貨幣に関する二つの近業 : 田中教授「金本位制の 回顧と展望」と安田教授「貨幣本質論序説」
その他のタイトル [Book Review] K. Tanaka : The Gold Standard, Retrospect and Prospect / N. Yasuda :
Introduction to the Theory of Money
著者 森川 太郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 2
号 2
ページ 93‑109
発行年 1952‑06‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/15863
上記の﹁金本位制と中央銀行政策﹂であり︑その後多年に亘る激
ー 田 中 教 授
﹁ 金 本 位 制 の 回 顧 と 展 望
﹂ と 田
中 金 司 著
﹁ 金 本 位 制 の 回 顧 と 展 望
﹂
ーー国際金融理論の動向と国際通貨某金ー│
最近田中金司激授︵紳戸大学︶は`
貨幣に関する二つの近業
貨 幣 に 闊 す る 二
森
J I I
安田教授﹁貨幣本質論序説﹂ー̲ー
﹁金本位制の回顧と展華﹂
︵昭和二十六年︑本文四
0
四頁︑千倉害房発行︶と題する力作を樅に問われた︒これについて自ら想起されるのほ激授が二十数年
前公にせられた高名の著﹁金本位制と中央銀行政策﹂である︒この
間勿論敬授に盟行の著書がなかったわけではない︒叉国民経済維
誌等に隈々勝れた論文を発表せられ︑絶えずその研究の進境を示
されてもいた︒しかし激授の主著と目されたものは︑依然として
九 一 ﹁ 一
授の研究成果の全貌が︑やがて如何なる形に於て示されるであろ
うかは︑同学の者が夙に関心を寄せるところであった
Q
﹂A
の意
味
に於て教授のこの度の新著は︑云わば学界待望の害であり︑筆者
も亦深い感銘を以てこれを読んだのである︒
以下その簡箪な紹介を試みようとするのであるが︑知られる
如く︑第二次大載を中に含む最近の二十数年間は︑これを金本位
制の機構と運営を中心として見ても︑花に波爛万丈を極めた年月
であった︒と同時に経済理論の分野に於ても︑かのケイソゞス革命
をめぐつて惹き起された劃期的進歩の時代であることは︑敢えて
云うまでもあるまい︒本書はこの現実の発展と理論の進歩とを︑
著者がその研究領城に於て克明に追及し︑梃来の貨幣乃至金融理
論的研究に新境地を開いているところにその何よりの特徴があ
つ の 近 業
太
郎
第二編 貨幣に関する二つの近業
る︒そして金本位制を主題とせる関係より云えば︑前著﹁金本位
制と中央銀行政策﹂に於ける研究を更に数歩押し進めたものと見
るととが出来るが︑著者は本書の序文に於て︑前著を絶版とし︑
その一部を本書に利用したことを断つて居り疇その言外の意味に
於て︑本書を以て前著の書き替えとするもののようである︒け
れども本書に於て前著の利用せられた部分は僅かであり︵第一
編第二章︑第五章︑第二編第二章︶︑前著は上記の如き意味に於
て︑今日尚充分に存在廻由を有すと考えられるから`著者の学者
的潔癖を別とすれば︑本書は寧ろ前著の績篇として見ることを適
当とするであろう︒
さて先づ本書の内容を目次に依つて1
ホそ
う︒
金本位制の理論
金本
位制
の概
念`
第一
一章
・
﹁近代珊論﹂ー︑第四章 的機構︵その一︶ー國際牧支均衡に関する﹁古典珊論﹂と ー﹁金属学甑﹂と﹁名目学翫﹂ー︑第三章 第一章 第1編
金本位制の対内的機構
金本位制の國際
金本位制の國際的機構︵その
二︶ー國際牧支均衡に関する﹁古典理論﹂と﹁近代理論﹂
ー︑第五章金本位制下の購買力平債説金本位制の回顧'—,金本位制復帰より再離脱までー
定議
とし
て︑
﹁金本位制とは金の債格が確定し書との確定債格の の制度に対し従来下された二︑三の定議を挙げた後︑著者自身の 著者は勢頭先づ金本位制の定議を以て出発する︒即ち著者はこ ることにし度い︒ 解明の方向等を簡説することに依つて︑本害の内容の一斑を停え 質︑並びに問題の究明に当る著者の基本的態度︑求められる問題 では第一編を中心として︑本害に取扱われる問題の範囲とその性 亘つて︑頗る廣汎であり`簡輩にその要を壷し難い°依つてこと の範囲は︑貨幣制度と国際経済に関する理論並びに事実の両面に 即ちこれに依つても知られる如く︑本書に論ぜられている問題
一 章 第
1章
概観
︑第
一一
章
度︑第四章
第 一一 一
編
金池
金本
位制
︑第
一
1一 章
為替平衡賽金︑第五章
涌貨某金制度の先駆者としてのー 三國通貨協定ー國際
金本位制の展望ーー金本位制の後に末るものーー
國際
通貨
某金
︑第
一一
章
國際牧支の弾力性︑第四章 第1章
均衡為替相場の嘩論︒第
投賽乗数と貿易黍数 九四
金為替制
度である﹂と云う︒そして著者のこの掘念規定は︑従来最も一般
的に行われている金本位の定義︑﹁金本位制とは貨幣箪位と金の
一定擾とがその債値を常に等しくする貨幣制度である﹂と云うに
対照して︑特に意義ありとせられるのである
( = ‑ I
ー五
頁︶
︒
ととろが第一編に於て論ぜられている内容は︑卑見に依れば︑
これを一︱つの焦点に合わして見ることが出来るようである︒郎ち
その一は︑金本位制の榔念規定︑その種類︑その対内的機構の説
明を通じて︑貨幣の本質及び債値に対する著者自身の見解を明か
