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(1)

カントと内感の問題

上 義 彦

K a

n t

  u

n d

  d

a s

  P

r o

b l

e m

  d

e s

  i

n n

e r

e n

  S

i n

n e

s .

‑ E r f a h r u n g s u r t e i l   u n d   W a h r n e h m u n g s u r t e i l

‑ Y o

s h i h i k o   I N O U E

序︑両感のハラレリズム

カントは︑空間と時間をパラレルに論証するように︑それを形

式とする外感と内感とをパラレルに論じている︒

次の命題はそれをはっきり明示している‑﹁我々が外感の規定

を空間において秩序づけるのと丁度同様にして︑内感の規定を時

間における現象として秩序づけねばならないこと︑従ってもし

我々が外感について︑我々が外的に触発される限りにおいての

み︑外感によって我々が客観を認識するのであるということを承

認するならば︑我々はまた内感についても︑我々が内的に我々自

身によって触発されるようにのみ︑我々自身を直観するというこ

( l

)

と を

承 認

せ ね

ば な

ら な

い ﹂

( B

1 5

6 )

'

だから︑外感において︑我々が外的対象を我々に現象するがま

まに認識して︑それがそれ自身において存在するがままに認識す

るのではないように︑﹁内感は我々自身をさえ︑単に我々が我々に

( nu rw ie wi ru ns er sc he in en .)

(w ie wi ra nu ns se

b st si nd .)

( B1 52

. 3)

る︒

しかし︑外感における外的現象も認識のためには︑我々の内感

の内に取り込まれねばならないo従って﹁時間はあらゆる現象一

般 の ア ・ プ リ オ リ な 条 件 で あ る

﹂ ( A 3 4 , B 5 0 ) こ と に な る . 原 理 的

にいえば︑﹁あらゆる現象1般︑即ち感官のすべての対象は時間の

内 に

存 し

︑ 必

然 的

に 時

間 関

係 (

V e

r h

a l

t n

i s

s e

d e

r Z

e i

t )

の 中

に 存

( A 3 4 . B 5 1 ) '

この点において︑かのハラレリズムは確かに崩れる︒しかした

長崎大学教養部紀要(人文科学窟)第3 2巻第2号1‑三十八二九九二年7月)

(2)

井 上 義 彦

とえその一部が崩れても︑カントの発想法の根底にかのハラレリ

ズムが厳然と貫通していることを忘れてはならない︒

カントが︑外感と内感とのパラレルな対比の上に立ってその立

論を構成していることは明らかである︒これをカント理論哲学を

貫徹する基本的な視点と解すると︑カントの超越論的観念論とい

う難解な思想の森の中に内感の問題的構造を解明する1本のルー

トが開示されてくることが了解されるであろう︒

それでは次に︑かく解すると︑超越論的観念論を介して︑如何

なる内感へのルートが開示されるのかを考察しよう︒

そこでは︑外感にはなく︑内感のみに特有な現象が問題になる︒

即ち夢と幻覚の問題︑従って夢と覚醒(現実)の区別︑狂気と正

気の区別︑知覚判断と経験判断の区別︑などの識別する区別の根

拠がテーマになる︒

カント哲学は︑超越論的哲学として︑一種の観念論であるから︑

超越論的観念論とされる︒カント自身の有名な定義によれば︑こ

うである‑﹁あらゆる現象の超越論的観念論ということで︑私は

あらゆる現象をもってこれをすべて単なる表象となし︑物自体と

は見なさず︑従って時間と空間とは我々の直観の単なる感性的形

式にすぎず︑物自体としての客観の︑独立に与えられた規定ない

し 条 件 で は な い と す る 学 説 を 意 味 す る ﹂ ( A 3 6 9 ) '

