深 澤 竜 人
はじめに
深澤[2018,2019]でも示したが、(さらには本稿の以下の「関連年表」を見ても解ると おり、)日本における社会主義的な活動あるいはマルクス主義の導入は、1910年の大 逆事件の後いったん「冬の時代」を向え、その後1910年代中頃から再び芽を吹き出し た。特に1910年代の後半からいわゆる「大正デモクラシー」の影響とともに、マルク ス主義の文献がこの時期あたかも競うかのように陸続と翻訳され、さらにはまた社会 主義あるいはマルクス主義関連の雑誌が次々に創刊され出した。
そして1920年代の前半になると、このような影響を受けてか、それらの雑誌上にお いてマルクス経済学に関する日本の古典的かつ有名な論争が発生してくる。その内の いくつかをここでいったん取り挙げて振り返るとすれば、以下の「関連年表」でも掲 載しているが、資本主義経済の自動安定機能の是非を議論した福田徳三・河上肇の
「資本蓄積・再生産論争」(別名「崩壊論争」)、『資本論』第 1 巻・第 3 巻等々における 労働価値説の一貫性などを議論した小泉信三・山川均・河上肇・櫛田民蔵らの「価値 論争」、マルクス経済学と唯物史観の関連等々に関して議論した河上肇・櫛田民蔵ら の論争、などが特筆されるところであろう。この他にも社会主義運動あるいは政党活 動の方向性を巡って、山川イズム、福本イズムなる考え方が誌上で議論された。やが てこれらを受けて1920年代後半になってくると、当時の日本における一大論争「日本 資本主義論争」が展開されていく。
本小稿では日本資本主義論争までは対象とできないのであるが、その前の1910年代 後半から盛んにマルクス主義やマルクス経済学の文献が翻訳され研究が展開する、本 稿ではその重要な一幕を研究対象として取り上げていくこととする。 と言うのも、
1910年代末からかような勢いで続々とマルクス主義関連の文献が入ってくるのである が、一体どのような要因でこの時期マルクス主義あるいはマルクス経済学が輸入され たのか、それを本稿で検討していくこととする。こうした問題対象に関して既に筆者 は、1900年代の幸徳秋水、1910年代の河上肇を取り上げて追究していった(深澤[2018,
2019])が、本稿はその継続編ともして、引き続き1920年代の前半に焦点を当ててい くものである。
大正デモクラシー期における マルクス経済学の興隆に関して
―日本マルクス経済学史Ⅲ―
関連年表
年 事項 文献
1911 大逆事件の死刑執行( 1 月)
工場法制定( 3 月)
1912
(大正元年)
友愛会設立( 8 月)
1913
1914 第一次世界大戦( 7 月~1918年11月) 雑誌『へちまの花』創刊( 1 月)
1915 雑誌『へちまの花』を『新社会』に改題
( 9 月)
同誌上にて堺利彦が「小さき旗揚げ」を 宣言
1916 吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の
美を済すの途を論ず」( 1 月)
河上肇「貧乏物語」( 9 月~)
1917 ロシア革命( 3 月、11月) 河上肇『貧乏物語』( 3 月)
1918 シベリア出兵( 7 月)
米騒動( 8 月~)
白虹事件( 8 月)
ドイツ革命(11月)
武者小路実篤らの「新しき村」 設立
(11月)
東京大学新人会結成(12月)
雑誌『我等』創刊( 2 月)
山川均「民主主義の煩悶」( 3 月)
1919 黎明会大一回講演会( 1 月)
共産主義インターナショナル(コミン テルン)第一回大会( 3 月)
東京大学・京都大学で経済学部が独立
( 4 ・ 5 月)
雑誌『社会問題研究』創刊( 1 月)
河上肇訳『賃労働と資本』( 4 月)
雑誌『社会主義研究』 創刊( 4 月)、 山 川均「マルクス主義経済学」 連載(~
1920年12月)
高畠素之訳(カウツキー原著)『マルク ス資本論詳説』( 5 月)
雑誌『解放』創刊( 6 月)
松浦要訳『資本論』( 9 月)
松浦要訳『賃金・ 価格および利潤』(10 月)
山川均『マルクス資本論大綱』(11月)
生田長江訳『資本論』(12月)
雑誌『改造』創刊 1920 第一次世界大戦後恐慌
日本社会主義同盟設立(10月)
森戸事件(10月、大審院上告棄却)
高畠素之訳『資本論』第一巻 第一冊「マ ルクス全集」 第一冊( 6 月、1922年 9 月 に第三巻 第四刷で訳了)
1 .時代背景
1910年代後半からマルクス主義が本格的に日本に導入された要因に関して、すでに いくつかの文献では、当時の時代背景と密接な関係があったことが指摘されている。
それをひとまずここで確認し羅列していくとすれば、以下のとおりとなる。(上記の
「関連年表」も参照。)
1921 堺利彦訳『空想から科学へ』( 3 月)
福田徳三「資本の増殖の理法と資本主義 の崩壊」(10・11月)
1922 水平社創立大会( 4 月)
日本共産党結成( 7 月)
小泉信三「労働価値説と平均利潤率の問 題」( 2 月)
河上肇「資本主義の生産組織の真相、そ の下に於ける生産力の分配、之に含まる る矛盾の増進」( 2 月)
河上肇「福田博士の『資本増殖の理法と 資本主義の崩壊』に就て」( 3 月)
河上肇「福田博士の『資本増殖の理法』
を評す」( 3 ~ 6 月)
山川均「マルクスの労働価値説に対する 小泉教授の批評を読む」( 5 月)
山川均「無産階級運動の方向転換」( 7 ・ 8 月)
河上肇「マルクスの労働価値説(小泉教 授の之に対する批評について)」(11月~
1923年 1 月)
1923 関東大震災( 9 月)
大杉栄暗殺( 9 月)
1924 産業労働調査所発足( 3 月)
日本共産党解党決議( 2 月)
社会政策学会解散(12月)
雑誌『マルクス主義』創刊( 5 月)
福本和夫「経済学批判のうちに於けるマ ルクス『資本論』の範囲を論ず」(12月)
1925 治安維持法公布( 4 月)
普通選挙法公布( 5 月)
櫛田民蔵「マルクス価値概念に関する一 考察」( 1 月)
福本和夫「唯物史観の構成過程」( 2 月)
櫛田民蔵「社会主義は闇に面するか光に 面するか」( 7 月)
山田盛太郎「価値論における矛盾と止揚」
(11月)
1926 日本共産党再建(12月)
① 第一次世界大戦勃発(1914年 7 月)からの好景気 これによる「成金」の登場と 貧富の差の拡大
② 吉野作造提唱の「民本主義」(1916年 1 月)による民主主義・デモクラシーの隆盛 加えて護憲運動や普選運動の盛り上がり
③ ロシア革命(1917年 3 ・11月)による社会主義建設の現実的な機運 これによる労 働運動の盛り上がり
④ 第一次世界大戦による好景気での物価上昇 加えてシベリア出兵(1918年 7 月)
による特に米価の騰貴 これらによる民衆の苦境
