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『聖書』が「看取り」について語ること

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『聖書』が「看取り」について語ること

佐々木 啓

はじめに

人の「生」と「死」、すなわち「命」をめぐる問題は、あらゆる意味にお いて複雑である。「生」とは何か、「死」とは何かといった根本的な問いにつ いてすら、完全な解答が与えられているとは言い難い。

試みに、「命(life)」そのものを対象とする科学たる、現代生物学の教科 書を見てみよう。

「命」とは、「自己創出(autopoietic)システムであり、自己構築(self- constructing)、自己維持(self-maintaining)、エネルギー変換(energy- transducing)、自己触媒作用(self-catalytic)を行なう実体(entity)」1)であ る。「生命体(living organisms)」という「システム」は、「変異と自然選 択により進化しうる、すなわち自己繁殖(self-reproducing)する実体であ り、その形態と機能は、自らの環境に適応しつつ、その生態系の構成と歴史

(composition and history)を反映する」2)

「生物」をなんらかの「複雑なシステム(complex system)」とみなす点 で、最近の生物学の見解は一致している3)。日本の生物システム学者清水博 は、そのような「システム」を次のように論じる。

「複雑なシステムとは、たとえその構成要素の性質が分かっていたとして も、要素の変化や変動に関する科学的因果律を使ってその性質からシステム の性質を完全に引き出したり、予測したりすることができないものである。

このことは力学法則のような因果律的法則が、複雑なシステムの中では成立 していないということを意味するものではない。そうではなく、システムが 複雑であるために、因果律的な法則性が成り立っているとしても、その法則 性を使ってシステムの性質を要素の性質から理解することができないという ことを意味する。またそれ自身が複雑なシステムである生き物が、要素のレ

(2)

ベルでの因果律的法則性を常に活用して生きているとは思えない」4)。 いずれにせよ、すべての生物学者が同意するように「〔生〕命」を(とい うことは、「死」についても)一義的に定義するのは困難なようである。現 代世界に生きるわれわれは、生活のさまざまな場面で、生物学はもとより、

実証的と称する自然科学の知見に根ざす(と思われている)医療や法律を頼 りにしなければならない。しかしながら、上に引用した当の生物学者たちに よる「生命(体)」の定義からも明らかなように、「命」(ということは「死」

をも)をめぐる現実的な場面での医療や法律による対処には、依然として解 決されているとは言い難い複雑かつ微妙な問題がつきまとっている5)

したがって、生物学のみならず、医療や法律といった、現代の世俗社会に 一定の規範を与える分野における「命」(と「死」)をめぐる議論は、むしろ 他の分野、とりわけ「規範」そのものをも考察対象とする倫理学や哲学と いった分野の参入を認め、いっそう多角的な観点からなされる必要があるで あろう。さらに、哲学や倫理学は、こんにち十分世俗化した学問領域である とはいえ、がんらいそれらに深い結びつきをもっていた、というよりも歴史 的に哲学や倫理学といった学問の基層を提供してきた宗教(思想)について もまた、さまざまな角度から再検討し、当該の議論への関与を認める余地が あると思われる。

ところで、私が専門とするのは、『新約聖書』を中心としたキリスト教の 学問的研究である。いうまでもなく、日本におけるキリスト教人口はきわめ て少ない。また、日本社会の基層文化もキリスト教に根ざしているとは言い 難い。したがって、どのような社会でも自らの基層文化と切り離せない関係 にあると思われる「生」や「死」をめぐる諸問題について、ごく一部のキリ スト教徒を相手にする場合を除いて、日本社会において『聖書』から説き起 こすことはあまり意味をなさないのかもしれない。

たとえば、欧米社会においては、さまざまな問題が、陰に陽に『聖書』を 引き合いに出して論じられる。それどころか、「対立する道徳的な立場の両 方すら、たとえば、死刑の是非をめぐる議論、(中略)あるいは中絶の道徳 性と非道徳性をめぐる議論などが、『聖書』を拠りどころとして論じられ る」6)

良くも悪しくも、日本の社会にそのような規範となる「正典(Canon)」

(3)

はもはや存在しない。多くの日本人は、一見この「自由」を謳歌しているよ うにみえる。しかし、この自由は同時に困難をともなう。日本においては、

「生」や「死」をめぐるさまざまな決断が、法律や医療の掣肘をうけるとは いえ、いまやひとりひとり個人の決断にかかっている7)。多くの人々は、危 機的事態に直面してはじめて、十分体系的に教えられたことも考えたことも ない問題について、場合によっては突然、決断することを強いられるのであ る。

本稿の目的は、以上のような状況を踏まえて、ささやかながら、当該諸問 題について考えるさいの一助となる(と私が考える)話題を、自らの専門領 域から提供することである。

本論―「看取り」とイエス・キリストの「喩え物語」

1. イエス・キリストの「看取り」(?)

本年報のテーマ「看取り」に関連して、私がまっさきに思い浮かべる『新 約聖書』の箇所は、よく知られた、イエスが弟子に言ったとされる次のよう な言葉である8)

ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてく ださい」と言った。イエスは言われた。「私に従いなさい。死んでいる 者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(「マタイによる福音書」8 章 21–22 節)。

これは、儒教的な価値観を基層にもつ日本社会においては、ひどい言葉で あろう。全くの「親不孝」、「孝」という徳目に反する暴言であろう。このよ うな発言をするキリスト(教)が日本では不人気となるのも理解できないわ けではない。

しかし、これは何も日本人だけが引っかかるところではない。古来、キリ スト教徒の間でも、このイエスの言葉は、にわかには受け入れがたい言葉と 考えられてきたようである。

死人に死人を葬ることはできないという点で、そもそも矛盾しているので

(4)

あるが、このイエス・キリストの言葉は、彼が生きていたユダヤ教の社会に おいても、当時のヘレニズム世界においても「まさに衝撃的」で「躓きを与 える」発言であった9)

