教養知と専門知識
‑ソクラテスの求めた知の意味するもの‑
吉田雅章
Paideia and Specialised Knowledge
The Meaning of Socratic Knowing in Plato's Protagoras‑
Masaaki YOSHIDA
はじめに
「教養のために何かを学ぶ」ということは、今日何か当たり前のことのように思われて いるけれども、改めてそれがどういうことか考えてみようとするとさほど明らかでもない ように思われる。とりわけその「教養」というのがいわゆる「趣味」や「飾り」や「余生 の楽しみ」といったものを指すのではなく、もしそれが人の存在に関わり、人の生を左右 するものであるとするならば、 「教養のための学び」の持っている意味は、自明と言うに
はほど遠い。教養のために何かを学ぼうとする人にとっても、またそれを教えようとする 人にとって、決して安穏としていられない問題であり、 「教養のために学ぶ」ということ
自身が絶えず問い続けられねばならないようなものである。
さて、この「教養のための学び」ということがどのような問題を学んでいるかについて 私がここで試みる考察はささやかなものである。その問題のために、ここで取り上げるの はプラトンの『プロタゴラス』という一つの対話篇のその冒頭の部分である。そこでは、
裕福な家の青年ヒポクラテスが、教養(或いは人間教育)のためにソフィストの大家プロ タゴラスに師事して学ぼうとするに先立って、一体教養のためにソフィストに学ぶという ことが何を意味しているのかをめぐる対話が、ヒポクラテスとソクラテス、ソクラテスと プロタゴラスの間で交わされている。そして我々が後で見るように、ソフィストに学ぼう とするヒポクラテスも、また弟子を取って人間教育を行うと公言するプロタゴラスもとも に、様々な専門的知識から区別される教養知の存在を前提して疑わないのに対して、そう
した教養知の、知識としての存在に疑いのまなざしを向けているソクラテスの姿が描かれ ている。このソクラテスの疑義を受けて、プロタゴラスは、神話的説明と理論的説明の両 方を巧みに用いながら、様々な専門的知識から区別される教養知‑人間教育ないしアレ チ‑ (徳)の教育‑は、国家社会の存立の前提として存在していること、しかもそうし た知の教育は現実に行われていることを力説する。しかしこれに対して、ソクラテスは或 る基本的な問いを通じて、もしプロタゴラスが言うような意味での教養知があるとすれば、
それは「どういう知としてあらざるを得ないか」を示して見せる。
これが『プロタゴラス』篇を構成している最も基本的枠組であると私は現在考えている けれども、しかしそう言えば、この対話篇の主題をめぐって、特に今述べた事柄のうちの 最終部分に関しては各方面から様々な異論が出されよう。現にこの対話篇の最後の部分
(349D2‑360E5)は、今私が述べたのとは丁度正反対に、ソクラテスが自らの主張として
「アレテ‑は知に他ならない」ということを証明しようとしたものであるとの解釈をとる 人々は多いのである。しかしそれはあまりにも対話篇の特定部分に目を奪われすぎた理解 であると患われる。対話篇がどのような状況から始まり、どのように問いが形成されまた それがどのように展開されるか、またどんな問題連関の中でその問いが問い続けられるか という、対話篇全体の統一的理解に眼を向けるなら、それは誤解であるということが判明 しよう。
私は以下の論述において、この『プロタゴラス』篇の冒頭部分を中心にして、 「教養の ために何かを学ぶ」ということがどういう問題を学んでいるのか、そしてどのような状況 の下で、どのように問題が形作られてゆくのかということを少し仔細に検討することを通 じて、同時にこの対話篇の主題が何であるのか、或いはこの対話篇が狙っているのは一体 何なのかということを考察してみたいと患う。
さてそれでは、おおむね対話の順序に従いながら、まず次節で、教養知ということが最 初に取り上げられる場面を顧みて、その問題場面に含まれる事柄の持っ意味に関して重要
な点を確認しておきたい。
1
かのプロタゴラスがアテナイへやってきていることを兄に知らされて、末だ夜も明けや らぬうちからソクラテスの家の戸を叩き、プロタゴラスに付き従って勉強するための口添 えを性急にソクラテスに請う青年ヒポクラテスに向かって、ソクラテスは「プロタゴラス
に金銭を支払い、彼につき従って勉強しようという場合、それは[A]誰のところに行く つもりであり、 [B]何になるつもりでのことなのか」 (311a2‑5)と、こう問う。ともか
くもプロタゴラスに何とか師事したいということしか念頭になかったヒポクラテスにとっ
て、この問いはあまりにも唐突であり、また奇妙でもあり、そして「一体何が問われたの か」を直ちに理解できないところがあったかもしれない。そのことを既に十分承知してい るかのように、ソクラテスはヒポクラテスからの答えを侯っ暇もなく、その問いの意図す るところを事例を掲げて説明することによって、ヒポクラテスに明示しようとする。
さて、この[A]と[B]の2つの問いの持っ意味を明示しようとする際に取り上げられ る事例は、医術知や彫像製作の知といったいわゆる専門的知識(技術知)を持った人々の 場合である。こうした専門知を有する人々‑例えば、テキスト上に掲げられているのは、