⑤上記から生じた米騒動(1918年 8 月~)の影響 自然発生的な民衆の結束と蜂起 ⑥ 第一次世界大戦後の恐慌(1920年)とその後の不況 関東大震災と震災恐慌(1923
年)これらによる労働者の苦境と貧富の差のさらなる拡大 貧民の出現
このような時代背景あるいは①から⑥の影響が重なり、民主主義を求める動き、労 働者の自覚とその立場の改善を求める動き、労働運動の高まり、労働組合数の増加、
ひいては社会主義実現の運動、これらとマルクス主義の主張がまさに合致してこの時 期、日本においてマルクス主義関連の文献の翻訳と研究が進められたというわけであ る。旧来の表現を用いるとすれば、この時期資本主義の内在的矛盾が日本においても 露呈・噴出し、その解決にとってマルクス主義による分析と方策とが求められていっ た、とこのように言えるかもしれない(1)。
ただ以下詳しく見ていくとして、本稿で対象とする時期においてマルクス主義が興 隆した要因の一つに上述の③「ロシア革命の影響」があったとの指摘がなされており、
それはそれで間違いではないであろうが、しかし注意することとして、一点以下の指 摘・分析もまた重要な側面であって、ロシア革命の実際の受け止め方の状況を投稿論 文「露西亜革命の感想」から分析した渡部[1967]は、次のような指摘を行なってい る。
当時のわが国労働者にとって、ロシヤ革命は現実に重大な問題と意識されていず、対岸 の火災視しかされていなかった(渡部[1967]23ページ。)
一九一八年当時は、ホンの一握りの社会主義者・無政府主義者以外、進歩的インテリ・
労働者のすべては、社会主義を嫌悪し、革命・階級闘争は道徳的悪とみなして疑わなかっ た状況であったといってよい。こんな時期に、また革命の帰趨もあきらかでないときに、
十月革命に直接積極的に影響されえないことは当然である。[中略]一九二〇年前半は、社 会主義への嫌悪感を急速に消失させる過渡期であり、ここを経過してはじめて、革命を抵 抗感なくうけとめることができるようになった。(渡部[1967]33ページ。)
と、このように、通史的・一般的な理解から済まされ片づけられてしまっている了 解事項と、現実の詳細な状況とでは、いささか食い違いや異同を示すことが多々ある ところである。
このような点に鑑み、筆者は本稿で対象とする1910年代後半から1920年代前半の時 代背景、そして当時求められたマルクス主義に関して、もう少し深く掘り下げてみた い。上記の状況下、この時代を実際に生き抜いてきた同時代人の幾人かの証言を基に、
大衆あるいは民衆は(特に対象としては「インテリゲンチャ」となるのだが)、マルクス主 義にどのように駆られていったのか、あるいは同義でもあるがマルクス主義のいかな る点が彼らの心をつかんで引き付けたのか、それを探っていくこととしたい。筆者の 以前の稿(深澤[2018,2019])では、マルクス主義あるいはマルクス経済学が持つイ ンパクトに関して主に論じたが、本稿ではそれを受け入れる側(特にはアカデミズムの 領域で)の状況の追究となる。
2 .同時代人の証言
① 再度当時の時代背景に関して
上記の対象課題とそれに接近する方法として、その時代を実際に生き抜いた方々の 生の証言を大いに重視していく観点から、紙幅は大きく取られてしまうが、生の証言 の引用をもって検討していくこととする。最初に大内兵衛(1888年~1980年)から登場 してもらうとして、彼はまず上記の時代背景①から⑥に関して、次のような回顧の言 を行なっている。
時勢とは第一次世界大戦の結果が日本の経済問題、社会問題を大きくしたことであった。
例えば、大正七年(一九一八年)には米騒動が起こった。むろんそれは何らかの意味でロ シア革命の影響であった。これ故にまたこれは支配階級を震撼させた。[中略]
こういう社会的激震が日本経済学の躍進をうながしたのである。それが一方では「商事 要項」の商業学への進歩という形「国家学からの経済学の独立」という形、さらには、高 商の商大への昇格、各大学の内部における経済学部独立となって現われたのである。これ をひろくいえば、内外の社会主義が日本ではこれまでの経済学の無為を痛感せしめ、それ が新しい経済学の研究を要求し、その要求が凝って経済学部の独立となったのだといって もよい。まさに大正六、七、八年[1917、18、19年]は激動の時代であり、その激動は変 化を生んだのである。[中略]
時代の空気の一つは社会主義であった。そこで社会主義が、彼らにどう反映したか、彼 らはそれにどう順応したか、それが大正七、八年[1918、19年]以後、約十年の日本の経 済学の問題であった。(大内[1959]上、56~58ページ。)
論壇は毎月毎月左傾していく[中略]、左傾すればするほど人気がわくという状況にあっ た[中略]。問題の社会政策学派の転落乃至なやみはこの波乱の一面であった。これをもう 少し経済学に即していえば、前に述べたような新進気鋭の学徒は、それぞれ、この波のう ちに旧い自己すなわち社会政策学派のうちに育った自己を清算しつつあった。そしてこの 清算の総決算が、社会政策学派のつまずき、社会政策学派の活動休止[1924年12月]とい うことになったのである。それがマルクス主義の登壇と表裏であったのはむしろ当然であ る。(大内[1959]上、69ページ。)
このように本稿の 1 で挙げた当時の時代背景①から⑥が混合し展開していく中で、
それに大きく影響されてしだいにマルクス主義が登壇していく、このような現実的な 気運やら状勢が上記の回顧証言からリアルに想起でき理解できよう。さらにこうした 状勢に関して、大内兵衛とは別に向坂逸郎(1897年~1985年)も、次のように語ってい る。
私の中にあったこのような世間の事情は、ロシア革命や物価騰貴によって、個人的には 家の窮乏によって私をマルクシズムへとかり立てた。私は、大学にはいるとともに、マル クスやエンゲルスの理論に熱心に取りついていた。そして私の生涯の途は、この理論の導 く所にあると信じて、精神的不安はなくなっていた。(向坂[1972]86~87ページ。)
いわゆる「大正デモクラシー」の時代ですから、日本資本主義の飛躍的発展とともに、
封建遺制やその古い習俗や思想と、新しい社会生活からくる国民の自覚との矛盾、本来資 本主義そのもののもつ階級対立の矛盾、こんなものが一時に、いわゆる社会問題として展 開してくるのです。そして、そのようなすべての問題の根底にあるものが、社会の経済生 活であるという漠然たる思想が、私を経済学の勉強に走らせたものかと思います。そして この考え方は、社会主義につながっているということの、これも漠然たる自覚―このよう なものが、私を経済学・社会主義思想、ことにマルクスの理論の勉強にむかう傾向を、い つのまにかつくりあげていたようです。(向坂[1978]59~60ページ。)
