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「近代」の文化財 : 〈産業遺産〉の保存と継承

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Academic year: 2021

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(1)シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. シンポジウム. 「「近代」の文化財 . ―︿産業遺産﹀の保存と継承―」. パネリスト 岡山理科大学教授 若村国夫(わかむら・くにお) 産業技術記念館学芸企画グループ リーダー 木村雅人(きむら・まさと) 名古屋市博物館館長 岡田 大(おかだ・ひろし) 名古屋市立大学大学院教授 藤田榮史(ふじた・えいし) 司会 同准教授人間文化研究所所員 安藤 究(あんどう・きわむ) 木村学芸員:皆様、こんにちは。 産業技術記念館の学芸員の木村で す。私の方から産業遺産に関係しま した当産業技術記念館における事例 紹介につきまして、お話をさせてい ただきます。本日の私のお話ですけ れども、まず産業技術記念館の概要 説明、次に当館におきましての産業 遺産の現状と活用につきまして。当 館にはどんな産業遺産があるか、そ の種別を紹介して、そのあと今度は 実際にどういうふうに使われている か、その事例を紹介していきます。三. 番目に当館の開館にあたりましての 改修の工事につきまして。これは竹 中工務店さんからの資料をお借りし てお話を進めていきます。最後、当 館における課題と今後の方向性につ きましてという順番でお話をします。 まず、当館産業技術記念館の概要 で す。 当 館 の 設 立 趣 旨 は ト ヨ タ グ ループ発祥の地に現存します貴重な 産業遺産を保存しつつ活用するとい うことです。基本理念は研究と創造 の精神とモノづくりの大切さを来館 者、特に若い人たちにお伝えするこ と。トヨタ自動車創業者の豊田喜一 郎生誕百周年を記念して一九九四年 に開館を致しました。現在、トヨタ グループ十六社で共同運営をしてお ります。展示内容は、繊維機械と自 動車に関する産業技術の変遷を動態 展示を用いて紹介しております。 当館産業技術記念館に至る経緯で す。もともとはトヨタグループの創 始者であります豊田佐吉が一九一一 年、豊田自働織布工場という自動織 機の研究開発のための工場をこの地 に設立しました。その工場が名前を 変え、また発展して大きくなってい きました。その工場の跡地を利用致 しまして、一九九四年、当館産業技術 記念館ができたわけです。現在、こ のトヨタグループ十六社によって当 館は運営されております。この豊田. 21.

(2) 紡織という会社から豊田自動織機製 作所、トヨタ自動車工業という会社 が生まれていって、またさらにこう していろいろ枝分かれして現在のグ ループに至っております。逆に言い ますと、このルーツをたどっていけ ば、ここに行き着きます。すなわち、 産業技術記念館のある地が、まさに トヨタグループの発祥の地であると いえます。 建物・施設です。豊田自働織布工 場、また豊田紡織の工場建屋、主に 赤煉瓦造りの建物をできる限り利用 しております。この写真が当時の豊 田紡織の工場の写真です。こちらが 現在の当館の様子です。こちらは中 庭から見た工場跡の赤煉瓦、中庭は ここにありますが、ここから見た様 子です。ここの壁の裏側、この外壁 の煉瓦壁がこういった形で補強され ています。 主な展示館としまして、繊維機械. 館と自動車館があります。繊維機械 館ですが、紡ぐ・織る技術の基本と、 繊維機械技術の変遷を紹介していま す。展示場内ではこういった糸紡ぎ の実演、また、織機の実演を随時行っ ております。こちらがG型自動織機 と申しまして、当時、世界最高性能 を誇った織機の第一号機が展示され ております。ほかの数台の自動織機 を用いまして、集団運転という実演 も随時行っております。 自動車館ですが、こちらは自動車 の仕組みと開発、生産技術の変遷を 紹介しております。これはトヨタが 一番最初に作りましたトヨダスタン ダードセダンAA型乗用車です。こ の複製を展示してあります。この車 の生産工程、当時の様子をこういっ た等身大のジオラマを用いて紹介し ております。一方、こういった現代 の生産設備、ロボットによる自動溶 接機械というものが動く様子を見て いただきながら紹介をしております。 それから、こちらは自動車館の全景 の写真です。 今年行いました主なイベントを示 しております。企画展としまして四 つの企画展を実施しました。現在、昨 日から竹中大工道具館の巡回展「数 寄屋大工」というものを開催中です。 それ以外にここに示しましたモノ づくり学習体験イベントということ. で、主に子どもを対象としたいろん なイベントを実施しております。そ の中の一つ、「週末ワークショップ」 といいまして、毎週末、必ず土日のど ちらかで子ども向けのワークショッ プを開催しております。これは「エ ンジン分解組付教室」という例を紹 介します。本物の一三〇〇CCの車 用のエンジンをばらばらに分解しま して、またさらに組み上げて最後に こうやってキーを差して、ブルブル ブルとエンジンがかかるまでやりま す。子どもたちが、見たことも触っ たこともないような、こういった工 具を使ってもらいます。最初はおっ かなびっくりですけど、だんだんと 子どもたちの目がらんらんと輝いて きます。非常に人気の高いオリジナ ルのプログラムです。 こ こ か ら 本 題 に 入 っ て い き ま す。 当館におきまして産業遺産がどのよ うに活用されているかということを 紹介します。お手元の資料をご覧下 さい。当館におきまして、こういっ たものが産業遺産として登録・認定 されていますというリストがつけて あります。 まず、産業考古学会から認定され ました「日本の近代を開いた産業遺 産」、これは当館の建屋が認定された のですが、当館ができる前、一九九二 年に認定されました。次に、経済産. 22.

