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シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方 : 1932年まで

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(1)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方 : 1932年まで

その他のタイトル Changes in the Constitution of the 'Legacy' of Sismondi and Its Depositories Until 1932

著者 小池 渺

雑誌名 關西大學經済論集

巻 44

号 5

ページ 899‑923

発行年 1995‑01‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/14036

(2)

8 9 9  

論 文

シ ス モ ン デ ィ の 「 遺 産 」 の 構 成 上 の 変 化 と 行 方

‑1932

年 ま で 一 一

小 池 櫛

I .  

は じ め に

前稿において私は, シスモンディの「遺産」にはどのようなものがあるの か,またそれらはいかなる時代にどのようにして形成されたのか,などといっ たことについて概説した1)。本稿はそれに続いて,

1932

年までの時期における 彼の「遺産」の構成上の変化と行方を探ろうとするものである丸

ここで

1932

年というのは, サリスの筆になるシスモンディ伝

3 )

が公刊された 1)小池撒「シスモンディ研究序説ー一ーシスモンディの生涯と彼の遺産」(上)(中)(下)

(完),『関西大学経済論集」第

4 2

巻第

6

1 9 9 3

3

月;第

4 3

巻第

3

1 9 9 3

8

;第

4 3

巻第

5

1 9 9 3

1 2

月;第

4 3

巻第6号

1 9 9 4

3

2)

本稿は,

1 9 9 1

9

2 1

日開催の経済学史学会関西部会第

1 1 7

回例会における私の報告

「シスモンディの著作をめぐって一ーペッシャ町立図書館所蔵のシスモンディ・コレ クションを中心に」(これの要旨は「経済学史学会年報」第

3 0

1 9 9 2

1 1

159 1 6 0

ページに掲載されている)のごく一部分を敷術したものである。その報告の際に は京都産業大学の橋本比登志教授から,あるイタリア人名の読み方にかんして貴重な ご指摘を賜った。地名をも含めて一般にイタリア語の固有名詞の読み方等については,

のちに,本学の鶴嶋雪嶺教授を煩わせて紹介していただいたトリーノご出身の大阪外 国語大学外国人教師

( 1 9 9 2

年当時の職名)アントニェッタ・パストーレ

( A n t o n i e t t a P a s t o r e )

氏にもお教えを仰いだ。 これら

3

名の先生方には改めて感謝の意を表した

い。ただし,本稿におけるイタリア語の固有名詞の日本語表記法は,

1 9 9 4

年の

3 5

月に再訪したベッシャ

( P e s c i a )

の人々の発音上のパフォーマンスをも考慮に入れな がら私自身が案出したものである。

3)  J e a n ‑ R .   d e  S a l i s ,   S i s m o n d i ,   1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,   l a  v

e tI '

四 ゆ

red'

c o s m o p o l i t ep h i ‑

l o s o p

P a r i s , 1 9 3 2 .  

(3)

900 

闊西大學「継清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

年のことである。その年を目安にしてシスモンディの「遺産」の構成上の変化 と行方のプロセスに区切りを設けるのは,さしあたりは,同書がシスモンディ 研究史上の一大記念碑とされてきたからである。では,なぜサリスの伝記はそ のようなものとしてとり扱われてきたのか。これにはさまざまなわけがあるの であろう。だが,きわめて外在的なこととはいえつぎのような事情も幾らかは 関係しているのではなかろうかと思われる。すなわち, シスモンディの「遺 産」の構成上の変化は基本的には

1 9 3 2

年までに遂げられており,同年よりあと には彼の「遺産」の構成ばかりでなくそれの所在地

4 )

にも重大な変更はみられ なかった, と。そしてまさにこのことが,

1 9 3 2

年までの時期に限定して彼の

「遺産」の構成上の変化と行方とに探りを入れようとする根本的な理由なので ある。

ただしそうする際には,シスモンディが彼の存命中にみずから公にしていた 作品は,これをはじめから調査の対象の外におくことにする。前稿に示したよ うにシスモンディの「遺産」は,彼の生前には公にされていなかった彼自身の 作品と,彼自身が公にしていた作品と,彼が受けとって後世に伝えた文書類と に大別することができるのであるが,そのうちの第 2の作品群の構成は,彼の 死の時点ですでに最終的に固定化されてしまっていたのであって,爾後には金 輪際変化の仕様がなかったからである。と同時に,この作品群に属する彼の著 書やパンフレットや雑誌論文や新聞記事等の所在は,世界中の図書館の所蔵文 献にたいして木目細かな情報網が張りめぐらされている今日においては比較的 簡単につきとめることができるであろうと思われるからでもある。つまり,彼 の「遺産」の中の第

2

の作品群の場合には構成上の変化と行方とを問題にする 必要が認められないのである。

だがしかし,同じシスモンディの「遺産」の中でも第

1

の作品群と第

3

の書

4)

シスモンディの「遣産」の所在地とはいっても,それは,国または市町村のレヴェル でのことなのであって,そこに存在するたとえば図書館等の施設や個人の家屋のレヴ ェルでのことではないのである。

(4)

シスモンディの「遣産」の構成上の変化と行方(小池)

901 

類群とについてはそうはいえない。これら

2

つの群に属する手書きの書類,た

とえば彼の日記,手紙,覚え書き,抜き書き,さまざまな種類の習作,著書や 論文等の下書き原稿,講義用原稿,遺言状,それに彼あての手紙,彼の父親や 母親や妹の書類,等々がそっくりそのままの形で残っているのかどうか,残っ ているとすればどこに保存されているのか,などといったことは既成のレファ レンス・プックやデーク・ベースによってはほとんどまったく知ることができ ない。それらのことを知るためには,当の手書きの書類群の構成上の変化を,

そしてさらには構成要素の行方を辿ってみなければならない。ところが上述し たように,

1 9 3 2

年よりあとにはシスモンディの「遺産」の所在地と構成とに大 きな変化はみられなかった。とするならば,なによりもまず同年までの時期に 視野を限定して彼の「遺産」の,とはいっても事実上はその中の第

1

と第

3

の手書きの書類群の,構成上の変化と構成要素の行方とを探索してみる必要が ある,ということになるであろう。しかもそうすることは,

1 9 3 2

年の時点で利 用可能であったかぎりでの彼の「遺産」のみに依拠したサリスのシスモンディ 像を相対化するための,基礎的な作業の

1

つでもあるのである。

以上のようなわけで,本稿においてはシスモンディの「遺産」の中でもとく に彼の生前には公にされていなかった彼自身の作品と,彼が受けとって後世に 伝えた文書類とをとりあげて,