と、このように、向坂逸郎も大内兵衛とほぼ同様な回顧を行なっている。本稿の 1 で挙げた時代背景①から⑥の状況と、マルクス主義の登壇とが密接に絡み合っていた ことは、おおよそ間違いではないであろう。
ただそのマルクス主義の登壇に関してやはり決定的な影響力があった人物なり、文 献なり、そうしたものが存在したはずである。と言うのも、すでにマルクス主義は
1900年代の初めから日本に導入されていたのであって(詳しくは深澤[2018]参照)、既 述のように1910年の大逆事件でその動きはいったん頓挫するが、それでも山川均や片 山潜などは社会主義やマルクス主義の普及活動を行なっていたのである(上述の「関 連年表」参照)。それが1910年代の後半から20年代にかけて、上記の時代背景を受けな がら急激にマルクス主義が翻訳され導入されていったのは、この時期マルクス主義を 決定的に大衆の人口に膾炙させていった人物やら文献が存在したわけである。そして 逆に言えば、大衆がそれを求めたわけである。このような経緯がなければ、マルクス 主義がかほどに導入されることはなかったであろうし、また上記の渡部[1967]で示 されたように、短絡的にマルクス主義イコール単なる危険思想という通俗的な理解で 済まされ片付けられてしまっていたはずである。
このような点から鑑みて、時代や大衆がマルクス主義の導入を渇望し、それに応え るかのようにマルクス主義やマルクス経済学の文献が翻訳されていくのにあたって、
カリスマ性というまではいかずとも、大きなきっかけや動機になるものが何か存在し たはずである。それを以下で明らかにしていきたい。
② 河上肇(1879年~1946年)の影響力
上記の問いかけの回答として、この時期のマルクス主義・マルクス経済学の興隆に 非常に大きな功績、あるいは大きな影響力があった人物として、何と言っても河上肇 の存在を取り上げないわけにはいかない。この人物の活躍と影響こそが上記問いかけ の回答であり、結論である。
河上肇は、早くは『社会主義評論』(1906年)で一躍有名になり、その後、名著『貧 乏物語』(1917年)でまた名を上げ、さらにその後、自身で編集していった雑誌『社会 問題管見』(1918年~)と同じく『社会問題研究』(1919年~)、これによって世間の注 目を非常に浴びた。彼の学問的な立ち位置を見れば、早くは『社会主義評論』によっ て社会主義に関して大衆の耳目を集め、その後さらに『社会問題研究』(1919年~)の 時期からマルクス主義に傾倒し、マルクス経済学者へと旋回していくのである(その 詳細は深澤[2019]を参照)。
さらにまた上述の書籍が、以下の証言でも見ていくが、当時としては驚くべき売れ 行きを示したのである。当時の人々(特にはインテリゲンチャになるのであろうが)は、
上記の時代背景とまさに符合して、河上肇の著作をあるいは社会主義そしてマルクス 主義・マルクス経済学に関して考え、彼からあるいは互いに、大いに学んだようであ る。これらがまさに対応しながら、河上肇の著作物は驚くべき売り上げを示したと言 える。
これらに関するリアルな状況は、以下の証言から把握できる。先に挙げた二人の言 明を聞いてみる。
そのとき、わたくしは学生であって、一方では大逆事件に直接に非常なショックをうけ ていたが、他方ではまた当時東大の経済学がおもしろくなかったので、京大の河上助教授 の高説にとくべつに興味をもっていた(大内[1975]434ページ。)
河上さんはおどろくべき敏感な人道主義的センチメンタリストであったのでこの[第一 次世界]大戦のさなかに、これからのヨーロッパの問題は社会問題であるということを感 じたのである。そのセンスで書いたのが、あの『貧乏物語』である。あれは日本の社会問 題の意識に劃期的な意味をもつものとして古典の名に値する[中略]。ジャーナリズムの中 心を社会問題とした。要するにあの本を契機として社会主義がしぜん論壇の問題となった。
その結果として、経済学者が誰彼ということなく論壇に出て来るようになった。経済学の 流行がこれから始まった。[中略]論壇はだんだんと社会主義に大きい席を与えつつあった。
[中略]ぼくは河上さんについたり離れたりしながらほんの少しずつ社会主義を勉強したか らだ。この時代にこういう人は、日本中に相当いたのではないかと思う。それが河上さん の意義だ。
河上さんが『社会問題研究』を出しはじめたのは大正八年[1919年]であるが、河上さ んはもちろん唯物史観がわかっておらず、社会主義者でもなかった。その辺のところが、
ちょうどぼくによかった。しかし、社会主義とは何か、ロシア革命とは何か、そういうこ とがヒシヒシと問題になっていた。(大内[1959]上、76~78ページ。)
こういう風にマルクス主義の花はいろいろの花園のうちで花やかに開いていったのであ るが、その内で一番香りの高い色の、美しいものといえば、河上肇の『社会問題研究』と 答えるのが至当である。これは、はじめは三十二頁、二十銭の個人雑誌であって、大正八 年[1919年]一月創刊、それから、十数年、昭和五年[1930年]末までつづき、百冊以上 を出したものである。経済学の雑誌でこのくらい広く読まれたもの、このくらい影響のあっ たものは他にはない。恐らく世界にも例があるまい。河上肇の筆力と説得力とはそのよう に大きかった。 またこれは河上一生の事業の内で最大のエネルギーを費やしたものでも あった。『社会思想』同人や、向坂逸郎クラス、またはそれより少し若い今日のマルクス学 者で、この雑誌によってマルクスに入門しなかったものはほとんどいないであろう。この 雑誌を出すときはせいぜい二、三千の部数を予定していたのであるが、間もなくそれは一 万となり二万となった。あるいは三万に近づいたこともあったかと思う。当時としては、
驚くべき発行部数であった。河上さんがこれをはじめたときは、マルクスは知っていたが、
まだマルクス主義者でもなく、資本論学者でもなかった。ミルの徒、ラスキンの徒、スマー トの徒であり、完全な人道学者であった。しかし、資本主義についての疑問提出者ではあっ た。そこがちょうど時代の問題であって、多数の読者を得た所以であったが、それから数年、
大正十三年[1924年]頃には、河上さんは唯物史観をものにしようとかかった。それは、
自己の人道主義を改造するという形、その告白として行われた。当時多くの人々もそうい
う問題をもっていたので、多くの熱心な読者を得た。河上さんのこの動機となったものは、
櫛田君の『社会主義は闇に面するか光に面するか』という質問、福本君の『河上博士の唯 物史観』評であった。河上さんはこの二人の批評には全く『まいった』のであるが、まい ると共に彼は狂者のごとくに自己批判をやろうとした。そしてそれをいろいろの形で告白 した。われわれ読者とってはそれが非常に面白かった。面白かったというのは、いろいろ な意味であるが、多くの読者は、それぞれ自分のことのように思えたということであった。