(3) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. 業省から認定されました「近代化産 業 遺 産 」、 こ れ は 後 程 詳 し く 説 明 を します。それから日本機械学会から 認 定 さ れ ま し た「 機 械 遺 産 」、 当 館 でも二件の展示資料が認定されまし た。また名古屋市の都市景観条例に 基づく制度、これは厳密には産業遺 産ではないんですけども、重要な文 化遺産であることから、ここに追加 してあります。産業技術史資料情報 センター、これは国立科学博物館の 中 に 設 置 さ れ た 施 設 で す け れ ど も、 ここが整備しておりますデータベー ス、ここに当館から四点の資料を登 録。四点しか登録していないという のが現状で、これが課題でもありま す。これもまた後程紹介します。 当館の活用例につきまして、近代 化産業遺産と認定されたものを例に とって紹介します。経済産業省は平 成十九年と二十年に近代化産業遺産 の価値を顕在化させ、地域活性化に 役立てることを目的としまして、全 国の各地で三十三、さらに三十三プ ラスして、合計六十六のストーリー をつくりました。その個々の遺産に つきまして認定を行ったというもの です。当館では三つの建物と、また 九つの展示物が認定されました。全 部で十二個あるんですけれども、全 部を説明すると時間がかかりますの で、代表的なものだけ紹介しておき ます。 まず、豊田自働織布工場、現在の産 業技術記念館の建物です。今現在こ ういった建物ですけども、工場だっ た頃はこういった様子でした。それ が現在こういった形です。できるだ け当時の柱、はり、窓といったもの を利用して、当時の工場の様子を再 現した形で展示場としております。 これは一九二〇年から三十年代ぐ らいの豊田紡織という会社の工場の 様子です。ずらっと、こういった形 で織機が並んでおりまして、女工さ んたちがこうやって働いていたとい う、非常に貴重な写真です。 旧豊田紡織の本社事務所、これは 当時としては珍しい鉄筋コンクリー トの三階建ての建物です。これは当 時の一九二五年の様子です。現在は トヨタグループ館という名称で展示 公開をしております。これが一階の 様子です。これは常時公開をしてお ります。二階のここの部分ですけれ ども、役員会議室がありまして、この 会議室から豊田自動織機製作所、そ れからトヨタ自動車工業という会社 が産声を挙げたという、非常に歴史 的に貴重な部屋です。イベント等が ありました場合に公開するという形 を取っております。 それから、ガラ紡績機。先程若村先 生が水車のお話をされましたが、実. はこれも水車を使っております。明 治時代、矢作川に船を浮かべて流れ ないように固定しておき、川の流れ で水車を回しまして、中の紡績機械 を動かすといった使い方をしており ました。現在はこういった形で、水車 もありますけれども、この水車は見 せかけです。水車は回っております けれども、実は裏側からモーターで 回しております。展示機は一九三一 年製で九三年まで豊田市のガラ紡績 工場で使用されたものを復元・整備 したものを動態展示しております。 豊田式汽力織機という織機、これ は機械遺産にも登録されております。 この展示機は一八九九年製で、遠州 地方で稼働していたものを一九六六 年に入手いたしまして、元の状態に 復元したものを動態保存しておりま す。実はこの織機と全く同じものを 複製しまして、隣に置いてあります。 これは複製、こちらがオリジナルで す。こちらの複製機械を随時実演運 転して、動態展示という状態で見て いただいております。 こういった動態展示をやると、非 常に手間暇が掛かります。これはそ の時のメンテナンスで、タイイング という作業を写した写真です。縦糸 がなくなってきます。なくなったら、 この巨大な糸巻きごと交換をします。 この縦糸ビームを交換した際に、全. 23.

(4) ての縦糸をつなぐといった作業をす る必要がありまして、これはできる 人が年々少なくなっております。職 人さんが一本一本手で結ぶんですけ ども、こういう人をまた探していか なきゃいけない。それが大きな課題 の一つになっています。 それから次が無停止杼換式豊田自 動織機、G型自動織機と呼ばれた織 機。これが当時、世界最高性能を誇っ た自動織機でして、その第一号機が 当館で動態保存という形で展示され ております。これとは別に複数台の G型織機がありまして、これを使っ た実演運転、集団運転という形で常 時、動態展示をしております。 これは環状織機という織機で、こ ういった円筒状の布を織ることがで きる織機なのです。佐吉が考案した ものです。展示機は一九二四年製で す。豊田自動織機で保存されていた ものを当館に移設して動態展示をし ております。一日三回、ちゃんとこ れが動く様子をご覧いただいており ます。これとは別に、展示場内には そっくり同じものを七十%に縮小し たものを展示しておりまして、中の メカニズムの様子を説明しながら動 態展示をしております。 次に車です。トヨダG1型トラッ クというトヨタが最初につくったト ラックです。展示車は当時の資料を もとに一九九二年に複製されたもの を 動 態 保 存 を し て お り ま す。 エ ン ジ ン も ち ゃ ん と 積 ん で お り ま し て、 ちゃんと走ります。世界で一台しか ありません。こういった展示車両は 動くようにということで、一年に一 回整備作業を行っております。こち らの写真は開館記念特別イベントと いうイベントの中で、お客さまの目 の 前 で 公 開 整 備 を 行 っ た 様 子 で す。 その後、実際に構内を走らせて、試 走披露という形でお客さまに走る様 子をご覧いただいております。 これは名古屋市の登録地域建造物 資産に登録された豊田自動織機製作 所の門柱です。これは、もともとは 一九二四年に刈谷市でつくられたも のだったのですが、二〇〇四年に鉄 工場の一部と共に館内の敷地に移設 してこうやって展示保存をしており ます。 こちらは産業技術史資料データ ベースです。現在、四件の展示資料が 当館から登録されております。実は 個別の館から登録することはできな くて、関係した学協会を通じて登録 する仕組みとなっているものですが、 まだこれが進んでおりません。関係 学協会に働きかけて登録を進めてい くことが課題の一つとなっておりま す。 三番目、開館にあたっての改修工. 事についてです。竹中工務店さんか らの資料をお借りしております。当 時の設計部長でいらっしゃった北原 様から資料をお借りしました。あり がとうございます。改修にあたって の 基 本 的 な 考 え 方 で す。「 価 値 あ る 建築群を保存活用して、伝承をテー マに現在の感性を加え、産業技術を 語る博物館に再生しよう」というこ と で す。 第 一 期 が 一 九 九 二 〜 九 四 年、それから第二期がその十年後の 二〇〇四年という二つの工期に分か れております。 こ ち ら の 写 真 が 改 修 す る 前 で す。 一九九一年の当時の工場の写真です。 紡績第一工場、第二工場、織布第一 工場、第二工場などといった工場の 建屋が並んでおります。今、茶色で 示した部分の煉瓦の壁をそのまま生 かして、当館で活用しております。 こちらは当館の見取り図です。こ の繊維機械館とテクノランドは保 存・再生した建物を使いました。こ ちらのエントランスと自動車館は新 しくつくりました。こちらの豊田商 会と創造工房、これは外部から移築 したものです。赤で囲ったところが 保 存 し た 煉 瓦 の 壁 で す。 こ ち ら が 一九九四年、当館が開館した当時の 全景写真です。こちらをご覧下さい。 自立した煉瓦壁を残した状態で第一 期工事は終了しました。. 24.

