこと明了なりと反駁し、大鳥汲を墜んがい筑前千如寺の 賢相は旭照霜露編や撰して壊如師の設を破しに、これに封して皐如師は更に鼎旭凶器相露編ぞ作って反駁し、寝門

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の費龍海師は法明の説ぞ破し関学如の説を支持して陀羅尼宗所事有部作儀在替はしに、反にこれに封して霊雲寺第 八代の智明は糟帰同録一巻冶撰して龍悔の説冶破してをる。これぞ闘治すれば突の如くである。 一l 法 明 ・ 符 宗 悶 申 鈍 章 問 1 1 1 1 龍 海 ・ 陀 羅 尼 市 部 所 問 中 有 部 伴 依 | | 智 別 ・ 理 韓 同 銭 感 如 ・ 国 辰 吉 伴 行 問 答 1 一 ﹁貴相・旭照霜露編

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阜 如 ・ 時 旭 間 話 露 編 異一言伴行問答はその奥書に﹁資暦九年己卯十二月四日書於京都僑合芯徳島市 L とある如く資暦九年和尚四十 四歳の冬京都で撰しにもので有部律再興の趣意及び異言宗徒の戒杭賀行に叫刻する態度を述べたものであり、この 常一臼が有部律専行の遁場ぞ奥さんとせる最初の宣言ーにることは書中に﹁莫吉有部伴ハ今瞥暦九年マデハ皐行ノ人見 待 − プ ズ ﹂ と a 一員へるによって知り得る。この書は明治十六年高野山大壊林より刊行されてをり、父長谷資秀師は昭 和九年十一月幅王寺所蔵の寝本により謄寓して同士山に頒にれに、長谷師本には有部作随行に針する難問に答へに 追加問答、和備が同じく資暦九年十二月御室真光院借正に奉呈して一拍王寺冶有部律道場とせんことや請ひし願書、 異言諸組が有部律によりしと一五ふことに封して亀龍院常塔上人の来問に舎へに異言八組有部受戒問答の三をも併 せ 牧 め で あ る 。 員 a 一 一 日 伴 行 問 答 に よ る 壊 如 師 の 主 張 は 要 す る に 究 の 諸 貼 に 蹄 す る 。 川弘法大師はコ一壊録ゆ管制して異言宗所墜の経律論を定められに.が其の中伴は蘇悉地、蘇婆呼、三昧耶崩御戒儀の 三部の密教律ぞ除き小乗律では根本設一切有部昆奈耶五十巻等の有部律一百六十八容をあけてゆぞられる、故 に 晶 一 斉 曲 学 徒 は 受 戒 随 行 は 四 分 律 に よ ら 示 し て 有 部 律 に よ ら ざ る 、 べ か ら 歩 。 16 同弘法大師は自ら有部在受け、叉これぞ行じにまひ、大師の直後にも諸弟子は有部在受戒せしことは小野六帖 虞言律と其の系統