にするととであり︑その二ほ︑国際牧支均衡過程の.著者に依る分
析の仕方を見ることである︒第一の問題に対しては第一章︑第二
章が重要であり︑なお第五章がその補論的な役割をなすであろ
う︒第二の問題が第三章︑第四章を対象としなればならぬこと
は︑両章の楔題からも明かなところであって︑ここでは又︑近代
て置
こう
︒
さて先づ第一の問題について見るに︑上記の如き金本位制の定
義に関連して直ちに考慮に上るのは︑金の債値と貨幣の債値
の
t l
関係である︒ところが著者はこの時金の債値と金の債格との区別
を明確にし︑
貨幣に関する二つの近業
九五
﹁金本位制の下では金の債格が確定しているというしかし斯<云うだけでは箪に貨幣と金との債値関係が規定される 債格に依つて結びつけられ︑その債値を等しくする傾向がある︒ 著者に依れば金本位制の下にあっては︑貨幣と金とが確定せる 経芭坦論に対する著者の深い造詣が示されることを`予め注意し問が残るQ仮述参照︶︒尚この関迦に於て従来行われた金本位の ある時には︑両者の債値は自ら相等しくなるのではないか︒これ 格の一定なることは︑決して金又は貨幣の債値が一定であること 下に金より貨幣へ︑貨幣より金への韓換が自由に行われる貨幣制ことは決して通説にいうが如く︑金と貨幣とが常にその債値を等しくするという意味に解してはならぬ﹂︵七頁︶と云い︑又﹁金本位制の下において金の債値と貨幣の債値とが常に等しいというのは
い
4過ぎであって常に等しからんとする傾向ありというに過ぎ
ない°金本位制の下において常に同一にして変動せざるものは金
の債格である︒しかして金の債格のみである﹂︵九頁︶と強調す
る︒云うまでもなく金叉ほ貨幣の債値とは︑著者に於ても金又は
貨幣の購買力の謂であり︵二
0
頁 ︑
l l
一頁等参照︶︑従つて金の債l
を意味しない︒しかし一定の債格に於て両者の相互韓換が自由で
を相等しいと云うのを云い過ぎなりとする著者には︑勿論それだ
けの理由があるわけである︒けれどもこの文脈に於ては一応の疑
諸形態が︑金と貨幣との轄換が如何なる形式にて行われるかを撰
準と
L
て︑秩序的に分類せられる︵第一章第1云即
︶︒
貨幣に関する二つの近業
のみであって︑貨幣ないし金の債値が如何にして決定されるか︑
或いは貨幣の債値と金の債値との間に如何なる因果的関係が存す
るかについては︑何事をも語らない︒そしてこの問題については
周知の如く夙に金属学説と名目学脱との対立がある︒著者は金本
位制の対内的機構を究明するに当つて自らこの問題に立入り`金
属学諒の紹介と批評を通じて︑貨幣理論の上に於ける著者自身の
立場を明かにする︒
即ち金属学説にも種々の分甑があるが一その主要なるものほセ
ーーオールに依つて代表せられる金生産費説であろう︒との説に於
ては︑貨幣の債値は結局金の限界生奎費に依つて定まると説かれ
る︒けれども著者に依れば︑静態に於て金の限界生産費が貨幣の
債値に一致するととは当然であり︑如何なる名目主議者と雖もと
れを否定し得ない0金属学説︑名目学脱の対立は静態の領城より
も寧ろ動態の領械にあるのであって︑金の限界生産費そのもの
が︑貨幣の債値の菱動に依つて衷化するととを否定するに足る論
拠を示さない限り︑金属主蒻者は最後の論的を逸するととにな
る︒期くて著者は︑名目主義の側に立つ自己の立場を明白にし︑
﹁そもそも金属学脱においてほ財としての金の債値が郎ち貨幣の
債値であるから`財としての金の債値がいかにして決定されるか
を説明しさえすれば︑それがとりもなおさず貨幣の債値の説明に 最初の貨幣は地金としての金属の債値を継受したものであろう︒しかし金属は一度貨幣となるやその債値柚格を一変する︒即ちそれは貨幣たるととを止めない限り︑最早や消費対象としての意議を失い︑購買手段︵延いて債値保臓手段︶としての貨幣の意義にかかわらしめられてのみ評債をられ︑金属の債値は貨幣の債値を支持する担保たるに過ぎなくなる︒そして貨幣の流通が普及するに従い︑貨幣の債値は祉会的秩序︒なかんずく書法制及び慣習によりその漁自性を確立し︑甜つて担保たる金属の債値を支配するに至る︒かくて金と貨幣は主客を顛倒し電更に進めばついに貨幣は金属の担保を必要とをず︑たとえ兌換が停止或いは廃止ぜられても︑貨幣は優にその債値を維持し得るととにもなる︒この意味に於て金属が貨幣に対する関係は怜も建築に於ける足場の如しとも云われるのである
2 ‑ T ‑
= 頁 ︶ ︒
然らば貨幣の債値の根拠は何処にあるか°成程発生論的には︑
序文
一頁
︶︒
し ︱
J︑それ以外に特別に貨幣債値理論なるものを必要としないは
ずである︒従つて彼らにおいてほ金の債値理論あるのみである︒
しかもそれは︑債値理論一般の適用に過ぎず︑恰も鉄の債値瑯
論︑錯の債値理論が経済学において特別な地位を持たぬと同様に
何ら特筆されるべき理由を持たない﹂と論断する︵二四ー五頁︑ 九六
勿論かくの如くして成立し︑歴史的に蓮績して行く貨幣の債値
も︑それ自身時々蛮動する︒その時貨幣の債値を決定するものは
何であるか︒それは結局に於ては一国生産力と貨幣数量との関係
であ
る`
と著
者は
一字
9(
‑=
‑
=
T '
四頁︶
︒
ところが貨幣の債値も︵金本位制の下に於ては︶︑或場合には
金の債値からの制約を受ける︒即ち貨幣の債値が金の地金債値ま
で下つて来ると︑貨幣から金への韓換が生じ︑貨幣の債値はそれ
以下に下落するととを食い止められる︒これに反し貨幣の債値が
