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Vol.65 , No.1(2016)044川尻 洋平「シヴァ教再認識派におけるpratibhaについて」

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(1)

シヴァ教再認識派における pratibhā について

川 尻 洋 平

0. 

pratibhā(「閃き」「直観」「現出」「現れ」)は,文法学の伝統においては文の意味 として,詩論の伝統においては詩人のもつ詩的な閃きを意味する術語として議論 されてきた.pratibhā に関して,インド哲学諸派の見解を論じた Kaviraj 1923–1924 以来,いくつかの研究がなされているが,ほとんどが文法学の伝統,詩論の伝統 における pratibhā を論じたものであり,シヴァ教再認識派の pratibhā については 十分に研究されているとは言い難い1).ウトパラデーヴァ(ca. 925–975)は,自著

Īśvarapratyabhijñākārikā(以下 ĪPK)において pratibhā という語を ābhāsa(顕現)の 同義語として使用し,近年断片的に発見されつつある Īśvarapratyabhijñāvivṛti(以 下 ĪPViv)でも pratibhā について特に説明を与えていない2).一方,アビナヴァグ

プタ(ca. 975–1025)は,Īśvarapratyabhijñāvimarśinī(以下 ĪPV)および

Īśvarapratya-bhijñāvivṛtivimarśinī(以下 ĪPVV)において pratibhā に対してウトパラデーヴァには 見られない注釈を与えている. アビナヴァグプタの解釈は,彼自身の独創であるのか,それともウトパラデー ヴァによってすでに意図されていたものなのか.アビナヴァグプタが文法学や詩 論にも精通していたことはよく知られているように,その影響も考慮すべきであ ることはいうまでもないが,本稿では特に再認識派の神学理論に焦点を絞り,ア ビナヴァグプタの pratibhā 解釈を検討することを通じて,その解釈の背景にある 再認識派神学理論を明らかにする.

1. 

ウトパラデーヴァは,ĪPK において,pratibhā という語を二度使用する.まず ĪPK1.6.3 では,概念知(vikalpa)とは何かを論じる文脈で pratibhā という語を使用 し,他方 ĪPK1.7.1 では,認識を始めとする能力が唯一の主体とは別に存在しない ことを論じる文脈で使用している. ウトパラデーヴァは,前者に対する Īśvarapratyabhijñāvṛtti(以下 ĪPVṛ)におい て,pratibhā を認識主体に内在している対象の ābhāsa「顕現」と換言し3),後者に 以上の文献の多くは都城工業高等専門学校の藤永伸先生,筑紫女学園大学の宇野智行 先生のご厚意によって参照させていただいたものである.ここに記してお二人に感謝申 し上げたい. 〈参考文献〉

Bhargava, Dayanand. 1968. Jaina Ethics. Delhi: Motilal Banarsidass.

Sogani, Kamal Chand. 1967. Ethical Doctrines in Jainism. Solāpūr: Jaina Saṃskṛti Saṃrakṣaka Sangha.

Williams, R. 1963. Jaina Yoga: A Survey of the Mediaeval Śrāvakācāras. London: Oxford University Press. 上村勝彦訳 1984『カウティリヤ実利論――古代インドの帝王学――』上・下,岩波書店. 堀田和義 2011「宗教的生命倫理に基づく食のタブー――禁止された食物と不殺生――」 『死生学研究』16: (172)–(194). ――― 2015「生き物を殺さないための性的禁欲――ジャイナ教在家信者の行動規範を中 心に――」『印仏研』63 (2): 223–228. 渡瀬信之訳注 2013『マヌ法典』東洋文庫 812,平凡社. (平成 28 年度科学研究費 16K16699 による研究成果の一部) 〈キーワード〉 シュラーヴァカ・アーチャーラ文献,vyasana (大谷大学真宗総合研究所特別研究員,博士(文学)) 平岡聡 著

〈業〉とは何か 行為と道徳の仏教思想史

四六版・268 頁・本体価格 1,600 円 筑摩書房・2016 年 10 月 新刊紹介

(2)

