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人 類 と 塩 の 問 題

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(1)

人類が草食動物的・農耕経済的生活面をもつ限りにおいて︑塩分の摂取を絶対必撃とすることは︑その生命の保  

持という生理的必須条件から割出される結論である︒人体血管内におけるナトり二ワムの濃度祓恒に﹁走不変でなけ  

﹁1︶ ればならぬといわれ︑人体血液中にほ常に凡そ〇・七%の塩化ナトリウムを含んでいるぺきである︒その調節のた  

めに食塩摂取過多の場合ほ︑体内の水分を増加せねばならないから︑掲を覚えるし︑また高温状態にいる時︑或ほ  

藍労働をする場合は︑発汗によって︑塩分は汗のうちに失われていくから︑喪失塩分の補給を行わない限り︑当然  

人体ほ虚労に陥る筈である︒従って︑農山村労働者及び筋肉雷労働者は概ね多鼠の食塩を摂取する必要に迫られ︑  

人間の食塩摂取鼠に就ては︑既に春秋の世に桓公をして諸侯に朝を称えしめた管子ほ︑  

へ2︶  ﹃凡食塩之数︑一月︑丈夫五升少半︑婦人三升少半︑嬰児二升少半﹂ レ  

と適遍と信ずる所を規定しているが︑普通の近代頭脳労働者と難も言二五瓦程度の塩分摂取が必要であるし︑男  

︵3︶ 子蚤労働者・授乳期の姫婦ほ最少限二〇瓦の摂取が必要であるといわれる︒カりこワムの多い植物質の食物を多品に  

摂れほ︑食塩を多壷に欲することも︑人体のひとつの生理現象である︒この原因ほカリクム塩が多愚に体内に入れ  

は︑血液中の食塩と交換分解が起って︑尿中に多鼻のナトリウム塩を排泄するため︑食塩不足を来たすからであろ  

ぅ︒それ故︑比較的多巌の植物性加里を摂取する農山村の人々及び草食動物ほ︑こ1に生命保持の立場から︑食塩   人頬と塩の問題  ︵二四こ 一   

人類と塩 の 問題  

鬼  玉  

(2)

の絶対確保という必要にせまられる︒   

かくて︑人間血液中における塩分の保持が︑それが生命保持の条件として︑或る絶対量の確保を要請されるとき  

に︑﹁塩の歴史﹂ほ︑まさに﹁人類の歴史﹂と同時発展的重要さをもち来るであろう︒この事ほ︑人間が肉食動物  

的のみの存在を続ける限りにおいては︑その問題は︑極めて自然的状態において酪決きれ︑特にとりたて\ ﹁塩  

分摂取﹂を関連としなくとも︑対象捕食動物中の血液のなかの塩分含有が解決してくれる︒畢寛︑その捕獲動物か  

ら塩分を摂取すればよいのであるが︑人間も含めて︑哺乳動物にして︑それが草食動物的なものである限りにおい  

て︑すでに本源の姿において︑われわれの想像以上に生理本能的に﹁塩﹂への渇望をいだいている︒このことほ︑農  

耕倭人の塩との因縁は︑魚猟アイヌと塩とのそれよりも本源的に肯いとさえ思われ︑アイヌ語のSFippOは寧ろ日  

︵4︶ 本語のShiOに語源を有するであろう︒今日においても︑草食動物としての河馬の生捕り方法に︑一握の塩と引引  

封ん ︵MedicagOSati畠L.むらさきう吾﹂やしの一種︑地中海地方切放産︶と呼ぶ牧草が用いられ︑牛馬・駿馬の類  

︵S︶ がいだく塩への垂瀬ほまた格別である︒更に︑靡の願を考えると︑契丹人の狩猟法など見るに︑伏虎林の秋捺鉢に  

おける酔斜に放て︑遼史巻三十二︑営衛志中︑行宮・秋捺鉢の条に︑   

r入山射鹿及虎︒.:何夜将単軌‰‰水︒令猟人吹角数鹿鳴︒乳酪而射之︒謂之軌軌駄︒又名呼威し ︵圏鮎筆萱  

︵6︶  とある︒鹿が好餌を見つけ喜んで類を呼び︑夜半観潮の水を飲みに来る習性が猟師に狙われるのである︒また時に  

交尾期に角笛を吹き︑牡腐の擬声を放って牝を呼び捕獲する方法もとられる︒これ等は契丹人のよく藤の習性を知  

り尽しての所業と見られよう︒   

草食動物は生理的に塩を好み︑塩分の摂取なくしてほ生命の保持にこと欠く所から︑その習性が逆に利用されて    第三十二巻 第三・四・五号  ︵二四二︶   二  

(3)

民におちいること︑いま述べた如くであるが︑ヒト︵HOmO︶ も亦まさしく草食動物的二叔な有する︒動物学的  

に見れほ︑人類は哺乳綱︵Mamma−ia︶中の霊長目︵Primates︶ に属する類人科︵AnthrOpOidae︶の人属︵ロOmi  

nidae︶め二種でしかない︒ただ︑そのヒト ︵HOmO︶ は絶対肉食段階にありとすれば︑ナトリウムの摂取ほ主と  

して他動物の血液中より︑極めて自然的に行うから︑ことさらとりたてて﹁塩分摂取﹂を問題にしなくともよいが︑  

かりそめにも︑原始農業の段階となり︑疫・植物類と縁探きものとなれば︑塩分補給を行わなければ︑血日として  

その基本的生存が成ウたたないのである︒かくして人類が植物的食餌と無縁なりとの論証が成りたたない限り︑人  

類生活史面において︑ナトリウムの絶対確保の問題が︑その経済史に登場してくる︒管見に拠れば︑﹁塩の歴史﹂  

は﹁人類の歴史﹂と同時発展的性格を有し︑塩なき人類文化は到底成立し得ない︒卑近なる仙例ほ︑猿も塩分の補 濃  

給なく七てほ生きてゆけないし︑近代人もガラス窓なくしては︑文化生活ほ営めない︒勿論ガラス窓の主成分は塩  

であり︑私は塩なき人類文化は成り立ち得ないと規定する︒新約聖書マタイ伝﹁山上の垂訓﹂に﹁汝等ほ地の塩な  

︵7︺  り﹂とあるが︑新約だけでほない︑旧約でも問題となる︒塩ほ典礼上は自然象徴の叫つであるが︑疫病・罪︒腐敗  

を純化する効験をもち︑教会は心身の弱さ︑罪︑悪魔などに対する戦を現わそうとするとき︑例えば聖水の祝別に  ふつま  塩を混ぜ︑受洗老の舌にのせ︑献堂式等被魔・聖化に塩を使うのである︒イスラエルの預言者エリゼオが悪水の  

︵8︶  源に塩を投入してこれを純化し︑死と流産を救っている︒日本の神道においても︑塩が﹁浄化﹂の手段として考え  

られることほ︑西欧の場合と少しも変らない︒﹁お萩﹂・﹁清め﹂・﹁塩ごり﹂ は所詮純潔化・清浄化な意味す  

る︒遠く海辺に出て﹁塩ビり﹂をしたり︑塩水でお裸をしたりする風習が熊野地方に古来存したが︑猶お今日残る  

︵9︶  実例を示そう︒和歌山県東牟腰郡高地町を中心とする仙群の神社には︑今日なお巨岩戎ほ樹木等の自然物それ自体  

を神と痢ぐ所謂自然物崇拝の原始信仰をのこして︑社殿殊に本殿をもたない神社がある︒木葉・神戸・八坂・河内   

︵二四三︶  三   人類と墟の問題  

(4)