(5) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. これが十年後の様子です。 二〇〇四 年、開館十周年を記念しまして拡張 工事を実施しました。自動車館が広 くなりました。さらに特別展示室と いうものも加えた形で拡張工事を行 いました。 実際にどういった工事を行ったか という二三の例を示します。煉瓦壁 の補強技術の工法としてステンレス ピンニング工法という手法を使った ということです。煉瓦の壁に穴を開 けまして、そこにステンレスのピン を打ち込みます。さらにエポキシ樹 脂を注入して固定します。これは煉 瓦の両面から見られるような壁にこ ういった工法を使ったということで す。 もう一つ、片側からだけしか見る ことのない、そういった壁につきま してはRC鉄筋コンクリートの補強 工事を行いました。煉瓦の壁に穴を 開けて、鉄筋を打ち込んで、そこに コンクリートで補強して、こういっ た補強工事をしたということです。 こちらが作業風景の例です。煉瓦 の 補 修 を し て い る 工 事 の 状 況 で す。 こちらは、白い漆喰を高圧の水を吹 きかけて飛ばすといった作業で洗浄 を行っている様子です。これが工事 の前と後です。こういった白い漆喰 がまだ残っていたのを、先程のよう な工事を行って非常にきれいな煉瓦 の壁を再生しました。これが今ライ トアップすると非常にきれいな煉瓦 面を見ることができます。 四番目、当館におきましての課題 と今後の方向性について考えてみま し た。 課 題 と し て 三 つ を 挙 げ ま し た。まず、産業遺産に対する認識度 の向上ということです。産業遺産に 関する来館者の関心を少しでも高め ようということで、いろいろプラン を練ってきました。例えば、近代化 産業遺産のスタンプラリーというも のを毎年実施しております。こちら にありますような台紙を作りまして、 展示物の前にスタンプを置いておき、 それを押してもらいます。それが全 部集まったらゴールしてもらって景 品をもらえますという形でイベント を実施しております。しておるんで すけれども、なかなか展示物を見て もらえません。スタンプを押すこと ばかりに集中してしまって、なかな か見てもらえません。例えば、小学生 の会話の例。「おまえ、何分でまわっ た?」「俺ね、二十分かかっちゃった よ」「俺、十五分でまわったよ」と、 タイムレースと勘違いしておりまし て、そういった子どもも中にはおり まして、私どもはちょっと苦虫をか みつぶしております。 どうやったらちゃんと関心を持っ てみんなに見てもらえるかと、策を. 考えました。例えば、積極策としまし ては、産業遺産だけを紹介するよう なガイドツアーを設定してはどうか ということです。消極策としまして は、国内でも認知度がまだ低いとい うことで、もう少しそれを待ってみ ようということです。今現在、世界 遺産に登録された国内のものは一六 件あります。これとは別に暫定リス ト、これから登録を待っているリス トが十二件あります。その中の三件 のものが産業遺産に関するものなん です。富岡製糸場、佐渡鉱山、九州・ 山口の近代化産業遺産といったもの が世界遺産に登録されたら、産業遺 産ということで紹介されます。それ によって産業遺産に関する関心が高 まってくるんじゃないかと期待して おります。ちなみに現在、世界遺産 登録の国内の産業遺産は石見銀山の ただ一件のみです。 二番目として動態展示・動態保存 に関する課題です。当館ではできる 限り展示物を動作する状態で保存す るという動態保存、及び、その場で 展示物を動作させるという動態展示 を実施しております。それに伴う課 題としまして、例えば一番目、原材 料の確保。当然、動かせば材料が要 ります。織機の場合は糸を使います。 そういった原材料の確保ということ が一番目。それから二番目、補修部. 25.

(6) 品の確保、及びメンテナンス。動か せば、当然摩耗しまして機械が傷み ます。部品も交換しないといけない。 そういった修理・補修というための 課題があります。それから三番目、人 材の確保、及びトレーニング。こう いった機械を動かすための人材、そ れを修理するための人材、また説明 するための人材を確保しなければい けない。こういった課題が動態保存 をしている限りはついてまわります。 こういったものに我々は地道に対処 しているという状況です。 三番目として、所蔵資料のデータ の整備と公開データベースへの登録 です。産業技術史資料データベース への登録は四点しかないため、これ をもう少し登録件数を増やしてい かなければいけないということで す。関係する学協会へ積極的な働き かけをして、登録件数を増やしてい こうということ。これと並行しまし て、館内所蔵資料データの体系的整 備。実は恥ずかしい話ですけれども、 館内の資料のデータベース化が全く 進んでおりません。そこらへんをき ちんと体系的な整備をして、データ 化を進めていきたいと考えておりま す。これによって、産業技術史資料 情報センター、及び関連団体との関 係を深めて、産業遺産に関する情報 発信力を強化していきたいと考えて おります。 最後ですが、産業遺産は文化遺産 と並ぶ貴重なお宝であるといえます。 大きくは人類のお宝、国・国民のお 宝、もっと限っていえば、その地域 のお宝であるといえます。このお宝 を大切に守って、地域の誇りとして 地域の活性化に役立てることが我々 博物館の使命・役割であると考えて おります。 こちらが昨日からやっております 竹中大工道具館の巡回展「数寄屋大 工」です。大工さんの非常に繊細な 技が展示されております。お時間が ありましたら、ぜひご覧下さい。以 上です。どうもありがとうございま した。 (拍手) 安藤准教授:どうもありがとうござ いました。では続いて、名古屋市博 物館の岡田様からお話をお伺いしま す。 岡田館長:皆さん、こんにちは。名 古屋市博物館長の岡田です。 パソコンを設定していただいてい る時間をお借りして博物館の宣伝を させていただきます。名古屋市博物 館は昭和五十二年に開館し、今年で 三十五年を迎えます。テーマは「尾 張の歴史」で、名古屋市博物館にお. 越しいただければ尾張の歴史が分か るというのをコンセプトに展示をし ております。この常設展示のほかに、 十二月一日から大須観音展を開催致 します。目玉は、現在、大須観音さ んから国宝の古事記を名古屋市博物 館で寄託を受けておりますけれども、 このたび、東京国立博物館にありま す国宝一点『漢書食貨志』が、名古 屋に移管されるということで、国宝 の里帰りのような展示をおこないま す。是非、お時間があれば、お越し いただきたいと思います。 さて、今日は「産業遺産の保存と継 承」というテーマをいただきました。 産業遺産とは何かと考えた時に、文 化財との違いは、関連は、とか、今、 トヨタの方がいわれましたように近 代化産業遺産という言葉がありまし たが、時代が古くなると文化財にな るのかなというような感じがします。 どうも定義がはっきりしない。文化. 26.

(7) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. 財でも有形文化財、無形文化財とあ りますけれども、定義がはっきりし ない。 それから、産業遺産といった場合 に、どちらかというと工業の遺産を 中心に考えがちですけれども、実際 は商業あるいは農林水産業の遺産も 産業遺産じゃないかなと思ってくる と、産業遺産というのは何かなとい うことで、頭の中が混乱してまいり ます。 私がお話したいのは、こういった 産業を支える物流インフラ。例えば、 鉄道なり、道路なりというのも立派 な産業遺産じゃないかなというよう な気がいたします。お話しするのは そういったベースで、インフラを構 想して実施した状況はどうか、それ を動かした人はどうか。最終的に産 業遺産を考える時には、個別のもの も重要ですけれども、そういった社 会システムとか、動かした人も含め て考えていくことが必要じゃないか なと考えています。 この図は名古屋市の概要と書いて ありますけれども、ここで皆さんの 頭に入れておいていただきたいのは、 名古屋市の形です。面積は三二六平 方キロあります。それと、ここに東 海道線が走っています。そこから中 央 線 が こ う い う 形 で 走 っ て い ま す。 これだけ、ちょっと頭に置いていた だくのと、ここの水色の部分ですが、 これは旧市街地です。名古屋の中心 市街地はこういうふうにあるという ことを、ちょっと頭に置いといてい ただくために掲げさせていただきま した。 ち ょ う ど さ っ き の 水 色 の 部 分 が、 ここの茶色の部分になります。これ が名古屋港、これが庄内川です。ここ の茶色の部分は実は台地になってお りまして、名古屋台地とか、那古野台 地とか、熱田台地とか、いろんな呼 び名がありますけれども、高い部分 になります。この中心に名古屋の町 ができてまいりました。この名古屋 の地形を理解するのに一番いいのは、 中央線に乗っていただくと一番分か りやすいかなと思います。名古屋駅 から中央線で長野の方へ向かってい きますと、高架、高いところを鉄道 線が走りまして、平面になって堀川 を渡ると金山辺りで掘り割りになっ ています。掘削したところを通って います。そして金山を過ぎると、ま た平面に出て高架になって、また千 種駅と掘り割りの形でずっと中央線 は長野の方へ向かっています。要す るに、西低東高みたいなのが名古屋 の地形になっています。この地形も ちょっと頭に入れておいていただき たい。 今の地形がどうかというと、この. 図 は 伊 勢 湾 台 風 の 時 の 浸 水 図 で す。 浸水した深さはいろいろありますが、 ちょうど白い部分はほとんど浸水し ていません。これはさっきの地形図 を見ていただいたのとほぼ一致しま す。この堀川側、また、この細く出て いるのは精進川、今、新堀川といっ ていますけれども、堀川の方が浸水 した。名古屋の地形がたまたまの伊 勢湾台風で再確認できます。 今の地形を頭に置いていただいて、 この絵図は街道と宿場町が描かれて います。名古屋城下町がこの辺りに あります。これが中山道、東海道が あって、熱田の宮の渡しで、七里の 渡しで桑名へ行く。それから名古屋 と岐阜を結ぶのは美濃街道というの があります。 さっき物流インフラと申し上げま したけれども、現在の鉄道、東海道 線は、先ほどの名古屋の真ん中を通 りこの美濃街道に沿ってずっと琵琶 湖の方へ敷設されています。しかし 当初の計画では、東海道線は、中山 道を通っていく計画で名古屋を通っ てはいませんでした。 こ れ を 略 図 化 し た の が こ れ で す。 名古屋の城下町がこうあって、これ が中山道が走っています。木曽川、長 良川、揖斐川があって、熱田の宮の渡 しがあるわけです。明治維新前の名 古屋というのは、人口七万とか十万. 27.