ごく初期の教父であるオリゲネス(Origenes, 生没 185 頃 –254 頃)も、

この発言は弟子に対して以外は「相応しくないし、……逆だ」10)と述べてい るが、アウグスティヌス(Augustinus, 生没 354–430)は、「生みの親は愛 されるべきだが、創造主が優先されるべきである」11)と書いており、古来キ リスト教会では、このイエス・キリストの言葉をなんとか、いわば軟化させ ようとする試みがなされてきた。

たとえば、たいていの人は死人を葬るが、少数のイエスの弟子たちのみが そうしないのである(オリゲネス)12)、といったように。あるいは、「死んで いる者たち」というのは、霊的に死んでいる者たち、すなわち不信仰者、罪 人、異教徒のことであり、彼らとは関わるなということである13)、などと。

さらにまた、トマス(Thomas Aquinas, 生没 1225 頃 –1274)によれば、

「信仰者と不信仰者という間柄では、血縁者の愛は差し控えられる」14)。こう いった解釈は、いずれも、イエスの言葉を字義通りに受けとるというより も、ある種の比喩的表現として受け入れようとしていると言える。

あるいは、この言葉は、イエスが話したとされるもとのアラム語からの誤 訳であり、本来は、「死んでいる者たちは、埋葬人に葬らせなさい」という 意味だとする(学?)説がある15)

しかし、キリスト教の世界における現代的解釈は、いくぶん異なる。簡単 に言えば、この過酷な言葉をむしろ文字どおりに受けとろうとするのであ る。それはつまり、イエス・キリストが説く「神の国」のあり方と、通常の 世界とのあいだの鋭い対立に強調点をおくのである。「神の国」を説くイエ ス・キリスト、あるいは彼が説く「神の国」そのものが、極端なまでに所有 を放棄し、彼と共に一所不在の生活を求めているのである。「私よりも父や 母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私 にふさわしくない。また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふ さわしくない」(「マタイによる福音書」10章37–38節、さらに、同34–36節、

「マルコによる福音書」10 章 29–30 節、「ルカによる福音書」14 章 26 節も 参照)。

かくして、このような解釈は、既存の教会や政治などの諸制度に従属する

(5)

態度と、「神の国」の宣教に基づく「愛」の実践とのあいだにある緊張関係 の表明として、キリスト教社会では、さまざまな問題提起の端緒となるので ある16)

以上のような解釈は、キリスト教徒であれば、「なるほど」と思うかもし れない。しかしながら、キリスト教信仰を持たない人々、あるいはごく一般 的な日本人にとって、容易に理解されうるものであろうか。

2. イエス・キリストの「喩え物語」

ここで、私はこの親不孝なイエス・キリストの発言を、『聖書』全体、な かんずく福音書全体というより広い文脈(context)において、いくぶん異 なった仕方で理解する可能性を提案してみたい。それは、当該のイエス・キ リストの発言を、『新約聖書』で描かれているイエス・キリストの言行の全 体像において理解しようとする試みである。

とっかかりとなる例として、福音書に記されているイエス・キリストの代 表的な「喩え物語(英語:parable、ドイツ語:Parabel)」17)をとりあげる。

それは、『新約聖書』においてマタイとルカの福音書に記されている、「『婚 礼の祝宴』のたとえ」あるいは「『大宴会』のたとえ」などと呼ばれている ものである。

長くなるがそれぞれの「喩え物語」を引用しながら論じることにする。

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子 のために婚礼の祝宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、祝宴 に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、

次のように言って、別の家来たちを使いに出した。「招いておいた人々 にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠っ て、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください。』し かし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、

他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった。

王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払っ た。そして、家来たちに言った。『祝宴の用意はできているが、招いて おいた人々は、ふさわしくなかった。だから、四つ辻に出て行って、見

(6)

かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。』それで、その僕しもべたちは通りに出 て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっ ぱいになった。王が入って来て客を見回すと、そこに礼服を着ていない 者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来 たのか』と言った。この者が黙っていると、王は召し使いたちに言っ た。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめき、

歯ぎしりするであろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」

(「マタイによる福音書」22 章1–14 節)。

一読しただけでは何の話かよくわからない。「天の国」が喩えられている のであるが、何処か心地よい場所などではなく、妙な出来事が語られてい る。少なくとも、招待客が辞退したり、「家来たちを捕まえて……、殺して」

しまったり、それに怒った王が「町を焼き払った」り、あげくに、「見かけ た人は善人も悪人も」適当に人を集めておきながら、「礼服を着ていない」

などと言って「手足を縛って、……ほうり出」すなど、まったく理不尽で無 茶苦茶な話、奇矯な話に思われる。

この「喩え物語」の古来キリスト教会においてポピュラーな解釈は、いわ ゆる寓意(allegory)的解釈と呼ばれるものである。すなわち、「王」=神、

「王子」=キリスト、「家来」=預言者、「招いておいた人々」=ユダヤ人、「町」

=エルサレム、「町を焼き払」うこと=ローマ帝国による紀元 70 年のエル サレム神殿の破壊、「見かけた人」=異邦人、などというふうに、それぞれ の要素を一対一対応で置き換える解釈技法である。

そうすると、全体の意味は、神はかねてからユダヤ人たちの救済のために 預言者を送っていたが、ユダヤ人たちは無視したので、都であるエルサレム を破壊してしまった。今やキリストによって、ユダヤ人ではなく、異邦人こ そが救済へと招かれているが、それなりの心構えが必要である、などとでも まとめられるであろう。

ところが、この「喩え物語」には、「マタイによる福音書」に瓜二つであ るが、別版というべきものが「ルカによる福音書」にある。

同席していた客の一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をす る人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言わ

(7)

れた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の 時刻になったので、僕しもべを送り、招いておいた人々に、『もう準備ができ ましたので、お出でください』と言わせた。ところが、皆、一様に断り 始めた。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。ど うか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を五対買った ので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と 言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができま せん』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家 の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、

貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに 連れて来なさい。』やがて、僕が、『ご主人様、仰せのとおりにいたしま したが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『街道や農地へ 出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてく れ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は 一人もいない』」(「ルカによる福音書」14 章 15–24 節)。