この超越論的観念論の思想的境位を我々の﹁内感の問題﹂との

関連において阿明にするために︑まずここで︑1連の﹁内的経験﹂

の論文において一貫してこの超越論的観念論と鋭‑対決し︑厳し

い批判を試みた久保元彦氏の論説を紹介し︑次に久保説の批判的

吟味と検討を行う中で︑我々自身の考え方を提示することにす

る︒

久保氏によれば︑カントの問題は︑﹁存在或いは実在を本来何処

で了解し︑如何なる場で語りうるのかという問いに係わってい

:c凸

る﹂とされ︑﹁その際彼の目論見は︑超越論的実在論及び経験的観

念論との対決のなかで︑超越論的観念論を当の問いに関する唯一

可能な考え方として確立することにある︒だがこの目論見は成功

しているとは言い難い︒超越論的観念論はそれが碓立されたかに

見えるまさにその瞬間に既に崩壊し始める︑という事態にカント

m

は立ち合わなければならないからである﹂ということになる︒

この提言に︑久保説の見解の帰趨は明かである︒

氏によれば︑超越論的観念論という﹁この理論を成就するには

最少限二つのものが必要となるだろう﹂として︑﹁第一に必要な措

置は︑﹁それ自体における私の外部﹂と言う概念の原理的な理解不

o 可能性を明言することである﹂という︒そして﹁超越論的観念論

(3)

の土台として第二に必要なものは次の二つの前提であろう﹂とし

て︑﹁川︑表象内容の意識が直ちに︑当の表象内容の存在に関する

( 5 ) 十分な証明となっている﹂ような表象の典型︑即ちコギトの存在︒

3︑﹁コギトに見られるこの典型的な性格は︑更に表象の全体につ

いて7般化されうる︒即ち︑表象の意識が同時に︑当の表象内容

( 6

)

の存在に関する十分な証明である﹂とする︒そして更にこう附言

するー﹁超越論的観念論の確立に努める際のカントが事実これら

の前提︑というより寧ろ重大な問題を卒む予断︑に全面的に依拠

していることは︑例えば以下の如き文章から紛う方なく読み取り

( 7 ) うるところである﹂として︑カント自身の文章を挙示している︒

即ち︑﹁超越論的観念論者は‑‑単なる自己意識から出て行くこ

となしに︑また私のうちなる諸表象の確実性以上の何ものをも︑

従ってコギト・エルゴ・ス‑ム以上の何ものをも受け入れること

なしに︑物質の存在を認容することができる﹂(A370)と︒

こうした久保説には︑何処か桂寿1氏の所謂近世主体主義的解

釈に呼応する如きものが微妙に感じ取れる︒

桂氏はカント哲学に関して︑﹁問題は果して彼︹カント︺の試み

が︑主体主義の我々のいう限界を克服するものであるかという点

にあるであろう︒いずれにせよ我々は近世主体主義の自覚と限界

に係わる問題という二つの観点を柱として︑カント哲学を見よう

( 8

)

とする﹂と問題提起して︑こう言う‑﹁結論を先に言えば︑我々

カントと内感の問題

ももちろんカントの仕事が﹁理性批判﹂にあったことは認めるの であるが︑その意味はいわゆる認識批判︑すなわち知識ないし科 学の可能性を課題にし︑その問題解決の立場として批判的・客観 的観念論を提唱したという︑ふつうの見方には賛成しがたいので

( 9

)

ある﹂として︑﹁カントの場合も︑‑‑コペルニクス的転回のうち

に端的に表明されているように︑広義の観念論ないし主観主義が

提唱されていることは︑我々も決して否定しようとするのではな

い︒ただそうした設問や展開の背景に︑いわばそれらを成り立た

せている哲学態度として︑この書が始めから説いてきた近世主体

主義(第一型)があり︑むしろカントの行なった﹁批判﹂とは︑そ

れまで無意識的に取られてきたこの態度の意識であり自覚であ

る︑それがコペルニクス的転回といった形で示されたのであると

( 2 ) 言おうとするのである﹂とされている︒

桂氏は︑カントの行なった理性批判を﹁それまで無意識的に取

られてきた﹂近世主体主義的な態度の意識化・自覚化と捉えて︑

カントをデカルト以降の近世主体主義的な第1型に所属させてい

る︒確かにカント哲学がかかる近世主体主義的な思考法の意識

化・自覚化の延長線上にあることは紛れもなく正しい洞察である

が︑しかし我々が後に示すように︑カントはそれと同時にその思

考法の弱点の自覚化とその乗り越えを企図していたと我々は考え

る も の で あ る

(4)

