ジェイムズ哲学における高次の経験論 feelingの 作用領域と可能性を巡って
著者 藤坂 大佑
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 文学
報告番号 32663甲第462 号 学位授与年月日 2020‑03‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00011978/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
氏 名 ( 本 籍 地 ) 藤坂 大佑(東京都)
学 位 の 種 類 博士(文学)
報 告 ・ 学 位 記 番 号 甲第462号(甲(文)第52号)
学 位 記 授 与 の 日 付 2020年3月25日
学 位 記 授 与 の 要 件 本学学位規程第3条第1項該当
学 位 論 文 題 目 ジェイムズ哲学における高次の経験論 feelingの作用領域と可能性を巡って
論 文 審 査 委 員 主査 教授 博士(学術) 河本 英夫 副査 教授 博士(文学) 稲垣 諭 副査 教授 博士(文学) 三重野 清顕 副査 教授 博士(文学) 松浦 和也
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【論文審査】
本論文『ジェイムズ哲学における高次の経験論――feelingの作用領域と可能性を巡って』
は、ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」をテーマとしています。プラグマティ ズムは、立場や観点で見れば、「多元主義」的であり、「相対主義」的な議論だとされていま す。立場や観点のような外的な特徴づけとしては、それじたいは間違ってはいないのです が、むしろそこでどのような経験のモードと経験の深まりが構想され、経験をどのように誘 導しようとしているのかが明確にはなりません。そこで経験の学としての哲学は、立場や観 点を超えて、構想された経験の内実に踏み込む必要が生じます。本論文はそこに立ち入るよ うな議論を展開しようとしています。さらにプラグマティズムは、つねに未完であることを 自分自身の特徴とする、「終わりのない」哲学の仕組みを備えています。その終わらない哲学 の積極性を明確に定式化することも必要になります。このことは哲学の内実だけではなく、
それがどのように展開可能であるのかという課題に踏み込まざるをえないことを意味しま す。
ジェイムズ自身の著作は、冊数だけでみれば多くはありません。初期の『心理学原理』か ら『宗教的経験の諸相』、『根本的経験論』、『プラグマティズム』、『多元的宇宙』等であり、
領域的にはいくぶんか多岐にわたるのですが、著作そのものは多くはありません。
各著作の中で『心理学原理』がもっとも有名で、現在でもギブソン以降の「生態心理学」
からは、みずからに先行し、源流となる原典のように扱われる著作です。また哲学として は、「純粋経験」すなわち主観-客観分離以前の経験にまで立ち返る場面が、多くの哲学書で もジェイムズ哲学の主要な議論として取りあげられてきました。主観、客観の分離以前の根 源的で基盤となる経験状態だと考えられても来たのです。しかしそうした議論は、かりに拠 点として「純粋経験」が設定されるのであれば、プラグマティズムと「拠点哲学」がどのよ うにして整合するのかが問われてしまいます。かりに純粋経験が発生的な前史として当初に 配置されるだけであれば、それによってはいまだ経験の内実が明らかになるわけではないの です。
こうした点を踏まえ、本論文では、経験の根源的機能として位置付けられる「感じ」概念 を取り出し、ジェイムズ哲学での「経験が形成される理論展開」に注目し、新たな解釈を提
⽰することを試みています。つまり「プラグマティズム」を一つの主張だとするのではな く、そこで描かれた経験の内実から汲み取ることが必要になります。それこそ、この論文が 提⽰しようとしているものです。
そこで本論文は、こうした経験論の支えとなる中心的な「働き」を見出すことにより、著 作全体を一貫した「経験の展開の諸相」というテーマで捉えることに成功している点に特徴 があり、その働きを「感じ」(フィーリング)として捉えていく作業が行われています。「感 じ」とはまさにそれじたいで「曖昧な豊かさ」を担い、それに相応しい働きをしている活動
