三重大学人文論叢1985.3
「微笑」の構造
1原田甲斐の居住空間と生活の「型」‑‑
一
はじめに
『樅の木は残った』は新聞小説である。掲載は『日本経済新聞』、掲
載期間は、昭和二十九年七月から昭和三十一年九月まで㍉ただし、昭
和三十年五月から昭和三十一年二月までは掲載が中断されている。
また出版に当っては、さらに三百五十枚の原稿が追加されている(『樅
の木は残った』「解説」、新潮文庫、下551頁)。労作である事は勿論、構想
の確かさ、作品世界の奥行の深さ、そして登場人物の生彩の点でも、
これが山本周五郎の代表作である事は疑いない(尾崎秀樹、新潮文庫「解説」、下551頁)。新聞小説の性質上、小説技術の漸新さや人物の内面
の特異な堀り下げは望めないが、替りに、文字通り平凡な行動や平凡
な思考、そして、それを形作っている平凡な居住空間や生活の型など、
主として文化の「型」と人間との関わりを堀り下げて考察するには最適
の作品である。
小説の内容は、いわゆる伊達騒動の渦中の原田甲斐とその周辺の人
物の生きざまを描いたもので、作品としての特徴もまたその生きざま
の中にある。伊達騒動は、言うまでもなく万治三年(一六六〇年)七
潰
森 太 郎
月の解放陸奥鶉糀禦簑に端を発する政治的な権力の争いである。世
子亀千代が幼少のため後見の座に着いた伊達兵部宗勝は、その地位を
利用して伊達六十二万石を横領せんと計り、一方、それを憎んだ伊卦聖買剖芸は、幕府に上訴する。そして、寛文十一年(一六七一年)三
月二十七日、両者は、老中酒井雅楽頭・久世大和守等の面前で対決す
る。事件の性質上、決着の山場はいつも「公」の評議・評定の席にある。
ところが、小説『樅の木は残った』では、その評議・評定の席は作
品の片隅に押しやられる。そして、その昔りに、主人公たちの私生活
が表舞台に登場する。この私生活は、絶えず政治の風圧に翻弄され、
密議と忍耐とによってかろうじて支、えられている。また、その翻弄や
密議や忍耐の中に各自の生きざまがいかんなく現われている。その生
きざまを生み出した文化の「型」と人間の行動や思考との関わりを堀り
下げる事で、たとえば、人間の忍耐が文化の「型」に大きく依存してい
る事を確かめる事ができるだろう。あるいはまた、密議が彼等の居住
習慣に大きく依存している事も明らかになるだろう。
狙は未知にある。この一文は、文学の質を問う事で成り立ついわゆ
る作品論ではない。また作品を通じて作家の内面を考察する作家論で
森太郎
もない。言ってみれば、文学文化論。文化としての文学作品の考察で
ある。高い山に登ろうとする者は、まず、ゆっくり歩き始めなければ
ならぬという泰西の劇作家にならったと言えば聞こえは良いが、要す
るに手さぐりで進む試論である。
二
「悪 役」
現行の歌舞伎『肘掛兜檻禦が『忠臣蔵』と並んで庶民の人気を二分す
る歌舞伎の演目である事は言うまでもあるまい。『演劇百科大辞典』(平
凡社刊)によれば、この一件に取材した演劇は、正徳三年(一七一三年)
正月
江戸市村座上演の『泰平女今川』、延享元年(一七四四年)七月同
じく江戸市村座上演の『開聞今川状』、延享三年(一七四六年)十一月江
戸森田座上演の『大鳥毛五十四郡』など百編を越える。中から著名なものを拾えば、『僻鮮兜檻禦(奈河亀輔作、安永六年四月大阪中上演)と『伊卦鼓陣郵船緊(初世桜田治肋等作、安永七年間七月。江戸市村座
上演)の二篇。これ以後、この二作に準拠した書替狂言が三十篇以上善
かれている。勿論、現行の歌舞伎もこの二作の章立を適宜に配列し直
した書替狂言である。
そして、これら歌舞伎の世界を大観してみるに、ここで造形された
原田甲斐の役柄は、ほぼ一貫して極悪非道の冷血漢だったと言ってよ
い。無論、実際の原田甲斐が極悪非道の冷血漢だったという証拠があ
るわけではない。ただ、勧善懲悪を元とする当時の作劇術は、善玉を
追いつめる「敵役」を必要としていたし、さらに、御政道批判を惜って
他所事に仮託する事でかろうじて事実を語っていた当時の作劇術では、
その劇の元になる事実の枠組を大きく変える事は許されなかった。結
果として、原田甲斐は、極悪非道の悪役のまま放置されたのである。 これが大きく変化するためには、勧善懲悪の作劇術が放棄され、幕
府の御政道を公然と批判する事のできる新しい時代が必要であった。
たとえば、村上浪六作・真山青果脚色の『原田甲斐』(昭和六年七月或
舞伎座上演)、宇野信夫作『原田甲斐』(昭和二十五年七月、東京劇場上
演)、山本周五郎作・村山知義脚色『樅の木は残った』(昭和三十四年三
月、明治座上演)など、近代の脚色がその好例である。
今試みに、真山青果の『原田甲斐』を例に取れば、第一幕「原田屋敷」
の場で甲斐は早々に次のように述懐する。
兵部どのに近付くが、此の際御家の御為と存ずればこそ……民百
