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労働刑法序説

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労働刑法序説

著者 足立 昌勝

雑誌名 法經論集

30

ページ 49‑81

発行年 1972‑12‑29

出版者 静岡大学法経短期大学部

URL http://doi.org/10.14945/00008931

(2)

一・

S9−.

労 働 刑 法 序 説

  ●−o騨亀側鵜榊β

五四

  禰隔用勲   一■一   一騨営■醐楡

は し が き

近代市民社会

近代市民法の論理

労働刑法の基点

む  す  び

淵 は

墜夕偉菱げ}r蝦5襲}讐箏説

 市民革命を媒介として︑ ﹁無﹂であった第三階級が︑支配階級として︑資本制商品生産社会の前面に登場してきた︒彼

らは︑﹁あたらしい階級を︑圧制のあたらしい条件を・闘争のあたらしい形態を・旧いものにおぎかえ編﹂のである・か

くして︑社会全体は︑敵対する二大階級1ータルジョア階級とプロレタリア階級にわかれていった︒また︑社会は︑ ﹁見

・兄ざる手﹂による予定調和の幻想がまだ生ぎている間は︑資本制商品生産社会のもつ諸矛盾が顕在してこなかった︒それ

であるがゆ︑兄に︑抽象的人格を法主体とする伝統的な近代市民法の論理が貫徹しえたのである︒

 しかし︑二〇世紀における近代労働法の出現と労働条項の世界的規模での憲法規範への定着は︑現代資本制商品生産祉

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会のもつ諸矛盾を︑如実に︑いいあらわしているかのようである︒また︑このことは︑伝統的な近代市民法論理が貫徹し

えなくなり︑修正をよぎなくされる過程であるが︑残念ながら︑まだ︑市民刑法に対立する﹁労働刑法﹂概念が︑充分に       は︑明確化されていないようである︒

 近代市民法は︑法主体を抽象的人格とすることにより︑客観的には︑階級支配としての機能を果してぎたが︑資本制商

品生産社会の諸矛盾が顕在化してくると︑法主体は︑集団人︵H︵O一一Φ閃け一くdりO﹈Pω◎び︶へと移らざるを︑κず︑さらに︑現実的

・具体的な人間労働者をも法主体として認めるという︑一八〇度の転換をよぎなく惑れた︒そのことは︑まさに︑労働

法とりわけ労働刑法の出現を意味している︒

 以下︑本稿では︑近代市民社会を分析することにより︑近代市民法の法主体を明らかにし︑かつ︑近代市民法は︑労働

者の現実の状態を何ら改善するものではなく︑かえって悲惨な状況へ追い込むものであることを明らかにし︑さらには︑

法主体の現実的・具体的な入間労働者への転換を直視することにより︑ ﹁労働刑法﹂概念を︑より明確なものにしたい

と思うQ o囚願二属β・舞麟牢一巴ユ9国昌ウ自゜岡ω噂鼠9︒駄団$魯伽霞凶o導§彗一段ω魯象℃幾富㌍閃g冨旨ω¢巳毒︒︒螢γ聾ぴ嵩o鋳鋳切挿︑纂山αレω・

  諺漏h劉μO①9ω恥曾邦訳﹁共産党宣書﹂大内︒向坂訳︑岩波文庫︑昭和三七年︑四〇頁︒

 勧 どちらかというと︑従来の論述は︑蛍働争議行為に関するものが多い︵薪しいところで︑主なものとしては︑荘子邦雄﹁労働刑法﹂

  法律学全集第四二巻︑昭和四二年︑および藤木英雄﹁覚働刑法における違法性の概念﹂︑ ﹁﹃社会的相当行為﹄理論の労働刑法への

  適用について﹂︑﹁判例における刑事免責の論理﹂︑﹁労働争議における暴力と威力﹂︑﹁ピケットと威力業務妨害罪﹂いずれも

  ﹁可罰的違法性の理論﹂昭和四二年所収︶◎

_50一

二近代市民社会

くトーマス・ペインは︑当晴の︵一八世紀の︶多くの人々の共通の信念を︑次のように述べている︒﹁ある著者は︑

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多}3i動ノ朗濱蜜1茅裁註 一51一

社会と政府とを混同して︑両者の間に︑ほとんど︑あるいは︑まったく区別をつけていない︒ところが︑このごつのもの

は︑単にちがっているだけでなく︑その起源からしても︑ちがっているのだ︒社会は︑われわれの必要から生まれ︑政府       ヘ  ヘ       ヘ  へは︑われわれの悪徳から生まれている︒前者は︑われわれの愛情を結び合わせることによって積極的に幸福を増進させ︑

      ヘ  へ   後者は︑われわれの悪い行為をおさえることによって︑消極的に幸福を増進させる︒一方は︑交際をすすめ︑他方は︑差       ㈲別をつける︒社会は︑保護者であり︑政府は︑処罰者である︒﹂と︒

 ここでいわれる社会は︑経済社会であり︑そこでは古典的自由主義が支配的であるので︑国家による統制や干渉は無用

のものである︒社会の要素は諸個人であり︑しかもこの個人は︑自己の利益と幸福とを追求するという自然の傾向で貫か

れる存在である︒      ㈲ 市民社会︵暮お霞ぽ90⑦ω①蕾o冨隔け︶とは︑本来﹁欲求の体系﹂であり︑ ﹁生産諸力の一定の発展段階の内部での諸       ロ個人の物質的交通の全体﹂を指し︑それはまた︑ ﹁ある段階の商業と工業の生活全体を包括してい奄﹂

市民社会の最も決定的な成立根饗︑文化でもなく︑思想でもなく・響的構造であ軸がゆえに・市民社会は資本制商

品生産社会にほかならない︒この市艮社会は︑ブルジョア社会として︑ ﹁ブルジョアジーとともにだげ発展する﹂のであ       のるが︑歴史上においては︑﹁生産と交通から直接に展開される社会的組織体﹂をも︑市民社会と呼ばれたのであ奄しか

し︑市民社会が︑政治的国家︵創ΦH ︒℃O一一け一の◎げΦ ωけ黛ρ鋤け︶から完全に分離した自己完結的なものとして成立するのは︑資本

制商品生産社会においてである︒それゆえに︑これを特に他の市民社会と区別して﹁近代市民社会﹂と呼ぶことができる︒

 資本の原始的蓄積段階を経過して︑生産過程において︑労働力と生産手段との分離を内包しながら発展する︑資本制商       ヘ  ヘ  ヘ  へ   品生産祉会においては︑ ︵労働力以外に︑何も売るものを持たない労働者は︑労働力商品の所有者であるということを媒

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ介にして︶すべての人は︑自由な商品所有者としてあらわれ︑﹁諸人格は︑ここでは︑ただ︑商晶の代表者︵ノNO村紡触の挫Φ疑︶       ㈹として⁝⁝相互的にのみ実存する︒﹂

(5)

 商品は︑ ﹁つねに︑抽象的︒人間的労働の体化として意義をもち︑しかも︑つねに︑ある一定め有用的・具体的労働の     ㈲      ︑︑生産物である︒﹂つまり︑商品は具体的労働の生産物でありながら︑交換の場においては︑抽象的労働の生産物と七ての      意味しかもたないのである︒かくして︑具体的労働の生産物は︑抽象化されて︑商贔という形態をとるや否や︑ ﹁感性的      鋤で超感性的な物︵ω貯注9暮巽゜・榊呂巖魯霧Uぎ轡q︶に転化する﹂という神秘性を有するようになる︒その神秘性は︑商品