第三十二巻 第三・四・五号  ︵二四四︶  四  

裸・地主・宇佐八幡・明神の諸神社は社殿をもたないで︑石・杉・楠・桧などを神体としている︒このところ宇佐  

︵10︶  八幡の当︵頭︶屋にあたり︑当夜祭を執行する家の行事に就て見るに︑一ケ年間お明りを椰にあげ︑榊を枯らさぬ  

ようにし︑般若心経三巻 − 神仏習合時代の名残りで興味深いーーな毎朝読み︑月の仙日と十五日ほ﹁塩水でお被  

﹂をする為︑前日に必ず古座の海辺まで行き﹁塩ごり﹂をして︑潮水を竹筒に杓み︑天秤棒にかけて肩にかついで  

帰宅し︑棚の下の鴨居の下に吊す行事をする風習を残している︒明治十年頃まで確実に此の風習を存したようで  

あるが︑今日でも当夜︵塔屋・裕屋︶祭十二月山目の前日には必ずこの行事を行うという︒当夜︵頭夜︶に当る家  

の婦女ほ月経期間︑火を別にして︑家の内へ入るを許されない︒塩・潮水をこのような﹁浄め﹂・﹁払い==‖‖呪い﹂  

︵11︶  の手段として用いる風習は日本の至るところに存するか︑お神楽にも︑﹁あら塩の舞﹂があり︑実物の塩が使われ  

て︑東西南北の順に撒布したりする︒その祭文に﹁抑々天台将軍を舞ひ奉らんとしけるに︑遽に天下も霧笛と震動  

するに之ほ如何なる事ぞよ﹂と舞初に読み﹁へたの潮井を汲み上げて︑今日今夜の禁裡の御子禁裏の大老が六根罪障  

を潔め給えは︑天下泰平国土ほ無上に治まりけり︒千早撮る此の榊葉のもとにこそ︑あ1あら塩神を祝ひ祭らん﹂  

と読み終る間︑全く潮井波み上げ動作が其似られ︑ときに﹁お塩舞﹂ ︵長崎・富江町辺︶ の如き︑海水そのものが振  

︵12︶  りかけられたりする︒  

︵13︶   古代ユダヤ人は初成りの果実を塩と共にエホ調に献上したといわれ︑ホーマほ﹁塩こそ天与のもの﹂とい1︑プ  

へ14︶  ラトーは ﹁塩こそ神々の愛ずるものなり﹂ と言う︒洋の東西を問わず︑塩と神々の関係は実に深いが1其等の問  

題ほ︑経済史的には︑塩のもつ﹁必需性﹂と﹁稀少性﹂が解決の絆を与えてくれる︒更にその﹁必需性﹂憬宗教と  

詔記二︶  結びつき︑﹁稀少性﹂ほ財政とも結びついて︑興深き塩に関する幾多の史話を提供してくれさえする︒   

詳  記   

(5)

日 伝承されいくうちに︑働か誇準・歪曲されもするが︑塩の・﹁史話﹂的染料も問題の重要性認識に役立つであろう︒塩は偲明  

なるヘブライ人︑審美的なギリシャ人︑′想像力に富むアジア人に古くから珍重がられ︑神聖視せられ︑また時に迷信とも結びつ  

いて︑猶お深く現代人の生活を左右する習俗となっている︒   

ヘロドタスによれは︑古代填及人は鴨・琉・鰯を塩で調味し︑死者を木乃伊にするのに塩を用いたといい︑近世中国人の言説  

に従うと︑日本人の使う﹁墟﹂の字ほ不可であって︑﹁酪﹂でなければならず︑蟹という字ほ臣下が皿紅食塩を盛って︑御幣を  

たて神に供えた形状であるLいう︒1ピタゴラス時代虻︑既に塩ほ正義の象徴と考えられ︑聖畜の中でも塩ほ忠節︑叡智の表徴と  

して使われることがあり︑ギリシャ・ローマ人は友誼を示すに塩を供し︑同盟を結ぶに塩を配分したと言う◇アラビア人・印度  

人は塩を友情の固めとしている︒絶対に破ケ得ぬ誓約︑固い約束のことをjP盃nantOfSa弓というのは︑塩は神︑あるいほ  

正義の象徴と信ぜられているゆえであろう︒   

印度のパンジヤプ地方や日本の秋田︵神代村︶・茨城言河町︶・千琴普村・七捕村︶・長野︵臼田町︶地方では塩を粗末にすると︑目が憤れ  

るとの迷信が残り︑朝鮮︵石慧︶でも塩を捨てると天罰を受けるとの民諾があるというが︑墟の過少な地方では特にかかる習俗が強  

いのであろう︒ところが︑近世印度はイギリスを通しての墟の輸入国であったが︑近代に至ってその輸出国に転化した︒ガンデ  

ーめ印度製塩自立運動−墟の進軍−が想起されるぺきである︒イギプスの対印塩米政策は︑鬼印度会社建設以来の方式に則  き人こ  り︑塩は阿片・薄醤と共に同会社の独占紅帰しており︑ベンガルに於ける塩専売は一七六五年クライブ卿によって企図され︑ワ  

ーレン.ヘスチンタ紅よって整備されるが︑英本国のチエジャーイア一塩︵市場用語でほり.ハブール塩︶の輸入によって圧迫せら  

れ︑−八六三年遂紅塩専売制を放棄する針爾後てヘンガルのカルカッタ市場ほ輸入塩︵アデン・英国・伊太利・独逸墟︶のダンピ  

ング市場と化し︑塩価は極度に変動していく︒ガンデーが印度製鹿自立運動を興して︑﹁塩﹂を巧みに民族違動に取り入れた  

のほ︑﹁手窮車への復帰﹂緬布排斥運動を称えた一九二二年頃からであろうが︑劇九三〇年三月二日︑アークィン総督に対して  

非軍事不服従運動を開始し︑同十二日呆然塩問題を提げてたち︑此の日未明サチャグヲハ運動︵消極的抵抗︶の若い兵士七十九  

人類と塩の問題  ︵二四五︶  五   

(6)

︵二四六︶  六   第三十二巻′第三・四・五号  

名を引き連れ︑﹁ダンディの浜へ行け︑浜風に身を浄め︑国法を棄て︑塩を作れ﹂と指令し︑アシそフムを出発し︑全印民衆注   

視のうちに︑四月五日ダンディに到着︑翌六日ガンデーはローラソト法記念の日︑自ら手造りの塩を開始したという︒その後に   

近代印度は豊富な塩産国となり︑ガンデーの塩造りほ密接に宗教卜政治−経済へと展開している︒  

柳田国男氏のいうように︑塩は日本の祭とも実に関係が深い︒神社の祭でほよく塩や潮水が使われる︒これも塩分のふくむ水   

の浄化力を認めたわけであるが︑梅が荒れて湖を汲むことが出来ない神学では真水に塩を落してすませたりする︒更に実践的な   

のほ海から十幾望も離れている静岡県奥山の山住神社や紀伊牟婁郡高地の宇佐八幡の頭人なと︑わざわざ海浜まで出かけて潮を   

渋みにいく場合がある︒こうした塩のもつレヤーマン的な浄化魔力は今臥猶お相撲や料理店の﹁.盛り塩﹂に残存しているとも言  

︵15し   えるであろちノ︒   

塩のもつ宗教的神秘性は人を闘争させもするし︑歓音させもする︒更にその﹁代酋性﹂なき為であろうか︑人類  

ほ時にその獲得に︑食うか食われるかの部族闘争を展開したり︑ときに最愛の婦女の貞操と交換したりもする︒タ  

キクスもゲルマン部族が塩泉の獲得をめざして︑すさまじい闘争を展開せることを述べ︑塩な産する何のある場所  

−其処は天に最も近く︑人間の祈りが最も早く神の耳に達する地 − の故に︑これむ争ってエルムンデューレス  

︵16︶  族とカッテス族が激しい斗争を交えたことを﹁年代記﹂ ︵兢nna−es︶に叙述している︒海辺部族が海の寄洲で潮か  

ら塩を獲得するという方法でなく︑森の部族が或る種の堆積植肋は火をつけ︑また鍼河の水なかけて灰とし︑これ  

から塩を獲得する方法ほ︑原始人頬の貴重な塩狩得方法を示唆するものであり︑海藻を焼いて灰とし︑塩を獲得す  

る倭人の智識と相通ずるものがある︒シュヲ・レオネ︵Sierra㍗eOne︶沿岸の土民が二握の塩を披得する為に妻娘  

を提供したり︑ボルネオのダイヤ族に探検家が塩を与えると︑随喜して返礼に鶏・豚肉・ドリアンやマンゴスチン  

の珍果をくれたり︑更にこの首狩種琴の用語︑特にマ八カム河上流の首狩土人共通の用語に︑日本人と﹁塩﹂の意   

(7)

