いわゆる「任那四県割譲」の再検討
著者 熊谷 公男
雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学
号 39
ページ 19‑73
発行年 2005‑03‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024193/
い わ ゆ る ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ の 再 検 討
熊 谷 公 男
九
いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
の再検討〇
問 題 の 所 在
﹃日本書紀﹄継体紀六年︵五
一
二︶十二月条には︑百済からの
使者が﹁
調﹂
を﹁
貢﹂
し︑ ﹁
任那国上呼- -
邱・ 一
﹂r
-M S
-
- '=︐
一
囲・一 ・
娑陀
・
牟一
要四県﹂ の
割讓を請願してきたの
に対し︑﹁
呼- -
原国守﹂
穂積押山がこれに口ぞえして︑いまは四県を百済に﹁
賜﹂
う方が得策だと奏上し︑大連の
大伴金村もこれに同意したの
で︑百済の
請願の
ままに四県を譲つたという記事が載せられている
︒
いわゆる﹁
任那四県割讓﹂ の
記事である︒
〟大和朝廷による任那の
植民地
支配〟が事実と考えられていた時期には︑この
記事を文字どぉりに事実とみて︑大和朝廷が植民地
﹁
任那﹂
から撤退するきっかけとなった事件で︑大きな失政ととらえられることが一
般的であった︒
たとえば
︑
末松保和氏は﹁
任那の
衰退を殆ど決定的なもの
にした所謂四県の
割一
調﹂
と評価しているし︑石母田正
氏も
﹁
武寧王は- -
五一
二年︑任那の
四県︑すなわち全羅南道の
四半分にあたるといわれる広大な地域の
割讓を日本に要請してきた
︒
百済を救援し得ず︑
現地
では吉備田狭臣の
ような叛乱がぉこり︑派遺諸将の
内一一 一
一一 一
や相殺があぃ っ
ぎ︑軍紀も弛緩
し
てしまっ
ていた日本にとって︑この
要請をこばむことはできなかった﹂
とし︑これを﹁
朝鮮支配︵-︶
の
危機﹂
とみた︒
〟大和朝廷による任那の
植民地支配〟説の
崩壊とともに︑﹁
任那四県割譲﹂
にっ
いての
右の
ごとき評価も影をひそめてい
っ
たの
は当然の
成り行きであり︑﹃日本書紀﹄︵以下︑﹃書紀﹄と略す︶の
この
記事に検討が加えられることもほとんどなくなってしま
っ
た︒
こうし
た研究動向の
なかで︑田中俊明氏
が︑﹃書紀﹄で﹁
任那四県割譲﹂ の
すぐあとの
継体紀七〜
十年の
諸条と同二十三年三月条とに掲げられている己
波・
帯沙をめぐる百済と伴般・
加羅の
抗争事件︵以下
﹁ 己
波・
帯沙紛争﹂
とよぶ︶に関する史料の
詳細な検討をおこない︑新しぃ
見解を提示し
通ことは注目すべき成果であろう
︒
氏によって伴跛とは高霊の
大加耶にほかならず︑これらの
記事は娩津江上流域の
己︑ 波と︑同じく始津江
の
下流域に比定される帯沙︵=多沙︶をめぐる百済と大加耶連盟との
抗争の
記録であることが明らかにされたの
である︒
これを百済の
側からみれば︑この
時期百済が推進していた南進策の
成果ということになるが︑百済が加耶西端
の
蟾津江流域に進出するためには︑当然︑西に隣接する全羅南道地
域の
確保が重要な意味をもっ ︒
それに相当する可能性
の
ある事件が︑
﹃書紀﹄が己
波・
帯沙紛争がはじまる前年に掲げている﹁
任那四県割譲﹂
ということになってくる
の
である︒
田中
氏
は︑右の
ごとき研究成果の
うえ・にたっ
て︑さらに﹁
任那四県割譲﹂ の
再評価を試みている︒
すなわち田中氏によれば︑﹃書紀﹄に
﹁
記されているとぉりに︑それまで倭の
土地
あるいは倭が帰属に対する決定権を持つていた四県を︑こ
の
時になって百済に割譲した︑ととらえる必
要はない︒
この
記事自体は︑史料的に孤立したもの
で︑傍証もないかわりに︑反証もない
︒ し
かし
︑この
翌年の
継体七年から一 〇
年に至る︑いわゆる﹁ 己
波・
帯沙事件﹂ - -
には︑倭が百済に
己
波の 地
を賜与した︑と記しているの
であるが︑それが事実ではなく︑﹃日本書紀﹄によってつ
くりあげられた虚構であることが明らかな
の
である︒
﹃日本書紀﹂
はこの
ように︑倭に領有権も帰属決定権もない地域いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
の再検討 につ
いて︑あたかもそれがあるかの
ように記しているの
である︒
そうした例をもとに考えれば︑
この
いわゆる﹁
任那四県割讓記事
﹂
も︑現実は︑
百済がその 地
を実力をもって獲得したということであろう﹂
とし
︑﹁
四県﹂ の 地
名比定には問題が残るも
の の ﹁
およそ全南地域の
どこかを指していることはまちがいないであろう︒
そし
て︑そうであれば︑こ
の
いわゆる﹁
四県割譲﹂
が︑百済の
全南地
域に対する︑領域化の
最終段階の 一
端を記録し
たもの
と考えてさし
っ
かえない︒
ここになぉ含まれない地
域を想定すれば︑
百済は︑五世紀の
末から六世紀の
なかばにかけて︑全南地域
全
域を領有していったの
であった﹂
とし
て︑﹁
任那四県割譲﹂
を百済が六世紀前半に推進した全南・
慶南方面︵4︶
u へ の
進出策の
なかに位置づけた︒ ﹁
任那四県割譲﹂
記事は︑新たな観点から再評価をされることになったの
である︒ 一
方︑﹁
任那四県割讓﹂ の
舞台の
地と思われる全南地
域では︑
近年︑前方後円墳︵前方後円形墳・