井 上 義 彦

他方桂氏は︑フッサールの﹁現象学的構成﹂の思考法から﹁彼

の現象学を我々のいう﹁意識内在主義﹂の系列に配しようとする

( )

大きな理由である﹂とするように︑フッサール哲学をやはり意識

内在主義の系譜(第二型)に据えて︑それが他我の導入から招来

される﹁相互主観性﹂の優れた思想展開を受けて︑﹁方法論的反省

が徹底して試みられていること︑その結果として独我論の誤解に

対して充分な弁明が用意されていること︑何よりも主観性の先験

性を明確にすることによって︑単なる意識主義からの脱皮が充分

に行なわれていること︑したがって心理学や心理主義と完全に手

a 漸E

を切っているなど﹂と高く評価されている︒

これに反して︑﹁主体主義の第1の方向ないし第1型で考える

(2)

ような純化もし‑は拡大された主体﹂に所属するカントに対して

は︑﹁彼の哲学が主体主義としての近世哲学の1つの跳躍台にな

( 2 )

っていることを示そうとした﹂とされて︑﹁カント哲学の構造のう

ちにも︑彼以後におけるより大きな発展の基礎が整えられるとと

(2)

もに︑その発展の限界とでもいうべきものが暗示されている﹂と

考察されて︑﹁可能的な経験が確保されるとともにその限界が意

識され︑理念の規則的原理としての意義が示されるとともに︑そ

eサ の実在性の限界が明らかにされたこと﹂などが示唆されている︒

しかし大切なことは︑﹁そうした限界が︑主体主義的立場そのもの

︼a の限界を意味するわけでは決してない﹂ことである︒

b i i

我々は︑桂氏のように︑﹁いわば予感的には︑それがすでに示唆

されていると見ることはできるかも知れない﹂が︑﹁このことをカ

( 2 )

ント思想のうちに求めることは無理である﹂とは考えない︒むし

ろ我々は︑後に言及するように︑カントには近世主体主義的な思

考法の弱点・欠陥を乗り越えて︑その発展継承的充実を図ろうと

する批判的試みが存すると考えるものである︒

さて久保説に戻っていえば︑久保氏がこうした桂氏の問題提起

の水脈で確かに考えているのかどうかの是非はともかくとして

も︑久保氏が桂氏同様に︑カント哲学をデカルト的なコギトをモ

デルとする主体主義的立場と解していることはとりわけ明らかで

これは︑久保氏の論拠として引用されたカント自身の原文

(A370)から如実に推察されることである.久保氏は更に引用を

重 ね て ︑

﹁ ﹁ 私 の 自 己 意 識 の 直 接 的 な 証 言 に 基 づ い て

﹂ ( A 3 7 1 ) と い

(2)った表現が何を意味しているかもおのずから明らかであろう﹂と

しかし︑こうした自説を補強する引用文が︑A版からのものに

限られていることには︑とりわけ注意が必要である︒なぜなら︑

これらはすべてB版では削除されて︑書き直されたものだからで

久保氏が︑超越論的観念論をA版とB版を通してのカント哲学

(5)