︵け︶  味・発音共に通じるレオ︵ホ︶︵Si〇.SihO︶のあったりすることほ︑細々何を意味するのであろうか︒人類ほ既にそ  

の始源の形態において﹁塩なき生活﹂にほ堪えられぬことを示唆し︑人体にぬける塩分の欠乏は︑その虚労感に堪  

えられぬものあるを裏書する︒既に人類ほ﹁働く人間﹂.︵呂OmO LabOran00︶ の段階以前において︑前述する旛群  

・半群・家畜類が塩を砥めて歓喜する如く︑火を見ては畏敬・恐怖し︑塩味を味わって/乗渡せることを省察せしめ  

られるのである︒しかも手段・道具としての︑﹁火﹂の発見ほ︑﹁鍼水煎熱﹂から︑優形塩を想倒せしめ︑岩塩なき地  

方での︑塩の貯蔵を︑一方器物の発明によって︑可能ならしめていくのである︒   

塩は方人の必需するもののゆえに︑ノ 古来各国でほ屡々徴税のよき対象物となった︒語源的にはラテン系の  

Gabe亡eの本源Gab−乃至Gafe−ほもともとあらゆる商品に課した税のようであるが︑一五世紀頃からのフランスでは  

﹁塩税﹂を意味したようである︒Gabe−−eはその後ときに戦費の穴埋め貯着眼されもしているが︑すでに百年戦争  

︵18︶  中にエドワード三世ほ敵王フィリップ六世に﹁塩税法の王様﹂と皮阿っている程であるから︑まさしく宮本教授の  

へ19︶  指摘する如く︑庶民負担中の最悪税のひとつと考えられる︒すでにローマ人ほ塩ほ財政収入の源泉たりうることを  

知悉していたし︑中国においても春秋の世に斉国が魚塩の利を以って富強を致し︑陶朱・椅頓が山東の海塩・地肌塩  

︵か︶  を以って巨萬の利を得たと伝える︒これ等ほみな塩の稀少性・偏在性・大量獲得のた易からざる現象を説明する  

に十分であろう︒いま少しく中国の塩制を見て︑塩がいかに人間の経済生活と関係深きかを考えたい︒中国でほ河  

北の長慮・両准・新江・福建・広東などほみな塩の名産地であり︑一連の中国塩制史をひもとけば強く各時代の政  

治・経済の動向を浮彫しっつ︑各時代とも塩法管掌の役がおかれ︑それが官営にしろ︑民営にしろ︑凡そ塩に関与  

せるものは悉く致富の因な招くといわれている︒元来︑塩税ほ中国政府における関税につぐ重要財源であり︑塩価  

構成の八〇%計でが塩税を以っで占めたといわれ︑中国の歴史を通じて見られる徹底せる財政主義泳︑拘に塩を中   

︵二四七︶  七   人頬と塩の問題  

(8)

第三十二巻 軍手甲五号  

レ    レ  

レ  レ 

レ  レ 

︵二四八︶ 八  

心とする国家権力の搾取競奪史と断じうるのである︒中世以来︑塩に朗する統制の強力なところから︑闇塩に関す  

る結束結社も生れ︑唐がその末期既に滅亡の危機に瀕してなお数十年の倹命を保ち得たのは︑近衛兵たる神策軍が  

解州塩の実権を握っていたからであり︑湾朝に下っても︑塩の望冗による益金ほ実に全歳入の四分の一を占めたと  

いわれ・る︒近世に入ると︑閻塩販売の組織が兇窓なものとなり︑塩徒・塩賊・塩島として現われ︑遊民をその傘下  

︵21︶︑ に集めて︑盛んに塩の密売を行い︑秘密他社が組織され︑白蓮教とも結んでいる︒中国でほ官塩は生産地に従い販  

売区域の大小があり︑闇塩結社も亦之に応じ正比例している︒有名なる准南塩は江攣安徽・江西・湖北・湖南・  

︵22︶ 菖州に跨る最大の販売区域を擁しており︑明の太祖はこの地方の秘密結社と関連していたと伝えられる︒   

周礼に従うと︑地方財政は九賦政財をもって賄い︑九責は貨物として納めらるぺき物品となっているが︑勿論塩  

は物納の形式によって納税されている︒すでに春秋の世むもなればい塩の製造は官営及び民営の両者によって行わ  

れ︑管仲ほ斎公孟︵に塩務行政を粛正して︑塩場の散在する地方においては官営方式を採っている︒﹁諸君伐甫薪︑     ︵讐       ︵鋸︶ 煮沸水為塩﹂というのは︑それを示すもの︑﹁山林梁沢︑以時禁発︑単封沢︑塩者之帰︑讐若古人﹂と評するのほ︑  

寧ろ民営市売を物語るものであろう︒かくて︑すでに部分尊売的な兆ほ春秋時代において見ることが出来︑商状に  

ぉいても︑塩税はかなり厳しく徹せられたらしく︑黄仲紆が﹁蜂鉄倍税︑小民貧困﹂と評しているのを見ても推察  

しちノる︒  

︵銅︶   いま隋竃巻二十四﹁食貨志﹂第十九に従うと﹂   

﹁掌鹿砦四塩之政令︒一日散墟︒煮海以成之︒二日監職︒引池以化之︒三日形塩◇物地以出之︒四日飴墟︒於或以取之︒  レレ 

レ  

レレ  ︑凡監塩形塩毎地為之︒禁百姓威之︒皆税焉︒司倉掌舞九穀之物︒以巌国用︒国用足︒既蓄其余︒以待凶荒︒不足則止鰊︒用   一 ー中 上   一二 二−  足則以芸人㌻領㌃秋㌢︒﹂   

(9)

とあるが︑実に要領よく中層の塩政を説明している︒海水の煮沸塩だけでなく︑湖塩・岩塩・異国塩の四種ある  

を説明し︑固形塩は多く専売徴税の対象となり︑国用足れば備蓄に供せられ︑賑貸の粟の資となるを示し︑その製  

塩に︑直煮・天日・自然採取などに︑工夫をこらして得たる塩ほ︑何れも皆備荒貯蓄・経世済民のよき担い手とな  

れるを示唆している︒   

前漠・後漢の間︑新の王碁瞳代の貨泉ほ︑わが国に於ては︑ほやく福岡県糸島郡小富士村或は大阪府下大柳川流  

域瓜破の弥生式追跡に出土しているが︑塩煎燕関係の土器に関してほ︑′今日のところ︑推測的諸説ほ出ているもの  

の︑未だ学界の定説的時論ほ出ていない︒之等に就ての私見ほ別にまた述べるであろう︒しかし︑塩に関する戎ほ  

塩を通じての︑中国と倭国との関係に就いてほ︑上代の文献ほ殆ど絶無であり︑貌志倭人伝・後漢書倭伝・末書倭  

国伝・随書倭国伝等に徹しても殆ど不明にちかいというの外ない︒   

洋の東西を問わず︑時代の如何を問わず︑更に経済粗放の如何にかわらザ︑ナトリウム塩類の人体への十分な  

る補給ほ︑つねにその種族の活動源泉を供与しきたわけであるが︑辛か不幸か日本古代人ほ漁扮経済の段階を経て  

いても︑牧畜経済のそれを殆ど経ていない為に︑﹁塩﹂ 

得の身の闘争・激突を起していない︒恐らく四面皆海の地理的好条件の然らしめた所であろう︒概して草食動物ほ  

食塩を欲求すること強く︑肉食動物ほそれを欲求する度合が少ない︒日本古代民族特に弥生式文化民が意外に早く  

農耕段階に達していたとすれば︑それは自然に塩分摂取の理法と技術を考えていたであろうし︑反対に寧ろ魚貝摂  

取︒肉食摂取の線が強烈であるとすれば︑塩への欲求ほ寧ろ無関心であったと思われる︒概して動物ほカリウム塩  

を多量に摂取すれば︑ナトリエソム塩を多鼠に灘泄するために︑草食動物ほ常にナトり二ワムの不足を来し︑生理的に  

食塩を欲求する度が強くなるであろう︒今日︑現存の塩技関係の丈献でほ︑原始社会と塩及び製塩関係の様相が甚   

人類と塩め問題  ︵二四九︶  九   

(10)