ヒポクラテスと同名のアスクレビオス派のヒポクラテスとかアルゴスのポリュクレイトス やアテナィ.のペイディアスなど‑をめぐって、先の[A]と[B]の二つの問いが問われ るとすると、この問いに対しては、それぞれ[A‑1]: 「医者或いは彫像作製者と考えて」
のことであり、 [B‑1] : 「医者或いは彫像作製者になるつもりで」との答えが当然返って くることを確認した上で、ソクラテスは先の二つの問いを再びプロタゴラスに関して問う ことになる。
先ず[A]の問いに対しては、ペイディアスが彫像製作者と呼ばれ、ホメロスが詩人と 呼ばれる(1)のと同様に、プロタゴラスはソフィストと呼ばれているから、 [A‑2]: 「ソフィ ストと考えてミ彼のところに赴き金銭を支払う」との答えが差し当たり確認される。少な くともここまでのところ、ヒポクラテスにとってそう答えることに何の問題も感じられな いが、プロタゴラスをめぐって、 [B]の問いに答えようとする際、何かこれまでとは異 なるものを感じなければならなかった。ソクラテスは[B]の問いを改めて、次のように 問う。 「あなた自身は一体何になろうというので、プロタゴラスの下に赴くのか」 (312A1‑
2)と。赤面しながら、 「先の答えと同様に答えるとすれば、その答えは明らかにソフィス トになろうというので、ということになる」 (312A2‑4)と応答するヒポクラテスに、さ らにソクラテスは「しかし君は恥ずかしいのではないか、君自身をソフィストとしてギリ シア人の前にさらすのは」 (312A4‑6)と畳みかける。そのことを素直に認めるヒポクラ テス(2)に対しソクラテスは、ソスィストにつき従って学ぼうとしているものが専門的知識 としてのそれで!はなく、読み書きや音楽教育に連なるような「教養のための学び」ではな いかと示唆する(cf. 312A7‑B6)。
以上がヒポクラテスとソクラテスの対話の前半箇所である。さて、このような対話は我々 が教養ということを考える際に、最低どれほどのことを教えてくれるであろうか。事例と して取り上げられた専門知識(技術知)にかかわる問題を手がかりにこの箇所で我々が確 認すべきことを見てみよう。専門知識が現に働いている場面との比較において、当面する
問題に迫ろうとするこの考察方法(いわゆる「技術知との類比の方法」)は、言うまでも
なく、プラトン・の初期対話篇に馴染みのものである。勿論今ここで、その方法を貫いてい
る恩考の持っ意味を全面的に問題するわけにはいかないが、少なくともこの箇所に限り、
この方法が用いられていることの意味を確かめておく必要がある。その点を取り上げて少 しく検討しておきたい。
一体、この方法がここで用いられているとき、その基本にあるのほどのようなことであ ろうか。結論を先取りして言えば、ここで「技術知との類比的方法」が用いられるのその 基本にあるのは、 「知」と「それを所有する者」との関係であるということができると忠 う(3)。プラトンにおいて、この技術知との類比による方法が用いられる場合、基本的に
「誰かの、しかじかのことについての知識」が問われている。このうち、ここで今問題に なっているのは、 「しかじかの知」と「それを有する人」との関係である。言い換えれば、
「しかじかの知は人をしかじかの人として作り上げる」というのがこの箇所での基本的理 解であろう。即ち、先の[A]の問いにしても、 [B]の問いにしても、その問いが成り立 つ基本的な場面は、人が誰かのところで何かを学ぼうとする場合、 [A']: 「教える者が誰 であるか」との問いは、その人の所有する知がその人をしかじかの人たらしめているとの 基本的理解の下で可能であり、また[B']: 「その学びによって学ぶ人は何になるのか」と の問いも、 「その人の学ぶ知」と「その知によってその人がどのような人となる(である) か」との対応関係をその前提にしていなければ問えないことであると思われる。ソクラテ スが医者や彫像製作者の事例を用いて、先の[A]と[B]の問いを問う場合、その根底に 流れている論理(ロゴス)は、 「知はそれを有する者を、その知がしかじかの知である、
そのような者たらしめる」ということであり、そのロゴスがヒポクラテスに「先の答えと 同様に答えるとすれば、その答えは明らかにソフィストになろうというので、ということ になる」との応答をさせたものである。つまりそれはこうした問いと答え(言葉によるや りとり)を可能にしているロゴスなのである。
しかし以上のようなかたちで考えた場合、当然そこには一つの問題があるとの指摘があ ろう。その間題とは次のようなものである。 ‑ソクラテスは明らかに、読み書きや体育 や音楽の教師から子どもたちが受け取る学び(mathesis)を、上述の医者や彫像作製者の 下での学びと異なるものとして取り扱い、前者の学びに「教養」 (paideia)という名称を 与え、 「ソフィストの下での学び」も、これに連なるものとしてあるのではないかとの示 唆を行っているのではないか(cf. 312A7‑B6)。とすれば、少なくとも[B]の問いの場合、
技術知との類比的な考察に例外のあることがソクラテスによっても認められているのでは あるまいか。
だがこの点に関しては、人はこの議論の注意深い、慎重な考察を必要とするであろう。
先ず次のことが確認されねばならないと患われる。確かにソクラテスは、我々が先に見た
