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九州帝国大学の初期RC造建築群に見る近代化の一様相 [ PDF

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Academic year: 2021

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23-1 きいという点で共通しており、個別事情の影響を考慮 する必要が相対的に少ないため比較分析に適すると考 える。またこの3棟は現物、設計図、構造図、仕様書 *2が揃っており、はじめて仕様書を含めた考察が可能 となった。  以下2章でこれらを比較分析し変遷を考察する。 2章 九州帝大における RC 造建築の変遷 2.1 法文学部本館  大正15年竣工で、基本的形状は中庭を持つロの字 型平面の中央に車寄玄関と塔屋を設け、両翼を張り出 させた左右対称形である。これは官庁・高等教育機関 等で当時一般的に見られた形式である。  外観意匠で目を引くのは上部の円弧状庇と2階半ば まで及ぶ分厚いモールディングで、これがこの建物の 重厚な印象をつくりだしている。そして円形渦巻など のモルタルの装飾材がデザインされており、当時日本 で関心の高まりを見せていたゼゼッションの影響を思 わせる。さらにステンドグラスやモザイクタイル、メ タルワークなどの工業製品による装飾も見られ近代工 芸的な塗装技法と併せて、アール・デコへの意識も窺 える。一方、これらの装飾は道に面した外周壁面のみ に施され中庭壁面にはみられず、外部者の目に触れる 壁面は装飾を施し、そうでない壁面には施さないとい う明確な使い分けによって、装飾面を無装飾面よりも 格式の高い仕様とする意識が見える。  工業製品による装飾に関しては、九州帝国大学法文 学部本館新築工事仕様書に「本工事ニ要スル左記物品 ハ當方ヨリ支給ス可キヲ以テ係員指示ニ従ヒ入念取付 ク可シ」という記述があり車寄丸柱中間金物など、工 業製品の装飾品の列記がある。この仕様書は建築課の 名前で書かれており、當方は建築課を指し、製品は建 築課が別途発注し施工業者へ支給したと考えられる。 また、玄関廻り壁面の「特種人造石塗ハ擬大理石塗ニ シテ色合仕上方ニ就テハ係員ヨリ指示ス可シ」のよう に、色味等の仕上具合も係員(建築課技術者を指すと

九州帝国大学の初期 RC 造建築群に見る近代化の一様相

土橋 泉咲 1 章  序 1.1 研究の背景と目的  九州大学箱崎構内に現存する近代建築群*1は九州 帝国大学 ( 以下、九州帝大 ) 時代の大正後期から断続 的に建てられ、福岡県下における最初期の鉄筋コン クリート造(以下、RC 造)建築を多く含む。しかし、 これらに関する研究は個別にその意匠の特徴と来歴を 確認するに留まりその多くが初代九州帝大建築課長の 倉田謙の設計とさる一方で、意匠には統一性が欠ける ため、個別に設計がなされた2)というのが一般的な 理解である。しかし前稿3)において、全てが個人の 采配によって設計されたと断定するには至らず、デザ インモチーフの共通など組織としての大きな方針の中 で営繕活動をしていた可能性を指摘した。  そこで本論では、これらを近代建築群と捉えその変 遷を考察することで九州帝大における近代化の一様相 を明らかにすることを目的とする。 1.2 研究の対象と方法  九州大学箱崎構内に現存する大正後期から戦時中に 建てられた RC 造建築はその意匠的特徴から大きく3 つの時期に分けられる。それぞれの時期の意匠的・構 造的特徴に注目して、法文学部本館、旧工学部本館、 農芸化学教室の比較分析を通してその変遷を考察す る。この3棟は敷地 ( 九州大学箱崎構内 )、用途 ( 大 学建築・教室棟 )、構造 (RC 造 )、設計組織 ( 九州帝大 建築課 )、そしてそれぞれの時期の中で最も規模が大 図2 中央塔屋の装飾 図3 装飾の排除された中庭 3)より抜粋 図1 現存する初期RC造建築群の変遷 Ⅰ期 凹凸によって強調された柱型と、幾何学的な 装飾の添付が特徴 装飾が完全に排除され、窓上の大きな庇に よる水平性の強調が特徴 スクラッチタイルの使用と、窓台とまぐさの強 調が特徴 法文学部図書館及び書庫(大正14年) 河海工学実験室(大正14年) 法文学部本館(大正15年) 応用化学実験室(昭和2年) 発電所(昭和4年) 旧工学部本館(昭和5年) 高周波電気及び電子工学実験室(昭和6年) 高温度化学実験室(昭和7年) 航空学教室(昭和14年) 理学部原子核実験室(昭和19年) 法文学部演習室(昭和12年) 農芸化学教室(昭和13年) 旧心理学教室(昭和2年)  立面の意匠はⅠ期のものと共通するが、窓廻り  の意匠はⅡ期のものに通ずる Ⅱ期 Ⅲ期