︵二五〇︶  仙○  第三十二巻 第三・四・五号  

だ不明確であるが︑こ1で今すこしく万葉以前のいわゆる論理前的な社会と塩との関係を類推︑詮索して見ること  

にしょう︒  

従来ドイツの歴史学派の巨頭リスト︵Friedrich List﹂監晋欄︶を初め︑社会進歩の尭展段階的説明を好む∵蓮の  

学者達は一応古代社会の狩猟・牧畜経済の段階を認めるし︑ジョン・スチふアート・ミル︵JOhnStuartM芦−雪00票︶  

︵錮︶ も﹁狩猟・漁携による産物が重要なる富とせられ︑その集積なき時代﹂を考え︑社会学者グロッセ︵E・G巧○∽Se﹂諾讃旦  

も下級漁猟民・上級漁猟属・牧畜民の発展系列を思い︑オランダの人類学者シュタインメッツ ︵RudO−f SteinmetN  

−害○鼎郭拘﹁群妙素性㊦ゆ淋巴︶すら社会類型釘十類に分って︑真正なる低度農民の段階以前に︑小採集民・狩猟  

︵㌘︶  民・漁撰民︒彷後農民又は狩猟農民の段階を考えている︒併しながら︑此等学者の多くの場合︑か1る発展段階的  

乃至類型把捉的な考察はヨー㌻パ経済文化の発展を巨視し︑自国経済の基盤の上にたって︑それを微視し︑研究  

対家として︑そこから割出した帰結が多く︑いま此処で問題とする日本始源の社会において︑果して︑との程度ま  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  で牧畜乃至遊牧経済の段階を肯定しうるであろうか︒私ほこれに対し否定的態度をとる︒いうならほ端的に︑葦原  

と飼料の制約から︑日本における遊牧経済の段階ほ認められない︒わが国内地では︑到る処に山嶽蠣屈して放牧草  

原に乏しく︑平坦地及び緩傾斜地面積は全面積の僅か五分の一しかなく︑山脈の背筋を縫うて結ぶ稜線と海岸線と  

の距離ほ意外に短かく︑ために前記の牧畜経済ほ甚だ振わず︑寧ろ銅鐸絵面の原始画によく見られる狩猟段階・漁  

︵28︶  猟段階にひき続いて︑原始農耕段階が意外に早く到来したものと思われる︒か1る日本列島に沿う山脈の特色は︑  

北凍から南西に走るもの多く︑常に南北の風は遮断されて︑此の脊梁山脈によって表日本と裏日本とを分って︑夫  

々異りたる気候を生ぜしめ殊貯海流の影響によって︑季節風の関係と相倹ち︑複雑なる気候を生じ︑四季の交代ほ  

あっても︑寧ろ夏冬気温の較差は大となる︒更にモンスーンの影響を受ける日本列島の多雨・多湿の特殊な風土ほ   

(11)

ヨーロッパ大陸の四・五倍にもちかい降雨量をもたらさせ︑必然に稲米生活・農産物・魚貝類への依存︑牧畜不必要  

への生活範型へと追いこんだのであろう︒いわば︑日本民族の歴史的形成は︑その気候風土から好適の亜熱帯的稲  

米文化を先ず成育せしめ︑男性的魚撰文化をプラスせしめる態勢となった︒此処において︑食料源としての描・鹿  

︵29︶  肉などの動物食を主食として追求している間ほ︑特にとりたて1塩分を摂取しなくともよいが︑原始農耕民として  

の社会成立を考える場合︑たちまち﹁塩﹂乃至﹁塩合物﹂摂取が問題となるのである︒   

紀文式文化︒弥生式文化の本源的詮索は姑く考古学者に譲るとして︑日本内地への原始文化侵入コースに朝鮮半  

島を南下して玄海をわたる大陸文化︑更に樺太・北海道より津軽を越えて奥羽にわたる南進コースの考えられるこ  

と勿論であるが︑私は﹁相米文化﹂・﹁塩文化﹂の根のおろし方を考える場合︑決して黒潮文化の潮流を軽視する  

ことが出来ない︒いうまでもなく︑日本古代文化ほ外来文化の継受混成された歴史的形成の産物であり︑日本民族  

自体の生成は︑大陸その他から渡来した混血種族であるが︑すでに農耕文化民として定着した弥生式時代の文化を  

考えるとき︑稲米生活と切り離された﹁塩﹂乃至﹁塩分﹂摂取ほ考えられないのであって︑それほ人体乃至人類生活  

の生理的面からくる本然の欲求なのである︒︑おそらく︑紀元前後︑.原マレー族・モンクメル族・ビルマ晩の如き所  

︵30︶  謂南方系の諸種族が黒潮に沿って可成日本列島へ入り込んだであろうし︑塩の語源が南方語に見出されるように︑  

お歯黒・いれずみ・トーテム習俗・神社建造様式なども南方から持込まれた事を否定する訳にほいかない︒先住ア  

イヌの場合の﹁塩﹂用語など寧ろ倭人より教えられ︑持込まれたものであろう︒   

私はここで論稿の本筋を規定したく思うが︑元束が混酒文化である日本文化の源流を大陸とか南方とかに︑その  

遡及を局限して問題の提起と解決をほかろうとするのでほなく︑こ1で日本民族の塩生産技術に局限して︑いわゆ  

る﹁塩技﹂問題の究明にのりだして見たい︒所詮人類とその生存に不可欠の塩の問題ほ塩の獲得技術にほじまる︒  

人類と鳩の問題  ︵二五こ  ∵一   

(12)

第三十二巻 第三・四・五官  ︵二五二︶ 一二   

先ずここで提示しうることほ︑/日本のような﹁海塩﹂依存を第一義的に考えざるを得ぬ国の塩生産方式にほ犬目  

製塩或は海水盾煮方式︑藻塩焼︑揚ケ浜方式或は入浜方式などありうる事である︒残念なことにほ︑日本古代史の  

研究に重宝がられる中国の文献﹁雛志倭人伝﹂・﹁後漢書倭伝﹂・﹁末書倭国伝﹂・﹁隋書倭国伝﹂等をいかに分  

析しても︑直接﹁塩﹂に関する記事ほあらわれない︒既に述べたように︑紀元二・三世紀ともなれば︑中国におい  

ても﹁塩技﹂・﹁塩制﹂の在り方が可成進歩していた筈であるのに︑それがないのである︒その多くに日本に渕す  

る伝融︑土俗・・冠婚・葬祭についての中国人的理解が示されており︑ただ紀元二・三世紀頃の倭国ほ︑すでに﹁水  

田漁拶﹂の段階に入ったことを立証しうるのみである︒﹁良田無く︑梅物を食して自活し﹂ ︵瓢志倭人伝︶ とか  

﹁山大国に至るニ⁝・竹木︑叢林多く︑三千許りの家有り︒や\田地有り︑田を耕せども猶食するに足らず︑亦南北  かしよね  に市躍す﹂ ︵仝上︶などの文言はこの段階の梢進んて原始交換の城に達せるを思わせる︒婦人浮せず︑炉忌せず﹂  

︵仝上・﹁後漢書倭伝﹂・﹁陪審倭国伝﹂︶とあったり︑刑罰の重き科刑に城門九族的理解の含まれるのも︑甚だ中  

国人的観察の色濃きものといわねぼなるまい︒更に︑  

はら︵糾︶   ﹁今倭の水人︑好んで沈没して魚蛤を捕え︑文身し亦以って大魚・水禽を厭う﹂ ︵貌志倭人伝︶  

とあるのほ︑下級漁撰民的段階を彷彿せしめて興味尽きせぬものがある︒原始時代の日本人はその種族構成に︑ネ  

︵32︶  グリート族・旧アイヌ族・ツングース族・印度支部人・インドネレア人・漠族などの混血が考えられ.るであろうが 

その混交と共にやがて始祖意識も不確かとなりゆくうちに︑食餌生活としての喫緊の採塩方式に︑彼等の先人が旧  

大陸で行える岩塩採取的方式を伝えたのか︑或は南支・南方諸島で曽て眺めた極めて自然的な天日製塩方式を鴇潰  

しょうとしたのか︑それとも海潮直煮方式を採ったのか︑問題ほ極めてその答解に困難さを思わせるものではある  

が私は採観・塩技の上からその理解をすすめたい︒   

(13)

