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1889 年にブラジルはポルトガル王国から独立して共和制に移行し 教会と国家は分離しました この時期 ローマカトリック教会のヒエラルキー ( 位階制 ) はブラジル教会に再び権威を取り戻そうとし 成功したかに見えました 新しい大司教区が誕生し ローマ直結の正統的指導力が発揮され 神学校が統治されまし

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「キリスト教基礎共同体と解放の神学」 ―教会の新しいあり方を求めて ホベルト・バーホス・ディアス神父(イエズス会司祭) 通訳:小井沼眞樹子(日本基督教団ブラジル宣教師) はじめに キリスト教基礎共同体(以下 CEBs)や解放の神学(以下 TL)について知りたいとブラジルに こられる外国人に出会うことはよくあります。彼らはたいがい、CEBs は現在いくつくらいあり ますか、とか、TL はいまどうなっているのでしょうか、もう過去のものになってしまったので すかと聞かれます。こういう質問にお答えするのは大変難しいので、私はイエスがなさったや り方を借りて「来てごらんなさい」と言うことにしています。共同体での実生活を実際体験し ないで、こういう質問の答えを得ようとするのは、CEBs や TL についてなにもわかっていない ということに他ならないからです。 そういう意味で、私は共同体を体験してきた者として、この数十年間にブラジルで起こって いたキリスト者の実践運動について、少し考えていることを日本の皆さんにお話しできるかと 思います。 Ⅰ.歴史的経緯について ⅰ)民衆の教会と混交宗教 ブラジルは自然の規模から言っても大きな国ですが、それだけでなく、国民の多様性、社会 や文化宗教の多様さ複雑さもたいへん大きい国であるといえましょう。 1500年にポルトガル人が着いたときには、およそ500万人の先住民が固有の言語、文化、 宗教を持って住んでいました。その後アフリカから連れ出され奴隷にされた人々が150万人、 それ以外にヨーロッパから白人が200万人入ってきました。3世紀のちには先住民の数は1 00万人に減っていました。400万人が抹殺されたということです。先住民とアフリカ人と 宗主国のポルトガルを主とするヨーロッパ人。これがブラジル国民の基層をなす人種です。ち なみに1888年まで300年間の奴隷時代では少なく見積もっても600万人、多く見積も れば1200万人ものアフリカ人が導入されたのです。そして19世紀の終わりには奴隷制廃 止と同時に大量移民時代が始まり、100国近くの国々から移民が入りました。 このような多くの民族の混交は、社会に様々な争いや文化摩擦を発生させたことは間違いな く、今日テレビで放映するカーニバルやサッカーの場面のように、多様な価値観、文化が見事 に共生するようになるまでには長い時間がかかりました。 *ローマとは距離のある教会体制 植民地時代、王国が教会統治権を握っていいため、ローマのバチカンからは遠くにあり、ブ ラジルには正統とは言えない民衆主体の教会が成立しました。司祭は少ししかいないので、信 徒たちがグループを作って支え、行列行進や決められた祈りを唱えること,聖人のお祭りなど の行事が祝祭の基本でした。

“As Comunidades Eclesiais de Base e ATeologia da Libertação”

