カントと内感の問題
‑ 経 験 判 断 と 知 覚 判 断
井 ‑
上 義 彦
K a
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‑ E r f a h r u n g s u r t e i l u n d W a h r n e h m u n g s u r t e i l
‑ Y o
s h i h i k o I N O U E
序︑両感のハラレリズム
カントは︑空間と時間をパラレルに論証するように︑それを形
式とする外感と内感とをパラレルに論じている︒
次の命題はそれをはっきり明示している‑﹁我々が外感の規定
を空間において秩序づけるのと丁度同様にして︑内感の規定を時
間における現象として秩序づけねばならないこと︑従ってもし
●
●
●
我々が外感について︑我々が外的に触発される限りにおいての
み︑外感によって我々が客観を認識するのであるということを承
●
●
●
認するならば︑我々はまた内感についても︑我々が内的に我々自
身によって触発されるようにのみ︑我々自身を直観するというこ
( l
)
と を
承 認
せ ね
ば な
ら な
い ﹂
( B
1 5
6 )
'
だから︑外感において︑我々が外的対象を我々に現象するがま
まに認識して︑それがそれ自身において存在するがままに認識す
るのではないように︑﹁内感は我々自身をさえ︑単に我々が我々に
現象 する がま まだ け( nu rw ie wi ru ns er sc he in en .) を意 識せ しめ
︑ 我々 が我 々自 身に おい て存 在す るが まま (w ie wi ra nu ns se
‑b st si nd .) を意 識せ しめ るの では ない
﹂( B1 52
‑. 3) とい うこ とで あ
る︒
しかし︑外感における外的現象も認識のためには︑我々の内感
の内に取り込まれねばならないo従って﹁時間はあらゆる現象一
般 の ア ・ プ リ オ リ な 条 件 で あ る
﹂ ( A 3 4 , B 5 0 ) こ と に な る . 原 理 的
にいえば︑﹁あらゆる現象1般︑即ち感官のすべての対象は時間の
内 に
存 し
︑ 必
然 的
に 時
間 関
係 (
V e
r h
a l
t n
i s
s e
d e
r Z
e i
t )
の 中
に 存
す
る
﹂ ( A 3 4 . B 5 1 ) '
この点において︑かのハラレリズムは確かに崩れる︒しかした
長崎大学教養部紀要(人文科学窟)第3 2巻第2号1‑三十八二九九二年7月)
井 上 義 彦
とえその一部が崩れても︑カントの発想法の根底にかのハラレリ
ズムが厳然と貫通していることを忘れてはならない︒
カントが︑外感と内感とのパラレルな対比の上に立ってその立
論を構成していることは明らかである︒これをカント理論哲学を
貫徹する基本的な視点と解すると︑カントの超越論的観念論とい
う難解な思想の森の中に内感の問題的構造を解明する1本のルー
トが開示されてくることが了解されるであろう︒
それでは次に︑かく解すると︑超越論的観念論を介して︑如何
なる内感へのルートが開示されるのかを考察しよう︒
そこでは︑外感にはなく︑内感のみに特有な現象が問題になる︒
即ち夢と幻覚の問題︑従って夢と覚醒(現実)の区別︑狂気と正
気の区別︑知覚判断と経験判断の区別︑などの識別する区別の根
拠がテーマになる︒
一︑ 超越 論的 観念 論の 構造
カント哲学は︑超越論的哲学として︑一種の観念論であるから︑
超越論的観念論とされる︒カント自身の有名な定義によれば︑こ
うである‑﹁あらゆる現象の超越論的観念論ということで︑私は
あらゆる現象をもってこれをすべて単なる表象となし︑物自体と
は見なさず︑従って時間と空間とは我々の直観の単なる感性的形
二式にすぎず︑物自体としての客観の︑独立に与えられた規定ない
し 条 件 で は な い と す る 学 説 を 意 味 す る ﹂ ( A 3 6 9 ) '
この超越論的観念論の思想的境位を我々の﹁内感の問題﹂との
関連において阿明にするために︑まずここで︑1連の﹁内的経験﹂
の論文において一貫してこの超越論的観念論と鋭‑対決し︑厳し
い批判を試みた久保元彦氏の論説を紹介し︑次に久保説の批判的
吟味と検討を行う中で︑我々自身の考え方を提示することにす