きである.このような「私に」という表現を欠くのは,対象である壺に対する欲 求に支配され,拠り所である「私」を忘れているからである8) そしてバースカラカンタは次のように帰結する. そしてそれゆえ,まったく明らかに「壺が現出している」(pratibhāti ghaṭaḥ)というこの [表現]において,現出が認識主体に依拠することは prati という動詞前接辞(upasarga) によって示唆される.そして,[現出が]認識主体に依拠する場合,外在性は不合理であ る.そして,その[外在性]が不合理である場合,まさに対象であることが不合理であ る.以上.(Bh I 349) prati という動詞前接辞は現出が認識主体に依拠することを示唆している.現出 が認識主体に依拠する場合,現出は外的なものではなく必ず認識主体の内部に起 こっているものであり,現出が内的なものである限り,現出が対象の側で起こっ ているということもないのである. したがって,pratibhā もまた必ず認識主体に現れることが示唆されよう.その 場合,pratibhā は「現出」というよりも「主体への現出」という側面が強調され た表現といえよう.アビナヴァグプタは,māṃ prati bhāti という表現を通じて, pratibhā が必ず「私」という主体に現れ出るものであることを示唆している.

4. 

アビナヴァグプタは,現出が認識主体に依拠することの根拠として「現出し ているまさにそれの結果として,あらゆるものが現出する.それの光によってこ のあらゆるものは輝く」(KaṭhU 5.15: tam eva bhāntam anu bhāti sarvaṃ tasya bhāsā sarvam idaṃ vibhāti)という言明を引用する9).アビナヴァグプタによれば,ここで使用さ

れるカルマプラヴァチャニーヤ(karmapravacanīya)anu は,徴候(lakṣaṇa)という関 係を標示している.あらゆるものの現出は,現出しているもの,究極的には主宰 神シヴァによって示唆される.そしてこの徴候関係は把捉関係でもある.したがっ て,あらゆるものは最高認識主体であるシヴァによって把握されており,究極的 には,シヴァに依拠してあらゆるものは現出しているのである. さらにアビナヴァグプタは,チャンドラーナンダ10)の言明にも言及する. まさにそのことから,バッタ・チャンドラーナンダは, 姿を見ているものに現出している(bhātaḥ)11)表象(ālekha)に基づいて,現出物と結 びついた現れ(pratīpabhāna)が起こる.その[現れ]が諸事物の pratibhā である というように存在物の属性として直接表現しているとしても,「[pratibhā は]自己を拠り所 とするものである」(ātmasaṃśrayā)というように,[pratibhā が]認識にのみ休らうもので あることを述べている.ただ単に対象の表象と結びついていることから,まさに認識を本質 とするその現出(pratibhāna)が,外在性や有順序性などの属性の拠り所になる.(ĪPVV II 349) 対する ĪPVṛ では,pratibhā は対象の順序が現れた ābhāsa「顕現」であり,その pratibhā は,内在している限り,対象の順序を欠く認識主体に他ならないと述べ ている.ウトパラデーヴァにとって,pratibhā は対象の顕現あるいは現れである. そしてその対象の現れである pratibhā は,内在している限り,つまり「私」とい う形で内向的である限り,順序を欠く認識主体に等しいものである.マーヤー段 階では,pratibhā は対象の順序という形で個別の対象を伴って現れるが,最終的 に「私」に帰着する時には,そのような個別の対象は現れず,順序を欠く認識主 体と同一視される.

2. 

これに対して,アビナヴァグプタは,まず ĪPK1.6.3 における pratibhā を abhāsa 「顕現」と注釈する4).ここではウトパラデーヴァが ĪPVṛ で述べたことを踏襲し ており,特に言葉を費やして pratibhā を説明していない.一方 ĪPK1.7.1 に対する 注釈では,アビナヴァグプタは pratibhā について次のように述べる. たとえ「壺が現出している」(pratibhāti ghaṭaḥ)というように,まさに対象を包含する (upaśliṣṭa)現出(pratibhāna)が現れるとしても,その[現出]は,対象に固有の本体で はなく,認識に他ならないその[現出]がそのように[対象を包含するものとして]輝 く.なぜなら[現出は]「私に現出している」(māṃ prati bhāti)というように認識主体に 依存するからである.(ĪPV I 277) 「壺が現出している」という表現は,一見した所,対象である壺が現出行為の主 体であるかのようにみえる.しかし,実際には,対象である壺にそのような現出 という行為があるのではなく,認識が対象である壺を含んで現れている.なぜな ら,現出すなわち認識は必ず認識主体に依拠して現れるからである5) 認識は,再認識派において,「私」という認識主体と別個に存在するものではな い6).他方,対象もまた認識主体と別個には存在しない.必ず「私に青が現出し

ている」(mama nīlaṃ bhāti)あるいは「私によって青が知られている」(mayā nīlaṃ jñāyate)というように認識主体に依拠して知られる7).再認識派にとって,認識と 対象には必ず「私」が付随するのである.