1 9 3 2

年までの時期におけるそれら手書きの書類 群の構成上の変化と構成要素の行方とを探ってみることにする。もう少しだけ 詳しくいえば,本稿の

J I

では彼の日記の破棄ないし焼却をはじめとする問題の 書類群の構成上の基本的な変化に, そして皿ではサリスによって提示された

「シスモンディの手紙と草稿の保管所」一覧に基づきながら個々の書類の所在 に,それぞれ探りを入れてみようというのである。その結果は最後のIVにまと められる。この節においては同時に,続稿の中心課題が示されることにもなる であろう。

1 5 9  

(5)

9 0 2  

闊西大學「純漕論集』第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

I I .   シスモンディの「遺産」の構成上の基本的な変化

そもそもシスモンディが

1 8 4 2

6

25日 に ジ ュ ネ ー ヴ 郊 外 の シ ュ ー ヌ ( C h e n e )

において

6 9

歳の生涯を閉じたとき,ひとは彼からどのような「遺産」

をどれだけ受けとっていたのであろうか。残念ながらこの疑問を解消させるこ とはとうていできそうにない。彼の「遺産」のすべてを網羅するような目録が 彼自身によって,またはあの当時のほかの誰かによって作成されていたという 形跡は,これまでのところどこにも認められないからである。

確かにサリスのシスモンディ伝には,「〔1

8 4 2

5

29

日と

3 1

日に彼(シス モンディ〕はみずからの作品の目録をつくった」

5 )

と記されている。また,その

「目録」の第三者による「摘要」がシスモンディの死の少しあとに公表されて もいる6)。 だがそれらの「摘要」をみるかぎり,当の「目録」は,主として著

5) S a l i s ,  i b i d . ,   p .   4 6 3 .  

ただし,〔 〕内は引用者による解説一~この点は以下において も同様である。なお,引用文中の「目録」は,つぎの文献によれば現在ペッシャの町 立図書館

( B i b l i o t e c aComunale)

に保存されているようなのであるが, それを閲 覧する余裕は私にはなかった。

Aldo G .  R i c c i ,  L ' A r c h i v i o   S i s m o n d i ,   A r c h i v i   e  c u l t u r a ,  r a s s e g n a  d e l l ' A s s o c i a z i o n e   N a z .   A r c h i v i s t i c a  I t a l i a n a ,  X I I I ,  g e n n a i o ‑ d i c e m b r e  1 9 7 9 ,  p .   1 3 0 ,  

6)

当該「摘要」は, つぎの諸文献において公表された。〔

DavidF r a n 9 o i s  M u n i e r ,

N o t i c e  s u r  J . ‑ C . ‑ L .  d e  S i s m o n d i ,  ( E x t r a i t  d e  ! ' A l b u m  d e  l a   S u i s s e  ro~nde — Mai 1 8 4 3 ) ,  s .   d . ,   p p .  3 ‑ 4   e t   1 7 ‑ 1 9 ;  P o l i t i c a l   E c o n o m y ,   and t h e  P h i l o s o p h y  of  G o v e r n m e n t :  A S e r i e s  of E s s a y s  S e l e c t e d  from t h e   Works of  M d e  S i s m o n d i ,   L o n d o n ,  1 8 4 7 ,  p p .  

4 5 7

4 5 9 .

これら

2

点の文献のうちの後者は, それの刊行の

1

世紀余りのちにつぎのようなタイトルのもとに覆刻されることになった。

P o l i t i c a l   Economy and t h e  P h i l o s o p h y  of G o v e r n m e n t :  S e l e c t i o n s  from t h e   W

t i n g sof  J .   C .   L .   Simonde d e  S i s m o n d i ,  New Y o r k ,  1 9 6 6 .  

また,本注の最初に掲げた文献

1718

ページと

1 9

ページとにみられる

' T a b l e a u c h r o n o l o g i q u e   d e s   o u v r a g e s   d e  S i s m o n d i '

' O p u s c u l e sd e  S i s m o n d i '

とは, いっそうの簡略化を被りながら

もつぎの文献に再録されることとなった。

J e a n ‑ R .de S a l i s ,  S i s m o n d i ,   1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,   l e t t r e s  e t   d o c u m e n t s  i n e d i t s ,  s u i v i s  d ' u n e  l i s t e  d e s  s o u r c e s  e t  d ' u n e   b i b l i o g r a p h i e ,   P a r i s ,  1 9 3 2 ,  p p .  6 8 ‑ 6 9 .  

ちなみに,この文献の〔

61)67

ページにはサリス自身の作成

にかかるシスモンディの著作の目録が掲載されている。その目録こそ,今日までの長

(6)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方(小池)

9 0 3  

書のクイトル,出版地,巻数,版型,出版年等を明示しながら彼の生涯にわた

る著作活動を年代順に記録し,あわせて雑誌論文の抜刷とパンフレットとのタ イトルの数を主題別にまとめたものにすぎないのであって,そこには「自由な 諸人民の政体にかんする調査研究」以外の彼の未公開の作品は,恐らく

1

点も 採録されていなかったのではなかろうかと思われる。彼が受けとって後世に伝 えることになった文書類ともなれば,もはやすべてが別人の「作品」であった はずである から, そのようなものが死の数週間前のシスモンディの手になる

「みずからの作品の目録」にぜんぜん盛り込まれていなかったとしてもけっし て不思議なことではないであろう。したがってその「目録」は,本節の冒頭に 掲げた疑問を解消させてくれるものではなかったに相違ない。彼が死去した時 点における彼自身の「遺産」の,とりわけ彼の未公開の作品と彼が受けとって 後世に伝えた文書類との細目については,現在のところ知るよしもないのであ

とはいえ,その中にはまぎれもなくシスモンディの自筆の日記がみいだされ えた。この点については幾つかの積極的な証言が残っている。それよりなによ

1 8 5 7

年には彼の日記の「諸断片」が公にされていた8)。 これらのことから はさらに,その日記の現物の行方を追求してみようとする向きが現われたとし ても当然であろうとさえ思われる。事実,イタリアの研究者ベルナルディーニ

・スタンゲッリーニ

( M i r e n aB e r n a r d i n i  S t a n g h e l l i n i )は

1970

年開催の「シス モンディ国際シンポジウム」での報告のために彼女自身が作成したといわれる

い間にわたって,例の「摘要」をはるかに凌ぐシスモンディの著作目録の決定版とみ なされてきたものなのである。だがしかし,それには正確さの点でも網羅性の点でも 改善の余地が残されていないわけではない。そこで私は別の機会に,サリスによって 作成されたその目録に手を加え,一段と充実した内容のものを披露したいと考えてい

7)

この点については前掲の拙稿(完),

1 0 9

ページ,注

6 8

を参照されたい。

8)

シスモンディの日記の「諸断片」は, つぎの文献において公にされた。

J . C .L .  de 

S i s m o n d i ,  Fragments d e  s o n  j o u r n a l  e t   c o r r e s p o n d a n c e ,  G e n e : v e  e t  P a r i s ,  1 8 5 7 ,  

p p .  