の使用価値から生ずるものでもなく︑価値規定の内容から生ずるものでもない︒すなわち︑すべての︑異質の私的な具体

的労働を︑抽象的な人間的労働とみなして︑等価性をもたせるところにある︒かくして︑生産者の私的な具体的勢働の社

会的連関は︑ ﹁彼らの諸労働における人と人との直接的に祉会的な関係としてではなく︑むしろ︑人と人との物象的関係      ⑳および物象と物象との社会的関係として︑現象する︒﹂このようにしてできあがった商品形態こそが︑ ﹁まさに︑私的諸

労働の社会的性格を︑したがってまた私的労働者たちの社会的諸関係を︑明示するかわりに︑物象的におおいかくすもの  ⑫である人格の物化︵筆者︶︒﹂

       ヘ  ヘ       ヘ  へ この市民社会が︑商品交換社会であるためには︑商品が交換されねばならない︒ところが︑ ﹁諸商品は霞身で市場に出

かけることがでぎず︑また自身で自分たちを交換することができない︒だからわれわれは︑その保護者達︑すなわち商品      ㈱所有者たちをさがし求めねばならない︒﹂すなわち交換においては︑商品はさらに商品所有者の手をかりねばならない︒

それゆ︑見に︑この商晶の自己運動としての交換は︑人と人との関係において︑すなわち人間の意思行為を媒介として︑は

じめて実現されるのである︒       ㈱ かかる商晶の交換過程は︑貨幣を媒介として行なわれる︵W−G販売︑GlW1ー購買︶のであるが︑それは︑同時に︑      ㈱背後に︑つねに価値増殖過程︵GIWIG︶を予想している︒この価値増殖過程においては︑商品は単なる労働生産物に

      ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ      ハ

とどまらず︑それは︑生産の要素である労働力の商品化の過程を内在せしめてい奄労働力の商贔化およびそれに基づく

剰余価値形成︵搾取︶の過程は︑覚働力という商品を有する人格︵労働者︶と資本を有する人格︵資本家︶とが︑平等か

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一一.一一 T3_

働刑法序説

つ対楚接する過程︑すなわちWiGIWたる交慧響契約関係においてのみ罷なのであ軸・だが独立した入格の闇

でかわされた契約を媒介として︑資本家に購買された労働力は︑生産過程において︑生産的に消費されるが︑この生産過

程における労働者と資本家との関係は︑もはや平等な人格の間の法的関係ではなく︑資本家の指揮命令に労働者が服従す

るという支配i従属関係であり︵労働の従属性とこの生産の場における階級支配こそが・全社会的規模での階級支配の

細胞である︒       の かくして︑ブルジョアジーは︑﹁国民的規模で自己を組織﹂し︑白分たちの﹁平均的利害にひとつの普遍的形きをあ      ゆた︑兄︑階級として形成された︒彼らの有する資本は︑ ﹁私有の発展への国家のどのような干渉もすべて排除した頃のであ

る︒かくして︑﹁国家は︑市民社会のぞとに︑市艮社会とならんで立つ独白な存在となった︒しかしながら︑国家とは・

プルジ藁アが︑そとへむかっにても︑うちへむかっても︑かれらの所有とかれらの利害とを相互に保証しあうために必要と      した組織形態にほかならない︒﹂また︑ ﹁国家は︑支配階級に属する諸個入が︑かれらの共通の利害を実現し︑その時代

の露社会の全体が総括される形趨あるから︑そ.︑からいっさいの共通の制度は︑国家繰介されて︑ひとつの政治的       な形態をとるということがでてくる︒﹂

階級支配の機構である︒しかし︑社会の階級性を陰蔽するために︑すべての制度は︑国家を媒介として生まれてくるとい 、り潤A国家は︑商.開の有する社会関係から生まれるものではなくて︑資本主義的な階級矛盾の産物であり︑すぐれて

う外響隣手る︒㎡の.﹂とにより︑﹁葎は意醒しかもその現実の去・からひぎはなされた簿憲思にもとつくかの

ような幻想が生じる︒﹂

 市昆社会で認められている人権も︑この幻想の一つである︒人権の一部は︑政治的権利としての公民権︵紆o搾の曾

︒搾o︽¢欝︶であり︑人権のその他の部分︑すなわち﹁母o津ω曾疑ぴo導導oつまり人権は︑そのものとして費魚冨曾      シきワイアン       オ  ム︒騨︒嘱¢捧つまり公民権と区別される︒公民と区別される人間とはだれか︒市民社会の成員にほかならない・なぜ市民社会

(7)

の成員は﹃人間﹄︑ただの人間とよばれるのか︒なぜその権利は人権とよばれるのか︒この事実はどこから説明されるか︒

政治的屡の蔑社会麩いする関係から︑政治的解放の本質から・であ舶・Lこの公民蒙ら区別された入楚含まれ

るものは︑畠︑平等︑安全および財産であ㌦言男入権の実墜の譜は・私有財産の人権であ舳・﹂Zフンス人

権寡.笛条によれば︑﹁畠とは︑他人を害しないすべてを芒得ることに奪る漕したがって・﹁私有財産の入権

は︑勝手勉︵ノ       麟のO鵠ゆq機¢︶︑他人にかまわず︑社会から独立に︑その財産を楽しんだり処分したりできる権利︑利己の権    ゑ利である︒﹂

 すでに明らかになったように︑市民社会で保護されるものは︑私有財産権であり︑生産手段の私有制度である︒すなわ

ち︑生産手段の所有者資本家による直接的生産者1ー労働者の剰余勢働の搾取の関係であり︑価値増殖の制度そのもので

ある︒㈲︸ーマス・ペイン﹁コ壬ン︒センス﹂小松春雄訳︑岩波文庫︑昭和三七年︑一五頁︒

㈲08婦鋤︑ヨ箭︒ぎ周桟一︒鎚婦一︒鋼踏紹⑦㌍曾§象巳象鳥建響隷︒ω8ぼ︒儀総留g畠二錯≦①爵︒営N壽§薦雲銭曾順望鑑8

 ︵図⑦α鋤甕︒離国く◎言︒捻⑦昌−︒∬¢同償監国巴憂ざω屋︒箆︶噂同舞費・⁝験鴇ω゜ω§喩マルクスは︑市昆社会の本質を物質的゜利己的生活簑めて︑﹁.3した利己的生活のぎいの前提は︑国家の簸外の市民社会のなかに︑ただし市民社会の特質として・存

 続している﹂ ︵q◎.ω総︶といい︑また︑ ﹁地上の生活とは市畏社会での生活であり︑そのなかで人間は自己本位に活動し︑他人を手段とかんが衆自分自身をも手段にまで堕落させて︑ほかの勢力の玩弄物となる﹂︵ψ゜・琶という︒毒§蓼N霞蓋゜鼻勲鱒¢