先のマタイとルカのこの「喩え物語」がほぼ同じであることは、一目瞭 然である18)。ただし、こちらのルカ版では、「主人」とは、この「喩え物語」

自体を話しているイエス自身ということになるであろう。というのも、この

「喩え物語」の最後の一言「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私 の食事を味わう者は一人もいない」という発言は、「喩え物語」のなかの主 人の言葉というよりも、イエス自身の発言に融合してしまっているように読 めるからである。

いずれにせよ、この「喩え物語」のマタイ版とルカ版についての寓意的解 釈は、一定の妥当性を持っていると言える19)。しかし、たとえば、ルカ版に おける「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な 人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」といった記 述は、当時の社会から排除された人々、あるいは弱い立場にある人々に対し て受容的(inclusive)で、イエス・キリストのあらゆる人々に対する救済

(universal salvation)の働きを強調する「ルカによる福音書」の全体的傾 向を反映している、と考えることができる20)。他方、マタイ版の方は、『旧 約聖書』やユダヤ教とイエスの宣教との関連性や連続性を重視する「マタイ

(8)

による福音書」全体の傾向に即応している21)。こういったことから、マタイ とルカにあるこの「喩え物語」は、むしろもともとの(人間イエスが実際に 話した)原型に発する伝承に、それぞれの福音書の記述者の編集の手が加え られているのではないか、といった仮説が生じる22)

ところが、この「喩え物語」には、さらに厄介な問題がある。上述のマタ イやルカの版とは異なるが、それらと同様の伝承に遡ると考えられるよう な、いまひとつの別版が、ナグ・ハマディ文書に含まれる(『新約聖書』正 典には含まれない)外典の「トマスによる福音書」23)に存在しているのであ る。トマス版は以下のとおりである。

イエスが言った、「ある人が客を持った。そして、彼が晩餐を用意して、

客を招くために、彼の僕しもべを送った。僕は最初の人に行って、彼に言っ た、『私の主人があなたを招いています』。彼は言った、『私は商人たち に(貸)金を持っています。彼らは今夜私のところに来るでしょう。私 は出て行って、彼らに指示を与えるでしょう。晩餐をお断りします』。

僕は他の人に行って、言った、『私の主人があなたを招きました』。彼は 僕に言った、『私は家を買いました。人々は一日中私を必要としていま す。私には時間がないでしょう』。僕は他の人に行って、言った、『私の 主人があなたを招いています』。彼は僕に言った、『私の友人が結婚する ことになっています。そして、私は祝宴を催すでしょう。私は行くこと ができません。晩餐をお断りします』。僕は他の人に行って、言った、

『私の主人があなたを招いています』。彼は僕に言った、『私は村を買い ました。私は行って小作料を受け取らなければなりません。私は行く ことができないでしょう。お断りいたします』。僕は戻り、主人に言っ た、『あなたが晩餐にお招きになった人々は断りました』。主人は僕に 言った、『道に出て行きなさい。お前が見いだした人々を連れてきなさ い。彼らが晩餐にあずかるように。買主や商人は私の父の場所に入らな い[であろう]』」(「トマスによる福音書」64)。24)

正典福音書であるマタイやルカ版に比べると、ずいぶんそっけない表現で ある。さてしかし、聖書学の通常の手続きにしたがうなら、イエスその人に まで遡ると考えられる伝承の過程を詮索することになる。諸説あるなかで、

(9)

主にアメリカの研究者などからなるイエス・セミナー(Jesus Seminar)と いう、イエスの言行を可能な限り歴史的に再現しようと試みた研究団体は、

上述の三つの版のうち、外典であるにもかかわらず、トマス版が実際にイエ スが語った言葉にもっとも近いであろうということを、投票で4 4 4決めた25)。よ り正確には、トマス版とルカ版は、別系統の伝承であるが、イエスその人の 発言に近く、マタイ版はもっともイエスの実際の発言からは遠い、という判 断である26)。その理由は、端的に言って、トマス版がもっとも素朴であるか らである。しかし、「ドイツのカトリック系の研究者」たちは、むしろ、マ タイやルカの共観福音書版がトマス版より古いと判断する27)

ところが、この歴史のイエスの真正(authentic)の言葉探しは、さらに 錯綜したものにならざるをえない。というのも、ここまで論じてきた正典内 外の福音書にあるよく似た「喩え物語」は、それらとよく似た話が、ユダヤ 教の聖典である『タルムード』にも見られるからである。

……ラビ・エリエゼルは言う。あなたの死の一日前に悔い改めなさい

(ミシュナ・アヴォート 2:1)。彼の弟子たちがラビ・エリエゼルに訊 ねた。しかし人は、どの日に死ぬのか知っているのでしょうか。

彼は彼に言った。(だから)なおさらそうなのだ。彼は明日死ぬかも しれないため、今日悔い改めようではないか。そして彼は、彼のすべて の日を悔い改め(の状態の)中で発見するのである。

またソロモンは彼の知恵の中で言った。「どのような時にも純白の衣 を着て、頭には香油を絶やすな」(「コヘレトの言葉」9章8節)。

ラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイが言った。それは彼の召使いたち を宴会に招待した王に喩えられよう。だが彼は彼らのために時間を指定 しなかった。彼らの中の賢い者たちは彼ら自身を飾り、王宮の門で座っ ていた。彼らは言った。王宮には何が欠けているのだろうか。彼らの中 の愚かな者たちは仕事に出かけた。彼らは言った。労せずに(準備され た)宴会などあるのだろうか。

突然、王は召使いたちを呼び集めた。彼らの中の賢い者たちは彼ら自 身ですっかり着飾って(王)の前に参内した。一方、愚かな召使いたち は汚れた(衣服で王の)前に参内した。王は、賢い者たちへの挨拶を喜 んだ。しかし愚かな者たちには怒って挨拶した。

(10)

彼〔王〕は言った。宴会のために彼ら自身で着飾ったこれらの者たち には、座らせ、食べさせ、飲ませよ。宴会のために彼ら自身で着飾らな かったこれらの者たちには、立たせ、眺めさせよ28)

