大川玲子著『イスラーム化する世界―グローバリゼ ーション時代の宗教』平凡社,2013年5月,208頁
著者 浪岡 新太郎
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies
巻 45
ページ 137‑144
発行年 2014‑03‑31
その他のタイトル Reiko Okawa, Islamized World: Religion in a Time of Globalization, Heibonsha, 2013, 208pp.
URL http://hdl.handle.net/10723/1927
【書 評】
大川 玲子著『イスラーム化する世界
―グローバリゼーション時代の宗教 』
平凡社,2013 年 5 月,208 頁
浪 岡 新太郎
1.イスラーム化とグローバル化
イスラームについて,私たちは何を知っている だろうか。私たちは,ムスリムたち個々人の具体 的な生活についてはほとんど知らないにもかかわ らず,彼らの一般化されたイメージについてはメ ディアを通じてよく知っている。イメージの多く は,名誉殺人やイスラーム過激派のネットワーク などに注目することで,男尊女卑,政教一致など の価値やテロリズムなどの暴力現象とイスラーム を結びつけている。さらに,このイスラームのイ メージが「アラブ諸国」や「中東」といった,必 ずしも厳密に規定できない地理的特殊性と結びつ くことで,イスラモフォビア(islamophobia)とア ラブフォビア(arabphobia)が重ねられ,宗教-人 種的な差別の構図が漠然とつくり出されている。
実際,表現の自由など近代的な普遍的価値をグ ローバルに広げていこうとする欧米諸国と,他方 でのイスラームという時代遅れの価値をもつ伝統 的な宗教を絶対視する特異なアラブ諸国や中東と いった二項対立に基づいた解釈は珍しくない。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件や,
デンマークの新聞がムハンマドの風刺画を掲載し たことがアラブ諸国の反発を受けた事件もこうし た二項対立から解釈された。
本書の『イスラーム化する世界』というタイト ルは,この二項対立を批判する。イスラームは地 域的に限定されず,アラブ諸国以外でも,既にロー カルな経験をふまえて活発なクルアーン解釈が行
われている。そして,世界が現在経験しているグ ローバル化をイスラームも経験している。そもそ も,グローバル化は,イスラームが元来もってい た志向性である。したがって,イスラームは現在 のグローバル化の中で「新しい世界の形成に大き く貢献するのではないか」(21頁),と著者は考え ている。
たしかに,著者が強調するように「ムスリムは 中東以外にも世界中に居住し」(14頁),さらに国 境を越えてマイノリティとして生活するムスリム の数は増えているので,地理的なイスラーム圏は 広がっているといえるだろう。たとえば,イラン のホメイニ師による,クルアーンへの批判を理由 とした英国在住作家サルマン・ラシュディに対す る死刑の「ファトワ:判断」(1989 年)も,欧州 が既に1800万人を超えるムスリム系の移民出身者 を抱え,イスラーム圏に入っていることの証左と して読むこともできるかもしれない。
そもそも,著者によれば「グローバル化」を,
「『ローカル』と『グローバル』を対立項として見 るべきではなく」(16頁),国境を越える人やモノ や情報の移動の活性化のみならず,それに伴うグ ローバル/ナショナル/ローカルといった枠組み の明確な区別(独立性)がもはや成立しがたくなっ ている状況として考えるべきである。その場合,
デンマークでの風刺画事件も,デンマーク在住ム スリムたちによって激しく批判され(ローカル),
この批判がナショナルな空間にとどまらず,イン ターネット空間などを通してアラブ諸国のムスリ ムたちの批判を呼び起こした(グローバル)とい
大川 玲子著『イスラーム化する世界 ―グローバリゼーション時代の宗教』
う点で,グローバル化に伴う空間カテゴリーの変 容をムスリムが経験していることを示すものとし て理解できるかもしれない。