てんび 今日世界の長期天日製塩地帯は地中海・紅海沿岸・米国西海岸・南洋各地の塩田に見られ︑短期天日製塩の典型  

的なるものは朝鮮及び台湾にも見られる︒後者は技循的立場から採掘には連続七日以上の晴天が必要とされるが︑  

前者の場合には︑その塩田の構造上︑降雨を殆ど考慮に入れることなく︑蒸発鼠と市乳の差により製塩するもので  

ある︒自然蒸発にまつのであるから︑排水設備を必要とする訳でないが\毎月蒸発盈が雨豊より少く︑戎ほ殆ど等  

しく︑然も湿度の極めて高いわが国でほ︑青も今もひろく行われ得よう筈がない︒後者の場合ほ︑毎月雨鼠が蒸発  

蛋より多い地域にも可能でほあるが︑雨水排除に若干の設備を要し︑降雨被害を最少限度にくいとめる為に︑山日  

乃至三日間位毎に採塩するのであるが︑プリミチプ庵日本原始土民社会で︑それだけの定期労働的な時間配慮が計  

測的に行われたかどうか疑わしい︒発三に前記二者とほ全く異る﹁撒砂式天日製塩法﹂がある︒仏印の東海岸中南  

部・東京地方・海南島南西部・南支部に広く見られたものである︒台湾北西部地域でほ日本の領有当時乙種塩田と  

して存在していたものである︒蒸発池を用いず︑結晶池において採塩するのであるが︑その地盤にほ石畳または稀  

︵∽︶  にほ木槽戎ほヤシの幹などが用いられている︒今日我々がか1る方法を単純に復原して考慮したとしても︑﹁天日﹂  

︵てんび︶製塩を立証するだけの考古学的資料が猶お見出されず︑わが国の気候・風土ほその昆産に疑問をいだか  

︵注記  せるのである︒第四には﹁撤砂煎茶法﹂がある︒撒砂地盤でとっ尭賦水を煎熟する方式により︑仏印北部・海南島  

︵註詑二︶  北部・ルソン島北部・台湾の山部・その他南洋各地域・日本の仙部において行われたと上ろである︒海水或は撤砂  

自体の直煮を考えるとき︑我々ほ砂自体の重鼠と燃料の過多に先ず驚かされるのであるが︑山応煎糸様式等により︑  

︵34︶  

二  −ニ ー   苗代の採かん・煎熱方式を推測することほ可能である︒古事記に﹁儲奥船謂枯野︑云々︑蕊船破壊︑以焼塩︑取       カいぬ       レ    二  

其焼遺木作琴︑其音牽七里︑蘭歌日︵長歌︶ ﹁枯野ヲ志木二焼キ︑其ガ飴り︑琴二進り﹂など見えるのは︑明らか  

に海辺における潮︵朗水︶ の煎糸を意味するものと見られる︒   

人類と塙の問題   一 レ  ︵舗記一二・四︶.  

︵二五三︶  小三   

(14)

註  己 ニ﹂−口  

日 石に挙げたる﹁天日﹂的製塩四方式に就いては︑其の方法の岐れる最大のファクターは気象条件である︒仏印の場合に見ら  

−   

ヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  れる如く︑海防附近ほ微妙煮糸法︑南部東京よりサヒユーン塩田北部迄は撤砂式天日梅田︑それ以南は蒸発池を用いる天日製   

塩という如く︑北部から南部へ行くに従い︑製塩気象条件のよくなるにつれて︑その方式鱒も可成り明瞭な地域的区劉をなし   

ちノるのである︒  

胃 台湾に於ても︑塩技殊に天日晒法ほ支那泉州辺より移入したかに見える︒新竹州新竹郡浸水墟田地方の古老楊転付︑︵当時  

︵35︶   四八才という︶に聞宙せる明治四十血年の山崎康雄氏の調査によると﹁古来拍車港より南方中港渓に至る海辺の地は埴砂をと   

りて米籠︵経・深さ各山尺許りの米を容れる竹篭︶に入れ︑海水を澄ぎて塩分を濾過し母液を作り鉄鎖に入れて煮沸し以て域   

となし之を自家の用に供し又穀吊に代ふるの風あり自己の幼時に在りてほ其の方法精進み︑泌過池を築き母液を作り煮熟せし   

ものありしも︑其数僅少にして瓦暦庄の海浜に五六簡ありしことを記憶せり︑而して其の泌過池ほ何人の創造なるか之を知ら   

ずと雄も当時疾く此地と対岸との交通開け居りしを以て自然彼の地の製塩場より伝放りしものならん然るに成豊初年対岸泉州   

府の製塩地郡谷より多数の者移り来り中庄り虎仔山庄・瓦暦庄に居を占め︑東に多数の濾過池料作り叉新に結晶地の築造を見   

劃般に従来の煎然を改めて晒法となせり﹂とある︒これほニ.新竹郡地方の古老談に過ぎないが︑ときに塩技・塩民ほ︑その必   

要度の高き地方に移動するものとの見解を強めしめるものである︒  

臼 鹿児島鼻大島地方では一定の場所を選ばす︑住民ほ海岸に於て潮水を煎黙して移動︒採塩する風習があり︑土製あじろ釜が  

使われて︒.煎糸器は竹を組み合せて鍋形己︑周閉を粘土で塗り固め︑此の地方でほ﹁アンッ釜﹂と呼ばれている︒塩ほ   

山九〇五︵明治三八︶年以後専売となって︑山時あとを絶ったが︑それでも終戦後﹁委託煎熱時代﹂が出現して再改し︑製塩   

各地帯で自給製塩が盛んに行われることとなった︒問題は寧ろ煎熱燃料の不足におって︑人体に不可欠の物資不足に直面する   

と人ほ寧ろ止むなく︑﹁自然浜﹂方式に帰っていく観があった︒此の頃の製塩も︑結局降雨が邪魔して︑いわゆる﹁天日﹂方   第三十二巻 第三・四・五号  ︵二五四︶ 一四  

(15)