の基本的立場と解するのならば︑またそう解していると推察され

る以上︑こうした削除︑書き変えなどについての検討・吟味が必

要であろう︒無論久保説にもその配慮は窺われるが︑しかしより

一層の慎重な配慮が要求されると言うべきであろう︒

我々がこの小論で問題とするテーマ︑即ちデカルト的なコギト

と カ ン ト 的 な

﹁ 我 思 う

﹂ ( H c h d e n k e ) の 相 違 に 関 連 し て ︑ 久 保 氏 の

引用を両版で比較検討して見よう︒

A版の﹁自己意識の直接的確実性﹂に対して︑B版の﹁外的経

験が本来直接的なのであり︑この外的経験を通してのみ︑内的経

験 が 可 能 な の で あ る ﹂ ( B 2 7 6 ‑ ' 7 ) ︒ A 版 の コ ギ ト 的 自 己 認 識 の 直

接的確実性(A370)に対しては︑B版の﹁かくて結論されること

は ︑ 我 々 は 我 々 の 心 ( S e e l e ) の 性 質 に つ い て は

︑ 心 が 1 般 的 に 外

的事物を離れて実在しうるとされる限り︑それがいかなる方法に

よってであろうとも︑何ごとをも認識することができない︑とい

うことである﹂(B420)‑

カントの超越論的観念論は︑これらの両版を比較対照して︑吟

味・検討されるべきであろう︒従って︑久保氏による超越論的観

念論の規定は︑A版にあまりに偏重しており︑狭轟に過ぎるとい

う意味では︑充分妥当な規定化とは考え難い︒

我々がこの規定化に賛同できない理由は︑その他にもある︒そ

カントと内感の問題 れは︑久保氏の依拠する個所がB版で全面的に削除・書き変えられた部分であるというだけでな‑︑もっと学説の内容にかかわる本質的な理由からである︒

それは︑久保氏のもっぱら依拠する当該個所が﹁パラロギスム

"

Pa ra lo gi sm us

"

( co gi to )

心の実体性や心の単純性・不死性などをそれだけで自己認識でき︑

また論証できるとする伝統的形而上学の思考法が論過として仮象

であり︑誤謬推理であることを明らかにする弁証論的な個所であ

る︒

この論説は︑カントにとって︑﹁デカルトにとって疑いえない経

験であった我々の内的経験ですら︑外的経験を前提にしてのみ可

能 な の で あ る

﹂ と い う 立 場 に 立 っ て

︑ 主 張 さ れ る の で あ

る︒だから︑デカルト的なコギトの虚構性を指弾する同1の個所

で︑同時にそのような欠陥を有するコギトをモデルとする立場を

自己の超越論的観念論とする論述がなされている︑あるいは比較

的に平行して主張されていると解する場合には︑当然のことなが

ら︑その読み取りにはより1層の慎重な手続きが必要となろう0

従ってその際︑両者の特性や差異性の峻別化︑明別化が必須の

ものとなろう︒

確かに︑久保氏の引用文はそれ自身カント自身の原文である︒

(6)

この点には落ち度はない︒にも拘らずかかる慎重な配慮の不充分

さあるいは論証の手続きの困難さが︑本来カントのものとするに

は無理のある論説をカント自身に帰するという錯誤を生ぜしめた

ものと推察されるのである︒

カントが︑パラロギスムスの部分をB版ですべて削除して︑全

面的に書き改めたのも︑そして新たに難解さで有名な﹁観念論論

駁﹂を挿入したのも︑更に以後﹁超越論的観念論﹂という用語の

使用を全く止めたのも︑このパラロギスムスのいかにもミスリー

ディングな論述を嫌ったためではないかと︑十分に賢察されうる

( de rf or ma le ld ea li s us )(

) (d er a te na

e ld ea

i s uS )

:*5サ:

観念論に終止符を打つものである﹂と述べるように︑カント自身

の 批

判 的

観 念

論 は

︑ デ

カ ル

ト の

蓋 然

的 観

念 論

( d

e r

p r

o b

‑ e

ヨ a

t i

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l d

. )

や バ

ー ク

リ ー

の 独

断 的

観 念

論 (

d e

r d

o g

m a

t i

s c

h e

l d

. )

と 批

判 的

に対決するものなのである︒

このことは︑﹁観念論論駁﹂の立論の難解な所以を熟慮すれば︑

自ら明らかであろう︒

観念論者であるカント自身が︑﹁観念論の論駁﹂をなしているの

で あ

る ︒

これは尋常なことではない︒﹁観念論は︑己れの企んだ戯れの

ために︑逆に正当以上に復讐された﹂(B276V我々はこのことを

十分に反省すべきである︒

カントは︑自分の観念論とデカルトやバークリーの観念論との

間にはっきりと明快な一線を劃しているのである︒それが︑何処

に何に存するのかを究明し確定しない限り︑カントを近世主体主

義(あるいは意識内在主義)的な立場の継承・発展と解しても︑実

りある生産的な成果は期待できないであろう︒

両者の特性と差異性を十分に自覚してこそ︑その限界の乗り越

えとしての発展・展開の試みも可能になるであろう︒

従ってこの意味では︑﹁観念論論駁﹂を如何に解するかは︑カン

ト解釈の分水嶺になるものである︒﹁観念論論駁﹂の解釈次第で

は︑超越論的観念論の既成概念は何らかの修正を余儀なくされる

事態も出現するであろう︒

デ カ ル ト の コ ギ ト ( c o g i t o ) は ︑ 確 か に 近 世 主 体 主 義 を 定 礎 し ︑

()

