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Vol.66 , No.2(2018)064村上 明宏「定静慮(dhyana-samapatti)に関する問題」

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(1)

印度學佛敎學硏究第66巻第2号 平成30年3月 (112) ― 863 ―

定静慮(

dhyāna-samāpatti

)に関する問題

村 上 明 宏

0.

 はじめに

Abhidharmakośabhāṣya(以下AKBh.)Samāpatti-nirdeśa(以下「定品」)において,色 界・無色界の禅定体系を根本定と呼ぶ(AKBh. 436.12–13).この根本定のうち,色 界の等至(samāpatti)である静慮(dhyāna)には,生静慮(dhyāna-upapatti)と定静慮

(dhyāna-samāpatti)の二種がある.生静慮は上地の十七天に再び生を受けて再生す る状態のことである.それに対して,定静慮は現世において,色界の等至である 静慮に入る状態のことである.生静慮に関しては,具体的に「上地の十七天への 再生」(AKBh. 111.15)と示され,その状態がいかなるものか,比較的理解しやすい. しかし,定静慮の状態に関しては,それがいかなる状態であるのか,管見の限 り,明確にされていないように思われる.しかも,その状態に関して,有部と経 量部では見解に相違が見られるようである.この定静慮とは,どのような状態を 言うのかを明確にし,また,それに関する問題を考察してみたい. 1.

 定静慮(

dhyāna-samāpatti

)について

定静慮は色界の等至である.その色界の状態については,AKBh. Dhātu-nirdeśa (以下「界品」)で説明される.そこでは,十八界に則していえば,色界は十四界, 十八界のうちの香と味,鼻識と舌識を除いた状態を言う(AKBh. 20.19–23),と説明 される.また,定静慮は,AKBh.「定品」では,「定静慮は清浄なる集中力( śubha-ekāgrya)である.定静慮における四静慮を区別しなければ,静慮は善心に集中す ること(kuśala-citta-ekāgratā)である.すなわち,三昧(samādhi)を自性とするから である.しかし,五蘊(pan͂ca-skandha)を伴っているから五蘊も自性である」(AKBh. 432.12–15, 趣意)と説かれる.これは『阿毘達磨順正理論』(以下『順正理論』)でも 同様に説かれる(T29. 756b7–25).静慮には初静慮から第四静慮までの四種がある. 「初」 か ら「第 四」 と い う 数 の 区 別 は あ る が, 総 合 的 に 見 て「静 慮」 に 相

(2)

(113) 定静慮(dhyāna-samāpatti)に関する問題(村 上) ― 862 ― (lakṣaṇa)の区別はない.「静慮」はすべて善の性質にまとめられる.心の一境性 (集中力)は善の等持(samādhi)を自性とするからである.そして,五蘊を伴うか ら五蘊も自性である.善の等持と五蘊を自性とする相に関しては,生静慮と定静 慮の区別はない.しかし,静慮の「地」には差異がある.故に「初」から「第 四」までの静慮を区別する.このように,AKBh.と『順正理論』において,定静 慮に関する自性は善の等持(samādhi)と五蘊であり,その相(lakṣaṇa)に関しては 生静慮も定静慮も区別が無いと説き,どちらも同様の見解である.しかし,

AKBh.の 釈書である称友(Yaśomitra)のSphuṭārthā Abhidharma kośavyākhyā(以下

AKV.)には,先に述べたAKBh. と『順正理論』とは相違する解釈が見られる.そ こでは「この二つの果としての静慮(kārya-dhyāna, すなわち,生静慮)と因としての 静慮(kāraṇa-dhyāna,すなわち,定静慮)には共通して清浄の心一境性(śubhānām cittānām aikāgryam)の相(lakṣaṇa)がある.それは三昧(samādhi)を自性とするから である.すなわち,生静慮と定静慮に共通する自性が三昧である.しかし,生静 慮と定静慮の区別は五蘊を伴うことに関しての相違である.定静慮が伴う色蘊は 無表色(avijn͂apti-rūpa)である」(AKV. 663.10–14, 趣意)と説いている.ここでは,生 静慮と定静慮の区別は五蘊を伴うことについて,生静慮は五蘊の全体を伴うが, 定静慮が伴う色蘊は無表色(avijn͂apti-rūpa)のみに限定されると解釈できる. 2.

 定静慮の状態

では,定静慮の状態とはいかなるものか.AKBh.「界品」の色界繋の説明では 「他の人々」の説が引用される(AKBh. 21.2–4).定静慮とは,ここ[の現世]に (iha)身を置きながら色界の禅定,すなわち静慮に入る状態であるとされている. こ こ で 問 題 と な る の は iha の 解 釈 で あ る. こ こ で 指 す iha と は 何 か. こ の iha を 安 慧(Sthiramati)の Abhidharmakośa-bhāṣya-ṭīkā tattvārthā-nāma(以Sthiramati.)と 満 増(Pūrṇavardhana)のAbhidharmakośa-ṭīkā-lakṣaṇānusāriṇī(以 下

Pūrṇavardhana.)と普光の『倶舎論記』では「欲界」と解釈する1).この三者によれ

ば,iha が指すものは「欲界」であると解釈できる.すなわち,定静慮の状態 とは,「欲界に身を置きながら静慮に入り,色界を見聞きする」ということであ る.また,ここで述べられる「他の人々」とは誰か.これに関してはすでに加藤

[1989: 333]で述べられている.称友,安慧,満増の 釈によれば,「他の人々」

とはŚrīlātaのことであり,これはŚrīlātaの説である.このことから,Śrīlātaを大 徳あるいは論師とする経量部は,ここでの iha を「欲界」と考え,定静慮に入

(3)

(114) 定静慮(dhyāna-samāpatti)に関する問題(村 上) ― 861 ― ることを,「欲界に身を置きながら静慮に入る状態」であると捉えていたことが 理解される.この見解に関して,『順正理論』でも同様に述べられるから(T29. 349b20–22),有部の見解も同じであったと考えられる.すなわち,欲界に身を置 きながら静慮に入る状態が定静慮である. 3.