上昇する場合には︑それが余程極端でない限り︑金は比較的従順
にこれに追醸して行く傾向がある︒換言すれば通常貨幣の債値が
金の地金債値以上に上る場合には︑金がこれを抑制する力は比較
的に微弱であり︑ことに名目学説の論拠が存するのである
(
= l五
ー八
頁︶
︒
尚喜は第五章に於て︑カッセルの購買力平債説が不塾紙券制
下の為替相場だけでなく︑金本位制下のそれにも妥当するととを
論じ︑購買力平債は為替相場の落付くぺき均衡点を示すものであ
つて︑カッセルの説は︑通例解される如く物債←為替相場と一ぞ9‑
方的因果闘係を主張するものでないととを明かにする︒そして註
解して静態的為替理論と動態的為替廻論を区別する要を示唆して
いるととも︑著者の思考方法を知る上に注意すぺきであろう︵一
貨幣に関する二つの近業
四四
頁註
八︶
︒
九七
周知の如く金本位国の他の金本位国に対する偽替相場は︑金干
債を基準として金轍送点間に安定する傾向がある︒しかし金轍送
点に依る為替安定の反面には金の移動があり︑それは叉貿易に彰
響を及ぼすととが考へられる︒即ち金本位国間の貿易︑賽本移
動︑為替相場︑金の国際的分布等の諸現象が相互に如何なる関係
に立つかが更に深く究明せられなければならず.とれは云うまで
もなく国際経済均衡理論の問題である︒即ち金本位制の研究は自
ら国際経済理論の分野に入り込むのであって︑著者が本書に於て
力点を置く部分ほ寧ろこの部面であるようにも看取せられる︒と
ころが金本位制の国際経済的機能に関しては`近来所謂古典理論
と近代廻論との対立がある︒
古典狸論の最も素朴な形態はJ•S・ミルに於て見出される。即
ち仮りに何等かの原因に依り甲国に於て輯入超過︑乙国に於てそ
れに対応する轍出超過が生じたとすれば︑甲国に於ける轍入超過
←為替下落←金流出←貨幣謙減少←物債下落←貿易差額好韓乙
国に於ける轍出超過←為替騰貴←金流入←貨幣量増加←物債騰貴
←貿易差額迎韓の継起を涸じて貿易は再び均衡を回復し︑金の移
貨幣
に園
する
一︱
つの
近薬
動は止むに至る︒との経過は支彿差額︵相手国の受取差額︶が貿易
以外の原因から生じた場合にも同様に起り得るであろう︒尤もこ
の際一方的に移動した金がそのまま乙国に止まるや︑叉はやがて
甲国に還流するやについて`マイヤーに依れば古典学者の間に二
つの見解を抽出するととが可能であり︑又国際的賓本移動を考慮
に取入れるならば︑ケイソズに依る
B1
L = G ( B
ー貿品
差額
︑
L
ー投賽
差額
.
c
ー金移動︶なる定式化も可能となるであろう︒しかしいづれにしても︑破攘された均侮が金の移動に伴う両国の
︑︑
︑︑
︑︑
︑︑
相対的物債の菱動︑従つて所謂交易條件
( I ° f
日且もの菱化
に依つて︑再び均衡に簿かれるととを眼調するのが古典理論の特
色である
G
ユ七
ー六
九頁
︶︒
ととろがとのような素朴的﹁古典珊論﹂は種々の角度から拭充
され︑修正﹁古典珊論﹂と呼ばれるものに発展した︒とれ等の修
正は︑主としてゴッシェン︑マーシャル︑クウシッグ︑ヴァイナ
ー︑エンジエル等の学者に依つて施されたものであり︑とれを云
わば外延的と内包的の二方面より見ることが出来る︒
外延的に修正を要すと考えられる諸点は︑とれを甲国︵支彿超
盪国︶の立場から観察すればマ︵一︶外国為替の需要がその供給
を超えて増加すれほ︑必ずしも金の流出を待たずして通貨の牧縮
が起る︵銀行に依る外国為替の賣却は国内頭貨の回牧であるから︶ 合︶饂替相場の泄調は︑それ自体轍出を促進し轍入を抑
圧する作用を営むこと︑(=‑)為替の迎調は賽本移動に影響を及
ぼす
とと
會
て賽本の轍入を剌戟するとと等である︵七l
ー六
頁︶
︒
叉内包的に精密化を要すと見られる点は︑︵一︶金移動が通貨数量に及ぼす影響`(二)通貨数量が物債に及ぽす影響•(==)
物債蛮動が輸出入に及ぼす膨響等であり︑更に﹁金本位制下に於
ける﹂と云う限定條件を取除いて考えれば︑︵四︶不換紙券制下
に於ける国際牧支の均衡過程も亦問題に取上げられねばならない
︵七
七ー
九五
頁︶
︒
斯くて﹁古典理論﹂の修正が行き瘤くととろは`国際牧支均御
に関する﹁近代理論﹂である︒そして後者の前者に対する根本的
な特徽は︑牧支差額を瓢節するに必要な貿易差額の蛮化が︑購買
カの移轄←貨幣所得の痰化←需要の蛮化q支撓超過国に於ける誡
少︑受取超過国に於ける増加︶を通じて実現すとせられ︑必しも
前者に於ける如く相対的物債の褒化に依存をしめられない点にあ
る︒別言すれば﹁古典瑯論﹂は需要朕態の不変を薗提とするに反
し︑﹁近代廻論﹂は需要朕態の蛮化を重諷する︒との意味に於て
示ワイトが前者に於ける
s p e c i e ‑ f l o w ‑ p r i c
e m
g h g i s m
と︑後者
に於ける
c h a n
n
ーg g
←d e m a n d ‑ s c h d u l e s
m g
h g i s m
とを対立せ
こと
︑
︵四︶為替の泄調は利子率の騰貴を促し︑とれを通じ
九八
しめているのほ充分の理由がある︒更に云えば﹁古典理論﹂に於
ては債格変動に対する需要の弾力性即ち需要の債格弾力性が重親
されるに対し︑﹁近代理論﹂に於ては所得蛮動に対する需要の弾
力性即ち需要の所得弾力性が重課されるのであるが︑とのような
近代理論に於ては自ら次の三点が重要な問題となつて来る︒即ち