姓の膏血たる金銀を賛し、賄賂をつかひ……今日まで莫大なる国
用を賛して来たのだ。その金銀、その賄賂の効験あればこそ、既
に先年公儀よりの難題にて、危ふかりし伊達の御家も、先殿さま
の御逼塞だけにて、御家の相続にも別状なかった。
(第一幕
原田屋敷)
しかし、こう述懐する原田甲斐の周囲では、甲斐を諌めるべく妹が
自害するし、その遺書を読んだ息子の原田帯力も、「父上、功をお急ぎ
なされ、天下の候理を失はれては、末代の汚れでござりませうノと意
見する。彼の周囲に理解者の眼は乏しく、甲斐は、政治家としても一
家庭人としても孤立無援の状態にある。
しかし、その原田甲斐も、終幕の「評定の場」では、ことの子細を
察した老中槌創郎鮮重がら「そちが肺肝を砕いて蔭ながら尽したる精
忠には、御大老の御心をも動かし奉って亀千代の家は万代不易」と労
らわれて事切れる。これは、「天下の謀反人は御大老だ。徳川家を倒し、
天下をとれば、甲斐に百万石を与ふると云ったは誰だ」と悪の根元を
「微笑」の構造一‑」阪田甲斐の居住空間と生活の「型」‑
あばいて斬り死にした原田甲斐に対する、内膳正の愛情の言葉である。
こうした結末には、悲劇の政治家原田甲斐の面目がよく現われている。
したがって、もし山本周五郎が悲劇の政治家原田甲斐を描いただけな
ら、『樅の木は残った』は、真山青果の二番煎じと言われても仕方がな
かっただろう。勿論、周五郎の『樅の木は残った』は誰の二番煎じでも
なかったのだが。
三
感 応
ところで、小説『樅の木は残った』(以下『樅の木』と略す)の中には、
第一部の目頭(上60)と結末(上禦及び第四部の結末(下548)にそれぞれ
文字通り「樅の木」が登場する。その場所は、いずれも江戸、芝増上寺
良源院の方丈の前庭。ここには、原田甲斐が船岡から移し植えた「樅
の木」が育っている。季節は、いずれも冬で「椎の木」は、薄く雪を被っ
ている。
第一の場面は、その「樅の木」を見ながら、甲斐と字乃(という名の少
女)とが初めて言葉を交す場面。第二の場面は、仙台帰国を目前に控
えて、甲斐が宇乃を見舞う場面。第三の場面は、仙台から出て来た字
乃が、今は亡き甲斐を忍ぶ場面。殊に印象的なのは、その第三の場面
で、方丈の前庭の「樅の木」に向かって、宇乃が「おじさま」と呼びかけ
ると、「樅の木」がぼーつとにじんで、そこから甲斐の姿があらわれ、
もう一度「おじさま」と呼びかけると、今度は、言葉が返って来る。
甲斐が「宇乃」と呼んだ。
字乃と呼ぶ声が、現実のように温かく、なつかしいひびきをもっ
て聞えた。そして、甲斐は宇乃をみつめながら極めてゆっくりと 静かに、こちらへ近づいてきた。字乃は云いようもなく激しい、官能的な幸福感におそわれ、自分のからだのそこが、揚でもあふれ出るように、温かくうるおい濡れるのを感じた。
(第四部「冬の草」、下549)
念のために言えば、この「樅の木」は、甲斐の人柄や処生観を象徴す
る。字乃はその象徴に向かって声をかけ「官能的な幸福感」におそわれ
る」。「樅の木」が残るとは、甲斐の人柄や処生観やその業績が残る事を
暗示するのであろう。さらに、子細らしく言えば、原田甲斐の働きに
よって伊達六十二万石が安泰となり、また甲斐自身も、こうした「樅の
木」の木魂の形で字乃の中に生き残る、そこに『樅の木は残った』
とい
う題名の隠された狙いがあるだろう。しかし、それだけの事なら、何
も「字乃は云いようもない激しい、官能的な幸福感におそわれ、自分
ヽ
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
のからだのそこが揚でもあふれ出るように、温かくうるおい濡れるの
を感じた」とまで書く必要はなかっただろう。ここには、年若い女が
男を慕うあまり、つい男の幻を見たのだといったメロドラマ風の純情
を越えた、ある激しい感応があるからである。
この感応の伏線をもう少し辿ってみたいと思う。
①
二百四十日ちかく、いつも字乃はそばに付いていた。こちらが話
しかけなければ、一日じゆうでもものを言わなかった。しかし、
ヽ
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甲斐には宇乃がいつも自分に話しかけているのを感じた。夜半に
眠がさめるようなときでも、字乃が隣りの部屋から、そっと自分
に話しかけるのを、聞くことができるように思えた。
(第二部、上394)
森太郎 濱
②
はい、本当だったのです、と宇乃が云うように思えた。わたくし、
御隠居所でお茶の給仕をしておりました。それは、まえに聞いた
よ、と甲斐は心の中で答えた。わたくし杏子の入っているお菓子
鉢を、御隠居さまの前へ直そうとしていましたの、すると急に、
胸のここのところが、ずきんと激しく痛んで、持ってい滝お菓子