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のモードであることになります。主要な著作の考察をつうじて、経験を抑えるさいの要とな る働きとして、この「感じ」(フィーリング)を見出すことによって、この哲学を包括的に性 格づけることに成功していることになります。
「感じ」という働きに関して言えば、(1)経験をプロセスとして進行し続ける場面で捉える さいに、そのときのプロセスを感じ取るという働きのことです。そしてそのことは(2)この哲 学の設定する課題が、「経験の多様な展開はいかにしてなされうるのか」という経験の形成プ ロセスに向けられた課題関心であり、経験の多様な展開の契機として扱われていたのが、こ の「感じ」であったことになります。
「感じ」の働きには、いくつかのモードがあります。「感じ」の機能は、概括的には認識的
⽅向性(対象・世界を把握する、主体に既定的に備わる機能)と実践的⽅向性(行為の展開 を可能とする、経験領域を拡張する機能)という⼆側面を有するものとして理解することが できます。従来、ジェイムズ哲学は、前者の認識論的⽅向性が前景化され解釈されることに よって、多元論やプラグマティズムが「相対的な真理論」として受容されてきたのです。
認識は真理と真理の基準を問い、真理の有限性、暫定性を認め、さらに多様に展開するこ とを要請するかたちになります。これが従来、認識論的に整合化され、輪郭が整えられたプ ラグマティズムであることになります。そのときたとえば「多元論という主張自体は、多元 的か」あるいは「相対主義という主張自体は、相対主義的か」というまるで手の込んだ冗談 のような異論が出てきた解釈の前史がありました。
これに対して本論文では、むしろジェイムズ哲学を、実践的、行為論的な面を強調する議 論へと力点を移動させていきます。ここがこの論文の第一の主張点であり、「感じ」という働 きのモードを取り出すことで、プラグマティズムの基本性格を認識論、真理論から、行為論 に移動させていく作業を行っていることになります。
たとえば『宗教的経験の諸相』では、時として神秘的であるような経験が思いもかけない 仕⽅で受容され、それをきっかけとして受動的な形で、経験そのものが再組織化される場面 が取り出されていきます。ここでは「感じ」は、経験のパースペクティヴを再度組み直すほ どの働きとして関与することが明らかにされていきます。
また『根本的経験論』では、主観―客観分岐以前の「進行する経験の動き」の感じ取りと して「感じ」が重要性をもってきます。これは「感じ」の働きのモードとしては、働きのさ なかで働きを感じ取ることを意味し、現代的に言えば、「気づき」の働きと類似したもので す。純粋経験の理論においては、「経験をそれとして額面通りに受け取る」という根本的経験 論の公準が、同時に物事を感じるままに把握するということでもあり、それについて概念 的、抽象的な話をすることと混同しないということになっており、この場合の「感じ」は、
概念的な各種構成主義とプラグマティズムを区分するさいのメルクマールとして活用されて います。
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さらに『プラグマティズム』では、この構想は実在に働きかけることで真理が形成すると される「可塑的な実在論」となっており、その実在の感触が「感じ」として捉えられること になります。実在から感覚をつうじてデータを受け取るのではなく、むしろはたらきかけを 通じて、そこに実在の感触を形成していく場面で、「感じ」が働いていることになります。哲 学とは宇宙全体の圧力と緊張を理解し感じる我々の個⼈的な⽅法であり、哲学的営為を構成 する主要な機能として、「感じ」が配置されていきます。
さらに意識経験では、感覚刺激を受け取りながら、この感覚の受容には、この感じという ものが多くの場合ともなっており、これは現代では「クオリア」という言葉で⽰されている
「感覚の質感」をもたらしているものになります。感覚の受容を行為的に⽅向付ければ、経 験のプロセスの感じ取りは、今日でいう「気づき」の働きも含まれていることになります。
こうしてみてくると、経験に占める「感じ」の働きのさらに詳細なモードとして、(3)