(8) とかいわれていますけれども、一大 城下町ということもあって消費都市 であった。当時の明治政府の計画で はこの中山道に東海道線を走らせる ものでした。 それから海運港の方は当時、四日 市港がかなり大きなウエートを占め ておりまして、横浜から出た物資は 四日市港に降ろされる。四日市で積 みかえて名古屋へ運ぶ。四日市港が 大きな力を持っていた。それからも う一つ、武豊港もそういった役割を 果たしました。 こういう状況の延長では、鉄道は 中山道を走ってしまう。海は四日市 あるいは武豊が中心になってしまう。 まさに名古屋が消費都市として衰退 していくのではないかという大きな 議論が当時ありました。 これが木曽川です。これが名古屋 城で、これが熱田の宮の渡し、ここ が桑名で「海の街道」があり「七里 の渡し」呼ばれています。周辺の土 地利用を見ていただくと、全て、田 んぼ、畑ばっかりです。ここで一大 消費地があって、ここに中山道があ りますから、ここに東海道が入って しまうと、名古屋は通過してしまう。 これではいけないということで。こ れは庄内川ですけれども、名古屋の 城下町、それから熱田の宮、あと田ん ぼ、ばっかりですけれども。ここの 線に沿って東海道線を通そうと、現 在の図面上には東海道が入っていま すけども、中山道敷設計画を現在の 敷設に、ひっくり返しました。 当時、名古屋市は明治二二年に市 制が施行されましたが、それ以前は 名古屋区で、その区長を中心にして この東海道線を中山道からこちらへ 持ってくるという運動をかなりやり ました。もう既に決まっていたよう ですけれども、中山道だと山岳地帯 を通るということで膨大な工事費が 必要であるという理由でかなり説得 や陳情などを行いました。陸軍は海 岸から遠い中山道案で、当時、既に 閣議決定されていたのをひっくり返 した。その当時の人々の思いや行動 のエネルギーのすごさに感動すら感 じます。 これは東海道ができたときの笹島 の駅舎です。これが笹島の駅舎から 広小路を眺めたところです。既に市 電が走っていて、これは三階建ての 駅前旅館があります。カブトビール、 これは半田のビール会社ですけれど も、そういう宣伝があった、笹島の 駅前の様子を現わしています。 鉄道の敷設線形が決まりましたが、 駅をどこにするかということで議論 がありました。最初は街が形成され ている熱田に名古屋駅をつくるとい う意見と、それから田園地帯の笹島. につくるべきという意見がありまし たけれども、大消費地であります名 古屋の城下町の延長線上につくるべ きだということで、笹島になったわ けです。ここに明治一九年に停車場 を、都心に結ぶ道路ということで広 小路を延伸しようという計画が起き ました。要するに、物流を図るとい うことです。商品を消費地に運ぶ道。 道路という物流インフラでは、当時 の広小路はどうだったかといいます と、現況は久屋筋から長島町筋まで は城下町時代に火よけ地として十五 間の広い道路がありました。それか ら、笹島に行く間には長島町筋から 堀川までは排水路に沿って狭い道が あって、農家が点々と。先ほどの図 面を見ると分かりますが、田園地帯 であった。それを堀川までを十三間、 ここでは十五間でしたけど、ここで は十三間。それから、堀川からそれ 以西は全く田んぼ、ばかりだったの ですが、十間の道路をつくろうとい う計画でした。 ただ、道路工事が移転補償金とか 用地買収に莫大なお金が掛かるので すが、そのときに多くの反対運動が あって、なかなかうまくできません でした。一方では東海道線を誘致し て 笹 島 に 駅 と い う こ と に し た と き、 広小路線を延伸することという条件 が国から付いておりました。そうい. 28.

(9) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. うこともあり所有者に一生懸命説得 をした。ただ、お金がなかなか国から 来なくて、止むなく、財源として寄 付金を沿線から募集したのです。寄 付金はとられる、土地は買収される ということで大きな反対運動が起き ますが、これを乗り越えて広小路線 は出来上がりました。 出来上がると、物流の大動脈です から、商店街ができたりして、反対 していた人がこれはすごいなという ことで喜んだという記録が残ってい ます。東海道という物流を名古屋の 笹島に、名古屋を通るように努力を して出来上がった。 では名古屋駅を結んだ広小路はど のようにできたのでしょうか。 名古屋の城下町の土地利用の状況 は、ここにお城があって、ここに碁 盤割り地区がある。寺町地区があっ て、本町筋があって熱田神宮、ここ はまだ海岸になっています。熱田は 皆さんご存知のように、宮の渡しと かいろいろな性格をもった町です。 まず城下町の方から。これが名古 屋の城下町の模式図です。碁盤割り 地区がある。今でいうと住居地域と か、工業地域という土地利用計画が あ り ま す け れ ど も、 当 時 は 身 分 に よ っ て 地 域 分 け が な さ れ て い ま す。 これが町民地域。町民地域以外の白 いところが武家地域、下級武士とか、 足軽とか。高級武士はこの辺り、城郭 内にいました。それから、お寺。南 寺町地区、東寺町地区というような 形で、真ん中に本町通りというよう な形でした。 さらに碁盤割りを拡大してみます と、さっき言いました久屋筋から長 島筋まで、ここに広小路十五間の道 路をつくりました。このブロック割 りが、一つの街区が大体六十間。道 路が三間で碁盤割りになっていまし た。これを道路三間ですから、これ を十五間に広げた。 問題はなぜここに、十五間道路、広 小路を造ったか。他の位置でもいい ではないか、ある記録によりますと、 商人地域と武家地域の境につくった ということが書いてありました。そ れが本当かどうかは分かりませんけ れども、取りあえず一つの理由かな、 という気がいたします。 実はそこに十五間の広小路をつ くったのは、ここにありますように 一六六〇年、万治の大火がありまし た。城下町が焼けたわけです。焼け て、この辺りに火よけ地をつくろう ということで、道路をつくったわけ です。よく考えてみると、商人地域、 武家地域の境につくって、火が武家 地域に行かないようにしたのかなと いうような感じがいたします。さら に、この十五間道路をつくるにあた. り、いろいろな角度から検討がなさ れた記録が残っております。 「堀川東伝馬町南の図」というもの があります。これは博物館が収蔵し ているものですが。「火よけ地」を造 るにあたり、単に道路にするのでは なくて、水運、船運に着目して、堀 川に接続させた運河を造る、熱田か らの物資を堀川端で荷揚げするので はなく、直接、城下町の真ん中に船 便で入れようという構想で、実は運 河計画みたいなものが、当時計画さ れていたことが分かります。 ただ、先ほどの名古屋の地形を見 ていただいたように、高台の上に城 下町ができて、低いところに堀川が 流れています。ここに運河を掘りま すと、高いところから随分下の方か ら物資を引き上げなくてはいけない、 岸壁をうまくつくれない。 発想としては火よけ地プラス商業 の発展に資するという意味では面白 いアイデアでしたが、地形がどうも うまくいかなくて、この案はつぶれ た み た い で す。 そ の と き の 図 面 が 残っています。 東海道線ができて、なんとか全国 と結ぶ物流インフラを名古屋に呼び 込むことができました。道路も、広 小路ができ、名古屋城下という消費 都市に物流インフラが整いました。 あと、海運です。海運の方は四日市. 29.