長鼓墳︶の
存在が明らかになり︑これまでに
一
〇数基が確認されている︒
それらは︑一
部は五世紀後半にまで一
遡るとされるが︑大半は六世紀前半代に築造されたとみられ︑しかもそれらが全南に集中的に分布するという興味深い現象が知られる
ようにな
っ
た︒
まさに﹃書紀﹄が記す﹁
任那四県割譲﹂
と時期・ 地
域ともにかさなることになる︒
現在︑朝鮮半島
の
前方後円墳に関し
ては︑被葬者問題を中心
に日韓の
考古学・
文献史学の
研究者の
間で活発な議︵;o︶論が展開されてぉり
︑
当該時期の
日朝関係を考えるうえで重要な論点
となっ
ている︒
前方後円墳が集中的に分布する全南
地
域︑
とくに栄山江流域では︑三世紀後半から六世紀前半にかけて独特一 一
一・一 5一
地一
棺墓制が展開することが知られており︑そ
の
間︑この 地
域は加耶とも百済とも異なる独自の
地域を構成していたこ︵6︶とがひろく認められ
っ つ
ある︒
ところが六世紀半ばごろになると︑この
地域に百済の
中央勢力の
影響を強く受けた横穴式石
室 の
急速な普及がみられ︑それにともなって伝統的な独自の
墓制や前方後円墳は姿を消してしまう︒
この
ような墓制
の
変化は︑近年では百済による全南地
域の
領域支配の
実現との
関係で考える見解が有力視されるようになってきた
︒
文
献史学の
側でも︑五世紀の
倭の
五王の
官爵にみえる﹁
慕韓﹂
︵=馬韓︶を︑当時なぉ全羅南道に存在していた馬韓
の
残存勢力と解する説が提示されているし-
︶︑
さらに﹃梁職貢図﹄百済国使条の ﹁
旁小国﹂
や百済熊津時代の
領域支配制度である二二糖魯制
の
検討からも︑全南地域に百済の
領域支配がぉよぶの
は六世紀に入つてからの
ことと考︵8︶えられるようになってきている
︒
こ
の
ように全南の
栄山江流域は︑原三国時代以降︑
六世紀前半にいたるまで︑周辺
から相対的に独立した地域を構成してぉり︑こ
の 地
域の
諸集団は倭・
加耶・
百済などと活発に交流をしながら独自の
政治社会・
文化を保持していたことが知られるようにな
っ
た︒
栄山江流域の
勢力をめぐるこの
ような国際関係の
あり方は︑この
地域の
前方後円墳
の
被葬者問題においても十分に考慮されなければならない︒
たとえば︑前方後円墳の
副葬品には在地の
もの
に︵ 9
︶加えて倭系
・
加耶系・
百済系など複数の
外来系文物が混在し
ていることが一
般的であるという指摘がされているし︑︵1 0
︶近年︑前方後円墳にともなうことが知られている円筒形土製品や横穴式石室が在地
の
古墳にも用いられていること が判明し
︑列島の
古墳文化の
墓制の
構成要素が︑少
なくとも部分的には明らかに在地 の
墓制に受容されているという複雑な状況が明らかにな
っ
てきた︒
前方後円墳の
被葬者問題も︑これを倭との
関係の
みで理解しようとするの
は正
しい研究方法とはいいがたく︑
栄山江流域勢力の
この
ような複雑な対外交流を十分にふまえたうえで検討されるいわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
の再検討四
︵=︶
必
要があるの
である︒
栄山江流域
の
前方後円墳の
被葬者をめぐっては︑日本の
文献史学の
研究者の
間でも︑たとえば朝鮮史の
田中俊明氏が在
地
首長説を唱えてい礎の
に対
して︑日本古代史の
山尾幸久氏が倭系百済官僚説を主張す調など︑
いまだ見解の 一
致をみていないが︑
その
根底には五世紀後半〜六世紀前半の
時期の
日朝関係︑とくに倭の
勢力が栄山江流域にど
の
ようにかかわっていたかということに関する認識の
相違があると思われる︒
こう
し
て︑
近年の
古代日朝関係史研究において五世紀後半〜
六世紀前半の
全南地域との
関係が改めて脚光をあびることになった
︒
ところがこの
時期の
全南地域に関する文献史料はきわめてとぼし
い︒
そうぃ
うなかで﹃書紀﹄の ﹁
任那四県割譲﹂
記事は︑全南地
域に関わるとみられる貴重な文献史料であるにもかかわらず︑
あまりにも研究が立ちおくれているといわざるをえない
︒
古代国家の
支配理念が露骨に表出した記事であるため︑敬速されてきたの
は やむをえない面もあるが︑
近年︑この
地域と倭国の
間に密接な関係の
あったことが明らかになってきたことをふまえて︑改めて
文
献史学の
側からこの
史料を再検討し
てみることは無意味ではないであろう︒
一 ぃ わ ゆ る ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ 記 事 の 史 料 的 検 討
まず最初に︑﹃書紀﹄
の ﹁
任那四県割譲﹂
記事を掲げる︒
A
継体紀六年︵五一
二︶十二月条・〇百済造レ使貢レ調
︒
別表請一
任那国上呼喇・
下一
M S--一刷
一 ・
娑陀・
牟一
要︑
四県一︒ ︵ b︶
略喇国守穂積臣押山奏日︑此四県
近連
一
百済一
︑速隔一一
日本一 ︒ 旦 一
器易レ通︑
鶏犬難レ別︒
今賜一
百済一︑合為一同国一
︑固存之策︑無一一
以過?此︒
然縦賜合レ国︑後世猶危
︒
況為一 一
異場一
︑幾年能守︒ ︵ c︶
大伴大連金村具得一
是言一 ︑
同レ謨而奏︒
廼以一 一
物部大連一鹿鹿火一
︑宛二
宣勅使
一 ︒
物部大連方欲︐
発一
向難波館一
︑宣申勅於百済客上︒
其妻固要日︑夫住吉大神初以一 一
海表金銀之国︑高麗・
百済
・
新羅・
任那等一
︑授一記胎中管田天皇一 ︒
故︑大后気長足
姫尊与 一一
大臣武内宿禰一
︑毎レ国初置一
官家一
︑為一 一
海表之審屏
一 ︑
其来尚矣︒
抑有レ由焉︒