る︒
久保氏によれば︑カントの問題は︑﹁存在或いは実在を本来何処
で了解し︑如何なる場で語りうるのかという問いに係わってい
:c凸
る﹂とされ︑﹁その際彼の目論見は︑超越論的実在論及び経験的観
念論との対決のなかで︑超越論的観念論を当の問いに関する唯一
可能な考え方として確立することにある︒だがこの目論見は成功
しているとは言い難い︒超越論的観念論はそれが碓立されたかに
見えるまさにその瞬間に既に崩壊し始める︑という事態にカント
m
は立ち合わなければならないからである﹂ということになる︒
この提言に︑久保説の見解の帰趨は明かである︒
氏によれば︑超越論的観念論という﹁この理論を成就するには
最少限二つのものが必要となるだろう﹂として︑﹁第一に必要な措
置は︑﹁それ自体における私の外部﹂と言う概念の原理的な理解不
o 可能性を明言することである﹂という︒そして﹁超越論的観念論
の土台として第二に必要なものは次の二つの前提であろう﹂とし
て︑﹁川︑表象内容の意識が直ちに︑当の表象内容の存在に関する
( 5 ) 十分な証明となっている﹂ような表象の典型︑即ちコギトの存在︒
3︑﹁コギトに見られるこの典型的な性格は︑更に表象の全体につ
いて7般化されうる︒即ち︑表象の意識が同時に︑当の表象内容
( 6
)
の存在に関する十分な証明である﹂とする︒そして更にこう附言
するー﹁超越論的観念論の確立に努める際のカントが事実これら
の前提︑というより寧ろ重大な問題を卒む予断︑に全面的に依拠
していることは︑例えば以下の如き文章から紛う方なく読み取り
( 7 ) うるところである﹂として︑カント自身の文章を挙示している︒
即ち︑﹁超越論的観念論者は‑‑単なる自己意識から出て行くこ
となしに︑また私のうちなる諸表象の確実性以上の何ものをも︑
従ってコギト・エルゴ・ス‑ム以上の何ものをも受け入れること
なしに︑物質の存在を認容することができる﹂(A370)と︒
こうした久保説には︑何処か桂寿1氏の所謂近世主体主義的解
釈に呼応する如きものが微妙に感じ取れる︒
桂氏はカント哲学に関して︑﹁問題は果して彼︹カント︺の試み
が︑主体主義の我々のいう限界を克服するものであるかという点
にあるであろう︒いずれにせよ我々は近世主体主義の自覚と限界
に係わる問題という二つの観点を柱として︑カント哲学を見よう
( 8
)
とする﹂と問題提起して︑こう言う‑﹁結論を先に言えば︑我々
カントと内感の問題
ももちろんカントの仕事が﹁理性批判﹂にあったことは認めるの であるが︑その意味はいわゆる認識批判︑すなわち知識ないし科 学の可能性を課題にし︑その問題解決の立場として批判的・客観 的観念論を提唱したという︑ふつうの見方には賛成しがたいので
( 9
)
ある﹂として︑﹁カントの場合も︑‑‑コペルニクス的転回のうち
に端的に表明されているように︑広義の観念論ないし主観主義が
提唱されていることは︑我々も決して否定しようとするのではな
い︒ただそうした設問や展開の背景に︑いわばそれらを成り立た
せている哲学態度として︑この書が始めから説いてきた近世主体
主義(第一型)があり︑むしろカントの行なった﹁批判﹂とは︑そ
・
・
・
・
れまで無意識的に取られてきたこの態度の意識であり自覚であ
る︑それがコペルニクス的転回といった形で示されたのであると
( 2 ) 言おうとするのである﹂とされている︒
桂氏は︑カントの行なった理性批判を﹁それまで無意識的に取
られてきた﹂近世主体主義的な態度の意識化・自覚化と捉えて︑
カントをデカルト以降の近世主体主義的な第1型に所属させてい
る︒確かにカント哲学がかかる近世主体主義的な思考法の意識
化・自覚化の延長線上にあることは紛れもなく正しい洞察である
が︑しかし我々が後に示すように︑カントはそれと同時にその思
考法の弱点の自覚化とその乗り越えを企図していたと我々は考え
る も の で あ る
︒
三
井 上 義 彦
他方桂氏は︑フッサールの﹁現象学的構成﹂の思考法から﹁彼
の現象学を我々のいう﹁意識内在主義﹂の系列に配しようとする
( )
大きな理由である﹂とするように︑フッサール哲学をやはり意識
内在主義の系譜(第二型)に据えて︑それが他我の導入から招来
される﹁相互主観性﹂の優れた思想展開を受けて︑﹁方法論的反省
が徹底して試みられていること︑その結果として独我論の誤解に