したがって,イスラームはグローバル化と無関 係どころか,既にグローバル化の中で機能してい るといえる。そもそも,著者が述べるように,国 境を越えて共有されるアラビア語のクルアーン や,巡礼の仕組み,さらには信仰の共同体として のウンマ概念をはじめ,イスラームは元来,グロー バルな志向性をもっていた。したがって,グロー バル化はイスラームに異質なものではなく,イス ラームのグローバル化への志向性が現在のグロー バル化の中で促されつつあるといえる。
本書は,4人のムスリムマイノリティ(ムスリ ムがマジョリティではない地域での生活を経験す るムスリム)たちのクルアーン解釈の紹介を通し て,彼らがこのグローバル化の中でそれぞれの生 活の場でのローカルな経験をふまえたクルアーン 解釈をつくり出していること,実際この解釈がグ ローバルに流通していることを明らかにしてい る。
著者は,クルアーン解釈の専門家として,すで に複数の単著を著しており,その中で,当初の古 典的なクルアーン解釈からアジアを含め,ムスリ ムがマイノリティとして生活する地域での現代の クルアーン解釈に関心をもつようになっている。
本書もこうした著者の研究の延長線上にある。本 書は,1章でイスラームとクルアーンについて一 般的に解説し,2章から5章までの4章各章をム スリムマイノリティ 4 人の一人一人に充ててい る。そうすることで,クルアーンの解釈について 基礎的な知識をふまえた後で,4人がどのように その解釈の方法並びに内容において特徴的である のかを比較の上で明らかにする。
2.クルアーンの解釈
クルアーンの非時間性と歴史性
本書が扱う4人のムスリムたちは,皆,グロー バル化の進展の中で注目され,出身地を超えて活 動し,英語でクルアーン解釈を行っている。ロー
カルな経験に基づいてクルアーンを解釈するとい うことが,従来クルアーンが解釈されていた社会 的条件と大きく異なる条件を経験するムスリムマ イノリティにとって必要であることはよく理解で きる。しかしながら,クルアーンを時代や社会的 条件に応じて解釈することは可能なのだろうか。
クルアーンは,天使ジブリールがムハンマドに 運んできたままに弟子たちに伝えられる「神の言 葉」であり,現代まで加筆や修正なく継承されて きたとされている。この意味で,クルアーンは非 時間性の中で存在するといえる。とはいえ,クル アーンが特定の時代の中でムハンマドに伝えられ たものであるとされる以上,その歴史性を否定す ることはできない。イスラーム研究者の小杉泰が 述べるように,このクルアーンの非時間性と歴史 性の葛藤を把握した上でクルアーンとしての非時 間性を確保することがクルアーン解釈においては 常に問題となる(小杉:2009)。
クルアーンの解釈の変容
この点について著者はまず1章において,近代 以前の解釈のあり方として「伝承による解釈」(36 頁)を紹介する。当時のクルアーンの解釈の主流 は,ある句の意味を理解するためにクルアーンの 他の関連する内容の句を参照する,クルアーン以 外の情報を用いないクルアーン解釈である。それ では句の意味が明確ではない場合にはハディース
(予言者ムハンマドの言行伝承)に依拠して解釈 を行い,それでもまだ明確ではない場合にはサ ハーバ(教友:ムハンマドと同じ時代に生きた信 徒)の言葉を用いる。最後にそれでも意味がはっ きりしない場合にはタービウーン(後世に続く人 たち:ムハンマドの死後に生まれたが,サハーバ と接した世代)の言葉を用いる。
このようにクルアーンと伝承によってクルアー ンを解釈することが,伝承による解釈の典型例で ある。この解釈は解釈者の意図を可能な限り排し,
アッラーとムハンマドの意図を純粋に汲み取ろう とする。しかしながら,こうした解釈では背景が 大きく異なる時代を生きる人々の具体的な疑問に 答えることが困難であった。伝承による解釈が支
配的であった状況が一変し,「個人見解によるクル アーン解釈」が広く認められるようになるのは,
「西洋」との接触を意味する近代に入ってからで ある。