︵一︶貨幣的購買力の移韓は如何にして行われるか︑︵二︶購買
カの移韓に依り貨幣所得が如何なる程度に増︵減︶するか︑及び
合︶貨幣所得の増︵滅︶に依つて輯入需要が如何なる程度に増
︵滅︶するかである︵九九
‑ 1 0
二頁︶
︒
︵一︶の問題はオーリン︑イヴェルセソ等に依り︑所謂トラソ
スファーの問題として論ぜられたところであるが︑この問題の追
及は自ら︵二︶及び︵=一︶の問題に関連
L
て︑かの貿易莱数又は輸出乖数
( fo r e ig n t ra d e m u l ti p l ie r o r export
u l m t ip l i er )
の理論
に導く︒即ち著者はこの過程を跡つけつつ︑一定の輸出増分(A
X)
が限界輸入性向
( m
を形成し)の迎数倍に当る所得壻分(AY)
1 1
(A Y1 1ー を
X ,
従言貿易薬数はー︶︑同時に最初の輸出壻分m m
に等しい輸入増分C‑
M)
が成立する(AM=
. d X ,
~ つて貿易は
従来より高い水準に於て均衡が回復される︶関係を詳細に説明す
る
( 1 0 1
=ー
一四
頁︶
︒
次に甲国の輸出増分に依つて惹き起された外国0乙国︶の所得蛮
貨幣に関する二つの近業
九九
化が︑再び甲国の輸出に影響を及ぼし︑更にそれが反作用する所
謂
f or e i gn r ep e r cu s s io n s
の問題︑又上記の貿品薬数に於ては0
と仮定せられている国内の貯蓄及び投資の要因︑加速度効果の要
因等が︑順次に考察に取入れられ︑数式の展開に依る分析は一層精
密化される︒そして一般に
A
X1
A M
1 1 4
S‑
AI
=A
G+
AL
の
関係の成立することが明かにせられ︑斯くて﹁古典理論﹂に於て
国際牧支調盤の上に主動的役割を演じた金の移動は︑﹁近代理論﹂
に於ては国際牧支の調節作用の後に幾る不均衡に対する
st op
‑g ap
の役割を演ずるに過ぎないことが指摘せられる
2
一四
ーニ
三
ところが上来の論究は常に債格不疫の前提の下に進められて来
た︒しかしこの前提が充たされる為めには︑貨幣的有放需要︵貨
幣所得︶に対する生畜の弾力性が1であって貨幣賃銀の弾力性が
0であることを要する︵ケインズ﹁一般理論﹂第二十一章参照︶︒
そこで完全雇傭に於ては貨幣所得の壻加は実質所得の増加を売さ
ず︑唯それに比例する物債の騰貴を惹き起すに過ぎないが︑不完
全服傭の下に於ては貨幣所得の増大は実質所得︵生産水準ぷの上昇
を伴うであろう︒そして実質所得は雇用水準に蓮なる°斯くて物
債の変動を考慮に加えると︑貿易莱数に依り国際牧支均衡理論と
雇用理論とが結合され︑ここに餌に近代理論の名に値する理論へ 頁 ︶︒
れた国際経済現象の多くが︑所得放果を重諷する近代珊論に依つ
て容易に説明せられ得ることとなった︒例えば現実の商品移動が
国際牧支の蛮動に応じて驚くべき正確さと迅速さとを以て調整さ
れ︑その間金移動及び債格蛮動と云う予想される中間的階櫛が殆
ど謡められなかった事態の如きそれである︒しかし所得放果を強
調するに急にして︑債格放果を不当に軽諷するととも亦他の極端
に於て課謬を犯すものである︒即ち近代理論が国際牧支均衡痙論に新生面を開き、これなくしては現実の国際金融•経済現象を説
明し難いととは勿論であるが︑そのために﹁古典理論﹂の債値を
洩輝して顧みざるが如きととがあってはならない︒後者は前者と
並び或る場合は弱く︑しかし或る場合には強く協嗚しているので
ある︒多くの場合︑両者は互に補完的であり`そのいずれも事態 にした上︑結語として云う︒従来古典理論にとつて不可解とせら 貨幣に関する二つの近業
の道が拓かれる︒即ち古典理論に於ては︑均衡朕態即ち完全雇傭
朕態と観ぜられた︒しかし国際牧支の均衡は必ずしも完全雇傭の
下に於てのみ成立するものではない︒国際牧支均衡理論は︑如何
にして均衡が実現するかを説明するばかりでなく︑それが如何な
る雇用水準の下に於て実現するかを問題としなければならないの
であ
る︵
一ー
︱︱
︱︱
ー五
頁︶
︒
斯くて著者は︑古典理論に対する近代珊論の意議と性格を明確
ご一
九ー
=・
‑五
頁︶
︒
以上基本的理論の展開に当てられた第一編に績く﹁金本位制の
回顕﹂と題せられた第二編に於ては︑第一次︑第二次両大載間に
於ける金本位制への復帰及び再離脱の過程に於て︑国際通貨制度
の上に展開せられた主要な制度的機構並びにその運営が考察せら
れる
0前掲目次ド依つても知られる如く︑著者は第一章に於て事態
の推移を掘観した後︑第二章及び第三章に於て金本位制の新形態
としての金地金本位制と金為替本位制度とを︑第四章及び第五章
に於て金本位制離脱後に出現をる新制度としての謡替平衡賽金制
度と三国通貨協定とを採上げて︑これを論究する°事実の正確な記
違とその理論的な取扱いに依つて︑とのような制度的発展の意昧
が明瞭に印象づけられる︒特に為替平衡賽金と三国通貨協定に関
する章は︑近年に於ける通貨管珊技衡の発達について︑読者に新
しい知識を供することが少くないであろう︒そして著者はその論
述を通じて︑これ等の諸制度が国際蓮貨制度発展の階櫛に外なら
ず︑戦後の国際通貨基金制度が決して突如として生れ出たもので
ないことを明かにしようとするのである︒
四
の全続を説明するものでないことを銘記しなければならぬ︑と︵
1 0
0