さて、このようなユダヤ教の文書における正典内外の福音書に類似した

「喩え物語」の存在を、どのように考えたらいいであろうか。『タルムード』

にも同じような話がある以上、正典のマタイやルカの福音書でイエスが語っ たとされる上述の「喩え物語」は、そもそもイエス自身に遡るオリジナルな ものなのか、といった素朴な疑問がわくであろう。しかし、ユダヤ教にも類 似の喩え話があるとしても、そのことで、イエスがこういった「喩え物語」

を語らなかった、という証拠にもならないであろう29)

もともと自分で何かを書き残したわけでもないイエスという人は、いわば 語る人であったわけであるから、ユダヤ人の間で流布していた話を自分なり に脚色して語り直したのかもしれない30)。あるいは、『タルムード』の成立 の経緯や時代を考えるならば、全く逆に、イエスの言葉がユダヤ教の伝承に 入り込んだという仮説すら考えられないわけではない31)

しかしながら、そういった人間イエスの真正の言葉に可能な限り接近しよ うといった伝承の詮索に、本稿の関心があるわけではない。いずれにせよ、

そういった探究によるどのような結論も仮説にとどまる。むしろ、上述の四 つの版の「喩え物語」の比較検討をとおして見えてくるものはないであろう か、ということが本稿における最大の関心事である。

これら四つの「喩え物語」の関係がどのようなものであれ、類似している とは言いながら、正典福音書であるマタイ版・ルカ版両者と、トマス版やタ ルムード版との相違もまたかなり明白である。

たとえば、最後にとりあげたタルムード版では、その結論として、「い つも万全の備えをしていなさい」とでも要約できる、「日常的な行動規範

(moral teaching)」32)の提示がもっとも重要なように思える。マタイとルカ の正典福音書版とこのタルムード版は、いろいろな点で「比較可能ではある が、対照的」33)な「喩え物語」なのである。

また、トマス版について言えば、「買主や商人は私の父の場所〔=マタイ なら「天の国」〕に入らない」(〔 〕内は、佐々木による補い)という結語

(11)

が示すように、具体的ではあるが、その分かなり鮸に べ膠もない排他的態度が示 されている(だけ)と言える34)

そうすると、他の二つの版と異なる正典福音書マタイ=ルカ版の「喩え物 語」の特徴、少なからぬ相違を超えて両者に共通の特徴と呼べるものを抽出 することが次の作業となる。

3. イエス・キリストの「「喩え物語」の 認知的(cognitive)働き

いま一度マタイ版とルカ版の「喩え物語」を読み返してみよう。この二つ の版をトマス版やタルムード版と比較した場合、細部の差異を捨象して大き な流れで捉えてみると、きわだった特徴が見えてくる。

まず、あらかじめ宴席に呼ばれて(承諾したはずの)人間が、それを無 視したり(マタイ版)、あるいはたいした社会的な義務とも思われない理由

(ルカ版)で招待を断ったりするだろうか? ましてや、(マタイ版のように)

使者を殺すとは! 招待客の態度は、まったく腑に落ちないのである。すな わち、通常の礼儀や慣習が破られている。

しかし、それだけでは済まない。招かれた者たちが招かれた者たちなら、

招いた者も招いた者である。断られた王や主人の態度も常軌を逸している。

(マタイ版のように)招待客に断われた招待者が、招待に応じないからと 言って、招待客のいる町を焼き払ったりするであろうか? そして、招待客 が来なかったからと言って、(マタイ版のように)その辺から誰でも人を、

あるいは、(ルカ版のように)当該社会に忌避されているような人々をわざ わざ集めてくるであろうか? さらにきわめつけは、自分で勝手に招待して おいて、「礼服を着ていない」からと言って、「手足を縛って、外の暗闇に放 り出せ」とは、王にしろ主人にしろ「???」としか書きようがない。

福音書の喩え話の研究者であるハルニッシュは、「この破壊的な物語戦略 の一つの関心は、特別何でもない事柄を気に障るものに、自明な事柄を疑 わしいものにすることにある」35)という。彼はさらに、哲学者ハイデガー

(Martin Heidegger, 生没 1889–1976)の『存在と時間』を引用しながら、

上述のようにまとめられる「喩え物語」は、「事実的現存在の哲学的分析に

(12)

対応するような、一つの洞察を、物語のかたちで解き明かす」36)、と分析す る。この「喩え物語」が、「物語が物語そのものを超えて指し示しているの は、聞き手が、客たちの信じ難い反応をとおして、彼ら自身の日常的実存の あり方の疑わしさに気づくように、ということなのである」37)。なにも、哲 学めかして小難しく解説するまでもない。あるいは、物語られた世界は、「物 語的奇抜さ(Verstiegenheit)と特徴づけることができるような、奇矯さ

(Extravaganz)の刻印を帯びている」38)などと、堅苦しく記述する必要も ない。

ようするに、マタイとルカという二つの正典福音書に記された、イエスが 語ったとされるこの「喩え物語」は、きわめて「突飛な(extravagant)」39)

話なのである。

キリスト教会で聖書のこの「喩え物語」が朗読されるときには、聴衆は神 妙に、 鯱しゃちほこば張 って聞き入る。しかし、巷でごく普通の人々にこの「喩え物 語」を騙った4 4 4なら―実は、福音書のイエスはまさにそうしているように見 えるわけであるが―、むしろ、「そんな馬鹿げた話はないだろう」と、人々 から哄笑のうちに茶々を入れられるであろう。

ところで、共観福音書に記されたイエスの教えなるものは、その3分の1 が大小さまざまな何らかの形の「喩え物語」であり、その数は 60 とも言わ れる40)。ここでそういった「喩え物語」すべてを網羅して論じる余裕はない が、いまひとつ「マタイによる福音書」に記された「喩え物語」をとおし て、前段で結論づけた、イエス・キリストの「喩え物語」の「突飛さ」とい う特徴を確認してみたい。

それは、「マタイによる福音書」18 章 23–35 節にある、『聖書 聖書協会 共同訳』では「『仲間を赦さない家来』のたとえ」と題された「喩え物語」

である。

そこで、天の国は、ある王が家来たちと清算をしようとしたのに似てい る。清算が始まると、一万タラントン借金している家来が、王の前に連 れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自 分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来は ひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と

(13)