「自分たちの社会の停滞と西洋の影響力の大き さに危機感を覚え」(43頁),これまでの社会のあ り方に疑問を感じるようになり,それがクルアー ンの解釈にまで及ぶようになる。その代表的なも のが,エジプトの雑誌『マナール:灯台』に連載 された解釈である。「この解釈の最大の特徴は,社 会問題に言及していることで,解釈手法は伝承の 援用が少ない『個人見解による解釈』の範疇に入 れられる」(44頁)。
以来,「ウラマー(宗教学者)出身ではない者が 伝承にのみ準拠しない解釈方法論で,時代や社会 の影響を除外することなくクルアーン解釈を提 示」(45頁)することが増えていく。こうした中 で,現在では解釈の方法論を巡る議論も盛んに なっている。したがって,本書の各章で扱う4人 のムスリムの解釈もこの近代における解釈の系譜 に連なることになる。
「アメリカ人『フェミニスト』の模索」(49頁)
2章で扱われるのは,フェミニズムの観点から 平等を目指す,アメリカ合衆国で生まれた黒人女 性の改宗者のアミナ・ワドゥード(ヴァージニア・
コモンウェルス大学教授)である。彼女は1970年 代にイスラームに入信し,ミシガン大学で博士号 を取得している。『クルアーンと女性-聖なるテ クストを女性の視点から読む』(1992)を著してい る。彼女は,アメリカ合衆国を拠点とするが,イ ンドネシアや南アフリカ共和国など世界中で活動 している。
ワドゥードは,クルアーンのこれまでの解釈が,
男性中心主義,さらにはアラビア語の支配性にみ られるようなアラブ中心主義に基づいていた点を 批判する。そして,クルアーンは普遍的な男女平 等を求めるのだから,特定の文化や時代背景にと らわれるべきではないと主張する。「ある特定の時 間と場所で下された啓示における女性への態度が クルアーンの個別表現を形成している。…これら
の個別な事柄はクルアーン全体の意図ではない」
(68頁)のである。したがって,彼女自身も自分 の解釈を絶対視しない。このように,彼女は男性 による女性差別をテーマとしてクルアーンを解釈 していく。
ではワドゥードの男女平等観とは具体的にどの ようなものだろうか。著者はいくつかのキーワー ドに注目しながら彼女の考えを明らかにする。著 者によれば,「人間の間に本質的な差は存在しな い」(80 頁)。違いがあるとすれば,「アッラーは 富や民族性や性,または歴史的背景によってでは なく,タクワー(1)によって人々を区別する」(83 頁)からである。「同じナフス(2)から生まれた個 人である男女は平等であり,ただその違いはタク ワーという行為の敬虔さによる」(85頁)のであ る。彼女はこの考えから,「女性の役割を家庭に限 定しようとする」(86頁)発想に基づく社会のあ り方を批判する。ただし,同性カップルによる家 族など,家族形態の多様性は彼女の関心の範囲外 にあった。
アパルトヘイト解決への道(101頁)
3章で扱われるのは,南アフリカのアパルトヘ イトによる差別と貧困という不正義からの解放と 多元主義の実現を求める,インド系ムスリムとし て南アフリカ共和国に生まれたファリド・イサク
(1959年生まれ,ヨハネスブルグ大学教授)であ る。南アフリカ,パキスタンのマドラサ(イスラー ム学校)を経て,イギリス,バーミンガム大学で 博士号を取得した後にドイツで博士研究員を務め ている。『クルアーン,解放そして多元主義:抑圧 に対抗するための宗教間連帯に関するイスラーム 的視点』(1982年)を著している。彼は南アフリ カを拠点としながらも,アメリカ合衆国の複数の 大学でも教鞭をとっている。
イサクもワドゥードと同じように,解釈を社会 的文脈と関連づける。「どのような解釈がテクスト に与えた意味でも,その者の個性や環境から離れ て存在することはできない」(111 頁)。ただし,
彼女とは異なり,アラビア語の支配性を批判する ことはない。彼は,人種隔離政策や貧困からの解
大川 玲子著『イスラーム化する世界 ―グローバリゼーション時代の宗教』
放としての人々の連帯をテーマとしてクルアーン を解釈していく。
たとえば,イサクは「クフル」(3)に注目する。
「クフルは本来,どの宗教を信仰するのかという ことではなかった」(120頁)のであり,「自己に ついて増長したイメージを形成し,弱い他者を軽 蔑すること」(120頁)を意味する。この解釈は,