― Uma nova forma de ser e compreender a Igreja ―

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1889年にブラジルはポルトガル王国から独立して共和制に移行し、教会と国家は分離し ました。この時期、ローマカトリック教会のヒエラルキー(位階制)はブラジル教会に再び権威 を取り戻そうとし、成功したかに見えました。新しい大司教区が誕生し、ローマ直結の正統的 指導力が発揮され、神学校が統治されました。 *宗教混交の特殊性 しかし、4世紀にもわたる国家の教会統治は、民衆の宗教活動と共存してきたので、今日に 至るまで宗教混交の慣習は続いています。つまり、各民族がそれぞれ固有の宗教を持ち込んで、 それを支配者の宗教カトリック教のなかで上手に形を変えて信仰しているのです。例えば、ア フリカの宗教カンドンブレはカトリック教と混交することで理解され受け継がれています。ア フリカ系ブラジル人にとって聖母マリアはイエマンジャーという女神の化身として、イエス・ キリストはカンドンブレの神オシャラ―と同じものとして崇められています。 ⅱ)20世紀:教会と国家の分離 教会と国家は20世紀初頭から表向きは分離したとはいうものの、1964年の軍事政権が 始まるまでは、まだ癒着状態が続いて腐敗や圧政に関しては通じ合い共犯関係にあったといえ ましょう。しかし、64年に軍政が台頭すると、様相は一変しました。様々な抑圧や人権侵害、 言論や信仰の自由が剥奪され、最悪の事態に達することになって、ブラジルの教会はほとんど が抑圧されている人々の側に立つという明白な立場を取ることになりました。このような歴史 的文脈のもとで、CEBs と TL はその存在理由を見出し、説得力を発揮することになったのです。 Ⅱ.CEBs:新しい形の教会 1.CEBsの社会的、教会的コンテキスト 誕生:二重の門戸開放 a)政治的開放 ナチスとヨーロッパのファシズムの敗退によって、ブラジルではジェトリオ・バルガス(1 937-1945年)による最初の独裁政治が崩壊しました。それにとってかわって中産階級 による自由民主主義の時代が到来し、資本主義による近代社会、産業革命がもたらされました。 このような政治経済的情勢の変化によって、急激に労働力の動因と組織化の開発が必要になり、 人口問題やパウロ・フレイレ*の提唱した『被抑圧者の教育学』の実践が政治問題となりまし た。この政治的開放は45-64年にかけて続きました。 *注・ブラジルが生んだ世界的に有名な教育学者。1921年レシーフェ生まれ、1997年没。 b)カトリック教会の門戸開放 第2バチカン公会議(以下、Ⅱバチカンと略す)は二重の意味で教会の扉を開いたと言えま しょう。他教会との関係(エキュメニカル運動)と、政治、経済、社会、思想が複雑に絡み合 う近代世界との関係に門戸を開いたのです。

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ラテンアメリカにおいては、教会はⅡバチカンと踵を一つにして歩み出し、さらに一歩前進 しました。1968年メデリン会議において、貧しい人びととの約束を教会の中心課題にする 決議をしたのです。司教たちは初期の CEBsを公けに支援しました。 成長 a)政治的閉鎖 富裕な国に財政面で依存するブラジル経済政策に対する国民の批判が高まっていきました。 ブラジルではそのときすでに軍事独裁政治が始まっていました。歴史上最もひどい抑圧期間で、 ある局面においては経済発展と恩恵をもたらしましたが、それとひきかえに国民の貧困化に拍 車がかかり、民衆組織や基本生活運動に対して激しい迫害が加えられました。 軍政時代、カトリック教会は民衆運動にぴったり寄り添い、民衆と共に抑圧と迫害に逢い、 苦しみました。 b)教会の勇気ある行動 政治組織が抑圧を加えれば加えるほど、教会は民衆運動や人権擁護運動に加担する姿勢を示 しました。多くのキリスト信者や神父、修道者たちが投獄され、拷問を受け、抹殺されていっ たのです。教会は民衆と共に働き、信仰を深め、典礼を行い、民衆を組織化する唯一の場所で した。このような場は「意識化の場所」と呼ばれ、教会にとってはそれこそが、福音伝道の場 でありました。(解放の神学の基本である)「見る Ver」「判断する Julgar」「行動する Agir」 という基本的方法論に乗っ取って活動を発展させました。このような態度を貫いたのは、CNBB と Cebs と TL でした。 2.CEBsの起源 Cebs の起源は様々で、唯一のモデルはありません ⅰ)「聖書的循環」 第 1 の例は、信徒グループが聖書を読むために集まり、神のみことばと生活、信仰と現実と を関連づける必要性を感じました。自分や隣人の苦しみを引き起こしている現実問題を知り、 聖書の民が生きていた時代の背景を学ぶ必要を感じてまた聖書学習に戻るという具合にダイナ ミックな循環していきます。 ⅱ)社会グループ 逆方向に道をたどった CEBsもありました。彼らは初めに土地や住居や権利を要求する基本 的必要のために集まり、それから聖書を読み始め、出エジプト記の、奴隷の家からの解放を求 めた「神の民」の中に自分たちのアイデンティティーを見出したのです。 ⅲ)その他:小教区から始まったグループ シスターたちや宣教師が働いてできた教会の奉仕活動から発展したグループもあります。 (例:Apostolado da oração, Vincentinos, Congregação mariana)