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日本偽教準協舎年報︵第十一年︶ 四 17 教日の記に大師の弟子園行有部によると記するによりても知り得る、これが後断絶しにのである。 同龍猛以下の晶圭一円の八組は同じく有部によって受戒しにまへり、この故に大師も呉言宗所壊を有部とせられに のである。︵この事については別に真一万八組有部受戒問答冷作って詳説してをる︶ 川間二一撃は鼎足の如く其の一をも快くべからざるものなり、而も律は最も絶え易き故にこれが専門遁場ぞおきて 復興維持ぞ固らざるべから示。然れども宗々によりて其の主とし表とする所に別あ旬、国換言は律宗の如く小 乗律そ専要とし遁宣鑑,誌を組とするものに非令して経によりて宗沿江てるものなり、放に小乗有部律。信行? と 雛 も 秘 密 二 一 昧 耶 戒 そ 根 本 と し 密 款 の 立 趣 に よ っ て 、 ︸ れ を 持 つ ベ く 仲 宗 の 偏 局 に 倣 ふ べ か ら す 。 同 従 っ て 且 言 の 徒 は 官 位 に も 日 升 h り絹衣や着することも雷然にして決して働組の立に反せ示、これを一概に不如 法として排するが如きは伴宗偏局の脅気によるものじしてこれ粗削身誹諒するの生体併なり。 凶 川 西 大 寺 の ・ 米 流 な る 律 二 一 俗 坊 は 姐 附 興 一 止 の 立 ぞ 忘 れ て 唯 体 の み 冶 岳 民 ん じ 呉 言 と 離 れ し に る も の で あ り 、 南 山 沿 粗 と し 興 正 冶 中 興 と し 大 州 在 ば 他 宗 と す る も の に し て こ れ 律 宗 に し て 同 県 立 律 宗 に 非 歩 。 震 雲 寺 の 加 き は 民 一 寸 一 H を 重んホるも伴に於いて高組の撃則に反して十岡山家治受け行事紗によって体行をなす故に莫の異言に非守して 乗組午なわ。呉言の見識を本として有部作に依るもののみ呉の英吉作宗と言ふベし、律宗と昆言宗とは根本よ り相違ある沿知るべきなり。 以 上 の 如 き 有 部 汲 の 主 張 は 大 鯉 に 二 か 一 向 じ 分 ち 得 る 、 一 は 有 部 作 や も っ て 長 − 一 二 リ 事 徒 の 律 と す べ き こ と ぞ 組 師 の 行蹟上より誼明せんとする歴史上の問題であわ、一一は民 A プ 一 円 単 徒 は 伴 行 の 態 度 に 於 い て 小 乗 の 偏 執 冷 離 れ て 昆 吉 三 昧 耶 戒 の 見 解 じ 杭 せ よ と す る 伴 行 ト 一 の 問 題 で あ る 、 国 民 一 万 件 行 問 答 は 寧 ろ 第 二 の 問 題 に 主 力 沿 注 い ザ い も の で あ わ 、

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結 海 の 有 部 律 儀 は 専 ら 第 一 の 問 題 冶 謹 明 せ ん と し し に も の で あ る 。 父 事 知 一 附 の 追 加 問 答 、 同 県 言 八 粗 受 戒 問 答 は 第 一 の問題を取扱ったものであり.同県源阿閥梨、妙瑞和向、指門和向等も串・如師と同一論操より有部体の皐行ぞ設い て を る こ と は 前 に 述 べ に 所 で あ る 。 この有部波の主張に封して四分波は全面的にこれを否定してをる、その中宮相の旭照霜露編は何れかと言へば 第 二 の 問 題 に 主 力 を 控 い 、 に も の で あ り 、 知 日 明 師 の 糟 賭 間 録 は 何 れ か と 云 へ ば 第 一 の 歴 史 上 の 問 題 や 取 扱 っ て そ る 。 追加問答と有部律儀の難問及び樺瞬間関録等によって第一の歴史上の問題についての四分汲の読を見るに共の諸 貼 に ま と め ら れ る 。 別手日本に於いては遠く鑑詰備の昔より諸言語遣にて四分により受戒す、これ延暦のやに命

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所にして古来の定則なり、日本に古来有部受戒のことなく、父有部の戒壇なし。 ︹ 有 部 汲 H く、両部戒壇は四分に局ら今、他部もこの戒壇に登ることを得、其の宗に随ひて戒睦沿受得す。︺ 向従って弘法大師も求和二年の遺止口諸弟子等によれば二十二歳にて東大寺戒壇にて四分により受具し給へり ︵ 池 唯 一

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︶ o 支那に於いて更に有部や受戒せられしと一三明誼なし、前に四分主人け後随行冷有部によると言 ふ受随各別論は不可なり。ば人大師は求和二年の御遺誠に末徒は東大寺戒壇にて受具すべしと命じ給ふ、若し 末徒有部に依るべきならば大師別に有部そ受戒し有部の戒壇や築かるべまなり。 ︹ 有 部 汲 H く、大師二十二歳四分受具は入密以前なる故蛍然なり。入唐中有部受戒なしと断すべから歩、に とへ受戒なくとも随行を有部によること差支なし。御這誠の東大寺戒壇受戒は異部同壇業支なき故に有部 を 受 く る な り 。 ︺ 18 虞言律と其の系統 一 一 一 一 五