バ ー

ク リ

ー の

e s

s e

i s

p e

r c

i p

i は

意 識

内 在

主 義

を 定

着 さ

せ た

︒ し

し周知のように︑彼等は外界の存在の確実性に疑問を抱いた︒彼

等の立場では︑整合的に外界の存在を論証することが出来なかっ

(7)

た︒カントによれば︑彼等の質料的な﹁観念論とは︑我々の外な

る空間における対象の現存を︑単に疑わしくかつ証明されないも

(

zw

ei

fe

lh

af

tu

nd

un

er

we

is

li

ch

)

(

fa

ls

ch

un

du

nm

og

li

ch

)

(B

27

4)

(

Hc hd en ke ( )

異性は何か︑何処に存するのか︒またカントは自己意識や自己認

識をどのように考えているのか︒

少なくとも現時点で言えることは︑カントは我々の外なる外界

の存在を疑ってはいないということである︒従って︑ここから同

時に推察されうることは︑カントの形式的観念論は︑外界の存在

を包含する立場であるということである︒

こうした点を明示するためにも︑ここで︑﹁観念論論駁﹂の考察

が必要となる︒そしてこのためには︑懸案のA版の命題︑即ち

﹁超越論的観念論者は︑‑‑単なる自己意識の外に出ることな‑︑

da sc og it o, er go su m

以上の何ものをも想定することな‑して︑物質の実在を承認する

( e

i n

r a

u m

e n

) 者

で あ

る ﹂

( A

3 7

0 )

に 対

し て

︑ B

版 の

﹁ 観

念 論

論 駁

﹂ に

おける﹁定理﹂︑即ち﹁私自身の現存在の単なる︑しかし経験的に

規定された意識は︑私の外なる空間中の諸対象の現存在を証明す

る﹂(B275)を比較対置して︑これを集中的に考察することがどう

しても不可欠になる︒

カントと内感の問題

両版の論旨は︑一見類似しているように見えるが︑それは大変 な誤解であり︑両者の成立構造はまった‑異なるものである︒

前者は︑意識内在主義と同じ‑︑意識に与えられた表象の確実

性から︑当の表象の客観的実在性を単なる自己意識(コギト)か

ら1歩も外に出ることな‑︑論証できるとしているが︑これは果

たして如何にして可能であろうか︒コギトだけで︑外的表象の確

実性からその表象の客観的実在性を承認できるだろうか︒例え

ば︑空を飛ぶ夢を見たという表象の意識的確実性から︑我々が空

を飛ぶ行為が真実の客観的実在性を持つことになるわけではな

い︒この立場では︑夢と現実(覚醒)を区別できない︒

これに反して︑後者では︑明確な自己意識の成立は︑我々の外

なる空間中の対象の存在を前提にしてのみ可能であるというこ

と ︑

従 っ

て ︑

統 覚

の 働

き た

る ﹁

我 思

う ﹂

( I

c h

d e

n k

e )

と い

う 単

な る

自己意識だけでは︑何らの自己認識(明確な自己意識)も成立せ

ず︑何らかの自己認識が成立するためには︑我々の外なる空間中

の対象の存在を必ず媒介にせねばならないことを意味しているの

で あ

る ︒

このために︑我々が心すべき大切なことは︑﹁﹁我思う﹂とは︑私

の 現

存 在

を 規

定 す

る 働

き を

表 現

し て

い る

( D

a s

, I

c h

d e

n k

e ,

d r

u c

k t

de

nA

kt

us

au

s,

me

in

Da

se

in

zu

be

st

im

me

n.

)

(B

15

7)

うことであり︑従って﹁考えるということに対して素材を与える

(8)

井 上 義 彦

何らかの経験的な表象がなくては︑﹁我思う﹂という働き(der

Ak tu s, Ic hd en ke .)