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プレ・テキスト (政治経済社会の現実) ・信仰生活(福音)と政治社会的生活(現実) ・祈りと共同作業 ・信仰と民衆闘争 ・みことばの祝祭とエウカリスチア(聖餐式) 【聖書解釈の三角形】 テキスト(聖書) Ⅲ.神学と教会論 (私は TL の方法論や組織論について話すつもりはないですが、TL が CEBsにおいてどのように 適用され、実践されているかについてお話しましょう。) ⅰ)CEBsの神学 CEBsは、キリスト教初期の1千年間に構築された伝統的神学と呼ばれている教会論と、Ⅱバ チカンの神学をひとつにまとめます。その際使徒言行録で述べられている初期のキリスト教共 同体を参考にしています。このような神学上の選択は、トレント公会議のローマ中心神学、公 的祭儀が司祭中心に行われる聖職者制度に反対して、民衆カトリックの特徴、例えば教会活動 への信徒の活発な参加や、委員会などを作って信徒の役割分担を促進し、教会を組織化するこ となどを、CEBsのアイデンティティーと見ているからです。 Ⅱバチカンは「神の民」についての神学に、非常に大きな貢献をもたらしました。まず教会 は世界の中にあることに注意を向けるようになりました。また「神の国」という考えに神学的 価値を与え、神の言葉は教会生活のなかで明らかにされることに気づきました。(ラテン語で なく自国の言葉でミサができるように)典礼を刷新し、教会生活の新しい体験のために場を開 き、教会の内部に多くの信徒が参加できるように奨励しました。このようなⅡバチカンの変革 の成果によって、CEBsは自らを「旅する神の民」であると認識するようになったのです。出エ ジプトにおいてイスラエルの民が体験した抑圧と貧困、神から与えられる力のみを希望とし、 共同体を形成していった状況と、CEBsの体験は非常によく似ているからです。双方とも、 過去にあっても現在でも、解放と約束の地と理想郷を目指して歩んでいます。 CEBsが用いる POVO ポーボ(民衆)という言葉は、決して参加意思のないバラバラな群衆を 指してはいません。なにかをまとまりを連想させる言葉です。POVO はその教会の生きている細 胞であり、他の教会との交わりにおいても教会の主体なのです。 コンテキスト (信仰共同体)

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ⅱ)教会内部の逆転現象 ローマ伝統のカトリック教会では、司教や司祭や、教会から任命を受けた担当者が行ってい た教会の仕事を、CEBsでは信徒たちが執り行っています。聖職者や担当者の数の不足と、新し い意識が信徒をベースとした CEBsを生み出すのです。そこでは、司教と信徒、司祭と信徒が 直接関係を結ぶようになったことが特徴として言えるでしょう。それまでは、信徒と教会の関 係は神父が仲介するだけだったのです。さらに信徒は大きな主体性を持つようになりました。 教会を組織化し、教会の職務(ミニストリー)について話し合い、司祭たちの決定に疑問を投 げかけることもあり、自ら責任を持って仕事をします。信徒たちが「神の民」の活発な要員と なるに従って、新しい形の礼拝が生じ、ローマの伝統カトリック以前の民衆的カトリックが再 生し、信徒たちは祭りの主人になったのです。 神父の役割は、宗教的権力の唯一の保有者であることを止めて、共同体の助力者、または推 進者にとってかわりました。 二重の変化 a)Ⅱバチカンは一生懸命「神の国」の考えを強調し、その実現のためにこそ、教会は仕えるべ きだと主張しました。「神の国」の視点から見ると、教会とこの世との関係がよりよく理解で きます。「神の国」はこの世において神によって救いが実現している場であり、教会は「神の 国」の保有者ではなくそのしるしなのです。 b)教会の役務(ミニストリー)全体は法的に固定され認可されたものではない。 CEBsと TL にとって、まず初めに聖霊に導かれてキリストの周りに集まってきた共同体があ りました。その後にミニストリーが出てきました。教皇パウロ6世はその教書のなかで教会本 来の大事な職務を果たすために、神父に叙階していなくても、適した奉仕者たちの働く場を認 めると述べています。彼の提案は賛否両論を引き起こし、対立が生じましたが、CEBsでは沢山 の新しい奉仕者を創設してきました。 ・み言葉:説教者、カテキスタ(教理指導者)、カウンセラー、聖書の歴史の語り手、朗読者、 聖書学習リーダー、民衆詩人、民衆歌手 ・祝祭 :会堂や巡礼の責任者、行列行進の企画者、祈祷リーダー、サクラメントの祝祭、 死者のための祈祷、ミサ(聖餐式)担当係 ・コーディネーター:CEBs、地域、大教区、司牧カウンセリング、いろいろな運動 ・生活支援:病人訪問、自家製の薬の作り方指導、住民集会、労組、政党員、 学校での宗教教育、など ⅲ)実践行動の重要性 CEBsは現在、内部にも外部にも同時に目を向けながら実践活動するように方向転換していま す。そのような活動は TL を通して養われた解放運動と言えましょう。 キリスト教とは何よりもまず、イエスに従っていく実践行動にほかなりません。ひとつの共 同体が具体的な生活のなかで目に見える形でキリストに従っている行動をするならば、その共