 経量部と有部の見解の相違

経量部でも有部でも,定静慮の状態は「欲界に身を置きながら静慮に入る状 態」であった.しかし,称友はAKV.で生静慮と定静慮を区別する際に,定静慮 で言われる五蘊の中の色蘊を「無表色である」と 釈していた.AKV.では,定 静慮の場合,身は欲界にあるままであるが,「五蘊を伴う」という場合の五蘊中 の色蘊に該当するものは無表色であるということである.それに対して,生静慮 の場合は身もまた色界にあるということである.それが称友が言う「生静慮と定 静慮の区別」である.しかしながら,経量部は無表色を認めない.恐らく称友 は,この箇所の 釈において,純粋にAKBh.の文言を 釈し,有部の見解を示 したものであろう.その証左はAKV.の無表色についての箇所から見出せる (AKV. 29.29–31).そこでは有部の見解を示している.その有部の見解は,無表色 が所依(āśraya)としての大種であるということである.有部が定静慮における所 依としての色蘊を無表色と考えていたことが示されている.このことから,称友 が生静慮と定静慮を区別するに際して,定静慮で言われる五蘊の中の色蘊を「無 表色である」と 釈していたのは有部の見解であったことが知られるのである. では,無表色を認めない経量部では,どのように考えていたのだろうか.この点 についても,AKV.で述べられている(AKV. 30.9–20).そこでは,まず,無表は 「表と三昧から生じた善・不善の色である」と説かれる.また,その中の「三昧 (samādhi)から生じたものは善のみである.有漏の三昧から生じたものは静慮律 儀を自性とする.無漏の三昧から生じたものは無漏律儀を自性とする.また,所 造色を自性とする.そして心・心所などが自性となるのではない,そのように理 解されなければならない」と説かれる.経量部における定静慮の状態では,無表 色が所依となるのではない.三昧によって生じた善なる静慮律儀・無漏律儀を自 性とするのである.しかし,その律儀であるものは他に知らしめられていない. それが表(vijn͂apti)として知らしめられる場合に,その所造色が自性となるとみ なすことができる.色界における「天眼・天耳に関しても,三昧から生じ,表か ら生じた異熟の色(vipāka-rūpa)である」と説かれ,無表色を所依とするのではな

(4)

(115) 定静慮(dhyāna-samāpatti)に関する問題(村 上) ― 860 ― い.色界の定静慮における色は三昧から生じた善なる異熟の色であるということ である.経量部が,色界において,無表色を所依とせず,そこでの色を三昧から 生じた異熟の色であるとするということは,定静慮を身とは切り離した精神的構 造の世界とのみ想定していたことを示していると考えられる.無表色を認めない 経量部では,あくまで,所依となるのは欲界の身であると考えられる.一方で, 有部は色界の等至である定静慮において所依となるのは無表色であると想定して いたとみなすことができる.これは定静慮という精神的構造の世界にも所依とな る無表色という色法を想定していたことを示していると考えられる.経量部と有 部には,このような見解の相違があったと推察されるのである. 4.

 おわりに

定静慮とは現世において,色界の等至である静慮に入ることである.その定静 慮の状態は,欲界に身を置きながら静慮に入ることである.有部の立場と経量部 の立場では,定静慮に入定した場合の所依に対する見解に相違が見られる.無表 色を認める有部では定静慮の所依となるのは無表色である.しかし,無表色を認 めない経量部は,その所依は欲界の身であり,定静慮における色は三昧によって 生じた異熟の色であると考えている.これは,経量部が定静慮を色界の身とは切 り離した精神的構造の世界とのみ想定していたことを示している.それに対して 有部は,その精神的構造の世界の中にも所依となる色(無表色)を想定して,身 から切り離されているのではないと考えていたと推察できる.

1)加藤[1989: 339, fn. 6]. Sthiramati., Peking, vol. 146, 237.3.6–7; Pūrṇavardhana., Peking, vol.

117, 115.2.5; 『倶舎論記』T41.37a16–20. 〈一次資料〉

AKBh.: Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research

Insti-tute, 1967.   Pūravardhana.: Abhidharmakośa-ṭīkā-lakṣaṇānusāriṇī no. 5594.   AKV.:

Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā. Ed. Unrai Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1971.   

Sthiramati.: Abhidharmakośa-bhāṣya-ṭīkā tattvārthā-nāma no. 5875.   『阿毘達磨倶舎論』T no. 1558.   『阿毘達磨倶舎釈論』T no. 1559.   『阿毘達磨順正理論』T no. 1562.

〈二次資料〉

加藤純章 1989『経量部の研究』春秋社.

〈キーワード〉 生静慮,定静慮,無表色,経量部,説一切有部

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