鉢を手から落してしまいました。うんと甲斐は心の中で領いた。
(第二部、上393)
ここにも、いわゆる会話はない。二人の話題は、原田甲斐が大鹿の
角で胸を突上げられた瞬間、船岡の館で茶の給仕をしていた字乃も、
やはり胸に鋭い痛を感じた事にある。しかし、二人が直接言葉を交し
ているわけではなく、言葉を抜きにして、甲斐と宇乃とは直接心と心
とで感応している。心と心との直接の感応、こうした場面が注意深く
繰り返され、その極みに、先に見たような温かい感応を伴なった「魂
の交歓」が設定されているのである。
しかも、これは、どうやら人間原田甲斐が、この『樅の木』の中で一
貫して、かつ切実に求めている「了解」の形式であるらしい。
たとえば、原田甲斐は、字乃との初対面の場ですでに、「木でも、石
でも、こういう柱だの壁だの、屋根の鬼瓦だの、みな古くなるともの
を云う」と言い、また、そういう「もの」たちの中でも、「静かな、しん
しんとした、なにもものを云わない木(樅の木)」(第一部、上66)がも
っとも好きだと言う。そしてまた、そう言う甲斐自身も、字乃たちに
対してはすでに初対面の時から心の言葉で語りかけている。
私は父に死なれただけだが、おまえと字乃は両親に死なれた。家
もなく、たよる親族もない。幼ないおまえにも、どんなにこころ ぼそく、どんなに悲しいかは私にわかる、と甲斐は心のなかで言ヽ
ヽ
った。
(第一部「雪」、上282)
このように辿ってみれば、「樅の木」が好きだという原田甲斐と、良
源院の方丈の庭で甲斐の幻を見る字乃とは、この沈黙、云い替えれば「心の感応」によって深く結びついていた事が明らかだろう。
感応、今風にはテレパシー。私は、今その実態を、心理学を援用し
て解き明かそうと目論でいるわけではない。それを切実に求めている
男をモデルとして、彼の好みの居住空間や生活のスタイルとこの
「心
の感応」との関わりを明らかにしたいのである。
四
微 笑
原田甲斐は「稀にしか笑わないし、それも声をあげて笑うようなこと」
のない物静かな男だと言う(上17)。確認してみた結果でも、彼は、確か
に高笑いする男ではなかった。しかし、まったく笑わない男でもなか
った。
⑧⑦⑥⑤④③②①
甲斐は微笑した。(上37)
甲斐は微笑した。(上56)
甲斐は甲斐で、微笑した。(上57)
甲斐は微笑した。(上63)
甲斐は微笑した。(上65)
甲斐は微笑しながら、領いた。(上75)
甲斐はあいまいに微笑した。(上154)
甲斐は微笑した。(上236)
「微笑」の構造一原田甲斐の居住空間と生活の「型」‑
㊧ ⑲⑳⑳⑳⑳⑳⑳ ⑳㊧㊧⑳⑲⑲⑰⑲ ⑮⑲⑬⑫⑪⑲⑨
甲斐は微笑した。(上243)
甲斐は苦笑した。(上250)
甲斐は苦笑しながら云った。(上251)甲斐は自嘲するように云った。(上堅甲要は苦笑しながら、眼をそむけた。(上空甲斐は微笑しながら、「客はない」と云った。(上禦
(甲斐)殆んど微笑するような、静かな表情でゆっくりと云っ
た。(上273)
甲斐は声をたてずに笑った。(上275)
甲斐は眼をつむったまま微笑した。(上277)
彼(甲斐)は微笑した。(上277)
甲斐は穏やかに微笑して云った。(上278)
甲斐は眼で微笑しながら、領いた。(上279)
甲斐は微笑して、申上げるまでもない、と答えた。(上468)
甲斐は微笑しながら言った。(下‖7)
(甲斐は)包むように微笑するだけで、いつもほど酒もすすま
なかった。(下143)
甲斐は微笑した。(下146)
甲斐は微笑して、わからないねと答えた。(下147)
甲斐も微笑しながら領いた。(下198)
甲斐は唇で笑った。(下201)
甲斐は微笑した。(下201)
(甲斐は)やがて低く、喉で笑った。(下205)
甲斐は微笑して(中略)それでどうした、と訊き返した。(
下 甲斐が喉で笑った。(下210) ワ∵
⑲◎⑲⑮㊧⑬⑫
(甲斐は)ふと唇に微笑をうかべた。(下275)
甲斐は眼をほそめた。(下356)
甲斐は笑いながら抱いてやった。(下356)
(甲斐は)それからにっと微笑した。(下413)
(甲斐は)ひそかに苦笑した。(下456)
甲斐は微笑した。(下486)
甲斐は低頭して「八十島主計でございます」と微笑した。(下
脚)
⑲
甲斐は殆んど困惑したように、微笑しながら外記を見て云っ
た。(下528)
⑲
甲斐の唇がゆるみ、僅かに白い歯が覗いた。(下539)
ざっと拾い上げただけでも四十例。「彼は稀にしか笑わない」どころ
か、絶えず「笑」っている男なのである。しかし、念のために言えば、
原田甲斐が「稀にしか笑わない」男である事と、『樅の木』の中で絶えず
「笑」っている事とは、格別、矛盾する事ではない。
先の四十例の微・苦笑が、どのような場面で生まれているかに注目
してみよう。
⑥ ⑤ ④ ③ ② ① No.