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同体はキリストの姿に形づくられていくでしょう。共同体のバイタリティーを測るものさしは、 創造性と実践活動の豊かさだと言ってよいでしょう。 CEBs本来の特徴は何でしょうか?以前からあった民衆共同体と区別する意味で考えると、そ れは政治に対する新しい態度であると言うことができるでしょう。信仰と生活、神の言葉と社 会的責任とは、分離しがたく深く結び付いているものであると考える態度です。 保守派の立場は、この結びつきについて注意深く考えません。それゆえ、保守派が CEBsに ついて非難する時、彼らは信仰を生活問題に狭め、現実主義に陥って、信仰や教会の意義深さ を見失っていると決めつけるのです。 TL と CEBsはキリスト教の実践行動するうちに、ひとつの政治的文化を造りました。土地な し農民運動や、先住民司牧、黒人運動のような社会システムの形成を助け、労働党の設立に根 本的根拠を与えたのも TL です。労働党の指導者は現職の大統領ルーラですが、彼はいつも TL に照らして自分の姿勢を吟味している、と L.ボフは言っています。 ⅳ)エキュメニズム(教会一致運動) CEBsにおけるエキュメニズムの実践は、ヨーロッパにおける古典的エキュメニズムとは異な ります。問題は教理の解釈や制度的相違をめぐって議論することではなく、貧しい人々の闘い において一致することなのです。教会のいのち、神のみことばについて学び理解すること、ま た制度的な柔軟性は、貧しい人々の闘いや苦しみ、共同体での生活の場から生まれます。 ですから、カルロス・メステレス*はエキュメニズムの基盤は神学的収斂ではなく、危険にさら されているいのちを守るための、よりエキュメニカルな現実なのだと語っています。 *オランダ人カルメル会司祭。聖書学者。80年、民衆のための聖書学習運動 CEBI を提唱、今日まで推進してきた。 ⅴ)貧しい人々 貧しい人々にたいする神の優先的慈しみについては、福音の伝承に現われているイエスの生 きざまを見れば真実なことがわかります。イエスは貧しい人々に福音を説き、神の国の幸いを 伝え、貧しい弟子たちを選び、貧しい人々と共に生活し、共に食し、貧しい者として極貧のう ちに死にました。聖書解釈学の真摯な研究のよれば、貧困について性急に霊的解釈することを 退け、物理的貧困について強調しています。貧しい人々は、単に神の国に優先的に迎えられる という恩恵を与えられているのではありません。1979年に開かれたプエブラのラテンアメ リカ司教会議では、このように述べています。 「貧困と抑圧にあえぐ人々との約束と CEBs の誕生、この2つのことは、教会に貧しい人々へ の福音宣教者となる可能性があることを発見するのを助けてくれます。というのも、貧しい 人々が絶えず教会へ呼びかけ、教会が方向転換するように招いているからです。彼らはその生 活の中で、連帯のこころ、奉仕、素朴さ、神の賜物を迎え入れる開いたこころといった多くの 福音的価値を実践しています。そのことを通して、彼ら自身が教会を回心へと促しているので す」。 L.ボフは、著書『出エジプトの意味を再考する』のなかで、貧しい人々の選択というとき、 それは貧しい人々を単なる同情や慈善の対象と見なしているのではないと強調します。むしろ、 彼らを自らの歴史の主人公とし、我々が彼らの解放に関わることを指しているのだと言ってい ます。社会的責任を担うキリスト者たちの役割とは、約束の地を目指して旅する貧しい人々の