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19 日本偽教準協曾年報︵第十一年︶ ③ 何回呉言八組有部律によること何等文献の徴すべきものなし、八組中有部によること明らかなるは唯り不空三競 のみ、而も高組と恵果の隔組は四分律に依り給ひしこと明らかなり。 ︹ 有 部 汲 日 く 、 八 組 中 龍 猛 龍 智 金 剛 智 不 空 は 有 部 な る こ と 明 ら か な り 、 恵 岡 市 は 始 め 四 分 後 有 部 な り 。 ︺ 同大師の末資にも亦有部や受くるものなし、有部の戒壇なさ故に、有部の借なき故に。大師の弟子園行有部に よ り 受 具 す と 記 す る も 十 七 歳 受 具 一 生 育 ふ 故 律 の 詐 さ ぎ る 所 に し て 疑 は し 。 ︹ 有 部 汲 H く、二十未満受具和漢其の例甚に多し、園行有部受具なるが故に其の他の末資有部受戒多し、三 一 耐 七 謹 ゆ 必 要 す る が 故 に 、 こ れ 等 は 東 大 寺 戒 壇 じ て 受 具 せ し な り 。 ︺ 向高組三皐録に有部律をあけにまひしは受戒随行の震に非令して事ばしむる震なり、これ金剛智不空雨組の遺 風 ぞ 阜 、 ぷ 震 な り ︵ 鴨 脚 ︶ o 叉これにつき二意あり、一は高組自ら請来されしものについて部沿菜、め類守分ちて コ一事録とし他を雑えぎるなり。二は四分は本より依皐し言ふまでもなき故にあけざるなり、粂壊に備ふる錦 一 一 二 六 に有部のみやあぐ、有部は本所感に非示。 ︹有部汲日く、この説最も邪曲背理なり、有部体は御請来録にのら?、川人正壊の問分冷のせがして傍壌の有 部 ぞ の す る の 理 な し 。 ︺ 同四分や排して一向に有部によると云ふは一部に執するものにしてこれ且言問責禁第一不麿拾正法戒に達する ものにして却って昆誌の義に反するものなりじ ︹ 有 部 汲 日 く 、 国 民 一 一 z H の見に部執はなし、何れも内家内の通具なり、然れども歴代組附、一 H M 組の推訓によりて 有部在用ふるにで執具無き J が 中 の 有 部 依 用 な れ ノ O 高 組 の 奏 定 に 遣 し 問 分 。 ぜ 偏 執 し 有 部 沿 用 ひ 占 ず ん ば 大 師 の

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正宗に非示、英 J古 川 の 準 則 d q 蹴 る 大 罪 人 な り 。 ︺ 以 上 に 遁 べ に 如 く 有 部 と 問 分 何 れ か − 用 ふ べ き や に つ い て は い 品 組 白 身 の 事 岡 山 教 諭 の 中 ・ に 矛 盾 や 含 ん で そ っ て 何 れ と も 決 定 し 難 い 如 く で あ る 、 大 師 が 有 部 作 か 二 一 一 皐 録 に の せ ら れ た 且 立 が 民 J 一 一 け の 徒 は 四 分 に 依 ら 守 し て 有 部 沿 受 戒 すべしと云ふ意味であつにか或は四分による受戒冶事賢上は許されながら一方有部の研究冷す?められにのであ る か 濯 か に 確 定 し 難 い 拘 が あ る 様 に 思 は れ る 。 , ︸ の 貼 が い づ れ に し て も 大 師 が 二 一 皐 録 に 秒 間 時 一 般 に 用 ひ ら れ た 四 分律をあけやして有部体冶あけられにのは有部汲の人が説く八組が有部によられにと一五ふことぞしばらく別とし て考へると共の諸貼がその理由の如く考へられる。第一は指数と有部律が其の成立の年代流行の地域や同じくし に こ と 、 従 っ て 第 一 一 に 有 部 作 の 内 容 が 密 教 的 色 彩 に 富 め る こ と 、 第 一 主 い 謀 者 義 伊 二 一 戒 が 病 救 的 の 人 で あ り 、 そ の 語大る有部律。か官時に於いて最も新しい倖であつにと云ふことである。備妙瑞和尚は前に述、べに有部衣相略要の 序 に 於 い て 密 家 に 有 部 律 身 障 ナ ぱ し め る 樋 要 に つ い て 一 の 相 偉 あ り と し て 、 ︷ 会 有 一 府 系 思 想 よ h り す れ ば 成 費 四 分 は 空 宗であり、無性ぞ寧んで有冷破するものである、この故に秘密宗に好まざる所である、有部は其の名の示すが如く 有宗であって有ぞ説く貼密款の本有六大の妙訓に同令るが故に有部主体るのであるとしてぞる︵四宮説明暗鶏︶ 0 共に第二の異言壊徒律行の態度心ついて有部汲の設に封する反駁は賢相の旭照霜露編に最も多く述べて在る。 こ こ で 一 寸 述 、 べ て 置 4 0 度いことはこの旭照霜露編についてである。皐如師の暴言律行問答に針して宜相師がこの 世 官 房 ︸ 撰 し て 反 駁 し に こ と は 稗 踊 闘 録 の 末 尾 に 記 す る 所 で あ る が こ の 全 日 は 未 花 私 に は 見 常 ら な い 、 然 し 高 野 山 大 事 圃書館じこの書に封する皐如律師の反駁書たる簡旭限霜露編︵諒一