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23-2 考えられる)の采配で決定したようである。このほか にも、仕様書内には建築課技術者の指示を明記した箇 所が頻出し、細部まで指示を与える建築課の方針が垣 間見られる。  最後に、構造的特徴として特筆すべきは大スパンを 要する大講義室のSRC構造である。当時の福岡県下で は初見事例と思われ、鉄骨はラチス形に組まれてい る。その他開口部への対角筋の挿入には耐震性への配 慮が見られる*3など、かなり高度な技術力がうかがえ る。一方でコンクリート強度は低く1)、現在では見ら れないハンチ筋の挿入なども見られる。 2.2 旧工学部本館  昭和5年の竣工であり、基本的形状は中央に車寄せ 玄関と塔屋を設け両翼をT字型を張り出させた左右対 称形で、中廊下型の部屋配置を取る。これも法文学部 本館と同様に、当時の主流だった形式の応用と考えら れる。  外観意匠で目を引くのは中央塔屋の両脇に添えられ た高さ36mの半円筒状塔屋であり、全面に貼られた 褐色のスクラッチタイルが圧倒的な量塊性をつくりだ している。九州帝国大学工学部本館新築工事仕様書の 中に「「タイル」ハ「タイル」割ニ依リ壁タイル竪目 地三分横目地二分五厘内外トシ竪横通リ良ク左記調合 モルタルニテ張リ立テ(後略)」とあるように、工業製 品であるタイルの選定と割付を設計者が行い、それに 従って施工が行なわれていた。このことは建築課技術 者が色味等の細部までを決定し、幾何学的な装飾を自 らデザインすることでその表情をつくっていた法文学 部本館と大きく異なる点である。  当館では旧法文学部本館に比べると全体としての装 飾性は強くないが、腰壁装飾と建物上部にはタイルや 石による装飾がなされている他、窓廻りではまぐさと 窓台のタイルによる強調が見られる。また、玄関廻り では円形のステンドグラスや黄龍石製の鷲の持ち送り など、図面上で「支給品」と記述されるものによる装 飾が多く見られる。外部者の目に触れる部分に重点的 に装飾を施すという意味では、装飾を重要視する法文 学部本館と通ずる意識が垣間見える。  構造的特徴は法文学部本館と同様に大講義室にSRC 造が用いられ鉄骨は格子形に組まれており、より水平 力を負担できる形状へ発展したと言える5)。仕様書の 鉄骨工事の項には「鋏鋲工場打現場打ヲ問ハズ不充分 ナルモノハ切リ替ヘヲ命ズルモノトス」との記述があ ることから、工場での組み立ても行なわれており、効 率化が図られてたとも考えられる。しかし一方で、 「其他構造上係員ニ於テ必要ト認メタルケ所ニ補強材 ヲ添加シ又ハ小部分ノ変更ヲ生ズル事アル可シ」とも あるように、まだSRC造が体系化されていない*4中で 現場での建築課技術者の判断によって施工されていた という面も併せ持つ。またコンクリート強度も昭和初 期のものとしては高く5)、施工技術も向上している。 2.3 農芸化学教室  昭和13年の竣工で、設計図は全てメートル法で書 かれている。基本的形状はコの字型平面の中央に車寄 玄関を設けた左右対称形で、片廊下に整然と教室が並 んでいる。平面構成においては前述の2つから大きな 変化は見られないが、外観の変化は大きい。  外観意匠でまず目を引くのは薄い庇で、平坦な外壁 に薄い庇と水平連続窓とが水平性を強調している。こ の水平連続窓は柱から解放されたカーテンウォールの 壁によるもので、柱の間を厚い壁で埋める前述の2つ の建物とは全く異なる考えのもとで実現されている。 これはRC造のラーメン構造への理解度と信頼度が飛 躍的に向上したことによる。また、薄い庇はRC造の 特徴といえるキャンチレバーによるもので、RC造独 自の意匠が全体を通して表れ始めた建築と言えるだろ う。その他の構造的な特徴としてはハンチ筋が見られ なくなり、これに従って内部のモールディングの装飾 もなくなっている。  一方で、玄関廻りと側面の階段室には丸窓や幾何学 模様のプレート製の装飾が見られるなど、意匠へのこ だわりも垣間見える。この無装飾の建築の中で階段室 のデザインにこだわる傾向は当時、工場建築にたびた びみられた傾向である。  また、九州帝国大学農学部農芸化学教室新築工事仕 様書には「日本標準規定」が頻出し、コンクリートに おいても「試験ハ建築學會制定ノ「スランプ試験標準 方法」ニヨルモノトス」と記述されている。こういっ た記述は前述の2棟には見られず、全国的な建築部材 の標準化、RC造の体系化に従って施工が進められて いったことがわかる。また、工業製品を使用する際に は仕様書内で会社名が指定され、外装工事等では「会 図4 窓廻りの意匠とスクラッチタイル 図5 鷲の持ち送り 図6 柱位置とずれた壁面 図7 階段室外観