二昌竃侮N客国昌ぴ︑の困m≦の民搾︒︒しご鋤口黛b壽§︒・︒自・ω課・邦訳﹁ユダヤ人問題によせて﹂中野正訳︑マルクス三ンゲルス選藥第

 一巻︵新潮社︶五九頁︒

⑤竃鋤塊諸二鶏m⑦一ω・望①αΦ毒ぽ冨︒愚⑦二め§同島釜ω≦爵︒じσ碧爵gΦ貫μ婁ω貧ωρ邦訳﹁ドイツ砂イデオ︒

 ギー﹂花崎劇麻平訳︵合同出版︶ 一六三買Q

⑥ 加古祐二郎﹁近代法体系の多元的溝造に就て﹂ ︵﹁近代法の基礎構造﹂所収︶昭和竃九年︑二二九頁参照◎

㈹ 注⑤参照︒

⑧窯ρ村〆σ燭・︐国畳紳拶ヨ畦・・けΦ同ζ︒拶銭・u冨脅鉱︒鋳︒ゆ・鐸邦訳蚕本論三長谷部文雄訳︑河馨房・覇三九年・七六買・

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一一 T5一 働刑法序説

㈲ O亀器誉o櫛゜鋤疇Oこψ認魅邦訳五四頁 ◎

㈲ O臼φo浮⑦℃斜欝Oご◎蔭︒◎︒伊 邦訳六五頁︒

ω ∪霞ω無9繍斜欝Oこ◎◎讐c︒メ 邦訳六七頁︒このことは︑資本制商晶生産社会に特有なことである︒中世においては︑ ﹁人格的依存が︑

 物質的生産の社会的関係を︑そのうえに築かれた生活領域とまったく同じように性格づけている︒だがまさに︑人格的依存関係が与え

 られた社会的基礎をなすゆえにこそ︑労働および生産物は︑それらの現実性と異なる幻想的姿態をとる必要がない︒﹂ したがって︑

 ﹁彼らの労働における人格と人格との社会的関係は︑つねに彼らじしんの人格的関係として現象するのであって︑物象と物象との︑労

 働生産物と勢働生産物との︑社会的関係に変装されてはいない︒﹂く轡q﹃U興゜99びρ9自゜費04ψ潔炉 邦訳七〇︑七一頁︒

㈱ U①桟器一び①・p︒・9︒・O・噂ω・O◎邦訳六九頁︒

⑬ U興ω鉱び①℃99︒欝○ごω゜㊤⑩矯邦訳七六頁︒

任の@このことを︑マルクスは︑ ﹁これらの物を商品として相互に連関させるためには︑商品保護者たちは︑自分の意思をこれらの物にや

 どす人格として︑相互にふるまわねばならない︒かくして︑一方の人格は他方の人格の同意をもってのみ︑つまりいずれも︑両者に共

 通な意思行為に媒介されてのみ︑自分の商品を譲渡することによって他人の商晶をわがものとする﹂と述べている︒<窃晦圃゜U⑦器鉱σの鴇

 鋤︒9ρ゜ρ鳩ω゜¢箇 邦訳七六頁︒

⑮ 貨幣は﹁諸商晶の内在的な価値尺度たる労働時間の必然的な現象形態﹂であって︑諸商品を較量するものではない︒<ぴ駿轡Uo屋巴げo矯

 矯ゆ゜鉾○ごω゜H◎⑩噂邦訳八三︑八四頁︒

⑯ パシュカーニスは︑その著﹁法の︸般理論とマルクス主義︾犀αqo白のぎ¢泌8葺゜陰一魯器環潟鳳寓碧恩゜・日蕊﹂において︑このことを看

 過し︑法的関係の基底を︑WlGlWの過程に求めた︒このことを︑加古教授は︑詳細に批判されている︒5加古︑前掲書一三七頁以下︑

 特に一四六頁以下参照◎

鋤  ﹁労働力の消費過程は︑同時に︑商品の︒および剰余価値の︒生産過程である︒﹂ ︵竃9︒騰鉾勲勲Oこω゜同◎︒⑩矯邦訳一四九頁︶

㈱ マルクスは︑このことをわかりやすく説明している︒ ﹁労働力の所有者がそれを商品として売るためには︑彼は︑それを自由 に処分

 することができなければならない︒つまり︑じぶんの労働能力・じぶんの人格・の自由な所有者でなければならない︒彼と貨幣所有者

 とは︑市場で出あい︑同じ身分の商品所有者として相互に関係を結ぶのであって︑彼らの異なるところは︑一方は購買者であり︑他方

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ は販売者だという点だけであり︑かくして両者は法律上平等な人格である︵傍点は筆者︶︒﹂ ︵U興の巴げρ騨鉾O毒ω゜μ◎︒トひ矯邦訳一四

 二︑ 一四三買︶

(9)

⑬ 駕霞図償゜団瓢穿q鉱qゆ℃∪凶oユΦ藏鍍oけの回似090α自一①ω禰O心o嚇邦訳一六五頁︒

 ⑳ U一窃o旨2鳩笹竃゜

㈱ U画霧o寄①㌍一窪騨 国家と市罠社会との分離・対立については︑マルクスが﹁ユダヤ人問題によせて﹂で詳細に論じている︒それに

 よれば︑ ﹁国家とは人間と入間の自由とのあいだの媒介者︵寓凶菖桝碧︶である︒﹂ ︵窯鴛きN霞冒血o⇒博鋤ぴqρρωα伊邦訳五八頁︶

 そして︑国家と市民社会とを峻別して︑ ﹁完成した政治的国家は︑その本質からすれば︑人間の物質的生活に対立する人間の類的生活

 ︵︵甲帥ぴ鈴¢口窃自爵ゆ一色りOb﹇︶である︒こうした利己的な生活の一さいの前提は︑国家の領域外の市民社会のなかに︑ただし市民社会の特質とし

 て︑存続している︒⁝⁝政治的国家は︑ちょうど宗教が俗世間の偏狭に対立するのと同じように市民社会に対立し︑俗徴間の偏狭を克

 服するのと同じようなやり方で市民社会を克服する︒⁝⁝人聞は︑その颪接の現実のなか︑市民社会のなかでは︑徴俗的な存在である︒      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ ⁝⁝これに反して︑人間が類的存在として通用する国家のなかでは︑かれは一つの仮想的な主権の想像上の成員であり︑その現実の個

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 人的生活をうばわれて︑非現実的な一般性でみたされているのである︵傍点は筆者︶︒﹂ ︵U霞のo旨ρ勲鉾O;ψ◎︒綬栖ゆ邦訳五九頁︶

㈱ 竃9蒔聴擁環︒局羅鋤喚免ρd一¢αω麟酔ω◎冨冠oo一〇騨a一ρω゜㊦ド邦訳一一六六頁◎

㈱ U凶窃o皆③詳箭一山゜

㈱ 録鋤村鉾N鑑﹃嗣¢儀①め律ゆ趣qρω゜ω①㌶邦訳六八頁︒

㈲ フランスでは︑一七八九年人権宣言第ご条︑一七九三年憲法﹁人および公民の権利の宣奮﹂第二条︑一七九五年人および公民の権利

 義務の宣奮﹁権利﹂第一条においては︑文署は異なるが︑同じ内容のことがいわれている︒

㈱ さらに︑マルクスは︑﹁自由の人格は人間と人間との結合のうえにも之つくものではなく︑むしろ人間と人間との分離にもとつくも

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 のである︒それはこのように分離することの権利であり︑かたよった︑自分にかたよった個入の権利である︵傍点は筆者︶︒﹂と述べ

 ているQ<かq野寓母ぢ鉾費◎¢ψ窓♪邦⁝駅六九頁︒

㈱ 同様のことを︑フランスでは︑一七九三年憲法﹁人および公艮の権利の宣言﹂第六条︑一七九五年人および公民の権利義務の宣書

 ﹁権利﹂第二条は認めている︒

㈱ 

рn窃色σの℃鉾9︒°O叢ω゜◎︒①幽噛邦訳六九頁︒塾

 一一︑市民社会は︑資本制商品生産祉会において︑自己完結的なものとなり︑﹁国家およびその他の観念論的上部構造の

土台しとなるのであるが︑それとは逆に︑国家は具体的自由の現実態であり︑国家のうちにおいて︑市民社会の諸矛盾が

(10)