ように、読み書きや体育や音楽の学びが「技術知のため、つまり専門家になろうというつ
もりで(hos demiourgos esomenos)学ばれるのではなく、教養のため(epi paideiai)、
つまり素人としてかつ自由人として相応しいと考えて(hos ton idioten kai ton eleutheron prepei)学ばれるのではないか」との示唆をヒポクラテスに与えている。し かし丁度そのことは、 「人がしかじかの知を学ぶとき、学んだ知がその人をしかじかの人 たらしめる」ということを否定するものではあるまい。即ち「教養のために、素人として 自由人として読み書き(しかじかの知)を学ぶ」場合であれ、その学びによって人は読み 書きのできる(しかじかの)人になる(である)という点に、些かの違いもないと思われ る。ソクラテスの与えた示唆はその点にあるのではなく、むしろその先にあると思われる。
人がしかじかの知を学べば、その知は学んだその人をしかじかの人たらしめるという、こ の点に関するロゴスは動かない。しかし、そのしかじかの知を、人は技術知のために、専 門家になろうというので学ぶ以外に、教養のために、素人として、また自由人に相応しい
ものとして学ぶこともありうることが、読み書きや体育などの学びにおいて示されている のである(4)。一般的に言えば、何かを学ぶという場合に、専門家になるのではない「 (学
び)のかたち」があるということが示されたにすぎない。そしてソフィストからの学びも またそうした学びに連なるような学びではないかとの示唆である。それ以上のことはここ にはないと患われる。
さてしかし、その点までは確かに承認できるとして、では何かが「教養のため」に学ば れるということはどういうことであると理解すればよいのか。そしてそのことは、何らか の知が技術知のため、つまり専門家になるために学ばれる場合に対して、どのような意味 を持ち、区別されることになるかということが次に問題となろう。だがこの点に関しては、
末だ現在問題にしている箇所では殆ど何も明らかではない。つまり「教養のために」と言 われたが、我々が「教養」という言葉に予め何らかの思い込みを持ち込むのでない限り、
それによって語られようとしている、その内実はまだ少しもはっきりしていないのである。
それに与えられた内実は、今のところ、たかだか、例えば「読み書きや体育や音楽の教師 からの学び」というに留まり、ソフィストからの学びも何かそれに類するものとの示唆が あるに過ぎないのである。この「教養」という言葉の内実が対話篇の以後の進展の中でど のような展開を見せているかは、ソクラテスとプロタゴラスとの対話及びプロタゴラスの 大演説の検討に委ねねばならない。
2
以上はヒポクラテスとソクラテスとの対話の前半部分に関する検討であるが、これに関
連して、次に両者の対話の後半部分で語られていることのうち、私にとって大切と思われ
る二つのことに触れておきたい。
二つの重要事とは、ソクラテスによる「魂という言葉の導入」と「学ぶとはどういうこ とか」に係わる「器の比愉」である。プロタゴラスからの学びは「教養のため」のもので はないかとのソクラテスの示唆を直ちに受け入れたヒポクラテスに向かって、ソクラテス は今度はやや詰問口調で、 「ソフィストであるあの男にあなた自身の魂の世話をゆだね (ten psychen ten sautou paraschein therapeusai)ようとすることが一体に何をす ることになるのか分かっているのか」 (312B7‑C1)、そして「ソフィストとは何(何者) なのか(hoti de pote ho sophistes;)知っているのか」 (312C1‑4)と問い質す。この問 いにヒポクラテスは、ソフィストという名の語源的説明(その名の語るように、 「賢き事 柄を弁えた人」)をもって答えようとするが、ソクラテスは「何に関する牽き事柄を弁え
た者なのか」、 「人を何に関して語るに巧みなる者にするのか」というように、例の「技術 知を類比的に用いる方法」でもって、ソフィストその人がそれに関する知者であり、また 弟子をそれに関する知者にするという、それとは一体何なのかをさらに追求する(312B7‑
E6)。
我々はここで、ソフィストの知が何に関する知であるのかという追求が、先の[A]の 問いの一つの展開としてあることに先ず注目すべきであろう。即ち「誰だと考えて、その 人に学ぶのか」との問いは、先の箇所で差し当たりその人がそう呼ばれている(ソフィス トと呼ばれている)その呼び名を語ることによって答えられたが、しかしその答えに対し ては、さらにもう一つの問いが可能となる。ここで問題とされているのはそのことであり、
「ソフィストと呼ばれている者は一体誰(何)なのか」という問いである。我々は先に、
「技術知との類比による方法」が用いられる場合、 「誰々の、しかじかのことについての知 識」が問題とされていると述べたが、ここで問われているのは、 「何の知であるか」とい
う知識の対象への問いである。つまり「学びの相手が誰であるか」の問いは、当然その人 をしかじかの人たらしめている、その知が「如何なる知であるのか、何に関する知である のか」という知の対象への問いのかたちを取るであろう。
大切なのは、ソクラテスがこの間いとともに、 「プシューケー・魂(psukhe)」という言 葉を導入していることであり、そして我々はその点には十分な注意を払う必要がある。と