江 戸
甲 良 城 自
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宅 院 中 宅
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⑪ ⑲ ⑳ ㊧ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ㊧ ㊧ ⑳ ⑲ ⑲ ⑰ ⑲ ⑮ ⑲ ⑬ ㊧ ⑪ ⑲ ⑨ ⑧ ⑦
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定 訟 府 ど 達 つ 楽
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説 状 密 入
明 況 書 手
評 評 密 回
′」」→ 密 だ 想
スE// ロ
定 中 会 想 ∠ゝ:=二 ロ 像
の 私 語
この表を見れば、原田甲斐が「稀にしか笑わない」男である事と、『樅
の木』の中で絶えず「笑」っている事とが矛盾しない理由が分かるだろ
う。単純に区分すれば、この作品では、政治に関わる公的な場面の甲
斐の姿が大部分削除され、替りに、私的な場面の寛いだ彼の姿が大部
分を占めている。そのために、結果として、絶えず「微笑」している甲
斐の姿が際立つのである。
しかし、これは何も甲斐が非政治的な人間である事を意味している
わけではない。自宅の客間では(①)、伊達陸奥守逼塞の背景が検討さ
れ、逆に、城中お広書院前の廊下では(③)、甲斐の妻の無断出国が話
題になる。私的な客間で政治を語り(⑲◎⑮⑰⑲)、公的なお広書院前
で私事を語る事で(㊧)、彼等は共に笑顔と情報と人間的な信頼のシグ
ナルを交換する。それは、互の人間的な距離を計る密かな関係調整の
作業でもある。そして、格別の信頼を得た者だけが、城中から自宅へ、自
宅から別宅へ、客間から居間へ、居間から寝室へと導かれて行く。
誰がもっとも甲斐の 「微笑」を誘うのか。伊藤七十郎六回、おくみ
六回、字乃七回、雁屋信助四回。彼等はいずれも甲斐と私的な「よし
「微笑」の構造〜原田甲斐の居住空間と生活の「型」‑
み」
で結ばれている。七十郎は自由間遠で腕力もあり、甲斐を信頼し
ている。おくみは、甲斐の愛妾であり、雁屋信助はその兄である。兄
の信介は商人で、かつ隠宅の提供者でもある。字乃は、伊達騒動で暗
殺された畑与右衛門夫婦の娘。後に甲斐に引取られて船岡の館で甲斐
の母津多女に仕える。私的な人間関係の中に居る時、甲斐はもっとも
よく「微笑」すると言ってよいだろう。
しかし、その「微笑」は、かならずしも、甲斐自身の信頼と安心の「あ
かし」ではない。「微笑」は時に、優越の主張であり、拒否のサインで
あり、決断の中止であり、不安の隠蔽でさえあり得る。たとえば、別
宅に居る子どもの「かよ」を抱き上げる甲斐の「微笑」(⑳)に曇りはない
が、しかし、子どもの将来を不安がる彼は、そういう自分自身につい「苦笑」(⑲)する。また雁屋信助に対面する際の甲斐の笑(⑲⑪⑫⑬)
は、いずれも皆「苦笑」である。ただし、これは、甲斐が作り始めた「く
るみ味噌」が腐って売り物にならなくなった失策を話題にした時のも
ので、「苦笑」の苦さは鋭くはない。ほとんど習慣的な軽い微笑の類で
ある。
ところが、「声をたて」ない笑(⑲)、「唇で笑」ぅ笑(⑳⑫)、「候で笑」
う笑(⑳⑪)のような、より生理的な笑は、甲斐にとっては言わば、深
刻な「笑」である。⑲は、酒井雅楽頭との軽い鞘当の後の闘志を秘めた
微笑。⑳⑳は、字乃の娘ぶりを目のあたりにした甲斐の驚きを秘めた
微笑。◎は、伊達兵部の新しい策略に直面した際の警戒感を秘めた微
笑。⑫は、酒井雅楽頭の密書を手に入れて、彼の困惑ぶりを空想する
時の復讐心を秘めた微笑。ほとんど社交的な儀礼に近い彼の微苦笑も
やはり時には、闘志や警戒、驚きや親しみなど内心の情動の反映だっ
たのである。そして、そういう感情の交差点では、甲斐の「微笑」は、
より生理的な表情を伴なった複雑な「笑」の形を取る。 身近な者への「親愛」のサインと外敵への「威嚇」のサイン、また、緊張した局面をとりあえず平穏に維持するための「親和」のサイン。甲斐の「微笑」が指示するこの三つのサインも格別矛盾するものではない。縄張りを持つ動物たちがそうである様に、甲斐もまた、守らなければならない何かを穏し持っているのである。
五
微笑の局面
ところで、もっと複雑なのは、笑の背後にあってそれを支える局面
である。朝粥の会(①)、評定の後の立話(②③)、対面(④⑤⑥)、酒宴
(⑦⑳)、見舞い(㊧)、面会(⑮⑲⑳⑲⑪)、密会(⑲⑪⑫⑬⑮◎⑬)、評定
中の私語(⑲)、評定(⑲)。これらの場面は、一応「公」「私」の秩序に区
分されながら互に侵潤して他方を支配しようとうごめいている。
「朝粥の会」は、原田甲斐が私的に設けた談笑の場である。したが
って、ここでの発言は、話題の公・私を問わず私語に属する。しかし、
そこが、原田甲斐の自宅の客間である以上、そこでの発言は、当然微
妙な一線を区画した客向きの私語になる。そして不思議な事に、その
微妙な一線が人間をかえって親密な私語へと駆り立てるようである。
