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いわゆる「任那四県割譲」の再検討

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いわゆる「任那四県割譲」の再検討

著者 熊谷 公男

雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学

号 39

ページ 19‑73

発行年 2005‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024193/

(2)

い わ ゆ る ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ の 再 検 討

熊 谷 公 男

(3)

の再

問 題 の 所 在

日本書紀継体紀六年︵五

十二月条には︑百済から

使者が

調

︑ ﹁

任那国上呼

- -

・ 一

r

-M S

-

- '=

一 ・

娑陀

要四県

﹂ の

割讓を請願してきた

に対し︑

- -

原国守

穂積押山がこれに口ぞえして︑いまは四県を百済に

う方が得策だと奏上し︑大連

大伴金村もこれに同意した

で︑百済

請願

ままに四県を譲つたという記事

が載せられている

いわゆる

任那四県割讓

﹂ の

記事である

〟大和朝廷による任那

植民

支配〟が事実と考えられていた時期には︑こ

記事を文字どぉりに事実とみて︑大

和朝廷が植民地

任那

から撤退するきっかけとなった事件で︑大きな失政ととらえられることが

般的であった

たとえば

末松保和氏は

任那

衰退を殆ど決定的なも

にした所謂四県

調

と評価しているし︑石母田

武寧王は

- -

二年︑任那

四県︑すなわち全羅南道

四半分にあたるといわれる広大な地域

割讓を日本

に要請してきた

百済を救援し得ず

では吉備田狭臣

ような叛乱がぉこり︑派遺諸将

一一 一

一 一

や相殺があ

ぃ っ

ぎ︑軍紀も弛緩

てしま

ていた日本にとって︑こ

要請をこばむことはできなかった

とし︑これを

朝鮮支配

-

危機

とみた

〟大和朝廷による任那

植民地支配〟説

崩壊とともに︑

任那四県割譲

いて

ごとき評価も影をひそ

(4)

めてい

は当然

成り行きであり︑日本書紀︵以下︑書紀と略す︶

記事に検討が加えられることも

ほとんどなくなってしま

こう

た研究動向

なかで︑田中俊明

が︑書紀

任那四県割譲

﹂ の

すぐあと

継体紀七

十年

諸条と同二十三年三月条とに掲げられている

帯沙をめぐる百済と伴般

加羅

抗争事件

︵以下

﹁ 己

帯沙紛争

とよぶ︶に関する史料

詳細な検討をおこない︑新し

見解を提示

通ことは注目すべき

成果であろう

氏によって伴跛とは高霊

大加耶にほかならず︑これら

記事は娩津江上流域

波と︑同じく始

津江

下流域に比定される帯沙︵=多沙︶をめぐる百済と大加耶連盟と

抗争

記録であることが明らかにされた

である

これを百済

側からみれば︑こ

時期百済が推進していた南進策

成果ということになるが︑百済が加

耶西端

蟾津江流域に進出するためには︑当然︑西に隣接する全羅南道

確保が重要な意味をも

っ ︒

それに相

当する可能性

ある事件が

書紀

帯沙紛争がはじまる前年に掲げている

任那四県割譲

ということに

なってくる

である

田中

は︑右

ごとき研究成果

うえにた

て︑さらに

任那四県割譲

﹂ の

再評価を試みている

すなわち田中

氏によれば︑書紀

記されているとぉりに︑それまで倭

あるいは倭が帰属に対する決定権を持ていた

四県を︑こ

時になって百済に割譲した︑ととらえる

要はない

記事自体は︑史料的に孤立したも

で︑傍

証もないかわりに︑反証もない

︒ し

︑こ

翌年

継体七年から

一 〇

年に至る︑いわゆる

﹁ 己

帯沙事件

﹂ - -

には︑倭が百済に

の 地

を賜与した︑と記している

であるが︑それが事実ではなく︑日本書紀によって

りあげられた虚構であることが明らかな

である

日本書紀

はこ

ように︑倭に領有権も帰属決定権もない地域

の再

(5)

の再

いて︑あたかもそれがあるか

ように記している

である

そうした例をもとに考えれば

いわゆる

那四県割讓記事

も︑現実は

百済がそ

の 地

を実力をもって獲得したということであろう

四県

﹂ の 地

名比

定には問題が残るも

の の ﹁

およそ全南地域

どこかを指していることはまちがいないであろう

て︑そうであ

れば︑こ

いわゆる

四県割譲

が︑百済

全南

域に対する︑領域化

最終段階

の 一

端を記録

たも

と考えて

さし

かえない

ここになぉ含まれない

域を想定すれば

百済は︑五世紀

末から六世紀

なかばにかけて︑全

南地域

域を領有していった

であった

て︑

任那四県割譲

を百済が六世紀前半に推進した全南

慶南方面

︵4

u へ の

進出策

なかに位置づけた

︒ ﹁

任那四県割譲

記事は︑新たな観点から再評価をされることになった

である

︒ 一

方︑

任那四県割讓

﹂ の

舞台

地と思われる全南

域では

近年︑前方後円墳︵前方後円形墳

長鼓墳︶

存在

が明らかになり︑これまでに

〇数基が確認されている

それらは︑

部は五世紀後半にまで

るとされるが︑大

半は六世紀前半代に築造されたとみられ︑しかもそれらが全南に集中的に分布するという興味深い現象が知られる

ようにな

まさに書紀が記す

任那四県割譲

と時期

・ 地

域ともにかさなることになる

現在︑朝鮮半島

前方後円墳に関

ては︑被葬者問題を中

に日韓

考古学

文献史学

研究者

間で活発な議

;o︶論が展開されてぉり

当該時期

日朝関係を考えるうえで重要な論

とな

ている

前方後円墳が集中的に分布する全南

とくに栄山江流域では︑三世紀後半から六世紀前半にかけて独特

一 一

5

棺墓制が展開することが知られており︑そ

間︑こ

の 地

域は加耶とも百済とも異なる独自

地域を構成していたこ

6︶とがひろく認められ

っ つ

ある

ところが六世紀半ばごろになると︑こ

地域に百済

中央勢力

影響を強く受けた

(6)

