O 論 説 戦 後 初 期 台 湾 に お け る 文 化 再 構 築
台 湾 省 行 政 長 官 公 署 宣 伝 委 員 会 を め ぐ っ て
黄 英 哲
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はじめに
第二次世界大戦が終わった一九四五年︑台湾は日本の植
民地支配を脱し︑中華民国によって統治されることにな
った︒それまでの五十年に及ぶ植民地支配の間︑日本は︑
統治のために初等教育の普及に力を入れ︑台湾に日本文化
を移植しようとしてきた︒その目的は︑教育を通じて台湾
人に日本人としての国民意識︑国家思想を植えつけること
にあった︒いわゆる同化政策である︒とりわけ︑一九三七
年日中戦争が勃発してからは︑さらに皇民化運動を推進し︑ 中国語の新聞刊行物を廃止して︑台湾各地に皇民錬成所を
設立した︒日本はファシズムの軍国思想でもって台湾青少
年を皇民となす教育を行おうとしたのである︒このような
状況下で︑台湾人が自らを日本人だと認識したとしても不
思議はない︒事実日本支配の末期には︑かなりの台湾人が
ハ 日本化されていた︒厳密な統計は無いが︑台湾の著名な文
学者葉石涛は︑終戦の段階ではすでに台湾の人口中三分の
ハヨ 二までが日本化されていたと述べている︒この数字は個人
的な感触ではあるものの︑終戦当時の台湾の状況をよく示
している︒
近代の国民国家の形成という問題に関していえば︑﹁国
189・ 一一 戦 後 初 期 台 湾 にお け る 文化 再 構 築
民﹂(nation)と﹁国家﹂(state)とがほぼ同時に形成され
たというのが西欧社会の常識となっている︒しかし︑それ
はアジア︑特に旧植民地においては当てはまらない︒帝国
主義の支配から独立を獲得した旧植民地が︑すぐさま直面
したのは︑先に﹁国家﹂をつくり︑その後で居住民を﹁国
民﹂化しなければならないという問題であった︒しかも短
期間のうちに行う必要があった︒つまり︑これらの国々は
nation︲stateではなく︑state︲nationであることを迫られ
たといえよう︒このようにして︑上からの﹁国民建設﹂
(nation‑building)は︑旧植民地だった国々の最重要課題に
る 掲げられたのである︒
戦後初期の台湾は︑まさにこうした状況下にあった︒こ
こでいう戦後初期とは︑一九四五年十月二十五日に中華民
国国民政府(以下︑国府と略称)が正式に台湾を接収して
から︑中国で国共内戦に敗れた国府が一九四九年十二月に
台湾に移ってくるまでの期間を指す︒それはさらに︑行政
組織の改編を境に︑台湾省行政長官公署の時期(一九四五
‑四七)と︑台湾省政府の時期(一九四七ー四九)の二期
に分けることができる︒
当時の国府にとって︑新たに受け入れた非﹁国民﹂
すなわち日本化された台湾人を如何に﹁国民﹂化する
かは︑台湾統治の最優先課題であった︒それは台湾を﹁中
国﹂化し︑台湾人を﹁中国人﹂化することを意味した︒こ の時期︑国府は台湾を﹁中国﹂化するための文化政策を採
用し︑それによって台湾の文化再構築を強力に推進しよう
とした︒これは台湾を中国文化圏に組み込もうとするもの
である︒ここでいう文化再構築(culturalreconstruction)
とは︑国家体制をより堅固なものにするため︑文化を人為
的に構築することである︒そうした文化は自然に作られた
ものではなく︑上から或いは外から︑強制された文化なの
である︒日本に代わって新しい統治者となった国府が文化
問題から着手したのは︑台湾を日本文化の呪縛から解き放
ち︑台湾人に中華民国の国民としての自覚を促すためであ
った︒
本論では︑台湾の戦後初期における︑国府及び当時の実
際の最高統治機関である台湾省行政長官公署が行った︑台
湾文化再構築政策の構想とその具体的な推進過程を︑台湾
省行政長官公署宣伝委員会の役割を中心に考察したい︒
﹁台湾接管計画綱要﹂に見られる国府の文化再構築政策
日本の敗戦に先立つ一九四三年十一月︑ルーズベルト米
大統領は︑中国が戦線を離脱して︑日本と単独講和する懸
念をもち︑それを牽制する意図もあって︑チャーチル英首
相とともに︑当時の中国の最高指導者蒋介石軍事委員会委
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員長を招請して︑カイロ会議を開いた︒そこで︑﹁満州︑
台湾及び膨湖島の如き︑日本国が清国人から盗取したすべ
ハら ての地域を︑中華民国に返還すること﹂を声明した︒そこ
で︑蒋介石は︑帰国後ただちに次のような命令を下した︒
行 政 院 秘 書 長 張 属 生 お よ び 軍 事 委 員 会 国 際 問 題 研 究 所
所 長 王 荒 生 は ︑ 返 還 後 の 台 湾 政 治 に 備 え て な す べ き こ と