懇願した。家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにして やった。ところが、この家来は外に出て、百デナリオン貸している仲間 の一人に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間 はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだ。しかし、承 知せず、行って、借金を返すまでその人を牢に入れた。仲間たちは、事 の次第を見て非常に心を痛め、主君に一部始終を報告した。そこで、主 君はその家来を呼びつけて言った。『不届き者。お前が頼んだから、借 金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、

お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒っ て、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡した。あなたがたもそ れぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに 同じようになさるであろう」(「マタイによる福音書」18 章 21–35 節)。

この「喩え物語」は、福音書の中ではマタイにだけ記されており41)、多く の研究者は、イエスその人の発言に近い古い伝承に遡ると考えている42)。こ の「喩え物語」においても、「王」あるいは「主君」が神であるといった寓 意的解釈はある程度可能であるが、先に紹介した「『婚礼の祝宴』のたとえ」

に比べると、あまり「突飛」な話でもなく、最後の、「あなたがたもそれぞ れ、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じように なさるであろう」という一文によって、一般的な、あるいは信仰者の「仲 間」に対する、「赦す」という態度についての道徳的な戒めとなっていると も言えよう43)

しかしながら、この「喩え物語」も細部をよく見るならば、「途方もない

(riesig)」44)ところがあるのである。それは、「家来」が「王」に借金した

「一万タラントン」という金額である。「総額一万タラントンを工面するとい うのは、個人の財産の範囲を越え」45)ている。したがって、この話も、当時 の人々にとってみれば、「そんなバカな話はないだろう!」とやり返される ことになる。大きな恩恵を与えられた者が、ごく些細な恩恵を与えることを 拒否するという、さらなる「途方もない」無慈悲によって46)、「スキャンダ ラス」な47)、誇張法という枠を超えて、全体としてやはり「突飛な」話なの である。

(14)

さて、このように、福音書においてイエスが語ったとされる「喩え物語」

の共通要素を取り出そうとするならば、その一つが、話の「突飛さ」にある ことは間違いなさそうである。確かに、上で見てきたように、それぞれの

「喩え物語」には、寓意的な要素もあり、古来行なわれてきたように、寓話 として解釈することも正当でないとは言えない。

しかし、とりわけ、外典福音書における「喩え物語」や、『タルムード』

に収録されたユダヤ教の喩え話と比較した場合、イエスの「喩え物語」とさ れるものの、「突飛な」特徴はきわだっている。そのような、イエスの「喩 え物語」の全体的特徴から見直すなら、イエスが弟子たちに言ったとされ る、「死人のことは死人に任せておけ」という言葉も、その「突飛さ」の点 で、福音書におけるイエスのものの言い方の全体的傾向に合致していると言 えるであろう。

この「突飛さ」というのを、もう少しわかりやすく一般的に言い換えるな ら、いずれにせよ当該社会の通念なり慣習などを逆撫でして、既存のものの 考え方を揺るがし、それを超えて4 4 4進む方向性を指し示しているのではない か、ということである。

もちろん、ここまで立ち入って論じてきた正典福音書の「喩え物語」に も、寓意的な解釈を含めて、「神の救済の業に備えて、それを受け入れよ」

とか、「人を赦せ」といったように、語られていることの表面にはある程度 明確なメッセージがある。しかし、それらのメッセージの下にいわば隠され たメッセージ、すなわちメタメッセージ、あるいは深層構造として、上述の ような「突飛さ」があると言えないであろうか。

『聖書』を読みつつ育てられるキリスト教徒(やその社会)は、このよう な(むしろ)メタメッセージを叩き込まれるわけである。私は、こういっ た『聖書』が醸し出すメタメッセージの働きを、『聖書』が持つ、少なくと も福音書のイエスの「喩え物語」が持つ「認知的(cognitive)」効果と呼び たい48)。つまり、福音書に記されたイエス・キリストの言行に導かれた人々

(や社会)は、なんらかの仕方で、それらのイエスの言行の「突飛さ」を、

自らによる物事の認識の仕方や生き方として内在化しないであろうか。こう いった、福音書(のみならず、『聖書』の記述全般)が人間の認識行為に影 響を与える(であろう)特徴を、私は、『聖書』の「認知的」49)な側面と名 づけたい。

(15)

結論―「看取り」の倫理をめざして

さて、本論で論じてきたようなイエスの「喩え物語」の特徴、その「突飛 さ」と、私がその「認知的」効果と名づけた働きは、命の倫理をめぐる問 題、なかんずく「看取り」といった問題への対応に、いったいどのような具 体的提言をすることができるであろうか。その問いに応答する試みをもっ て、本稿の結論としたい。

私は、本稿の冒頭で、生物学による「命」の定義に触れた。そこでの論点 のひとつは、「命」(ということは「死」についても)の定義が、当の生物学 においても未だ微妙な問題である、ということであった。しかし、それらの 定義を垣間見て、さらに私なりにまとめるなら、次のようなことが明らかで ある。

「生命〔体〕= living organism」としての「生物」は、いずれにせよ「自 己(self)」を「外界=環境」から分節する(articulate)存在であること。

しかし、そのような「自己」は、「外界=環境」と分節しつつ/されつつ、

その「外界=環境」と(言葉の広い意味で)コミュニケーション4 4 4 4 4 4 4 4 4するのが不 可欠であること。そして(おそらく)、人間(だけ)が、二重分節4 4 4 4(double articulated)言語を有することにより、この「自己」と「外界=環境」と の自己言及的(self-referential)構造を外から論じる、つまり「自己」とし て「自己」を論じることが可能であること(ただし、論じることができるだ けであり、その自己言及的構造を免れることができるわけではない50))。

以上のことから言えるのは、少なくとも人間は、「自己」という「文脈

(context)」、あるいは、「自己」とその当座の「外界=環境」という「文脈」

をも越えて、「自己」なり「自己と外界=環境」なりを、より広い、あるい は多様な「文脈」から「論じる」ことが可能だ、ということである。私は、

最初に触れた私の論文において、「命」をめぐる諸問題について、このよう な「生命(体)」の本性自体にもとづいて、既存の、あるいは特定の(たと えば、生物学的、医学的、医療的、あるいは法律的などの)文脈を越えて議 論する必要性を提唱した。