横穴式石

室 の

急速な普及がみられ︑それにともなって伝統的な独自

墓制や前方後円墳は姿を消してしまう

ような墓制

変化は︑近年では百済による全南

領域支配

実現と

関係で考える見解が有力視されるように

なってきた

献史学

側でも︑五世紀

五王

官爵にみえる

慕韓

︵=馬韓︶を︑当時なぉ全羅南道に存在していた馬

残存勢力と解する説が提示されているし

-

さらに梁職貢図百済国使条

の ﹁

旁小国

や百済熊津時代

領域

支配制度である二二糖魯制

検討からも︑全南地域に百済

領域支配がぉよぶ

は六世紀に入つてから

ことと考

8︶えられるようになってきている

ように全南

栄山江流域は︑原三国時代以降

六世紀前半にいたるまで︑周

から相対的に独立した地域を

構成してぉり︑こ

の 地

諸集団は倭

加耶

百済などと活発に交流をしながら独自

政治社会

文化を保持して

いたことが知られるようにな

栄山江流域

勢力をめぐるこ

ような国際関係

あり方は︑こ

地域

前方後

円墳

被葬者問題においても十分に考慮されなければならない

たとえば︑前方後円墳

副葬品には在地

︵ 9

︶加えて倭系

加耶系

百済系など複数

外来系文物が混在

ていることが

般的であるという指摘がされているし︑

1 0

︶近年︑前方後円墳にともなうことが知られている円筒形土製品や横穴式石室が在地

古墳にも用いられていること が判明

︑列島

古墳文化

墓制

構成要素が︑

なくとも部分的には明らかに在

地 の

墓制に受容されているとい

う複雑な状況が明らかにな

てきた

前方後円墳

被葬者問題も︑これを倭と

関係

みで理解しようとする

しい研究方法とはいいがたく

栄山江流域勢力

ような複雑な対外交流を十分にふまえたうえで検討される

の再

(7)

の再

︵=︶

要がある

である

栄山江流域

前方後円墳

被葬者をめぐっては︑日本

文献史学

研究者

間でも︑たとえば朝鮮史

田中俊明

氏が在

首長説を唱えてい礎

して︑日本古代史

山尾幸久氏が倭系百済官僚説を主張す調など

いまだ見解

の 一

致をみていないが

根底には五世紀後半〜六世紀前半

時期

日朝関係︑とくに倭

勢力が栄山江流域に

ようにかかわっていたかということに関する認識

相違があると思われる

こう

近年

古代日朝関係史研究において五世紀後半

六世紀前半

全南地域と

関係が改めて脚光をあび

ることになった

ところがこ

時期

全南地域に関する文献史料はきわめてとぼ

そう

うなかで書紀

の ﹁

任那四県割譲

記事は︑全南

域に関わるとみられる貴重な文献史料であるにもかかわらず

あまりにも研究が立

ちおくれているといわざるをえない

古代国家

支配理念が露骨に表出した記事であるため︑敬速されてきた

は やむをえない面もあるが

近年︑こ

地域と倭国

間に密接な関係

あったことが明らかになってきたことをふま

えて︑改めて

献史学

側からこ

史料を再検討

てみることは無意味ではないであろう

一 ぃ わ ゆ る ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ 記 事 の 史 料 的 検 討

まず最初に︑書紀

の ﹁

任那四県割譲

記事を掲げる

(8)