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23-3 社責任施工トス」と記述されていることからも、建築 課技術者の裁量によっていた部分が減少し請負会社の 裁量がみとめられていったと考えられる。 2.4  小結  以上、その変遷より建築生産の近代化が顕著に見て とれる。法文学部本館では設計者の采配によって外装 の色味等細部まで決定がなされていたが、工学部本館 では工業製品をどの場所にどのように用いるかを決定 することが設計者に求められる職能の一側面になって いる。そして農芸化学教室では標準化された規定にも とづき構造と一体となった全体を計画することが設計 者の役割となり、その意匠が変化していくと同時に設 計者の役割も変化している。また、構造面も最先端を 追って発展している。  一方で平面的な構成にはあまり変化が見られず、装 飾性を重要視する意識も昭和の始めまで強く見られ る。これは装飾が帝大の威厳やアイデンティティを示 すものとしての営繕活動が求められていたためだと解 釈できる。そして昭和 10 年前後にはその要求の変化 からか、装飾の排除へと急激に傾倒している。 3 章 時代背景からの考察  3章では2章で示した変遷を当時の建築の潮流と照 らし合わせ、その位置づけを考察する。 3.1 県下における近代建築の潮流と九州帝大の影響  まず周辺の動向として福岡県下の近代建築の変遷を みていくと、県内では大正に入ってからRC造建築が つくられ始めた。工場建築ではかなり早い時期から装 飾の排除されたものがつくられていた。一方で庁舎や 銀行などでは煉瓦や石で被膜し"欧州近世式"とするこ とが一般的で、装飾が重要視される傾向は戦前まで続 いた。このことからもある種の威厳を示すものとして 装飾が用いられていたと考えられ、九州帝大における 装飾への意識と同様の意識があったと解釈できる。こ ういった潮流の中で、特に九州帝大の建築の影響が指 摘できるものとして2つの事例を挙げる。  福岡県立福岡高等学校*5は、昭和4年に旧制福岡中 学校の校舎として竣工した。基本的形状はコの字型平 面の中央に車寄玄関を持つ左右対称形で、立面では柱 型を壁面の凹凸のよって強調している。その他、モル タル製レリーフや階段の手摺下に見られる幾何学的装 飾など、細部にも九州帝大と類似する。一方でこの建 築には構造的に不安な点がいくつか確認できた。まず 一階部分で無筋コンクリートが用いられ、大講堂では 不可解な梁と木材の配置が見られた。同時期の工学部 本館及び大正後期の法文学本館が高い構造技術をみせ ていたことから、九州帝大の建築は構造的理解という 意味で周囲のものより一歩進んでいたと言える。  日本足袋株式会社本社事務所*6は、昭和4年竣工の 事務所建築である。基本構成は中央に塔屋と車寄せを 持つ左右対称形で、円弧を基本モチーフとした外観装 飾と内部の柱頭装飾の他、出隅部のアールやモルタル による装飾の張り付けなど、特に法文学部本館との類 似点が確認できる。  以上、九州帝大における装飾の重要視と同様の意識 があり、類似した意匠がいくつか認められたことから も、直接的ではないにしろ周囲の建築はその影響を受 けていた。また構造的にも県下では最先端であったこ とからも、九州帝大の建築は地方都市において近代化 を先導する役割を担っていたと言えるだろう。 3.2 中央における近代建築の潮流  一方で中央では、RC 造建築は早いものでは明治期 に建てられ、関東大震災以降急速に普及した。しかし その意匠は様式の張り付けから永らく発展できずにい た。大正に入ると、若い設計者の間で様式からの脱却 と新しい意匠の創造が叫ばれ、大正後期には東京中央 電信局や九段小学校のような表現主義的な建築が生ま れた。そして昭和初期には官庁における営繕組織の充 実も手伝い*7、東京中央郵便局や四谷第五小学校のよ うな合理主義的な建築が建てられるようになる。  こういった最新の潮流をうみ出す建築は一部の官庁 営繕組織の一部の設計者によってつくられたものであ るが、それらと比較すると、九州帝大の近代建築群は それぞれの時期で最先端の潮流からは幾分か遅れを とっていた。この近代化への進み方の差違がうまれた 背景を、4章では官庁営繕組織である九州帝大建築課 の内情から考察する。 4章 九州帝大建築課の営繕活動の特徴  大正後期から昭和 10 年代にかけての九州帝大建築 課の技師を図 13 に示す。この時期の技師8名中6名 が東京帝国大学建築学科の卒業生であり*8、技師以下 の技術者達も専門教育を受けた当時のエリート層で あったことから、その組織体制は充実したものだった 図10 塔屋上部の装飾 図11 柱頭装飾 図8 福岡高等学校外観 図12 出隅部のアール 図9 交差する梁とその上に配された木材