(16)

以上の私の提言に関連して、本稿では、『新約聖書』に記されているイエ スの「喩え物語」の「認知的」働きと思われるものを論じることによって、

それをさらに補強しようと試みた。そもそも『聖書』は、特定の宗教の正典 にすぎない。しかし、そこに記され、長く読み継がれ、解釈し続けられてき た文書には、おそらくそれなりの働きがあるのだろう。

たとえば、本稿で明らかにしたイエスの「喩え物語」の「突飛さ」という のは、上述の私の議論に結びつければ、狭い「文脈」や既存の「文脈」を越 えて思考するための「きっかけ」、あるいは「気づき」を与えるような「認 知的」働きを持っていないであろうか、というのが本稿の仮説である。

そのような、既存の狭い「文脈」を越えて思考する倫理は、「超越の倫 理」51)とでも呼びたい。しかし、それは「無原則の原則」ともいえ、論理 的に徹底しようとすれば、「自己」言及のゆえに論理階型上の矛盾を引き起 こす(「無原則」が「原則」のゆえに、それを「原則」にすることもできな い)52)。しかしこの矛盾は、二重分節言語を持つ人間の常態とも言える(メ タメッセージを含まないメッセージなどありえない)。したがって人間はこ の矛盾に耐えられるはずである53)。生死をめぐるあらゆる現場は、個別的で あり、その意味において特殊なものであろう。むしろ一般的な原則に固執す ると身動きがとれなくなる恐れがある。具体的な方策もまた多様であろう。

そのような多様な状況に対応するための柔軟性を養う思想的、実践的姿勢を 訓練しようというのが、この「超越の倫理」にもとづく私の提案である。

おわりに

私は祖母や父の死に目に間に合わなかった。親のみならず、親族の最後を 看取りたいというのは、『聖書』やキリスト教の世界のみならず、古今東西 多くの社会においても推奨される行為であり、そもそも人間として自然な情 動であろう。幸いにして(と言っていいと思うが)、祖母も父も、完全な介 護を要したのはごく短期間であった。私は、彼らが死の床に就いているあい だ、本稿で論じたイエスの親不孝な言葉がたびたび頭に浮かんだ。

私の父も祖母もキリスト教徒である。したがって、くだんのイエス・キリ ストの言葉はよく承知しているはずである。特に、父は牧師であった。「看

(17)

取り」のために、私がもし彼に張りついて何もできない/しないでいれば、

「死人のことは死人にまかせて、神の国の宣教に邁進せよ!」と命じたはず である。これは「突飛な」発言である。しかし、これを実践しないのであれ ば、キリスト教徒にとって『聖書』の言葉とはいったい何を意味するのであ ろうか。そして、私が真に親不孝であったかどうかは、私を超えて4 4 4他人が評 価すること、いやむしろ「神のみぞ知る」ことであろう。

1) Harold 2001, p. 232. 翻訳は佐々木による。

2) Harold 2001. 翻訳は佐々木による。

3) Harold 2001, pp. 222-227. 翻訳は佐々木による。

4) 清水 1993、3 頁。

5) 私はかつて、「生」と「死」をめぐる現実的な問題の具体例として、日本における

「脳死」の扱いについて論じた。Sasaki 2015, pp. 49–50.

6) Beasley et al. 1991, p. 21.

7) たとえば、2009 年に改正されたいわゆる「臓器移植法」では、脳死判定における 家族による決断がいちだんと重要になったことなどが思い浮かぶ。

8) 新約聖書学と称される学問領域において、聖書からの引用については、ギリシャ語 原文から自ら翻訳を作成し、写本の間の異なった読み方になどについて論じなけれ ばならない。本稿執筆にあたっても、新約聖書ギリシャ語原典の基本的な校訂版で ある Nestle-Aland 2012 に目をとおしたが、本稿の論旨に関わる限り、特段問題 がないと判断したので、それらの詳細についていちいち言及することは避け、日本 聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』の訳をそのまま用いた。

9) Luz 1990, p. 25. 小河訳、 43 頁。たとえば、ユダヤ教の世界では、身寄りのない 死人を葬ることすら、むしろ義務であり、さらに祭司には死体との接触が禁じられ ていた(「レビ記」21 章 11 節)にも関わらず、祭司にも自分の父親の場合はそれ が許されていた(同 2–3 節)。つまりは、ユダヤ教の社会においても、親族の埋葬 は最優先事項だということである(Strack und Billerbeck 1982, p. 487)。また、

ユダヤ教の預言者エリヤはエリシャを弟子にするとき、エリシャが父母に別れを告 げることを許している(「列王記上」19 章 20–21 節)。この話は、ここで論じてい る福音書のイエス・キリストの振る舞いとまったく対照的であることが興味深い。

(18)

(このイエスの言葉がもし真正なイエスの発言ならば)イエスその人も、マタイ福 音書を記述した者も、それを読み聞かされた人々も、この極端な対照を意識したに 違いない。

10) “ἄτοπον … καὶ ἐναντίον.” 『マタイによる福音書注解』の断片(Der Kommission für Spätantike Religionsgeschichte der Preussischen Akademie der Wissenschaf- ten (Hrg.) 1941, Origenes, Bd. XII, 161 [p. 80])。 Luz 1990, p. 25, n. 31. 小河 訳、707 頁、註 31(ただし、翻訳は佐々木による)。

11) “Amandus est generator, sed praeponendus est Creator.” Augustinus, Sermo︲

nes de Novo Testamento, 67 Sermo 100; 1; 2. Luz 1990, p. 25. 小河訳、43 頁

(ただし、翻訳は佐々木による)。

12) オリゲネス『マタイによる福音書注解』の断片(註 10 に同じ)。

13) Luz 1990, p. 25. 小河訳、44 頁。

14) “inter fideles et infideles, retrahitur germanitatis affectus.” Thomas Aquinas, Biblica. Super Evangelium Matthaei, Capitulus 8, Lectio 3. Luz 1990, pp. 25. 小 河訳、44 頁(ただし、翻訳は佐々木による)。