6 5

7 1e t   7 8 ‑ 1 0 7 .  

(7)

9 0 4  

隅西大學「紐清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

署名入りのディスカッション・ペイパーにおいて,つぎのような提案を試みた ことがあった。すなわち,「〔シスモンディの)日記にかんしては,当該歴史家 の親戚にあたると同時に彼の親友でもあったボッスィ伯爵 Cママ)の子孫のあ たりに,少しばかり探りを入れてみるとよいかもしれない(といっても彼らが まだ生きていたらの話であるが)。彼は死ぬ直前に, 遺言状の中で, シェーヌ の家をボッスィ伯爵に遺贈すると述べていたのであるから」

9 ) ,

だがしかし,その提案をやがて彼女はみずから撤回することになった

1 0 )

。け だし,シスモンディの自筆の日記は彼の死後に破棄されてしまったのだという 諸証言を,信憑するに足るものと認めることができたからであろう。私自身も 当面のところはそれらの証言に基づいて,彼の日記の現物はすでに破棄ないし 焼却されてしまっているのだと考えている。

だが,破棄ないし焼却の時期については必ずしもはっきりとしたことはわか らない。サリスはこれを「

1 8 5 3

年」と推定している

1 1 )

。「

1 8 5 3

年」 といえば,

シスモンディ夫人ジェスィー・アレンが他界した年であった。彼女は夫が死ん でしばらくすると,恐らくは彼の日記を携えて,彼女自身の母国であるイギリ

9) Mirena B e r n a r d i n i  S t a n g h e l l i n i ,  L ' A r c h i v i o  S i s m o n d i  n e l l a  B i b l i o t e c a  c i v i c a   d i   P e s c i a ,  

1 9 7

p .4 .  

このディスカッション・ペイパーの現物は, ペッシャの町 立図書館に保存されている(整理番号:

M ‑ 4 ‑ 2 6 )

。なお,引用文中の「遺言状」のく だりについて詳しくはつぎの文献を参照されたい。

J . C .  L .  de S i s m o n d i ,  Second  c o d i c i l l e  du 2 1   j u i n  1 8 4 2 ,  r e p r o d u i t  p a r  S a l i s ,   S i s m o

i , 1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,  l e t t r e s  e t   d o c u m e n t s  . . .  ,  p .   3 9 .  

1 0 )

本文中にひきあいにだした「シスモンディ国際シンボジウム」の3年後にそれの記録 が公にされたのであるが, つぎに掲げるベルナルディーニ・スタンゲッリーニの報 告記録の部分には, もはや問題の提案はみることができない。

MirenaB e r n a r d i n i   S t a n g h e l l i n i ,   L ' A r c h i v i o   S i s m o n d i   n e l l a   B i b l i o t e c a   c i v i c a  d i   P e s c i a ,  n e g l i   A t t i   d e !   c o l l o q u i a  i n t e r n a z i o n a l e  s u l  S i s m o

( P e s c i a ,8 ‑ 1 0  s e t t e m b r e  1 9 7 0 ) ,   Roma, 1 9 7 3 ,  p p .  

2 4 7

2 5 5 .

1 1 )  C f .  S a l i s ,  S i s m o

i ,1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,  l a   v i e  e t  ! ' m u v r e

…, 

p .   3 7 7  n .   3 .  

ただし,サリス の推定の根拠は必ずしも十分なものではない。というのも彼は,本稿の後注

1 4

に掲げ る文献を唯一のよりどころとしているからである。

(8)

シスモンディの「迪産」の構成上の変化と行方(小池)

9 0 5  

スにひきあげていった。 そうして, 「それらの日記は私〔ジェスィー)が死ん だら読まずにすぐに焼き捨ててほしい」との願いを託した

2

人の妹

1 2 )

に見守ら れながら,

1 8 5 3

3

3日に夫のもとへ旅立ったのであった 1 3 )

。あとに残され

2

人の妹のうちの年下のほうは,通称ファニー・アレン

(FannyA l l e n )とい

うのであるが,その彼女は姉ジェスィーの死の

3

カ月余りのちの同年

6

月1

3

にみずからの姪の

1

人に手紙を書いて,つぎのように告白することになった。

「それは痛ましいことでした。彼女〔ジェスィー) とシスモンディの日記の 破棄の件です。 とくに後者の日記についてはそう思われます(私にとっては

1 4 ) ,

と。これらのことを思い浮かべるなら,

1 8 5 3

年 」 の

3

3日から 6

月1

3

日までの間にシスモンディの自筆の日記が破棄ないし焼却されたというの は,けっしてありえないことではないと判断してさしつかえないであろう。

しかしこのように述べると,その推定はシスモンディの日記の「諸断片」が

1 8 5 7

年に公表されたという上記の事実と矛盾しないのであろうか,といった疑 問を抱く向きもあるかもしれない。そうした疑問をあらかじめ封ずるかのごと くに,サリスはこう解説している。「その日記については, 当該歴史家〔シス モンディ)の

2

人の女性の友人の鎮仰に基づく職着のおかげで惜しむぺき焼却 を免れたごく少数のバラバラの断片があるのみである。」

1 5 )

1857

年にモンゴ ルフィエ嬢 (M11•

M o n t g o l f i e r )

によって公にされた短い諸断片〔がそれであ

1 2 )  C f .   L e t t r e   de  Fanny A l l e n   a  B .  B o s s i ,  

1 8 5 7 ,

r e p r o d u i t e  en f r a n i ; a i s  p a r   B .   B o s s i ,   Monsieur  l e   R

a c t e u r , C o r r e s p o n d a n c e  du J o u r n a l  d e  G e n e v e :   N a t i o n a l ,   P o l i t i q u e   e t   L i t t e r a i r e ,  n ° 1 3 0 ,  28• a n n e e ,  mardi 2  j u i n  1 8 5 7 ,  p .   3 .  

本文中の引用は, この文献からのものである。

1 3 )

ジェスイー・アレンの臨終の場面については,つぎの文献に引用されているドクター

・ダイスター

(DrD y s t e r )

の証言に依拠した。

H e n r i e t t aL i t c h f i e l d  ( e d . ) ,  Emma  Darwin: A C e n t u r y   of F a m i l y   L e t t e r s ,   1 7 9 2 ‑ 1 8 9 6 ,  L o n d o n ,  1 9 1 5 ,   v o l .   2 ,   p .   1 5 2 .  

1 4 )  L e t t e r   o f   Fanny  A l l e n  t o   h e r  n i e c e  E l i z a b e t h  Wedgwood, Heywood L a n e ,   1 3 t h  June 

1 8 5 3

i ni b i d

→ 

e d .  L i t c h f i e l d

● 

v o l .  2 ,   p .   1 5 3 .  