「まだ跡式のきまらない現在、上意といえる人がいるんですか、
原田さん、暗殺者たちが上意と云った、その人が誰だか、聞かせ
てくれませんかノ(中略)
甲斐の額に披がよった。
「わかったよ」と甲斐は微笑した。(表の①の場面)
問い懸けている伊藤七十郎が、暗殺を教唆し「上意」を借称させた人
森太郎 濱
物の名を知らないわけではない。彼は、それを承知の上でその人物の
名を、この「朝粥の会」の場で直接原田甲斐の口の端に乗せようと試み
ている。彼は、それによって、言わば客向きの私語に終始している原
田甲斐の胸内を探り、さらに、甲斐と自分とが志を同じくする知友で
ある事を確認しようとしているのである。この言動は、より私的で親
密な会話を求めて、「朝粥の会」のルールを変えようとする事に等しい。
一方、「わかったよ」と答える原田甲斐にも、七十郎の胸の内は「わか
っ」ている。しかし、甲斐には、朝粥の会を私的な談合の場に変えるつ
もりはない。その意志を伝えるために、彼は、「わかったよ」と言いな
がら、微笑する。胸の内の「了解」と会のルールを変える事への「拒否」、
原田甲斐の「微笑」は、この二つを同時に指示するサインなのである。
さて、もう一つ、「酒宴」の席も不思議な性質を持っている。
挨拶が済むと、主膳が声をひそめて云った。
「どうやら無事におさまったようで、さぞ安堵なすったことでし
ようノ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
甲斐はあいまいに微笑した。(表の⑦の場面)
会場は、茂庭周防の江戸屋敷。酒宴の目的は、伊達安芸の帰国にと
もなう送別。参会者は、江戸在住の家老四名を含む重臣八名。この酒
宴は、私事でありながらなかば公式の行事でもある。会場に到着した
原田甲斐は、まず、家老の古内主膳に挨拶する。主膳は、故藩主伊達
忠宗の法事のために高野山に催して帰ったばかりで、江戸藩邸の動静
には疎い。
ところが、その古内主膳が、突然「声をひそめて」、「どうやら無事
におさまったようで」と、曖昧な言い廻しで、伊達家の跡式の決定を 話題にする。甲斐はそれに応えて唆昧に微笑する。曖昧な微笑は、この一件への甲斐の関与の程度を暖味にし、さらに古内主膳と原田甲斐との人間的な距離を暖昧にする。ここでもまた、原田甲斐は酒宴の席を私的な談合の席に変えるつもりがないのである。甲斐は、「失礼ですが」と話題を中断して席を立つ。
私的な酒宴の席でみりふれた私事を語り、公式の行事の席で差障り
のない公事を語る事が、かえって、相手の疎外感を慕らせる事がある。
その道に、私的な酒宴の席で公事を語り、公式の行事の前後に私事を
話題にする事が親密さを醸成する事もある。それが人心収穫の術とし
て用いられるために、「公」・「私」は常に侵潤して細分化し、数多くの
中間地帯を作り出す。公邸の広間・大書院・小書院・控えの間・居間、
私宅の客間・内客の間・中の間・居間・裏の小座敷など、「公」・「私」
ともにさまぎまな性格の部屋が作られ、その局面にふさわしく使い分
けられてゆく。そして、時にそれに熟達する事が政治的な手腕ともな
る。
『論語』の名言「元立ちて道生ず」にならえば、元はあくまで「公」「私」
の区分と運用にある。評議や評定、対面や挨拶、酒宴や密会は、い
ずれも皆、その運用の局面である。そして、その局面が自然に人の
心を捉、え、次の局面を生み出してゆくためには、それにふさわしい舞台
としての部屋が必要である。結果として、さまぎまな部屋が生み出され、
この部屋の巧みな運用が、そのまま、「公」・「私」の巧妙な混活を生み
出してゆく。そして、その混清の手腕に長ずる時、初めて目的を達する
ための「道」が見えてくる。甲斐が立っているのは、この地点である。
甲斐は、湯島に別宅を設ける事で、この回路をいっそう複雑にする。
しかも、別宅での甲斐は、八十島主計と名乗る別人として暮している。
公邸・私邸・別宅。本人と別人。この中に、それぞれ客間・内客の間
「微笑」の構造】‑」東庄甲斐の居住空間と生活の「型」¶
・中の間・居間・寝室がある事を思えば、公・私の混清のための舞台
は、不慣れな者にはほとんど迷路のように複雑である。
それにしても、もし、この手法を最大限に発揮したとすれば、「公」・「私」の区分は不明瞭になり、私事も私生活も、やがては公事の中に
飲み込まれてしまうのではあるまいか。子女の出産・育児・教育がそ
のまま政治生活一部だと割切れる者は幸いである。狙疎も言う。「衆の
同共する所、これを公と謂ふ。己れ独尊する所、これを私と謂ふ。」
(弁名)と。「公」も戒」も共に健全であるためには、「公」・「私」の侵潤は、かな
らずどこかで抑制されなければならない。それも、できれば密かに。
勿論、この世界にも密かな「境界」、「公」・「私」の住み分けがないわ
けではない。 あるじだと答える。「公」・「私」の区別を弁える事が権力者の提要であってみれば、この主張には、酒井雅楽頭と言えども従わざるを得ない。もし、強いてこの主張を退けるとなれば、後に残るのは「対と対」、「命と引換え」(上275)の覚悟が必要なのである。甲斐の微笑は、その覚悟がすでに出来ている事を伝えるためのサイン、言わば、外敵への警告の信号を含んでいる。雅楽頭は、さっと身を引いて難を逃れる。