A

継体紀六年︵五

二︶十二月条

〇百済造レ使貢レ調

別表請

任那国上呼喇

M S

--

一 ・

娑陀

四県一

︒ ︵

b

略喇国守穂積臣押山奏日︑此四県

近連

百済

︑速隔一

日本

一 ︒ 旦 一

易レ通

鶏犬難レ別

今賜

百済一︑合為一同国

︑固存之策︑無一

以過?此

然縦賜

合レ国︑後世猶危

況為

一 一

異場

︑幾年能守

︒ ︵

c

大伴大連金村具得

是言

一 ︑

同レ謨而奏

廼以

一 一

物部大連一鹿鹿火

︑宛

宣勅使

一 ︒

物部大連方欲

向難波館

︑宣勅於百済客

其妻固要日︑夫住吉大神初以

一 一

海表金銀之国︑高麗

百済

新羅

任那等

︑授一記胎中管田天皇

一 ︒

故︑大后気長

姫尊

与 一一

大臣武内宿禰

︑毎レ国初置

官家

︑為

一 一

表之審屏

一 ︑

其来尚矣

抑有レ由焉

縦削賜レ他︑違

一本区域

一 ︒

綿世之刺

於口

一 ︒

大連報日︑教示合レ理

天勅

一 ︒

其妻切諌云︑称レ疾莫レ宣

大連依レ諫

由レ是改レ使而宣勅

一 一

賜物并制旨

一 ︑

依レ表賜一任那四県

一 ︒ ︵

d

大兄皇子前有縁事

︑不レ聞レ賜レ国︑晩知一宣勅

一 ︑

驚悔欲レ改レ令日︑自胎中之帝

官家

之国

軽随

蕃乞

爾賜乎

乃造

日鷹吉

士 一 ︑

改宣

百済客

一 ︒

使者答啓︑父天皇図

計便宜

︑勅賜既罪

子皇子豈違一帝勅

︑妄

改而令

︒ 必

是虚

也 ︒

縦是実者

持一

杖大頭

打︑孰

・ 与

杖小頭

打上痛乎︑遂罷

︒ ︵

e

於レ是或有一

流言

日︑大伴大

一呼喇国守穂積臣押山

︑受一百済之賂

記事は︑

a

︶ 〜 ︵

e

︶ の

つ の

部分に分けることができると思われる

それぞれ

記事

内容をまとめると

りである

- ; こしたりあるしたりさだむろ〇百済が遣使

・ ﹁

貢調

して︑任那国

上略用

一一

S一

娑陀

牟要

の ﹁

四県

割譲

1

筆者補 を願う

〇略用国守穂積押山がこれに口ぞえして︑四県は百済に近接

︑倭国からは遠く隔たっていて守りにくい

で︑

(9)

の再

百済に

える方が得策だと奏上する

〇大伴金村も押山

意見に同意

旨を奏上する

四県割讓

許諾を百済使に伝える宣効使に物部鹿鹿火が任じ

られるが︑

鹿鹿火

妻は神功皇后

応神天

以来

半島政策

経緯を説き︑宣勅使

役をやめさせる

果︑別

人物が宣勅使に

てられ︑要請どぉりに任那

四県を賜わる

〇あとでこ

ことを知つた

大兄

子︵

安開天

︶は︑さき

宣勅を撤回

ようとするが︑百済使は聞

き入れずに帰国する

〇大伴金村と穂積押山は百済から賄賂をもらったという流言が

立 つ ︒

既述

ように︑近年

田中俊明氏はこ

史料を再評価したが

それは

もこ

記事全体を検討した結果では

ない

田中氏は

記事自体は︑史料的に孤

したも

で︑傍証もないかわりに︑反証もない

とし︑主として

部分にみえる

四県

﹂ の 地

比定と

自身

の 己

帯沙紛争に関する研究成果を援用して再評価をぉこなっ

である

これまで︑こ

記事自体

全体的な検討をぉこなった日本

研究者は︑

ちに取り上げるが︑坂本太

郎氏ぐらいではないかと思われる

︒ ﹁

任那四県割譲

記事

史料的研究は︑どろくほど低調な

である

それはお

そらく︑記事中に百済や

任那

を倭国

蕃国視し︑それら

地域

支配権があたかも︑本来︑倭王に帰属するか

ような

露骨な日本本位

記述がみられることに加えて︑記事中

四県

の ﹁

上呼喇

下呼

- -

娑陀

牟要

とい

名は百済系

史料によ

たとみられるも

の の

︑大半は日本側

原史料によ

て記されたと考えられるため︑そ

史料的価値がきわめて低くみられてきたことによると思われる

(10)

筆者も︑書紀

ころまで

日本側

史料にもとづいた記事が︑

般的に︑百済三書など

百済系史料にも とづく記事にくらべて格段に史料的価値が劣ることは否定しがたいと思うが︑それにしても

任那四県割譲

記事

は検討に値しないほどそ

史料的価値は低く︑

史料的に孤

したも

で︑傍証もないかわりに︑反証もない

であろうか

筆者は

︑ ﹁

任那四県割譲

は確かに日本側

史料を主体として選述された記事とみられるが︑記事

中に登場する

呼用国守穂積臣押山

は︑後述するように百済系史料である百済本記にもみえる実在

人物で

あり︑こ

人物を手がかりにすれば︑

も孤

した史料ではなくなるし︑また日本本位

記述を修

正 し

たうえ

で︑史料

系統

異同をふまえながら検討すれば︑おぼろげながらある程度

事実を浮かび上がらせることは可能

ではないかと考えるにいたった

そこで以下︑本記事

検討を試みることにしたい

最初にこれまで

研究を簡単にふり返つてみると

まず池内宏

百済側

材料を骨子として︑それに潤色を

ほどこした形跡が顕著である

大連大伴金村が穂積押山

議に賛同し︑大連物部

鹿鹿火が勅命を百済

使者に伝え

る任をおびて難波

館にむかわんとしたというがごときは︑日本側

所伝によったも

であろうし︑そ

とき鹿鹿

妻が夫をいさめ

た言葉は

書紀

編者

造作と認められる

と記事全体

史料的性格を概括している

は︑傾

1 4

聴すべきところが少なくない

︒ っ

ぎに坂本太郎氏は︑こ

記事はかなり

時間的経緯があったできごとを圧縮して

六年十二月条にかけたも

で︑

編修上

整理がこまごまと重ねられたも

と思われる

原史料には百済本記も

あれば︑日本

記録もあったらしい

うち

の 勾

大兄

子に関する部分が旧辞風

伝承的な記録によっているら

ぃ - -

が︑物部鹿鹿火に関する所なども同様であろうと思う

とし

書紀継体紀七年︵五

三︶六月条︵後掲

の再

(11)