縦削賜レ他︑違一
一本区域一 ︒
綿世之刺︑一
記離一
於口一 ︒
大連報日︑教示合レ理︑
恐背
一
天勅一 ︒
其妻切諌云︑称レ疾莫レ宣︒
大連依レ諫︒
由レ是改レ使而宣勅︒
付一 一
賜物并制旨一 ︑
依レ表賜一任那四県一 ︒ ︵ d︶
大兄皇子前有二縁事
一
︑不レ聞レ賜レ国︑晩知一宣勅一 ︑
驚悔欲レ改レ令日︑自二胎中之帝一
置一
官家一
之国︑
軽随一
蕃乞一
︑一觀一爾賜乎
︒
乃造一
日鷹吉士 一 ︑
改宣一
百済客一 ︒
使者答啓︑父天皇図一
計便宜一
︑勅賜既罪︒
子皇子豈違一帝勅一
︑妄改而令
︒ 必
是虚也 ︒
縦是実者︑
持一一
杖大頭一
打︑孰・ 与
持二杖小頭一
打上痛乎︑遂罷︒ ︵
e︶
於レ是或有一一
流言一
日︑大伴大連
与
一呼喇国守穂積臣押山一
︑受一百済之賂一
矣︒
こ
の
記事は︑︵
a︶ 〜 ︵ e︶ の
五つ の
部分に分けることができると思われる︒
それぞれの
記事の
内容をまとめるとつ
ぎの
通
りである
︒
- ; こしたりあるしたりさだむろ〇百済が遣使
・ ﹁
貢調﹂
して︑任那国の
上略用・
下一一
S一利囲・・
娑陀・
牟要の ﹁
四県﹂
︹の
割譲1
筆者補 ︺を願う︒
〇略用国守穂積押山がこれに口ぞえして︑四県は百済に近接
し
︑倭国からは遠く隔たっていて守りにくいの
で︑いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
の再検討五
いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討六
百済に
与
える方が得策だと奏上する︒
〇大伴金村も押山
の
意見に同意の
旨を奏上する︒
四県割讓の
許諾を百済使に伝える宣効使に物部鹿鹿火が任じられるが︑
一
鹿鹿火の
妻は神功皇后・
応神天皇
以来の
半島政策の
経緯を説き︑宣勅使の
役をやめさせる︒
その
結果︑別
の
人物が宣勅使に立
てられ︑要請どぉりに任那の
四県を賜わる︒
〇あとでこ
の
ことを知つた勾
大兄皇
子︵の
ちの
安開天皇
︶は︑さきの
宣勅を撤回し
ようとするが︑百済使は聞き入れずに帰国する
︒
.〇大伴金村と穂積押山は百済から賄賂をもらったという流言が立 つ ︒
既述
の
ように︑近年︑
田中俊明氏はこの
史料を再評価したが︑
それは必
ずし
もこの
記事全体を検討した結果ではない
︒
田中氏は﹁
この
記事自体は︑史料的に孤立
したもの
で︑傍証もないかわりに︑反証もない﹂
とし︑主として〇
の
部分にみえる﹁
四県﹂ の 地
名の
比定と氏
自身の 己
波・
帯沙紛争に関する研究成果を援用して再評価をぉこなった
の
である︒
これまで︑この
記事自体の
全体的な検討をぉこなった日本の
研究者は︑の
ちに取り上げるが︑坂本太郎氏ぐらいではないかと思われる
︒ ﹁
任那四県割譲﹂
記事の
史料的研究は︑おどろくほど低調なの
である︒
それはおそらく︑記事中に百済や
﹁
任那﹂
を倭国の
蕃国視し︑それらの
地域の
支配権があたかも︑本来︑倭王に帰属するかの
ような︑
露骨な日本本位の
記述がみられることに加えて︑記事中の
四県の ﹁
上呼喇・
下呼- -
原・
娑陀・
牟要﹂
という
地
名は百済系の
史料によっ
たとみられるもの の
︑大半は日本側の
原史料によっ
て記されたと考えられるため︑その
史料的価値がきわめて低くみられてきたことによると思われる︒
筆者も︑﹃書紀﹄
の
この
ころまでの
日本側の
史料にもとづいた記事が︑一
般的に︑百済三書などの
百済系史料にも とづく記事にくらべて格段に史料的価値が劣ることは否定しがたいと思うが︑それにしても﹁
任那四県割譲﹂
記事は検討に値しないほどそ
の
史料的価値は低く︑﹁
史料的に孤立
したもの
で︑傍証もないかわりに︑反証もない﹂
もの
な
の
であろうか︒
筆者は︑ ﹁
任那四県割譲﹂
は確かに日本側の
史料を主体として選述された記事とみられるが︑記事中に登場する
﹁
呼用国守穂積臣押山﹂
は︑後述するように百済系史料である﹃百済本記﹄にもみえる実在の
人物であり︑こ
の
人物を手がかりにすれば︑必
ずし
も孤立
した史料ではなくなるし︑また日本本位の
記述を修正 し
たうえで︑史料
の
系統の
異同をふまえながら検討すれば︑おぼろげながらある程度の
事実を浮かび上がらせることは可能ではないかと考えるにいたった
︒
そこで以下︑本記事の
検討を試みることにしたい︒
最初にこれまで
の
研究を簡単にふり返つてみると︑
まず池内宏氏
が﹁
百済側の
材料を骨子として︑それに潤色をほどこした形跡が顕著である
︒
大連大伴金村が穂積押山の
議に賛同し︑大連物部一
鹿鹿火が勅命を百済の
使者に伝える任をおびて難波
の
館にむかわんとしたというがごときは︑日本側の
所伝によったもの
であろうし︑その
とき鹿鹿火
の
妻が夫をいさめ﹂
た言葉は﹁
書紀の
編者の
造作と認められる﹂
と記事全体の
史料的性格を概括しているの
は︑傾︵1 4
︶聴すべきところが少なくない
︒ っ
ぎに坂本太郎氏は︑この
記事はかなりの
時間的経緯があったできごとを圧縮して六年十二月条にかけたも
の
で︑﹁
編修上の
整理がこまごまと重ねられたもの
と思われる︒
その
原史料には百済本記もあれば︑日本
の
記録もあったらしい︒
この
うちの 勾
大兄皇
子に関する部分が旧辞風の
伝承的な記録によっているらし
ぃ - -
が︑物部鹿鹿火に関する所なども同様であろうと思う﹂
とし︑
﹃書紀﹄継体紀七年︵五一
三︶六月条︵後掲いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討七
いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討八
史料
B
︶に︑
穂積押山に関して﹁
百済本記云︑委意斯移麻岐弥﹂
という注記があるの
にA
にそれがないの
は︑A の
穂積押山
の
名が日本側の
史料によっ
ていることを示すとし
ている︒
そうすると︑B
が﹃百済本記﹄における穂積押山
の
初見史料ということになる︒
また百済系の
原史料を用いた箇所につ
いては︑﹁
任那四県の 一 々 の
名称などは百済本記によるも
の
であり︑押山の
︑この
地を百済に賜うことを得策とするあたりの
百済本位の
言説も︑百済本記によるも
の
らしい﹂
という見解を示している︒
こうして坂本氏
は︑日本側の 旧
辞風の
記録と﹃百済本記﹄の ﹁
両史料を適宜に按配して
︑
この
記事は作られたもの
と考えられる﹂
と結論づけた︒
この
坂本氏の
見解は︑﹁
任那四県割譲﹂
記事
の
史料的研究の
指針となるもの
で︑きわめて重要である︒
さらに三品彰英
氏
は︑﹁
この
事件に関連した日本朝廷の
内部の
話が主となっている点からして︑日本側の
所伝であったと推断してよかろう
︒
持統紀五年八月条に︑大三輪氏以下十八家に先祖の
墓記︵﹁
釈紀﹂
では築記︶を上進させた記事
の
中に穂積氏 の
名も見えているから︑書紀撰述の
際に同氏 の
伝承には經つたもの
があったであろう︒
ただし︑こ
の
六年条には略- 1
原・
娑陀・
牟婁などの
韓地
名が見えているの
で︑この
点は百済系の
史料を組み合わせて利用したかもしれない
﹂
と︑同様に日本・
百済両系統の
史料の
組み合わせとみるが︑日本側の
史料は穂積氏の
家伝によっ︵l 6
︶たと考えているようである
︒
また山尾幸久氏
は﹁
この
話は﹃百済本記﹄を根拠としたもの
ではなく︑大伴氏の
政治︵l︶的
地
位の
変動の
事情を物部氏の 立
場から説明した伝承である﹂
とする︒
改めて記事
の
構成をみてみると︑︵
b︶ 〜 ︵
e︶
はすべ
て倭国内部の
話であるから︑日本側の
史料によったとみてよいと思われる
︒
坂本氏
は︑︵
b︶
が百済本位の
言説を記していることからみて﹃百済本記﹄によったと推定しているが︑︵
c︶
は
︵
b︶ の話を前提としているから︑︵
b︶
は︵
c︶
と一
連の
もの
で日本側の
史料にあった話とみるべ
きであろう︒
つぎに︵
c︶
と
︵
d︶
であるが︑筆者はこの
二つ
は史料の
系統を異にしていると考える︒ ︵
d︶
は︑坂本氏が勾大兄の
英雄的行為を描いたも
の
で︑旧辞に類似し
た伝承的な記録にもとづくとみたことは妥当と思われる︒
それに対して︵
c︶
は話の
おもむきがかなり異な
っ
てぉり︑大伴金村の
指示にしたがわない物部一
鹿鹿火とその
妻の
物語が美談風につ
づられている︒
これはやはり物部
氏 の 氏
族伝承によっ
たもの
とみるの
がよいと思われる︒ ︵
e︶
は︑ ︵ c︶ の
後日談として理解できるから系
統的には
︵
c︶
と同じであろう︒
最後に︵
a︶
は︑百済の
遣使記事であることと︑﹁
上哮喇・
下略1 -
原・
娑陀・
牟一要﹂
という半島
の
地名が出てくることからみて︑百済系の
史料とみてさし っ
かえない︒
継体紀は︑周知の
ように︑﹃百済本記﹄を多用している
の
で︑これもぉそらくは﹃百済本記﹄によったもの
で︑
六年四月という年紀も同史料の
もの
にしたがった
の
であろう︒
そうすると︑A の
記事は︑年紀と冒頭の
部分は﹃百済本記﹄にもとづき︑その
あとに国内史料を連綴して述作されたということになる
︒
国内史料は︑物部氏の
家伝を主体としているが︑途中に旧
辞の
系統を引く書物から
勾
大兄皇子の
話を挿入し
たと考えられるの
である︒
さて︑いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
記事の
史料的系統を右の
ように考えて大過ないとすると︑ここからいくっ
かの
問題が派生
し
てくる︒
まず︑﹃百済本記﹄
の
年紀が信頼性の
高いもの
であることは︑すでに定評がある︒ し
たがってこの
ばあいも︑﹃書紀﹄
の
梁年には︑
何か反証がないかぎり︑信をぉいてよいということになろう︒
そして六年十二月とは︑百済使が来倭した年紀とみられる
︒ つ
ぎに︑ ︵ a︶ の
記事内容が何らかの
事実にもとづいていると解することも許されよう︒
たいわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討九
いわゆる
﹁
任那四県割譲﹂
の再検討三
〇
だしこれまで
の
研究で明らかにされてきたように︑﹃百済本記﹄は問題の
多い史料であるの
で︑その
史料的性格には十分に留意してぉく
必
要がある︒
﹃百済本記﹄に﹃百済記﹄
・
﹃百済新撰﹄を加えた三書は﹁
百済三書﹂
と総称され︑﹃書紀﹄の
編築に使用された百済系
の
史料として著名であり︑ほぼ同様の
成立
事情もっ
と考えられている︒
その
成立事情に関しては︑山尾幸久氏が整理しているように︑六世紀末に︑百済が対倭政策
の 必
要から︑倭国の
朝廷に編築して提
出した歴史書と考える説と︑七世紀後半
の 亡
命百済貴族が百済の
史籍を改めて編 :築し
なおして︑﹃日本書紀﹄修史局に提出したとみる説に大別され那 ︶
︒
筆者は︑基本的には山尾氏
同様︑後者の 一
識に賛同するが︑間題は百済三書ないし﹃書紀﹄が︑
三書の
原史料となったと思われる百済
の
史籍にどの