要するに、甲斐の「微笑」は、こういう「笑の局面」の一部分であるた
めに、「親和」と「怒」、「親和」と「拒否」、「親和」と「警告」、「親和」と「威圧」「親和」と「軽蔑」、「親和」と「嘲笑」といった相反する感情を表現する事
が可能なのである。
「寄れ」というのだ、「寄れ」と雅楽頭が叫んだ。
甲斐は額をあげて相手を見た。そして殆んど微笑するような、静
かな表情で、ゆっくりと云った。「失礼ですが、ここは私の住居でございます。たと、ろ貴方が従四
位下の少将で、十余万石の御城主かは存じませんが、扶持をいた
だいておらぬ限りは対と対、私は自分の住居では自分の好ましい
ように致します。
万治三年十二月二十八日、甲斐の別宅に突然酒井雅楽頭が訪ねて釆
て、酒を所望し、さらに甲斐に向かって盃を受けよと強要する。盃を
受ける事には、人間の絆を確認する意味がある。俗に言う「固め」の盃
である。
当然、甲斐は、これを拒絶し、「ここは私の住居」、ここでは「私」が
六
「私」の構造
さて、次は、その「笑の局面」を支える人間である。小説『樅の木』
において、原田甲斐が活躍する場所が、もっぱら居間・雇室、すなわ
ち住居の「奥」に限られている事はすでに述べた。公式の席で弁舌を振
うよりも、住居の「奥」で事前に困難を予測し、策を講ずるのが甲斐の
本領であるらしい。伊達兵部の策謀が激しければ、それだけ甲斐は、
いっそう深く住居の「奥」に身を隠して陰謀を無難にからめ取る対策を
講じようとするのである。事実、原田甲斐が公式の席で卓抜な働きを
演ずるのは、結末の「評定の場」ただ一回だけである。
桟文彦氏の「日本の都市空間と「奥」」(『別冊国文学、テクストとして
の都市』前田愛編、昭和五十九年五月刊)によれば、日本人の居住空間
は、大まかには、玄関から「奥」に向かって客間・居間・台所・奥座敷
といった順に生活のスペースを配列する傾向を持つという。これは、
公的なものを「表」に、私的なものを「奥」に仕舞うという日本的な心性
森太郎
の反映であろうか。いずれにしても、住居の「奥」が私的な領域である
ことは動かない。
問題はこの「奥」だが、この「奥」は、勿論住居の中心ではない。位置
的には住居の「裏」に近く、しかも「裏」とも言いがたい。要するに「奥」
は、「表」から眺めた時に何やら「奥ゆかしく」見える謎の空間なのであ
る。住居の中にこうした「奥」が形成される原因は、ふたたび桟氏によ
れば、「何か定かでないものに領域の原点を求め、それを包みこむかた
ち」(前掲論文p87)で、私たちが自分の住居を形成するからでありぞ
の形成の「過程は(中略)、より受身であり、且つ包みこまれるべき対象
に従って自在に変形する柔軟性をもっている」(前掲論文p87)と言う。この翠言に照らせば、原田甲斐の住居の特徴は、自宅の「奥」も、
別宅の「奥」も、共に私生活の場としてよりは、むしろ伊達兵部の陰
謀に対する対策の場として登場する点にあるだろう。公邸・私邸・別
宅の序列で言えば、湯島の別宅は「奥の奥」、余人の立入りを許さな
いもっとも私的な生活の空間である。甲斐は時に、これを盾にとって
酒井雅楽頭の勝手な侵入を防いだ事もある。だが、もともとこの別宅
は、政治的な工作のために設けられた隠宅である。そのために、別宅
の「奥」もまた、包み込む政治の性質によって、柔軟にその役割を変え
る事になる。つまり、家の「奥」から裏庭・裏口・裏道を通って他人の
家の裏木戸へと通じる私生活の回路が政治工作の回路に変るのである。
事実、この湯島の別宅に泊った夜の原田甲斐は、いったん寝間に引
き取って皆が寝静まるのを待ち、やがて裏木戸を通って茂庭周防の家
の「奥座敷」に辿り着く(上撃。あるいはまた、いったん寝間に入った後
に裏木戸を開けて周防を迎、え、愛妾の雇間を使って密談する事もある
(上254)。広間・玄関・門・表通りへと通じる回路を「公の回路」というな
ら、寝間・裏木戸・裏道へと通じる回路は「私の回路」とでも言うべき だろう。
「奥」は、行止りではない。「奥」の向うにはもう一つの「私の回路」
が開かれており、甲斐は、この「私の回路」を通じて幾多の「私」と連携
し、それによってかろうじて、独立の拠点たる「私」を維持せんと計っ
ている。
だが、「私の回路」だけで、それができるだろうか。ふたたび「公」・
「私」の住み分け原則を持ち出せば、本来政治は「公」のものであり、し
たがって、「公」の場所、「公」の席で決定されるのがふさわしい。その
ための場所と席とは公邸の大広間や大書院のかたちで、いつでも用意
されている。一方、家事・育児・教育といった家庭の私事は、本来「私」
の場所、「私」の席で決定されるのがふさわしい。「公」と「私」とは、共に
玄関に直結する「公の回路」によって結ばれ、「私」と「私」とは、共に裏
口に直結する「私の回路」によって結ばれている。だから、「私」の住居
は、「公・私」を内包し、「公・私」を分担し補填し合う事でかろうじて
平衡を保つのである。「私の回路」だけで「公」を正す事はできないし、