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論︶一容がある、この書は旭照霜露編の文 を一一引用して論破しにもので可成。大部なものである、従ってこれによって旭照霜露編の内容ぞ知ることが出 20 由 民 言 律 と 其 の 系 統 一 三 七

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日本偽敬挙協合年報︵第十一年︶ i¥ 21 ・米る。突にこの書の著者貰相とは如何なる人であるか、稗開閉録じは軍に紫陽雷山の賓相律師と云ふのみである が同じく高野山大喜望日開己責相師の作たる秘密戸蓮眼髄︵諒一下論︶ 一容がある、この舎は密款の立場より見 に律を述べたものであるが其の奥書に 維明和四年語飛丁亥九月世一日間筆於筑前川雷山千如寺市楠祇室 誓受一切皐慮芯努印染賓相 と あ る 、 これによって筑前千如寺の律併なることを知り得る。然らぱ宜相師は如何なる系統の人であらうかと云 ふ に つ き 畢 如 師 の 嬬 旭 照 霜 露 編 中 に 弐 の 如 き 批 評 沿 な し て ゆ ぜ る 、 ガ ク 、 ガ ラ 一 ア ク O O ク ア ヨ リ リ ア ニ フ ラ リ キ ラ ク 十 ラ ン l 、 余驚者唯汝不 v v 也 、 曾 間 − 1 八 烏 信 之 説 A汝 少 在 v 息 f v 律、不 v 如 v 是 也 、 事 札 − 乎 。 ︵ 杭 丁 ︶ t u 降 仇 私 一 大 白 一 ゲ 仇 パ 早 川 内 和 日 伊 一 比 一 件 札

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却 加

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0 ︵ 百 計 一 ︶ こ れ に よ っ て 賓 相 は 大 鳥 汲 の 系 統 そ 引 く 人 一 な る こ と を 知 り 得 る 。 叉 こ の 良 い が 明 和 五 年 心 作 ら れ に こ と も 感 知 一 仰 が ﹁ 払 ぬ ニ 受 戒 色 一 昨 和 五 年 目 一 明 暗 舗 払 一 昨 市 町 A数十度云々 L ’r 一 一 五 ふ ヨ リ 乙 ノ ラ ル マ J 一 一 乙 a ア ヲ ズ ノ ラ に よ っ て 知 り 得 る し 、 ﹁ 汝 少 負 ニ 比 丘 名 ヘ 全 ユ 七 八 十 歳 色 十 二 十 間 山 伴 二 小 ・ v知コ此文こと云ふによって官時宜相は既

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七 一 一 T リ ガ ノ ニ シ ャ ア ラ ヤ ノ 既迷ニ晴己家臨デ況於ユ他殺相 八十歳の老比丘であつにことも知り得る。向前中迎の秘密戸濯眼髄は旭照霜露編と異なわ直接に昆言律行問答。ゼ駁 \ い 吋 イ チ 子 L a 二 ト A / したものではないが明和同年︵竹川初制ょ︶の作なる故に事加の詑に反射して宿教律の精神冶明にせんとして撰し たものであることは否定出来ない。 さて本題にかへって壊如師の有部律主張の第二の問題たる且言車徒律行の態度に針する駁論として旭照霜露編