程度手を加えているかということである︒
亡命百済貴族の
手になる百済三書やそれによ
っ
て書かれた﹃書紀﹄本文の
史料的価値を吟味するには︑﹁
″百済三書〟や﹃日本書紀﹄が編まれた時代
の
国家の
支配理念を踏まえ﹂
る必
要があるという山尾氏 の
指摘は︑十分に尊重されるべ
きであるが︑
山尾氏が続けて
﹁
評価や意味づけはもとより︑用語や表現に至るまで︑七世紀末〜
八世紀初めの
日本の 立
場から書かれてい
B ﹂
と述べ
ているの
は︑筆者には﹃書紀﹄の
記述内容をその
編纂時点における国家の 立
場に還元しすぎているように思われる
︒
百済三書には︑﹃書紀﹄編纂時点における国家的立
場にそっ
た改変が要所要所に加えられたであろうことは容易に推察されるが︑
一
方で百済三書の
もとになった百済の
史籍の
筆致がその
まま残されているとみられるところも少なくない
の
である︒
百済三書にもとづいたと思われる﹃書紀﹄
の
本文には︑よく知られているように︑百済中心 の
記述が随所にみられる
︒
たとえば﹃百済記﹄にもとづいていると思われる神功紀四十九年三月条の ﹁
屠一一
南蛮忱弥多礼一
︑以賜一
百済一 ﹂
という
一
文を例にとると︑忱弥多礼すなわち一一
W-一 一
羅︵済州島︶を百済に
﹁
賜﹂
わったというの
は︑いうまでもなく日本
の 立
場からの
記述であるが︑その
直前の ﹁
南蛮﹂
は百済的な華夷思想による表現であるから︑百済の
史書の
表現がそ
の
まま残つたと考えざるをえない︒
筆者は︑一 つ の
文章の
中にこの
ような相矛盾する表現がみられるところに︑百済三書
の
史料的性格と﹃書紀﹄の
編纂方針が端的に表われていると思う︒
同様の
ことは︑﹃百済本記﹄によったとみられる後掲
B
群の
記事にっ
いてもいえる︒
継体紀七
年︵五一
三︶十一
月乙
卯条︵B
︶では﹁
以一
己波・
滞沙一
︑賜一一百済国
一 ﹂
と日本の
国家的立場からの
記述をしているが︑直前の
継体紀同年六月条︵B
︶には百済の
将軍が﹁
伴破国略一
一
奪臣国己︑ 波之地 一
︑伏願天恩判︑還一
本属一 ﹂
と奏上したとされていて︑己波は本来百済の
地であるという︑日本の
支配理念と必
ずしも合致しない百済の 立
場からの
主礎が﹃書紀﹄の
本文に残されているの
である︒
さらに継体紀九
年︵
五一
五︶四月条︵B
︶には︑物部連らは︑水軍を率いて帯沙江に滞留していたときに伴般の
軍勢の
攻準を受けて︑命からがら逃走して波慕羅まで退いたという記述がある
︒
倭国の
軍隊が伴般の
軍隊に撃破されて退却したという
の
は︑
日本の 立
場からすれば不名管で不都合な内容である︒
これまた︑百済の
史籍の
記述がその
まま残されたも
の
と解するしかないであろう︒
こ
の
ように百済三書にもとづいた﹃書紀﹄の
本文には︑百済や﹁
任那﹂
を倭国の
蕃国視し︑それらの
地域の
支配権があたかも︑本来
︑
倭王に帰属するもの
であるかの
ような︑露骨な日本の
国家的立
場にもとづく記述がみられるが︑同時に
︑
百済の 立
場からする記述が随所に遺存していることも事実で︑﹃書紀﹄の
修史局の
筆削は必
ずしも一
貫いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討したも
の
ではなかったと考えられる︒
l︶
さて﹃百済本記﹄をふくむ百済三書の
史料的性格が右の
ごとくであったとすると︑A の 0 の ﹁
貢レ調﹂
や﹁
請一任那国
-
:・四県一﹂
といった表現は︑
﹃百済本記﹄にすでにあったの
か︑
﹃書紀﹄の
編者の
改変かは分明でないが︑
いずれにしても日本
の
国家的立
場を前提
とした表現になっていて︑この
点は事実とは考えがたい︒
ただし︑その
ような表現を修
正
すれば︑事実にもとづいた記事とみてさしっ
かえないと思われる︒
すなわちこの
とき百済から外交使節が倭国に派遺され︑
﹁
上呼用・
下呼- -
原・
娑陀・
牟一要﹂ の ﹁
四県﹂ の
百済の
領有にかかわって︑倭国に何らかの
要請があ
っ
たと考えられるの
である︒
既述
の
ように︑田中俊明氏
は︑この
いわゆる﹁
任那四県割譲﹂
につ
いて︑﹁
現実は︑百済がその 地
を実力をもって獲得したということであろう
﹂
として︑﹁
百済の
全南地域に対する︑領域化の
最終段階の 一
端を記録したもの ﹂
と解してい護
︒
筆者は︑
この
あと取り上げる﹁
四県﹂ の
現在地比定の
問題からみても︑
この
田中氏の
見解に基本的には賛成である
︒
ただここで︑
とくにこの
段階における倭国と全南地
域との
関係を考えるためにも確認しておきたいことは︑百済が
﹁
四県﹂
を自国の
領域に組み入れようとしたときに︑倭国に外交使節を派造して何らかの
要請をしたとみられることである
︒
この
点は︑A ︵ a︶
ばかりでなく︑後文の ︵ b︶︵
c︶ の
史料的な検討からも裏づけることができると
︶︵
c︶ の
史料的な検討からも裏づけることができると思われる
し
︑次節での
穂積押山関係史料の
検討によっ
てもさらに補強されると考えられる︒ っ
ぎに﹁
上呼 - 1
原・ 一
・e︐
-M S---︐ :'一囲 :
・
娑陀・
牟要四県﹂ の 地 の
比定の
問題を取り上げる必
要がある︒
ただしこの
問題は筆者の
能力を超
えるもの
なの
で︑本稿では簡単な検討にとどめざるをえない︒
古地名
の
比定には︑
ある種の
あいまいさがともなうことが多く︑主観を完全に排除することはむずかしいが︑﹁
四県
﹂ の
場合にはとくにその
感が深い︒
三品彰英氏