の再

史料

B

︶に

穂積押山に関して

百済本記云︑委意斯移麻岐弥

という注記がある

A

にそれがない

は︑

A の

穂積押山

名が日本側

史料によ

ていることを示すと

ている

そうすると︑

B

百済本記ける穂積押

初見史料ということになる

また百済系

原史料を用いた箇所に

いては︑

任那四県

の 一 々 の

名称などは百済

本記によるも

であり︑押山

︑こ

地を百済に賜うことを得策とするあたり

百済本位

言説も︑百済本記によ

るも

らしい

という見解を示している

こうして坂本

は︑日本側

の 旧

辞風

記録と百済本記

の ﹁

両史料を

適宜に按配して

記事は作られたも

と考えられる

と結論づけた

坂本氏

見解は︑

任那四県割譲

史料的研究

指針となるも

で︑きわめて重要である

さらに三品彰英

は︑

事件に関連した日本朝廷

内部

話が主となっている点からして︑日本側

所伝で

あったと推断してよかろう

持統紀五年八月条に︑大三輪氏以下十八家に先祖

墓記︵

釈紀

では築記︶を上進さ

せた記事

中に穂積

氏 の

名も見えているから︑書紀撰述

際に同

氏 の

伝承には經つたも

があったであろう

ただ

し︑こ

六年条には略

- 1

娑陀

牟婁など

名が見えている

で︑こ

点は百済系

史料を組み合わせて利用

したかもしれない

と︑同様に日本

百済両系統

史料

組み合わせとみるが︑日本側

史料は穂積氏

家伝によっ

l 6

たと考えているようである

また山尾幸久

話は百済本記を根拠としたも

ではなく︑大伴氏

政治

l︶的

変動

事情を物部氏

の 立

場から説明した伝承である

とする

改めて記事

構成をみてみると︑

b

︶ 〜 ︵

e

はす

て倭国内部

話であるから︑日本側

史料によったとみてよいと

思われる

坂本

は︑

b

が百済本位

言説を記していることからみて百済本記によったと推定しているが

c

(12)

b

︶ の

話を前提としているから︑

b

c

で日本側

史料にあった話とみる

きであろう

つぎに

c

d

であるが︑筆者はこ

は史料

系統を異にしていると考える

︒ ︵

d

は︑坂本氏が勾大兄

英雄的行為を描

いたも

で︑旧辞に類似

た伝承的な記録にもとづくとみたことは妥当と思われる

それに対して

c

は話

おもむ

きがかなり異な

てぉり︑大伴金村

指示にしたがわない物部

鹿鹿火とそ

物語が美談風に

づられている

れはやはり物部

氏 の 氏

族伝承によ

たも

とみる

がよいと思われる

︒ ︵

e

︑ ︵

c

︶ の

後日談として理解できるから系

統的には

c

と同じであろう

最後に

a

は︑百済

遣使記事であることと︑

上哮喇

下略

1 -

娑陀

牟一要

という

半島

地名が出てくることからみて︑百済系

史料とみてさ

し っ

かえない

継体紀は︑周知

ように︑百済本記

を多用している

で︑これもぉそらくは百済本記によったも

六年四月という年紀も同史料

にした

がった

であろう

そうすると︑

A の

記事は︑年紀と冒頭

部分は百済本記にもとづき︑そ

あとに国内史料

を連綴して述作されたということになる

国内史料は︑物部氏

家伝を主体としているが途中に

系統を引

く書物から

大兄皇子

話を挿入

たと考えられる

である

さて︑いわゆる

任那四県割譲

記事

史料的系統を右

ように考えて大過ないとすると︑ここからいく

問題が派生

てくる

まず︑百済本記

年紀が信頼性

高いも

であることは︑すでに定評がある

︒ し

たがってこ

ばあいも︑

梁年には

何か反証がないかぎり︑信をぉいてよいということになろう

そして六年十二月とは︑百済使が

来倭した年紀とみられる

︒ つ

ぎに

︑ ︵

a

︶ の

記事内容が何らか

事実にもとづいていると解することも許されよう

の再

(13)

県割

の再

だしこれまで

研究で明らかにされてきたように︑百済本記は問題

多い史料である

で︑そ

史料的性格には

十分に留意してぉく

要がある

百済本記百済記

百済新撰を加えた三書は

百済三書

と総称され︑書紀

編築に使用された百

済系

史料として著名であり︑ほぼ同様

事情も

と考えられている

成立事情に関しては︑山尾幸久氏

が整理しているように︑六世紀末に︑百済が対倭政策

の 必

要から︑倭国

朝廷に編築して

出した歴史書と考える

説と︑七世紀後半

の 亡

命百済貴族が百済

史籍を改めて編 :

なおして︑日本書紀修史局に提出したとみる説に

大別され那

筆者は︑基本的には山尾

同様︑後者

の 一

識に賛同するが︑間題は百済三書ないし書紀

三書

原史料となったと思われる百済

史籍にど

程度手を加えているかということである

亡命百済貴族

手になる百

済三書やそれによ

て書かれた書紀本文

史料的価値を吟味するには︑

″百済三書〟や日本書紀が編まれ

た時代

国家

支配理念を踏まえ

要があるという山尾

氏 の

指摘は︑十分に尊重される

きであるが

山尾氏

が続けて

評価や意味づけはもとより︑用語や表現に至るまで︑七世紀末

八世紀初め

日本

の 立

場から書かれて

B ﹂

と述

ている

は︑筆者には書紀

記述内容をそ

編纂時点における国家

の 立

場に還元しすぎているよ

うに思われる

百済三書には︑書紀編纂時点における国家的

場にそ

た改変が要所要所に加えられたであろう

ことは容易に推察されるが︑

方で百済三書

もとになった百済

史籍

筆致がそ

まま残されているとみられる

ところも少なくない

である

百済三書にもとづいたと思われる書紀

本文には︑よく知られているように︑百済中

心 の

記述が随所にみら

(14)