いうのは、次のようなことがあるからである。我々は先に、人が何らかの知を所有してい る場合、そのしかじかの知は、人をしかじかの人に作り上げるということを確認した。そ の場合、勿論しかじかの知といわれるその知の対象に応じて、その知が人をどれほど、或
いはどこまで規定するかは異なるであろう。例えば、人が「読み書き」の知識、或いは
「医療」の知識を有している場合、その知はその人を「読み書き」という面で、或いは
「身体の医療」という面でその人を規定する(そうした行為を自由になし遂げうる人に造
り上げる)が、しかしそれはその人を全体として規定するものではなく、その人を部分に おいて規定するものでしかない。それ故、その人のそれ以外の存在に関してはなお無規定 なままである。
ソクラテスが、教養のためにプロタゴラスの下へ赴こうとするヒポクラテスに、 「君自 身の魂の世話をゆだねることが何をすることになるのか」とか、ソフィストが何に関する 知を弁えた者であるかを答えられない彼に、 「その魂をどんな危険にさらそうとしている のか」 (313Al‑2)と問いかけながら、 「魂」という言葉を持ち出すとき、我々は「教養の ための学び」が明らかに我々自身を全体として規定するものとして語られていることに気 づかなければならない。というのは、ソクラテスはこの魂について、 「だが身体より大切 と君が考えるもの、つまり魂、そして君のことの一切がうまくいくか、それともまずくな るか(pant'estin ta sa e eu e kakos prattein)は、その魂がすぐれたものになるか、
それとも劣ったものになるかにかかっている(khrestou e ponerou autou genomenou)
そういうものに関して」 (313A6‑9)と述べているからである。人の生の善し悪しの一切 がそこにかかっているものとして魂という言葉は語られており、それは端的に自己自身と いってよい(5)。
さらにソクラテスは、 「身体と魂の類比の方法」を用いながら、身体を養うもろもろの 食べ物や飲み物が身体の善し悪しを規定するように、その魂(自己自身)を養うのはもろ もろの学びであり、それによって魂は善きものにも悪しきものにもなると語る。そのとき そうした魂に関して、ソクラテスは「器の比職」を語る。そこには我々が「学ぶ」という ことをどのようなこととして捉えなければならないかが端的に示されているように思われ る。ソクラテスは、身体を養う食べ物や飲み物なら、別の器に入れて持ち帰り、食べたり 飲んだりすべきか、どれほど或いは何時そうすべきかなどを、それに通じた人に相談する ことが可能であるが、魂の場合には別の器に入れて持ち帰ることは出来ないのであって、
学ばれるべきことを魂それ自身に取り入れて学んでしまえば、そのとき既にその人は害さ れているか稗益されているかしてしまっているのだと言う。我々はこの比境を正確に理解 しなければならない。魂は学ばれるべき事を入れる器ではない。学ばれるべきこととは別 に器があるわけではないのだ。何を学ぶかによって、魂そのもの(その人自身)がそのよ うなものになるのであり、学識は魂(その人自身)を規定するものとしてある。ヒポクラ テスが「教養のために」と考えたソフィストからの学びは、その学びによって我々自身の 全体が規定されるようなそのようなものとしてあることを、ソクラテスはヒポクラテスに
向かって忠告しているのである。
3
さてそれでは、 「ソフィストからの学びとは一体何か」という問いは、プロタゴラスそ の人を前にしてどのように展開されてゆくのだろうか。プロタゴラスに対してソクラテス は直裁にその問いを差し向けない。ソクラテスはやや唆味で多義的な問い(「あなたと交 われば、この若者はどんなふうになるのか」 (318A3‑4)をもって始め、これに応じるプ ロタゴラスの答えもその分だけ核心からずれる。ソクラテスは問いの意味を正確にするた めに、例の「技術知との類比の方法」を駆使しながら、プロタゴラスの教える知が「何に 関するものであるか」と問う。このやり方は、勿論或る程度のバリエーションは加えられ ているけれども、我々が先に見たヒポクラテスとの対話で、プロタゴラスのソフィストと
しての知の対象を問うた問いの繰り返しであることは容易に気づかれるであろう。
ところで、知であるのなら、それは「何に関する知なのか」を、 「技術知との類比的方 法」を用いて愚直に問うソクラテスに対して、我々はプロタゴラスがこれとは一種対照的
な態度を取っていることに是非注目しなければならない。というのは、ソクラテスの「何 の知であるのか」という問いに応じて「自分からの学びが何であるか」を語る際に、プロ タゴラスはむしろそれを諸々の技術知との対比において語っているからである。即ち彼は、
他のソフィストたちは折角もろもろの技術知の学びから逃げ出した若者たちを、再び計算
術や天文学や幾何学や音楽といった専門的知識へと引きずり込むが、自分のところへ来れば、若者がそれについて学ぼうとやって来たそのもの以外に学ぶことはないと言う(cf. 3 18D7‑E5X