( B4 23 ,A nm .)

ということである︒それ故に︑﹁﹁我思う﹂という命題(DerSatz,

Ic

hd

en

ke

.)

"

Ic

he

xi

st

ie

re

de

nk

en

d.

 "

において︑単なる論理的機能ではなく︑実存に関して主観(これ

はこの場合同時に客観である)を規定するものであり︑内感なし

(

De

rS

at

z,

Ic

hd

en

ke

,k

an

no

hn

ed

en

in

ne

re

nS

in

n ni ch ts ta tt fi nd en .)

がすべてB版の文脈に登場することには注目が必要であろう︒

では︑﹁観念論論駁﹂の構造を考察しょう︒

我々は︑以前にこの問題を詳細に論究したことがあるので︑そ

( 3

)

の論稿に基づいて要約的に言及することにしよう︒

さて︑カントによると︑質料的観念論の論駁に﹁必要な証明は︑

(E in bi ld un g)

を持ちうるということを証示する﹂(B275)ことであり︑﹁このこ

とは︑デカルトが確実であると考える内的経験でさえも︑外的経

験を前提にしてのみ可能であることを証明しうる時にのみ︑成就

( B2 75 ) O ここには︑カントのデカルト的コギトに対する﹁論駁﹂の二つ の要点が提示されている︒一つは︑自己意識と自己認識の区別で

I ノ

あり︑いま1つは︑内的経験は外的経験によってのみ可能になる

という考え方︑換言すると︑時間的限定は空間的規定を必要とす

るという思想である︒

こ れ を 基 に ︑

﹁ 論 駁 ﹂ の 定 理 ( L e h r s a t z ) を 分 析 す る こ と に よ っ

て︑我々の解釈を総括的に示そう︒

﹁私自身の現存在の単なる︑しかし経験的に規定された意識は︑

私の外なる空間中の諸対象の現存在を証明する﹂という定理を理

解するためには︑まず自己意識と自己認識が明白に区別されなけ

れ ば な ら な い

カ ン

ト に

よ る

と ︑

自 己

意 識

( B

e w

u B

t s

e i

n m

e i

n e

r s

e l

b s

t )

と は

︑ 根

本的には超越論的意識として根源的統覚(A﹂)︑従って﹁我思う

(Ichdenke)(B132).

﹁我思う﹂としての自己意識は︑そもそも﹁私の現存在を規定す

る作用を表現している﹂(B157)とはいえ︑それは﹁思考であっ

て︑直観ではない﹂(B157)から︑自己直観を欠いているのであ

る︒従って﹁自己意識はまだ自己認識ではない﹂(B158V﹁私は︑

私自身を認識するためには︑私が自己を考えるという意識のほか

に ︑ 私 の 内 な る 多 様 の 直 観 を 必 要 と す る

﹂ ( B 1 5 8 ) ︒

かくして︑﹁我思う﹂という単なる自己意識は︑自己認識たり

うるためには︑規定されるべき内的自己直観を欠いているが故

に ︑

経 験

的 に

は 無

規 定

( u

n b

e s

t i

ヨ ヨ

t )

な も

の に

と ど

ま っ

て い

る の

(9)

あ る

では︑かかる﹁我思う﹂の自己意識と定理における﹁私の現存 ︒

在の意識﹂とは︑如何なる関係にあるのか︒

定理の自己意識は︑正確には﹁私自身の現存在の単なる︑しか

し 経

験 的

に 規

定 さ

れ た

意 識

﹂ (

D a

s b

l o

B e

, a

b e

r e

m p

i r

i s

c h

b e

s t

i m

m t

e ,

B e

w u

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s e

i n

m e

i n

e s

e i

g e

n e

n D

a s

e i

n s

) で

あ っ

た o

これに比して︑﹁我思う﹂の自己意識は︑カントによって﹁経験

的であるが︑しかし直観のあらゆる仕方に関しては無規定な﹂

( d e n e m p i r i s c h e n , a b e r i n A n s e h u n g a l l e r A r t d e r A n s c h a u u n g u n b e s t i m m t e n , S a t z , I c h d e n k e . ) も の と し て ( B 4 2 1 ) ︑ 換 言 す る と ︑