3. 

上述のアビナヴァグプタの注釈の中で注目すべきは「私に現出している」(māṃ prati bhāti)という表現であろう.これに対するバースカラカンタ(17 世紀後半)の 注釈によれば,prati という語は,壺が現出行為の行為主体であることを抑制する もの(nivāraka)であり,認識主体に現出能力をもたらすものである.prati にこの ような意味がなければ,pratibhāti ではなく bhāti と述べるべきであろう.しかし, その場合には,「私に」(māṃ prati)というように現出行為の拠り所が言明されるべ

(3)

きである.このような「私に」という表現を欠くのは,対象である壺に対する欲 求に支配され,拠り所である「私」を忘れているからである8) そしてバースカラカンタは次のように帰結する. そしてそれゆえ,まったく明らかに「壺が現出している」(pratibhāti ghaṭaḥ)というこの [表現]において,現出が認識主体に依拠することは prati という動詞前接辞(upasarga) によって示唆される.そして,[現出が]認識主体に依拠する場合,外在性は不合理であ る.そして,その[外在性]が不合理である場合,まさに対象であることが不合理であ る.以上.(Bh I 349) prati という動詞前接辞は現出が認識主体に依拠することを示唆している.現出 が認識主体に依拠する場合,現出は外的なものではなく必ず認識主体の内部に起 こっているものであり,現出が内的なものである限り,現出が対象の側で起こっ ているということもないのである. したがって,pratibhā もまた必ず認識主体に現れることが示唆されよう.その 場合,pratibhā は「現出」というよりも「主体への現出」という側面が強調され た表現といえよう.アビナヴァグプタは,māṃ prati bhāti という表現を通じて, pratibhā が必ず「私」という主体に現れ出るものであることを示唆している.

4. 

アビナヴァグプタは,現出が認識主体に依拠することの根拠として「現出し ているまさにそれの結果として,あらゆるものが現出する.それの光によってこ のあらゆるものは輝く」(KaṭhU 5.15: tam eva bhāntam anu bhāti sarvaṃ tasya bhāsā sarvam idaṃ vibhāti)という言明を引用する9).アビナヴァグプタによれば,ここで使用さ

れるカルマプラヴァチャニーヤ(karmapravacanīya)anu は,徴候(lakṣaṇa)という関 係を標示している.あらゆるものの現出は,現出しているもの,究極的には主宰 神シヴァによって示唆される.そしてこの徴候関係は把捉関係でもある.したがっ て,あらゆるものは最高認識主体であるシヴァによって把握されており,究極的 には,シヴァに依拠してあらゆるものは現出しているのである. さらにアビナヴァグプタは,チャンドラーナンダ10)の言明にも言及する. まさにそのことから,バッタ・チャンドラーナンダは, 姿を見ているものに現出している(bhātaḥ)11)表象(ālekha)に基づいて,現出物と結 びついた現れ(pratīpabhāna)が起こる.その[現れ]が諸事物の pratibhā である というように存在物の属性として直接表現しているとしても,「[pratibhā は]自己を拠り所 とするものである」(ātmasaṃśrayā)というように,[pratibhā が]認識にのみ休らうもので あることを述べている.ただ単に対象の表象と結びついていることから,まさに認識を本質 とするその現出(pratibhāna)が,外在性や有順序性などの属性の拠り所になる.(ĪPVV II 349) 対する ĪPVṛ では,pratibhā は対象の順序が現れた ābhāsa「顕現」であり,その pratibhā は,内在している限り,対象の順序を欠く認識主体に他ならないと述べ ている.ウトパラデーヴァにとって,pratibhā は対象の顕現あるいは現れである. そしてその対象の現れである pratibhā は,内在している限り,つまり「私」とい う形で内向的である限り,順序を欠く認識主体に等しいものである.マーヤー段 階では,pratibhā は対象の順序という形で個別の対象を伴って現れるが,最終的 に「私」に帰着する時には,そのような個別の対象は現れず,順序を欠く認識主 体と同一視される.

2. 