他宗教徒との親和的連帯のためにクルアーンを 解釈することを促す。この点について,「ウィラー ヤ」(4)の概念は他宗教徒との連帯を認めない考え とされることもあるが,彼は,「『不義で不正な
『他者』との協力』,すなわちアパルトヘイトを実 施する政府におもねること」(123頁)を禁止する ものとして解釈する。そして,「タクワー」を神と 人類と両方の責任を感じることのできる良心とし て解釈することで,人間の社会に対する個人の責 任を読み込んでいく。ただし,性や人種の平等は 所与のものとして特に注目されない。
イスラーム主義への回帰(129頁)
4章で扱われるのは,これまでの2人と異なり,
保守的な従来のクルアーン解釈を維持しようとす る,ジャマイカ生まれカナダ育ちの黒人改宗者で あり,改宗後はアラブ首長国連邦で生活するビ ラール・フィリップス(1947年生まれ,説教師・
教育者)である。カナダでの有色人種としての差 別を経験し,その後,学生運動,共産主義組織へ の関与を経て,イスラームに改宗する。イギリス,
ウェールズ大学で博士号を取得した。『「部屋」章 解説-クルアーン49章への注釈』(1989)を著し ている。彼はインターネット上でサイバー大学を 展開し,衛星テレビの運営にも関わっている。
フィリップスの解釈の仕方は保守的である。「ム スリムの中で広まっているクルアーンの自由解釈 は,時にクルアーンのメッセージに関する混乱と 曲解をもたらしたため」(141頁)改められるべき であると考えている。とはいえ,彼も以下の点で はワイードやイサクと共通する。まず,「特定の背 景をもつ個人の見解」(142頁)を認めている点で ある。そして,現代の英語資料を適宜援用するこ とで古典期にはない解釈を行い,時代の要請に応
えようとする点である。しかしながら,両者とは 異なり,彼は,テーマによってではなく章ごとに クルアーンを解釈する。
ただし,フィリップスの解釈を見ると,他宗教 や分派を批判することで彼がムスリムの規範とな る,人種にとらわれない「正しい」ムスリムのあ り方に注目していることがわかる。たとえば,彼 の「クフル」解釈は,「ムスリム同士でクフルとレッ テルを貼ることを戒める内容になっている」(147 頁)。また,彼はアメリカの黒人が中心となって構 成される団体Nation of Islamを批判し,ムスリム における人種間の平等を主張している。この団体 は,「黒人は神々で,彼(5)の師であったファード がアッラーそのものであった」(149頁)と主張す る点など,ムスリムの黒人至上主義の主張におい て,「タウヒード」(6)に反するので批判される。
その上で,彼は,ムスリムとして大切なのは「タ クワー」による優劣であると述べる。ただし,ジェ ンダーの問題には言及しない。
西洋社会との協調(155頁)
5章で扱われるのは,イスラームと西洋の相互 理解,教育の向上,喜捨に基づく弱者への援助を 主張するフェットフラー・ギュレン(1941年生ま れ,NGO主宰イマーム:教導者)である。彼は,
これまでの3人とは異なり,ムスリムがマジョリ ティのトルコで育っている。彼は,地元の公的で はない教育機関でイスラーム諸学を学んだ後,
1959年にイマームの公的試験に合格し,働き始め る。1923年のトルコ革命を経て,トルコは世俗主 義をとるようになっており(7),ギュレンは国家の 世俗性擁護を主張する軍部によって批判されたた めに現在はアメリカ合衆国に居住しながら世界中 で活動を展開している。『クルアーンを内省的に読 む』(トルコ語版2011,英語版2012)を著してい る。
「ギュレンは明白に伝統的解釈を否定すること はない」(168 頁)。しかし,実際には,クルアー ンの隠喩的な意味を解き明かすことを通じて自ら の洞察を尊重した解釈を行う。彼によれば,クル アーン全ての句には外的な意味だけではなく,内
的な意味が存在する。さらに彼は,読者にも内面 的な思索を行うことを勧める。彼もテーマではな く,自分で選んだクルアーンの章句から解釈を 行っている。
ただし,クルアーンの章句の選び方にはギュレ ンの関心が強く現れている。彼の解釈では,人間 の内面的な満足を求めることを前提に,他宗教・