れる

たとえば百済記にもとづいていると思われる神功紀四十九年三月条

の ﹁

屠一

南蛮忱弥多礼

︑以賜

百済

一 ﹂

という

文を例にとると︑忱弥多礼すなわち一

W-

一 一

羅︵済州島︶を百済に

わったという

は︑いうまでもなく日

の 立

場から

記述であるが︑そ

直前

の ﹁

南蛮

は百済的な華夷思想よる表現であるから︑百済

史書

表現

がそ

まま残つたと考えざるをえない

筆者は︑

一 つ の

文章

中にこ

ような相矛盾する表現がみられるところに︑

百済三書

史料的性格と書紀

編纂方針が端的に表われていると思う

同様

ことは︑百済本記によったと

みられる後掲

B

記事に

いてもいえる

継体紀

年︵五

三︶十

卯条︵

B

︶では

己波

滞沙

︑賜一一

百済国

一 ﹂

と日本

国家的立場から

記述をしているが︑直前

継体紀同年六月条︵

B

︶には百済

将軍が

伴破国

略一

奪臣国己 波之

地 一

︑伏願天恩判︑還

本属

一 ﹂

と奏上したとされていて︑己波は本来百済

地であるという︑日本

支配理念と

ずしも合致しない百済

の 立

場から

主礎が書紀

本文に残されている

である

さらに継体紀

五︶四月条︵

B

︶には︑物部連らは︑水軍を率いて帯沙江に滞留していたときに伴般

軍勢

攻準を受

けて︑命からがら逃走して波慕羅まで退いたという記述がある

倭国

軍隊が伴般

軍隊に撃破されて退却したと

いう

日本

の 立

場からすれば不名管で不都合な内容である

これまた︑百済

史籍

記述がそ

まま残された

と解するしかないであろう

ように百済三書にもとづいた書紀

本文には︑百済や

任那

を倭国

蕃国視し︑それら

地域

支配

権があたかも︑本来

倭王に帰属するも

であるか

ような︑露骨な日本

国家的

場にもとづく記述がみられる

が︑同時に

百済

の 立

場からする記述が随所に遺存していることも事実で書紀

修史局

筆削は

ずしも

の再

(15)

任那

したも

ではなかったと考えられる

l

さて百済本記をふくむ百済三書

史料的性格が右

ごとくであったとすると︑

A の 0 の ﹁

貢レ調

請一任

那国

-

:四県一

といった表現は

百済本記にすでにあった

書紀

編者

改変かは分明でないが

いず

れにしても日本

国家的

場を前

とした表現になっていて︑こ

点は事実とは考えがたい

ただし︑そ

ような

表現を修

すれば︑事実にもとづいた記事とみてさし

かえないと思われる

すなわちこ

とき百済から外交使節

が倭国に派遺され︑

上呼用

下呼

- -

娑陀

牟一要

﹂ の ﹁

四県

﹂ の

百済

領有にかかわって︑倭国に何らか

要請が

たと考えられる

である

既述

ように︑田中俊明

は︑こ

いわゆる

任那四県割譲

いて︑

現実は︑百済がそ

の 地

を実力をもって

獲得したということであろう

として︑

百済

全南地域に対する︑領域化

最終段階

の 一

端を記録したも

の ﹂

と解

してい護

筆者は

あと取り上げる

四県

﹂ の

現在地比定

問題からみても

田中氏

見解に基本的には

賛成である

ただここで

とくにこ

段階における倭国と全南

域と

関係を考えるためにも確認しておきたいこ

とは︑百済が

四県

を自国

領域に組み入れようとしたときに︑倭国に外交使節を派造して何らか

要請をした

とみられることである

点は︑

A ︵

a

ばかりでなく︑後文

の ︵

b

︶︵

c

︶ の

史料的な検討からも裏づけることができると

思われる

︑次節で

穂積押山関係史料

検討によ

てもさらに補強されると考えられる

︒ っ

ぎに

呼 - 1

・ 一

e

-M S

---︐ :' :

娑陀

牟要四県

﹂ の 地 の

比定

問題を取り上げる

要がある

ただしこ

問題は筆者

能力を

えるも

で︑本稿では簡単な検討にとどめざるをえない

(16)