これに対して,アビナヴァグプタは,まず ĪPK1.6.3 における pratibhā を abhāsa 「顕現」と注釈する4).ここではウトパラデーヴァが ĪPVṛ で述べたことを踏襲し ており,特に言葉を費やして pratibhā を説明していない.一方 ĪPK1.7.1 に対する 注釈では,アビナヴァグプタは pratibhā について次のように述べる. たとえ「壺が現出している」(pratibhāti ghaṭaḥ)というように,まさに対象を包含する (upaśliṣṭa)現出(pratibhāna)が現れるとしても,その[現出]は,対象に固有の本体で はなく,認識に他ならないその[現出]がそのように[対象を包含するものとして]輝 く.なぜなら[現出は]「私に現出している」(māṃ prati bhāti)というように認識主体に 依存するからである.(ĪPV I 277) 「壺が現出している」という表現は,一見した所,対象である壺が現出行為の主 体であるかのようにみえる.しかし,実際には,対象である壺にそのような現出 という行為があるのではなく,認識が対象である壺を含んで現れている.なぜな ら,現出すなわち認識は必ず認識主体に依拠して現れるからである5) 認識は,再認識派において,「私」という認識主体と別個に存在するものではな い6).他方,対象もまた認識主体と別個には存在しない.必ず「私に青が現出し

ている」(mama nīlaṃ bhāti)あるいは「私によって青が知られている」(mayā nīlaṃ jñāyate)というように認識主体に依拠して知られる7).再認識派にとって,認識と 対象には必ず「私」が付随するのである.

3. 

上述のアビナヴァグプタの注釈の中で注目すべきは「私に現出している」(māṃ prati bhāti)という表現であろう.これに対するバースカラカンタ(17 世紀後半)の 注釈によれば,prati という語は,壺が現出行為の行為主体であることを抑制する もの(nivāraka)であり,認識主体に現出能力をもたらすものである.prati にこの ような意味がなければ,pratibhāti ではなく bhāti と述べるべきであろう.しかし, その場合には,「私に」(māṃ prati)というように現出行為の拠り所が言明されるべ

(4)

唆される.pratibhā は,「現れ」「現出」という意味で,基本的には「顕現」を意 味する ābhāsa と同義語であるが,認識主体に必ず現れるものであるということを 示している.この場合,pratibhā は「主体への現出」あるいは「私」という主体 に向かって現れることから「内向的現出」と理解されよう. アビナヴァグプタのこのような解釈は,ウトパラデーヴァが当該の偈において pratibhā と認識主体を同一視することによって示した,「認識と対象は認識主体を 離れては存在しえない」というシヴァ一元論の見解を反映したものである. 1)数少ない例外として Kuanpoonpol 1991 や Torella 2013 が挙げられる.詩論における pratibhā については上村 1999, 304–340 参照.バルトリハリにおける pratibhā については Ogawa, forthcoming 参照.   2)ĪPViv 断片に関する最新の成果については Kawajiri 2016, Ratié, forthcoming を参照されたい.   3)再認識派にとって,ābhāsa は「光照」 (prakāśa)などの術語と区別されずに用いられるが,ābhāsa は限定的な顕現の意味で用い

られる場合もある.その場合,主宰神シヴァは,「顕現を欠くもの」(nirābhāsa)であり, それに比して,「僅かに劣る顕現」(ābhāsa)というように理解される.アビナヴァグプタ は,「顕現を欠くもの」を認識主体と認識対象に分化しておらず,認識主体のみを本質と するものと注釈する.See ĪPVV I 141, ĪPVV III 271.   4)See ĪPV I 244.   5)アビ ナヴァグプタは,ĪPVV でも,pratibhā が認識主体のみに依拠して現出することを明示し ている.See ĪPVV II 339.   6)See ĪPK1.1.5 and ĪPV I 45–46.   7)See ĪPK1.1.4 and ĪPV I 41–42.   8)See Bh I 348–349.   9)See ĪPV I 278.   10)ヴァイシェーシ カ学派において知られる人物とは別人であろうが,詳細は不明である.   11)2015 年 9 月に筑波大学で開催された Tsukuba Intensive Sanskrit Reading 2015 において,Alexis Sanderson によって bhāti の可能性が指摘されている.   12)See ĪPV I 235.   13)See Kawajiri, forthcoming.   