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等 に 漣 ベ る 所 は 、 川 撃 如 一 附 は 小 作 冶 軽 ん じ 、 よ い が 寛 縦 を 推 向 し 謹 艇 の も の v d 段 空 し 小 戒 に 拘 れ ざ る 在 大 采 の 行 と す ら も こ れ ん 十 一 く 椛 軌 に 国 持 す る 設 な り 、 小 乗 そ 守 h り 其 の − − r h に大乗在守ることが大衆の通規

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して持者の心意によの小戒は直に 大戒となるなり。大采は機根勝るるが故に教制盆 t 念な句、倒れの粧軌によ h り て 大 乗 は 戒 の 寛 縦 伝 説 く や 、 ト ヘ 乗 ム 一 稽 し て 小 乗 ル 誹 請 す る は 備 訟 や 破 壊 す る 怒 魔 、 獅 子 身 小 の 虫 な り 。 同 商 学 如 師 は 乗 戒 寛 念 の 説 bぜい吃て戒の寛在勤むるも戒なくして定書はあり得示、放に経論そ遺諦するのみにては 増 来 業 ︵ 経 論 専 門 ︶ も あ り 粍 ざ る な り 。 同官伎に昇り絹衣 α必着することは組一帥の遺風なりとてこれや勧むるもこれ働組の青山にばす、任官は組師の本意 に 非 守 、 止 む そ 符 ざ り し な の 。 絹 衣 の 如 き 品 別 立 よ り ・ 一 一 一 リ へ ば 用 ふ 、 べ か ら 示 、 小 乗 律 の 十 種 衣 中 に 絹 衣 あ る も こ れ 鹿 苑 軍 一 一 一 蔵 の 設 に し て 大 乗 は 許

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少、鹿教となれるものなり。叉紫衣の如きは則天武后の時醇懐義が始めて 用ゐしものじしてこれ泳伽諭の憎慢不受請施戒、嫌恨不受重賞戒冶謬解せしによる、この戒は利他の震に絹 衣章一賓身受くるを得るとするものにして白用の震に受くるそ許すに非令。 川同基言の寺を官寺と言ひ併を官併と云ひ叉錦繍維羅を官衣と帯する等のことは傍組杜多の精神に反し徒らに世 俗 の 高 島 頁 そ 求 む る も の な り 、 主 寸 は 伽 藍 道 場 に る べ く 法 衣 は 皆 袈 裟 な り 、 ︷ 院 の 名 や 存 す る こ と 悌 意 に 不 相 擁 な り 22 これ等の反封論に封して事如律師は更に璃旭照霜露論そ作り賢相師の所論が故意に皐如師の設主曲解し文辞そ 輔君更してこれを次撃するものなることを一一指摘し且つ賢相師の説が小乗の偏執に出で暴言の律に封する態度そ 由 民 言 律 と 其 の 系 統 7L

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日 本 悌 教 且 平 協 合 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 一 四 O 23 解さずるものなることそ名文巧説そ以って論断し一歩も譲らざるの慨 φぜ 示 し て ぞ ろ 。 要するに四分汲が小菜作の∼文字通りなる護持により悌組の精神じ活きんとする形式主義厳格主義なるに封して 有部波は律の復興沿叫びながら徒らなる形式主義一い同れ中印度の悌組の教より寧ろ日本の組輔の行履か曲学ばんと するものであり、従って四分汲に比して寛容的であり貰際的である。四分作と有部律と冶比較する時その聞に寛 厳の相革ある故に賢際的戒律や興さんとする一波が自然寛容なる有部律の依用冷主張し七のであると A 一 一 円 ひ 得 る の で あ る 。 向ここに今一つ述べにいことは同じ有部汲に於いても一踊王寺汲と国同県別慮波じは多少の相違があつにと言ふこと である、それは民別慮所蔵の寓本に有部律異形問答一容なる令官がある、これは問和七年六月に密門の撰したもの で ︵ 同 旧 時 別 慮 本 は 白 筆 の 本 の 加 し ︶ 常 門 が ラ ︶ の 年 の 京 新 壊 の 錦 に 有 部 樟 揖 沿 講 じ た 時 聴 徒 中 に 異 を 好 む 者 が あ っ て 同 じく有部律復興谷岡 h りながら皐如師は専ら有部によって行令るのに密門一附はこれぞ依行せざるは何故かと聞いに のでこの動ぞ明らかにする矯に敢へて異形をなすのが有部体ではないこと冶詑きこれを準録しにものである υ 印 ち 二 一 拝 の 形 式 、 法衣の着万、食時の呪願、 食時作法に唱ふる仰名等につ才師王寺は従来のか式や改め全く市栴寄 蹄俸に記する所によって行ふに員別慮に然らざるは如何とき円ふ問に封して、 街 門 は 十 行 部 作 と 雄 も 設 局 げ 二 会 械 の 説 に 溺るるは不可であり日本には日本としての行法あめとし布部や復興するも寧ろ山組の行履身事ばんとするものな り と し て 感 知 師 と の 立 場 の 相 違 冶 明 し て ゆ ぜ る 。 ラ ジ ノ ラ ハ ク ル ノ 一 一 オ ノ ヴ カ ノ ル ノ 一 一 ヌ ニ と 1 モ バ ト ヲ ピ テ 感 知 専 信 ニ 浮 師 俸 文 一 五 日 親 依 三 日 仏 組 行 以 ﹁ 親 疏 傍 正 一 自 在 三 於 北 小 − 耳 、 請 鳳 ナ 持 幸 決 搾 実 。 五 口 等 推 v 三 有 仰 い 一 並 三 一 割 ノ ト ト ラ ノ シ レ パ ノ ア ズ ス 世 愈 律 支 奥 ユ 組 師 行 軌 一 若 有 ニ 主 、 異 一 則 必 臨 ニ 行 於 組 川 一 ﹂ と 、 はって嗣者の相違そ知るべきである。