は﹁
四県﹂ の ﹁ 一 一
一 S-
- '︐ ::︐-陳 :に当たる同語
地
名ははなはだ多く︑それを地︵2 3
︶図上に探し出して比定することはほとんど無意味に近い
﹂
といっ
ているほどである︒
そこで︑従来の
四県の
比定地をふりかえってみると
︑
かっ
て今西龍氏
は慶尚道の
西南辺 の 地
とい
︑館貝房之進氏は百済王都に接近した地域にあてた相 ︶︑戦後︑末松保和
氏
は︑一
転してこれを全南の
栄山江流域から蟾津江流域にかけての
広大な地
域に比定し種︒
田中
氏
は︑末松説は広大にすぎるとして批判し
︑末松説を部分的に修正
すれば﹁
全南西端部に集中させることは可能である
﹂
とし
て︑ ﹁ 地
名比
定になぉ問題が残り︑いまだ鉄案がみあたらないもの の
︑およそ全南地
域の
どこかを指していることはまちがいないであろう
﹂
と結論づけてい請︒
この
田中氏 の
見解は︑近年の
﹃梁職貢図﹄百済国使条の ﹁
旁小国﹂
や二二糖魯制の
検討から︑全南地
域に百済の
領域支配がぉよぶの
は六世紀に入つてからの
こととする︵2 8
︶見解とも整合的であり︑
し
たがいたい︒ ﹁
任那四県﹂
を全南地
域に比定し
てさしっ
かえないとすれば︑﹁
任那四県割讓﹂
記事は︑田中氏
が述べ
るごとく︑ ﹁
百済
の
全南地
域に対する︑領域化の
最終段階の 一
端を記録し
たもの ﹂
と考えられ︑
全南地
域に前方後円墳が造られた時期
の
︑この 地
域と倭国との
関係の 一
端を示す貴重な文献史料ということにもなってくる︒
つ
ぎに︵
c︶︵
d︶ の部分の
検討に移ろう︒ ︵
c︶
では︑宣勅使に任命された物部一
鹿鹿火が︑﹁
任那四県﹂
を百済に譲るという勅を百済使に伝えるために難波館に
向かって出発
し
ようとしたときに︑その
妻が神功皇后・
応神天皇
以来の
日本の
朝鮮経営の
歴史を説いて︑ぃ
ま﹁
四いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討四
県
﹂
を他国に譲るようなことをすると後世まで非難されることになるから宣勅はやめるようにといさめた結果︑
鹿鹿火も
っ
いに妻の
言にしたがっ
て病と称して宣勅使を辞退し︑代理の
使者が立
てられて宣勅がぉこなわれたとされる
︒
この
話の
なかにみえる一
鹿鹿火の
妻の
諫言では︑高句麗・
百済・
新羅・
任那などが日本の ﹁
海表の
蕃屏﹂
となった
の
は︑住吉神がこれらの
国々
を応神天皇
に授け︑神功皇
后と武内宿禰が国ごとに官家を置いたことに由来するという︑律令国家が﹃書紀﹄で描き出そうとした日本中
心 の
支配理念がもっとも端的な形で述べ
られている︒
とはいえ
︑
この
記事を全体としてみれば︑
宣勅使を辞退した鹿鹿火とその
妻に関しては︑ウヂ名を明記しっ っ
その
行為を賞賛する筆致で具体的に記しながら︑鹿鹿火
の
後に任命された宣勅使にっ
いては姓名を明記せず︑記述も簡略であるなど︑明らかに物部
氏
中心 の
内容になっており︑その 氏
族伝承から採録された話を下數きにしているとみられる︒
そこで筆者は︑
︵
c︶
は物部氏 の 氏
族伝承から出た話をもとにしながら︑つ
とに池内宏氏が指摘しているように︑﹃書紀﹄
編者が鹿鹿火
の
妻の
諫言という形で神功皇
后・
応神天皇
以来の
朝鮮経営の
観念的な歴史を挿入したの
であろうと考える
︒
この
想定は︑ つ
ぎにみるように︑史料の
系統を異にするとみられる︵
d︶
にも︑同じ支配理念にもとづく記述がみられることによ
っ
ても裏づけられよう︒
そこで
︵
d︶ の
勾大兄皇
子︵安閑︶にまつ
わる話であるが︑勾大兄は百済へ の ﹁
四県割譲﹂ の
宣勅を事後に知つて悔やみ︑勅を撤回
し
ようと思つて︑﹁
応神天皇以来︑
官家を置いてきた国を簡単に審国の
要請の
ままに賜わってよいの
か
﹂
といっ
て︑日應吉士
を派遣し
て改めて宣告させるが︑百済の
使臣はこれを聞き入れずに帰国してしまう︑という話である
︒
ここで勾
大兄は︑坂本太郎氏がいうように︑英雄的行為をした人物とし
て描かれている︒
勾大見は︑七年九月条にも春日皇女と
の
歌物語が掲げられてぉり︑継体紀においては継体の
長子ということで重要な人物として扱われている
︒
この
ことからみても︑ ︵ d︶
は坂本氏の
ごとく︑旧辞の
系統を引く原史料に拠つたとみてさし っ
かえな
いと思われるが︑いずれに
し
ても物部氏
とは無関係の
話であり︑︵
c︶
とは系統を異にする原史料によっているとみて誤りないであろう
︒
ただしここでも︑︵
c︶
と符節を合わせたかの
ように︑応神天皇以来の
観念的な朝鮮経営の
歴史が引き合いに出されている
︒
この
部分は︑︵
c︶
と同様に﹃書紀﹄の
編者が施した文飾であろう︒
さて︑こ
の
ように︵
c︶︵
d︶
を互
いに系統を異にする原史料にもとづいた記事とみてよいとすると︑その
ような両者にもし
共
通することがらがあれば︑それは史料批判の
原則からみて︑事実としての
信憑性が高いということになるはずである
︒
そこで両者を対照してみると︑まずどちらも︵
イ︶百済から使者がきて︑︵ロ︶﹁
四県割譲﹂ の
要請があり︑それに対して︵ハ︶そ
の
要請を受け入れるという勅が宣告されることになった︑ということが共通の
前提とされている
︒
そしてこれらの
諸点は︵
c︶
と同系統の ︵ b︶
はもちろんの
こと︑﹁
百済本記﹄を用いたとみられる︵
a︶ の
記事
とも矛盾しないことに注目したい
︒
もっともこれは︑
﹃書紀﹄の
編者が各種の
史料を使つてひとつ の