(10) といいましたけれども、ここが熱田 です。当時の熱田は、ここに熱田さ んがあって門前町の性格、それから 東海道の宿場町の性格、それからこ こら辺りに熱田湊、木曽木材などを 扱う海運の性格、あるいは漁業、伊 勢湾で収穫した魚貝類をここで受け 渡しをして、さばいて、名古屋の消 費地に持っていくという、状態でし た。 その熱田の遠浅の沖に、江戸時代 から、干拓が始まります。ここが熱 田です。色が塗ってあるところは明 治以降なので省略させていただいて、 この部分、これが江戸時代に入って から干拓をやりました。一番有名な のは熱田新田をつくったということ で す。 か な り 広 大 な 干 拓 を や っ て、 約三〇〇〇石が増えました。干拓を やった、これが熱田です。いよいよ 名古屋港の建設、海のインフラ整備 ということで熱田湊があって、埋立 地がある。 こ れ は 築 港 前 と 書 い て あ り ま す。 ここに天白川が流れて、これが庄内 川 で す。 こ れ を 見 て も ら い ま す と、 天白川のところに海の中の等高線で すが、砂がずっとたまってきている ということで、名古屋はなぜ四日市 に負けていたかというと、遠浅の海 だったわけです。名古屋港をつくる しゅんせつ ことは浚渫をしなきゃならないとい う状況の中で、第一期工事が始まり ました。この浚渫工事でも莫大な費 用がかかるということで大きな反対 意見がありましたが説得を重ねなん とか工事着工ができました。 天白川に沿って防波堤があります、 古い資料を見ますとここに書いてあ りますが、防砂堤、砂です。砂を防 ぐ堤、これが当時の計画。また、こ れが庄内川の延長線上でも砂を防ぐ。 ここに二重線といいますか、これが 航路。非常に浅い海だったものです から、七メーターの水深の掘削をし て船を入れるということで、当時、大 工事をやったわけです。名古屋港を 浚渫した土砂を使って一号地、二号 地をつくったのですけれども、それ 以降、浚渫土砂を使って名古屋港が どんどん拡大してゆきます。 今、物流インフラといいましたけ れども、海運、貿易は、トヨタ自動 車さんがみえますが、名古屋港の輸 出入総額は古いデータですが十四兆 円ということで、東京、横浜をしの いで七年間ずっと一位の地位を確保 しています。 こ の よ う に 紆 余 曲 折 を 得 な が ら、 鉄道を何とか名古屋へ、それから港 も大工事をやって名古屋にできまし た。 これらの経緯を振り返るとき、よ く建物などを文化財という形で指定. されていますけれども、それを動か した人も、文化財とはいいませんが、 文化財人物といいますか、注目し、発 掘する必要があるのではないか、と いう思いがいたします。 先ほどご説明した東海道線、広小 路、名古屋港の建設。これを動かし た人物は、吉田禄在さんという方で す。明治十一年に名古屋区というの が設置されます。この名古屋区の初 代区長がこの吉田さんです。この方 は尾張藩士で、木曽の「材木方」の 仕事をしていました。 中山道のことは詳しかったわけで、 だから、どんなに中山道の鉄道敷設 がいかに難工事であるかということ を国に、強く訴え、中山道計画をひっ くり返したという人物です。 更に、港もこの方が随分反対を押 し切ってつくった。今、走っている東 海道もそういう観点からいけば文化 財でもありますし、港も文化財では ないかと思いますが、これらを計画 し実現した人も、適当な表現があり ませんけれども、先ほどトヨタの方 が地域の宝、人も宝と言っておられ ましたけれども、これに該当するん じゃないかなと思います。現在、漠 然と語られている産業遺産という概 念、産業遺産は一体何か、と考えた とき、人物あるいは社会のシステム、 その背景も含めて考えることが必要. 30.

(11) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. じゃないかなと思います。私からの たのだと思います。 発表は以上でございます。 まず最初に、産業遺産は何のため (拍手) に保存し、何のために活用するのだ ろうかということを、自分のやって 安藤准教授:ありがとうございまし きたことから考えてみたいと思いま た。では続いて、藤田先生、お願い す。ですから、体系的な話はできま いたします。 せんので、抜けているところはいっ ぱいあるかと思います。 藤田教授:名古屋市立大学の藤田で 産業遺産の価値を考えるとき、一 す。専門は労働社会学という分野で、 つは今、産業遺産が注目される背景 要するに働き方を考えるという勉強 として、過去の産業繁栄とか、高度 をしております。主に製造業の工場 成長期への郷愁、そういうものを大 での働き方、その背景にある生産の 事にしたい、あるいは、現役を引退 仕組みを勉強しておりまして、自動 したような人たちが、自分のアイデ 車産業や電気機器産業について自分 ンティティーを再確認する、誇りを で も ち ょ っ と 調 べ た り し て い ま す。 また取りもどすような、そういう意 そういう勉強をしている人間ですか 味で産業遺産に注目することがある ら、実は産業遺産について、きちん かと思います。少し前までNHKが と考えたことは、全くといっていい 「プロジェクトX」という番組を流 ぐらいありません。ただ、産業遺産 していたかと思いますが、高度経済 に自然に触れる機会が少しはあるの 成長期のビジネスマンが研究・開発 で、こういうところで話せといわれ で大変苦労して成功する話、海外で の市場開拓に苦労して成功する話な どを番組化していた、この番組の人 気を支えた背景と似たような側面が、 産業遺産への注目にあるのではない かと思います。 そういうアイデンティティーを考 えることは大事なことですけれども、 少し後ろ向きかなという感じがする わけです。懐古的な観点は、私のよ うな年を取った人間には大事なこと. ですけども、やっぱり若者にはあん まりぴんとこない話になるかと思い ます。 産業遺産のもう一つの価値は、地 域の文化遺産になっているというこ とです。産業遺産には文化遺産的な 価値がある、これも産業遺産の保存 が求められる理由です。 同時に産業遺産自体が景観的な価 値を持つようになってきている。写 真は半田市の観光協会のホームペー ジから引いてきましたが、半田の運 河とそこの蔵の風景です。醸造蔵を 中心とした蔵と運河の風景が、景観 と し て も 非 常 に 美 し い。 そ れ だ け じゃなくて、最近ではテクノスケー プという言葉で呼ばれているようで すけども、「工場萌え」という言葉で 表現されるような、東京湾の川崎の コンビナートや四日市のコンビナー トを夜、ライトアップしている様子 を船から見ると、とても幻想的で美 しい。そういう現代的な工業構築物 も景観になり得る。景観的な価値が あるということは、当然、産業遺産 が観光的価値も持ってくる。観光と しても楽しめるという要素が出てき ますから、産業観光とも結び付いて いくという価値が、産業遺産にはあ るかと思います。 私が強調したいのはこういう価値 だけではなくて、次に述べたい二つ. 31.