貨幣に関する二つの近業 戦以後に於ける世界の貨幣的経験の緻密な観察と︑最新経済理論 凡そ以上の如きが本書内容の慨要である°郎ち本書は︑第1次大 ﹁金本位制の展望﹂と題せられた第三編に於ては︑第二次大戦
後に於ける新制度としての国際通貨基金制度と︑これをめぐる諸
問題とが考究せられる︒先づ第一章に於て﹁基金﹂の機猜が相当
詳細に説明せられ︑第二章以下に於ては︑﹁基金﹂の運用上最も
問題とされる均衡為替相場及び平債変更に関する諸問題が︑理論
的に考察せられる︒との際第一編に展開せられた国際牧支均衡に
関する基本的理論が活用せられ︑抽象的な瑠論的研究が具体的な
政策指向の示唆に結実されていることは︑充分に注目せられねば
ならぬであろう0紙幅の関係から第二︑三編の内容にはこれ以上
立入るを得ないが︑斯くて著者の到達せる結論はコ囲放体制にお
ける投賽乖数の性格を利用することにより︑為替相場の安定を識
牲にすることなく︑また投資乖数と貿易莱数との性格の相違を利
用することにより︑為替相場の蛮更を最小限度に止めつつ︑国際
諸点
であ
る﹂
牧支の均衡・と完全雇傭の達成とが可能なるべきこと.及び為替相
場疫更の適否及び程度を知るためには国際牧支の債格弾力性︵債
格放果︶と所得弾力性︵薬数放果︶との結合が必要なるとと等の
︵序
文ニ
ー=
︳頁
︶︒
1 0
の深い研究との結合を通じ︑貨幣理論又は国際経済理論に新し
い分野を開拓しようとして成功した害であると云うを得るであろ
ぅ°勿論論述の末端にかかわって云えば︑若干の疑問が提示せら
れ得ないでもない︒例えば金本位制の定議に於て︑著者が﹁金の債格が確定し•その債格の下に於て金と貨幣の自由なる相互韓換が行われる制度」と云5時•そのことは「貨幣輩位と金の一定量とが
その債値を常に等しくする制度﹂と云うと同1に帰するのではな
いであろうか︒文著者が名目主議の立場に立ち︑貨幣の債値が金
の債値に依つて決定せられるのでないことを論証する理路は整然
としているが︑然らば貨幣の債値そのものが何によって決定せ
られるのであるかは︵先に引用した二︑三の簡単な記述以上には︶
必しも明確にされていない︒そしてこの問題は債値の掘念及び
貨幣本質の問題にも関連を有つが︑これ等の点に関し著者が︑貨
幣は貨幣独自の意義にかかわらしめられてのみ評債されることを
主張しながら︑同時に︑貨幣の本質はそれみずからに使用債値を
欠如
する
点に
ある
と述
べて
いる
(︱
︱
1
1頁︶ととにも︑読者は恐ら
く説明の不足を感ずるであろう︒
しかし思うに︑著者が本書に於て力点を置くのほ︑貨幣債値の静
態理論であるよりも寧ろその動態理論であるであろう︒金本位制
に対する弘通の定義に対して︑著者が敢えて自已の定義を設ける
貨幣に関する二つの近業
所以もこの故であり︑叉貨幣債値に関する金属主義と名目主義の
論議から国際牧支均衡理論えの飛躍的な移り行きも︑斯く観する
ことに依つて自らその理論的逼関を理解することが出来る︒
国際収支均衡理論の領域に於ては`著者は新しい経済理論の実
体と方法に対する深い理解を示している︒﹁金本位制と中央銀行
政策﹂に於ては見られなかった著者の姿が︑ここでは生彩を帯びて
躙動する︒而も前著に示された制度的並びに理論的研究の手堅さ
は︑本書に於ても一層確実性を増して受け継がれているのである︒
この二十余年間に於ける著者の精進の跡を思わすに充分なものが
あり`本害がこの分野に於ける理論的研究及び実際間題の解決に
寄興するところは︑蓋し搬少ではないであろう0筆者自身本害に依
つて激えられるところ多かったことを附記して紹介の筆を掘く︒
安田信一著﹁貨幣本質論序説﹂
ー 動 態 論 的 展
開
I
貨幣・金線に関する理論的研究は︑近年特に金融理論の分野に
於て︑目覚しい発展を遂げた︒そしてその発展が︑主として金融
理論
の
1般経済廻論えの接近︑若しくは両者の融合を指向してい き﹂とは︑時に論者に依つて指摘せられる如くである︒
ところが金熾理論の発展は︑自らその基盤として貨幣の本質論
的研究を要請する︒云うまでもなく金融理論は︑何よりも貨幣の
流蓮局面を問題とするものであるからである︒けれどもこの際要
た如き︑狭き蔵野に限定せられたそれであってはならず︑云わば金
融理論の一般経済理論化に対応する︑より廣い観点からのそれで
なければならない︒即ちそれは貨幣経済そのもの4深き洞察に基
き︑これと密接な関弧に立てる本質論的研究であることを要す
る。~Jの意味に於て今日、貨幣の本質は、新しき金融理論乃至は
貨幣経済一般理論の見地から︑再検討せられねばならない段階
にある︑と云うを得る︒
安田激授の新著﹁貨幣本質論序脱ーー動態論的展開﹂は︑量的
に大ではないが︑正にこのような狸論的要請に対えようとする野
心的な著作であると見ることが出来よう︒即ち本書に於ける著者
の意図は︑次の如き序文の一節に端的に語られている︒日く︑
﹁貨幣本質に関する理論は貨幣理論の中核的なる地位を占むる
も︑このととは他の分野に於ける発展と独立的なる関係にあるこ
とを意味するものではない︒同時に叉金融理論は現在までは飛躍
的に発展をしたが︑これに相応ずる本質理論の発展なしには早晩 請せられる貨幣の本質論的研究は︑従来所謂貨幣論に於て為され
1 0
1の限界に到達せざるを得たいであろう﹂︒然るに﹁貨幣の本質
に関する理論に於てほ今日なほ従末の理論が重要なる地位を占め
てゐる︒とのととほとの部門に於ける珊論の末発達を示すものと