・− T7一 労働刑法序説

止揚せられるとするへーゲルの﹁市民社会﹂論は︑また一方で︑エンゲルスをして︑﹁ここでは形式は観念論的だが︑内

容は実在論的である︒ここには道徳のほかに・葎・経済政治の全領禦包括されてい訟といわしめた﹁法の哲学﹂

のなかで︑いかなる地位を占めているのであろうか︒

 へーゲルは︑青年時代︵十九歳のとき︶にフランス革命を体験し︑そこに︑新しい精神の動きを見い出した︒そこでは︑      へ   ヘ ヘ ヘ へ      ﹁権利の思想︑権利の概念が︑どっと一度に︑自己を主張した日のである︒そのフランス革命について︑へーゲルは︑

﹁太陽が蒼空に位し︑星辰がこれを巡って運行するかぎり︑人間が頭で︑すなわち思想で立ち︑思想にもとついて現実を

築き上げるのを︑誰も見た艶﹂とがなかった︒アナクサゴラスは︑昌o彦︵理性︶が世界を支配するということを︑最初に主

張した︒しかし今や︑人聞は︑思想が精神的現実を支配すべきであるということを認識する段階にまで達したのである︒

それゆ︑尺︑これは輝しい日の出であった︒すべての思惟している者は︑共に︑この新紀元︵晦℃ooげΦ︶を祝った︒崇高な

感激がその時代を支配し︑精神の熱狂は︑あたかも神的なものと世界との実際の宥和が今始めて成就されたかのように︑

世界を震撚させた︒﹂と述べている︒

 この宥和の限界について︑へーゲルは﹁法の哲学﹂において分析している︒それにょれば︑﹁この概念︵思惟された概

念11筆者︶を探し出すという点で︑ルソーには︑たんに形式上思想である原理︵たとえば社会衝動とか神的権威︶ではな

く︑形式上だけではなく内容上も思想であり︑しかも思惟そのものである原理︑すなわち意思を︑国家の原理として立て

たという功績がある︒﹂しかしながら︑ルソーは国家と社会との真の関係を誤認している︒ルソーの理解した普遍的意思

とは︑単に個々の市罠の︵個別的意思の︶共通のものであって︑真に一般的な意思ではなかったがゆえに︑ ﹁万人の意思

︵︿〇一〇嵩けゆ 血O けO¢の︶﹂と﹁普遍的意思︵喜憲窃q璽邑①︶﹂との矛盾を・実際に止揚することはできなかつ触・その結

果︑国家における個々人の合一は︑任意的同意を基礎とする︑たんなる社会契約となったのである︒かくして﹁即自かつ

対自的に存芒ている神的なもの︵国家11筆者︶とその絶対的蔑轟曲にとって破壊的なもろもろの帰結が生じた・

(11)

一58一 殊性と関連している︒したがってどの特殊的人格も︑他の特殊的入格によって︑そして同時に︑まったく普遍性という これのみによって支えられているものではない︒ ﹁特殊的人格︵びOω◎⇔αΦ同Φ﹈℃φHのO﹈P︶は︑本質的に他人のこのような特  しかし自己を目的として︑単に自己のために生きる具体的人格が︑市民社会の一つの原理であるとしても︑市民社会は の構成員としての人間は︑ ﹁おのれ自身の利益を目的とする私的人格︵℃ほく9φ葺Φ同ωo口2じである︒﹂        ㈱ り︑その他いっさいのものは︑彼にとって無である︒﹂そこでは︑経済的自由︵利己︶主義の原理が貫徹されており︑そ       ㈱ 階級観念としてのブルジョアではない︒したがってこのことから︑ ﹁市民社会においては︑各人が自分にとって目的であ 格は︑公民︵シトワイアン︶と対比した意味での私人としての市民︵ブルジョア︶であって︑プロレタリアと対比された しての具体的人格︵閃O︼P脚弩φ甘Φ℃O種の◎⇔︶である︒またこれは自然必然性と恣意の混合したものである︒だがこの具体的入        働 の市民社会の構成員である人格は︑抽象法におけるものとは異って︑欲求のかたまり︵O嚢︒醤霧くoφ切Φ低鍵瞥溢ωΦ麟︶と       働 ヘーゲルでは︑市民社会は人倫の一段階として︑家族と国家との中間にあり︑国家のうちに止揚せられるものである︒そ        鋤  かくして︑へーゲルの市民社会批判は︑国家を目的のための単なる手段と考える自由主義的な考え方を問題にしている︒ 個々人の利益が彼らの究極田的であり︑又国家の成員であることは随意なことであるということは許されない︒  ところで︑へーゲルにおいては︑﹁個々人の最高の義務は︑国家の成員であることである﹂がゆえに︑個々入としての        ︑︑︑︑︑      ㈱ よって︑今や完全に初めから︑思想から始めん﹂としたが︑なんら新しい共同体を組織しなかった︒       絢 すなわちフランス革命は︑ ﹁ある現実の偉大な国家の体制を︑すべての存在しているものや所与のものを転覆することに

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑       ︑ ︑ ︑ ︑ ︑       ㈹もう一方の原理によって媒介されたものとしてだけ︑おのれを貫徹し満足させるのである︒﹂すなわち市民社会において      ㈲は︑各人は自由であると同時に︑他のすべての人々に依存しているのである︒

 かくして市民社会は︑一方において特殊性の原理をもち︑他方において普遍性の原理を有している︒特殊性の原理は︑      ㈲﹁あらゆる方面に発展して︑思いのままに活動する権利﹂を有し︑普遍性の原理は︑﹁自己こそ特殊性の根拠であるとと

(12)

一一 T9一

労{動牙建法序書党

もに必然的形式であることを実証し︑なおまた特殊性とそれの究極目的とを支配する威力︵鑓鋤o鐸︶であることを実証す   ㈲る権利Lを有している︒市民社会においては︑これらごつの原理は︑ ﹁離れ離れになっていながら︑それでもなお両者は︑       ㈹相互に結びつけられ︑相互に制約しあっている︒﹂そして市民社会は︑この特殊性と普遍性との対立と纏れあいにおいて︑

﹁放将な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに︑このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示してい

る︒﹂      ・

 したがって︑奢修と貧困という︑両者ともに極端なものの中に迷い込んだ市民社会は︑自己矛盾を克服しつつ︑共同体

︵囚o愚o冨菖§︶を轡て・国家へと叢していくのでお伽﹁この馨な山孚楽と窮乏との紛糾状態は・この状態を制御      ㈹する国家によってはじめて調和に達することができる︒﹂この国家について︑ヘーゲルは︑ ﹁国家が存在するということ      ㈱が︑人間世界における神の歩みなのであり︑その根拠は自己を意思として現実化する理性のカである﹂といい︑ ﹁即自か

つ対自的な国家は︑道徳的全体であり︑自由の実現態である﹂という︒この国家は︑具体的自由の現実性であり︑そこに

おいて︑市民社会は止揚せられるのである︒

㈱ エンゲルス﹁フォイエルバッハ論﹂松村一人訳︑岩波文康︑昭和三九年︑五一頁︒このことは︑近代市艮社会の土台と︑それにもと

 つく上部構造とが︑ヘーゲルの﹁法の哲学﹂の中に含まれていることを示している︒

㈱ 隣①ぴqの鮮くoユ$偉昌9qo欝ま魯匙陣Φbぼ一〇8やぼo傷醇O①のoげoげ富写≦段開oぎN≦ρρ二臨ひq⇔ご似昌ユo炉bヴ簿昌儀睡トひ︵泌&倉︒搾臨o隣騎くゆ