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一 語 ① ③ ③ ① この替は諸録にも見えず筆者も未見であるが稽海師の陀羅尼宗所第有部符儀中に引用せる中にこの香の説あり左後人 が註記してをる。 延暦二十五年正月二十六日、定三諸宗年分皮者自由市業一官符、間嗣戎論縁起上巻に載す。 この問題の丈献については民言八組受戒問答、密教研究第四十六競拙稿﹁有部符について l Z 協 ノ 照 。 この結について委はし︿は密教研究第四十六時抗捕稿参照。 六 、 良 一 一 パ 宗 と 戒 律 川 上 で 大 韓 一 区 一 一 一 閃 律

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っ す ー 其 の 照 史 及 び 敬 一 況 を 述 べ 終 つ に が け 以 後 に 尚 一 つ 泌 べ た い こ と は 員 言 宗 と 戒 律 と の 関 係 についてである。既に法べ﹃に様に我が闘に於いて戒作の復興弘布に最も−々を悲しに伶匠は十中八九は且言の人で あ り 、 従 っ て 特 に 集 ﹂ 一 一 一 口 待 宗 な る 一 波 守 生 じ 、 我 が 闘 の 律 は 其 の 治 ん い と 凡 て が 成 、 ♂ 意 味 の 同 県 言 律 宗 じ よ っ て 護 持 さ れ 来 つ に と 一 古 川 つ で も 過 言 で は な い の で あ る 、 日 以 の 如 く 戒 律 と 具 言 宗 が 最 も 密 接 な る 関 係 を 保 っ て 来 た の は 如 何 な る 理 由 − い よ る の で あ ら う か 。 これについて私は大韓二の唯山が考へられると思ふ、其の一は宗祖弘法大帥が戒律ゆそ脱めて重要視されたこと ① から・米る戒律傘崇の宗風である。弘法大師の戒律に封する態度は勿論其の根本は密教不共の三昧耶戒に友つもの であるが大師は瀬戒特に小乗戒に封して巌守主義をとられた、郎ち弘仁の御蓮誠に 護心して遠渉せんには足に非らざれば能は令、悌遣に趣向せんには戒に非らざれば卒んぞ至らんや、必ホ須く 霊 山 の 一 一 戒 堅 固 に 受 持 し 清 浄 に し て 死 す る こ と 勿 れ ︵ 一 議 ﹂ ﹁ ︶ 。 とある如く小乗戒をもこれ冶堅固に受持せよとされ一末徒にも亦東大寺戒壇にて受具すること沿蓮誠されてをる。 24 員 一 一 言 一 符 と 其 の 系 統 四