プロタゴラスが自分が教えるという知を諸々の技術知からは区別し、それらと対比され るかたちで捉えているという点は「教養としての学び」ということを考える上で、十分注 目に価することであると恩われる。プロタゴラスは既に、この公式的対話に先立っソクラ テスとの予備交渉の中で、ソフィストの術は昔からのものであるが、昔の人々はこの術が 聴く人に与える悪印象を恐れてその術を覆い隠し、あたかも別の様々な専門技術であるか のように仮面をっけたが、自分はそれを包み隠さず、 「自分がソフィストであり、人間を 教育する(sophistes einai kai paideuein anthropon) 」 (317B4‑5)ということに同意 すると述べている(316D3‑317C5)この箇所では、ソフィストの術知と専門技術とが鋭 く対立する形で捉えられ語られているわけではないものの、しかしやはりソフィストの術 知は諸々の専門的知識の中の一つとしてそれに相並ぶのではなく、それらとは異なり区別
されるべき何かとして語られていることには違いがないと思われる。そしてさらに、後に
見るように、諸々の専門的知識とソフィストの術知との対比的な区別は、プロタゴラスの
大演説のなかで、ミュートスの基本的な骨格を構成する、 「専門的知識」と「国家公共の
事柄に関わる術知(プロタゴラスが教えるという知)」との対比的な把握として鮮明に現 れてくるのである。その対比的把握の持っ意味に関しては、改めて後に検討してみること
にしたい。
さて、以上のようなかたちで見たとき、我々はプロタゴラスの主張しているこの知の区 分は、我々がこれまでに見てきた「専門的知識と教養との区別」に対応しているものと見 てよいと思う。プロタゴラス自身も先の引用にあったように、自らのソフィストとしての 営みを「人間の教育」ということとして考えているのである。そしてそのことはまた次の
ように考えることもできるのではないかと思う。
予備交渉のプロタゴラスの言葉からすると、ソフィストが一体何をしているか、或いは ソフィストの仕事が何であるかに関しては、一般の人たちはもとよりソフィスト自身にとっ ても、様々な理解があり、かなり混乱があったことが読み取れるように思われる。或いは むしろ、プロタゴラスが自らの仕事として規定したものよりずっと広い範囲のものがソフィ
ストの活動として一般にもソフィスト自身にも見られており、プロタゴラスが掲げた、詩 作や秘儀・託宣や体育術や音楽技芸(cf. 316D6‑E4)など諸々の専門的技術の営みとされ るものの内容には専門的技術からはみ出て、覆いきれないものが含まれていたと言った方 が正確なのかも知れない。しかしその中で、プロタゴラスは明確に自分の仕事を「人間の 教育」ということに限定した。いな、正確に言えば、プラトンはソフィストの存在理由と
して、プロタゴラスの仕事をそれに限定し、そこでの「知のあり方」が如何なるものであ るかを問い抜こうとしているのだと理解されるのである。換言すれば、大きな拡がりを持 ち、焦点を見失いがちなソフィストの営みを「教養知(人間教育)」ということに絞り込 んで、それを専門的知識のあり方と対比させる仕方で、そうした知のゆくえを見定めよう
としているのだと言えるのではあるまいか。
さて、では、プロタゴラスは専門的知識と対比されるかたちで把握する自らのソフィス トとしての術として、その「教養知(人間教育)」の内容を一体どのように規定したのだ ろうか。プロタゴラスはその内容を「身内の事柄については、自分の家を如何にして最も よく斉え、また国家公共の事柄に関しては、これを行うにも論じるにも、最も凄腕のもの となるかを計る計らいの上手」 (318E5‑319A2)であるというふうに明らかにするが、ソ クラテスはその内容を「国家公共の事柄に関わる技術知(politike tekhne) 」の教授とい う仕方で理解し、そしてプロタゴラスのソフィストとしての人間教育を「人々を善き市民 にすること」であると捉え直す(319A3‑5) 。
プロタゴラスのこの回答とソクラテスの捉え直しから、ソクラテスはこの対話篇のメイ ンテーマと通常考えられている「徳(アレテ‑)は教えられうるか」という問いを生み出 してゆくことになるのだが、そのプロセスには我々が注目すべきことがいくつかあると恩
われる。なお、この点に関しては、別のところで検討したことがある(6)ので、今は簡潔を 期してその要点のみを述べることにする。
今述べたように、 「アレテーは教えられうるか」という問いはこの対話篇のメインテー マ、或いはその一つと見なされ、しかもこの問いの遂行の下に、ソクラテスは「徳は知で ある」ということを証明しようとしているのだというのがこの対話篇に関する一般的な理 解である。しかし私は、このような理解はこの箇所の読みに関する誤解、或いはこの箇所
の意味を看過することから生じたものであり、 『プロタゴラス』篇全体の理解を大きく狂 わせ、誤らせるものだと思われる。というのは、ソクラテスが「アレチ‑は教えられえな いのではないか」と疑義を呈し、 「アレテ‑は教えられうるものだと示してほしい」とプ ロタゴラスに対して要請したとき、そのアレテ‑は決してソクラテスのいう意味でのアレ チ‑ではなく、プロタゴラスが教えるというかの「国家公共の事柄に関わる技術」という 意味でのアレテ‑であり、そうしたアレテ‑を満身で発揮した人物の代表者であると見ら れているペリクレスのそのアレテ‑であったからである。そのことははっきり確認してお かなければならない。