1 5 )  S a l i s ,   S i s m o n d i ,  1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,  l a   v i e  e t   l ' c e u v r e  . .  

, 

p .  

(9)

9 0 6  

闊西大學『経清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

1 6

りと。

サリスによるこの解説は,それより半世紀余り前の

1 8 7 6

年にヴィッラーリに よって試みられていたつぎのような説明,すなわち「それ(シスモンディの日 記〕は彼の死後に破棄された。とはいってもひとは幾つかの断片をそのまま残

しておいたのであって,これらの断片が

1 8 5 7

年に……ジュネーヴで公表される こととなったのである」

1 7 )

という説明を, いっそうあからさまに, というか詳 しくいいかえたものであろう。けれどもこのサリスの解説に目を通した読者は そこからさらに,シスモンディの日記がまだ「焼却」されないうちにそれの幾 つかのページが彼の「女性の友人」の

1

人によって秘かにちぎりとられ,そう してくすねられた諸「断片」が「

1 8 5 7

年にモンゴルフィエ嬢によって公にさ れ」ることになったのであろう,といった具合に思いの翼を広げてみたくはな らないであろうか。かりにそうなるとしたら,サリスのこの解説はなおかつ十 分なものではないといわざるをえない。なぜなら,問題の「諸断片」の公表の 事実を知ったファニー・アレンが時を移さずボッスィ侯爵に書き送ったといわ れる手紙によれば,その「諸断片」は実際にはシスモンディの自筆の日記それ 自体の諸断片ではなかったのであって, これのモジョン夫人 (Mm•

Mojon)

よる写しであった

1 8 )

からである。引用者でもあるボッスィ侯爵自身によってフ ランス語に翻訳されたその手紙には, こう書かれているのである。「私たちの 姉(ジェスィー〕の無罪を宣言しておかなければなりません。そうしないと彼 女には,夫の信頼を裏切って彼の日記をモジョン夫人に好き勝手に抜き書きさ せたという嫌疑がかけられることになるかもしれないからです。あの写しは 私たちの姉の知らぬ間に書きとられたものなのです。彼女の生涯の中で,かり そめにも夫の日記の諸断片がいつか公にされてしまうのではないかしらと思っ

1 6 )   l b

絋,

p . 3 7 7 .  

1 7 )  P a s c a l   V i l l a r i ,   Une c o n v e r s a t i o n   de Napoleon  r•r e t   de S i s m o n d i ,  Revue 

h i s t o r i q u e ,  1  re  a n n e e ,  tome 1 ,   j a n v i e r ‑ m a r s  1 8 7 6 ,  p .   2 4 1 .  

1 8 )

この点は,公表された「諸断片」の最初のページによっても確認することができる。

C f .  S i s m o n d i ,  Fragments  . . .  ,  p .  

6 5

(10)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方(小池)

9 0 7  

たことがあったとしたなら,そのときほど彼女にとってつらかったことは,き っとなかったに違いありません。私は覚えています。パリから戻ったときに私 たちの姉は,いましがたシスモンディ夫人が拾い読みしてくれたばかりの箇所 をもっと注意深く読みなおすためと称してモジョン夫人が彼女の部屋に日記を もってゆこうとするのを,断るだけの機転がきかなかったといって悔んでおり ました(シスモンディ夫人はパリではモジョン夫人の家に泊まっていた—ボ ッスィ侯爵による注記〕。モジョン夫人が筆写しえたのは,あのときをおいて ほかにありません」

1 9 ) ,

こうして私たちは,シスモンディの日記の「諸断片」が1857年に公にされた という事実との矛盾のおそれを払拭し,安んじて,

1 8 5 3

3 月 3日から 6 月 1 3

日までの間に彼の自筆の日記が破棄ないし焼却されたと考えることができるよ うになったであろう。

にもかかわらず私は,シスモンディの自筆の日記がいつ焼却ないし破棄され たのかは必ずしもつまびらかでないと前述した。それは,彼の日記のすべてが いま推定した時期に破棄ないし焼却されたとはいい切れないからである。とい うよりむしろ,彼の日記の中には別の時期に焼却されたものもあるのではなか ろうかという思いを断つことができないからである。

たとえば,先の「諸断片」の公表の際にみずから進んで「まえがき」を執筆 したとみられるジュネーヴのシュヌヴィエール教授

( P r o f e s s e u rC h e n e v i e r e )の

未公表の覚え書きにはボッスィ侯爵を非難したくだりがあるらしく,サリスに よるとそこには,「〔侯爵は)日長の

1

日を費やしてシスモンディの自筆の書類 を焼き捨てた」

2 0 )

と書かれているようである。また, 2年間に及ぶ生前最後の

1 9 )  L e t t r e   d e   Fanny A l l e n   a  B .  B o s s i ,  

1 8 5 7 ,

r e p r o d u i t e  en  fran~ais p a r  B .  

B o s s i ,   o p .   c i t . ,   p .   3 .  

2 0 )  Note  a u t o g r a p h e   i n e d i t e   du p r o f e s s e u r  C h e n e v i e r e ,  r e p r o d u i t e  p a r  S a l i s ,   S i s m o n d i ,  1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,   l a  v

e tl ' m u v r e

…, 

p .   3 7 7 n .  2 .  

なお, この覚え書きをサリ

スがひきあいにだしたのは,モンゴルフィエ嬢ばかりでなくシュヌヴィエール教授も またシスモンディの日記の「諸断片」の公表者の

1

人であった, とみていたからであ る。しかも,ほかのところでサリスが引用している同じ覚え書きの中の別の一節を読

(11)

9 0 8  

閥西大學「継清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

ペッシャ滞在を心ゆくまで楽しんだあとの1

8 3 8

3

月に同地のヴァルキューサ

( V a l c h i u s a )の屋敷からシェーヌの自宅に戻る際にシスモンディ自身が書き残

していったデスィデーリ夫妻

( M r .e t  Mad. E .  D e s i d e r i )

あての手紙の追伸に こう記されてもいる。「アンリエットゥ

( H e n r i e t t e )

〔シスモンディの母 親)が使っていた部屋の白木の整理筑笥の中に母と私の秘密の書類を入れてゆ きます。鍵は私の黒い机の中にあります。ついてはわが子デスィデーリ夫妻へ のお願いです。それらの書類は私が死んだら読まずに全部焼き捨ててしまうよ うにとり計らってください」

2 1

りと。これらの「書類」,すなわちボッスィ侯爵 が焼却したといわれる「シスモンディの自筆の書類」とシスモンディ本人がそ の死後における焼却を指示した「秘密の書類」とには,彼自身の日記が含まれ ていなかったのであろうか。否とは断言しえないであろう。もちろんそうだか らといってただちに,含まれていたときめつけるわけにはゆかない。しかしな がら,それらの「書類」はきわめて私的な性格のものであったはずである。と すれば,そこには彼の自筆の日記は含まれていなかったと考えるよりもそれが 含まれていたと考えるほうが,いっそう自然なのではないだろうか。このよう なわけでひとまず,それらの「書類」には彼の自筆の日記が含まれていたと前 提してみることにする。

そうすると今度は,いつ焼却されたのかということになる。これまたわから ない。とくにシスモンディがデスィデーリ夫妻にたいして彼の死後に焼却の処

んでみると,そこにはシスモンディ夫妻の間での意見の不一致点にかんして, 例の

「諸断片」に添えられた無署名の「まえがき」にみられるのとまったく同じ内容のこ とが述べられていた。これらのことから私は,その「まえがき」の執筆者はシュヌヴ ィエール教授であろうと判断したのである。この点について詳しくはつぎの2点の文 献を比較対照されたい0

I b i d . ,  p .   3 8 2  ;  A  v a n t ‑ p r o p o s   a  S i s m o n d i ,  Fragments

…, 

p .   V J [ .  