〈略号〉

Bh Bhāskarī by Bhāskarakaṇṭha. In Īśvarapratyabhijñāvimarśinī of Abhinavagupta. Ed. K. A.

S. Iyer and K. C. Pandey. 2 vols. Delhi: Motilal Banarsidass, 1986. ĪPK Īśvarapratyabhijñākārikā by Utpaladeva. See Torella 2002.

ĪPVṛ Īśvarapratyabhijñāvṛtti by Utpaladeva. See Torella 2002.

ĪPViv Īśvarapratyabhijñāvivṛti by Utpaladeva. See Kawajiri, forthcoming.

ĪPV Īśvarapratyabhijñāvimarśinī by Abhinavagupta. The Īśvarapratyabhijñā of Utpaladeva, with Commentary by Abhinavagupta. Ed. Mukund Rām Shastri. 2 vols. KSTS 22, 33.

Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1918–1921.

ĪPVV Īśvarapratyabhijñāvivṛtivimarśinī by Abhinavagupta. The

Īśvarapratyabhijñāvivṛti-vimarśinī by Abhinavagupta. Ed. Madhusudan Kaul Shastri. 3 vols. KSTS 60, 62, 65.

Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1938–1943.

KaṭhU Kaṭha-Upaniṣad. In Ten Principal Upanishads with Śāṅkarabhāṣya. Delhi: Motilal アビナヴァグプタによれば,チャンドラーナンダが述べているように,pratibhā は,自己を拠り所とするものであり,認識にのみ休らうものである.たとえ pratibhā が存在物の属性であるかのように述べられているとしてもそうではない.pratibhā は,対象の側にあるものではなく,必ず認識を本質とする主体に現れるものであ り,「私に現れる」「私に認識される」という形をとる. pratibhā は主体に現れるが,一方で対象も pratibhā と結びついていることをチャ ンドラーナンダは述べている.そして対象と pratibhā の結びつきは,認識してい るものに現れている表象の力に基づく.つまり,ただ対象が現れているという事 実だけによって対象と pratibhā の結びつきは正当化される.再認識派にとって, 顕現しているものは究極的真理であるから12),対象と pratibhā の結びつきは否定 されえない.よって,pratibhā は必ず主体に依拠し,対象を伴うものである.

5. 

pratibhā は個別の対象を伴って現れるものであるが,究極的にはそのような個 別性は pratibhā にはない.そのことをアビナヴァグプタは次のように述べる. そして[ĪPK 中の]eṣā とは,あらゆるものにある自照を本質とする[pratibhā]である. しかし究極的には内向的なものとして,光照のみを究極的真理とするものであるがゆえ に,差異がないから,「[この pratibhā は]順序を欠く」.(ĪPV I 279) pratibhā は,対象を認識しているすべてのものに現れる.そのことは,あらゆ るものにとって自明である.しかし,究極的には,pratibhā は「私」というよう に自己に向かう内向的なものであり,主客に分化していない清浄な光照のみを本 質とする.つまり,「これ」としての現れが「私」という拠り所に休らい差異が帰 滅する時,pratibhā は差異を欠く純粋光照である.

6. 

興味深いことに,ウトパラデーヴァは,ĪPViv 断片や ĪPVV を見る限り13) ĪPViv においてもアビナヴァグプタの上述のような解釈には触れていない.しか し,それは,このような解釈がアビナヴァグプタの独創であることを意味しない. ウトパラデーヴァが,「現出」を意味する pratibhā と主体を同一視していることを 踏まえて,アビナヴァグプタは pratibhā を単に「現出」ではなく「主体への現出」 を意味する語として注釈したのである.

7. 

ウトパラデーヴァにとって,ĪPK における pratibhā は単に「現出」を表す語 にすぎない.重要なことは,順序を伴う pratibhā が,内向的なものである限り, 順序を欠く最高認識主体に同定されるということである. アビナヴァグプタの pratibhā 解釈において重要な点は,pratibhā は認識主体にの み依拠して現れるということである.そしてこのことは prati という語によって示

(5)