(12) の 価 値 で す。 そ れ は 産 業 遺 産 が 持 つ、一つは教育的な価値です。高度 経済成長期のノスタルジーのような ものだけではなくて、それを支えて きた現在では産業界を引退した人々 が、現役時代にその産業活動で身に 付けたノウハウを、地域の子どもや 若者たちに伝承していく、こういう ことが産業遺産を保存していく上で も非常に重要なのではないかと思い ます。モノづくり文化の現代的な伝 承ということを、産業遺産を通じて 行う。あるいは、労働の中にある創 造性や芸術性を伝承するということ も重要だと思います。労働というと、 なんか嫌なものと受け取られること もあるのですが、まともな労働の中 には創意性や芸術性の要素がかなり あると私は思います。産業遺産の活 用を通じて、人間的な労働観を醸成 し、労働と人間の基盤をつくってい くという意味があるのではないかと いうのが一つです。この例はあとで お話をします。 それから、もう一つは産業資源的 な価値です。過去の技術は過去のも の だ と い う の で は な く て、 手 工 業、 手作業時代の技術も含めて、現代の 産業資源としての可能性を持った技 術だと思います。若村先生が日本の 水車の話をされましたが、そこのノ ウハウというのは現代の小型水力発 電みたいなところにつながってくる、 そ う い う 要 素 を 持 っ た も の で あ る。 そういうことが産業構造の大きな変 化の中で、現代における産業資源的 な可能性を持っているんだというこ とを、もう一つお話ししたいと思い ます。 要するに、教育的価値と産業資源 的価値のことを少しお話ししたいと いうことです。教育的価値の例を言 います。プロジェクターで映したも のは二つの歯車の写真です。写真で 分 か る か ど う か 分 か り ま せ ん け ど、 右側の歯車はスパッと切ったように 鋭角的にできているのです。左側の 歯車はだれた歯車で、少し研磨しな いといけないんです。磨きを掛けな いと歯車としては完成品にならない。 右側の歯車はプレス機械でパッと 切っただけで、こう出来上がるので す。一発でできますから、コストが 安く済むということで、今、発展途 上国とのコスト競争の上では非常に 重要なんです。これをどうやってつ くっているのか。なぜ、これが可能 になったのか。 プレスの機械では金型が非常に重 要です。金型で打ち抜き、あるいは曲 げて加工するわけです。金型により スパッと切ったような歯車をつくる ためには、鏡の面のように真っ平ら な金型をつくらなきゃいけない。金. 型それ自体、とてもきれいだと思う んです。とても美しい。こういう金 型をつくるために、一つは金型の設 計力が高くなければいけない。これ は工学的な技術です。 しかし同時に、金型の表面を徹底 的に平らに研磨して、超鏡面をつく るという技能が同時に必要で、その ためには超精密な研削盤という機械 があると同時に、作業者のスキルが 重要なんです。この両面がないとい けない。つまり、機械技術と働く人の スキル・技能が相まって、さっきの ような歯車が、スパッと切れたよう に出来上がる。コストも低く、見た 目にもとても美しい歯車ができます。 働く人の創意性がこの歯車の中に実 は盛り込まれているわけです。これ は現代の産業技術の例ですけれども、 過去の産業技術の優れたものの中に は、こういうものがいっぱいあるわ けです。こういうものを産業遺産と して、モノづくりの文化、働き方の 文化として継承していく必要がある のではないかと考えるわけです。 そういう話は実はかなり昔にされ ています。ウィリアム・モリスとい う一八三〇年代から九六年にかけて イギリスで活躍した近代デザインの 源流の一つをつくった人ですが、こ の人が産業革命により機械生産が広 がる中で、手工業的な職人のつくり. 32.

(13) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. 上げる製品の芸術性、美しさという ことを強調したわけです。日本の民 芸運動にも非常に影響を与えた方で、 この人の言葉に「生活の芸術化」と い う 言 葉 が あ り ま す。 プ ロ ジ ェ ク ターで映しているデザインがこのモ リスのデザインの一つの例で、とて も美しいデザインです。モリスの考 え方では、労働には自発的な有用な 仕事と、強制的な不要な労役とがあ る。その両者を分けるのが創造性や 芸術性があるかないかである。民衆 の仕事、特に手作業の職人の仕事に は、その中に創造性や芸術性という ものがあるんだ。機械技術が発展す るのに対抗して、民衆の仕事のなか にある創造性・芸術性をもっと大事 にする必要がある、そういう主張を するわけです。 モリスは、当時の労働者の労働の 実態について非常に問題があると考 えていた社会主義者でもあった人で す。 そ う い う 人 が「 生 活 の 芸 術 化 」 を唱えますが、その「生活の芸術化」 とは手作業のスキルに戻るものと考 えられがちですけれども、しかし実 際には、手作業を超えて機械技術に も通底する提唱内容がそこにあった か と 思 い ま す。「 生 活 の 芸 術 化 」 と いうと、消費生活で使うものを芸術 化すると考えがちなんですけれども、 モリスはそれだけではなくて、実は 「労働の人間化」と「生活の芸術化」 とを結びつけて考えていました。つ ま り、「 生 活 の 芸 術 化 」 を も た ら す ような製品をつくり出すその労働は、 人間的な創造性と芸術性を持った仕 事であるという要素を持ったものだ、 と い う ふ う に 考 え て い る。「 生 活 の 芸術化」と結びついた「労働の人間 化」に込められているこうした労働 観を、産業遺産を通じて伝承できる のではないだろうか、モノづくり文 化の現代的な伝承をこうした形で進 めることを考えたいわけです。 二点目、現代の産業資源として、産 業遺産が生かされるのではないかと いう発想は、産業構造の大きな変化 という観点から出てきます。クラフ ト生産(手工業的な生産)のルネサ ンスが今起こっているという議論は、 社会科学の領域ではかなり広範に行 われます。代表的な論者は、M・J・ ピオリとC・F・セーブルというマ サチューセッツ工科大学の研究者で、 ピオリは制度派の経済学者、セーブ ルは労働社会学者です。この二人が 「 第 二 の 産 業 分 水 嶺( The Second )」を今迎えてい Industrial Divide ると強調しています。 彼らによると、産業技術の発展の パラダイムは二つあり、一つはクラ フト生産(手工業的な生産)、もう一 つは大量生産である。普通は手工業. 的生産から大量生産へ単線的に移行 すると考えられているけれども、実 はそうではないと主張するわけです。 大量生産の時代にもクラフト生産は、 実は傍流として生き続けていて、ど ちらの技術パラダイムが選ばれるの かは社会的に選択されたに過ぎない。 技術の内在的な発展の論理によって 決まるものではないと主張するわけ です。 大量生産というのは、標準化され た製品を、その標準化された製品に 合ったような専門化・特殊化された 機械設備を使って、しかも構想と実 行を分離して、労働の分割・細分化 を行う。したがって、不熟練あるい は半熟練の労働者が一方にいて、も う片方には構想し、計画をたてる技 術者・管理者がいるという分業関係 が生じる生産の仕方である。 それに対して、今日、クラフト生産 の現代的な在り方がむしろ生まれて きている。それをピオリとセーブル は「フレキシブル・スペシャライゼー ) シ ョ ン 」( flexible specialization という言葉で表現します。適訳がな いので、「柔軟な生産の仕組み」ぐら いに訳したらいいかと思います。I T技術などと結合した汎用性の高い 機械設備を使って、多種多様な製品 をつくる。したがって、広範囲の仕事 を担当し、ノウハウを組織的に学習. 33.