(

ei

ne

un

be

st

im

mt

ee

mp

ir

is

ch

e

An

sc

ha

uu

ng

,d

.i

.W

ah

rn

eh

mu

ng

)

(

B4

22

)

捉されている︒

( e pi ri sc hb es ti te s)

(e

p

ir

is

ch

es

u

be

st

i

t

es

)

ここから︑両者の相違は明らかであろう︒

次に︑これは如何なる事態を意味するかが考察されねばならな

︑OA>

後者の自己意識は︑前述したように︑自己認識に必要な自己直

カントと内感の問題

観を欠いていることを明示していた︒従って前者の︑定理の自己 意識は︑そこに私の現存在を規定するのに必要な自己直観を有す ること︑それゆえ自己認識たりうることを意味していることが判 明

す る

このことを︑カントの定理の証明に照応させながら︑考証して

見 よ

う ︒

それはさしあたり︑﹁私は︑私の現存在を時間において規定され

たものとして意識している﹂ことに対応している︒これは︑﹁我思

う﹂の自己意識が自己認識しようとする時に︑自己をまず内省的

に内感において対象化すること︑換言すると時間において限定す

ることを意味している︒﹁﹁我思う﹂という命題は︑内感なしには

生じえない﹂(B429)︒カントによると︑注意作用は﹁内感が我々

自身によって触発される﹂ことの実例を示していた︒﹁悟性はこ

の注意作用において常に内感を︑自己が思惟する結合に従って規

定し︑悟性の総合における多様に対応する内的直観たらしめる﹂

(B157)︒時間とは内感の形式であり︑時間における私とは︑内感

の対象としての客体我である︒﹁考えるものとしての私は︑内感

の 対 象 で あ っ て ︑ 心 ( S e e ︼ e ) と 呼 ば れ

︑ 外 感 の 対 象 で あ る も の は

(K

or

pe

r)

(A

34

2.

B4

00

)'

ところで︑あらゆる時間規定は持続的なものを必要とする︒

﹁時間関係は︑持続的なもの中においてのみ可能である︒換言す

(10)

井 上 義 彦

れば︑持続的なものは時間そのものの経験的な表象の基体であ

り︑この基体によってのみすべての時間規定は可能なのである﹂

(A

18

2

 '

3.

B2

26

)'

持続性は︑私の外なる物によって可能であり︑また外物は空間

において成立するが故に︑すべての時間規定は空間的な規定にお

いて︑従って空間において捉えられるべきことを示している︒

つまり︑﹁経験たるためには︑何か実存するものの思想のほか

に ︑ な お

︑ 自 己 直 観 が 必 要 で あ る ﹂ ( B 2 7 7 )

‑ そ し て 更 に

﹁ こ の た め に

︑ 私 は 何 か 持 続 的 な も の を 必 要 と す る ﹂ ( B 4 2 0 ) の で あ る

︒ 換

言すると︑内的自己直観︑即ち﹁内的経験そのものは︑私の内に

存しない何か持続的なものに依存している﹂(BXL)(それ故に︑

自己認識のためには︑﹁空間における私の外なる物﹂を必要とする

の で

あ る

すると︑時間における私の現存在の意識規定は︑一つの時間規

定として︑空間において従って外感において把握されねばならな

い︒空間における私とは︑外感の対象としての客体我︑即ち身体

である︒従って︑私の身体は﹁空間における私の外なる物﹂であ

る︒換言すると︑私の身体は﹁何か持続的なもの﹂の1つなので

ある︒内的経験は︑このように外的経験によって可能となるので

あ る

我々の身体性が︑外物と同じく外在性の在り方を有することを ︒

念頭にお‑と︑﹁論駁﹂の論証はもっとよく理解できるようにな

る︒‑﹁私の現存在の経験的意識は︑私の実存と結合しっつ︑し

(

et

wa

s,

wa

s

it

e

in

er

Ex

is

te

nz

ve

rb

un

de

n,

au Ge rm ir is t. )

( BX L)

1

( KO rp er li ch ke it )