対して充分な弁明が用意されていること︑何よりも主観性の先験
性を明確にすることによって︑単なる意識主義からの脱皮が充分
に行なわれていること︑したがって心理学や心理主義と完全に手
a 漸E
を切っているなど﹂と高く評価されている︒
これに反して︑﹁主体主義の第1の方向ないし第1型で考える
(2)
ような純化もし‑は拡大された主体﹂に所属するカントに対して
は︑﹁彼の哲学が主体主義としての近世哲学の1つの跳躍台にな
( 2 )
っていることを示そうとした﹂とされて︑﹁カント哲学の構造のうちにも︑彼以後におけるより大きな発展の基礎が整えられるとと
(2)
もに︑その発展の限界とでもいうべきものが暗示されている﹂と
考察されて︑﹁可能的な経験が確保されるとともにその限界が意
識され︑理念の規則的原理としての意義が示されるとともに︑そ
eサ の実在性の限界が明らかにされたこと﹂などが示唆されている︒
しかし大切なことは︑﹁そうした限界が︑主体主義的立場そのもの
︼a の限界を意味するわけでは決してない﹂ことである︒
b i i
我々は︑桂氏のように︑﹁いわば予感的には︑それがすでに示唆
されていると見ることはできるかも知れない﹂が︑﹁このことをカ
( 2 )
ント思想のうちに求めることは無理である﹂とは考えない︒むしろ我々は︑後に言及するように︑カントには近世主体主義的な思
考法の弱点・欠陥を乗り越えて︑その発展継承的充実を図ろうと
する批判的試みが存すると考えるものである︒
さて久保説に戻っていえば︑久保氏がこうした桂氏の問題提起
の水脈で確かに考えているのかどうかの是非はともかくとして
も︑久保氏が桂氏同様に︑カント哲学をデカルト的なコギトをモ
デルとする主体主義的立場と解していることはとりわけ明らかで
あろ う︒
これは︑久保氏の論拠として引用されたカント自身の原文
(A370)から如実に推察されることである.久保氏は更に引用を
重 ね て ︑
﹁ ﹁ 私 の 自 己 意 識 の 直 接 的 な 証 言 に 基 づ い て
﹂ ( A 3 7 1 ) と い
(2)った表現が何を意味しているかもおのずから明らかであろう﹂と
する
しかし︑こうした自説を補強する引用文が︑A版からのものに ︒
限られていることには︑とりわけ注意が必要である︒なぜなら︑
これらはすべてB版では削除されて︑書き直されたものだからで
ある
久保氏が︑超越論的観念論をA版とB版を通してのカント哲学 ︒
の基本的立場と解するのならば︑またそう解していると推察され
る以上︑こうした削除︑書き変えなどについての検討・吟味が必
要であろう︒無論久保説にもその配慮は窺われるが︑しかしより
一層の慎重な配慮が要求されると言うべきであろう︒
我々がこの小論で問題とするテーマ︑即ちデカルト的なコギト
と カ ン ト 的 な
﹁ 我 思 う
﹂ ( H c h d e n k e ) の 相 違 に 関 連 し て ︑ 久 保 氏 の
引用を両版で比較検討して見よう︒
A版の﹁自己意識の直接的確実性﹂に対して︑B版の﹁外的経
験が本来直接的なのであり︑この外的経験を通してのみ︑内的経
験 が 可 能 な の で あ る ﹂ ( B 2 7 6 ‑ ' 7 ) ︒ A 版 の コ ギ ト 的 自 己 認 識 の 直
接的確実性(A370)に対しては︑B版の﹁かくて結論されること
は ︑ 我 々 は 我 々 の 心 ( S e e l e ) の 性 質 に つ い て は
︑ 心 が 1 般 的 に 外
的事物を離れて実在しうるとされる限り︑それがいかなる方法に
よってであろうとも︑何ごとをも認識することができない︑とい
うことである﹂(B420)‑
カントの超越論的観念論は︑これらの両版を比較対照して︑吟
味・検討されるべきであろう︒従って︑久保氏による超越論的観
念論の規定は︑A版にあまりに偏重しており︑狭轟に過ぎるとい
う意味では︑充分妥当な規定化とは考え難い︒
我々がこの規定化に賛同できない理由は︑その他にもある︒そ
カントと内感の問題 れは︑久保氏の依拠する個所がB版で全面的に削除・書き変えられた部分であるというだけでな‑︑もっと学説の内容にかかわる本質的な理由からである︒
それは︑久保氏のもっぱら依拠する当該個所が﹁パラロギスム
ス﹂ であ ると いう 点で ある
"