ソクラテスは先ず、プロタゴラスの人間教育のその中身に関する回答に対して、 「それ (touto)は教えられえないのではないか」と疑う。 「それ」と言われているのは、当然プ ロタゴラスの人間教育の内容とされたもの、ソクラテスの言い換えによる言糞によれば
「国家公共の事柄に関する技術」である。 「教えられうるか」と問われているのは、まさに それ以外のなにものでもない。そしてさらにソクラテスは「それは教えられうるか」とい う場合の「それ」を、ペリクレスという個人の名に結びつけてゆく。そしてそこで始めて アレテ‑という言葉を用いるのである。即ち、 「ペリクレスのような市民の中で最も智慧 があり優れている人々(hoi ophotatoi kai aristoi)が、自分の持っているそのアレテ〜
を他人に授けることが出来なかった」 (319E1‑320A3)とこう語って、ソクラテスは「国 家公共の事柄、国事の処理に有能であった」ペリクレスのような人々のその能力と今プロ
タゴラスが教えるという国家公共の事柄に関する技術とをぴたりと重ね合わせる。
とすると、ソクラテスがここで行っている仕事は、プロタゴラスが教えると公言する
「国家公共の事柄に関する技術」に、多くの人々の間で「最も智慧があり、優れている」
と評判の高かったペリクレスのアレテ‑をその内実として与えることであると言える。即 ちそれは、プロタゴラスが教える知とは、 「国家公共の事柄、国事の処理に絶大な能力を 発揮した」かのペリクレスのアレテ‑であり、プロタゴラスに師事してその知を学ぼうと
している多くの青年が得ようと望んでいるものもまさにそれであるということを意味する であろう。ソクラテスの「アレテ‑は教えられうるか」との問いは、多くの人々のアレテ‑
理解とソフィストの活動とが呼応しあう丁度その場に向けられている問いなのである。そ
の際、我々が注目しなければならないのは、両者が呼応しあうその場所では、既に「アレ チ‑が何であるか」は、ペリクレスを代表者とするあれとしてまざまざとそこに見えてお り、むしろそれを「どのようにして手に入れるか」、それがひとえに問題だと、こう考え られているということである。そしてそのことは翻って言えば、プロタゴラスの教えると いう教養知あるいは人間教育が、結局のところは、 「そのようなものとしてある」と考え られているアレテーを、では「どのようにして手に入れるか」という、そういう意味での 教育に他ならないということを意味するということに注意しておかなければならない。
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プロタゴラスが教えると主張するような国家公共の事柄に関する技術、或いはペリクレ スの持っていたような国事処理能力としてのアレテ‑、それは教えられえないと恩う、い やむしろそれが教えられうると言うのなら、それを示して欲しいと言うソクラテスに、プ ロタゴラスは、神話的説明と理論的説明(ミュートスとロゴス)の両面から成る大演説を 行うことで応えようとする。さてしかし、このプロタゴラスの演説はソクラテスの問いに 対して、どのような答えになっているのか。そしてまた「教養のための学び」ということ
について、どれほどのことを明らかにすることになっているか。
プロタゴラスの演説は様々な局面を含んでいるので、そのすべてを取り上げる事はでき ないが、これまでの考察に深い関わりを持っ問題に焦点を絞って、プロタゴラスの応答の 意味を検討しておきたい。
プロタゴラスの演説のうち、神話的説明の基本的な枠組みが「諸々の専門的知識」と
「国家公共の事柄に関わる術知(プロタゴラスが教えるという知識)」とを対比的に捉える ことによって構成されていること、そしてそれぞれは、 (1) 「専門的知識ないしアレテ‑
(demiourgike tekhne, arete) 」が生活のためのしつらえを整える工夫として、他方(2)
「国家公共の事柄に関わる技術ないしアレテ‑(politike tekhne, arete)」は、外敵から 身を守るために国家社会を形成する知識として考えられていることは、我々が直ちに見て 取れるところである。プロタゴラスがこの対比をもって自らが教えるという「国家公共の 事柄に関わる技術」を際立たせていたことは先に見た通りであるが、ここではさらにその 対比が両者が人間存在の何に関わっているかを明示することによって一層鮮明なかたちで 語られることになるのである。人間が当初は欠いていたこの「国家公共の事柄に関わる技 術」は、プロタゴラスによるミュートスの語りの中で、ゼウスから贈られた(いましめ)
と(っっしみ)と言われ、さらにそれは「(正義)と(思慮節制)」ないし「正義とその
他の国家社会を形成するアレテ‑」として展開されるが、しかしこの「国家公共の事柄に
関わる技術」ないし「国家社会を形成するアレテー」についてプロタゴラスは、すべての 人々がそのアレテ〜ないし技術に与る、或いは与らねばならないと、こう主張する。
以上のことに若干の補足を加えて、プロタゴラスの(1) 「専門的知識」と(2) 「国家公共の 事柄に関わる技術」との対比的把握を簡単に整理しておこう。先ず(1)の「専門的知識」に 関しては、当然そこにその知を有している「専門家」とその知に与らない「素人」の区別 がある(cf. 322C5‑7) 。他方、 (2)の「国家公共の事柄に関わる技術」の場合はどうか。彼 はそこではすべての人々が素人であってはならない、専門家でなければならないと言う。