(大内[1959]上、179~180ページ。)
彼[河上肇]は大正八年[1919年]から彼の月間個人雑誌『社会問題研究』をはじめた。
[中略]これは、河上の奮励努力の軌跡であるが、マルクスの研究がまだ極めて浅かった当 時の日本にとっては彼の明快な解説の一つ一つが新風のように喜び迎えられたのである。
そのことは『社会問題研究』の読者が万を以て数えたことにも、またこれらの研究を集め た彼の著書『改版 社会問題管見』や『唯物史観研究』や『社会組織と社会革命』やがいず れも十数版乃至数十版を重ねたことによっても知られる。わたくしのようなものも彼の熱 心な読者、彼の追従者であって、マルクスの勉強は彼に従い彼に追いつくことを念願とし ていた。そしてこういう学徒は日本中に非常に多かったと思われるのであり、今日、河上 会を組織している人々の中軸はたいていこの時代の京都大学で河上の学生であった。(大内
[1975]388~389ページ。)
今日[1952年]、五十代で、経済学をもって身を立てているような、もしくはそうでなく ても多少とも経済学に興味をもった経験のあるような日本のインテリに聞いて見よ。その ほとんど全部は、博士のこの書[『貧乏物語』]によって経済学の意義を知ったというであ ろう。そしてその多くは自分もこの書にみちびかれてその道に志したというであろう。さ らに今日四十代の人々にして一度でもマルクス主義に志した経験のある人に聞いて見るが よい、彼らは異口同音に、おれは、河上先生の『経済学大綱』でその道に入った、おれは 河上先生の『資本論入門』でその門に入ったというであろう。そしてこの人々の多くは、
いわゆる経済学、ブルジョア経済学をまったくつまらぬものと考え、あるいはそれは不道 徳を弁護するものとさえいうであろう。これは博士のあの本をそう読んだのである。(大内
[1975]447~448ページ。)
このように河上肇の著作の売行きやら、そしてそれが持つインパクト・影響力、こ れらに関して実際の状況のほどが知れるのだが、さらにここで筆者(深澤)が特に着 目したいのは、大内兵衛が言う「われわれ読者とってはそれが非常に面白かった。面白かっ たというのは、いろいろな意味であるが、多くの読者は、それぞれ自分のことのように思えた」
「わたくしのようなものも彼の熱心な読者、彼の追従者であって、マルクスの勉強は彼に従い彼 に追いつくことを念願としていた。そしてこういう学徒は日本中に非常に多かったと思われる」
というくだりである。このように河上肇と同時にマルクス主義に感化された者、ある
いはそうでなくともマルクス経済学の研究を行なおうと思った者は、一人大内兵衛で だけではなくて、日本中に非常に多かったようである。
あたかもこれに首肯するかのように、向坂逸郎も次のように語っている。
私は、先にも述べた通り、法律学をやって官吏になるつもりであった。しかし、河上肇 さんのこの論文[「貧乏物語」]を読んで、私はすぐ大学では経済学をやろうと決意した。(向 坂[1972]47ページ。)
河上さんの『貧乏物語』ではじめてカール・マルクスとかフリードリッヒ・エンゲルス とか唯物史観というものを知った。あるいは姓名は、いま少し前に知っていたかもしれな いが、はっきり彼等の名が、私の生涯に付着して、離れなくなったのは、このころからの ことかと思う。(向坂[1972]48ページ。)
さらに同時代を生きた大河内一男(1905年~1984年)もまた、次のように述べている。
いずれにしても、『貧乏物語』が若い日本人にもの0 0を見る目、考える頭をよいさましたこ とは疑えないと思います。(大河内[1979]15ページ。傍点は原文によるもので、以下同じ。)
このように河上肇のまず『貧乏物語』の影響力のほどが知れるのである。つまり上 記の証言を総合するに、既述の時代背景を受けて大衆(特にはインテリゲンチャたち)
は、社会主義あるいはマルクス主義とは何かという問題を探求し出したのである。そ れも特には河上肇の『貧乏物語』他の著作とともに(2)。まさに本稿 1 の時代背景①か ら⑥とまさにマッチして、大衆(特にはインテリゲンチャたち)は河上肇の著作を、あ るいは社会主義そしてマルクス主義またマルクス経済学に関して、彼からあるいは互 いに、大いに学んだのである。それによって、河上肇の著作がかような驚くべき売れ 行きを示したのである。
その証左として、以下の回顧・証言も重要であって、ここに加えておく(3)。
河上さんの著作論文は、非常に高い啓蒙価値をもつものであった。河上さんのものを読 んだ結果マルクス経済学をやるようになった学究が、どれくらいいるかわからない。私も その一人である。(向坂[1974]96ページ。)
ひとり向坂氏のみではなく当時の青年にして本書[『貧乏物語』]によって社会問題に関 心をもつようになった例は非常に多かったと思われる。(大内[1975]410ページ。)
『社会問題研究』は河上のマルクス学勉強ノートに過ぎないものであったのだが、当時、
世間もまた彼とともにマルクスを勉強することを自分の課題とし、 それに非常に勤勉で
あった(大内[1975]411ページ。)
マルクス主義は滔々たる流となった。けだし彼ら[河上肇に続く者]もまた迷える羊で あり、学ばずにはいられない気持だった。それが時勢であった。河上はそうして彼らの先 達となった(大内[1975]413ページ。)
ここまでをいったんまとめてみると、既述の時代背景そして河上肇の時宜を得た著 作と活動、これらがまさに対応し合致しながら日本におけるマルクス主義・マルクス 経済学の興隆がこの時期生じたと言えよう(4)。
③ マルクス主義・マルクス経済学の影響力
上記のように時代背景と河上肇の影響力とによって、この時期マルクス主義・マル クス経済学の興隆が日本において生じてきたことを、ここまでで提示したが、この時 期マルクス主義・マルクス経済学の興隆にとって、そもそもそれ自体が有するインパ クトや、大衆(特にはインテリゲンチャ)を引き付けていく魅力なりが存在していなけ れば興隆など起り得るはずはない。そうしたそもそものマルクス主義・マルクス経済 学自体が有するインパクトや魅力を以下把握していくとして、まずインパクトのほど に関する証言や回顧を彼等から聞いてみよう。
アメリカから取りよせて『共産党宣言』と『空想的社会主義から科学的社会主義への発 展』を読んだ。これを私は、繰り返し読んだ。そして私の一生はこれだと思った。(向坂
[1972]62ページ。)