唆される.pratibhā は,「現れ」「現出」という意味で,基本的には「顕現」を意 味する ābhāsa と同義語であるが,認識主体に必ず現れるものであるということを 示している.この場合,pratibhā は「主体への現出」あるいは「私」という主体 に向かって現れることから「内向的現出」と理解されよう. アビナヴァグプタのこのような解釈は,ウトパラデーヴァが当該の偈において pratibhā と認識主体を同一視することによって示した,「認識と対象は認識主体を 離れては存在しえない」というシヴァ一元論の見解を反映したものである. 1)数少ない例外として Kuanpoonpol 1991 や Torella 2013 が挙げられる.詩論における pratibhā については上村 1999, 304–340 参照.バルトリハリにおける pratibhā については Ogawa, forthcoming 参照.   2)ĪPViv 断片に関する最新の成果については Kawajiri 2016, Ratié, forthcoming を参照されたい.   3)再認識派にとって,ābhāsa は「光照」 (prakāśa)などの術語と区別されずに用いられるが,ābhāsa は限定的な顕現の意味で用い

られる場合もある.その場合,主宰神シヴァは,「顕現を欠くもの」(nirābhāsa)であり, それに比して,「僅かに劣る顕現」(ābhāsa)というように理解される.アビナヴァグプタ は,「顕現を欠くもの」を認識主体と認識対象に分化しておらず,認識主体のみを本質と するものと注釈する.See ĪPVV I 141, ĪPVV III 271.   4)See ĪPV I 244.   5)アビ ナヴァグプタは,ĪPVV でも,pratibhā が認識主体のみに依拠して現出することを明示し ている.See ĪPVV II 339.   6)See ĪPK1.1.5 and ĪPV I 45–46.   7)See ĪPK1.1.4 and ĪPV I 41–42.   8)See Bh I 348–349.   9)See ĪPV I 278.   10)ヴァイシェーシ カ学派において知られる人物とは別人であろうが,詳細は不明である.   11)2015 年 9 月に筑波大学で開催された Tsukuba Intensive Sanskrit Reading 2015 において,Alexis Sanderson によって bhāti の可能性が指摘されている.   12)See ĪPV I 235.   13)See Kawajiri, forthcoming.   

〈略号〉

Bh Bhāskarī by Bhāskarakaṇṭha. In Īśvarapratyabhijñāvimarśinī of Abhinavagupta. Ed. K. A.

S. Iyer and K. C. Pandey. 2 vols. Delhi: Motilal Banarsidass, 1986. ĪPK Īśvarapratyabhijñākārikā by Utpaladeva. See Torella 2002.

ĪPVṛ Īśvarapratyabhijñāvṛtti by Utpaladeva. See Torella 2002.

ĪPViv Īśvarapratyabhijñāvivṛti by Utpaladeva. See Kawajiri, forthcoming.

ĪPV Īśvarapratyabhijñāvimarśinī by Abhinavagupta. The Īśvarapratyabhijñā of Utpaladeva, with Commentary by Abhinavagupta. Ed. Mukund Rām Shastri. 2 vols. KSTS 22, 33.

Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1918–1921.

ĪPVV Īśvarapratyabhijñāvivṛtivimarśinī by Abhinavagupta. The

Īśvarapratyabhijñāvivṛti-vimarśinī by Abhinavagupta. Ed. Madhusudan Kaul Shastri. 3 vols. KSTS 60, 62, 65.

Bombay: Nirnaya Sagar Press, 1938–1943.

KaṭhU Kaṭha-Upaniṣad. In Ten Principal Upanishads with Śāṅkarabhāṣya. Delhi: Motilal アビナヴァグプタによれば,チャンドラーナンダが述べているように,pratibhā は,自己を拠り所とするものであり,認識にのみ休らうものである.たとえ pratibhā が存在物の属性であるかのように述べられているとしてもそうではない.pratibhā は,対象の側にあるものではなく,必ず認識を本質とする主体に現れるものであ り,「私に現れる」「私に認識される」という形をとる. pratibhā は主体に現れるが,一方で対象も pratibhā と結びついていることをチャ ンドラーナンダは述べている.そして対象と pratibhā の結びつきは,認識してい るものに現れている表象の力に基づく.つまり,ただ対象が現れているという事 実だけによって対象と pratibhā の結びつきは正当化される.再認識派にとって, 顕現しているものは究極的真理であるから12),対象と pratibhā の結びつきは否定 されえない.よって,pratibhā は必ず主体に依拠し,対象を伴うものである.