「経験主体が有する感じ」として、知覚経験における原初的な状態として捉えられることに なります。また意識経験においては、「流れ」として捉えられる状態が意識の本来的な在り⽅
とされ、(4)「感じ」の機能は、その流れを構成する「実質的な部分」と「推移的な部分」の 結び目を成していることになります。意識経験は、プロセスとして進行しながらかつ進行す る当のものの同一性を感じ取っているのですが、この感じ取りが意識の働きの要であること になります。
本論文では、こうした「感じ」は、概括的に、(5) 潜在的な「実在(としての reality)」 を、経験内でありありと感じられる「現実性(としての reality)」へと転回させるプロセス を主題化する働きであることが明らかにされていきます。
Realityという語には、「実在」と「現実性」の両⽅の意味合いで理解されることが多いの
ですが、これによって、先験的な実在論を避け、かつ経験の形成にまでおよぶ可能性が描か れていることになります。経験の本来的なありかたは、進行し続けるプロセスだったのです が、それを超えてここでは経験はさらに新たな局面まで形成されていくことになります。
こうして「感じ」という働きのモードの内実を明⽰していくとともに、最終的には、行為 としての実在への働きかけが、認識された現実性へと転換する局面に不可分に関与するの が、この「感じ」という働きであることになります。これが本論文の第⼆の主張点です。
さらにこのプラグマティズムの哲学は、それじたい内在的に展開可能性を含んでいるもの です。そのため最後の章に、ジェイムズ以後、どのような可能性が見いだされ、展開されて きたかが検討されていきます。この場面は、プラグマティズムの内実の多様性と多分岐性を 合わせて明るみに出すような作業になります。この部分がジェイムズの経験論をさらに拡張 していくさいの「展開可能な項目」にかかわってきます。
ここで取り上げられるテーマは、異常心理、経験の感触(親しさ、疎遠さの分岐)、身体的 プラグマティズム(シュスターマン)、文化的多元主義(バーンスタイン、コノリー)、経験そ
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のものの形成と再編成にかかわります。これらはジェイムズ哲学を継承しながら、さらに一 歩踏み出していく道筋を見出していく議論で、プラグマティズムが本来的に「終わりのない 哲学」である以上、そこから分岐するさまざまな試行錯誤の可能性を検討していくものとな っています。ジェイムズのプラグマティズムの可能性の範囲を見定めていくという点で、こ の箇所での検討が、本論文の第三の主張点となります。
ジェイムズ自身は、サブリミナル現象のように、本⼈には見えていないがすでに受容され ているような体験領域や、無意識的な潜在記憶で引き起こされる多重⼈格のような現象に直 面し、自我の働きについて、プラグマティズムの指針を拡張し、自我の実体性を認めないだ けではなく、経験のなかでは自分自身にも明るみに出ることのない働きの領域を認めていき ます。
そうした場合、問題となるのは、経験の展開が主体性という既定の枠組み内で展開される ものなのか、あるいはそうした限定的な枠組みは経験の原初の段階では存在せず、主体によ る安定したまとまりとは別様に、別の仕⽅でそれらが統合されることによって展開される形 を取るかという選択です。ジェイムズでは、自我とは経験の帰属先としての主体の唯一性を 指⽰するものではなく、必ずしも「この私の」経験として展開される訳ではないことになり ます。こうしたある意味で危うさをかかえたまとまりを支えるものが、「感じ」や感触という モードであることになります。こうした感触の指標が、「親しさ」や「あたたかみ」であるこ とになります。これらは体験的な推移にともなう情感のモードとして取り出されたもので す。
また宗教的な神秘体験については、四つの性質(言表しようの無さ、認識的性質、一時 性、受動性)で特徴づけられるのですが、枠組みとしての自我を想定した場合には、その領 域からは超出し、そうした自我の形成が派生的なものとして表されるような経験領域が⽰唆 されていました。こうした経験領域が現実経験として顕在化するための働きが「感じ」だっ たのですが、ここでの「感じ」は新たな経験の開始となる端緒の働きに限定されていること がわかります。たとえばベルクソンの場合には、むしろ情態性としての働きが導入され、強 度性(働きの強さの度合い)が前景に出てくるのですが、ほぼ同時代のジェイムズでは経験が 開始される端緒という意味合いが強くでていることになります。