古地名

比定には

ある種

あいまいさがともなうことが多く︑主観を完全に排除することはむずかしいが︑

﹂ の

場合にはとくにそ

感が深い

三品彰英

四県

﹂ の ﹁ 一 一

一 S

-

- ' ::- :に当たる同語

名ははなはだ多く︑それを地

︵2 3

︶図上に探し出して比定することはほとんど無意味に近い

とい

ているほどである

そこで︑従来

四県

比定地

をふりかえってみると

て今西龍

は慶尚道

西南

辺 の 地

︑館貝房之進氏は百済王都に接近した地域にあ

てた相 ︑戦後︑末松保和

は︑

転してこれを全南

栄山江流域から蟾津江流域にかけて

広大な

域に比定し種

田中

は︑末松説は広大にすぎるとして批判

︑末松説を部分的に修

すれば

全南西端部に集中させることは可

能である

︑ ﹁ 地

定になぉ問題が残り︑いまだ鉄案がみあたらないも

の の

︑およそ全南

どこかを指

していることはまちがいないであろう

と結論づけてい請

田中

氏 の

見解は︑近年

梁職貢図百済国使条

の ﹁

旁小国

や二二糖魯制

検討から︑全南

域に百済

領域支配がぉよぶ

は六世紀に入つてから

こととする

2 8

︶見解とも整合的であり︑

たがいたい

︒ ﹁

任那四県

を全南

域に比定

てさし

かえないとすれば︑

任那四県割讓

記事は︑田中

が述

るごとく

︑ ﹁

全南

域に対する︑領域化

最終段階

の 一

端を記録

たも

の ﹂

と考えられ

全南

域に前方後円墳が造られた

時期

︑こ

の 地

域と倭国と

関係

の 一

端を示す貴重な文献史料ということにもなってくる

ぎに

c

︶︵

d

︶ の

部分

検討に移ろう

︒ ︵

c

では︑宣勅使に任命された物部

鹿鹿火が︑

任那四県

を百済に譲るという勅を百済使に伝えるために難波館に

向かって出発

ようとしたときに︑そ

妻が神功皇后

応神天

以来

日本

朝鮮経営

歴史を説いて︑

の再

(17)

の再

を他国に譲るようなことをすると後世まで非難されることになるから宣勅はめるようにといさめた結果

鹿

鹿火も

いに妻

言にしたが

て病と称して宣勅使を辞退し︑代理

使者が

てられて宣勅がぉこなわれたとされ

なかにみえる

鹿鹿火

諫言では︑高句麗

百済

新羅

任那などが日本

の ﹁

海表

蕃屏

となっ

は︑住吉神がこれら

を応神天

に授け︑神功

后と武内宿禰が国ごとに官家を置いたことに由来すると

いう︑律令国家が書紀で描き出そうとした日本中

心 の

支配理念がもっとも端的な形で述

られている

とはい

記事を全体としてみれば

宣勅使を辞退した鹿鹿火とそ

妻に関しては︑ヂ名を明記し

っ っ

行為を

賞賛する筆致で具体的に記しながら︑鹿鹿火

後に任命された宣勅使に

いては姓名を明記せず︑記述も簡略であ

るなど︑明らかに物部

心 の

内容になってり︑そ

の 氏

族伝承から採録された話を下數きにしているとみられる

そこで筆者は︑

c

は物部

氏 の 氏

族伝承から出た話をもとにしながら

︑つ

とに池内宏氏が指摘しているように︑書紀

編者が鹿鹿火

諫言という形で神功

応神天

以来

朝鮮経営

観念的な歴史を挿入した

であろうと考

える

想定は

︑ つ

ぎにみるように︑史料

系統を異にするとみられる

d

にも︑同じ支配理念にもとづく記述が

みられることによ

ても裏づけられよう

そこで

d

︶ の

勾大兄

子︵安閑︶にま

わる話であるが︑勾大兄は百済

へ の ﹁

四県割譲

﹂ の

宣勅を事後に知て悔

やみ︑勅を撤回

ようと思つて︑

応神天皇以来

官家を置いてきた国を簡単に審国

要請

ままに賜わってよい

とい

て︑日應吉

を派遣

て改めて宣告させるが︑百済

使臣はこれを聞き入れずに帰国してしまう︑とい

う話である

ここで

大兄は︑坂本太郎氏がいうように︑英雄的行為をした人物と

て描かれている

勾大見は︑七

(18)

年九月条にも春日皇女と

歌物語が掲げられてぉり︑継体紀においては継体

長子ということで重要な人物として

扱われている

ことからみても

︑ ︵

d

は坂本氏

ごとく︑旧辞

系統を引く原史料に拠つたとみてさ

し っ

かえな

いと思われるが︑いずれに

ても物部

とは無関係

話であり︑

c

とは系統を異にする原史料によっているとみて

誤りないであろう

ただしここでも︑

c

と符節を合わせたか

ように︑応神天皇以来

観念的な朝鮮経営

歴史が

引き合いに出されている

部分は︑

c

と同様に書紀

編者が施した文飾であろう

さて︑こ

ように

c

︶︵

d

いに系統を異にする原史料にもとづいた記事とみてよいとすると︑そ

ような両者に

もし

通することがらがあれば︑それは史料批判

原則からみて︑事実として

信憑性が高いということになるは

ずである

そこで両者を対照してみると︑まずどちらも

イ︶百済から使者がきて︑︵ロ︶

四県割譲

﹂ の

要請があ

り︑それに対して︵ハ︶そ

要請を受け入れるという勅が宣告されることなった︑ということが共通

前提とさ

れている

そしてこれら

諸点は

c

と同系統

の ︵

b

はもちろん

こと︑

百済本記を用いたとみられる

a

︶ の

記事

とも矛盾しないことに注目したい

もっともこれは

書紀

編者が各種

史料を使つてひと

つ の

記事に再構成す

る際に︑相互に矛盾する箇所を修

した結果とも考えられるが

そもそも

c

d

も百済使に対する

四県割讓

﹂ の

宣勅をめぐる話であるから︑︵イ︶

︵ハ

諸点はいずれも

c

︶ ︵

d

︶ の

原史料にすでにあったとみる

きである

以上

ことから︑百済使

要請

中身を

四県割

一 譲本日述三再︑本位に関に点識︑

認べいてはてすなるよ

しるうと

で修

して考える

要があるが︑それ以外

︵イ︶百済使

来朝︑︵ロ︶百済による

四県

に関する何らか

力要請︑︵ハ︶倭国によるそ

受諾

三点は事実とみなしてさし

かえないと考える

(19)