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「長い行進」に参加していくこと、つまり、体制を形成し、社会的解放を成し遂げる手助けを していくことなのです。 Ⅳ.現代において ⅰ)第1の問題点:今日、よく見えることは何か。 宣教開始後5年間以上、ブラジルにおけるキリスト教徒は先例のない混乱と際限のない混沌 の中に置かれました。教皇ジョアン・パウロ2世の長い在位期間(78-05年)に、ラテン アメリカでは政治社会情勢が大きく変動し、20世紀末から21世紀の初頭にかけて CEBsと TL の変更を余儀なくさせる宗教的コンテキストをもたらしました。私たちの理解するところで は、このコンテキストの変化は CEBsや TL を超えるほど大きなものでした。私たちはブラジル で、多様な宗教が混交した宗教的実生活を体験しています。それらの多くの宗教活動は、ひと つの制度的宗教の特徴を持っていると言ってもよいくらいです。カリスマ、特に預言について 軽々しく取り扱います。預言の言葉は、入念に企画されたリタジーにとって代わられ、癒しと 解放の祝祭とか、「繁栄の神学」に場所を譲ってしまいました。 一方における事実 TL や CEBsはマスコミや教会の間では目に見えにくい存在ですし、教会の公式文書の中でも ほとんど出てきません。20世紀は、Ⅱバチカンが実施したことに対する否定的な弾圧を受け て幕を閉じました。90年代には公会議の熱い願いは失われ、典礼も神学も、教理的にも本当 に後戻りをしました。イエズス会の神学者J.B.リバーニォはそれを「偉大な規律への回帰」 と呼んでいます。かつて聖職者位階制が強化され、一人ひとりの魂の救い、秘蹟を行うことが 強調されましたが、今日でも新聖職者至上主義にのっとって司祭たちが同じように司牧を行っ ています。教会本来のカリスマは、制度的教会の指導と個人の救いの枠の中に閉じ込められて 動けなくなっています。 以前私たちはこう歌っていました。「いつか、みんなが目をあげて自由がこの地を支配する 日が来るのを見るでしょう」 今、民衆の間で人気絶頂な歌は「主よ、私に家に、生活に入ってきて、この足枷を取り去り、 すべての傷をいやし、あなたが聖なる方であることを教えてください。あなただけを愛します から、私に奇跡を起こしてください」 今の新しい宗教リーダーたちが好んで用いる言葉は解放ではなく回心であり、また、闘いで はなく癒しなのです。 他方において CEBsと TL がもたらした新しい変革の運動はそれなりの仕方で教会の中で持続しています。 一番最近の2007年にブラジル、アパレシッダで行われたラテンアメリカ司教会議の文書の 中で、再度、ラテンアメリカとカリブの教会における貧しい人々の選択と CEBsの存続は重要 なものだ、とはっきり述べています。「CEBsは民衆に神のみことばをよりよく理解させ、福音 の名において社会的責任を果たすよう促し、信徒による新たな奉仕を生み出し、大人たちの信 仰教育を推進しました」。(アパレシッダ文書158項)