「公の回路」だけで「私」を安らげる事もできない。
ところが、甲斐は、別宅の「奥」に隠れ、「私の回路」だけを使って策
謀を防ぐ事に専念している。その姿は餌場を守る野生の雌に似ている。
敵はいつも不意に餌場を襲い、雌は慌てふためいて応戦する。そこに
甲斐の生活の「型」が現われている。
私生活をすべて政治に奉仕した結果、甲斐の私生活は、著しく衰弱
している。かつて、甲斐の「朝粥の会」に招かれていた人々は、もう
甲斐の招きを喜ばなくなっている。
①
「すっかり顔ぶれが変ってしまいましたな」と帰るまえに六左衛門
が低い声で甲斐に云った。「あのころは楽しゅうございました。(中
「微笑」の構造一原田甲斐の居住空間と生活の「型」‑
略)」
(下346)
②
甲斐は「朝粥の会」を催し、六人を招待した‥しかし、釆たのは蜂
谷六左衛門だけで、他の五人は御用のためという理由で断わった。
六左衛門もおちつかないようすで、盃には手を出さず半刻そこそ
こで帰っていった。(下483)
こうして、甲斐の「朝粥の会」は衰弱し、やがて甲斐と共に亡びてゆ
く。もし、誰かが悪いとすれば、それは、独特の「微笑」で「公」を論ず
る事を禁じた彼自身であろう。そうする事で、彼自身が他人に対する
「公・私の回路」をゆっくりと閉ぎしてしまったからである。それも、
さながら神経過敏な雌が「家と呼ばれている繁殖地を、隣人や他の女性
だけでなく、夫の侵入に対してさえ厳しく守る」ように熱心に(『狩りを
するサル』ロバート・アードレイ、p156)。勿論、それでもっとも疲労し、
衰弱するのは彼自身である。「おれはもう挫けてしまいそうだ」(下417)。
宮田登氏の『女の霊力と家の神』(一九八三年八月、人文書院刊)
に
ょれば、住居の「奥」を司るのは本来女の役廻りであり、それによって
「真のやすらぎの空間が住居において保障されることになる」(p170)
のだと言う。その言葉通り、別宅の愛妾おくみはやがて身寵りかよを
産む。それを知った甲斐は一瞬顔をゆがめるが、それは何よりも甲斐自身にとって幸いなのである。何しろ彼は巣を守る雌ではないのだか
ら。
七
境 界
「私」を居住空間のかたちで捉えた時、見えて来たものは「私」の構造 であった。「私」は、「表の回路」と「裏の回路」との交差点、「公」と「私」との接点である。「私」は、門や玄関を通じて「公」と境を接し、裏門や裏木戸によって他の「私」とも区画される。さらに、「私」は、それ自体も「表」と「奥」、「公」と「私」とに区分される。「境界」は同時に「通路」でもある。客間と私室を区切る「襖」、「表」と東」とを区切る「杉戸」、邸内と邸外を区切る扉や木戸、それは単なる仕切りではない。
①
次の間でひくい咳ばらいをし、申上げますという声が聞えた。
甲斐は「うん」といった。
襖をあけたのは、家扶の堀内惣左衛門であった。(上空
②
硯箱の脇にある鈴を取って振った。次の間に答があり、矢崎舎人が襖をあけた。(上空
③
甲斐は顔を急にそむけながら、はっきりした声で「起きている
ぞ」と云った。おくみはとびのいた。すると襖の向うで村山喜
兵衛の声が聞えた。
「杉山さまがみえました」(下50)
④
おくみはそうかしらと云い、凄間へはいると、襖を閉めるなり、
立ったままで、甲斐にそっと抱きついた。(下144)
⑤
そのとき襖の向うで成瀬久馬の声がした。中黒達弥が来た。と
いうのである。(下270)
「公」・「私」は、襖一枚によって境を接し、私室の外には、いつで
も家臣が息を殺して控えている。しかし家臣たちは、許可があるまで
森太郎
はこの襖を開くことができない。ここには、はっきりとした生活の様
式があり、知醗と知軋りとが人間関係を支配している。この気配や気
配りと「襖」との関係は特筆に値するだろう。生活に様式があり、そ
れを堅持する程の気配りがあるなら、生活のための言葉は極端に少な
くて済む。事実、原田甲斐の家臣たちは寡黙である。つまり、こうし
た様式化された生活があったからこそ、甲斐の「沈黙」は言葉たりえた
のである。
中には、大名家の「表」と「奥」のようにはっきりと「錠口」を備えた境
界もある。この「奥」に仕える奉公人たちは、「御杉戸より内のことは一
際口外しないという誓紙を書いた上で」奉公していた(三田村鳶魚『江
戸武家生活事典』p44)。
錠口には藤井という老女が待っていた。(中略)綱宗は奥にいる
のであろう。表と奥との区別はひじょうに厳重だから、さすがに
甲斐も少し迷った。(上181)
さらに、屋敷の門や玄関も厳格な境界である。
①
甲斐は玄関へ出ていった。
玄関には、松原十右衛門、岡本次郎兵衛、中黒達弥の三人が控
えていた。(上151)
②
玄関へ入って来た雅楽頭は、笠と鞭を供の少年に渡しながら、
その大きな眼でまっすぐに甲斐を見た。甲斐は膝に手を置いて、
静かに低頭し(中略)雅楽頭を見あげた。(上271)
③
甲斐の声に答えて、彼女は玄関まで出て来、彼を奥へ導いた。
(上325)
玄関を出て「公」の席に臨む時には、付添や見送りがあり(①)、人を玄関に迎える時には、出迎えや挨拶がある(②③)。門には番士、玄関には「取次」が居て挨拶や口上を受ける(下禦。これらの作法は「公」と「私」