の再

ぎに注意

たいことは︑

c

でも

d

でも

百済

要請を受け入れたことが失政と認識されていることである

点は

︑ っ

づく

e

でも︑大伴金村が穂積押山は百済から賄賂をもら

たといううわさが

つたとされているから︑

同様である

筆者は︑とくにこ

点に注目

たい

次節で検討する己波

帯沙紛争に関する記事においても

百済

側から

波や多沙津を

りたいという要請があり︑倭国がそれを受諾

たとされているにもかかわらず︑これ

を失政とするような記述はとくにみられない

それが

四県割讓

﹂ の

記事においては︑史料

系統を異にする記事

でいずれも失政とされ︑倭王権

決定に

陰に陽に抵抗をぉこなった説話が残されているということになる

これ

は︑当時

倭王権にとって

四県割譲

帯沙紛争とは質的に異なるできごとと受け取られ︑王権内部にお

いても

なからぬ反響をよんだ事件であ

たことを示すも

と解してよいと思われる

とはいっても︑

四県割讓

書紀が伝えるようにもともと倭国

支配下にあった

域を百済に譲つたと考えることはもちろんできない

とき

百済

要請

中身に

いては︑なおほか

関連するできごとをふまえるなどして事実

究明に

めていく

か方法はないように思われる

最後に︑こ

記事で穂積押山に付された

﹁ 一

W S

- '= ' :国守

という官職名に

いて検討

てぉこう

なぉ類似

は︑

継体紀二十三年︵五二

︶三月条︵後掲史料

C

︶にも

下一M S

- '='' :

l -

邱国守穂積押山臣

とみえている

呼用︑あるいは下略

1 1

原は︑いうまでもなく

任那四県

﹂ の

なか

上略

- -

下呼-

-

原に

致するが︑こ

記載が

1

済本記にすでにあったとは考えがたい

という

は︑

呼喇国守

がみえる

A ︵

bは︑既述

ように︑日本側

原史

料を用いた記事とみられる

に対して︑百済本記によったとみられる

B

にはこの官職名がみえないうえ

穂積押

(20)

箇所

分注には

百済本記云︑委意斯移麻岐弥

とあって

明らか官職名が付されていない

である

ただ

し委=倭と考えられるし︑

岐弥

という

も倭人

間で使用された尊称であるから︑百済本記

意斯移麻岐

を倭人と認識していたことは疑いない

また

下呼

1 1

原国守

と記す

C

も︑後述するように︑日本側

原史料を

用いた記事とみられる

ように穂積押山に付された

- -

邱国守

﹂ ﹁

下呼

- -

噸国守

という官職名は︑百済系史料に

たも

でないことが明らかである

︒ ﹁

国守

が大宝令制にはじまる官職名と考えられることをふまえると︑最終

的には書紀編者が

任那

を官家とみなす国家的

場から官家にはミ

トモチ=国司が派造される

きも

考えてこ

ように表記した

ではないかと思われる

ただ

もう

方で︑こ

官職名が百済本記によ

たとみ

られる後掲

B

にはみえないということは︑書紀編者が

律に穂積押山の記事に付したも

ではないということも

示している

おそらく日本側

原史料には︑穂積押山に何らか

肩書きが付されていて︑それにもとづいて書紀

編者が︑

A ︵

a

などを参考にしながら

︵下︶呼-

-

邱国守

と表記を改めた

であろう

二 ﹁ 任 那 四 県 割 譲 ﹂ 関 係 記 事 の 検 討

ぎに︑

任那四県割譲

記事に関係する史料を取り上げ︑検討をおこなうことにしたい

︒ A

継体紀六年︵五

二︶四月丙黄条

の再

(21)