他宗派との対立を乗り越えるための交流の必要性 をはじめ,社会問題の解決を目指す姿勢が顕著で ある。たとえば,罪について,「アッラーからの罰 を恐れて罪を避けるということよりも,罪を重ね ることで自分の内面が見にくくなっていくことを 恐れる意識を強める」(171頁)など,人間の内面 性と結びついた解釈を行う。また,彼は,ムスリ ムのあるべき心のあり方を説く中でキリスト教徒 などの啓典の民以外とも友好関係を積極的にもつ ことを勧める。その上で,彼は,「タクワー」を解 釈する中で,「人間の意思の卑小さ」(178頁)を 指摘し,「人間自身が困難な状況を解決するのでは なく」(179頁),全てがアッラーの一存にかかっ ているゆえに,「タクワー」をもちながら神に運命 を委ねることを勧めている。
個人の見解による解釈の困難
最終章で,著者は,こうした4人の解釈者たち は強く支持される一方で,厳しく批判される場合 もあると述べる。「個人見解のクルアーン解釈の適 応を前面に出すことは伝統的なムスリム社会では 簡単ではない」(188頁)のである。社会問題に対 応するような個人の見解を入れたクルアーン解釈 は,クルアーンというアッラーの言葉に人間の考 えを押し付けるようなものとして理解される場合 がある。そのような理解からすれば,クルアーン の自由な解釈を認めることは困難である。した がって,小杉が言及したような,クルアーンの非 時間性と歴史性のジレンマは解決されたわけでは ない。ただし,このジレンマの中で現実に,時代 性や社会的条件を考慮した解釈が行われている。
3.社会問題に取り組むクルアーン解釈と 近代的世俗化
著者が取り上げる4人のムスリムたちは,みな,
クルアーンを解釈することで差別や貧困などの社 会問題へ対応しようとしている。そして,実際に,
活動家として問題の解決に関わっている。社会問 題の解決のために宗教的言説が機能していること を,近代を生きる私たちはどのように考えたらい いのだろうか。
カール・マルクス,マックス・ウェーバー,エ ミール・デュルカイムといった代表的な社会科学 者たちは,近代化とは世俗化の過程を意味すると 主張した。この主張によれば,宗教は影響力を失 い,社会問題の解決に向かうことなく,私的領域 にとどまるようになると考えられた。実際に,1970 年頃,近代政治において,宗教は私的領域に押込 められ,さらには私的領域においてもその影響力 を失っていくように見えた。
しかしながら,イランのイスラーム革命(1979 年)に見られるような,宗教の政治への介入は,
それぞれを私的領域と公的領域に区別することを 前提としてきた近代政治についての考え方を揺る がせ,宗教が強い影響力をもちつづけていること を明らかにした。この現象は「宗教復興」と呼ば れ,イスラームの特異性を示すかのように理解さ れることもあった。しかし,フランスの政治社会 学者のジル・ケペルが早くから明らかにしたよう に,宗教の公的領域への進出とその影響力の拡大 はイスラームに限られず,キリスト教やユダヤ教 などにおいても顕著である(ケペル:1992)。
本書は,宗教復興の代表と考えられるイスラー ムが,決して一面的なものではなく,グローバル 化の中で,社会状況に応じて多様な解釈を生み出 していることを明らかにしている。宗教復興は,
人々が近代以前の宗教へ回帰することを意味しな い。宗教は,個人化や合理化といった近代化の特 徴を備えつつ新たな形態で生み出されており,現 在のグローバル化に対応している。なぜ,近代化 の進行の中で宗教が活性化するのだろうか。「世界
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の脱魔術化」(マックス・ウェーバー)は,近代化 の特徴ではなかったのか。
こうした現在の近代化やグローバル化を,イギ リスの政治社会学者のアンソニー・ギデンスは,
「再帰的近代化(reflexive modernization)」という 言葉で次のように説明する(ギデンスほか:1997)。