私は、この二書[『空想的社会主義から科学的社会主義への発展』『共産党宣言』]で、な にか目隠しがとられたような感じでした。逆立ちしていたのが、足でりっぱに立ったよう な思いでした。いまから考えると、私は、十分わかっていたわけではないのですが、その 当時は、これで自分の人生観が激変したように思いました。自分が模索していたものの核 心をつかんだような気がしたのです。自分の一生はこの道だ、と思い、これ以後、私の勉 強は、マルクスの史的唯物論と『資本論』の経済学に注がれました。(向坂[1978]77ペー ジ。)
[1923・24年頃]はじめて『共産党宣言』を読んだ高校生の私は、まったく新しいものの 考え方や見方を訓えられたという感じでした。目先が急にひらけたとでも申しますか、と もかく当時の私には衝撃であり、いままであれこれと文学書を読みあさって、いったい何 を得たのだろうか、と自分を責めたくなる位でした。(大河内[1979]57ページ。)
と、このように、マルクス主義の文献がきっかけとなって人生の進路が定められた り、あるいはまたマルクス主義の持っていた影響力、そしてその受け止めと衝撃のほ
どが、ひとまず知れるのである。ではそのマルクス主義が有する影響力や、大衆(特 には本稿で取り上げたインテリゲンチャ)の心をつかんだ要素は一体何であったのであろ うか。
それは上記の二人の証言からは明確でない。またそれは各者各様のところもあるで あろう。マルクス主義が内包する影響力の要因として、筆者(深澤)の思い浮かぶだ けの類推から指摘してみるとしても、観念論的でない唯物論的なものの見方・哲学、
それを歴史と対応させた唯物史観による歴史把握、そこから得られる資本主義の弁証 法的な変化・発展の法則的展開、あるいはまた資本主義制度の成立と展開とやがて未 来的には来たるべき終焉性、それを唯物弁証法と唯物史観の観点とから併せ持って考 察されるマルクス(主義)経済学の分析、こうした哲学・歴史学・経済学という並立 的な分析具有の体系性、しいたげられている立場にある労働者階級の解放と彼らが持 つ能動的・主体的活動による階級闘争の理論、そして生物の進化の法則にも似た資本 主義の社会主義への進展や譲位、あるいは社会主義の勝利を見る革命と社会主義建設 の理論、そこでもたらされるはずの真の意味での平等とされる社会の実現、およそこ れらがマルクス主義には内包されているところである。それらのいずれの要素がその 者の心をつかみ、かの者の琴線に触れ、機微を解していったか、それは人それぞれで あろう。
ただ、何とかして各人に共通するもの、あるいはその一端なりを明らかにしたいと 考えている本稿の趣旨からすれば、マルクス主義・マルクス経済学が有する次の要素 あるいは特徴・特長が、大きな要因として上記の者々を引き付けたと考えられる。そ れは深澤[2018、2019]でも指摘してきたことでもあるが、一つにはマルクス主義・
マルクス経済学が有する上記のような体系性という特徴・特長、そしてもう一つはそ こからもたらされると同時に上記マルクス主義が同じく内包している社会主義建設へ の科学的貢献、この二点を筆者(深澤)は重視し、以下これについての各論者の言明 を続けて追い、明確にしていきたい。
まず前者のマルクス主義が有する(あるいはマルクス経済学においても同様であるが)、 こうした体系性という特徴・特徴に関しては、今まで取り上げた論者は明確に示して いないが、有沢広巳(1896年~1988年)他以下の証言が大いに参考になる。以下の引用 は深澤[2018]では紙幅の関係と対象として扱う時代的差異から、注にしか取り上げ られなかったものであるが、極めて重要と考え再びここで提示したい。当時を生きた 有沢広巳は、本稿で対象としている1920年代前半の日本の経済学やマルクス経済学の 状況を回顧して、1973年に次のように述べている。
ぼくがマルクスに飛びついたのは、経済学部を出て助手になって、経済学を本格的に勉
強しはじめたとき[1923年]だったといってよいでしょう。むろんそれまでの前史はあり ますが。その当時の日本の経済学は、歴史学派だとか古典学派だとか、オーストリア学派 などの学派の寄集めで、学問としては体系性がなかった。たとえば、分配論は古典学派に よるが価格論はオーストリア学派からとるといった、雑炊的な経済学になっていた。つま り内部構造のない体系だった。ですから、これでは経済学は成りたたないと考えた。これ は私一人ではなくて、私といっしょに大学に残った大森義太郎にしても、みんなそうであっ た。[中略]
実は、初め私は限界効用学説をやった。それは私の先生のレーデラーがオーストリア学 派の先生だったということもありますが、その講義をきいていても、どうしても学説体系 として一貫した説明がつかないところがある。レーデラー先生に質問してみても、先生も それが問題だという。そこで、まえまえから多少見当をつけていた『資本論』に取り組む ことにした。[中略]
マルクス経済学をひとわたり学んだのちに、日本の経済現象を考えてみると、非常によ くわかる。彼のいうとおりのような形にできている。ことに農業問題なんかそうですね。(有 沢・玉野井[1973]95~96ページ。また稲田・岡本・早坂[1974]22ページも参照した。)
さらに、これとほぼ同様の指摘を、杉本栄一(1901年~1952年)も行なっている。
わが国では、古典学派でも、歴史学派でも、オーストリア学派でも、一つの学派として 纏まった形で支持されるに至らず、甲の部分からは価値論が、乙の学派からは地代論が、
丙の学派からは発展理論がというように、部分理論として手当たり次第に輸入され、いわ ば寄せ木細工のように補綴されただけでした。[中略]
ところが[中略]マルクス学説だけは、その趣が全く違っていました。マルクス学派は、
それ自体纏まった理論体系として輸入されたのです。(杉本[1981]上、52~53ページ。)
このように、マルクス経済学が有する体系性という特徴・特長が指摘されている。
つまりはマルクス経済学体系として提示されている、価値から価格、あるいは価値か ら商品の解明、商品の解明から資本の解明と、さらには国家、貿易、世界市場へと、
抽象的なものから具体的なものへと、いわゆる上向的に論理展開されていく体系的な 性格がマルクス経済学には内包されている。そしてまた、そのマルクス経済学すらを 一つの構成要素として、マルクス主義という壮大な体系が構築されている。このよう なマルクス経済学あるいはマルクス主義が有する一貫した体系的性格、こうした点に 上記のインテリゲンチャたちは大いに引き付けられていったものと考えられるのであ る(5)。
さらに先にもう一つの要因として示した、かようなマルクス主義の体系性からもた らされると同時にマルクス主義が有する社会主義建設の科学的貢献に関して、以下示 していくとして、これに関しては再度本稿で取り上げた人物たちの証言を取り上げた 方が、本論の論旨としての一貫性が保たれるであろう。
まず向坂逸郎は1967年が『資本論』刊行100年だったことから、自身が翻訳した『資 本論』の「まえがき」次のように記している。