云ふべく︑殊に金融理論に於ける発展を経過した今日に於てほ`
従来と異なりたる本質理論が確立せられるを要すべく︑且つとれ
によりてのみ金融理論に於ける発展を補完し︑更らにその発展を
促進すべき礎石ともなり得るのである︒著者ほ斯くの如き立場よ
り貨幣本質の研究に関し微力を壷して来たのであるが︑本書は即
ち今日までに到達せる結果である﹂と︒
とのような見解に立つ著者の研究ほ︑それ故に先づ貨幣経済そ
れ自体の分析に始まる︒そしてその為めに第1に取上げられるの
は︑古典甑以来経済理論の甚本的仮棚とせられる静態経済と貨幣
経済との関係である︒著者はとの関係の考察から問題解明の端緒
を開とうとするのであるが︑斯くて本書の内容ほ凡そ次の四章に
分た
れる
︒
幣の
本質
︒第
一
‑
章貨幣の本質に関する諸学翫︑第四章1
幣本質に関する諸問題
貨幣に関する二つの近藻 先づ第1章について著者の論ずるととろを聰とう︒第1に問題 第一章静態経済と貨幣本質︑第二章
貨
貨幣経済的均衡と貨 とせられるのは︑孵態経済の仮構とそとに於ける貨幣の地位とである︒どグーは経済静態を一ー一の段階に分つて仮霰するが︑その場
合常に前提せられるのは︑興件の1定と各経済主体の側に於ける
完全予見とである︒ところが完全予見の支配する経済に於ては︑
交換手段としての貨幣は純粋珊論的には必しも存在するを要しな
い︒ピグーは貨幣の本質を一般的交換手段なりと規定するが︑斯
かる意味の貨幣は便宜的存在であって︑輝謡i経済の外部から導入
せられざるを得ないであろう︒従つて貨幣の流通ほ猿自の意味が
輿えられ得ず︑そこには古典甑に偉統的な貨幣ヴェール観が成立
っことになる°貨幣単位の債値を興えられたものとし︑先づ諸財
貨の相対債格について均衡を考え︑然る後貨幣を導入するカッセ
ルの二元論的方法も.右の貨幣ヴェール観と思考の線を等しくす
るものと云うを得るであろう
2
ー六
頁︶
︒
ととろがとのような貨幣本質観に対しては︑厩に知られる如
く︑ヒックス並びにローゼンシュクイン・ロダンの批判がある︒
即ち完全予見の支配する静態経済に於てほ︑各経済主体ほ腑来の
為めに貨幣を手持ちするを要せず︑従つて貨幣の存在量は0
とな
るから︑貨幣の流通速度ほ無限大となり︑物債水準は決定せられ
得ない︑換言すれば経済主体の完全予見と貨幣所有とは両立し得
ないとする批判である︒けれども完全予見の支配する下に於ても
1 0
1 ︱ ︱
るものとしての貨幣は︑ワルラスの
n u m h
‑ a i r e ,
若しくはヒッ 貨幣に関する二つの近業
経済主体の側に於ける﹁便宜﹂の動機又は貨幣支彿に関する制度
的要因を認容するならば︑静態に在つても1定の現金残高の存在
は考えられ得るのであって︑ヒックス︑ローゼンシュクイン・ロ
メンの批判は︑そのままとれを受入れることが出来ない︵七ー1
0
頁 ︶然るに静態経済に於ては︑交換手段たる貨幣はこれを欠き得る ︒
も ︑
1般的債格表現手段又は債値の共通分母としての貨幣ほとれ
を欠き得ない︒即ちとの機能を果す貨幣は1般均衡の成立の為め
に論理的に必要であって︑それ故に貨幣の根本機能をと4
に見
よ
うとする見解が生れる盆凸国では栗村博士V°云うまでもなく斯か
クスの巳
a d o w m o n e
である︒それではこの一般的債格表現手段
y
であるととを以て︑貨幣の本質的機餡と見得るであろうか︒若し
孵態経済を貨幣経済の理憩型であるとすれば︑明かにとの見解ほ
正当である︒けれども静態経済が果して貨幣経済の理想型である
か否かには︑尚1の問題が残るであろう
2 0
ー六頁
︶︒
ととで著者の謂う貨幣経済が資本主義経済と同議語であり︑賓
本主鶉経済の重要な特質が︑企業に於ける賽本の循環
G ‑ W
‑ G
にあるととを注意しなければならない︒孵態経済に於ても勿論企
業は存在するが︑直荼
1 1 舟瞭澤である限り︑利潤の実現はあり得 ず︑云わば企業は1の中間項に過ぎない洵にシュンペークーの0
云う如く︑期かる意味に於て﹁企業者の欠けている﹂ととこそが
静態経済の特質である°故に静態経済の仮構は︑経済の実物的側
面を端的に示しているが︑賽本主議経済の特質であるその貨幣的
側面を︑充分に反映していないと考えられる
( 1
八ー
ニニ
頁︶
︒
このことは︑祉会主議経済︵非賽本主義経済︶に於ける貨幣の
役割を橡討するととに依つて︑1層明かとなるであろう︒即ち著
者は競争的趾会主議の下に於ける経済計算の問題に論及し︑ディ
キソスン︑ランゲ︑*ール等の所説を吟味して書孵態的仮構の下
に於ける貨幣の地位と︑競華的砒会主議の下に於けるそれとは全
く同
1であるとと︑即ち何れの場合に於ても貨幣の根本的機能は
債格表現手段たる機能であって︑交換手段機能は便宜的な機能で
あるととを指摘する︒そして資本主鶉貨幣の本質を求める為めに
は︑それ故に︑孵態的仮構の下に於ては無親をられている貨幣の
特質ーーそれは利潤の追及を目的とする企業の本来的地位︑或い
ほ貨幣それ自体が経済活動の目的とせられることと関蓮するーー
を ︑
1
層明確にせねばならないと云う( 1 1
= = ー ︱
1
︱0
頁 ︶︒
第二章はその紙数に於ても︑腑又その内容に於ても︑本書の中
心的部分をなすと考えられる︒と人で著者は先づケイソズの﹁貨
1 0
四
幣経済とは本質的に狩来に対する予想の変化が雇傭の方向のみな
らずその量をも支配し得る経済である::
. .
.