2 1 )   J .   C .   L .  de  S i s m o n d i ,   I n s t r u c t i o n s   p o u r   M r .   e t   Mad.  E .   D e s i d e r i   pour 

! ' a d m i n i s t r a t i o n   de  l a   campagne d e   V a l c h i u s a ,   V a l c h i u s a   1 2   mars  1 8 3 8 ,  

r e p r o d u i t e s   p a r   M a r g h e r i t a   C h i o s t r i ,   V a l c h i u s a   r a c c o n t a

…, 

u n o   s g u a r d o  

a l  p a s s a t o ,  un j i o r i r e  d i  m e m o r i e ,  P e s c i a ,  

1 9 8 9 ,

p .   9 7 .  

(12)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方(小池)

909 

置をとるようにと指示していた「秘密の書類」の場合には,それらが本当に焼 き捨てられることになったのかどうかという点からしてが定かではない。とは いうものの,シスモンディとデスィデーリ夫妻とは相互に親子同然の関係にあ ったらしいから,後者が前者の指示に忠実にしたがって彼の死後にその「秘密 の書類」を

1

片も残さずに灰に帰せしめたであろうことは,けっして想像に難 くない。しかも,その指示がシスモンディ本人から直接デスィデーリ夫妻に与 えられたものであってみれば,件の「秘密の書類」の焼却はシスモンディ夫人 の死をまたずに実行されたのではなかろうかとさえ思われてくる。つまり,

1853

3

3日 6

月1

3

日とは異なった時期におけるシスモンディの日記の一 部分の焼却の可能性を否定することができないわけなのであり,したがってま た,彼の日記の焼却ないし破棄の時期については必ずしもはっきりしたことは わからないといわざるをえないわけなのである。

なお,いま引用したシスモンディの置き手紙の追伸は,短いながらも,彼の 日記の焼却ないし破棄はシスモンディ夫妻のうちのどちらの指示によるもので あったのかという問題をめぐる従来の諸見解の再検討または再解釈を迫るほど の衝撃力を有している。 というのも, そこにおいてシスモンディがみずから

「母と私の秘密の書類……は私が死んだら読まずに全部焼き捨ててしまうよう にとり計らってください」と指示していたことに鑑みるなら,そしてその「秘 密の書類」には彼の自筆の日記が含まれていたとするなら,つぎに紹介するサ リスらの見解はシスモンディの日記のすべてにあてはまるものとはいえなくな ってしまうからである。その見解とは,すなわち, 「校訂刊行者の不作法をお それてそれ(シスモンディの日記〕が破棄されることを望」み, かつ「命じ た」のは「夫人」のほうであったのであって,シスモンディ自身は彼の「遺言 状」に「そうした指示」を書きつけるどころか,「自分の日記がいつの日にか後 世の人々によって知られるようになることを期待して」すらいたのである

2 2 ) ,

2 2 )

この一節はつぎの文献に述べられていることを,そっくりそのままの形での引用を交 じえながら私自身がまとめたものである。

S a l i s , S i s m o n d i ,   1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,   l a   v i e   e t  

(13)

9 1 0  

闊西大學『鯉清論集』第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

というものである。また,同じ「秘密の書類」にシスモンディの自筆の日記が 含まれていたとしてもそれは彼が書き残した日記の一部分でしかなかったと いうことを念頭に置くならば,「彼の厳命により, それは彼の死後に破棄され

2 3 )

というヴィッラーリの見解のほうも, シスモンディの日記のすべてにつ いて述べたものとは解釈しえなくなってくる。そこで,これらの見解の中の信 憑に値する部分のみを抽出してそれを組み合わせてみることにしよう。そうす ると,シスモンディの日記の一部分は彼の夫人の,そして残りの部分は彼自身 の指示によって破棄ないし焼却されたのだという現実像が浮かびあがってくる であろう

2 4 )

ところで,いま再びとりあげたシスモンディのいわゆる「母と私の秘密の書 類」と先のボッスィ侯爵が焼き捨てたといわれる「シスモンディの自筆の書 類」とは,いずれもきわめて私的な性格のものであった。しかもシスモンディ 夫妻のどちらか一方,または双方にとってはひとに読んで欲しくない内容のも のであった。とするならば,それらの「書類」にはシスモンディの日記の一部 分ばかりでなく母親あての彼の手紙とその下書き,老若男女を問わず親友あて の彼の手紙の下書き,彼あての親友からの手紙,彼あての母親からの手紙,な

どの一部分も含まれていたのではなかろうかと考えられる。

l ' c e u v r e  . . .  ,  p

V l 1

e t  p .   5 2  n .   4 .  

この種の見解は,ファニー・アレンをもって嘴矢 とする。彼女の所見は前注

1 2

1 4

に掲げた手紙に述べられている。とくに後者の注に 掲げた彼女の手紙には編者による解説が添えられており,そこにはファニー・アレン の姪の

1

人であるエマ・ダーウィンの同様の見解が紹介されている。その編者解説を もあわせて参照されたい。

2 3 )  V i l l a r i ,  o p .   c i t . ,   p .   2 4 1 .  