 竃o蜀o漆げ飴鐸霞¢昌篇国鋤二︼≦契評湯寓一〇げ鉱︶噛おPω゜認⑩゜

㈱ O興器浮ρ圃び置゜

働 U巽器響ρ○冠二昌巳圃巴o昌αΦ﹃剛ず帥oωo娼慧①山窃閃8簿ω鴇㈱込⇒鵠矯GoおP

㈱詳細については︑<ひqピリ霞ω巳げρ国鋤塁獲oO似αδ血巽やげ崔霧8窪゜・oび①雛≦δ器霧oげ鉱$PぎO凄⇔鳥賊δ゜舜⑦H貯妻窪閑oぎN≦偶苧

 N凝匂d似巳①鈍しdき測︒︒︵閃①仙師犀骨一〇ρ切く印鎧O一αO口嫡麟ρO種信昌α国種一護9棟醤藁もα9一〇酎色︶鴇H零ρN島簿討建吻H$導ω゜ω雛津

㈱UΦ諺鮎びρΩ遷簿象算陣窪劇①畦℃露ざω8ぼoα$閃gげ寅㈱駅゜¢購ω゜きO°

㈲ UΦ虜ω8ρ藁置゜

(13)

一60一

鋤 Uの誘O皆ρ釦ゆ゜欝Oこ㈱卜Ω㎝◎◎矯ω゜ωOゆ

鋤 そのようなことは︑ ﹁国家が市民社会と取りちがえられ︑国家の使命が所有と人格的自由との安全と保護にあるときめられる﹂場合

 の結論である︒<αQドU段看・阻びρ費9δ・04@卜QαQ︒紬ω・紹㊤・

鋤 フィヒテは︑ ﹁学者の使命﹂において︑社会とは理性的存在者の相互関係であり︑合目的的相互性である︒ ﹁入間は社会のなかで生 きるように定められている︒かれは社会のなかで生きねばならない︒孤立して生ぎるならば︑自己矛盾をぎたす︒﹂といい︑さらに社

 会と国家との混同を警戒し︑ ﹁国家生活というものは︑ある非常な偉入がこれについて何といっているにしても︑人間の絶対的諸目的

 の一つではなく︑完全な社会建設のための一手段であり︑この手段はある条件のもとにおいてのみ実現される︒﹂といっている︒

 <撃ぢ冨暮O︒薮坤9毘︒げρ譲鼠轡qのくg奮琶αq自警g座ω⇔ご婁ぎ日琶α︒ユ$o鮎簿賊酔︒ご二旨毅導ヨ慈gΦ≦巽冨ρ

 切9︒揖辞μ︒︒&矯ψ゜︒◎や゜︒8矯邦訳﹁学者の使命﹂宮崎洋三訳︑岩波文庫︑昭和繍七年︑一一八︑三四頁︒

㈱ へーゲルにおいて︑人倫は道徳の自己実現である︒そのことを︑ ﹁法の哲学﹂で︑ ﹁善と主観的意思との具体的な同一性︑すなわち

 両者の真理が︑人倫である︒﹂ ︵鎖のか◎oど9︒°攣O二⑳慰ど◎◎°鱒G・O・︶ といい︑また﹁入倫とは︑生ぎている善としての自由の理念であ

 る︒﹂ ︵U霞ωo皆ρ勲拶φ○二費お矯ω゜b︒露゜︶といっている︒

㈹ ﹁抽象法﹂における入絡需興ωo鶏︶は︑抽象的入格性︵鉱∪ψ瞳叶鶉ρ犀辟ゆ 噂の吋もゆα麟一凶Oず閑①一於︶であって︑まだ欲望︑要求︑衝動︑好み等を

 含んでいない︒<鋤晦ドU賃ω⑦瀞ρ9︒°騨04㈱匂︒メQ◎︒り①・

㈱ ここにおいて︑具体的人格は︑自分の欲求だけを満足させようと努力する︒このことから︑へーゲルば︑市民社会の第一の契機を欲

 求の体系11経済社会に求める︒この経済社会では︑諸個人は主観的欲求として現象し︑彼は主観的特殊性を満足させるために︑これを

 追求する︒この場合︑経済法則としての悟性が作用し︑経済社会に宥和をもたらす︒また︑経済社会では︑具体的人格としての人間

  ︵鍵窪ωo冨鋤︶が問題になるが︑個人と個人との相互関係は︑互いに︑単なる商品所有者としての抽象的人格としてあらわれ︑交換関

 係においてのみ︑相互に関係するのである︒すなわち︑物の抽象化による入間関係の抽象化︒<笹゜⇔ω沸鉱びρ勲費○・鳩ゆド◎︒Φ゜おγ

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働 りΦ湯匹げρ麟゜錯O°鴇N器瓢窟蟄㈱同Q︒辞ω・ωω㊤・

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㈹ d段器旨⑦噂嚢︒°覇塗゜O二㈱μ◎︒か︾鴇ω゜⇔oωρ

狗 へーゲルによれば︑ ﹁利己的鷺的は︑おのれを実現するにあたって︑このように普遍性によって制約されているために︑全面的依存

(14)

一61−・

 性の体系を設立する︒⁝⁝この体系は︑さしあたり外的国家︑!強制国家および悟性国家とみなすことができる︒﹂

 ︵dΦ誘鮎びρ鉾勲Oこ㈱H◎︒◎︒鳩ω゜⇔◇き゜︶

㈹㈲ U¢携①ぎo矯騨騨○二㈱同◎◎︽ω゜逡O°

㈹ d輿器浮ρρ絹ゆ゜◎こN器瓢言Nβ吻HO︒倉ω澱o︒お捗 5

㈹U霞ωΦ害ρ斜勲○費︒︒鈎ω゜︒︒湊ド゜さらに︑へ1ゲルは︑﹁特殊性はそれだけでは︑放螺で限度のないものであり︑この塀放な享

 楽の諸形式そのものに限度がない︒トともいい︑﹁市艮社会は︑万人に対する万人の個人的利益の闘争場であるとともに︑この個人的

 利益が︑共同の特殊的な要件に対して衝突する場でもあり︑さらにこの二つがいっしょになって国家のいワそう高い見地と指令に対し

 て衝突する場でもある◎﹂という◎<魑゜U鍵ω①霧ρ鉛ゆ゜攣◎こN償のp審蟄⑳H︒︒伊ω゜鍵塾︒°ρ目鳥⑳楠︒︒Φ矯ω゜曲Q︒・

働 ヘーゲルは︑第二五六節で︑ ﹁共同体の目的は制限された有限なものであるから︑この目的はおのれの真理を︑即自かつ対霞的に普

 遍的な目的のうちに︑そしてこの目的の絶対的現実性のうちにもつ︒;福祉行政の外面的摺令においてみられる分離と︑その相対的

 同一性も︑その真理を右のもののうちにもつ︒だから市民社会という圏は国家に移る︒﹂e巽ω鉱びρ斜費○こ吻謡0°ω゜ωΦOという︒

⑳ U興ω㊤げρ9δ゜簿゜ρ鴇N離白︒ゆ訂N¢㈱同◎︒伊ω置ωお゜

働鯛 U窪ωo♂P鉾欝◎二N器9︒言籔賃㈱昏⇒㎝Q︒矯Q蔭幽8°

労β穆勇ヲ霞員法声事}霧色

 三︑市民社会は︑ヘーゲルでも︑またマルクスでも︑赤裸々な人聞の欲望を追求するところに誕生したのである︒がし

かし︑へーゲルは︑市民社会の諸矛贋の止揚を国家に求めたが︑マルクスはハ労働者階級の解放に求めた︒それは︑へー

ゲルとマルクスの方法論が正反対のものであることに起因する︒ ﹁へーゲルにとっては︑彼が理念という名称をつけて自

立的主体に転化さえした思考過程が︑その外的現象たるにすぎぬ現実的なものの創造者である︒私︵マルクス筆者︶に

あっては︑反対に︑観念的なものは︑人間の頭のなかで転変され翻訳されたものに外ならない︒⁝⁝弁証法がへーゲルの

手でこうむっている神秘化は︑彼が弁証法の一般的な運動諸形態を︑始めて包括的かつ意識的な仕方で叙述したというこ

とを︑けっして妨げない︒弁証法は︑彼にあっては逆立ちしている︒ひとは合理的核心を神秘的外被のうちに発見するた      働めに︑それ︵へーゲルの弁証法口筆者︶をひっくり返さなければならない︒﹂