5. 

pratibhā は個別の対象を伴って現れるものであるが,究極的にはそのような個 別性は pratibhā にはない.そのことをアビナヴァグプタは次のように述べる. そして[ĪPK 中の]eṣā とは,あらゆるものにある自照を本質とする[pratibhā]である. しかし究極的には内向的なものとして,光照のみを究極的真理とするものであるがゆえ に,差異がないから,「[この pratibhā は]順序を欠く」.(ĪPV I 279) pratibhā は,対象を認識しているすべてのものに現れる.そのことは,あらゆ るものにとって自明である.しかし,究極的には,pratibhā は「私」というよう に自己に向かう内向的なものであり,主客に分化していない清浄な光照のみを本 質とする.つまり,「これ」としての現れが「私」という拠り所に休らい差異が帰 滅する時,pratibhā は差異を欠く純粋光照である.

6. 

興味深いことに,ウトパラデーヴァは,ĪPViv 断片や ĪPVV を見る限り13) ĪPViv においてもアビナヴァグプタの上述のような解釈には触れていない.しか し,それは,このような解釈がアビナヴァグプタの独創であることを意味しない. ウトパラデーヴァが,「現出」を意味する pratibhā と主体を同一視していることを 踏まえて,アビナヴァグプタは pratibhā を単に「現出」ではなく「主体への現出」 を意味する語として注釈したのである.

7. 

ウトパラデーヴァにとって,ĪPK における pratibhā は単に「現出」を表す語 にすぎない.重要なことは,順序を伴う pratibhā が,内向的なものである限り, 順序を欠く最高認識主体に同定されるということである. アビナヴァグプタの pratibhā 解釈において重要な点は,pratibhā は認識主体にの み依拠して現れるということである.そしてこのことは prati という語によって示

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puryaṣṭaka

――輪廻主体の八要素をめぐるヴェーダーンタ説――

近 藤 隼 人

1.緒言 

Brahmasūtra(BS)に対するシャンカラ注(BSŚBh)とバースカラ注 (BSBhBh)には,輪廻を主題とした共通の出典不明詩節が引用される. 彼はプラーナ(prāṇa)をはじめとする「八都城」というリンガ(liṅga)と結びつく.そ れ(リンガ)によって束縛された者には束縛があり,それ(リンガ)から解放された者 には解脱がある1) ここには輪廻主体リンガと併称される「八都城」(puryaṣṭaka)という術語が見受け られ,それはプラーナを一構成要素とすることが理解できる.同語はヴェーダー ンタ文献や法典類,シャイヴァ文献に散見される術語であるが,その実相,特に 八種の構成要素については明らかにされていない.本稿ではシャンカラとバース カラの解釈を読み解きながら,同詩節の典拠についても考察を加える.

2.シャンカラの八都城解釈 

BSŚBh では八都城の構成要素について明言され ないが,当該文脈を追うことでその構成要素は自ずと判明する.BS 2.4.6 はプラー ナ(生体諸機能)の数を論じているが,BSŚBh では特に Br̥hadāraṇyakopaniṣad(BĀU) をめぐって議論が起こっている.対論者は死に際して全プラーナが身体から出離 していくという BĀU 4.4.2 を根拠として,プラーナが七種ないし八種であると主 張する.シャンカラは BĀU 3.2.8 を典拠としてこの議論に終止符を打つ. そうとはいえ,「実に手は把捉者(graha)である」(BĀU 3.2.8)などのシュルティにおい ては,七種以外にも手などのプラーナが知られている.そして,把捉者の把捉者たる所 以は束縛にある.[すなわち]把捉者と称される束縛によって個我は把捉[すなわち]束 縛される.…したがって,把捉者と称されるその束縛は[死後]他の身体に移行すると 事実上いわれたことになる.それと同様の趣旨でスムリティにもいわれている――2) この後に当該詩節が続くが,BĀU 3.2.8 に説かれる手などの把捉者は束縛と等置さ れるため,それこそが八都城に相当すると考えられる.BĀU 3.2.1–9 では把捉者と 超把捉者とが各々八種であると示されるが,そこでは(1)プラーナ(嗅覚機能), Banarsidass, 1987.

KSTS Kashmir Series of Texts and Studies. 〈参考文献〉

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(本稿は,平成 28 年度科学研究費補助金[若手研究(B)](研究代表者:川尻洋平,課題 番号 16K16702)による成果の一部である.)

〈キーワード〉 pratibhā,ウトパラデーヴァ,アビナヴァグプタ,再認識派

参照

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