15) 注解書の著者ルツは、「アラム語研究の隠れ蓑を着」ている、と手厳しい。Luz 1990, p.25, n. 33. 小河訳、707–708 頁、註 33。さらに、Strack und Billerbeck 1982, p. 489 も参照。

16) Luz 1990, p. 27. 小河訳、46 頁。

17) 新約聖書における「喩え」研究にとどまらず、一般的な文学研究においても、ふ つう「喩え」と呼ばれるものの細かい分類がなされている。ごく単純な、たとえ ば、「人は羊である」といったようないわゆる「喩え」(英語:simile、ドイツ語:

Gleichnis;さらに細かくは、「直喩」、「隠喩」、「換喩」など)、「寓意」ないし「寓話」

(英語:allegory、ドイツ語:Allegorie, Fabel;この「寓話」・「寓意」については 本文を参照)、そして「喩え物語」(英語:palable、ドイツ語:Palabel)」などで ある。このうち「喩え物語」とは、ようするに長短はあれ、なんらかの仕方で「物 語(narrative)」の形式をとった「喩え話」のことである。Harnisch 1985、特に、

「第2章 様式の類型化について」の「4 譬物語の構造的指標」(Harnisch 1985, pp. 71–84. 廣石訳、90–106 頁 ) を参照。そこでハルニッシュは、「譬物語」は「特 に複雑な構造を備えている」(Harnisch 1985 p. 83. 廣石訳 105 頁)と書いている。

しかし、本稿では、「喩え物語」とは、登場人物があり、一定の筋のある「喩え話」

といったほどの捉え方である。

18) マタイとルカの喩え話を、それぞれ別の時に語られた別の話だ、といった捉え方 も、昔からなされてきたが(Luz 1997, pp. 232–233. 小河訳、281 頁)、本稿では そのような立場はとらない。

19) この「喩え物語」に関する、神学的な「終末論的」解釈(Harnisch 1985, p. 252.

(19)

廣石訳、305 頁;Luz 1997, p. 247. 小河訳、296–297 頁)、あるいは「ユダヤ人 伝道」と「異邦人伝道」の葛藤(Harnisch 1985, p. 234. 廣石訳、281 頁)とい うような初期キリスト教の歴史に結びつけた解釈などについては、本稿の主題とさ しあたり関わらないので、詳細な議論は留保する。

20) たとえば、Beasley et al. 1991, pp. 376–377 などを参照。

21) Beasley et al. 1991, pp. 369–370 などを参照。

22) たとえば、Harnisch 1985, pp. 240–243. 廣石訳 289–295 頁。

23) 荒井他訳 1998、11–51 頁(本文)、313–327 頁(解説)。

24) 荒井他訳 1998、38 頁。翻訳の細部に疑問がないわけではないが、本稿の論旨に は関連せず、細かすぎる話なので、ここでは論じない。ただし、荒井訳は必要以上 にたどたどしいかもしれない。それによって、このトマス版の「原初性」ないし

「非正典性」などが図らずもきわだたせられていないであろうか。なお、コプト語 原文は、以下を参照した。Guillaumont et al. 1959, pp. 34–37. さらに、Layton 1987, pp. 391–392 の英訳も参照した。

25) Funk et al. 1997, pp. 509–510. Ménard 1975, pp. 164–166 も同様の判断であ る。

26) Funk et al. 1997, pp. 352 and 509–510. 荒井献は、「トマス本文に最も近い」、

つまりイエスその人の発言に近いと考えているようである(荒井 1994、221 頁)。

「Q」とは、「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」が依拠していると想定 され、またイエスの語録集だったととも想定されている仮説上の文書資料のことで ある。ドイツ語の Quelle(「源泉」、「資料」といった意味)の頭文字をとって「Q 資料」などとも呼ばれる。

27) 荒井 1998、321 頁(解説)。

28) 長窪 2012、612 頁。

29) 興味ふかいことに、「マタイによる福音書」について、合計 2000 頁以上ある微に 入り細を穿った注解書を書いたルツは、もちろんこの『タルムード』の話を知って いるが(Luz 1997, p. 241, n. 53; p. 245, n. 74. 小河訳、812 頁、註 53、815 頁、

註 74)、これと福音書のイエスの「喩え物語」を直接比較検討することはしない。

30) 口頭伝承の文化では、「オリジナルなどない」とも言われる。いわば、大筋が決まっ ているが、その場のアドリブで話をふくらませて騙る漫才のようなものとも言えよ う。ハルニッシュは、(口頭伝承としての性格を強調しているわけではないが)イ エスの「喩え物語」は「語り手が聞き手に語って聞かせる一つの洒落話〔Witz〕」

であると言う(Harnisch 1985, p. 248. 廣石訳、300 頁)。また、このような口頭 伝承の特性については、Kelber 1983 などを参照。ケルバーは、記述された文書 ではなく、口頭伝承的な環境で活動したイエスについて、「イエスの言葉は、人々 や彼らの生活と双方向的に働きかけあって、聴衆たちのただ中で生じた」(Kelber

(20)

1983, p.19)のだと書いている。

31) そういった、福音書とタルムードの記述などを比較検討するさいの細かな問題点に ついては、Chilton et al. 2002 特に、Neusner 2002 を参照。

32) Neusner 2002, p. 66.

33) Neusner 2002, p. 66.