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気がかりな場面 現在、再び特権を持つようになった聖職者側は、教会への信徒の参加を封じ、旧い教会法の 実践や議論を再び持ち出して、聖なる生活とは何か、教会はどうあるべきかを再認識させよう としています。貧しい人々の闘いとか、人権尊重や地上の平和について討議することはせず、 テレビによるカトリック番組で、地域の共同体の人々が会堂いっぱいに集まり、熱気にあふれ たショウのようなミサや祈祷集会を放映して刺激しています。そのような宗教番組を人々は毎 日見ているわけで、神父たちもそれを真似して同じように行うのです。例えば上手に歌えない 神父は司祭として適していないと問題になったり・・・ そのようにⅡバチカンに逆流している旧いカトリック教会の復興は、カリスマ運動(レノバ ソン・カリスマチカ・カトリカ)とか生活共同体運動*、その他数多くのグループが含まれる カトリック運動を優遇しています。 *1939―58年、ピオ12世が奨励した保守派の小さな伝統を再度採用したもの。 しかし、CEBsや社会司牧の再興の兆しが見えてきているこの時に、逆にこれらの旧い教会の あり方すべてに、時代にそぐわないものを感じずにはおれません。 CEBsは現在も生き生きと存続しています。CEBsや TL は21世紀のラテンアメリカの教会にお いてどのような場を占めるのでしょうか? 難しい質問です、しかし、考えてみることはできます。次の図を見てみましょう。 キリスト教基礎共同体と解放の神学 カリスマ運動 1信仰を実践しながら生きる。 1信仰を体験しながら生きる。 2倫理や政治との関係で奉仕を重視。 2神学の関係、祈りを重視。 3社会変革を求める 3個人の回心を求める。 4思いめぐらすこと(黙想)を重視。 4感情、気持ちを大切にする。 5貧しい人々を優先する。 5失われた羊をさがす。 6世界の中にいる。 6教会の中にいる。 7地域の教会と結びついている。 7普遍的教会と結びついている。 8制度的教会の刷新を目指す。 8教会の社会的確立を目指す。 政治社会の分野においては、新ペンテコステ派は伝統的教会の立場を採っています。以前は 司教は正義の実践を語り、行っていました。今日ではもう語らず、はっきりした社会政治的実 践も行っていません。テレビに教会が映し出されるときは、カリスマ番組かスキャンダルなニ ュースの場合のみです。 新ペンテコステ派は倫理的、文化的視点からはいかがわしくに見える方法を駆使して人々を 惹きつけ、権力に手を伸ばす企画を作って、実際、牧師が下院議員になりつつあります。

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ⅱ)第2の問題点:今日、よく見えないものは何か。 70-80年代に、聖職者位階制と大多数の信徒たちの外側で存在していた CEBsと TL は、 今も存続し、継続しています。もちろん、現代の社会的、政治的、宗教的状況が要求してくる ことに適合させるように変化してきました。しかし、今日でもラテンアメリカの多数の信徒や 神父が貧しい人々の優先的選択を日々の生活で、また司牧の中で実践し続けている姿を見るこ とができます。CEBsも TL と同様に今日私たちが生活しているブラジルの民主主義の成立過程 で大変貢献してきました。倫理や正義の実行のために闘うブラジルの労組や政党の左翼のリー ダーたちは教会で養成された人々が多くいますし、今でも教会に通っている人もいます。 今日、NGO の多くは女性や子供のための活動、助け合いの経済システム、協同組合などの働 きをしていますが、その NGO を支えているのは CEBsの人々です。 心配事としてはっきりしているのは、新自由主義がもたらした社会経済問題、不正な現実を どう是正していくかということです。テレビの教会ショーや、ヒエラルキー型教会の明白な指 示にもめげず、司牧現場の多くでは、キリストの召命として、人々がこれらの今日的課題を理 解できるように、現実に適した宣教を行っています。 その例として、矯正司牧(受刑者への司牧)、リサイクル物資回収を行っている人々への司 牧、民衆教育、新しくなった教理教育、文化に即した典礼、黒人やエイズ患者への司牧、子供 たちへの司牧、聖書学習会などがあります。私の見るところでは、それらはすべて CEBsが生 きている形であり、TL が求めてきたことすべてを表現しているひとつの共同体と言えるでしょ う。 教会多数派からは好意的に受け止めてられていないのですが、2009年7月には第12回 CEBs全国大会がホンドニア州のポルト・ベーリョで開かれました。2007年に開催されたア パレシッダでのラテンアメリカ司教会議と同様、この CEBs大会もそれは特筆すべきイベント、 大規模ないのちの祭典だったと言えましょう。CEBsの生き生きとした力、ブラジルカトリック 教会の司牧構造をよく表わすものでした。 2010年5月、ごく最近の CNBB 会議において、この第12回 CEBs大会について司教たち は次のようなコメントを発表しています。 「私たちは、CEBsが教会の生命力のしるしであり続けていることを再主張したいと思います。 キリストの男女の弟子たちは共同体に集まり、神のみことばを注意深く聴いています。 それは、兄弟愛をさらに強め、生活の中で現れる不思議な出来事を分ち祝い、社会をよりよく するための働きを担っていくために他なりません」。さらに、メデリンでの宣言を繰り返し (メデリン文書 15 項)、「CEBsは教会の根本的核であり、教会組織の最初の細胞であり、福 音宣教の中心、現代における人間化推進の基本単位です」と述べています。 ⅲ)第 3 の問題点:チャレンジと見通し 世界のリーダー格の国の仲間入りをしたブラジル。ここ 20 年の間における経済市場の急激な 変化は、教会とりわけ CEBsには大きなチャレンジにさらされる事態を引き起こしています。 それはグロバリゼーション、増大する都市化現象、経済市場に都合のよい神学のことです。経 済市場のみに有利に科学技術が使われる時、現実には新しい現象が生じます。今の時代、大切 なものは経済市場と消費力です。消費力を持たないものは取り残されてしまいます。ブラジル でも、他の国々でも、貧しい人々は単に経済的恩恵に浴することができないばかりでなく、忘