式だけでほ製塩不可能であった︒  

シュクシヤスナー︵37︶  囲 塵添隻塾砂︑三三の墟の字問答に﹁宿沙ヲ煮ツタ湊リテ為ス望等により崩砂煎熱が考えられるのであるが︑古墳時代の仁  

徳帝と瀬戸内海の東端淡路島との関連性ほ睦めて深く︑私は淡路島の製塩文化を重視したい︒本文に示す如く官船枯野を焼い  

て焼塩五百寵を得たのほ史上有名であるが︑飴木で大琴を造り得たというの.であるから︑豊富な燃料資源というのはかない︒  

此処で問題となるのほ︑明治初斯の塩田製塩方式でなく︑﹁砂を蒸発釜﹂に容れたまま海水直煮の煎糸方式を険路島に遺して  

︵38︶  いたことである︒塵添がいのう砂の見解と相通ずるものがあり︑私は煎恭始源の仙残存型態と考えている︒天日製塩であろう  

と加熱製塩であろうと︑その採塩方式軋輌砂︵かんしゃ︶の利用を発見し雷﹂とは︑何にも勝る黒潮地帯住民の物理的発見で  

あり︑倭人の﹁潔しお﹂を利用する工夫と共に拘に偉大なるものがあろう︒   

セネガール︒ぺルソヤ︒汐ヤワの山間部土人が塩の入手不可能のときは塩分の含める粘土を砥めるというが︑近代  

以前の巾国でほ爽雑物の多い土塩を舐めて恵疫の流行した例が多い︒近世中国人の説によると︑日本人のよく使  

う﹁塩﹂の字はよろしくないという︒彼等の説によれば﹁塊﹂の字でなければならず︑山説にこれは臣下が皿に食塩  

を盛って御幣せたてて神に供えた形であるといい︑又一説に﹁歯﹂の字ほ西であり︑古来中国ば西方の新宅地帯の  

︵40︶  ︵39︶      鹸湖より塩な入手したというし塩の字は土偏にてよいかとの設問ほ既に徒然草でも問題となっているところ︑特に  

新しい問題でほないが︑人数が製塩の技術を知らない間ほ︑拘に有蹄草食動物が観潮の水や岩塩を舐めて歓喜する  

のと等しく︑その欠乏を感じたるときはまたあらゆる犠牲をも敢てするのである︒ボルネオの首狩種族にオランダ  

からの固形塩︵鮒詣詔斯の︶がこの島に入らぬとき︑彼等を馴らす最大の贈物ほ塩であったし︑また熱帯山間部土民の  

身体衰弱を治す最良の薬は土塩でぁったりする︒この事ほ何よりもよく塩の﹁稀少価値﹂を説明するであろう︒日  

︵誰記−︶  本においても︑原始時代の海浜部族と山間部族の間に塩と右製道具の物々交換が推測されるのは︑要するに︑山間  ′  

人類と塩の問題  ︵二五五︶ 一五   

(16)

︵二五六︶ 一六  第三十二巻 節三・四・五号  

部落における塩の絶対鼠不足を説明するもの︑塩に関する地名にしても往々その生産地以外に︑塩の貯蔵・中継・  

搬入などの流通関係にか1わるところの多いのほ注目されるべきであろう︒  

註  己      二一l‖  

︵41︶   H 日本の黒曜石の産地にほ︑和田峠・星糞峠・持鉢山・冷山があり︑瀬戸内海西端島嶋都でほ姫島がある︒姫島では露頭も見  

えるが︑此処の黒曜石が讃岐の小嵩島で発見されたりする︒此等の石器は何かと交換されたものでないかとの推測も生れるの  

︵42︶  である︒野村博士に従うと︑和田峠や星糞峠ほ黒曜石の多産地で此の両処は石器時代人と関係が深いとされる︒曽て鳥居醸士  

が鰍訪を中心として其の分布線を漸次拡げ︑黒曜石製石嫉の絶無又ほ怖蒋の地点を以て其の外辺限界とし︑﹁諏訪の地にコン  

パスの二脚を置き︑他の脚をその最遠限界と思われる岩代のあたりから起して一つの円を描きその周を分布想定線﹂と名ずけ  

た︒その限界ほ甲斐・武蔵・相撲・F総・常陸・下野・上野・岩代・越後・佐波・越中・飛躍・美濃・加賀・越前︒三河・遠  

江・駿河・伊豆等になるのであるが︑此の比較的携帯に便利にして︑遠隔地に搬出可能な石製武器が関東初め此の圏内各海岸  

︵43︶  地祥の貝塚から出土することに拠って︑原始人の物々交換が考えられ︑それが塩との交換に説明されもしているrその著例︑   

安田徳太郎﹁人間の歴史﹂Hノ山四五黄︺︒これは沈黙貿易︵Si−entTrade︶や物々交換︵Barter︶を説明するのに︑お互必要  

度の高きものを交換しあうという人間の欲求の説明にほ︑拘に好個の一範例をなすであろう︒管見に従えば︑その稀少度の高  

︵44︶  きもの群寧ろ遠隔地に運搬されるものであり︑非常な危険を冒して搬出されたものと推測されるが︑猶お今日此の問題は︑﹇製   

塩技術﹂の側からアプローチする適確な文献︒史料と考古学的検証の立場からする物的証拠を欠いでいるため︑定説としてう  

ち樹てるにはいささか難があろう︒香川県素兵衛島に於て発掘された製塩用﹁炉﹂にしても︑私の見たところせいぜい六世紀  

︵45︶   中期から七世紀中期にかけての師楽式土器時代の海辺部族の劇時的使用に過ぎないものと思う︒   

日 例えば︑﹁塩の沢﹂︵山梨県西八代郡︶ほ︑武田信玄の塩貯蔵所︑﹁塩田﹂︵栃木県芳賀郡︶ほ鎌倉時代茂木氏の塩貯蔵所︑  

﹁衡塩蔵﹂・﹁塩犀﹂ ︵金沢市︶は近世加賀薄の薄膵所在地︑﹁塩倉﹂ ︵宮城県刈田郡︶・﹁塩荷谷﹂ ︵新潟県中頚城郡︶は   

(17)

共に塩貯蔵所で︑彼者ほ上杉謙信と関係が深いといわれ︑﹁塩崎﹂ ︵山梨県北巨摩郡︶は富士川舟優による塩の中継地点とい   

われている︒﹁塩ロ﹂ ︵秋田県南秋田郡︶ほ逓世雄物川の川口で塩の陸揚所といい︑﹁塩木﹂ ︵長野県上水内郡︶ほ蟻配給の   

中心部落であったと伝えられる︒更に﹁塩尻﹂ほ長野県下だけでも束筑摩郡・西筑摩郡・小県郡・下高井郡の四ケ所紅同劇地   

名がある︒これほ武田氏が永禄年間の今川・北条両氏紅よる塩どめ事件にこりて︑南塙︵東海道方面より搬入する塩︶の移入   

を禁止して︑北嶋︵越後−糸魚川1小谷−大町〜穂高−松本1塩尻の経路をへて来る塩︶のみを移入した時の終点として﹁ロ   

留番所﹂を設けたときから︑此の四ケ所の塩尻︵塩の搬入終点︶の名が生れたものと思われる︒香川県綾歌郡綾南部奥地に﹁塩   

田﹂︑更に﹁塩入﹂ ︵仲多度郡琴平の南︶の地名が存するのも︑塩の奥地搬入と関係が深かろうと思われる︒﹁塩入﹂の地形  

は好適の魚地である︒   

考古学的探究を一応除外し︑文献学的乃至言語学的方面からアプローチする場合︑わが国の奈良朝以前の製塩技術  

は︑レわゆる﹁潔しはやく﹂段階を出るものでほない︒おそらく製塩そのものが︑汎称して斯く呼ぼれたのであろう  

が︑普通の藻以外の利料︵例えばホンダワヲなど︶を使えるものとしても︑主たる材料は依然として海藻であろう︒  

浜辺でかかる藻を掻き集め︑根気よく幾回む海水をかけて︵気ながく焼いたものであろう︒﹁垂塩﹂などの語から二  

面濃縮過程も思わせるが︑か1る過程のない﹁天日﹂或は﹁直煮﹂製塩に比較すれは︑格段の進歩であり︑原始製塩  

−のま  工人の白然浜時代を︑漸く脱皮した万葉人は︑既に塩焚く整の集団的労働時代に入っていた之思われる︒しかもか  

なりの箋産を︑聖塩としても︑濃厚液体としても︑成し遂げていた︒八世親のことであるが︑正倉院文書︑天平九  

︵七三七︶年の長門国正税帳︵寧楽遺文︶天平十年周防国正税帳︵同上︶などを見れば︑すでに﹁煮塩鉄釜﹂・﹁塩  

奄﹂ の記載が見られ︑その大いさ規模なども判明する︒巨大にして部厚い鉄釜を随分気ながく焚きつめたもので  

あろ攣堅塩などとほ対翳な︑どろどろの液体塩も八世紀後半には量産され苦しく︑同じく正倉院文書︵覿糾  

人類と塩の問題  へ二五七︶ 一七   

(18)