記事に再構成する際に︑相互に矛盾する箇所を修
正
した結果とも考えられるが︑
そもそも︵
c︶
も︵
d︶
も百済使に対する﹁
四県割讓﹂ の
宣勅をめぐる話であるから︑︵イ︶
〜
︵ハ
︶
の
諸点はいずれも︵
c︶ ︵ d︶ の
原史料にすでにあったとみるべ
きである︒
以上の
ことから︑百済使の
要請の
中身を﹁
四県割一 譲本日述三再︑本位に関に点識︑
の
認べいてはてすなるよ﹂
しるうとの
で修正
して考える必
要があるが︑それ以外の
︵イ︶百済使の
来朝︑︵ロ︶百済による﹁
四県﹂
に関する何らかの
協力要請︑︵ハ︶倭国によるそ
の
受諾の
三点は事実とみなしてさしっ
かえないと考える︒
いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討三 五
いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討三 六
つ
ぎに注意し
たいことは︑︵
c︶
でも︵
d︶
でも︑
百済の
要請を受け入れたことが失政と認識されていることである︒
この
点は︑ っ
づく︵
e︶
でも︑大伴金村が穂積押山は百済から賄賂をもらっ
たといううわさが立
つたとされているから︑同様である
︒
筆者は︑とくにこの
点に注目し
たい︒
次節で検討する己波・
帯沙紛争に関する記事においても︑
百済側から
己
波や多沙津を﹁
賜﹂
りたいという要請があり︑倭国がそれを受諾し
たとされているにもかかわらず︑これを失政とするような記述はとくにみられない
︒
それが﹁
四県割讓﹂ の
記事においては︑史料の
系統を異にする記事でいずれも失政とされ︑倭王権
の
決定に︑
陰に陽に抵抗をぉこなった説話が残されているということになる︒
これは︑当時
の
倭王権にとって﹁
四県割譲﹂
は己
波・
帯沙紛争とは質的に異なるできごとと受け取られ︑王権内部においても
少
なからぬ反響をよんだ事件であっ
たことを示すもの
と解してよいと思われる︒
とはいっても︑﹁
四県割讓﹂
を﹃書紀﹄が伝えるようにもともと倭国
の
支配下にあった地
域を百済に譲つたと考えることはもちろんできないの
で
︑
この
ときの
百済の
要請の
中身につ
いては︑なおほかの
関連するできごとをふまえるなどして事実の
究明につ
とめていく
し
か方法はないように思われる︒
最後に︑こ
の
記事で穂積押山に付された﹁ 一
W S- '=︐ '囲 :国守
﹂
という官職名にっ
いて検討し
てぉこう︒
なぉ類似の
記一
戦は︑継体紀二十三年︵五二
九
︶三月条︵後掲史料C
︶にも﹁
下一M S-︐ '=''囲 :
l -
邱国守穂積押山臣﹂
とみえている︒
呼用︑あるいは下略
1 1
原は︑いうまでもなく﹁
任那四県﹂ の
なかの
上略- -
邱・
下呼--
原に一
致するが︑この
記載が﹃百1
︶
済本記﹄にすでにあったとは考えがたい︒
というの
は︑﹁
呼喇国守﹂
がみえるA ︵
bは︑既述の
ように︑日本側の
原史料を用いた記事とみられる
の
に対して︑﹃百済本記﹄によったとみられるB
にはこの官職名がみえないうえ︑
穂積押山
の
箇所の
分注には﹁
百済本記云︑委意斯移麻岐弥﹂
とあって︑
明らかに官職名が付されていないの
である︒
ただし委=倭と考えられるし︑
﹁
岐弥﹂
というの
も倭人の
間で使用された尊称であるから︑﹃百済本記﹄が﹁
意斯移麻岐弥
﹂
を倭人と認識していたことは疑いない︒
また﹁
下呼1 1
原国守﹂
と記すC
も︑後述するように︑日本側の
原史料を用いた記事とみられる
︒
この
ように穂積押山に付された﹁
呼- -
邱国守﹂ ﹁
下呼- -
噸国守﹂
という官職名は︑百済系史料によ
っ
たもの
でないことが明らかである︒ ﹁
国守﹂
が大宝令制にはじまる官職名と考えられることをふまえると︑最終的には﹃書紀﹄編者が
﹁
任那﹂
を官家とみなす国家的立
場から官家にはミコ
トモチ=国司が派造されるべ
きもの
と考えてこ
の
ように表記したの
ではないかと思われる︒
ただし
もう一
方で︑この
官職名が﹃百済本記﹄によっ
たとみられる後掲
B
にはみえないということは︑﹃書紀﹄編者が一
律に穂積押山の記事に付したもの
ではないということも示している
︒
おそらく日本側の
原史料には︑穂積押山に何らかの
肩書きが付されていて︑それにもとづいて﹃書紀﹄編者が︑
A ︵ a︶
などを参考にしながら﹁
︵下︶呼--
邱国守﹂
と表記を改めたの
であろう︒
二 ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ 関 係 記 事 の 検 討
つ
ぎに︑﹁
任那四県割譲﹂
記事に関係する史料を取り上げ︑検討をおこなうことにしたい︒ A
継体紀六年︵五一
二︶四月丙黄条いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討七
いわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討造
一
穂積臣押山一
︑使一於百済一 ︒
仍賜一 一
筑紫国馬四十匹一 ︒
3
A
欽明紀元年︵五四〇
︶九
月己
卯条八
幸
一
難波祝津宮一 ︒
大伴大連金村・
許勢臣稲持・
物部大連尾與等従焉︒
天皇問一諸臣一
日︑幾許軍卒︑伐一得新羅一︒
物部大連尾與等奏日︑
少
許軍卒︑
不レ可一
易征1︒
1襲者男大迹天皇六年︑百済遣レ使︑表一請任那上哮邱下略喇--
・ ・ -
娑陀
・
牟婁四県一 ︒
大伴大連金村報依一
表請一 ︑
許一
賜所v求︒
由レ是新羅怨曠積年︒