(15)

 この理論的出発点は︑市民社会の分析の基礎となった︒したがって︑マルクスでは︑ ﹁法的諸関係および国家諸形態は︑

それ自身で理解されるものでもなければ︑またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく︑むしろ物質

的な諸関係︑その諸関係の総体をへーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって﹃ブルジ葺ア祉会﹄と

いう名のもとに総括しているが︑そういう諸関係にねざしている︑というレ﹂と︑しかもブルジョア社会の解剖は︑これを      経済学にもとめなければならないLことになる︒

㈱諸麟簑讐U器囚麟︒鴇冨一鳩響ωけ醜切9︒鼠︑︵審o宴δ暮N霞N器簡富昌諺臨圃§︒mo︶・6n・ミ・邦訳二〇頁︒

㈲ マルクス﹁経済学批判﹂武濁外訳︑岩波文庫︑昭和四一年︑ 一二︑一三頁︒

三近代市民法の論理

一62一法の主体は︑人間︵竃2誘&ではなく︑それを抽象化しだ人格分霞ω8︶であり︑いわゆる法律人︵酎︒誉o貯吋一ω︶で ている洗︑法上においては︑人間は︑無限の多様な個性を奪われた抽象的なものとしてのみ現われる︒すなわち近代市艮       しかし︑近代市民社会の法的反映である近代市民法においては︑生ぎた肉体的な人間11具体的︒現実的な人間を予想し する過程︵GlWIG11価値増殖過程︶を内包している︒したがってこの社会は︑すぐれて階級社会である︒ Wの過程は︑具体的・私的労働を抽象的・一般的蛍働とみなすことにより︑労働力が﹁可変資本﹂として剰余価値を形成 契約を通して行なわれる︵W−GIW︶・しかし︑商品交換は単なるW−G;W︵交換過程︶にとどまらない︒W−Gl である︶として現われる︒したがって︑資本制商贔生産社会における商晶交換は︑商臓㎎所有者相互の自由な意思の合致目       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ では︑すべての人間は︑自由な商品所有者︵自己の労働力以外に売るものを何ももたない労働者は︑労働力商品の所有者 始的蓄積の過程を媒介として︑生産過程における生産手段と労働力とを分離したところに発展した経済社会である︒ここ  一︑近代市民社会は︑資本制商品生産社会であり︑商品交換が全面的に展開される社会である︒それはまた︑資本の原

(16)

63

ウタ{動井縣去序言兇

あるo このことについて︑ラートプルフは︑問題なのは﹁現実的人間︵≦膣搾嵩OぴΦ触竃O⇔もoOず︶﹂ではなく︑﹁人間の映像︵α帥ω

観峯儀Φω鼠o湯oぴo路︶﹂であるという︒そして法が念頭におくのは︑この﹁入間の映像﹂であり︑また法が命令を向ける

のもこの﹁人間の映像﹂であるといい︑さらに︑﹁経験的・具体的な人間から鴬かれるものは︑法秩序ではなくて︑すべ      働ての法秩序の否定である︒﹂という︒そして彼が︑その価値高ぎ論文﹁個人主義的法から社会法へ﹂の中で述べているよ

うに︑﹁伝統的な個人主義的な法秩序は︑個性を衷失し︑孤立したものとして考えられた個人に向けられていた︒このよ

うな法秩序は︑たんなる樹のまえに森を見ようとせず︑たんなる個人のまえに彼らの社会的結合を見ようとはしなかっ

た︒憶﹂の見解のあらわれが︑入格︵℃震ω8︶という法概念であったLのであり︑この﹁人格﹂概念は︑持てる者と持た

ざる者︑あるいは弱い個々人︵周ぎNoぎ飛ωo麟︶とマンモスのように強大な団体人︵<緯ぴ鑓鵠富02ωo⇔︶という人間のすべ

ての差異を平均化するものであった︒

 ﹁法﹂の前提に︑このような﹁人格﹂概念をもちだしたのは︑ヘーゲルであった︒へーゲルは︑法の根拠を精神的なも

の︵鳥簿ω ︵甲O剛6ゆけ一〇qΦ︶に求め︑法の出発点を自由な意思に求めた︒したがって︑ ﹁自霞が法の実体と規定を形成し︑法の体

系は︑実現された自由の王国︵鳥£9ω男の凶Oげ伽φ乙摩くΦ戦≦剛擁評嵩OぴけΦ昌津O一げφ一け︶であり︑精神が自分自身から産出した︑第二       ㈹の自然︵Φぎ①嫡≦⑦評Φ環9︒窪同︶としての世界である︒﹂そして︑自由な意思の直接的・抽象的段階が抽象的な法の領域で

あり︑その抽象的な法の主体は人格︵℃霞ωo隣︶であ軸それゆ衆→ゲルの措芒た法の零は・﹁硲貧禦露・

へ   ヘ ヘ へ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ   ヘ ヘ ヘ へ       ハそして他の人々を人格として尊敬せよ﹂ということであ奪

 かくして︑近代市民社会においては︑人間は︑相互に抽象的人格として尊重しあい︑物︵商品︶の関係を媒介としての

み入間関係を結んでいるというのが︑支配的なかつ基礎的なあり方である︒とくに︑近代市民法は︑商品交換を媒介とし

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へて︑利益と支配とを享有している資本家階級が︑普遍者として現出することによって定立する規範であるがゆえに︑この

(17)

近代市民社会の原理を・讐忠実に反映するものである︒したが・て︑現実にある資本家階級による支配は︑近代市民法       ヘ  ヘ      へ  ち  ヘ  への背後にかくされ︑普遍性の原理により合理的に確保されるのである︒

㈹ マルクスは︑社会科学の出発点を︑生きた肉体的人間に求めている︒すなわち︑ ﹁われわれがそこから出発する諸前提は︑財曽馬畷

手あたり次第のものでもなければ︑教条でもない︒それは憲のなかでしか無視しえないような現実的諸前提である︒それは現実的諸彙であり・かかか律をか恕跡器歯馨露ー既成のものであれ︑かれら良身の行為によ・てうみだされたものであれl

 lである︒それゆえ︑これらの諸前提は純粋に経験的な方法で確認されうるものである︒あらゆる入間歴史の最初の前提は︑もちろ

ん憲か奮獣兜客在である︵傍点は筆者︶︒﹂︵簿契拝響㈹螢薯量酔ω︒冨冠毘︒・・一︒・器︒・邦訳二九︑三〇頁︶.あ ことについては︑川島武宜﹁近代社会と法﹂岩波書店︑昭和四二年︑ 一頁以下︑特に九頁以下が詳しく論じている︒