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日 本 偽 致 且 平 協 命 百 年 報 ︵ 第 十 一 年 ︶ 四 25 大師は小乗戒を受持することが其の佳秘密コ一昧耶戒となるとせられにのであって、この駄に於いて小乗具足戒在 棄捨し大乗濁特の戒のみによって比丘となるべしと主張した俸教大師と大なる立場の相蓮がある。これは大師の 教撃信仰の根本大豆背現高徳の蔓茶羅主義組封抱容主義より来る嘗然の態度と言はねばならぬ。この意味より 言って最初に述、、へに日本側教戒体思想史に於いて、少なくとも表面的に見る限り弘法大師は億数大師、親驚聖 人の捨戒主義に封して正統祇にる戒律厳守主義に立つものと言ひ得る、この故に大師の末徒から組師の遺訓に より戒律章重の人々ぞ多数出し仁のであると凡ねばならぬ、この間の消息や宜相は旭照霜露編に突の如く一言って 在 る 。 ガ 二 レ ズ ノ 一 一 一 一 シ 一 プ U L カ ラ ズ 輿 正 中 二 興 戒 律 一 也 原 本 二 子 科 軌 一 感 F 激 大 師 蓮 誠 日 中 若 死 コ 此 戒 日 非 コ 我 弟 子 一 我 非 中 彼 師 よ 矯 v 三 興 於 具 一 言 律 行 日 非 v 紘 一 中 コ 風 船 分 律 凸 抗 日 也 ︵ 百 計 一 一 ︶ 0 と

究 に 第 二 の 理 由 と し て は 莫 言 の 最 も 重 姿 と す る 修 法 、 一 前 鵡 と ・ 一 品 ふ も の が 其 の 賢 修 に 於 い て 戒 律 と 闘 係 あ り と 考 へ ら れ る こ と よ り 異 言 宗 と 戒 律 が 密 接 な る 闘 係 を 持 ち 来 っ た と ﹂ 一 一 一 日 ふ こ と で あ る 。 印 ち 修 法 と か 析 鵡 の 如 き 神 秘 的 殻験ぞ得べき行法はこれな修するものこ芳器が清浄でなければならない、この故に蘇悉地艇や蘇婆呼童子経には 密行修行者の受持すべき戒そ説くのであり、大附もこの椛典を密教戒律として二−曲学録に載せられにのである。父 入拐伽経の如きにも肉食な禁守る一朗由として明術の殻験沿伴ないこと沿あけてゆぜる。この理由から民 J一 一 日 r J 者 . か 特に戒律在章重護持し仁のである、浮験作一川もこの事につき突の如く辿べてそろ。 一、諸宗ノ中ニ異一吉宗ハ取分ク戒ヲ持久ス候へパ法ノ霊験ナク候、此ノ故ニ大口粧ニモ戒ヲ説キ蘇悉地純、蘇

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婆呼童子純等ノ密経ニ皆戒ヲ守ルペキ由ヲ設カレ候。弘法大師/昆一一日宗ノ人ノ摩スベキ粧律論ノ目録ニハ蘇悉 地 純 一 一 一 巻 、 蘇 婆 呼 童 子 純 二 一 在 、 小 乗 ノ 有 部 ノ 律 十 二 部 百 六 十 八 巻 ア 出 サ ν 候 。 A 1 時 不 壊 無 知 日 ノ 英 一 一 目 宗 ノ 人 動 モ ス レパ戒ハ小乗ナリ我等、ガ壊、ブベキニ非ズト自:ンテ放逸無題ナルヲ我が宗ノ法ノ様−一存シ候。然ルニ弘法大師ハ 小乗ノ戒律ヲ曲学スベシト説カレ候、況ヤ大乗ノ戒ハ云フニ及バザル’事ニチ候。殊−一同県言法ハ天下ノ泰卒ヲ析ル 法ニテ御座一年一悌組ノ法ニ背キナがラ其ノ法ヲ行ジユノ験アルベント存ズルハ不相膝ナル子一テ御座候︵偶蹄︶。 以 上 。 このこの理由によって異言宗は特に戒律と深い関係がある様になったものと考へるのである。 詰 ① ① 弘法大師の戒律顧につき委はし︿は密教研究第五十二扱拙稿参照。 弘法大師と俸教大師との立場の相違につ者委はしくは日本宗教皐界第一一一回大曾和要拙稿参照。 26 民言律と其の系統 四

参照

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