(14) する働き方がそこに求められ、労働 者のスキルを積極的に活用する。こ ういう働き方、つまり、クラフト生 産の時代の働き方を現代的に再生す る、そういう新しい産業パラダイム が優勢になってきていると考えたわ けです。 こういうふうな産業構造の変化が あるとすると、手作業時代、機械時 代共に、過去の技術やスキル・技能 が現代の産業資源になり得る。その 観点も、産業遺産活用の意義として もう一つ重視する必要があるのでは ないかと思います。つまり、産業遺 産としてはハードとしての産業遺産 をただ保存するだけではなくて、そ れがどのように活用され、そこでど のように人が働いていて、どのよう なスキルがその中に込められていた のか、それを同時に見られるような 産業遺産の活用の仕方をむしろ考え ることによって、産業遺産は過去の ものというだけではなくて、現代に も産業資源の源流の一つとして活用 できるのではないだろうかと考えた 次第です。それでは、これで私の二 つ強調したかった話を終わりたいと 思います。 (拍手) 安藤准教授:ありがとうございまし た。これから若村先生にパネリスト. のお話に対して所見を述べていただ イドがかつて海軍の船に乗っていた きたいと思います。ここでパネリス 人だと、質問をしても、それなりに トの方々も若村先生と同時にご登壇 答えが返ってくるんです。が、ガイ されてください。 ドが単なる説明者として覚えた事を 言っている人の場合には、決まった 若村教授:何かコメントということ こ と の み の 説 明 で、 質 問 を し て も、 な の で す が、 い ろ い ろ 広 い お 話 で 「ちょっとそれは知りません」という ちょっと難しいかと思います。皆さ 話になってしまいます。このような んが言われているのは、全て当たっ 事でかっての産業従事者がミュージ て い る と 思 い ま す。 一 言 で 言 う と、 アムに参加できれば、その工場で働 今日このようなテーマがシンポジウ いていた人の技術、持っていた知識 ムにあがってきている理由が、産業 を生かせます。そういう方向になる 遺産に関心が持たれていないことに ように、私も含めてですが、関係の あると思いますので。関心を持たれ 人たちで道を作り上げていく必要が るにはどうしたらいいかということ あるのではないかと思います。これ で、お三方の言われていることは皆 で一応、コメントとさせていただき 当たっているのではないかと。 ます。 しかし、一般の人がそのようなこ とに関心を持つかというと、産業遺 安藤准教授:ありがとうございまし 産を見ただけでは、とても難しい状 た。今の若村先生のコメントを踏ま 況 で は な い か と 思 い ま す。 関 心 を えて、何か追加のお話がパネリスト 持ってもらう道をつける必要がある の方々からあればお願いしたいので と思います。その道は誰がつけるの すが。よろしいですか。 かというと、これは例えば博物館と では、産業遺産の場合には、若村 か大学にいる人、産業遺産に携わっ 先生のお話の最後の方にありました て き た 方 と か、 産 業 遺 産 の 近 く に ように、単体ではなく、関連設備を 住んでる人で関心のある方とかで 含めて保存をすることが非常に大切 す。そういう人たちと共同作業の形 なことであり、それは従来の遺産の で、道が作られるのではないだろう ように、保存をして、我々が見学に か。例えば、私が先程お話ししまし 行ってもあまり近くに寄っちゃいけ た造船所ミュージアムでは、時間を ないとか、触っちゃいけない、見ちゃ 決めてガイドが説明します。そのガ いけないというようなものではなく. 34.

(15) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. て、何らかの形で利用をする、活用 をすること、すなわち利活用という ことが重要になってくるのだろうと いうことでした。その中で例えばそ うした産業遺産を使って、大学など では教育というところに利用できる のではないかというお話が若村先生 からもありましたし、藤田先生から も産業遺産の教育的価値という議論 があったと思います。 それから、そうした資産を使いな がら、例えばトヨタミュージアムの ように、内部ツアーなどを試み、動 態展示、動態保存をして、体験型の 産業遺産を経験するといったような 試みもあるかと思います。それから、 その産業遺産を使ってということで は、特に博物館などで若村先生の最 後の方のヨーロッパの実例でありま したが、直接展示物を見ることだけ ではなくて、そこが一つの憩いの空 間となっていて、そこに人々が集ま り、それがその地域の一つの資産な り文化になっていくというようなと ころがあったかと思います。こうし た産業遺産、特にシステムとしての 産業遺産を利用し、活用するという ところで、もう少しそれぞれのパネ リストの方から何かお話を聞かせて いただければと思います。例えば博 物 館 の 在 り 方 と し て、 先 程 の ヨ ー ロッパのような博物館のような形で、 憩いの場としての博物館というよう な道というのは、日本の博物館にお いてどの程度可能性というものがあ るのか、お話を聞かせていただけれ ばと思います。 岡田館長:今日のテーマがそういっ た産業遺産の利活用あるいはレクリ エーション等の利活用ということで したが、例えば近代産業でいうと、名 古屋東区に白壁地区というのがあり ます。当時の産業を興した人たちの、 しゅ 例えば陶磁器会館とか、私どもは撞 もくそう 木荘といっていますけれども、それ と電力王福澤桃介と川上貞奴が過ご した二葉荘というのがあります。そ ういうのを保存活用する場合に、な るべく現物活用しようと思います が、所有者の方が売りたい、壊した い、ちょっと待ってくれということ で、当面、賃貸で借りて、何とか活用 しなければということで、○○セミ ナーハウスとか、サロンとか、いろ いろ名前を付けて集会をやったりし ても、どうも長続きしない。さらに 蔵を改装して喫茶店に貸し出したり するのですけれども、その方は一生 懸命やっていただいたのですけれど も、なかなかお客さんが入っていた だけなくて、商売ができなくて、結果 撤退されました。最終的に名古屋市 としては手を離して売ってしまおう. というような議論もありました。結 果としては残りましたが、ある外郭 団体を使って、そこに買わせた。変 則なやり方です。言葉では利活用と いうと語感がいいものですから、そ うだ、そうだという話になりますが、 現実問題、例えば税金でそれをやる というコンセンサスが得られればい いのですけれども、そうじゃない場 合には利活用の利、例えば民間の方 に貸してうまくいくような仕組みが どう構築できるかというのが実は課 題としてあります。 もう一つ言いますと、日泰寺の横 よう き そう に揚輝荘というのがありますけれど も、取り壊すのではなく、残す必要 があるということで、開発許可の段 階で、寄付していただきました。あ れ を ど う 保 存 活 用 す る か。 ボ ラ ン ティアの方が一生懸命、企画し、建 設経過などを調査し、お越しいただ いた方に案内をしていただいており ます。税金を投入すべきか、この施 設を民間の団体等に賃貸して、収益 で維持管理していくのか。非常に大 きな課題。で、まだ答えが出ていま せん。ですから、例えば名古屋市博 物館でもレクリエーション的なもの もありますけれども、非常に難しい かなと思っています。答えがなかな か見つからない。試行錯誤というこ とでお許しいただけたらなと思いま. 35.