2 4 )

ちなみに私は,シュヌヴィエール教授によって非難されたようにボッスィ侯爵が本当 に「シスモンディの自筆の書類を焼き捨てた」のだとすれば,それはシスモンディ夫 人の指示にしたがってのことであったろうと考えている。この点はボッスィ侯爵あて の彼女の委任状によって裏づけることができるかもしれないと思い,

1 9 9 4

4

月にそ れ を 所 蔵 す る ジ ュ ネ ー ヴ 市 役 所 の 官 庁 記 録 保 管 所

( A r c h i v e sd ' E t a t )

を訪ねてみ た。だが,その文書は探しだすのに時間がかかるといわれて閲覧を諦めざるをえなか った。

(14)

シスモンディの「逮産」の構成上の変化と行方(小池)

911 

とりわけ母親あてのシスモンディの手紙とその下書きとの一部分が焼却ない し破棄という形で処理されたであろうことは,現存することがすでに確認され ている両者間の往復書簡の数および日付の著しいアンバランスからもうかがい 知られるに相違ない。イクリアの研究者リッチによって公表されたペッシャ町 立図書館所蔵のシスモンディ・コレクションの目録と,キオーストゥリ

( M a r ‑ g h e r i t a   C h i o s t r i )

によって公にされたシスモンディ書簡集とに依拠するなら,

彼あての母親からの手紙が全部で

469

点も現存するのにたいして母親あての彼 の手紙とその下書きのほうはわずかに

96

点しか残っていない。しかもそれらの うちの前者の手紙の日付が「

1799

4

14

日」に発して「

1821

5

26

に及ぶのにたいし,後者の手紙とその下書きの日付は「

1800

5

20

日」から

1812

9

1 7

日」までと「

1815

年」とに局限されている

2 5 )

。なるほどサリス

2 5 )

詳言するなら, リッチが公表した当該コレクションの目録にみいだされるシスモンデ ィあての母親からの手紙の日付と点数は.

1 7 9 9

4

1 4

1821

2

1 9

日」付の

4 6 8

」点, ならびに「

1 8 2 1

5

2 6

日」付の

1

点であるのにたいして,母親あての 彼の手紙の「下書き」のほうは「

1 8 0 0

5

2 0

1810

3

3 1

日」付の

1 9

点,「

1 8 1 0

4

1 4

1812

9

1 7

日」付の

1 5

点,および「

1 8 1 5

1

1

日〜日付なし」の

4 4

点のみである。

C f .R i c c i ,  o p .   c i t . ,   r i s p e t t i v a m e n t e  p p .   1 3 3 ,  1 4 0 ,  1 2 8   e  1 2 4 .  

また,

キオーストゥリが公にしたシスモンディ書簡集に収められている母親あての彼の「手 紙」は「〔

1 8 0 8

年〕

4

1

日」〜「

1 8 0 8

7

7

日」付のもの

1 8

点にすぎない。

C f .J . C .   L .   Simonde de S i s m o n d i ,  Un v i a g g i o  d ' a l t r i   t e m p i ,   1 8   l e t t e r e ‑ d i a r i o ,   i n t r o d u ‑

・ z i o n e  e  commento d i  M a r g h e r i t a  C h i o s t r i ,  P e s c i a ,   1 9 8 3 ,   p p .   4 9 ‑ 1 2 6 .  

なお,母親 あてのシスモンディの「手紙」はこれ以前にも

3

度にわたって公にされていた。

1

目は「

1 8 1 1

年」〜「

1 8 2 1

年」付の

1 5

点のものが彼の日記の例の「諸断片」とともに公 表された。

C f .S i s m o n d i ,  F r a g m e n t s

…, 

p p .   7 1 ‑ 7 8 .   2

度目には「

1 8 1 5

1

8

1 8 1 5

8

19 22

日」付の

4 0

点がヴィッラーリによって公にされた。

C f .L e t t r e s   d e  S i s m o n d i  e c r i t e s   p e n d a n t  l e s   C e n t ‑ J o u r s ,  p u b l i e e s  p a r  P .   V i l l a r i ,   R e v u e   h i s t o r

u e , 2 e   a n n e e ,  t .   3 ,   j a n v i e r ‑ a v r i l   1 8 7 7 ,   1 r e   f a s c . ,   p p .   8 6 ‑ 1 0 6 ,   e t   2 e   f a s c . ,   p p .   3 1 9 ‑ 3 4 5 ;   t .   4 ,   m a i ‑ a o u t   1 8 7 7 ,   1 r e   f a s c . ,  p p .   1 3 9 ‑ 1 5 3 ,   e t   2 e   f a s c . ,  p p .   3 4 7 ‑ 3 6 1 ;   t .   5 ,   s e p t e m b r e ‑ d e c e m b r e   1 8 7 7 ,   2 e   f a s c . ,   p p .   3 4 7 ‑ 3 6 0 ;   3 e   a n n e e ,   t .   6 ,   j a n v i e r ‑ a v r i l   1 8 7 8 ,   pe  f a s c . ,  p p .   1 0 6 ‑ 1 2 9 .  

そして

3

度 目 は 「

1 8 1 1

8

3 0

日」〜

1 8 1 3

5

2 3

日」付の

8

点と「

1 8 1 5

1

1

日」〜「

1 8 1 5

8

19 22

日」付の

4 4

とが,それぞれペッレグリーニ編の『シスモンディ書簡集」の第

1

巻と第

2

巻とに収

(15)

9 1 2  

閥西大學「継清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

の伝記に続くシスモンディの生涯にかんする諸研究によれば1

8 1 3

9 11

1 8 1 6

1

1817

7

月の間の断続的な諸時期,それに1

8 1 9

5

1820

4

月には彼は,ペッシャのヴァルキューサを訪れて母親とともに過ごしていたら

しい

2 6 )

から,その間の日付を有する母親あての彼の手紙やその下書きがみられ ないのは当然のことなのかもしれない。だがそれにしても

1 8 1 5

年よりあとの日 付を有するものが

1

点もみいだされえないというのは,たとえば彼が1

8 1 9

4

月にジェスィーとの

3

年越しの恋を結婚の形で実らせたことや, 彼の母親が

1 8 2 1

9

月に死去したことなどを考えあわせるなら,やはり不自然なことであ ると判を下さざるをえない。これらのことからとくに母親あての彼の手紙とそ の下書きとの一部分については,それらは彼の自筆の日記の一部分と一緒に焼 却ないし破棄されてしまったのであろうと推断してよいように思われるのであ

27)0 

ただし,母親あてのシスモンディの手紙の何点かはそれの受取人である母親 自身の判断によってすでに焼却されていたのではなかろうかとも考えられる。

められたのである。

C f .G .  C .  L .  S i s m o n d i ,  E p i s t o l a r i o  r a c c o l t o ,  c o n  i n t r o d u z i o n e   e  n o t e ,  a  c u r a  di C a r l o  P e l l e g r i n i ,  F i r e n z e ,  v o l .  

1, 

1 9 3 3 ,

p p .  3 4 5 ‑ 3 4 6 ,  3 5 3 ‑ 3 5 5 ,   4 0 2 ‑ 4 0 4 ,  4 0 8 ‑ 4 0 9  e  4 1 3 ‑ 4 1 4 ;  v o l .   2 ,  

1 9 3 5 ,

p p .  4 2 ‑ 5 8 ,  6 0 ‑ 7 5 ,  7 8 ‑ 8 3 ,  8 6 ‑ 1 1 3 ,  1 1 6 ‑ 1 3 7 ,   1 4 1 ‑ 1 7 5 ,   1 8 3 ‑ 1 8 8 ,  1 9 0 ‑ 2 0 8 ,  2 1 1 ‑ 2 1 6 ,  2 1 9 ‑ 2 2 4 ,  

2 2 6 ‑ 2 9 5 .  