Pa ra lo gi sm us
"
とは
︑言 うま でも なく デカ ルト 的な コギ トの 思想 的弱 点︑ 即ち コギ ト( co gi to )だ けか ら
心の実体性や心の単純性・不死性などをそれだけで自己認識でき︑
また論証できるとする伝統的形而上学の思考法が論過として仮象
であり︑誤謬推理であることを明らかにする弁証論的な個所であ
る︒
この論説は︑カントにとって︑﹁デカルトにとって疑いえない経
験であった我々の内的経験ですら︑外的経験を前提にしてのみ可
能 な の で あ る
﹂ と い う 立 場 に 立 っ て
︑ 主 張 さ れ る の で あ
る︒だから︑デカルト的なコギトの虚構性を指弾する同1の個所
で︑同時にそのような欠陥を有するコギトをモデルとする立場を
自己の超越論的観念論とする論述がなされている︑あるいは比較
的に平行して主張されていると解する場合には︑当然のことなが
ら︑その読み取りにはより1層の慎重な手続きが必要となろう0
従ってその際︑両者の特性や差異性の峻別化︑明別化が必須の
ものとなろう︒
確かに︑久保氏の引用文はそれ自身カント自身の原文である︒
五
井 上 義 彦
この点には落ち度はない︒にも拘らずかかる慎重な配慮の不充分
さあるいは論証の手続きの困難さが︑本来カントのものとするに
は無理のある論説をカント自身に帰するという錯誤を生ぜしめた
ものと推察されるのである︒
二︑
﹁観 念論 論駁
﹂の 意味 と構 造
カントが︑パラロギスムスの部分をB版ですべて削除して︑全
面的に書き改めたのも︑そして新たに難解さで有名な﹁観念論論
駁﹂を挿入したのも︑更に以後﹁超越論的観念論﹂という用語の
使用を全く止めたのも︑このパラロギスムスのいかにもミスリー
ディングな論述を嫌ったためではないかと︑十分に賢察されうる
ので ある
︒ カン トは
︑﹃ プロ レゴ ーメ ナ﹄ で︑
﹁形 式的 観念 論( de rf or ma le ld ea li sヨ us )( 私は
︑別 のと ころ では 超越 論的 観念 論と 名づ けた が) は︑ 質料 的観 念論 (d er ヨa te na
‑e ld ea
‑i sヨ uS )︑ ある いは デカ ルト の
:*5サ:
観念論に終止符を打つものである﹂と述べるように︑カント自身
の 批
判 的
観 念
論 は
︑ デ
カ ル
ト の
蓋 然
的 観
念 論
( d
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p r
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‑ e
ヨ a
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や バ
ー ク
リ ー
の 独
断 的
観 念
論 (
d e
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o g
m a
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s c
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l d
. )
と 批
判 的
に対決するものなのである︒
このことは︑﹁観念論論駁﹂の立論の難解な所以を熟慮すれば︑
六自ら明らかであろう︒
観念論者であるカント自身が︑﹁観念論の論駁﹂をなしているの
で あ
る ︒
これは尋常なことではない︒﹁観念論は︑己れの企んだ戯れの
ために︑逆に正当以上に復讐された﹂(B276V我々はこのことを
十分に反省すべきである︒
カントは︑自分の観念論とデカルトやバークリーの観念論との
間にはっきりと明快な一線を劃しているのである︒それが︑何処
に何に存するのかを究明し確定しない限り︑カントを近世主体主
義(あるいは意識内在主義)的な立場の継承・発展と解しても︑実
りある生産的な成果は期待できないであろう︒
両者の特性と差異性を十分に自覚してこそ︑その限界の乗り越
えとしての発展・展開の試みも可能になるであろう︒
従ってこの意味では︑﹁観念論論駁﹂を如何に解するかは︑カン
ト解釈の分水嶺になるものである︒﹁観念論論駁﹂の解釈次第で