勿論、プロタゴラスがそう主張するのは、ソクラテスが「アレテ‑は教えられえないので はないか」という疑義を呈したその理由の一つである「国家公共の事柄に関する専門家は 不在であり、皆が同様に審議に加わる」ということに答えようとするためである。しかし そうすれば、プロタゴラスがソフィストとして人々をアレテ‑において教育する余地はな くなる(即ちこれは、ソクラテスの「アレテ‑は教えられえない」という理由の2番目の
「有徳者のアレテ‑の教授不能」に該当する)のではないかと考えられるが、丁度そこに プロタゴラスは、例えば笛吹の中でも、 「上手」と「下手」がいるように、当面問題の技 術に関する専門家の中でも「上手」と「下手」との区別を立て、教育の余地を残すのであ
る。そして笛吹の場合、下手な笛吹でも、まったく笛の吹けない素人に比べれば、専門家 として十分通用するように、教育も裁判所も法律もなく、何らアレテ一に配慮していない 者に比べれば、最も不正な人といえども、正しい人であり、アレテ‑の専門家であると言 えると語る。つまり、プロタゴラスはソクラテスの「アレテ‑は教えられえない」という 疑義の二つの理由に応えるために、二重の関係(一つは「専門家と素人との対比」であり、
他方は専門家の中の「上手と下手との対比)」を構成し、それを巧みに使い分けながら説 明していると言えよう。
このようなプロタゴラスの語りの中で、我々は先ず、 「すべての人々はアレテ一に与る」
とか「アレテ一に関しては、誰一人として素人であってはならない、専門家でなければな
らない」とするプロタゴラスの主張の含意するところを十分注意深く見守らなければなら
ないように患われる(7)。というのは、先に我々が確認したように、プロタゴラスは自らが
教えるという、かの(2) 「国家公共の事柄に関わる技術」というアレテ‑を、 (1) 「専門的知
識」としてのアレテーと鮮やかに対比させつつ、それらからははっきり異なるものとして
捉えていた。しかし専門的知識と対比的に語られてはいるが、それは「知」としてどのよ
うに専門的知識とあり方を異にするにするのか。そしてそれについてはすべての人々が専
門家である(あらねばならぬ)とは何を意味するのか。仮にその「国家公共の事柄に関わ
る技術」というアレテーを「正義や恩慮節制」のアレテーと言い換えてみても、確かに人
はその言動を、 「正しさ・不正」や「思慮深さ・放埼」などの言葉で評価し非難はするも
のの、それが専門家であること、つまり知っている者の証しにはならないであろう。しか しプロタゴラスにとって、正義や恩慮節制のアレテ一にすべての人が与っていることは、
次に見るように、国家が存立するための条件であると言う。実はそのとき、プロタゴラス は専門的知識とは異なると言いっつ、専門的知識がその対象の定まったところで、それを 如何に達成するかの知であると同様に、国家の存立をいわば目的として、それが実現され るにはどうすればよいかを「知る知」というかたちで、 「国家公共の事柄に関わる技術」
というアレテ‑を、また「正義や思慮節制」のアレテ‑を捉えているのである。即ち、そ こでプロタゴラスが教えると公言している知は、諸々の専門的知識と同様に考えられてい る知なのである。
上記のことと密接に関連するもう一つの両者の間の決定的に異なる立場についても触れ ておかなければならない。先にも触れたように、プロタゴラスにあっては、 「国家公共の 事柄に関わる技術」としてのアレテ‑、そしてまた正義その他のアレテーは国家社会の存 立にとってなくてならないものとして考えられていた。プロタゴラスが「すべての人々が アレテ一に与っている」とこう主張する(8)場合、彼はつねにそれを国家社会が存立するた めの条件として考えている(9)。しかもそれが彼にとっては「人間のアレテ‑」 (andros arete,cf.325A2)でもあった。しかし、既に我々が見たように、ソクラテスにとって
「教養としての学び」、そしてアレテーは、何よりも先ず魂(自己自身)の善し悪しがそれ にかかっているものであり、その魂の善し悪しこそその人の全体が「うまくゆくかまずく なるか」を決定するものであった。この差を作りだしているものは極めて大きいと言わな ければならない。なぜなら、それは一体問題になっているアレテーというのが、そして
「教養としての学び(教養としての知)」が最終的に何に関わっているのかがそこで問題に なるからである。しかしこの差がどれほどのことを意味することになるのかに関しては、
この『プロタゴラス』篇ではこれ以上の展開は見られない。
むしろ、ソクラテスはプロタゴラスの大演説の後、 「アレテ‑とは何か一つのものであ り、正義や思慮節制や敬度などはそれの部分なのか、それともそれらはすべて一つの同じ ものにつけられた名前なのか」と問うことから開始して、以後の議論の展開の筋道をっけ ていくが、そのときソクラテスは不忠議なことに、プロタゴラスの「アレテ‑は教えられ うる」という言葉に身を託して、その証明に専念しようとするのである。
その道筋の詳細は別のところで検討したuo)ので、ここでそれを繰り返すことはしないが、
簡単に結論的に言うとすれば、その道筋はプロタゴラスが自らが教えると称したその知が、