合意させるのは︑我々の解釈の行きすぎであろうか︒むしろ︑こ

こは身体性をおいて読解する方が適切な解釈であると言いえよ

う0

か‑して︑﹁論駁﹂におけるカントの考え方は︑次のことを提示

し て

い る

自己意識が自己認識になるためには︑我々は自己の現存在を時

間(内感)においてのみならず︑空間(外感)においても規定せ

ねばならないこと︒換言すると︑自己認識は自己の現存在を内的

(時間的)のみならず︑外的(空間的)に把捉することによって成

立すること︒従って自己の現存在を時間と空間において捉えると

いうことは︑自己存在を心身存在者として外的物との関係におい

て︑従って世界関係において捉えることを意味する︒それ故に︑

自己認識は︑自己の外なる空間中の対象の存在を前提にしてのみ

可能になるのである︒クリユーガIが︑﹁人間は自己自身を(身体

L e i b と し て の み な ら ず

︑ 心 S e e ‑ e と し て も ) 世 界 と の 連 関 に お い て

( S )

のみ与えられている﹂と解しているのは︑正当な解釈である︒

(11)

ここに︑やっと自己認識が成立することになる︒デカルトのコ

ギトは︑それのみで自己認識を産出できたが︑カントの﹁我思う﹂

( I c h d e n k e ) は ︑ そ れ の み で は 自 己 の 現 存 在 を 規 定 す る 自 己 意 識

(思惟)をもたらすだけで︑これを内感において与えられる自己直

観と外感において与えられる何か持続的なもの(身体や外物)と

の媒介の下に︑総合的に統一して自己認識を成立させるのであ

る︒

ここに︑両者の決定的な相違がある︒

カウルバッハが言うように︑カントの﹁論証の核心は︑次の命

題即ち︑私は何らかの自己意識を持つためには︑その中に私の身

体 性

( L

e i

b ︼

i c

h k

e i

t )

の 実

在 意

識 と

( 私

の 身

体 性

が そ

れ に

属 す

る )

体 的

( k

o r

p e

r l

i c

h )

な 世

界 の

実 在

意 識

と を

包 含

せ ね

ば な

ら な

い と

(3)うことの内に見出されうる﹂のである︒

なおここで︑我々の論題に必要な︑考察されるべき主要な差異

性ないし特徴的なメルクマールとして︑我々は以下の三点を要約

的に挙示しておこう︒

;︑﹁我々の内的経験でさえ︑外的経験を前提にしてのみ可能で

( B 2 7 5 ) 0

これのヴァリエーションとして︑﹁外的経験は本来直接的

( u

n ヨ

i t

t e

l b

a r

) で

あ り

︑ 内

的 経

験 は

外 的

経 験

を 通

し て

の み

可 能

で あ

カントと内感の問題

(B 27 6 '7 ) (m it te lb ar )

あるということである︒

出︑﹁外的直観の優位﹂ということ0

﹁もっと注目に値することは︑物の可能性をカテゴリーに従って

理解し︑それ故カテゴリーの客観的実在性を示すためには︑我々

は単に直観をだけでなく︑まさに常に外的直観を必要とするとい

うことである﹂(B291)︒

このヴァリエーションとして︑﹁認識のためには︑時間的表象

(内的直観)は空間的表象(外的直観)を必要とする﹂と換言でき

る︒﹁なぜならば︑空間のみが持続的に規定されうるものであり︑

時間は︑従って内感中にあるものはすべて︑絶えず流れてゆくも

のだからである﹂(B291‑'2)<

臼︑﹁我々は︑我々の内感のためにさえも︑認識の全素材を我々

の 外

な る

物 か

ら 手

に 入

れ る

( v

o n

d e

n e

n ︹

D i

n g

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u B

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r e

n S

i n

n h

e r

( Bx xx ix )

換言すると︑﹁内的直観においては︑外感の表象は︑我々がそれ

( de ne ig en t ic he n

Stoff)を形成するものであるばかりでな‑︑時間とは︑我々がこ

れ ら

の 外

的 表

象 を

そ の

中 へ

定 立

す る

( s

e t

z e

n )

も の

で あ

る ﹂

( B

6 7

V

以上︑これらの差異性のメルクマールがいずれも︑書き改めた

十7

参照

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