\  

へ二五八︶一八  第三十二巻第三・四・五号  

賀霜焼山是︶に︑敲㌘屈杯﹂の小容器が苫陶司により製作されていることが知られ璧当時歪朝の塩の集  

散地ほナニワであったと推測されよう︒此の頃の煎糸鉄釜に︑周開丈七尺七寸・超径五尺八寸もある巨大な平釜  

があるが︑かなり多人数による集約的労働が幾回となく操り返されたものであろう︒ここで藻ほ古代ローマ人が棉  

︵48︶  物を焼いて朗水と合せたように︑藻それ自体を焼いて﹁灰塩﹂とせる場合も勿論考えられるが︑濃縮工程としての  

﹁垂塩﹂・﹁藻塩焼﹂は枝篠架式の源流たる疎菜椰式すら思わせる︒その根本方式ほ椰を組んで﹁ツナ﹂・﹁ワラ﹂  

計どをさげ︑海水をそそぎかけ︑滴下する間に自然未発せしめる方式である︒物の乾燥するのほ︑単に大陽熟のみ  

ならず︑たえず風通しょきことの原理が知られていたのであろう︒今日香川県直島︑京の山の立体塩田研究所設置  

の階段式枝篠架へ朗水を通すと︑風通しよき日ほ夜でもその濃度が叫・二度上昇するという︒その濃縮装置が階段  

塑体の上に構成されて︑地上より高き場所に位置するから︑絶えず通風に曝されて︑所謂﹁未発速度ハ風速ノ平方  

︵49︶  根二比例スル﹂という法則が適用されて︑平盤塩田よりほ迅速に乾燥蒸発する︒更に幼稚な方式であるが︑香川県  

大川郡松原浜などでは︑今は廃止塩田となっているけれども︑此処で明治初期︑枝篠袈の代りに︑絡を幾筋も垂ら   

して︑上から海水をぶっかけ︑その滴下作業により︑海水濃度を高めていたという︒まったく﹁讃しお垂る﹂その  

ままの古代製塩方式の一残存型態であったらしい︒今猶お塩釜市塩釜神社末社のお祭り神事として残る ﹁藻塩垂  

る﹂の実演されるものに︑﹁藻塩焼﹂行事がある︒これは塩焼電の上に︑海藻をとり来っておき︑これに海水を注  

︵∽︶  いで煎黙するもので︑まさしく﹁藻塩﹂・﹁垂塩﹂の文字通りの名残りといえるであろう︒   

その﹁塩魔社﹂の所在地は︑ただに塩の生産地のみならず︑その搬入困難な奥地にも散見し︑塩の需給・稀少性  

とも無縁ではない︒更に塩に関する地名ほ︑ヨ一口ッパでほオーストリアの劇五世紀中期の塩の天領地ブルッカン  

マーグート︑ゲルツプルグのロa−訂inのような地名は胃a−−e即ちSa︼terロから来ており︑Ha−−stattのハルほ古代ケ   

(19)

ルト語の製塩︑シュタットほ場所である︒更に︑チロルのハル︑レユタイエルマルクめアドモソト浜谷のハル︑バイ  

エルンのライヘンハル等︻訂亡eとほ無関係ではない︒またイギリスの有名な産塩地帯にあるwichの語尾ある町 −  

20rthwicFSandwicF﹀GreenwicbリMid巴ewich﹀DrOitwicb胃arwicb﹀萄00−wicb−Namptwich︶など塩生産地と  

因縁浅からぬものがある︒即ち︑塩を煎熟する町ほWi盲FOuSeであり︑塩泉・製塩場などのある町ほwichの名  

で呼ぼれていた︒wichはSa−t Pittesから来ているのである︒また南ぺルシヤでも塩ほ広く︑岩塩・塩泉・塩  

の沙漠などあらゆる形で散在してい‖るが︑塩に関する地名︒村名ほ多い︒即も﹁アプレユール﹂︵塩辛い水︶・﹁アブ  

ナマク﹂︵慧︶.﹁クチ﹂ナマク﹂︵蟻の山︶・﹁ゴソトナマク﹂︵塩水井︶・﹁チャーナマク﹂︵塩泉︶㌣である︒  

日誌の地名も﹁塩﹂に関係深いものをあげれぼ︑まことに興味尽きせぬものがある︒いま塩の煎糸だけに局限して  

も︑塩釜市以外︑茨木県下に髭釜横丁・寺釜・上釜・武与釜︒高釜・荒釜・京知釜・別所釜・新釜・境地釜︒武井   −  

釜・日枝釜があり︑三重県下に釜屋・新平釜・川原釜がある︒いかに膏々の経済生活と関係洗きもQかを想わせる  しはなしのほりきり ︵餓︶しあな が︑いま興味深きものの列挙にとどめても︑塩︵磐城︶・塩成運河址︵伊予︶・塩飽︵讃岐︶・塩栗郷︵和泉︶・塩山  

︵上野︺・塩売原︵同上︶・塩之江︵讃岐・尾張︶・塩川︵輔津・信濃・甲斐・上野∴岩代・羽前︶・塩木︵磐城∵︒塩子  

しほかた ︵常陸︶・塩沢︵岩代︶・潮歯・塩手︵陸前︶・塩谷︵越後︶︒塩壕︵筑後︶・塩多刺︵上野︶︒塩鶴︵肥前︶・塩原山   

︵挿津︶︒塩原︵上野﹂下野︶・塩船︵武蔵︶・塩見︵因幡・日向・甲斐︶・塩木︵下野︶・塩梅︵相撲︶・潮安郷︵壱岐︶  

しほぴたL\  ・大塩︵播磨・越前・岩代・信濃︶ ∴罷塩︵大和・信濃・岩代︶・塩生︵備前児島︶・塩浸︵薩摩︶・置塩︵飾磨︶・片塩   

︵大和の盲地名︶など枚挙にいとまがない︒更に塩山︵即斐︶︒塩津︵滋賀︶・塩町︵浜松︶ に就いて若干触れたい︒  

山梨県の塩山は古来塩の山又土ソザンと呼ばれ︑乾の隅に﹁小塩山﹂︒﹁塩川﹂がある︒向嶽寺の背後に高さ五五  

六米︑周囲由粁の小山あり︑往昔此処から塩が採れたと伝えられ︑﹁塩の山﹂と称えたが︑向嶽寺の山号となり︑  

︵二五九︶ 山九   人類と墟の問題  

(20)

︵二六〇︶ 二〇  第一二十二巻 郊三・四・五号  

いつしか﹁えんざん﹂と音読みせられるに至った︒甲斐国史に﹁本州塩山に轍塩を生ずること同州人能く言之︑又  

傍bに塩川というもあり 府中の北に塩部というあり︑今日の城郭虻接する地にして旧構ほ詳ならねども堺町袋  

︵53︶  外構の水戯ければ捌かその事を徹すべし﹂とある︒甲斐国にほ︑この外﹁塩の池﹂ ︵南巨摩部︶・﹁塩田﹂・︵東八  

代郡︶ ﹁長塩﹂ ︵西八代郡︶等があり︑夫々仙パーセン上別後の岩塩を産したらしいが︑伝設の臭い強く空海・弘法  

大師にちなむものも砂くない︒海面をもたぬ近江国には︑琵琶湖北乙部崎の眺望絶佳抄処に﹁塩津﹂がある︒此処  

は中世以来北陸と京師を結ぶ要津であって︑おそらく能登塩はここより湖上輸送されて大津に至り︑そこから京都  

に入ったものであろう︒更に塩町︵浜絵︶の場合 

敗走の途上︑たまたま路上に塩売りを発見︑その襲笠を借りて過れ︑浜松城に入り得た為彗塩売りの住む二町に  

墨附を賜い︑天竜以西今切海辺まで︑北は気賀金指・井伊谷・二俣を限って︑その区域が定められ︑それ以前塩市  

︑ヽ︵54︶ と呼ばれしこの町ほ︑塩町として更に永く三百年の命脈を保ったと伝承せられる︒   

日本に⁝有塩・塩鉱泉がない老いわれるにも拘らず︑′地名に往々岩塩・かん泉の存したことを伝える場所の多いの  

に驚かされる︒趣く小鼠の塩分含有が呪術的狂信を以って土民にむかえられ︑また宗教家を歓喜させもしたのであ  ∵ − 

.. − 

関係でほないらしく︑福島県の大塩村︵耶馬郡︶及び塩沢︵南会津郡︶︑埼玉県の塩沢︵秩父郡︶も共に空海が此等  

の地方に来って︑難渋の土民を憐ん‖で離水を湧出ざせたと伝える︒日本塩ほその産塩の品種については︑中国塩程  

︵錯︶  の呼称は持たないけれども﹁貞文雑記﹂・﹁重訂本草綱目啓蒙﹂・﹁和漢三才図絵﹂・﹁物#品隙﹂などにより古  

名な探れほ︑外来塩として︑白塩・赤塩・紅塩・小青塩・紫塩・光明塩などがあり︑その汎称的なものとして︑戎塩   

(21)