を 検 討 し ︑ そ の 組 織 と 人 事 に つ い て の 適 切 な 具 体 案 を 提
出すること︒
さらに︑一九四四年四月十七日︑台湾を円滑に中国に復
帰せしめるため︑蒋介石は︑中央設計局の下に台湾調査委
員会を設置した︒中央設計局は︑日中戦争期行政と軍を統
率した最高機関たる国防最高委員会に属する下部機構で︑
全国の政治︑経済建設の計画立案を業務とする︒国防最高
ア 委員会委員長蒋介石は︑その総裁を兼任していた︒蒋介石
は︑新たに設置した台湾調査委員会の主任委員として︑陳
儀を任命︑委員には︑王荒生︑沈仲久︑銭宗起︑夏涛聲︑
周一鴉︑葛敬恩︑及び︑当時中国に亡命していた台湾出身
の丘念台︑謝南光︑黄朝琴︑游彌堅らを任命した︒
この時︑台湾調査委員会主任委員に任命された陳儀(も
との名は毅︑字は公侠︑または公沿︑一八八三‑一九五〇)
は︑断江省紹興の出身︑一九〇二年十月に日本に留学し︑ 成城学校︑陸軍測量学校を経て︑一九〇八年十一月陸軍士
官学校砲兵科を卒業した︒辛亥革命後︑漸江都督府軍政司
司長などになり︑一九一七年再び来日して︑陸軍大学に入
学︑帰国後は上海で実業についた︒やがて軍人︑政治家と
して兵工署署長︑代理軍政部部長︑福建省主席︑行政院秘
書長︑国家総動員会議主任など要職を歴任した︒戦後に至
り︑その政治的手腕と留日の経験を買われて︑戦後初期に
おける台湾統治機関の最高責任者台湾省行政長官公署
ム 行政長官に任命されることになる︒
台湾調査委員会が主たる任務としたのは︑台湾を接収す
るための計画と立案である︒まず着手したのは﹁台湾接管
計画綱要﹂[原文]の草案作製であった︒その﹁綱要﹂は︑
蒋介石の裁定を経︑一九四五年三月二十三日に正式に公布
された︒﹁台湾接管計画綱要﹂は︑第一通則︑第二内政︑
第三外交︑第四軍事︑第五財政︑第六金融︑第七工鉱商業︑
第八教育文化︑第九交通︑第十農業︑第十一社会︑第十二
糧食︑第十三司法︑第十四水利︑第十五衛生︑第十六土地
ムい に分けられている︒これは︑台湾接収の綱要であると同時
に︑接収後︑戦後初期台湾における施政方針の基本となっ
た事項でもある︒そのうち︑戦後の台湾文化再構築に関し
ては︑その第一通則のω︑並びに第八教育文化の㈹〜69に︑
基本的原則並びに具体的方策が述べられている︒以下︑該
当個所を記す︒なお[]内は筆者による加筆である︒
戦後初期台 湾におけ る文化再構築
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第一通則ω台湾接収後の文化政策は︑民族意識を増強
し︑奴隷化された思想を一掃し︑教育の機会を広めて
バけ 文化水準を高めるものでなければならない︒
バは 第八教育文化の第40条から第51条まで︒
㈹接収後改組された学校は︑短期間に開講しなければ
ならない︒私立学校及び私営の文化事業も︑接収期間
に法令を遵守するならばひきつづき事業を行うことを
許可する︒然らざる場合は︑それを接収︑改組もしく
は運営を停止させる︒
㈲学校接収後は︑ただちに左記の各項を実行すべし︒(甲)カリキュラム及び学校行政は︑法令に照らして
定むべきこと︒(乙)教科書は︑国定本[国立編訳館
が編輯したもの]或いは審定本[国立編訳館が審査し
たもの]を用う︒
ママ幽師範学生[校]は︑接収改組の後︑特に教師の素養
及び教務訓育の改善に重きを置くべし︒
㈹国民教育及び補習教育は︑法令によって積極的に推
進すべし︒
圓接収管理後は︑国語[中国語]の普及計画を定め︑
期限を切り段階を経て実施すべし︒小中学校は国語を
必修科目とし︑公務員教員は︑まず国語を用うべし︒ 各地方に設けられていた日本語講習所は︑ただちに国
語講習所に改組し︑かつ︑国語教師をまず訓練すべし︒
㈲各校の教員︑社会教育機関の成員及び其他の文化事
業に従事する者は敵国[日本]の人民(ただし専科以
上の学校では︑必要な場合は留用するも可)及び違法
行為をなしたる者の他は︑すべて留用するを得︒ただ
し︑教員には審査を行い合格者に証書を付与すべし︒
ママ㈲各レベルの学校︑博物館︑図書鋪[館]︑放送局︑
映画製作所︑映画館等の設置と経費は︑接収管理後も
変えないことを原則とす︒ただし︑区域を分けて設置
すること及び教育を普及することの原則に立って︑周
到に計画すべし︒
㈲日本占領期︑強制的に兵役に服せしめられた台湾籍
の学生は︑その希望と水準に応じて復学或いは転学の
便を与うべし︒公費により国外に留学した台湾籍の学
生は︑情状酌量して留学を継続せしむることを得︒
姻日本が最近各地に設立した錬成所はすべて解散すべ
o
㈲教育に携わる者を[中国本土の]各省に参観のため
派遣し︑中等学校卒業者を選抜して各省の専科以上の
学校に入れて修学させること︑あわせて学者を台湾に
多数招いて講義させること︒
60省訓練団︑県訓練所を設置し︑公務員︑教員︑技術