は︑超越論的観念論の既成概念は何らかの修正を余儀なくされる
事態も出現するであろう︒
デ カ ル ト の コ ギ ト ( c o g i t o ) は ︑ 確 か に 近 世 主 体 主 義 を 定 礎 し ︑
( ̄)
バ ー
ク リ
ー の
e s
s e
i s
p e
r c
i p
i は
意 識
内 在
主 義
を 定
着 さ
せ た
︒ し
か
し周知のように︑彼等は外界の存在の確実性に疑問を抱いた︒彼
等の立場では︑整合的に外界の存在を論証することが出来なかっ
た︒カントによれば︑彼等の質料的な﹁観念論とは︑我々の外な
る空間における対象の現存を︑単に疑わしくかつ証明されないも
の(
zw
ei
fe
lh
af
tu
nd
un
er
we
is
li
ch
)と
説く
か︑
ある
いは
誤謬
にし
て不
可能
なも
の(
fa
ls
ch
un
du
nm
og
li
ch
)と
説‑
もの
であ
る﹂
(B
27
4)
( では
︑彼 等に 比し ての カン トの Hc hd en ke (我 思う )の 特徴 や差
異性は何か︑何処に存するのか︒またカントは自己意識や自己認
識をどのように考えているのか︒
少なくとも現時点で言えることは︑カントは我々の外なる外界
の存在を疑ってはいないということである︒従って︑ここから同
時に推察されうることは︑カントの形式的観念論は︑外界の存在
を包含する立場であるということである︒
こうした点を明示するためにも︑ここで︑﹁観念論論駁﹂の考察
が必要となる︒そしてこのためには︑懸案のA版の命題︑即ち
﹁超越論的観念論者は︑‑‑単なる自己意識の外に出ることな‑︑
また 私の 内な る表 象の 確実 性︑ すな わち da sc og it o, er go su mよ り
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
以上の何ものをも想定することな‑して︑物質の実在を承認する
( e
i n
r a
u m
e n
) 者
で あ
る ﹂
( A
3 7
0 )
に 対
し て
︑ B
版 の
﹁ 観
念 論
論 駁
﹂ に
おける﹁定理﹂︑即ち﹁私自身の現存在の単なる︑しかし経験的に
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
規定された意識は︑私の外なる空間中の諸対象の現存在を証明す
●る﹂(B275)を比較対置して︑これを集中的に考察することがどう
しても不可欠になる︒
カントと内感の問題
両版の論旨は︑一見類似しているように見えるが︑それは大変 な誤解であり︑両者の成立構造はまった‑異なるものである︒
前者は︑意識内在主義と同じ‑︑意識に与えられた表象の確実
性から︑当の表象の客観的実在性を単なる自己意識(コギト)か
ら1歩も外に出ることな‑︑論証できるとしているが︑これは果
たして如何にして可能であろうか︒コギトだけで︑外的表象の確
実性からその表象の客観的実在性を承認できるだろうか︒例え
ば︑空を飛ぶ夢を見たという表象の意識的確実性から︑我々が空
を飛ぶ行為が真実の客観的実在性を持つことになるわけではな
い︒この立場では︑夢と現実(覚醒)を区別できない︒
これに反して︑後者では︑明確な自己意識の成立は︑我々の外
なる空間中の対象の存在を前提にしてのみ可能であるというこ
と ︑
従 っ
て ︑
統 覚
の 働
き た
る ﹁
我 思
う ﹂
( I
c h
d e
n k
e )
と い
う 単
な る
自己意識だけでは︑何らの自己認識(明確な自己意識)も成立せ
ず︑何らかの自己認識が成立するためには︑我々の外なる空間中
の対象の存在を必ず媒介にせねばならないことを意味しているの
で あ
る ︒
このために︑我々が心すべき大切なことは︑﹁﹁我思う﹂とは︑私
の 現
存 在
を 規
定 す
る 働
き を
表 現
し て
い る
( D
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, I
c h
d e
n k
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k t
de
nA
kt
us
au
s,
me
in
Da
se
in
zu
be
st
im
me
n.