(16) す。以上です。 安藤准教授:ありがとうございまし た。そうした活用というところでい きますと、博物館なり、その設備が 一定の地域の中にあるということで、 その周辺のお店も活性化するという ことはあると思いますが、それ以外 にも何か効果があるかもしれません。 その点について、実際に産業技術記 念館があることによって、周囲の街 並みや住民の方との関係などにおい て、思いも掛けなかったけれども、こ ういうメリットが周りの住民の方に はあるようだというようなことがあ ればお話しいただければと思うので すが。 木村学芸員:周りの地域住民と、と いうことでは、例えば駅からウオー キングラリーというのを時々やって おりまして、「駅ちかウォーキング」 というイベントです。名鉄だったり、 地下鉄だったり、名古屋市交通局の 駅の周辺から、歩ける範囲で周りを 散策してウォーキングしてみましょ うというイベントの中で、時々、当 館、産業技術記念館も利用していた だいているものですから。そういっ た周辺を歩いてまわっていただくこ とをしていただければ、街並み、景 観も含めて、昔あった工場がきれい. な赤煉瓦でまだ残っております。当 時の織機工場がここにあったんです よということを知っていただくだけ でも、非常に健康面と知識面の両方 がプラスになったという形で寄与で きているのかなと。一つの例ですけ れども、そんなこともあるのかなと 考えております。 安藤准教授:以前、打ち合わせのと きに少しお伺いしましたが、節電の ときにわかった、産業技術記念館の 思わぬ効果ということではどうで しょうか。 木村学芸員:以前は夜間、館の周囲 の赤煉瓦に光りを当てるライトアッ プ を や っ て お っ た の で す け れ ど も、 節電が叫ばれまして、夜間のライト アップをやめてしまったのです。そ うしたら、実はちょっと犯罪が増え てしまいまして。防犯上、それが役 に立っておったという、ちょっと意 外な事実が判明してきまして、そう いった面でも施設として実は貢献し ていたのだなということが、あとか ら分かってきました。 安藤准教授:ありがとうございまし た。いわゆる産業技術の設備を保存 することは、環境との関係で思わぬ 効果みたいなものもあるし、それか. ら考えなくてはいけないことも多く あると思います。 次に、これまでいろんな分野で議 論されている産業遺産なり、近代化 遺産といったものは、定義上は第二 次世界大戦終了後までのものが多い と思います。経産省の産業化遺産で も第二次世界大戦ということで時代 的には区切られている。 そうなったときに、現在の日本の 繁栄というのは戦後の高度経済成長 を も と に し て い る こ と を 考 え る と、 高度経済成長を支えた産業施設とい うものは、文化庁なり経産省なりの 産業遺産の保護という枠組みからは 外 れ て し ま う こ と に な っ て し ま う。 現役の施設もかなり多いと思うので すが、効率性や生産性を高めるとい う圧力によって、むしろ戦後の新し いものがより消えやすい状況になっ ているのではないかなと素人として は考えるのですが、この辺について 皆さん方のお考えを順番にお聞かせ 願えればと思います。よろしくお願 いします。. 若村教授:戦前のものですと、「古い から残さなきゃいけないのでは」と 言われると、漠然とそうかなと思う 人が多いと思います。戦後になりま すと、機械が非常に単純化してくる わけです。蒸気機関車は複雑で、見. 36.

(17) シンポジウム. 「「近代」の文化財―〈産業遺産〉の保存と継承―」. ていて面白いですが、新幹線になる と「全くのっぺりしていて、つまら ない」という感じがします。まして コンピューターが付いた装置という のは全く分からないので、親しみが 持てない。そういうような点からす ると、新しくなればなるほど残した 方が良いという感覚を持つ人が減る のではないかなという感じがします。 先ほど「手打ちに勝るものなし」と いう和紙の作業の言葉を出しました けれども、基本的に日本人というの は、元来、機械というものはあまり 好きじゃないです。論理的にものを 考えたりすることが好きじゃない人 種じゃないかと思いますね。それが 近代化で仕方なく機械を入れて、こ こまでやってきた。その結果が現在 の若い人の理工系離れにも現れてい るような気がします。 ですから、そういうことを知った 上で保存というのを考えていかない と、失敗するのではないかと思いま すね。やはり親しみを持ってもらう ことが大切です。例えば、絵を見た らいいなという感情を持つ人は多い と思いますし音楽を聴いたらいいな と感ずる人も多い。 じゃあ、産業遺産にそういうもの があるのか、あるいは博物館に行っ ていいなと思うことがあるのかと考 えてみると、多分産業遺産では少な いでしょう。そうすると、産業遺産 に関心を持ったり、親しみを持って もらうためには、何か親しみを持て る要素を、一緒に付けることが大切。 先程の幾つかのご意見はこのことだ と思います。少し的は外れるかもし れませんが、関心を持ってもらうこ とがまず基本になると思うんですね。 その上で戦後の産業遺産に話が及ん でくるのではないかなと。 明治期に作られたものが残せな かったとすれば、多分、戦後の工場や そこで使っていた機械を残すことは 難しい。尤も、機械位は残るかもし れませんが。トヨタさんのように工 場跡を活用するというのは、極めて 難しいと思うんです。企業が工場を 閉鎖するということは、その工場の 経営が傾いているので工場跡を売り たいわけですよね。特に都市の近く は。本当は博物館にしたらいいと思 いますけれど、実際は宅地などに売 れるので、どうしても工場跡を残す ことは難しい。国が全部希望の価格 で買うようなことをすれば別だと思 います。そういうことは今まではな いと思いますので。大切なのは、や はり親しみを持ってもらうようなこ とを小学生ぐらいから常に心掛ける ようにやっていく必要があるのでは ないかと思いますけど。. 木 村 学 芸 員: じ ゃ あ、 私 の 立 場 か ら、ちょっと紹介していきたいと思 います。近代化産業遺産という言葉 は、 先 程 ご 紹 介 が あ り ま し た よ う に、明治から第二次世界大戦以前の 産業遺産という定義にどうしても なってしまっている。日本の成長を 支えたということでは高度成長期時 代、一九五〇年後半から六〇年代の 工業化というのが、すさまじいもの があったということ、確かにそのと おりだと思います。 そ れ に 相 当 す る 産 業 遺 産 と し て、 これをどうやって残そうかというこ となんですが、私が発表のときに紹 介いたしました産業技術史資料デー タベースというのがあります。これ は国立科学博物館の中にあるセン ターが管理をしております。その中 に、現在一万三〇〇〇件ほどの資料 がデータとして集積されているんだ そうです。当館からはまだ四点しか なくて、G1トラック、トヨタ生産 方式のカンバンというのがあります。 それから、トヨグライドという初代 のオートマチック、それから三元触 媒システム、この四点が登録されて います。 いずれもその当時の最先端の技術、 今から思っても非常にエポックメー キングな技術だったと思います。中 でも例えばカンバン方式という、ト. 37.

参照

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