働壷゜霧薯響舞套ヒ①婦§§げ謬響算︸霧冨郎ω魯冒開①︒洋・ぎ・︒鵬①惹葺⑩く︒詳触譜①琶ぎ騰ω鋒N①警の円

 Q触獄濤鳥坤9ゆ9qO講ユOゆ図φ◎︾魯の矯翁ゴδ諦Φ︾¢雛二HΦ①鮒ω・O・

鯛 O葭器旨炉くo菖ぎ黛く置償巴幽ω諜ωo冨昌N藏露ωo臨鐵o類閃g窪ぎOω村竃①己︒げ一§蓼8馨・ω・も︒メ

㈲  <伊慶一璽︼︶巽白90一σρ一び一鐸㈹謬゜r︒§象巳窪貧℃議§豊︒翁沁婁墜㈱蒔讐ω蕊・ところで︑→ゲルは︑法について論じる場合︑﹁法という言

 葉でふつう解される市民法禽損︒加び鐘窃眺建嵩o冨閃8げOだけでなく︑道徳︑人倫および世界史のことをも意味している︒﹂ ︵O興゜印①ま¢鳩

 斜9ρ゜OこN鐸ω餌酔N凶熔 @ωω℃ω魯OO楠゜︶

㈱産B°匿茎9・塾ρ矯㈱゜・㎝噂幹鐸周知のように︑℃窪の9はラテン語の寅の9・Q︵.あ語は︑黍︑舞台で穫のつける  ﹁面﹂を意味している︶から派生したものである︒それは﹁哲学的にはとくに理性的で自由な存在としての人間︑王体を意味﹂しており︑

 それのもつ特性を︑とくに︑入格性◎刃⑦誘o︐⇒雛o犀騨o搾︶という︵﹁哲学・事典﹂平凡社版︑昭和四六年︑七三三頁︑ =一七六頁参照︶︒

 へーゲルの場合・人格性に含まれていることは︑ ﹁ひ分巻︵O一霧Q﹃︶としての私は︑完全にあらゆる面から︵内面的な悠意︑衝動およ

び欲蓬おいても︑また直接的・外面的箸からしても︶凝議沈︑︑有渥︑︑詠壌った︽誕灘な︑雰への関係であるとい うこと︑そして︑その有限性において︑自分をそのように︑無限なもの︑普遍的なものおよび自由なもののとして知るということ﹂で

 あるo<αQジO韓の①ヨρ笹嵐・

㈱ ご0喉ω0戸ぴρ欝鶉ゆ゜○°噂㈱ω⑦噂qβ・ψ釧・

(18)

一65tS

労{動珊法1事議a

 二︑前述したように︑資本制商品生産社会において︑人間と人間との祉会関係は︑商晶交換過程を媒介として︑市場に

あらわれる単なる商品所有者相互の関係である︒その社会の内部には︑ブルジョアジーとプロレタリアートという対抗す

る二大階級集田が含まれており︑したがってその社会は階級社会としてあらわれる︒

そのような集制商品謹社会の構造を・沼田整は・次の四つ量約してい鯛一・集制社会は階馨会である・

二︑人間は階級社会において︑意識的無意識的に集団を形成する︒三︑階級的諸関係は︑商晶流通過程に陰蔽されつつ︑

市場関係を通して形成される︒四︑資本制商品生産社会のもつ︑商品流通過程の法則的な保障の要請に答えて︑市民法

は︑商品流通過程を人格化し︑制度化している︒

 商品流通過程の法則に規定された近代市民法は︑その中心概念を︑自由な意思の所有者としての人格に求めた︒しか

し︑その人格は︑現実の︑具体的個性をもった︑生きた肉体的人間の法的な一側面である︒それは︑生きた肉体的人間の

相互関係の︑具体性を無視した一面的な反映でしかない︒そして︑この一面性こそが︑市民法原理の嚇倫静甑櫓を体現し

たものにほかならない︒つまり︑近代市民法においては︑ ﹁契約によって−意思関係i結びつく以前に既に一定の歴

史的社会関係の中笙ぎる具体的な人間︑たとえば労働者と資本家というカテゴリ璽は・法的なものとはならな﹄ので

あるがゆえに︑浮浪人︑街道商人︑貧農︑失業者︑労働者などは︑資本家とまったく同等の立場で︑法的人格としてとら

えられ︑すべての人は︑自由をもつものだとされたのであ勧︒

 ところで︑近代市民法は︑ブルジ嘗アジーの法的要求を普遍化して︑国家意思を媒介とすることにょり規範化したもの

である︒このことは︑市民刑法についてもあてはまる︒ブルジョアジーの刑法的要求は︑自由・平等・所有・安全であ

る︒

 ﹁近代刑法の父﹂とよばれるフォイエルバハによれば︑すべての人の相互の自由を保障するために︑市民社会が必要と

なり︑それは︑おのおのがその意思と力とを結合することによってできあがる︒かくしてでぎた一つの共同意思に対する

(19)

一66一思主体11人格の原型としているσである︒したがって︑市民刑法は︑非所有者が保護客体たる市民になる猶篇とを阻止しよ 範関係を通してあらわれてくるものであるが︑それは︑市民革命を遂行した有産市民階級Hブルジョアジーを︑自歯な意  近代市民刑法における抽象的人聞像人格は︑前述したように︑資本制商品生産社会における価値法則に規定された規 ようとしている◎﹂        ㈱ ある︒それどころか︑資本主義的所有関係の下で行なわれ︑資本主義的私有の増大に役立つ所有権侵害を︑刑法は保護し 企業・一般市民からの収奪も︑巨額にのぼるであろう︒これが︑すべての市民の財産権を保護する市民刑法の現実の姿で 罪による損害額とはくらべものにならぬことは︑いうまでもない︒その他︑利子・賃貸借等々︑独占価格などによる申小 定は不払労働により作り出された価値の資本家的獲得には関係しない︒そして︑収奪により集中する富は︑個々の財産犯 に窃盗を犯罪としており︑労働者・農民の私的所有も資本家のそれと同様に保護している︒しかし︑ヒれらの財産犯罪規  このことを︑宮内教授は︑典型的な財産罪である窃盗罪を例として説明される︒ ﹁なるほど市民刑法は︑抽象的一般的 任を問題とするところにある︒この市民刑法の特質はまた︑そのまま市艮刑法の虚偽的性格を形成するものである︒ 利主体とし︑その権利を︑抽象的で自由・平等な独立の人格が︑行為でもって侵害する場合を犯罪として把握し︑その責  このフォイエルバハの見解のなかに︑明確に認められる近代市民刑法の特質は︑すべての人を︑抽象的考察により︑権 られた︑他人の権利に逆らう行為であるという︒       ㈹ 罰法規によって確保された自由を侵害する者は︑犯罪を行なう者である︒したがって︑犯罪とは︑刑罰法規によって定め 有する︒また︑法的自由の限界を踏みこえる者は︑権利の侵害をなす者であり︑さらに︑市民契約によって保障され︑刑 に対するすべての侵害は︑ことごとく国家の目的に背馳する︒だから︑国家は︑権利侵害の可能性を防ぐ権利と義務とを 法規にしたがって︑人聞が共同生活を営むことができるようにさせるところにある︒そのようなところから生まれた権利 服従と憲法とによって組織された市民社会が国家である︒この国家の目的は︑法的状態を実現すること︑いいか・κれば︑

(20)

一67・・…..,

労働刑法序説

うとしているということができるであろう︒

 さらに︑市民法の虚偽性を明らかにしよう︒市民刑法は︑市民革命を媒介として︑経済外的強制臼封建的強制の体系と       へ         ヘ  ヘ  へ訣別し︑その必然的結果として︑経済外的支配縫身分的支配から解放し︑個人の自由をその中心的概念とするに至ったの      へであるが︑この自由こそ︑近代市民法の虚偽的性格を陰蔽するものにほかならない︒

近代市民社会において︑生産護からも融にさせられた鶴誰・自己の藩を守ってゆくには・資本家からの芳

的な契約内容を甘受するのではなく︑労働者の不利な立場を克服するために︑団結をよぎなくされ︑団体行動に訴えなけ       ヘ  へればならなくなる︒しかし︑この労働者の団結を︑自宙の名の下に禁圧したのは︑近代市民法の母国陛フランスにおい