これらのうちの最初・

に公表された「手紙」については, その現物の所在がこんにちなお不明のままであ る。とはいえ同じ

1 5

点の「手紙」の中の8点はそっくりそのまま「シスモンディ書簡 集」の第

1

巻に再録されることになった。この書簡集の第

2

巻には,ペッシャ町立図 書館所蔵の「

1 8 1 5

年」付の

4 4

点の「手紙」が収録されている。それらを

2

度目に公表 された

4 0

点の「手紙」とつきあわせてみるなら,後者は前者の一部分であるというこ とが判明するであろう。

2 6 )

この点についてはさしあたりつぎの文献を参照されたい。

M a r g h e r i t a C h i o s t r i ,   Sguardo  a l l a   v i t a  e  a l l e   o p e r e  d i   J .   C .  L .  Simonde d e  S i s m o n d i ,   n e l l a  s u a   V a l c h i u s a  r a c c o n t a

…, 

p p .  2 1 9 ‑ 2 2 1 .  

2 7 )

ボッスイ侯爵が焼却したといわれる「シスモンディの自筆の書類」の中に母親あての 彼の手紙,またはその下書きが何点か混じっていたに違いないという考えは,すでに サリスによってもほのめかされてはいた。

C f .S a l i s ,  S i s m o n d i ,  1 7 7 3 ‑ 1 8 4 2 ,  l a   v i e  e t  

l ' a ! U

e . . .  ,  p .  3 7 7   n .   2 .  

(16)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方(小池)

9 1 3  

フランス革命後の混乱ないしは混迷の状況に鑑みるなら,そしてまた母親あて の彼の手紙の中にときの体制をあからさまに批判したりどうみてもそれにそぐ わなかったりするようなことを述べたものがあったとしたなら,わが子の身の 安全を考慮してトスカーナ在住の慎重な母親がほかの誰の指図も受けずに彼女 自身の発意と責任においてそうした手紙を焼却してしまったとしても,それは けっして理解不可能なことではないからである。彼女にしてみればシスモン ディは,離れて暮らしてはいたものの母親を慕って,あるいは彼女の心を慰め るために,頻繁にトスカーナにやってくるかけがえのない一人息子であった。

おまけにその息子は,同地に亡命していた

1800

10

月までの丸

5

年の間に

3

も逮捕,拘禁された経歴の持ち主であったのである。

母親あてのシスモンディの手紙ばかりでなく彼がみずからの友人・知人あて に書き送った手紙の中にもまた,それの直接の受取人の,もしくはそのひとの 遺産の相続人の,独自の判断に基づいて廃棄されてしまったものがあるかもし れない。友人・知人あてのシスモンディの手紙の中には,さらに,いつの間にか 紛失してしまったというようなものもあることであろう。紛失といえば,シス モンディが受けとって後世に伝えた文書類の中にもそうした運命をたどったも のがあるようである。ほんの一例をあげるなら,彼あてのナポレオン一世から の手紙がそうである。この手紙は

1870

年代に行方がわからなくなってしまった らしいのである。ちなみにベルナルディーニ・スタンゲッリーニによれば,

1931

7

8

日に当時のペッシャ町立図書館の館長マニャーニ

( C a r l oMagnani) 

同じ手紙について「〔それは)何年も前にヴィッラーリによってもちだ されたきり返却されることがなかったのであろう」と報告していたそうであ

2 8 ) 。

いずれにしても,いま改めて言及した文書類とシスモンディの手紙や日記を

2 8 )

シスモンディあてのナポレオン一世からの手紙については主としてつぎの文献に依拠 した。

B e r n a r d i n iS t a n g h e l l i n i ,  o p .   c i t . ,  

1 9 7 0 ,

〕p

.   4 ;   1 9 7 3 ,  p p .  2 4 9 ‑ 2 5 0 .  

なお,

本文中の引用はこの文献の

1 9 7 3

年版の注

4

からのものである。

(17)

9 1 4  

闊西大學「純清論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

含む彼自身の未公開の作品との一部分は,彼の死後

1932

年までの間に焼却,破 棄,廃棄,または紛失されてしまったとみてよいであろう。と同時に,それら の作品と文書類,つまりは彼本人の「遺産」には,前稿に紹介したようにたと えば彼の夫人ジェスィー・アレンやデスィデーリ夫妻ら別人の書類が紛れ込ん だり付け加えられたりもした

2 9 )

。こうしてシスモンディの「遺産」は,そっく

りそのままの状態においてではなしに構成上の変化を被りながら,ひとからひ とへと世代を越えて受け継がれてきた,というわけなのである。

m .  

シ ス モ ン デ ィ の 「 遺 産 」 の 行 方

‑1932 年まで

シスモンディの「遺産」の中でもとくに彼の自筆の手紙や原稿など手書きの ものを掘りおこそうとする試みは,

1 8 5 3

年における彼の夫人の埋葬のあとに公 然と展開されるようになった。そして80年弱の間にヨーロッパの少なくとも 6 カ国の

2 0

箇所から目当てのものを発掘することに成功した。その成果は,これ を収めるのにみずからも一役を果たしたサリスによって一覧表にまとめられ,

1932

年刊の彼の手になるシスモンディ研究資料集において, 「シスモンディの 手紙や草稿の保管所」というタイトルのもとに報告された。そこでつぎに,こ の一覧表に依拠して,それの発表の年までにつきとめられた問題の手書きの書 類の所在を再確認してゆくことにしよう。

「ドイツ ベルリン

プロイセン国立図書館〔P

r e u s s i s c h e S t a a t s b i b l i o t h e k

, ヴァルンハーゲン・ ヴァン・エンセ〔V

a r n h a g e nv a n  Ense

〕・コレクション

ベッティーナ・ブレンターノ〔B

e t t i n aB r e n t a n o

〕あての手紙

1

( S t e r n  〔,〕屈eV a r n h a g e n  v a n  E n s e ' s c h e   Sammlung i n   d e r  K g ! .   B i b l i o t h e k  B e r l i n

を参照)。

2 9 )

この点については前掲の拙稿(完)の

111112

ページを参照されたい。

(18)

シスモンディの「追産」の構成上の変化と行方(小池)

915 

イギリス

ウェッジウッドゥ〔

Wedgwood

〕家

サントレール伯爵夫人〔

l aComtesse de S a i n t ‑ A u l a i r e

〕あての手紙,な らびに

ジェイムズ・マキントッシュ卿あての手紙

( P .  