さらにシュスターマンによってジェイムズ哲学は、身体行為論や身体表現論にまで展開さ れていきます。シュスターマンの独自の主張である「身体感性論somaesthetics」は、無意識 的に使用される身体感覚の反省を通して、身体動作の向上を図り、それを踏み台とすること で経験の改良を目指す理論として設定されています。身体感性論は以下の三つに分類するこ とができ、(1)分析的身体感性論(analytic somaesthetics):身体的知覚・実践の特性を明ら かにする、(2)プラグマティック身体感性論(pragmatic somaesthetics):身体やその経験と 使用を改良する⽅法について論じる、(3)実践的身体感性論(practical somaesthetics):実際
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の実践的レベルにおける身体パフォーマンスの重要性を扱うという区分となり、第三の領域 がもっとも重要なテーマとなります。身体感性論では、「感じ」は身体がそれとして感じてい る領域、つまり「触覚性内感」としてさらに展開されていることがわかります。
もっともそこで主題化される「感じ」は、既に現働化されている状態での身体感覚であ り、また行為の改善を図る場合でも、シュスターマンの提唱する⽅法に従えば、あくまで身 体経験を通じた身体感性についての反省を通じて行われるものです。それは「行為そのも の」の根本的な変容というよりも、行為主体としての「身体への認識」の変容であるにとど まっていることになります。
さらに課題として設定されるのは、意識的なレベルから経験プロセスそのものへと迫る
「感じ」の在り⽅です。意識的なレベルから経験プロセスそのものへと迫る「感じ」の在り
⽅を主要テーマにしながら思考する⽅法こそが、ドゥルーズに代表される「超越論的経験 論」に接続可能な道筋をつけるものであることが明らかにされていきます。
文化的多元論については、バーンスタインが協調性のあるゆるやかな複数主義を展開し、
コノリーは多元的協調性よりも、多元性の隙間に生じる「くず」としかみなされないような ものの価値を取り上げる⽅向で議論しています。現代的に言えば、「くず」とは「ゆらぎ」の 類似概念であり、そこから何かが創発してくるさいのきっかけを重視する論点を立てていま す。
コノリーはバーンスタインとは異なり、ジェイムズの多元主義を、より調和的な⽅向では なく、逆に「まとまりのない経験の豊饒さ」に力点を置く⽅向で立論して行きます。経験を 秩序立った体系へと還元するような企てでは、経験から「常に逃れている部分」としての
「くずの次元」の傍らを、気づくこともなく通り過ごしてしまうことになります。
ジェイムズ自身は、経験がある収束点に対して向かっているものであることを否定しま す。ジェイムズが忌避した観念論的解釈は、経験の組織化を理論的秩序の形成によって執り 行おうとしたものです。コノリーによれば、多元的宇宙が⽰唆するのは、⼈間の文明は場合 によっては生じなかったかもしれないということであり、そしてまた、文明は自らが置かれ た相互の接続の繁殖力、揮発性、複雑性にわれわれが注意を向けることによって、最もうま く生き延びるだろうということになります。そうしたジェイムズ多元論から導かれる世界の 在り⽅の展開可能性として、現代科学へと接続し得る道筋を⽰唆していることになります 。
こうしてジェイムズ哲学を援用しながら、プラグマティズムの現代の展開可能性が吟味さ れ、経験の意識化されない領域、身体の領域、さらには文化的な多元論へと進展していく展 開のありようが吟味検討されているのです。
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【審査結果】
これらの論証と論点の明確さから見て、また、文学研究科(哲学専攻)の博士学位審査基 準に照らしても妥当な研究内容であると認められます。
本審査委員会は、藤坂氏の博士学位請求論文について、所定の試験結果と上述の論文審査 結果に基づき、全員一致をもって本学博士学位を授与するに相応しいものと判断しました。