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れ去られた大衆として社会から締め出されているのです。そのような排斥状況は、暴力事件の 数を増やし、麻薬による現実逃避をあおり、結果的に商売力を増大させているのです。もう一 方の結果として、公立教育組織の中で責任者の刑事免責が行われたり、刑罰を免除するという 腐敗がはびこっています。 グローバルな都市経済市場社会に、どのようにして共に生きる関係、共に働くこと、連帯関 係を目覚めさせることができるでしょうか?孤独で、世俗主義で、物質主義がはびこっている 現代社会では、虚像(バーチャル)の世界で生きる個人主義者が多く、そのような現代に生き る人々にどのように神の国を伝えることができるでしょうか? 1.ケアの霊性 CEBsの中に働いている霊性はⅡバチカンや CNBB の霊性と響き合っているものです。つまり、 神の内的本質は孤独ではなく,三位格の交わりであると理解します。交わり(コイノニア、コ ムニオ)によって現実生活は形成され、生きとし生けるものの奥底に潜む根本的なもの、そし て三位一体の神をこの世界によりよくもたらすものを形つくっているのも交わりだと言えるで しょう。交わり(コムニオン、聖餐式を意味する言葉でもある)が、私たちを交わりである神 の教会に造り上げるのです。ですから、ケアのない霊性などはありません。肯定的に言い換え てみましょう。神が私たち一人ひとりを、また同時にすべての人をケアしてくださるように、 私たちもお互いにケアし合うならば、霊性が存在しているのです。ケアは愛の行いの果実です。 このような普遍的で無償の愛は独特の性質を持っており、それが CEBsの中に働くケアの霊 性として現れ出てきます。 a)信仰のケア CEBs の霊性は人々を励まし、受け入れ、尊敬し、福音に根ざしたあの「いのちの基本法則」、 つまり神を愛し、自分のように隣人を愛するという戒めを価値あらしめるものです。 ブラジルでは昨今、消費や資産増大、個人主義の市場相場の価値を重視し、信仰とは何かがど んどんあいまいになってきています。常に信仰を実践しているか、吟味する必要があります。 b)倫理と連帯のケア 神のみことばをいのちの糧とし、交わりに生きる CEBsでは連帯と奉仕を奨励します。共同 体には謙遜なこころの人々が集まり、イエスがなさったように、貧困と苦しみに喘ぐ人々によ りよく奉仕することができるように助けています。貧しい人々に奉仕することは、イエスに従 う道からそれるどころか、むしろイエスに褒められ、喜ばれることなのだとはっきり示してい ます。 CEBsや TL のケアは働きを続けています。教育を与え、傷ついた人々を癒し、パンを増やし て分かち合い、人々を助け合いと交わりに招き、そのようなしるしによって「いのちの神」が いますことを証しています。様々な虐待、嘘、不正義、搾取を告発し、懸命に是正を要求して います。 他方、信徒たちの倫理的実践に注意を払わない宗教は、社会的人間関係が不在で、そこでは 熱狂的な信仰になっていきます。