不レ可一 一
軽爾而伐一 ︒
於レ是大伴大連金村居一住吉宅一︑称レ疾不レ朝
︒
天皇遣一青海夫人勾子一︑慰問應独︒
大連怖謝日︑臣所レ疾者非一
餘事一
也︒
今諸臣等︑謂一一一臣滅
一
任那一︒
故恐怖不レ朝耳︒
乃以二鞍馬一
贈レ使︑厚相資敬︒
青海夫人依レ実顕奏︒
詔日︑久竭一忠誠一︒
莫レ恤一
一
衆口一 ︑
遂不レ為レ罪︑優龍弥深︒
是年也
︑太歳庚申︒ A の ︵ b︶
では︑穂積押山が百済使の ﹁
任那四県割讓﹂ の
要請に口ぞえをしているが︑かれがこの
ような役割をはた
すことになったいきさ
つ
がわかるの
がA
である︒
この
記事によっ
て︑押山が﹁
任那四県割讓﹂
に先だって使臣として百済に派造されていたことが知られる
︒
簡略な記事なの
で︑原史料の
系統や押山派遺の
目的は明確でないが︑既述
の
ように︑穂積押山の
﹃百済本記﹄における初見が継体紀七年六月条︵後掲史料B
︶とみられるし︑﹁
筑紫国馬﹂
という記述もある
の
で︑日本側の
史料にもとづいた記事とみてさしっ
かえないであろう︒
その
派遣目的に関しても︑B
が手がかりを与えてくれる︒
﹃百済本記﹄にもとづいたことが明らかなB
で押山は︑百済の
外交使節である二人の
将軍とともに帰国する
の
であるが︑この
とき百済は︑伴酸国に﹁
略奪﹂
された己
波の
地を﹁
本属﹂
すなわち百済領にもど
し
てほしいという請願をするとともに︑五経博士
段楊爾を﹁
貢上﹂
したという記事である︒
この
記事も半島南部
地
域の
帰属に対する決定権を倭王
がもっていたかの
ごとき記述がみられるの
で︑
日本の 立
場からする改変が︵2 9
i︶あったことは明らかであるが︑平野邦雄氏
の
研究により︑この
ときの
五経博士
段楊爾が上番したことは事実であったと考えられる
の
で︑百済から倭王権へ
何らかの
要請があっ
たことは否定しがたいと思われる︒ B
は継体朝から欽明朝にかけて散見する諸博士 の
上番記事の
最初の
もの
である︒
諸博士 の
上番にっ
いては︑
後節で改めてとりあげるが︑平野
氏
が明らかにしたように︑
四七
八年の
倭王
武の
南朝宋へ の
遣使を最後にとだえた南朝と
の
通交に代わって︑倭国が百済を介して最新の
梁文化を入手しようとした外交政策で︑五経博士
をはじめとして医博
士 ・
暦博士 ・
易博士
などの
梁人とみられる諸博士
を交替で倭国に上番させるもの
であった︒
この
上番は百済に対する援助や救軍
の
見返りであり︑この
時期の
倭と百済の
外交関係を端的に示すもの
である︒
平野氏の
研究は︑継体
・
欽明朝の
倭・
百済の
外交関係の
研究に確実な定点を与えるもの
であり︑高く評価したい︒
こ
の
ように諸博士 の
上番は︑継体朝にはじまる新しい外交政策であるが︑それはすでに平野氏が指摘しているように︑百済武寧
王
による五一
二年の
梁との
通交の
開始にともなうもの
であった︒
穂積押山がはじめて百済に派造されたとされる継体六年は︑まさにそ
の
年にあたっ
ている︒
山尾幸久氏は︑穂積押山は﹁
諸博士 の
提供を要請するた︵30︶め︑百済王
都熊津に赴いた﹂
とみている︒
山尾氏 の
想定は魅力的であるが︑押山の
派遺と武寧王の
梁へ の
遺使時期︵﹃梁書﹄武帝紀によれば五
一
二年四月︶が近接していることに加えて︑A の
原史料が日本側の
もの
だとすると︑﹁
書紀﹄
の
繁年はあまり確かではないことになるの
で︑
断定はできないであろう︒ A
で百済使がもたらしたものが﹁
調﹂
とされていて︑まだ諸博
士 の
上番がなかっ
たことからみると︑A
で押山を派遣した目的は︑諸博士 の
上番に限定さいわゆる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討九
いわゅる
﹁
任那四県割讓﹂
の再検討四
〇
れたも
の
ではなく︑広く最新の
梁文化の
供与を百済に要請するためだったの
ではなかろうか︒ A
に筑紫国の
馬四〇匹を百済に一順つたとある
の
は異例であるが︑これは倭国の
側から百済に何らかの
要請をするための
対価とみることもできよう
︒
その
後︑武寧王 の
梁へ の
遺使があっ
たが︑おそらく使者押山が百済との
間をさらに何度か往復して折衝した結果︑倭国側から
の
何らかの
援助の
見返りとして諸博士
を上番させるということで両国が合意をみて︑それが
B ︐
で実現したという想定が可
能であると思われる︒ A
2が梁文化の
供与
を倭国側から百済に要請したもの
であるとすると︑こ
の
ことは直後の A の
解釈にも大きくかかわってこよう︒
3っ
ぎにA の
記事であるが︑これは大伴金村の
失脚として伝えられる事件で︑天皇が難波祝津宮に行幸し︑そこで新羅征伐に
っ
いて下問し
たところ︑大連の
物部尾與らは︑継体六年に大伴金村が﹁
任那四県﹂ の
百済へ の ﹁
割讓﹂
を認めたことをもちだし
︑
その
ために新羅がこれを怨み︑征伐が容易でなくなっ
てしまったとして︑その
責任を追及し
たところ︑金村は住吉の
宅に引きこもってしまったとされる︒
この
記事には︑内容的に不審な点が一
︑二みられる
︒
まず﹁
任那四県﹂ の
百済へ の ﹁
割譲﹂
を新羅が怨んだとあるが︑
これは唐突であり︑理解に苦しむ︒
百済の
領域拡大
の
経緯からみて︑﹁
任那四県﹂
が新羅に隣接した地
域であったとは考えがたいし︑A
-をみても新羅との
関わりはま
っ
たく出てこない︒
したがっ
て新羅が怨んだという記述は︑﹃書紀﹄の
編者が﹁
四県割譲﹂ の
内容をよく理解しないまま︑不用意に造作した記述とみる