‑l

N.  de Puybusque

により

R e v u eh i s t o r i q u e ,   1 9 1 4 ,   t .   1 1 7

公表された)。

婚約者ジェスイー・アレンあての,および妻あてのシスモンディの未公開の 手紙

(上記の文献にみられる

de Puybusque

氏の覚え書きを参照)。

エマ・ウェッジウッドゥ(チャールズ・ダーウィン夫人)あての手紙

1

(Emma D a r w i n ,   1 9 1 5 ,   v o l .   2 ,   p .   8

に公表された)。

デンマ_ク コペンハーゲン

王立図書館

フレデリッケ・ブルン〔

F r e d e r i k k eBrun

〕あての手紙

3

Ch, ‑V

・ドゥ・ボンシュテッテン〔

d eB o n s t e t t e n

〕あての手紙

1

( F .   Brun A u t o g r a p h e n   Ny K g l .  S .   4 0 ,   1 9 9 2   i )

フランス

ブロイ〔

B r o g l i e

ブロイ城の史料室〔

A r c h i v e s

オーギュストゥ・ドゥ・スタール〔

Augustede S t a e l

〕あての手紙

2

モンペリエ〔

M o n t p e l l i e r

パリ

ファーブル博物館〔

MuseeF a b r e

アルバニ伯爵夫人あての手紙

78

( S a i n t ‑ R e n e   T a i l l a n d i e r

により

1 8 6 3

年にパリで公表されたあと,

P e l i s s i e r ,  Le P o r t e f e u i l l e  d e  l a   C o m t e s s e   d ' A l b a n y ,   P a r i s ,   1 9 0 2 ,  

ならびに

R e v u e d ' h i s t o i r e   l i t t e r a i r e ,   1 9 0 8 ,   t .   1 5 ,   p .   4 9 1   e t   s u i v .  

によって補完された)。

国立図書館,写本・手稿部〔

Departementd e s  m a n u s c r i t s

(19)

9 1 6  

閥西大學「経漬論集」第

4 4

巻第

5

( 1 9 9 5

1

ドゥ・ベロック〔

d eB e l l o c q

〕氏あての手紙

1

ゲラン〔

Guerin

〕画伯あての手紙

1

( N o u v e l l e s  A c q u i s i t i o n s   fran~aises 6 9 0 5

2 09 5 2  f O   2 8 1 )

イタリア

ブレッシャ〔

B r e s c i a

パオロ・ゲッリーニ卿〔

DonP a o l o  G u e r r i n i

カミッロ・ウゴーニ〔

C a m i l l oUgoni

〕あての手紙

1 1

フィリッポ・ウゴーニ〔

F i l i p p oUgoni

〕あての手紙

6

ボローニャ

市立図書館〔

B i b l i o t e c aComunale

アキッレおよびフランチェスカ・メノッティ〔

A c h i l l ee t  F r a n c e s c a  Meno‑

t t i

〕あての手紙

2

( C a r t e  M e n o t t i  n°2 e t   3 )

フィレンツェ

国立図書館, ヴューソ一書簡集〔

C a r t e g g i oV i e u s s e u

J・‑P

・ヴューソーあてのシスモンディの手紙

( A .  F r e n e s ,  R e v u e  i n t e r n a t i o n a l e ,   5• a n n e e ,  Rome, F o r z a n i ,  1 8 8 8 ,  

および

C .P e l l e g r i n i ,  N o t e  s i s m o n d i a n e ,  F e r r a r a ,  1 9 3 0

において公表 された)。

フズィニャーノ

( F u s i g n a μ o )

C

・ピャンカステッリ

P i a n c a s t e l l i

〕博士

ヴィンチェンツオ・モンティ

V i n c e n z oMonti

〕あての手紙

2

リヴォルノ〔

L i v o r n o

市の歴史資料室〔

A r c h i v i os t o r i c o  c i t t a d i n o

フィレンツェの書籍印刷販売業者ヒ°アッティ〔

P i a t t i

〕あての手紙

2 7

( A u t o g r a f o t e c a  B a s t o g i ,  c a s s e t t a  5 4 ,   i n s e r t o  1 1 7 3 )

ジョッティ〔

G i o t t i

〕あての手紙

1

ミラノ

ブレーラ図書館〔

B i b l i o t e c aB r a i d e n s e

旧姓をヴェッリ

V e r r i

〕というフルヴィーア・ヤコペッティ

F u l v i a

J a c o p e t t i )

あての手紙

2

(20)

シスモンディの「遺産」の構成上の変化と行方(小池)

917  ( C a r t e g g i o  d i  A

. M

a n z o n i ,  v o l .   4 ,   2• p a r t i e ,  p p .  5 7 8 ,  6 2 8

に公表さ れた)。

モーデナ〔

Modena

エステ図書館〔

B i b l i o t e c aE s t e n s e

手紙 3

ペッシャ

ヴァルキューサの家敷(デスイデーリ家)

ここに埋もれていた書類のうちの多くのものについては, ヴィッラーリが

「歴史評論」〔

R e v u eh i s t o r i q u e

〕誌の

1 8 7 6

年発行の第

1

号の

2 4 1 (2 4 2 )

ージにそれのリストを掲げてくれている。われわれはそこからつぎの 4つの 種類の手稿を読みとっている。

i)シスモンディの著書と小品。

ii)覚え書き,抜き書き,手紙の下書き,作文,さまざまな習作,青年時 代の詩。

iii)妹サラ・フォールティ〔

S a r aF o r t i

〕あての手紙。

i v )

シスモンディあてにアルバニ伯爵夫人,スタール夫人,バンジャマン

・コンスタン,

J . ‑P

・ヴュ_ソ_, ゥ_ゴ・フォスコ_口,ペッレグ リーノ・ロッスィ〔

P e l l e g r i n oR o s s i

〕,ラファイエットゥ,ウェリント ン〔

W e l l i n g t o n

〕,ギゾ_, ミシュレ〔

M i c h e l e t

〕,その他の人々から 送られた手紙。

1 8 1 5

年の日付を有する母親あてのシスモンディの手紙

3 9  

〔正確には

4 0

〕点

( V i l l a r i

により

Re

h i s t . ,1 8 7 7 ‑ 1 8 7 8 ,  t .   3  a  6

に公表された)。

「〔第一〕帝政と百日天下とにかんする覚え書き」

( V i l l a r i

により

R e v u eh i s t o r i q u e ,  1 8 7 9 ,  t .   9

に公表された)。

シェーナ〔

S i e n a

市立図書館

チェルソ・マルツッキ〔

C e l s oM a r z u c c h i

〕あての手紙

1

トリーノ〔

T o r i n o

市民図書館〔

B i b l i o t e c a C i v i c a

〕,コッスイーラ・コレクション〔

R a c c o l t a G o s s i / a

スクロビス伯爵〔

l eComte S c l o p i s

〕あての手紙

1

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