資料
清費組合理論の進展
(現代佛蘭西に於ける肚會思想研究の一断片)
じ手塚壽郎
一切の肚會思想はそれらをあらしめだ所の歴史的環境の影響の支配を脱し得ないものである︒此
らの環境が漫化するとき︑肚會思想もそれに件れてゐのつから進展して行く︒かつてガェッタン.
ゼルー敷授は最近五十年間に於ける佛蘭西の歴史的環境の愛化の最大なるものをぱ︑人々の團騰及
び國家の権力及び職分の重要なる漫化なうと考へ︑之れが如何に現代の佛蘭西の肚會思想に影響し
清費組合理論の進展二〇三
商學討究第三巻(上)二〇四
πかを見π︒(註)今私はピルー敷授に從て︑十九世紀末よう最近に亙る佛蘭西の肚會思想界に於け
る消費組合理論の進展を採う來h︑同じく右の一般的命題をこ㌧に謹明して見πいと思ふ︒但しこ
︑に私は歴吏的環境の主要なる竜のをば︑滑費組合に於けるテクニークの愛化と考へて置くのであ
る︒
(註)Pコ円8Mω︒げ5898︒一二gψ曾80窮即虐3ロき︒・貯図o毒o幽.三馨o凶お伽8ぎ邑虐ooけ︒・oo⁝巴3℃℃・Hα2詔ぎ
佛蘭茜の滑費組合吏家}・Ω聾日o韓が謹明しπよ5に溝費組合のメカニズムの着想はロッチデー
ルのバイオニアースに始っ尤のでなくして︑佛國リオン市の二勢働者い寄図三臼と蜜・U・三9と
に磯し泥のであり︑且つこれは一入三入年の事實である︒(註一)然し此らの着想に基い禿消費組合が
除々に其重要の程度を高めて來て竜︑消費組合の理論は久しく生れなかつπ︒實に此理論はロッチ
デールの消費組合の設立に後る\四十年である+九世紀末に至つて其出現ど見たのである︒(註二)十
九世紀末後の佛蘭西に於ける消費組合の進展を研究の主題とするは︑或意味に於て佛蘭西の消費組
合理論の一切を取扱ふことであるかも知れ臓︒
(註一)O聾§o導℃口聾〇一器びq曾曾拶冨臼冨80℃曾鋤昏o昌ゐ寧午p琴ρけ●H℃層℃・還㌣i目8・
(註二)︼w.H奨qσq5ρピ.︒a器8︒℃曾p二ひρど℃●◎︒炉 '
消費組合の理論が英國にて旨ω︒︒望簿.凶8℃︒幕.‑ぞ①びσによりて定型を與へられ尤+九世綿末の佛
蘭西の思想界に於て︑浩費組合理論が採うカる形態は︑人々のよく知るがように︑二ーム涙﹃.脅︒ド
舟客ヨ︒ωである︒而して私の見る所によれば此派の理論は︑道徳的關心否寧ろ宗敷的關心にようて
強く彩られてゐる黙に其特色を竜つてゐる︒之れは恐らくは此派の開租のうちに動いてゐπ精帥其
竜の\現れであらう︒此派の開租の最竜有力なる二人シヤール・ヂードと∪6ゆ3︑<①とは共にブp
テスタンめ家に生れ︑形式の上に於てのみプロテスタンであつπに止らない︑彼らの日々の行動も
思想竜共に強くプロテスタンチズムによりて支配せられてゐる︒その謹明を︑U︒冨o鴇くoに就ては
現に我々はヂード自身の謹言のうちに見出す之とが出來る︒(註一)ヂードによれば︑U・b⇔︒k<︒は云
は壁プロテスタンヂズムの使徒とも見らるべき高潔なるプロテスタンであう︑肚會改良上の無歎の
事蹟を残し︑且つ彼の私生活は極めて簡素であつて︑それを見πる肚會主義勢働者さへU︒国亀く︒
の私生活に漫化なき限り自らの私生活の向上を逡慮すべきであると云っπと云ふ︒(註二)他方ヂード
もまπ深くプロテスタンの宗敷道徳に浸んでゐることは︑彼の短篇集冨80幕﹃豊8・08緑δ昌8号
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弓δ窟σ︒彗α・を讃む者の誰人も否定し得ない所であらう︒まπ彼の組合主義に關する講演を聴く者
は︑それが聖書にアンスピラショーンを竜つものなることを戚ぜずにはゐられない︒彼が或場合に
示す懐疑的能度は彼の職業的研究の鍔象である縄濟的實在と接崩しπ彼の宗敷的道徳的精紳の反動
に過ぎない︒
(註一)Ω乙ρ冒.臥8ぎ伽o z巨︒即m88霞m山︒H鷺いーひ9︒輝∩︒目β︒山︒国﹁碧︒や
(註二)国目o口\[霧ロ︒薯窪員器℃o︒駐伽o冠幽ogユ昌ゆ8︒℃伽韓同鴇ρ伽碧切口︒毛︒α︒蜜傘唱ゲ)︑臨虐︒g山︒冨︒婦巴ゆ目ON◎︒堕ロo.rやご轟・
ニーム派の理論が現れたとき︑それは直ちに組合主義と自由主義経濟學派の絶縁の因となつπ︒
ニーム派の現れる以前に於ては自由派の縄濟學者は組合主義に封して明白なる同情をもつてゐ尤の
である︒尿︒昌し︒昌が一入六六年+一月のQ︒︒︒凶⑫傷伍︑脅9︒艮︒℃︒=二ρ器で云つ泥ように︑自由主義の
経濟學者は﹁貯蓄の力強い補助者﹂と消費組合を見力のであつπ︒彼らは組合員たる勢働者が小資
本家となつて︑現在の経濟組織の守護者となるであらうと考へπ︒そして彼らは︑滑費組合が革命
を堰止め且つ肚會主義の奔流に劃し堤防の用をなすものであらうと考へ尤︒然るに一入入六年リオ
ンに開かれπる組合主義會議に於て︑ま虎一入入九年バリーに開かれ禿る組合主義會議に於て︑ヂ