の再

穂積臣押山

︑使一於百済

一 ︒

仍賜

一 一

筑紫国馬四十匹

一 ︒

3

A

欽明紀元年︵五四

卯条

難波祝津宮

一 ︒

大伴大連金村

許勢臣稲持

物部大連尾與等従焉

天皇問一諸臣

日︑幾許軍卒︑伐一得新羅一

物部大連尾與等奏日︑

許軍卒

不レ可

易征1

1者男大迹天皇六年︑百済遣レ使︑表一請任那上哮

邱下略喇--

・ ・ -

娑陀

牟婁四県

一 ︒

大伴大連金村報依

表請

一 ︑

賜所v

由レ是新羅怨曠積年

不レ可

一 一

軽爾而伐

一 ︒

於レ是大伴

大連金村居一住吉宅一︑称レ疾不レ朝

天皇遣一青海夫人勾子一︑慰問應独

大連怖謝日︑臣所レ疾者非

餘事

諸臣等︑謂一一臣滅

任那一

故恐怖不レ朝耳

乃以鞍馬

贈レ使︑厚相資敬

青海夫人依レ実顕奏

詔日︑久竭一忠誠一

莫レ恤一

衆口

一 ︑

遂不レ為レ罪︑優龍弥深

是年

︑太歳庚申

︒ A の ︵

b

では︑穂積押山が百済使

の ﹁

任那四県割讓

﹂ の

要請に口ぞえをしているが︑かれがこ

ような役割をはた

すことになったいきさ

がわかる

A

である

記事によ

て︑押山が

任那四県割讓

に先だって使臣とし

て百済に派造されていたことが知られる

簡略な記事な

で︑原史料

系統や押山派遺

目的は明確でないが︑既

ように︑穂積押山

百済本記における初見が継体紀七年六月条︵後掲史料

B

︶とみられるし︑

筑紫国馬

という記述もある

で︑日本側

史料にもとづいた記事とみてさし

かえないであろう

派遣目的に関しても︑

B

が手がかりを与えてくれる

百済本記にもとづいたことが明らかな

B

で押山は︑百済

外交使節である二人

将軍とともに帰国する

であるが︑こ

とき百済は︑伴酸国に

略奪

された

地を

本属

すなわち百済領

にもど

てほしいという請願をするとともに︑五経博

段楊爾を

貢上

したという記事である

記事も半島

(22)

南部

帰属に対する決定権を倭

がもっていたか

ごとき記述がみられる

日本

の 立

場からする改変が

2 9

i︶あったことは明らかであるが︑平野邦雄氏

研究により︑こ

とき

五経博

段楊爾が上番したことは事実であっ

たと考えられる

で︑百済から倭王権

何らか

要請があ

たことは否定しがたいと思われる

︒ B

は継体朝から欽明朝にかけて散見する諸博

士 の

上番記事

最初

である

諸博

士 の

上番に

いては

後節

で改めてとりあげるが︑平野

が明らかにしたように

八年

南朝宋

へ の

遣使を最後にとだえた南朝

通交に代わって︑倭国が百済を介して最新

梁文化を入手しようとした外交政策で︑五経博

をはじめとして

医博

士 ・

暦博

士 ・

易博

など

梁人とみられる諸博

を交替で倭国に上番させるも

であった

上番は百済に

対する援助や救軍

見返りであり︑こ

時期

倭と百済

外交関係を端的に示すも

である

平野氏

研究は︑継

欽明朝

百済

外交関係

研究に確実な定点を与えるも

であり︑高く評価したい

ように諸博

士 の

上番は︑継体朝にはじまる新しい外交政策であるがそれはすでに平野氏が指摘しているよ

うに︑百済武寧

による五

二年

梁と

通交

開始にともなうも

であった

穂積押山がはじめて百済に派造さ

れたとされる継体六年は︑まさにそ

年にあた

ている

山尾幸久氏は︑穂積押山は

諸博

士 の

提供を要請するた︵30︶め︑百済

都熊津に赴いた

とみている

山尾

氏 の

想定は魅力的であるが︑押山

派遺と武寧王

へ の

遺使時期

梁書武帝紀によれば五

二年四月︶が近接していることに加えて︑

A の

原史料が日本側

だとすると︑

繁年はあまり確かではないことになる

断定はできないであろう

︒ A

で百済使がもたらしたものが

調

とされていて︑まだ諸博

士 の

上番がなか

たことからみると︑

A

で押山を派遣した目的は︑諸博

士 の

上番に限定さ

(23)

れたも

ではなく︑広く最新

梁文化

供与を百済に要請するためだった

ではなかろうか

︒ A

に筑紫国

馬四〇

匹を百済に一順つたとある

は異例であるが︑これは倭国

側から百済に何らか

要請をするため

対価とみること

もできよう

後︑武寧

王 の

へ の

遺使があ

たが︑おそらく使者押山が百済と

間をさらに何度か往復して折

衝した結果︑倭国側から

何らか

援助

見返りとして諸博

を上番させるということで両国が合意をみて︑それ

B ︐

で実現したという想定が

能であると思われる

︒ A

2が梁文化

を倭国側から百済に要請したも

であると

すると︑こ

ことは直後

の A の

解釈にも大きくかかわってこよう

3

ぎに

A の

記事であるが︑これは大伴金村

失脚として伝えられる事件で︑天皇が難波祝津宮に行幸し︑そこで

新羅征伐に

いて下問

たところ︑大連

物部尾與らは︑継体六年に大伴金村が

任那四県

﹂ の

百済

へ の ﹁

割讓

認めたことをもちだし

ために新羅がこれを怨み︑征伐が容易でなくな

てしまったとして︑そ

責任を追及

たところ︑金村は住吉

宅に引きこもってしまったとされる

記事には︑内容的に不審な点が

︑二みられ

まず

任那四県

﹂ の

百済

へ の ﹁

割譲

を新羅が怨んだとあるが

これは唐突であり︑理解に苦しむ

百済

域拡大

経緯からみて︑

任那四県

が新羅に隣接した

域であったとは考えがたいし︑

A

-をみても新羅と

関わり

はま

たく出てこない

したが

て新羅が怨んだという記述は︑書紀

編者が

四県割譲

﹂ の

内容をよく理解し

ないまま︑不用意に造作した記述とみる

がよいと思われる

︒ っ

ぎに︑こ

とき

四県割譲

責任を追求された大伴金村が住吉

宅に引きこもってしまって出仕しなくなり︑そ

まま失脚して

まうという

も︑はなはだ不自然な話である

そもそも欽明初年にいたって

三〇年近くも前の

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