)﹂
(B
15
7)
だけ
であ
ると
い
うことであり︑従って﹁考えるということに対して素材を与える
七
井 上 義 彦
何らかの経験的な表象がなくては︑﹁我思う﹂という働き(der
Ak tu s, Ic hd en ke .) もや はり 生じ はし ない であ ろう
﹂( B4 23 ,A nm .)
ということである︒それ故に︑﹁﹁我思う﹂という命題(DerSatz,
Ic
hd
en
ke
.)
は︑
それ
が"
Ic
he
xi
st
ie
re
de
nk
en
d.
"
と同
義で
ある
かぎ
り
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
●
において︑単なる論理的機能ではなく︑実存に関して主観(これ
・
・
・
・
はこの場合同時に客観である)を規定するものであり︑内感なし
●
●
●
●
●
●
●
には
生じ
えな
い(
De
rS
at
z,
Ic
hd
en
ke
,k
an
no
hn
ed
en
in
ne
re
nS
in
n ni ch ts ta tt fi nd en .)
﹂と いう こと であ る︒ なお
︑こ れら の命 題
がすべてB版の文脈に登場することには注目が必要であろう︒
では︑﹁観念論論駁﹂の構造を考察しょう︒
我々は︑以前にこの問題を詳細に論究したことがあるので︑そ
( 3
)
の論稿に基づいて要約的に言及することにしよう︒
さて︑カントによると︑質料的観念論の論駁に﹁必要な証明は︑
我々 が外 物に 関し て単 なる 空想 (E in bi ld un g) に止 まら ずに
︑経 験
を持ちうるということを証示する﹂(B275)ことであり︑﹁このこ
とは︑デカルトが確実であると考える内的経験でさえも︑外的経
験を前提にしてのみ可能であることを証明しうる時にのみ︑成就
され うる
﹂( B2 75 )の であ るO ここには︑カントのデカルト的コギトに対する﹁論駁﹂の二つ の要点が提示されている︒一つは︑自己意識と自己認識の区別で
I ノ
あり︑いま1つは︑内的経験は外的経験によってのみ可能になる
という考え方︑換言すると︑時間的限定は空間的規定を必要とす
るという思想である︒
こ れ を 基 に ︑
﹁ 論 駁 ﹂ の 定 理 ( L e h r s a t z ) を 分 析 す る こ と に よ っ
て︑我々の解釈を総括的に示そう︒
﹁私自身の現存在の単なる︑しかし経験的に規定された意識は︑
私の外なる空間中の諸対象の現存在を証明する﹂という定理を理
解するためには︑まず自己意識と自己認識が明白に区別されなけ
れ ば な ら な い
︒
カ ン
ト に
よ る
と ︑
自 己
意 識
( B
e w
u B
t s
e i
n m
e i
n e
r s
e l
b s
t )
と は
︑ 根
本的には超越論的意識として根源的統覚(A﹂)︑従って﹁我思う
(Ichdenke)﹂(B132)である.