とをスムーズに結びつける大切な関門の儀式である。
さらにまた、大きくは江戸という町全体も外の世界に対する境界と
関門を備えている。
江戸へ着いたのはいつだ、と甲斐が訊いた。昨夜おそく品川へ着
きました。と書兵衛が答えた。品川で宿を取り、今朝は未明に起
きて本邸に戻りましたところ、通用口があいておりました。(下
バ)
午後六時に、江戸城の堀と街道との接点にある三十六の「見付け」
の門がいっせいに閉まると、城下は密閉される。夕方、東海道を下っ
て来た旅人は郊外の品川の宿に一泊し、翌朝早朝に「見付け」の門が開
くのを待って城下に入る。この「見付け」の開門と同時に、各町内の木
戸も藩邸の戸口もいっせいに開かれる。喜兵衛は、その間門を待って
早々に帰宅したのである。「私」の住居が「公」と「私」に分節されていたように、江戸の町も町自
体が、身分や職業、堀割や街道によって分節され、さらに心理的にも、「町内」と他所、「御城下」と郊外とに分節されていた。そしてそれぞれ
の分節が境界と関門とを備えていた。言わば、蜂の巣型の世界とでも
言えようか。
「微笑」の構造一原田甲斐の居住空間と生活の「型」‑
もともと、「私」の住居自体が家臣や女中との同居を前提にした役宅
であり、さらに、「町内」や「城下」もそれぞれ木戸によって区切られた
独自の小さな行政区画であった。したがって、職務と生活とは常に密
接し、「公」・「私」は混同されやすかった。また、実際、「公」・「私」
は
混在していた。もともと混在している「公」「私」を強いて区別するの
は困難だが、それだけにまた注意深く「公」「私」は区分された。同時
に、その混靖の微妙に通じる人心掌握術も発達した。江戸という町の
生活の空間が、結果として、生活の「型」を作り、さらに、先の甲斐
のような複雑な政治工作のスタイルを生み出したのではなかったか。
甲斐は、時の権力者の政策に反抗しながら結果としてはもっとも体
制的な生活の「型」を作り上げている。統治の空間が政治の様式を作
り、その政治が政治的人間を作る。原田甲斐は、自分は政治に不向き
な人間だと言い続けるが、その彼こそ、実はまったく時の政治にふさ
わしい体制的な人間だったかもしれないのである。
八
結
び
さて、原田甲斐の居住空間とライフ・スタイルとを分析する事で彼
の「微笑」の成り立を解き明かす事が本稿の狙であった。出て来た結果
に驚くべきものは少ない。作品世界は、さまぎまな境界によって言わ
ば「蜂の巣」型に分割されていた。自宅と他家、町内と他所、町と村、
国と国、これらがそれぞれ境界によって区切られ、関門によって通じていた。また、住居には「表」と東」があり、そこに住む「私」にも「公」
と「私」とがあった。「表」は「公」、コ輿」は「私」、この秩序によって生活は
二分され、その境に「襖」や「杉戸」があった。「襖」を明けて「私」の領域から「公」の領域に足を踏み入れる時、一 人の人間の立場や役割が変った。それにつれて、立居振舞や言葉使いまで変った。それを飲み込み機敏に対応する気配りが礼儀や作法として生きていた。ここでは、自分がどの部屋に迎えられ、どう接待され、どのような話題を供されるかが重要だった。それは暗黙のサインだった。その読み取りに巧みな者が甲斐の盟友だった。そのサインのぉ陰で甲斐の家臣たちは、必要な事を手短かに話すことができた。沈黙は言葉だった。微笑も言葉だった。微笑の意味は、自分の位置と相手の応待とに暗示されていた。
甲斐が求めた「感応」という了解の「型」は、こうした濃密な文化空間
の中で初めて成り立つものであろう。また、甲斐の微笑も、こうした
文化空間の秩序を維持しっつ相手との和解を達成しようとする努力の
現われであろう。
それは、逆の立場から言えば、「自分にたいする言語と他人にたいす
る言語とが未分化であり、言葉が十分個人化されていないところから
生ずる」言語生活の未熟(市川浩『精神としての身体』勤葦書房刊、
p206)とも受け取れるが、その是非は今しばらく問わない事にしよう。
さて、こうした努力をひと渡り見渡してみれば、これが個人的で独
創的な生活の努力でない事は明らかだろう。甲斐の悲劇の原因は、彼
の人柄と彼の生活の「型」にあった。困難に直面すれば、しばらく波風
を避けて内に寵り、忍耐を重ねながら「私の回路」を通じて何とか円満
な和解を願う。その反面、公式の席での是非善悪の弁別と責任の追求という雲の回路」による局面の打解からは遠ざかって行く。そういう
彼の人柄も生活の「型」も、ともに今日の大多数の1私」の在り方に重な
り合うだろう。つまり、山本周五郎は、職業人あるいは家庭人として
の「私」たち一般が、日常的に経験し、かつ漠然とながら努力してきた
平凡な努力の様を、時代小説の枠を借りて具体的に描いているのであ
る。とすれば、甲斐の悲劇は、やがて、「私」たち自身の小さな悲劇に
も底通するだろうか。そして、これを克服するのは、河合隼雄氏の言
う「父性原理による自我の確立」(『母性社会日本の病理』中公叢書
中
央公論社刊、p49)なのかどうか。答えは改めて考えてみる事にして、今
しばらく筆を置く。
(一九八四、十一、三十)
四