『資本論』は、百年を生きつづけた。そして人類の歴史の存するかぎり生きつづけるだろ う。それは、資本主義社会における矛盾の冷徹な余すところなき分析によって、人類の新 しい歴史の開始を告知したからである。社会主義を科学にしたからである。さらに、この ことによって、歴史の進展を現実にする人間の糧かてとなったからである。つまり、『資本論』
は、マルクスという天才の手になった労働者階級の歴史的自覚であったからである。(向坂
[1967]ⅲページ。)
マルクスは、この書で資本主義の社会主義への必然性を立証した。それは、われわれに とって、歴史の方向を示すことである。日本の歴史をつくる者は、われわれ自身である。
われわれが生き、かつ闘う方向を指し示すものは、まさに『資本論』である。だから『資 本論』は人生の書である。(向坂[1967]ⅶページ。)
これを受けて大内兵衛もまた次のように言っている。
さすがに多年『資本論』に打ち込んで、いろいろの方面からこの本をいじくりまわし、
すみずみまでかみくだいて味わってみた上で、さらにまた多年にわたって自ら社会主義者 として実践にも献身した経験でそれの社会的意義をたしかめた上での定義である。さすが はといったのはそのことである。念のためもういちど向坂君のまねをすれば、社会主義は
『資本論』によって科学となった。この本のおかげで資本主義社会の矛盾の正体は明らかと なった。いろいろ科学的発見は、われわれに新しい時代を開く力を与える。なぜなればわ れわれ人間は自らの運命に対して責任と希望をもつからである。未来はわれわれのもので ある。われわれはじっとしてはいられない。(大内[1975]第九巻、651ページ。)
と、このように、両者とも本稿の上記で指摘したような、『資本論』あるいはマル クス経済学さらに広くはマルクス主義が有する社会主義建設の科学的貢献、これをし きりに説き訴えているのである。このようなマルクス経済学・マルクス主義による社 会主義への科学的貢献がまた、当時のインテリゲンチャ、特には社会主義者(あるい はそれに関心を寄せる者)をマルクス主義・マルクス経済学へと感化させ、または同調 させ、彼等の心をつかんでいったものと考える(6)。
まとめと結論
本稿ここまでの論旨を以下のようにまとめ、結論としていく。
まず1910年代後半から1920年代前半の当時、本稿の30ページで指摘したような時代 背景があり、その中で民主主義あるいは社会主義を求める動きがバックボーンあるい は与件としてまず発生し存在していた。そこにマルクス主義・マルクス経済学の主張 がまさに噛み合った。その要因としては、マルクス主義・マルクス経済学が有する特 徴・特長として唯物史観他を複合した体系性と、またそれらから生物の進化の法則に も似た社会主義建設への展開とその科学的貢献性をマルクス主義・マルクス経済学が 併せ持つものであったからである。先の時代背景と社会主義への希求に対して、当時 のインテリゲンチャはマルクス主義・マルクス経済学のこの点に着目し、または駆ら れ、その積極的導入に努めた。こうした導入とともに研究と考察が同時並行的に行な われ、 その中で特に河上肇(またさらには山川均・ 櫛田民蔵)の貢献と影響が強く(7)、 当時のインテリゲンチャの心をつかんでいった。これらがこの当時マルクス主義・マ ルクス経済学が興隆した理由である。以上のことが本稿で示した同時代の何人かの回 顧や証言によって汲み取ることができる。
注
⑴ 時代背景とは若干異なるが、本稿で扱う1920年代前半に日本の大学においてマルクス主 義・マルクス経済学が興隆した一因として、大内兵衛は以下のようにも指摘している。
日本のマルクス主義がこのように盛んになったことは、一九二〇年代にドイツから経済 学の本がたくさん来たこと、ドイツに日本の留学生がたくさん行ったことと大いに関係が ある。そしてそのドイツが何といっても、マルクス学の伝統をもっていたということと大 いに関係がある。当時マルクは安かった。そのことがこの影響を大ならしめた。日本は当 時官費または私費をもって(戦争による戦時利得をもって)多数の経済学徒をこの敗戦国 に送った。そして彼らはそこから社会主義をとり入れたのである。それによるマルクス主 義の経済学が日本でブームしたのである。(大内[1959]上、122~123ページ。このような 見解と主張は、伊藤[1988]83ページにおいても提示されている。)
また1920年代前半に日本の大学においてマルクス主義・マルクス経済学が興隆した要因 に関して、竹内洋は教養主義・人道主義からマルクス主義への跳躍という観点から接近し 説いている。(竹内[2001]29ページ~。)さらに橘木俊詔は大学の教授人事による特殊性、
それをめぐる派閥抗争、これらに関して言及され分析されている(橘木[2009]124ページ
~、橘木[2012b]220ページ~)。あるいはまた同氏は、大阪という地域の要因も指摘して いる(橘木[2012a]104ページ~)。
このような多様な接近・追究方法や様々な要因があることはもちろんではあろうが、し かし筆者(深澤)は本稿本文で追究し指摘していくように、マルクス主義やマルク経済学
そのものが有する内在的要因、そしてそのインパクトや影響のほどという視点から接近し ていくこととする。
⑵ このような河上肇『貧乏物語』の影響力のほどに関して、無論例外はある。宇野弘蔵(1897 年~1977年)は1970年に当時を回顧して次のように語っている。
○○ 先生の時代によく出てくるのは、河上肇の『貧乏物語』なんか見て社会主義 的なそういう貧乏に対する関心をもったというのがかなり共通しているのではないで ですか。
── それがぼくにはぜんぜんないんだ。
○○ 先生も河上肇の影響を受けていないのではないでしょう。
── あとでは��。しかし、『貧乏物語』は、ぼくは読んでいない。いまだに読ん でいないんだ。『第二』 の方は読んだんだけど、 それはあとのことだ。(宇野[1970]
27ページ。)
と、このように語っており、宇野弘蔵の場合、マルクス主義・マルクス経済学への傾倒 は以下のようである。まず、
私は偶然のことからそれまで不逞無頼の徒の主張とばかり思いこんでいた社会主義 が決してそういうものではないことを知りました。 特に大正四、 五年[1915、 6 年]
以後になると主として山川均氏の論文によるのですが、それは当時東京大学の先生だっ た吉野作造氏の主張などとは比較にならないほど筋の通ったものであることを知るこ とになったのです。そしてその背後にはマルクスという偉大なる社会主義者の『資本 論』という著作のあることをも教えられたのでした。私はその時以来なんとかしてこ の『資本論』が読めるようになりたいと考えるようになったのです。(宇野[1974]99