﹁我思う﹂としての自己意識は︑そもそも﹁私の現存在を規定す
る作用を表現している﹂(B157)とはいえ︑それは﹁思考であっ
て︑直観ではない﹂(B157)から︑自己直観を欠いているのであ
る︒従って﹁自己意識はまだ自己認識ではない﹂(B158V﹁私は︑
私自身を認識するためには︑私が自己を考えるという意識のほか
に ︑ 私 の 内 な る 多 様 の 直 観 を 必 要 と す る
﹂ ( B 1 5 8 ) ︒
かくして︑﹁我思う﹂という単なる自己意識は︑自己認識たり
うるためには︑規定されるべき内的自己直観を欠いているが故
に ︑
経 験
的 に
は 無
規 定
( u
n b
e s
t i
ヨ ヨ
t )
な も
の に
と ど
ま っ
て い
る の
で
あ る
では︑かかる﹁我思う﹂の自己意識と定理における﹁私の現存 ︒
在の意識﹂とは︑如何なる関係にあるのか︒
定理の自己意識は︑正確には﹁私自身の現存在の単なる︑しか
し 経
験 的
に 規
定 さ
れ た
意 識
﹂ (
D a
s b
l o
B e
, a
b e
r e
m p
i r
i s
c h
b e
s t
i m
m t
e ,
B e
w u
B t
s e
i n
m e
i n
e s
e i
g e
n e
n D
a s
e i
n s
) で
あ っ
た o
これに比して︑﹁我思う﹂の自己意識は︑カントによって﹁経験
的であるが︑しかし直観のあらゆる仕方に関しては無規定な﹂
( d e n e m p i r i s c h e n , a b e r i n A n s e h u n g a l l e r A r t d e r A n s c h a u u n g u n b e s t i m m t e n , S a t z , I c h d e n k e . ) も の と し て ( B 4 2 1 ) ︑ 換 言 す る と ︑
﹁無
規定
な経
験的
な直
観︑
即ち
知覚
﹂(
ei
ne
un
be
st
im
mt
ee
mp
ir
is
ch
e
An
sc
ha
uu
ng
,d
.i
.W
ah
rn
eh
mu
ng
)を
表現
する
もの
とし
て(
B4
22
)︑
把
捉されている︒
つま り︑ 前者 が﹁ 経験 的に 規定 され た( eヨ pi ri sc hb es ti ヨヨ te s)
﹂ 自 己 意 識 で あ る の に 対 し て
︑ 後 者 は
﹁ 経 験 的 だ が 無 規 定 な
(e
ヨp
ir
is
ch
es
uコ
be
st
iヨ
ヨt
es
)﹂
自己
意識
とし
て︑
規定
され
てい
るこ
と が判 る︒
ここから︑両者の相違は明らかであろう︒
次に︑これは如何なる事態を意味するかが考察されねばならな
︑OA>
後者の自己意識は︑前述したように︑自己認識に必要な自己直
カントと内感の問題
観を欠いていることを明示していた︒従って前者の︑定理の自己 意識は︑そこに私の現存在を規定するのに必要な自己直観を有す ること︑それゆえ自己認識たりうることを意味していることが判 明
す る
︒
このことを︑カントの定理の証明に照応させながら︑考証して
見 よ
う ︒
それはさしあたり︑﹁私は︑私の現存在を時間において規定され
たものとして意識している﹂ことに対応している︒これは︑﹁我思
う﹂の自己意識が自己認識しようとする時に︑自己をまず内省的
に内感において対象化すること︑換言すると時間において限定す
ることを意味している︒﹁﹁我思う﹂という命題は︑内感なしには
生じえない﹂(B429)︒カントによると︑注意作用は﹁内感が我々
自身によって触発される﹂ことの実例を示していた︒﹁悟性はこ
の注意作用において常に内感を︑自己が思惟する結合に従って規
定し︑悟性の総合における多様に対応する内的直観たらしめる﹂
(B157)︒時間とは内感の形式であり︑時間における私とは︑内感
の対象としての客体我である︒﹁考えるものとしての私は︑内感
の 対 象 で あ っ て ︑ 心 ( S e e ︼ e ) と 呼 ば れ
︑ 外 感 の 対 象 で あ る も の は
︑
身体
(K
or
pe
r)
と呼
ばれ
る﹂
(A
34
2.
B4
00
)'
ところで︑あらゆる時間規定は持続的なものを必要とする︒
﹁時間関係は︑持続的なもの中においてのみ可能である︒換言す
九
井 上 義 彦
れば︑持続的なものは時間そのものの経験的な表象の基体であ
り︑この基体によってのみすべての時間規定は可能なのである﹂
(A
18
2‑
'
3.