ードが二つの大演説にようて己の組合主義の主導理論ープロテスタンチズムの精棘に充ちπ
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を陳開するや︑自由主義経濟學者の組合主義に封する態度は一大愛化を示すようになつ疫︒
こ\に自由主義の経濟學派とニーム派とは越ゆべからざる溝渠を礎くに至つ尤わけで︑爾派が経
濟問題に就て探つπ態度の種々なる相異も皆≧\から生じてゐるのである︒さればニーム派と自由
主義の経濟學者とを分つπものに︑前者にあうて後者になかつπ﹁基督敷的博愛の盤戚﹂である︒
自由主義者に云はしむれば︑組合主義の使徒らは宗敷的信仰に基礎を竜つ正義の立揚に立ちて経濟
問題を解決せんとして︑重大なる誤を犯せる者なのである︒此誤が自由主義者に如何に重大に見え
つへπかは︑自由主義の機關紙ピo旨8彗巴α︒・︒団8コoヨ凶︒・言︒︒及びピ︑国︒90ヨ凶︒︒8津睾︒騨凶ωが︑邊られπる
原稿中に二ーム派に關係ある人々の姓名のみの記載あるも︑直ちに之を消削しπ事實に徴して思宇
ぱに過ぐるであらう︒
自由主義と絶縁しカるニーム派はマルキシズムに竜向はなかつπ︒そして其基く所もまたニーム
派の宗敷的道徳的傾向のうちにある︒而してニーム派の蓬頭は︑肚會主義運動中にマルキシズムが
甚だ大なる勢力をもち來つπ時に當るのであるから︑我々はこ\にもまπ二ーム派の理論の濁自
性を認めないわけには行かない︒二ーム派に現れてゐる暴力恐怖の態度︑協調を競孚に︑李和を職
に︑愛を利己主義に代へんとするニーム派の態度︒階級圖孚の肯定︑革命の必然性︑勢働階級の自
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力的解放を信ずるマルキシズム︒此らの背反はマルキシズムとニーム派の接近を可能ならしむべき
でないのは明である︒同じく組合と云ひ乍ら︑二ーム派のq三9乙︒冨芝︒9﹁葺一昌oに封立して︑
一入九五年マルキシズムを精紳とする頴象糞一︒口号ω∩︒︒幕轟酔凶く・︒︒が生れπの竜決して偶然ではな
い︒
かく限定せられπる限界の5ちにニーム派は其理論の旗幟を鮮明にしπ︒技術に就てはニーム派
は新しい何ものも齎らしてゐない︒ヂード自ら認めてゐるようにニーム派は技術に就ては一入四四
年のロッチデールのバイオニァスにようて探られたる原則の其ま㌧の採用をす\めてゐる︒二ー
ム派にとちては技術は軍なる手段に過ぎない︑崇高なる道徳的宗敷的大望への︑ま完直接には賃銀
制度と利の潤磨止への手段に過ぎない︒尤里賃銀制度Hb︒︒巴巴9の屡止なる文字は︑二iム派の
思想を不正確にしか表きないので︑ヂードも後には此丈字の使用を避けてゐる︒まことにもしピ︒
︒︒巴9ユ簿なるものが︑勢働者が一定の賃銀を受くる制度を指すものとすれば︑消費組合の普及によ
うて此Q︒"再一簿の浩滅すべき筈はない︒消費組合の使用人は︑資本家︑企業者としての都市叉は國
家を雇傭主とする使用人と同じくの消費組合を雇傭主とする賃銀勢働者である︒されば利潤の磨止
こそ寧ろニーム派の目的をより正確に表現するものである︒だがこ入に注意すべきは︑二ーム派が
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退けようと欲するのが︑利潤其ものと云はんよりは︑心理的モビールとしての利潤の追求であるこ
とである︒此黙を忘る︑ならば︑我々は二ーム派の眞精紳を捕へ得ないであらうし︑まπ二ーム派
と最近の消費組合理論とを匠別し得ないであらう︒
現在の縄濟組織に於ては利潤の追求こそ縄濟活動を動から動因の一切である︒企業者が資本を借
入れ︑工場を作り︑勢働者を雇傭して縄螢に從事するのはデレッタンチズムからではない︑此ら生
産要素つ費用を支佛ひて後に残る鯨剰を目的として窒ある︒一切の経濟活動に從串する人は等しく
此心理的モゼールに基いて動いてゐる︒そして得られカる利潤は︑其追求の努力と危瞼と用役とに
當然件ふべき︑從て當然に是認せらるべきものとせられてゐる︒然るに二ーム派の理論家は熱烈に
先づ此利潤の清滅を願ふのである︒ニーム派の消費組合に於ては所謂利潤は消失する︒結算期に残
る純鯨剰は消費者に分配せられる︒結局に於てニーム派の清費組合は原慣を以て生産物を分配せる
之と\なう︑從て此消費組合の原理が総ての産業に適用せらる\とき︑利潤の可能性は全く失は
れ︑正當慣格幕℃﹁酵甘︒︒8が行はれるであらうと云ふ︒
然しもし事情二ーム派の信ずるが如くであるとすれば︑ニーム派はこ㌧に一つの重大なる批難を
受けねばなるまい︒ヂードは此批難を豫想し︑豫め之に答へ︑又叉其答辮をしばく繰返してゐ
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