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23-4 と言える8)。また図13より、組織のトップ層の数年 おきの変化が直接その意匠性の変化と連動したとは言 いにくく、個人の指向によらず、組織としての方針の もとに営繕活動が行われていたと考えられる。  建築課の人員数の推移と同時期の新築工事物件数を 図 14、図 15 に示す。その人員数は RC 造が導入され た大正 13 年に急増しており、RC の物件数の増加に 伴ってその組織体制を充実させている。これはまだ RC 造が体系化されていない中で高度な技術力が建築 課技術者に求められていたことと、RC 造導入に伴っ てその建築規模が増大したことによる。また平成 11 年を境に建築課の人員数は減少の一途を辿り*10、新 築工事物件数も同時期を境に減少している。しかし昭 和 12 年の理学部の創設からも建築の需要がなかった わけではなく、日本が戦時体制へ移行していく中で資 金と資材が不足していたことが一因だと考えられる。  以上に述べたことと、2章で述べた変遷とを照ら し合わせ、その意味を考察していく。まず、昭和初頭 まで営繕組織には先進的な技術力と、威厳やアイデン ティティの表現としての営繕活動が求められており、 それは実際に、組織体制の充実の中で実現されていた。 また、その要求はエリートとして様式建築を学んでき た建築課技術者の設計意識と合致していたとも解釈で きる。  一方で昭和 10 年代初頭に見られた急激ともいえる 意匠の変化も、戦時体制へと向かう中で変化していっ た営繕組織への要求が一要因だと考えられる。資金と 資材が慢性的に不足するなかでは経済性が求められ、 そういった状況では装飾の排除は必然的なものだった と理解できる。また、そういった状況の中でも航空学 教室と原子核実験室という軍事研究に繋がる施設*11 は RC 造でつくられ、国のための研究・生産施設として、 むしろ工場建築に近い感覚で営繕活動が行われていた のではないだろうか。