~100ページ。)
そして、河上肇の影響力に関しては次のように語っており、この点は本稿本文で指摘し た河上肇の影響力の分析と完全に符合している。
マルクス経済学一般からいえばそれを広めたのはやっぱり河上さんじゃないのかな。
大正九年、十年[1920・21年]ごろの『社会問題研究』じゃないかな。山川さんなん かはブデインとかウンターマンぐらいでしょう。河上さんは、とにかく『資本論』を 直接に解説しようとしたんだからね。ぼくは山川さんはとにかく、堺さんからは特に 経済学を教わったという気はしない。ぼく自身としてはやはり河上さんだね。マルク ス経済学の入門はさきに話したカウツキーの『資本論解説』 と河上さんの『発達史』
だった。[中略]
『社会問題研究』。これは唯物史観を解説したりして、われわれにとってはとにかく 唯物史観なるものの、またマルクス経済学なるものの手引きとして大変なものであっ た。(宇野[1970]上、96ページ。)
⑶ 上記注 ⑵ による宇野弘蔵の河上肇に関する言明も同時に参照。
⑷ 本稿では主として河上肇にページを費やしたが、無論その他に同様な役割を果した人物 はいたわけであり、著名なのは山川均(1880年~1958年)また櫛田民蔵(1885年~1935年)
である。以下若干ではあるが両氏に関しても触れておく。本稿本文で取り上げた向坂逸郎 は次のように述べている。
山川均に関して
私の考方を決定的にマルクス主義の方へ向ける手引となったものは、山川均氏の当 時の著書、論文とエンゲルスの『社会主義の発展』であつたと思ふ。山川氏の著書の 中で最初に読んだのは『社会主義者の社会観』であった。当時、私にとりては、エン ゲルスの『発展』は相当に難解に感ぜられたのであった。之に反して山川氏の此著書は、
更に氏独特の刺す様に鋭い表現を以て、鈍感私の如き者もぐい[ぐい]氏の考へ方の 中にひつぱり込んで行つた。実際面白い程私の目の前に新しい物の見方が繰り広げら れて行つた。おかしな話だが、読み終つて、私は何だか自分の頭が急に清ク リ ヤ澄になつて、
誰かと議論して一本やりこめてやりたい様[な]衝動にかられたことを今でもはつき り思い出す。
それ以来、山川氏の論文、翻訳、著書、目についたものは片つぱしから沈読した。『新 社会』、『社会主義研究』はその発効日が待遠しかつたほどであつた。前号で書いた様 に当時の東大経済学部の講義は、甚だ口は[ば]つたい云ひ分だが、本気で聴く気に なれるものは殆んどなかつたのだから、私はまるで山川均教授の講義で大学を卒業し た様なものだと考へたりした。(向坂[1931]189ページ。なお引用は当用漢字に改め てある。以下同じ。)
学校の講義は平気で怠けたが、堺利彦、山川均の著作論文は見逃さず、もとめて読 んだ。山川さんも『社会主義研究』、という雑誌を出された。大正八年[1919年]のこ とであると思う。むろん私は、毎号始めからしまいまで読んだ。この雑誌には、ソヴィ エト・ロシアに関する記事が沢山のったが、私がいちばん熱心に読んだのはマルクス 経済学に関する翻訳であった。これは当時の日本の大学に求めてないものであったか らである。いまはありすぎるほどあるが、その頃の私には旱天に慈雨を得たような感 じであった。この雑誌は、そのころの私の知的水準をぐんぐん引上げた。
このようにして、私の大学における勉強は学校の講義よりも堺さん、殊に山川さん の書かれるものによって進んだ。だから、私は山川さんを大学の先生よりもっと深い 意味において先生と呼ぶのである。(向坂[1958]224~225ページ。)
櫛田民蔵に関して
間もなく、小泉氏に対しても、櫛田さんが反論を書きはじめた。同時に、河上さん のマルクス価値論に対しても、批判した。しかも、それがことごとく、これまでのマ ルクス研究をはるかにぬいていて、人々を驚かした。私も櫛田さんの論文をくり返し 読んだ。これは、私どものマルクス経済学研究をどれほど高めたかわからない。それ だけでなく、日本のマルクス経済学界を一挙に世界的水準まで引き上げた、というこ とができる。マルクスの労働価値説の意義が明白となり、同時に、日本の経済学界に 対して強い刺激となった。山川、櫛田両氏の諸論文によって、日本のマルクシストは マルクシズムを自分の頭で考えはじめた。(向坂[1974]97ページ。)
⑸ 本文で指摘したように、マルクス主義・マルクス経済学の特徴・特長として唯物史観や 階級闘争の理論を併せ持った体系性が、当時のインテリゲンチャを引き付けた諸相に関し ては、いくつか他の文献でも指摘されているところである。
例えば、野村[1959]は以下のように分析・指摘している。
ロシア革命の理論的根據がマルクシズムにあったことが、その唯物史観を強化した。
経済史研究の重要性は一層高められた資本主義社会における資本家対労働者の階級対 立が自然必然的に社会主義社会へと推移するという階級闘争を人類の歴史全体に押し 広め、古代における貴族対奴隷、中世における地主対農奴の階級闘争に依って、歴史 的展開が可能となったものと解する。かヽる史観はその必然性と一般性とに依って強 く一部の人々の間に支持されるようになった。このことは明治時代においてダァウィ ニズムやスペンセリアンが流行したと同様に、ある新しさと科学的な理論として、こ の国の知識人を喜ばした。(野村[1959]40ページ。)
また石田[2013]も、1924年から展開されていく福本イズムや、その後に刊行されるマ ルクス主義・マルクス経済学的な分析の書『日本資本主義発達史講座』に代表させて、次 のように指摘している。
私の見るところでは、福本イズムと『講座』が持った決定的な影響力の秘密は、そ れらがマルクス主義理論の普遍性、体系性、批判性を印象づけた点にあったと思う。(石 田[2013]113ページ。)
⑹ このようなマルクス主義あるいはマルクス経済学によってなされた社会主義建設への科 学的貢献に関して、いわゆる「社会主義は科学になった」というくだりの原典は、エンゲ ルス『反デューリング論』による有名な次の指摘である。
この二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値を手段とする資本主義的生 産の秘密の暴露とは、われわれがマルクス0 0 0 0に負うものである。これらの発見によって、
社会主義は科学になった。いまさしあたって必要なことは、この科学をそのあらゆる 細目と連関とにわたってさらに仕上げてゆくことである。(大内・細川監訳[1968]第 20巻、26ページ。なお同様な趣旨の主張は、エンゲルスの「マルクスの葬儀での演説」
大内・細川監訳[1968]第19巻、331ページ~にも見られる。)