﹂ と 云 う 規 定 を 引 用
し︑斯かる規定が貨幣経済︵資本主義経済︶の特質を最も明確に
示したものであるとする︒さて然らば予想の変化が問題となり得
る経済とほ如何なる経済であるか︒それは経済現象が絶えず変動
し︑経済主体にとつて賂来に於ける危除要素の存在する経済であ
る︒そしてこのような経済に在つてほ︑その将来の危瞼に備える
為めに債値の保蔵が必要となり︑その手段としての貨幣が重要な
意味を有つて来る︒即ち貨幣経済に於ける貨幣需要は︑交換手段
機能に依るそれと︑債値貯臓手段機能に依るそれとから成るが︑
危瞼要素と結び付く貨幣需要は後者であり︑それ故に︑貨幣経済
に特有なる貨幣需要は︑この債値貯臓手段としての貨幣に対する
需要である、と見られねばならない(===-—八頁)。
ところが︑貨幣が債値貯蔵の手段として機能すると云うこと
は︑貨幣がそれ自体1の財貨であるととを意味する︒蓋し貨幣
は︑経済主体の保裁欲求を演足せしめる放用を有つと云う意味に
於て︑他の諸財貨と同列に置かれねばならないからである︒この
関遁に於て︑家計に依る貨幣取得は実質所得獲得の為めであり︑
企業に依る貨幣取得は貨幣それ自体を目的とするのであって︑両
者の間に基本的な差異の存することが叉注意せられる(‑=九ー四
貨幣に関する二つの近業
1 0
五 とこで著者は相当の頁を割いて︑ウィクゼルの自然利子論︑fヽ ヽ
格を異にする財貨である︒即ちそれは一般的交換能力を有つ財貨
であって︑貨幣が債値貯蔵の対象となるのも︑A﹂の一般的交換能
力を前提としている︒その意味に於てぼ貨幣の債値貯蔵手段機能
は︑その交換手段機能を前提としていると云い得るであろう︒し
かしその点は暫く措くとして︑危瞼要素の存在する経済に於てほ
経済主体はその危瞼に対する準備として富を所有せんとし︑且つ
その1部'1多かれ少かれ'~を貨幣にて保有しようとする°経
済主体がその富の幾何の割合を貨幣形態に於て保有しようとする
かほ︑経済の勝来に対する主体の予想に依つてかかるが︑その結
果として︑祉会に幾何の貨幣が保有せられるかに依り︑全体とし
ての経済活動は叉重要な影響を蒙らざるを得ない︒ことに於て自
ら二の問題が生ずる︒即ちこの貨幣所有の割合︵従つて貨幣数量︶
ほ如何にして決定せられるのであるか︑並びに貨幣数最の夜化は
経済活動の上に如何なる影響を及ぼすかである︒そしてとれ等の
問題を考察する為めには︑所謂貨幣経済的均衡の吠態を明確にす
る必要がある︵四四ー六頁︶︒
ルダル︑オーリンの貨幣的均衡の眠念︑ケインズ︑ヒックスの利子 斯くて貨幣は1の財貨であるが︑同時に叉他の物財とは自ら性
四頁
︶︒
貨幣に関する二つの近薬
理論等につき︑貨幣経済的均衡の構造を分析しヽ且つ論者の所甑
を比綾檄討している︵四八ー八九頁︶︒今は一々その内容に立入
るを得ないが︑それぞれの理論の解明が簡潔︑定確であり︑又諸
説の対比を蓮じての批判にも聴くぺぎ論の多いととは︑ととに附
記して置かねばならない︒
ととろが斯かる貨幣経済的均衡の分析に於ては︑自ら利子の問
題が登場する︒そして利子率に関渾してほ︑叉それの決定要因と
しての誓︑投賽︑賽金︵賽本︶の需要供給︑流動性選紅貨幣
の需要供給等々の要因が問題とせられる︒著者は上記諸論者の所
説についてとれ等の問頴lを橡討し︑結局貨幣経済に於ける均鮨
ほ︑当然その内部に自ら菱動︵発展︶の要因を含む動的拘衡であ
ること︑形式的に云えば︑貨幣経済的均衡と欝態的均衡との相違
は︑賽金の債格たる利子率を含むか否かにあることを明かにす
る︒そしてケインズ利子理論の重要性は︑それに依つて姶めて貨
幣需要の根源を求めるととが可能となり︑貨幣の財貨性並びに貨
幣経済の実物経済と異る所以を明かにし得る点にあると云う︒
別雷すれば︑貨幣経済と実物交換経済とを含む交換経済1般
︵非交換経済と対比せられる意味での︶の理想型を求むれば︑そ
れは即ち静態的仮構である︒これに対し実物交換経済に対する貨
幣経済の特質を求むれば︑その珊惹型は動的均御たる貨幣経済的 均衡となる°貨幣経済に於てほ︑富の保有形態の一としての貨幣が重要な役割を営むS実物経済に於ては貯蓄は常に物財の保蔵に
依つて行われる︶︒故に貨幣経済を特徽づける貨幣の機能を以て
その本質的機能と解するならば︑との場合貨幣の本質的機餌ほ債
値貯蔵手段機能であると云わねばならない︒と同様に︑孵能的仮
構に於てほ︑賃幣の根本的機能は債格表現手段となるであろう︒
更に云えば︑現実の貨幣経済は実物的要素と貨幣的要素との両
面から構成せられている︒との両面は︑中山博士の謂う現実経済
の己態的局面﹂と﹁動態的局面﹂に対応するとも見られ得よ
う0故に貨詔経済についても︑その実物的要素の面を重親して貨
幣の本質を抽出すれば︑それは債格表現手段となり︑とれに反しそ
の貨幣的要素に重きを置くときは︑債値貯蔵手段が貨幣の本質的
機能となる︒ととろが実物的と貨幣的の両要素が︑その相互制約
を通じて貨幣経済を構成する如く︑貨幣の根本機能乃至その本質
も︑究福ほとれ等債格表現手段及び債値貯臓手段の両機能をその
内部に含み︑且つとれを統1するものに求められねばならぬ︒そ
して貨幣の交換手段機能とそほ︑との両機能を媒介し︑統一すると
ころの本質的要素である°蓋し貨幣の債値貯臓手段機能は︑貨幣
の1般的交換力を前提とし︑又その交換手段機能は静態的段階に
於ても︑債格表現手段機能と相並んで存在することが可能である
1 0
六
斯<著者は積糎的に自已の貨幣本質観を開示したる後︑従来の
貨幣本質理論並びにこれに関連する若干の問題について︑1ホ
唆に
富む論評と省察とを加えている︒即ち第一=章に於て先づ︑従来の
理論に於て貨幣の機詣として説かれた交換手段︑支彿手段︑債値
尺輿債格表現手段︑計算貨幣︑債値貯識手段︑賽本移轄手段等
の諸機能を挙げ︑そのいづれかの1を貨幣にとつて根本的と見る
に基き︑それを以て貨幣の本質とする各学諒を験討する︒そして
貨幣に詞する二つの近業
四
からである︒しかしその作用態様に於ては︑とれ等三機能の間に
相互依存の関係の存するととも︑とれを認めなければならない︒