5 章 結

 九州帝大における近代化はその社会的要求によって 押し進められてものだった。昭和初頭までは新しい構 造に対する技術力と、その威厳とアイデンティティの 表現としての営繕活動が求められていたが、昭和 10 年前後に戦時体制へと移行する中で経済性と国のため の研究・生産施設としての営繕活動が求められるよう になった。九州帝大建築課は個人の指向によらずあく まで帝大の附属組織として営繕活動を行っていたから こそ、その社会的要求の影響を強く受け、それが装飾 の排除という意匠性の変化としてわかりやすく現れた のではないだろうか。また、その変化が現代からみる と急激な近代化として捉えられる。  以上のように九州大学に現存する初期 RC 造建築の 変遷を考察することで、中央での「近代建築運動」と して語られる近代化とは異なる背景と意味をもつ、地 方都市における近代化の様相が垣間見られた。 図13 九州帝大建築課の技師 8)より筆者作成 図15 九州帝大における新築工事物件数の推移 筆者作成*9 【謝辞】 史料調査にご協力いただいた九州大学文書館の皆様、現物調査にご協力いただいた福 岡県立福岡高等学校の皆様、アサヒコーポレーションの皆様に深謝いたします。 【注釈】 *1 1)の調査対象となっているものを指す。平成29年2月現在、現存していないもの もあるが現物調査は取り壊し工事以前に行った。 *2 図面と仕様書については、九州大学文書館に施設部移管資料として保管されてい る資料を用いた。 *3 大正13年に「構造強度計算基準」が日本初の耐震構造設計基準としてつくられ、 耐震壁の厚さ・配筋方法、開口部には対角筋を挿入するなどの規定がなされている。 *4 SRC基準の基本体系となる「鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)計算基準」は昭和 33年に制定され、これまで設計法に関して特別な基準はなかった。 *5 設計者は福岡県土木技師の三條榮三郎と校史に記されているが、福岡県初代建築 課長の薄輿荘とする説もありその実際は不明である。6) 現物から調査をした。 *6 設計者は日本足袋株式会社を設立した石橋徳次郎の建築顧問をしていた松田昌平 とされてきたが、確かな証拠はなく、意匠の類似点などから九州帝大建築課が関与し ている可能性も考えられる。現物と設計図より調査を行った。 *7 当時の逓信省営繕課の中では設計方針として合理化、経済化が挙げられ、その方 針に則した具体的な標準仕様作成が進められていた。7) *8 各務の経歴は不明で、豊田は建築技術者ではなかった。 *9九州大学文書館に施設部移管資料として保管されている資料及び参考文献4)から 作成した。 *10 福岡県営繕組織も昭和11年ごろを境に急激に収縮しており、この現象は九州帝 大内だけでおこった現象ではなかった。 *11 航空学教室が戦前に建ったRC造建築としては最後のもので、原子核実験室は戦 時中に唯一建てられたRC造建築である。航空学科は軍事交通用としての工学的研究 の必要性から昭和8年に東大に次ぎ国内で2番目に設置された。原子核実験室は当時 西日本唯一の原子核実験施設で、当初昭和15年竣工予定だったのものが途中でその 計画が頓挫し、戦時中の国からの要請で昭和19年に竣工した。  【参考文献】 1) 九州大学箱崎キャンパスにおける近代建築物の評価報告書 /2012/ 九州大学箱崎 キャンパスにおける近代建築物の調査ワーキンググループ 2) 大学とキャンパス空間 /2002/ 福田晴虔「大学とはなにか」新谷恭明 折田悦郎編 3)拙稿「九州帝国大学における倉田謙を含む営繕組織の建築活動に関する一考察」/ 「平成26年度九州大学工学部建築学科建築学研究卒業論文梗概集」 4)平成17年九州大学箱崎キャンパス内歴史的資源の現況調査成果報告書/2007/九州 大学 5)九州大学旧工学部本館の構造評価に関する研究—歴史的RC造建物の再利用方法— /2010/渕上貴代「平成23年度九州大学大学院人間環境学研究修士論文梗概集」 6)福岡県立福岡高等学校校舎 現役の旧制中学校舎:その沿革と文化財的価値/2013/ 福岡県文化財保護審議会有形部会専門委員 山野善郎 7)逓信省の建築/1933/張菅雄「高等建築學一九」 8)九州帝国大学の営繕組織に関する基礎的研究-その沿革と技術職員の構成-/2013/西 山雄大「平成24年度九州大学工学部建築学科建築学研究卒業論文梗概集」 0 10 30 35 20 13 14 15 12 11 10 2345678910111213 14 15 16 17 18 19 20 昭和 大正 煉瓦造 木造 RC 造 0 2 4 6 8 10 13 14 15 12 11 10 大正2昭和345678910111213 14 15 16 17 18 19 20 図14 九州帝大建築課の人員数の推移 8)より筆者作成

参照

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