て︑革命過程のさなか︵一七空年六旦四⊥吉︶に制定されたル・シャプリエ法︵99帥幕同︶であ鯛

 ル・シャプリエ法は︑正しくは︑ ﹁同一の身分および職業の蛍働者および職人の集合に関するデクレ ︵︼︶仙o同o骨層色欝諜

簿億瞬偶ωの⑦露ぴδoω儀︑o障虞凶霞ω露p自暮け餌昌ω似償ヨゆ営①傘9︒けΦ紳鷲o富ω臨◎昌︶﹂といい︑その第二条で︑﹁同一の身分およ

び職業の市民のすべての種類の同業組合の廃止は︑フランス憲法の本源的基礎の一つであるから︑いかなる口実および形

式によるのであっても︑それらを事実上再建することは︑禁止される︒﹂と規定し︑労働者および使用者を含むすべての

市民の結合は禁止された︒さらに︑第四条で︑ ﹁自歯および憲法の原則に反して︑同一の職業︑手工業に従事する市民﹂

が︑職業上の利害について︑評議もしくは合意をおこなうことは︑﹁宣誓を伴うと否とにかかわらず︑憲法に反し︑自由       および人の権利の宣言を侵害し︑無効と宣雷される︒﹂と規定する︒       ヘ  へ かくして︑労働者と使用者とは︑ともに市民として︑同業組合の結成は禁止されたのであり︑このことは︑市民法論理

の虚偽性を如実に示すものである︒すなわち︑ブルジ避アジーは︑自分達が団結することを望んでいたわけではなく︵産

業の自由︶︑まだ資本の生産過程に対する完全な掌握もなく︑また労働力に対する完全な支配も存在しなかったが故に︑

労働者の団結を効果的に制圧することを墓んだのであった︒したがって︑プルジ製アジーは︑霞己の利益の権力的反映で

(21)

ある国家権力を介入させ︑法律でもって︑個人の自由の侵害という側面から︑労働者および使用者の団結を禁止したので

あ騙・㈲ さらに︑フランスの一八一〇年刑法も︑ル・シャプリエ法の要件をほどんどそのまま受け継ぎ︵四一四条−四一六条︶︑

このような事態は︑一八六四年の修正フランス刑法四一四条−四一六条において︑従来の団結禁止規定が廃止されるまで

続いた︒また︑フランス以外の国では︑フランスのように︑形式的平等すら貫徹せずに︑労働者の団結のみを禁止したの   ㈲である︒

㈹ 沼田稲次郎﹁市民法と社会法﹂法律学体系第二部︑法学理論篇一一六︑昭和二八年︑四七頁︒

㈱ 沼田﹁覚働し法哲学講座第六︒七合併巻所収︑昭和三六年︑ 一三八頁︒

㈲ このことは︑法的には︑ ﹁法の前の平等︵︿O触 山O欝︵甲①oゆ①紳凶触四一①一〇財︶﹂としてあらわれる︵一七九三年フランス憲法﹁入および公民 の権利の宣書﹂第三条︑一八四九年フランクフルト憲法第一三七条第三項︑一八五〇年プロイセン憲法第四条第一項︑一九四六年臼本

 国憲法第一四条第一項︑一九四八年徴界人権宣留第七条︑一九四九年ドイツ連邦共和国基本法第三条第一項などで認められている︶

 が︑現実には︑市民社会が︑すぐれて︑階級社会であるがゆえに︑それは﹁生における不平等﹂にほかならない︒沼田﹁市民法と社会

 法﹂四八頁参照︒

㈹<かq磨諺諺③ぎく§切oβ霞富9幡ピ畠菩8び9ωα喚︒導¢ぎ︒捧ぎU$毎︒窪拶滋ゆq繕無σ葭窪速貯一一魯g寄︒暮9q・︾自一こμ・︒誌・ω鼠

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繍 宮内裕﹁覚働者権と刑罰権﹂法律時報第三六巻第七号所収︑五頁︒

劔 このことは︑特に︑国家法益について顕著である◎市民社会における国家は︑まさに資本家である市民のものでありながら︑他方 で︑市民社会の個々の市民に共通の利益公共の福祉を保護しようとするのである︒ここでは︑特別治安立法である︑治安維持法や破

 防法を想起すれば十分である◎

㈹ ﹁自由な労働者﹂を︑マルクスは︑一一重の意味で発見した︒一つば︑﹁自曲な人格として自分の労働力を自分の商晶として処分する

 という﹂自肉であり︑もう一つば︑ ﹁売るべき他の商品をもたず︑自分の労働力の実現に必要ないっさいの物象から引き離されている

 ・自由である・という﹂自宙である︒ぐ邸qゲ駕錠きσ器爵唱津巴矯ω゜ド◎︒ρ邦訳一四四頁◎

(22)

一69・・・…..

㈲  ル・シャプリエ法については︑恒藤武二﹁フランス労働法㌫又﹂三〇頁以下参照◎

㈱ 桜木教授は︑ル︒シャプリエ法は︑ ﹁資本制社会構成の特殊H近代的に成立する二つの前提︑ ﹃産業の自由﹄と﹃労働の自由﹄との

 法的確認に外ならない﹂と述べ︑その中に︑ ﹁共同体的強鋼規制体系の法的解体﹂を見いだされる︒桜木澄和﹁蛍働者の刑法的保護

 の基点8﹂法学新報第六四巻第噺○号収︑五五頁︒

㈱ この規定に違反した者は︑五〇〇り1ヴルの罰金に処せられ︑かつ公民権が噸年間停止される︵四条︶︒

㈲ このことについて︑沼田教授は︑ ﹁この種の弾圧法規においては︑いかに個人の自由が表面に打出されているにせよ︑また労使いず

 れの団結をも禁止する形をとるにせよ︑それは明らかに祉会集団としての労鋤者を︑したがって社会関係としての〃覚働をとらえる

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 ものといってよい︒ただそこでは蛍働の集団性は個人の自由によって否定さるべき反価値的なものとされる︵傍点は筆者︶︒﹂と述べ

 られる︵沼田﹁労働﹂一四四頁︶o

㈲荘子教授は︑﹁労働の自由の原理は︑元来︑勝働者の団結はいうに及ばず︑使用者の団結をも等しく経済外的要因として否定すべき

 性質のものである﹂といわれる︵荘子﹁労働刑法﹂一二頁︶が︑本文で明らかにしたように︑ル・シャプリエ法は︑市民法論理の虚偽

 的性格を体現したものである︒したがって︑それを看過することにより︑教授は︑市民法論理の中で考えておられるのではあるまい

 か︒

㈲ たとえば︑イギリスの一七九九年・︑ 一八〇〇年の団結禁止法とコンスピラシーの法理︑アメリカのコンスピラシーの法理︑ドイッの

 一八四五・年のプロイセン一﹂般工業一条・令など◎

労働刑法序説

 三︑資本制商品生産社会において成り立つ人間関係は︑物象と物象との交換を媒介とした︑特殊・近代的な︑合理的人

間関係である︒すべての人間は︑孤立的・排他的な自由意思の所有者とみなされ︑その具体的個別性が否定され︑抽象的

普遍性において︑人格︵℃¢誘O潟︶とみなされた︒この人間の具体的個別性を捨象したところに︑近代市民法一般のもつ

超階級的普遍的性格があらわれる︒

 そのために︑資本所有者と労働カ所有者とは︑ともに︑独立した商品所有者として相互に承認しあうことが前提とされ

る︒資本の原始蓄積段階を通して︑生産手段と労働力とが完全に分離独立した︑この社会では︑労働者は︑自己の労働力

を売る以外に︑明日の生活の糧を求める手段をもたない︒したがって︑労働者は︑自己の労働力を市場に持ち出し︑商品

参照

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