∴川︶ 胡塩・芙塩か知られており︑国産塩として1ほ︑古来黒塩︵胡麻塩︶・井塩・山塩・崖塩・泉塩・垂塩∴蛸塩・幽誠  

︿乱謂琵弱㍍ギ塩胆水︵牒漏・ニガ宣・牒塩・壷塩・飴塩・差塩・歪などそ 

等な異にするにより︑種々なを名称がつけられている︒  

註  

︵1︶ 人間の血液中にほ常紅凡そ〇・七%の塩化ナトリウムを含み︑人休血弗−00cc中にN∞Omg〜∽岩mgの2aと約㌫OgのC妄含  

んでいる︒NaC−ほ尿中に排泄されるが︑其の巌ほ輔取愚に左右され︑多く捕れば多鼠に︑少く揃れば少騒が排泄される︒  

食塩の排泄機能を司るものは勿論腎臓であるが︑血液中の2aC−嵐が正常以下の場合︑般初濾過されたものの殆ど全部が  

再吸収過程に入り尿中の塩分が僅少となる︒腎臓のか1る再吸収機能を支配するホルモンほ副腎皮質より生ずるホルモン  

・コルチンであるが︑いま副腎のみを別山肌し去っても動物が死ぬと 

速やかに失われるによると理解される︒   

(     (      (  

4 3  2  )   \_ノ    )  

︵5︶︑T訂EncyclOpedia Americana一く○どmeNAこp﹂¢00.香川美民氏﹁アフリカ動物園周遊報告談﹂︑牧野博士﹁日本植物図  

鑑﹂四二六頁  

人類と塩の問題   管子︑地数四﹁人の塩を用ふる分鼠﹂ ︵広文障︑第九冊︑六三九月︶  厚生省設定の﹁栄養基準鼠﹂中の食塩柘取所要瓦数参看︒  元来アイヌほ食物を漁猟に求めること多く︑食塩への欲求は農耕民としての倭人程も強くなかったと理解される︒恐らく  アイヌほ墟に関する智識を倭人より得たものであろう︒樺太の土民中にほ塩に無関心なるもの︑レベリアの沿岸土民にも  塩の利用を知らないものの存するのほ︑無意識のうちに塩分を採取しているからであり︑ShippOの原義ほアイヌ語でな  くして︑日本語であろうと説く論者がある︒︵例えば金沢壁一成博士は︑愛露辞酋等より挽諭して﹁言語に映じたる原人  の思想﹂三九頁中にこれを述べる︶  

︵二六一︶ 二山   

(22)

︵8︶ 旧約聖讃︑列王妃略下︑第二茸自十九節至二二節︑旧約仝審五二九貢   

︵9︶ 拙著﹁熊野三山経済史﹂序文︑地方史研究所編﹁熊野﹂︵滝川博士監修兄玉論文︶二八八頁︒宮座が素朴な氏神祭紀の原型  

を保てる場合は︑頭人ほ神事の主宰者として礫 

の性格を認められることが多い︒   

︵10︶ 前掲裔﹁熊野﹂二九四頁︒古いかたちの宮越でほ︑頭屋ほ神主としての性格をもつが︑祭紀行事を主宰し︑饗宴の世話ま  

でする︒   

︵11︶ 例えば︑昭和七年初春調査︑アチック︑\︑ユーゼアム彙報第三四﹁塩俗間答集﹂土七・二八臼によると︑不浄・不吉︒凶事  

・忌械・巣・災難・怪我を払い浄めるために塩を撒く地方に青森︵市・内潟町︶・秋田︵笹子村︶・岩手へ山五泉聖・静岡  

︵三ケ日町・韮山村・曳馬村︒内浦村・城西村︶岐卑︵船津町︶・石川︵滝尾村︶・仙台苗・福島︵小浜町︶・前柄市・埼玉  

︵小川町・宗岡村︶・長野︵北城町・穂高町・豊里村・島内村︶・千葉︵小糸村︶・山梨︵身延町︶岡山〇昔晶町︶・広島  

︵赤坂村︶ 

︵堀江町︶・高知︵室戸町︶等のある事が渋沢敬三氏のアンケートに答えられている︒   

︵㍑︶ 神楽の﹁四十八番﹂舞のうち︑五・六番目に荒塩の舞がある︒此の舞では塩を使い︑此の外﹁お塩舞﹂というのが長崎地  

方疫あるが︑此の方ほ潮水を振りまく舞である︒︵前掲﹁塩俗問答集﹂二九貢︶   

︵ほ︶ TheEncyc−OpediaAmerica㌢邑仁me岸p.−芦TheEncyc−名監ia野itanica.宣亡me∴鱒S毒p.00可〜芦   

︵H︶ TFeEncyc−Op指diⅣB邑anica︼S−p.苦.   

︵ほ︶ アチック︑︑︑ユーゼアム﹁塩俗間答集﹂四五弓N・H・Ⅹ﹃瀬戸内海講望見玉洋山 ﹁墟と人のつながり﹂ 二九五六年    第三十二巻 第三・四・五号  

︵6︶ 島田博士﹁遼代社会史研究﹂三仙九責︒同﹁遼制之研究﹂三六六頁  

︵7︶ 新約聖書マタイ伝︑第五童十三節   ︵二六二︶・ 二二  

(23)

八月八ヨ︑同放送新聞︶  

︵16︶ The WOrks OfTacituひ.ざ=−TFe Anna訂㌣︵−讐土.TFe O諷Ord Trans−ati呂−reまs2d︶ p・試−・  

︵17︶ TheEncyc−Opedia Americana︸NP pL諾.MungO Parkの豊富な経験談が所載されている︒其他﹁専売﹂誌通巻六  

四号三〇頁︒  

︵19︶ 高橋邦太郎﹁重さまと塩﹂ ︵フランス塩税史話︶ ﹁専売﹂誌八山号所蔵︑世界歴史事典︑十六巻四二頁  

︵19︶ 宮本博士﹁フランえ経済史概説﹂五二頁二三五頁  

︵20︶ 平凡社﹁大百科事典﹂第六肇二二頁︑海塩︒同上︑第七巻九九八頁︑斉︒更に同上︑第十〟巻三八二束︑氾姦も参看︒  

︵21︶ 佐伯富﹁宿代塩政の研究﹂一五九頁  

︵22︶ 小竹・宮崎・佐伯共著﹁東克Ⅶ近代化﹂ 山〇四頁  

︵23・24︶ 広文庫第九冊︑六三九頁︒曽仰望著︵吉村正訳︶ ﹁支部塩政史﹂ 山○貞  

︵乃︶ 松平家所蔵披雲閣文庫本に拠る︒  

︵26︶ 本庄博士﹁経済史概論﹂二二八貢  

︵27︶ 柚木重三﹁経済史原論﹂九五頁︑一〇一見 

︵28︶ 例えば︑銅鐸のうちに静岡県引佐郡中川村大字中川出土のものなど︑鋳成もよく整成されており︑袈裟樽文の下方空間にへ  

ら招きの訂由な原始画−魔絵が見られ︑また香川県綾歌郡綾川東山麓出土の銅鐸等参看︵斉藤忠﹁日本考古学図鑑﹂六七頁︶  

︵29︶ か1る野性獣頬を主食とする場合︑対象動物の血液中紅塩分を含んでいるから特に塩分を補う必要がない︒  

︵30︶ 西川佳雄﹁首狩土人と塩﹂︵ボルネオ探検記︶︑﹁専売﹂ 昭和二九年三月号所載︒日本語﹁塩﹂ ︵siO﹀Sia︶の語源ほボルネ  

オ食人種の用語にあるという︒  

︵31︶ 和田浦・石原道博編訳﹁瓢志倭人伝﹂ ︵岩波文庫本︶畠3所収  

人顆と塩の問題  ︵二六三︶ 二三   

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2013

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