もとより貨幣が一般的交換力を有する為めには︑貨幣は︑金属
主義論者が云う如き意味に於ての物財であるととを要しない°抑
も貨幣経済とは︑本末的にはその構成員の信頼関係︵各経済主体
が相互にその交換により必要なる財貨を入手し得ると云う信輯︶
を基礎として成立する経済であり︑従つて貨幣も亦`期かる信頼
関係に基いて成立する1の財貨である°否寧ろ︑貨幣ほ斯かる信
輯関係の最も具体的な結晶物として︑一般的交換力を興えられた
財貨であると云い得よう︒即ち斯くて実物的には1片の紙に過ぎ
ない不換紙幣が︑一般的交換手段として機能し得る所以もよく脱
明せられ得る︵九〇ー
1 0
四頁
︶︒
1 0
七 類した著者の︑との問題に対する答解ほ凡そ想像せられ得るとと これ等の学脱は貨幣の諸機能のうちその一乃至一一のみを重親し︑
これをその根本機能と考えるととに於て︑貨幣経済に於ける貨幣
的要素と実物的要素の作用を考慮するに充分でなく︑その為めに
貨幣の本質把握に於て1面的となったのであると云う(10
五ー
1六頁︶︒又貨幣本質に関する学醗は周知の如く大別して金属主
議と名目主議の二系統に分たれるが︑著者は更にこの調角に於て
浮び上る諸論者の貨幣本質論を考察し︑著者自身の貨幣本質観
は︑この分類に於ては名目主議に属するととを認容する︒しかし
貨幣に財貨性を認め︑その根拠を証会の信韻関係に求める点に於
て︑自説は爾余の名目主義学説と異ることを主張している︵一1
七ー
ニ五
頁︶
︒
第四章に於て取上げられる貨幣本質に関する諸問題の第・1
は ︑
国家と貨幣本質との関係であり︑ととでは当然クナップの貨幣国
定厩が問題となる
( 1
二七
ー︱
‑︳
六頁
︶︒
次に
不換
紙幣
制度
下の
貨
幣が問題とせられるが︑飯に自己の見解を名目主義学説の側に分
ろであろう°唯との胴蓮に於て︑金の世界貨幣的性格を重親する新
金属主議論者の所證に対し︑著者が左の如ぎ言をなしているとと
を注
意し
よう
︒
﹁金属主義的立場に於てほ世界経済に於ける貨幣
と国内経済に於ける貨幣との一体的把握が試みられている︒とれ
に対し吾人は必しも斯くの如きことを必要とは考えない︒蓋し両 貨幣に関する二つの近業
経済はその領械︑市場を異にし︑且つ市場を相違するときには異
りたる貨幣が存在すると考へるが故である﹂︒別言すればコ国内経
済に於てはその構成員相互間の信頼関係が十分に強固なるため紙
幣︑銀行預金等が貨幣となり得るのであるが︑世界経浮に於ては
今日なほとれに欠くるところある為め金が貨幣となってゐるので
ある
﹂と
︵一
四ニ
ー︳
︱‑
頁︶
︒
最後の問題は懸性インフ
V
Iション下の貨幣の問題である°周
知の如く悪性インフレージョンが福端に進んだ場合には︑不換紙
幣は鼠なる紙片となり︑最早や貨幣ではなくなる︒即ちこのような
場合︑第1次大戦後のドイツに見られたる例に依れば︑債格表現
手段並びに債値貯蔵手段として作用するものほ金叉は外国貨幣で
ある︒すると斯かる事例は︑不換紙幣をもこれを貨幣とする著者
の貨幣本質観に矛盾しないであろうかの疑問が生ずる︒これに対
し著者は︑悪性インフレーショツの時期に於ては︑貨幣に具体化
された祉会的信頼関係が最も薄弱化されて居り︑貨幣経済を構成
する実物的要素と貨幣的要素のうち︑実物的要素が強力に作用す
るから︑その破局化の際にはとの信頼関係を基礎としては︑物財
以外に貨幣となるべき適当なものがないからである︑と説明する
2
四四︑一四八ー五0
頁 ︶︒
以上筆者の理解に従つて本書に於ける主要な論点を摘記した︒
取扱われた問題の一々について筆者の所見を附加することが︑同
学の者の義務であろうが︒今はこれを果すだけの紙幅が興えられ
ていない︒唯簡輩な評言乃至読後感を記してその責を塞ぎ度いと
思う︒先づ感ぜられることは著者が貨幣理論に於ける極めて困難
な問題に︑花面から立向ったその馘摯な学問的態度である°知ら
れる如く貨幣本質の論究は︑厩に幾多の優れた学者に依つて様々
の角度から為されて居り︑との分野に於て新らしい境地を切開く
ことほ決して容易な業ではない︒著者は敢てこれを近代経済理論
の成果を取入れた動態論的親角から試みた︒何よりもその勇氣を
牡とすべきであろう︒
従つて著者の研究は︑旧き観念に於ける貨幣理論の範囲を超え
て︑より廣く一般経済理論の領域に及んでいる︒郎ちことで著者
は均衡理論の新しい発展︑ケイソズ理論を中心に展開せられた最
近の動態理論を主要な著者について系統的に追及し︑その結果を
簡潔に而も正確に記述している︒この部分について云えば本害
は︑新しき貨幣的経済理論の信頼すぺき要約嘗としても︑1
つの
業績たるを失わぬであろう︒
しかし固より本害についても︑若干批判せらるべき点が指摘を
られ得ないのではない︒卒直に云えば︑本書に於ては︑諸学者の
1 0
八
精緻な理論は明快に解明せられているが︑著者自身の積極的な主
張が稲明確を欠いでいる感がある°勿論著者は行論の間に膜々諸
けれどもその差異点の主張は論理的に強く印象づけられない感が
あるのではないか︒例えば貨幣を以て債値貯蔵手段︑債格表現手
段︑一般的交換手段の統一者と論定するに至る過程の如きそれ
である︒叉貨幣経済が実物的要素と貨幣的要素から構成せられる
と云う時︑その実物的要素︑貨幣的要素の意味︑並びに両者が貨
幣経済を楷成する諸関係は︑必しも明確に説明せられているとは
云い難いであろう︒尚全体を逍じ文章に梢生砺な感あることも敢
えて附言して置き度い︒
しかしながら本書は︑表題にも示される如く﹁序説﹂である︒
この序説を基礎とし︑進んで建設的な貨幣理論乃至金融理論が打
ち立てられるぺきであろう︒その意味に於て︑最近に於ける経顎
理論の発展にまで説野をひろげ︑その成果を取入れたこの﹁序説﹂
ほ︑やがてその上に築き上げられるであろう建設的な理論を︑期
待をしめるに充分なものがある︒本書に於ける著者の意図ほ︑1
応達せられていると云つてよいであろう︵本文一五︱
‑
頁︑産業経l
済祉
発行
︒︶
貨幣に関する二つの近業 学者の貨幣本質観と自己のそれとが相異する所以を述べている︒