伝統社会においては時と場所は密接に結びついて 理解される。時間は特定の場所と結びついて理解 され(機械時計の前は時間を均一に計ることはで きなかった),均一ではなく,その再構成は身分制 や宗教などの伝統によって制限されていた。しか し , 近 代 は 伝 統 的 社 会 関 係 を 「 脱 埋 め 込 み 」
(reflexion すなわち,反省・熟考・再考の対象と して選択可能なものとする)することで,つまり,
社会関係をローカルな脈絡から切り離し,時空間 の無限の広がりの中に再構成することによって成 立してきた。そして,近代化が進む中で,伝統的 価値のみならず,伝統に対抗し近代の価値とされ てきたあらゆるカテゴリー自体も脱埋め込みの対 象になり,再構成しうるものとして理解されるよ うになる。この段階をギデンスは再帰的近代化と 呼んでいる。
たとえば,現在のグローバル化の特徴である国 境を越えた移動の増大やグローバル/ナショナル
/ローカルといった従来のカテゴリーの組み替え も,この再帰的近代化の側面として理解すること ができる。したがって,再帰的近代化においては,
科学的専門知識も問い直され,国民国家はもちろ ん,従来の家族などの生活単位も自明ではなく,
あらゆるものが個人として選択可能とされる。同 時に,ドイツの政治社会学者のウルリッヒ・ベッ クが指摘するように,私たちは自分たちの選択が もたらす結果を完全には把握できないために,意 図しない形で生活への悪影響が生み出されること を認識している(環境汚染や原発事故のように)
(ベック:1998)。そして,私たちは予測できない 選択結果を「リスク」として,個人的に引き受け ることを求められるようになっている。
しかしながら,予測できないリスクに個人とし て対応することは困難である。とはいえ,現在,
リスクを集団として受け止めるための社会的連帯
(生活保障など)の仕組みや,仕組みを根拠づけ る公的領域における市民としての共同性や規範 は,グローバルな市場と行政権力によって崩され つつある。リスクを前に頼るべき絶対的な科学的 専門知識も既になく,社会問題を前に個人として の選択を迫られる中で,世界認識の一つの枠組み として,宗教が必要とされている。ただしこのよ うな宗教自体も,個人化し,教会や聖職者のハイ アラーキーにしたがった解釈から外れるという意 味で,脱埋め込みの中で生み出されている。
かつて近代立憲国家は,世俗的合理性を前提と して,公的領域における市民としての共同性や規 範性を生み出すために,宗教を私的領域に押し込 めた。しかし,現在,立憲主義の観点から重要な のは,世俗的合理性を含め,あらゆる価値が自明 性を失う中で市民としての共同性が失われ,リス クを個人化していく傾向に対抗することである。
そのために必要なのは価値の多元性,部分性を認 識した上で,様々な価値をすりあわせながら重層 的に市民として共同性や規範をつくり出そうとす ること,そして,リスクを吸収する社会的連帯の 再構成をグローバルに行うことである。
その場合には,ドイツの政治社会学者のユルゲ ン・ハーバマスが主張するように,「規範意識や市 民の連帯がエネルギーを汲む全ての文化的源泉と 大切につきあうことは立憲国家自体のためにもな る」(ハーバマス:2005)。すなわち,宗教の公的 役割を認めることが必要になる。しかしながら,
あらゆる宗教が市民としての共同性や規範を構成 すると考えることはできない。対話を拒む,原理 主義的な解釈は共同性ではなく,強い排他性を主 張するだろう。ハーバマスは,宗教がその言説を 信仰者以外にも共約可能なものとして提示するこ とができることが必要だという。また,たとえば,
アメリカ合衆国の政治社会学者のホセ・カサノ ヴァは,宗教的言説が公共空間に入りこむことに より従来の公私区分がかく乱され,討議の場が開 かれ,市民の共同性が構成されることを期待して いる(臓器移植の倫理的基準の設置など)(カサノ ヴァ:1997)。
科学的専門知識を絶対的な前提にできない中で
どのようにリスクを集団的に引き受ける仕組みを つくるのか,市民としての共同性と規範を構成す るのか,という問いは,未だに収束しない放射線 汚染問題をはじめ,日本に住む私たちにとっても 無関係な問題ではない。そして,本書が提示する 4人の解釈は,どれも,グローバル化の中でロー カルな社会状況を前に,市民としての共同性と規 範を生み出そうとする,公的役割を担う宗教的言 説として理解することができるだろう。そして,