このようなそしてまた本文で示したような、マルクス主義あるいはマルクス経済学が唯 物史観を随伴しながら有する体系性と、同時に併せ持った社会主義建設への科学的貢献に 関しては、特に本文で取り上げた向坂・大内両氏の指摘以外に、その後も脈々とインテリ ゲンチャの心をつかみ、それが本稿本文で指摘したようなマルクス主義・マルクス経済学 の特徴・特長として、鮮明化され明確化される。このような生物の進化の法則にも似た唯 物史観を随伴しながらの体系性や社会主義建設への科学的貢献が、マルクス主義・マルク ス経済学の特徴・特長であることを指摘する文献は、おびただしいかぎりであって、マル クス主義・マルクス経済学関連の本を紐解けばそれに出くわすというまでになったとも言 えるであろう。そのほんの一例を以下示すとして、横山正彦(1917年~1986年)は1976年 に次のように述べている。
マルクス主義を科学的社会主義の学説体系にしている大きな柱は、科学的な歴史観 としての唯物史観あるいは史的唯物論と、資本主義生産の秘密の科学的暴露である剰 余価値の理論との二つである。[中略]
生産諸力の発達の結果が、どのようにして、ある経済制度を他のよりいっそう前進 した経済制度へと発展させるのか。封建制度から資本主義がどのようにして成長し、
発展してきたのか。資本主義から社会主義への転化はどうして必然的なのか。─マル
クスの経済学はこのことを、最高度の科学的厳密さをもって論証し、唯物史観との密 接不可分の関係を示している。また剰余価値の理論がマルクスの経済学「土台石」[中 略]となっていることは、あらためていうまでもないであろう。(横山[1976]10~11 ページ。)
実際マルクスは、ダーウィン[中略]が生物の進化の法則を発見したのと同じように、
人間社会の歴史について進化の法則を発見した。資本主義から社会主義への移行の必 然性、つまり、移行の客観性および主体的な条件と前提が、資本主義経済の発展のう ちにいやおうなしに成熟してくることを、明らかにしている。(横山[1976]15ページ。)
⑺ 河上肇の中国への影響に関しては、三田[2003]第Ⅱ部を参照。
参照文献
有沢広巳・玉野井芳郎[1973]『近代日本を考える』東洋経済新報社。
石田雄[2013]『日本の社会科学』(増補新装版)東京大学出版会。
伊藤誠[1988]『現代のマルクス経済学』社会評論社。
稲田献一・岡本哲治・早坂忠編[1974]『近代経済学再考』有斐閣。
宇野弘蔵[1970・73]『資本論五十年』(上・下)法政大学出版会。
──[1974]『資本論の経済学』(宇野弘蔵[1974]『宇野弘蔵著作集』第六巻、岩波書店)。
大内兵衛[1959]『経済学五十年』(上・下)東京大学出版会。
──[1975]『大内兵衛著作集』第九巻、第十一巻、岩波書店。
大内兵衛・細川嘉六監訳[1968]『マルクス=エンゲルス全集』第19・20巻、大月書店(Karl Marx-Friedrich Engels Werke, Band 19・20, Institut für Marxisum-Leinismus beim ZK der SED,
Berlin, Dietz Verlag, 1962.)。
大河内一男[1979]『暗い谷間の自伝─追憶と意見─』中央公論社。
向坂逸郎[1931]「山川均論」『中央公論』第523号(1931年 8 月号)。
──[1958]「先生を憶う」『世界』第150号(1958年 6 月号)。
──[1964]『流れに抗して』講談社。(向坂逸郎[1978]『流れに抗して』社会主義協会出 版局、復刻版。引用は復刻版を用いた。)
──[1967]「訳者まえがき」向坂逸郎訳『資本論』第一巻、岩波書店。
──[1972]『わが資本論』新潮社。
──[1974]『わが生涯の闘い』文芸春秋。
杉本栄一[1981]『近代経済学の解明』(上・下)岩波書店。
竹内洋[2001]『大学という病─東大紛擾と教授群像─』中央公論社。
橘木俊詔[2009]『東京大学 エリート養成機関の盛衰』岩波書店。
──[2012a]『三商大 東京・大阪・神戸』岩波書店。
──[2012b]『課題解明の経済学史』朝日新聞社。
土屋保男[1965]「解題」土屋保男訳『賃金、価格、利潤』大月書店。
野村兼太郎[1959]「日本経済史研究の変遷」気賀健三編輯[1959]『日本における経済学の 百年』(上)慶應義塾大学経済学会。
深澤竜人[2018]「マルクス経済学(マルクス主義)導入時の検討─日本マルクス経済学史Ⅰ
─」『山梨学院生涯学習センター紀要』第22号。
──[2019]「河上肇のマルクス経済学への転身に関して─日本マルクス経済学史Ⅱ─」『山 梨学院大学経営情報学論集』第25号。
三田剛史[2003]『甦る河上肇─近代中国の知の源泉─』藤原書店。
山川均[1966]『山川均全集』第 2 巻、勁草書房。
横山正彦[1976]「マルクス主義経済学の基本性格」日本科学者会議編者[1976]『「資本論」
と現代資本主義』大月書店。
渡部徹[1967]「ロシア革命と日本労働運動─『露西亜革命の感想』をめぐって─」『現代の 理論』第45号(1967年10月号)。
Karl Marx[1865]Lohn, Preis, und Profit,(in Karl Marx-Friedrich Engels Werke, Band 16, Institut für Marxisum-Leinismus beim ZK der SED, Berlin, Dietz Verlag, 1968), ss.101-152.
本誌前号の深澤[2018]の訂正
本誌前号の筆者の論文(深澤[2018])の誤記他を以下のように訂正する。
53ページ、16行目 (正)松浦要訳『賃金・価格および利潤』
(誤)松浦要・山川均訳『賃金・価格および利潤』
54ページ、 7 行目 (正)山崎覚二郎 (誤)山崎佳覚二郎 65ページ、13行目 (正)河上肇 (誤)川上肇
同、 14行目 (正)『賃金・価格および利潤』の松浦要訳 (誤)『賃金・価格および利潤』の松浦要・山川均訳
なお、上記のとおりマルクスの『賃金・価格および利潤』の翻訳は、1919年に松浦要訳 によって刊行された。だが同年山川均によっても、『賃金・価格および利潤』の部分訳では あるが、その第六節「価値と労働」が「マルクスの労働価値説」として、『社会主義研究』
第 2 号(1919年 6 月号、 1 ~33ページ)に無署名で翻訳された。こうした経緯ではあるが、
筆者(深澤)前号の表記では誤解を生みやすいものと考え、上記のように訂正する。(なお マルクスのこの著作Lohn, Preis, und Profit〔Marx[1865]〕は、本稿で扱った時期からの翻 訳などを含めていくつかの書物の表題では、『価値・価格および利潤』となっている場合も ある。この異同理由に関しては土屋[1965]95ページを参照。本稿ではマルクスの原典の 表記を尊重し『賃金・価格および利潤』で統一した。)