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c)自然保護と経済のケア CEBsは多くのメンバーの霊性を目覚めさせ、人間のいのち、あらゆるもののいのち、地球の いのちを大切にすることを教えました。ケアの霊性を持つことによって、善悪の判断、尊敬の 態度と行動が生まれます。また優しさや助け合うこと、自分の持ち分を果たすことなどを養い 育てました。 社会において家族とともに人間らしい基本的生活をするための活動が、経済の本来の意味で しょう。CEBsでは会員が経済の本来の意味を取り戻すことができるように、民衆の互助経済グ ループに参加することを積極的に勧めています。人間にとって労働とは、尊厳や正義を打ち立 てるためのもの以上に、まず日々生きていくための営みです。生きていくための経済活動を CEBsは支援しています。 「すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ福音書 17 章 21 節) d)エキュメニカルで多宗教間関係におけるケア CEBsと TL によって培われてきた霊性として、キリスト教の他教会との対話と、他宗教との 対話が挙げられます。このことを通して他の世界に扉を開くことで、多様性の中の一致と、相 違の中にも類似性を発見することができるようになりました。この対話の霊性は、兄弟愛の使 命のひとつとして CEBsがずっと保ち続けているもので、他の宗教的表現に深い尊敬の態度を 示しながら、他宗教との普遍的交わりを求めています。このような霊性は上記のイエスの願い から生まれているものです。 私たちの小教区においても、他の諸教会や異なった宗教グループを一致させる共通問題があ りますし、これからもあるでしょう。その共通問題とはなにか、それは貧困問題です。貧困は 人間社会のいろいろな出来事が要因となって、結果として生じてくるもので、暴力事件も起こ ります。けれども、そこに伝道の可能性や、また他の可能性も見出すことができます。 私たちの現実例を紹介しましょう。 リサイクル物資採集者たちのグループで聖書黙想会をしています。そのグループで公共政策 の必要を訴える運動もしていますが、その中で暴力事件に出くわします。私たちの小教区内で 5ヶ月間に30人も殺されました。その他にも、公立学校教育や低所得層の若者たちに連邦大 学の入学許可を当る特別措置、受刑者への司牧の働きは、エキュメニカルに行っています。 「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1章 14 節) 2.神のみことばは私たちのただ中に:私たちの不思議な食べ物 神のみことばを聞くことと、信仰共同体の生活をすることは CEBsの中で不可分のもので す。聖書は共同体の日々の生活の中で読まれ、グループや司牧の中にも存在しています。ブラ ジル社会の不平等や不正義を乗り越えようとする行動、典礼やミサ、養成や祈りの内にも神の みことばは存在しています。CEBsにおいて聖書サークルや黙想会で聖書学習が熱心に行われて います。そこに人々は教会の主体として参加し、共同体や社会の中で自分の分担を果たします。 CEBsにおける信徒中心主義は、教会が聖霊の息吹によって新たに生まれている証のようなもの です。また弟子集団の中で新しい使命と奉仕が生まれているしるしでもあると思います。

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最後に 正義と希望の預言者として知られる D.P.カザウダリガの言葉を思い起こします。 「21世紀は霊性を保持していなければ、人間的ではないだろう。21世紀のキリスト信者は 社会から排斥された人々を選ばなければ、キリスト信者ではないだろう。21世紀のキリスト 信者はエキュメニカルでなければ、教会の一員ではないであろう。21世紀は環境保護を第1 にしなければ、単純にもう存在していないだろう。」

参照

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