34) 荒井 1994、222 頁。このようなトマスによる福音書版に見られる排他性について は、いわゆるグノーシス(主義)との関連も予測されるであろう。両者の関連につ いては、同書「Ⅲ トマス福音書のイエス」289–326 頁などを参照。

35) Harnisch 1985, p. 251. 廣石訳、303 頁。

36) Harnisch 1985, p. 251. 廣石訳、303 頁。ハルニッシュによるハイデガーの引用 箇所は、次のとおりである。「さしあたりたいていは、配慮的に気づかう世界内存 在は、じぶんが配慮的に気づかうそのものからみずからを理解する。非本来的な 理解は、日常的に従事しているさまざまな仕事にあって配慮的に気づかいうるも の、実行しうるもの、差しせまっていること、不可避なことがらに向かってじぶん を投企する」(Heidegger 1993, p. 337. 熊野訳、70 頁)。「配慮的に気づかわれた ものにひどく気忙しくみずからを喪いながら、決意しない者はその配慮的に気づか われたもので自分の時間を失っている。その結果、そうした者に特徴的な語りかた は『私には時間がなくて』というものとなる」(Heidegger 1993, p. 410. 熊野訳、

357–358 頁)。ただし、ルツは、このようにハイデガーを援用するハルニッシュの 解釈に対しては、それは「イエスのそれ〔パースペクティヴ〕において解釈しては いない」(Luz 1997, p. 239, n. 43. 小河訳、810–811 頁、註 43)と素っ気ない。

37) Harnisch 1985, p. 251. 廣石訳、303 頁。

38) Harnisch 1985, p. 247. 廣石訳、298 頁。

39) ハルニッシュに先立って、福音書の「喩え物語」について、「突飛さ(extrava- gance)」という語を用いて特徴づけていたのは、フランスの哲学者ポール・リクー ル(Paul Ricœur, 生没 1913–2005)である。Ricœur 1975, pp. 27–148. 久米/

佐々木訳、1995、221–362 頁。

40) Beasley et al. 1991, p. 337.

41) 実は、この「喩え物語」によく似た喩え話もタルムード(「モエードの巻 ロシュ・

ハ・ シ ャ ナ ー 篇 」17b) に 存 在 し て い る( 山 田 訳 1997、54 頁 )。Strack und Billerbeck 1982, pp. 425–426.

42) たとえば、Funk et al. 1997, pp. 217–219. Luz 1997, pp. 66–68. 小河訳、90–92 頁。

43) この最後の一文については、福音書の記述者(マタイ?)が、いわばまとめの一節 として付け加えたと考えるのが、常道である。Luz 1997, pp. 74–75. 小河訳、98 頁。Funk et al. 1997, pp. 218–219.

(21)

44) Luz 1997, p. 69. 小河訳、98 頁(ただし、翻訳は佐々木による)。

45) Harnisch 1985, p. 38, n. 66. 廣石訳、47、390 頁、注 66。現代の円に換算する なら、6千億円から1兆円といったところであろうか。

46) 王の家来が赦さなかったのは、自分が負っていた借金1万タラントンの 600,000

〜 1,000,000 分の1(!)の 100 デナリオンである。

47) Luz 1997, p. 72. 小河訳、95 頁。

48) 本稿で多少立ち入って論じたのはイエスの「喩え物語」と分類されるものだけであ るが、例えば、福音書に記されたイエスの「活動」や「行動」についても、同様の 分析ができるであろう。端的に言って、「復活」や「昇天」はいうまでもなく、福 音書にあふれているイエスの「奇跡」的行為の数々も、まさしく「突飛」であるこ とに違いはない。

49) 自然科学的な認知科学(cognitive science)、とりわけ最近の実験心理学や行動科 学といった学問を意識して、あえてこの語を用いた。

50) 科学哲学者のジョルジュ・カンギレム(Georges Canguilheme, 生没 1904–1995)

は、「科学的知の対象〔客体〕がその対象の本性をめざす科学的知の構成に再 帰 的 に 関 係 す る(réccurence)〔 つ ま り、 自 己 言 及 的 = self-referential で あ る〕ことを生物学が示している」(〔 〕内は、佐々木による補い)と書いている

(Canguilheme 1980, p. 48. 杉山訳 2002、39 頁; ただし、〔 〕内は佐々木によ る補い)。これは言い換えれば、生物学を営む人間は、生物が生物自体について 語っている、ということである。あるいは、生物たる人間は、実は、自分で自分を 規定している、ということである。さらに言えば、そういった規定すら正しいのか と問うことができるのが人間(の「超越の倫理」)である、と私は言いたいのであ る。

51) 前注 50 のように、結局、生物として、自己が自己を規定している人間は、その自 己による規定すら乗り越えて行けるのではないか、というのが、私の言う「超越の 倫理」である。

52) ここでもまた、「再帰的」という問題が生じていることに注意したい。注 50 も参照。

53) 人間が「二重分節言語」を有することによって生じる「メッセージ」と「メタメッ セージ」をめぐる複雑な諸問題について、私は基本的に、グレゴリー・ベイトソン

(Gregory Bateson, 生没 1904–1980)に教えられた。Bateson 2013.

(22)

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(24)

What the Bible Says about End-of-Life Care

by Kei SASAKI

The topic of this volume of the annual “Views of Life and Death and End-of-Life Care”, reminds me of the words of Jesus of Nazareth: “Follow me; and let the dead bury their dead” (Matthew 8: 22). These are drastic, or

“extravagant” words even for the biblical world itself. However, according to Paul Ricœur (1975), if one minutely analyzes Jesus’ parables in the synoptic gospels, for example, that of “The Parable of the Great Banquet” (Matthew 22: 1-14, Luke 14: 15-24), and compares them to different versions of the same parable in the non-canonical Gospel of Thomas and in the Jewish Tal- mud, one can find that such “extravagance” is the most prominent feature of the canonical Gospels. And this “extravagance”, not only of Jesus’ parables, but also of his other sayings and deeds, which are described in the New Tes- tament, might create and reinforce particular cognitive, albeit unconscious, ways of thinking about many problems of life that are inherent in the Chris- tian mind both ancient and modern. Not only Christians but others as well can be disciplined in these ways in order to go beyond the narrow contexts of their established systems of thought. In turn, this may affect how they deal with life-and-death situations.

Views of life and death, and opinions about end-of-life care vary tremen- dously according to the context: (eg. biological, medical, legal etc.). Some discussions of these views and opinions that go beyond the narrowness of current thought is necessary in order to develop new approaches to these complex problems. Thus, these cognitive methods in which people can be disciplined by such an “extravagant” feature of Jesus’ parables (and the Bible itself) can be helpful in discussions of end-of-life care in many difficult prac- tical situations.

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2-2 再エネ電力割合の高い電力供給事業者の拡大の誘導 2-3 多様な再エネ電力メニューから選択できる環境の整備

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品

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