現在,市民の共同性と対立するものとして,イス ラームが世界的に特異な理解不可能なものとして 認識されやすいとすれば,本書の紹介する,社会 状況への対応という形でのイスラームの解釈の存 在はイスラームを特異化する視点を相対化させて くれる。
4.解釈の社会的背景
とはいえ,本書についていくつかの疑問もある。
本書は4人の解釈を扱ったが,この4人を特に選 ぶ基準はどのようなものだったろうか。グローバ ル化の中で多くの解釈者が生まれているのだとし たら,この4人に絞り込む理由,必然性はなんだ ろうか。
また,解釈がその社会状況との関係を明確に意 識しながらなされているのだとしたら,これらの 解釈に惹き付けられる者(消費者)にはどのよう な階層的,民族的,ジェンダー的な特徴があるの だろうか。たとえば,アパルトヘイトを批判する イサクの解釈の消費者は南アフリカに限られない としたら,どのようなプロファイルの消費者に向 けられているのだろうか。また,どのような場合 に,伝承による解釈よりも,4人のような解釈が ムスリムの間で正統性を獲得できるのだろうか。
本書の中でも触れられているが,ワドゥードと イサクが知己であることが示すように,こうした グローバル化の中での解釈者たちが共有するよう な言説空間が生み出されているのだろうか。その 場合,その言説空間で解釈者として評価されるの はどのような特徴を持ったムスリムなのだろう か。たとえば,イスラームの名門学校を出ること
よりも,有名大学の博士号といったものが重要な 資源になっているのだろうか。また,同じように 社会状況に応えようとする,しかしながら異なっ た言説を用いる,たとえば人権団体や他宗教宗派 との関係はどのようなものだろうか。
とはいえ,本書の目的がクルアーン解釈におけ る新しい潮流を紹介するということである以上,
こうした問いは本書の範囲を超えるものとなるだ ろう。むしろ,目的を限定することで,特定のク ルアーン解釈をもって当該社会のムスリムを一般 的に語るといったオリエンタリストの過ちに落ち 込むことがない。その意味で,本書は,言説の流 通を巡る階級性や社会的条件の分析を課題とする 社会科学者の仕事を触発するものとなっている。
注
(1) 「アッラーへの畏れ・畏怖」「敬虔さ」(80頁)を意 味する。
(2) 「『個人』『自身』や『魂』という意味」(74頁)を もつ。
(3) 「クフル」とはアラビア語で「不信仰」を意味し,
「カーフィル」というアラビア語で「異教徒」や「不 信仰者」を意味する言葉と結びつけられ,他宗教への 否定的な立場として解釈されることが多い(117頁)。
(4) 「統治」や「監督権」という意味と並んで「友好関 係」という意味もある(121頁)。
(5) 団体を率いるイライジャ・ムハンマドのこと(149 頁)。
(6) 「タウヒード」とは「アッラーのみを信じること」
「アッラーの唯一性」を意味し,「アッラー以外にも 神を認めること」は大罪になる(149頁)。
(7) トルコは世俗主義(laiklik)に基づくが,これは公 権力の宗教活動への不干渉を意味するのではなく,公 権力によって宗教は管理され,宗教教育も行われる。
参考引用文献
アンソニー・ギデンス,ウルリッヒ・ベック,スコット・
ラッシュ(訳:松尾精文,叶堂隆三,小幡正敏)『再帰 的近代化』而立書房,1997年。
ウルリッヒ・ベック(訳:東廉,伊藤美登里)『危険社会』
法政大学出版部,1998年。
小杉泰『クルアーン:語りかけるイスラーム』岩波書店,
2009年。
ジル・ケペル(訳:中島ひかる)『宗教の復讐』晶文社,
大川 玲子著『イスラーム化する世界 ―グローバリゼーション時代の宗教』
1992年。
ホセ・カサノヴァ(訳:津城寛文)『近代世界の公共宗教』
玉川大学出版部,1997年。
ユルゲン・ハーバマス,ヨーゼフ・ラッツィンガー(訳:
三島憲一)『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』岩波書店,
2007年。