もし知として成り立っのなら、それは一体どのような知としてあらざるを得ないのかを描
いてゆくことであったと私には患われる。即ち、ペリクレスに代表される「国家公共の事 柄をうまく処理していく技術」としてのアレテ〜、それがプロタゴラスの言うように、もし知であるとしたら、それは結局のところ、 「快/苦」の計量術‑そういう知が成立す るとしてのことであるが‑に他ならず、そしてそのような知とはいわば「人生の目的」
が定まったものとして、その目的をどのようにして達成するかの知であるということを示 すためのものだったのである。
(6月16日未明ケンブリッジConduit Tailにて)
〔註〕
(1)プラトンの場合、厳密に言えば、ホメロスのみならず、詩人を技術を有した者として認めるか どうかは、勿論問題である。しかしこの箇所では、むしろ或る固有名を挙げて、その人がその 人の営みから何と呼ばれているかを示唆する事例として掲げられているのであって、詩人を技 術者として取り扱うという面はやや薄いよ・うに思われる。
(2)ヒポクラテスが「顔を赤らめた」その理由に関しては、差し当たり、 Taylorの312A2‑7に付け られた注釈を参照されたい(C.C.W.Taylor: Plato Protagoras, revised edition, Oxford Clarendon Press, 1991, p.60)。
(3)プラトンの初期対話篇において、いわゆる「技術知との類比による方法」が用いられる場合、
「知の対象」へ注目する注釈家は多いが、 「しかじかの知はその知を有する人をしかじかの人に 作り上げる」という面への注目は少ないように思われる。しかしこれは「技術知との類比によ
る方法」の重要な側面である。この点に関しては、拙稿「正義と知‑プラトン『ゴルギアス』
篇第一部の問題‑」 (森・中畑編『プラトン的探究』第3章、平成5年3月、九州大学出版 会、 43‑60頁)を参照願いたい。
(4)ソクラテスが「ソフィストからの学び」が「教養のため」のものではないかと示唆する際の、
彼の言い回しの慎重さには十分注意する必要があろう。つまり、正確に言えば、ソクラテスは ヒポクラテスがソフィストからの学びを読み書きや音楽の教師などからの学びと同様の、つま り「教養のため」のものとして受け取っているのではないかと、こう尋ねることによって、ヒ ポクラテスに示唆を与えている。それは無論、ソクラテスその人がソフィストからの学びをそ のまま「教養のため」とは理解していないからであろうが、しかしソフィストの活動が成立し ている地平は、 「教養とは何か」が問われうる地平ではある。
(5)テキスト上においても、 「君の魂を〜に委ねる」という言い方と同時に、 「君自身を〜に委ねよ うとする(hoi melleis sauton epitrepein, 313C2)」という言い方が用いられている。
(6)拙稿「行為と知‑プラトン『プロタゴラス』篇を中心に‑」 (『長崎大学教養部紀要第37巻 第2号、平成8年)を参照されたい。
(7) 「先に私が述べたことが真実である以上、その事柄、つまりアレテ一に関しては、もし国家が 存立するとすれば、誰一人として素人であってはならないということは特段驚くにあたらない」
(326E7‑327A2)というプロタゴラスの言葉と、 『弁明』の「本当に正義のために闘い、少しの 間でも命を全うしようとすれば、人は必ず素人としてあるべきであって、公人として働くべき ではないのです」というソクラテスの言葉とは、両者の立場の異なりを鮮やかに示すものであ ることを最初に指摘したのは、前掲のTaylorのProtagoras注釈に対する神崎繁氏の書評(『西 洋古典学研究』 XXXI, 1983, pp.132‑135)である。なお、上記の箇所は、 「素人であってはな らない」という否定形であるが、 327C6でははっきりとこの事柄(アレテ‑)の専門家 (demiourgon toutou tou pragmattos)という言い方になっている。
(8)プロタゴラスが「すべての人々はすべての人々がアレテ一に与る(与らねばならない)」と主
張する場合、その説得力は、実は彼がそのとき用いているmetecheinという言葉の持っ或る微 妙さに依存しているようである。ここではプラトンのイデア論における用法は除外するとして も、それは「多数のもの」が「或る一つのもの」と何らかの関係にあることを意味する言葉で あろう。我々は様々な言動に際し、 「正しさ・不正」や「思慮深さ・放埼」という言葉で評価 し非難することにおいて、確かに「正しさ・不正」や「恩慮深さ・放埼」に関わるといってよ い(その意味で我々はすべてアレテ一に与ると言ってよい)。しかしプロタゴラスは、その事 実に強く所有関係を読み込むことで、その主張を支えていると思われる。
(9)プロタゴラスがすべての人々がアレテ一に与ることが「国家社会が存立する」条件であること を語る箇所は数多くある。 322D2‑3, 323A3‑4, 324El, 327Al, 327A4などを参照されたい。
(10)この点に関しては、前掲の拙稿「行為と知」とともに拙稿「『勇気』 ‑の問い‑プラトン
『プロタゴラス』篇の問題‑」 (『長崎大学教養部創立30周年記念論文集』、平成7年、 pp.341‑
366)を参照のこと。
(1997年6月16日受理)