B2
26
)'
持続性は︑私の外なる物によって可能であり︑また外物は空間
において成立するが故に︑すべての時間規定は空間的な規定にお
いて︑従って空間において捉えられるべきことを示している︒
つまり︑﹁経験たるためには︑何か実存するものの思想のほか
に ︑ な お
︑ 自 己 直 観 が 必 要 で あ る ﹂ ( B 2 7 7 )
‑ そ し て 更 に
﹁ こ の た め に
︑ 私 は 何 か 持 続 的 な も の を 必 要 と す る ﹂ ( B 4 2 0 ) の で あ る
︒ 換
言すると︑内的自己直観︑即ち﹁内的経験そのものは︑私の内に
存しない何か持続的なものに依存している﹂(BXL)(それ故に︑
自己認識のためには︑﹁空間における私の外なる物﹂を必要とする
の で
あ る
︒
すると︑時間における私の現存在の意識規定は︑一つの時間規
定として︑空間において従って外感において把握されねばならな
い︒空間における私とは︑外感の対象としての客体我︑即ち身体
である︒従って︑私の身体は﹁空間における私の外なる物﹂であ
る︒換言すると︑私の身体は﹁何か持続的なもの﹂の1つなので
ある︒内的経験は︑このように外的経験によって可能となるので
あ る
我々の身体性が︑外物と同じく外在性の在り方を有することを ︒
十念頭にお‑と︑﹁論駁﹂の論証はもっとよく理解できるようにな
る︒‑﹁私の現存在の経験的意識は︑私の実存と結合しっつ︑し
かも
私の
外に
ある
或る
物(
et
wa
s,
wa
sヨ
it
ヨe
in
er
Ex
is
te
nz
ve
rb
un
de
n,
au Ge rm ir is t. )に 対す る関 係に よっ ての み︑ 規定 され うる
﹂( BX L)
︒ この
﹁或 る物
﹂に
︑外 物の 1っ たる
﹁身 体性
﹂( KO rp er li ch ke it )杏
合意させるのは︑我々の解釈の行きすぎであろうか︒むしろ︑こ
こは身体性をおいて読解する方が適切な解釈であると言いえよ
う0
か‑して︑﹁論駁﹂におけるカントの考え方は︑次のことを提示
し て
い る
︒
自己意識が自己認識になるためには︑我々は自己の現存在を時
間(内感)においてのみならず︑空間(外感)においても規定せ
ねばならないこと︒換言すると︑自己認識は自己の現存在を内的
(時間的)のみならず︑外的(空間的)に把捉することによって成
立すること︒従って自己の現存在を時間と空間において捉えると
いうことは︑自己存在を心身存在者として外的物との関係におい
て︑従って世界関係において捉えることを意味する︒それ故に︑
自己認識は︑自己の外なる空間中の対象の存在を前提にしてのみ
可能になるのである︒クリユーガIが︑﹁人間は自己自身を(身体
L e i b と し て の み な ら ず
︑ 心 S e e ‑ e と し て も ) 世 界 と の 連 関 に お い て
( S )
のみ与えられている﹂と解しているのは︑正当な解釈である︒
ここに︑やっと自己認識が成立することになる︒デカルトのコ
ギトは︑それのみで自己認識を産出できたが︑カントの﹁我思う﹂
( I c h d e n k e ) は ︑ そ れ の み で は 自 己 の 現 存 在 を 規 定 す る 自 己 意 識
(思惟)をもたらすだけで︑これを内感において与えられる自己直
観と外感において与えられる何か持続的なもの(身体や外物)と
の媒介の下に︑総合的に統一して自己認識を成立させるのであ
る︒
ここに︑両者の決定的な相違がある︒
カウルバッハが言うように︑カントの﹁論証の核心は︑次の命
題即ち︑私は何らかの自己意識を持つためには︑その中に私の身
体 性
( L
e i
b ︼
i c
h k
e i
t )
の 実
在 意
識 と
( 私
の 身
体 性
が そ
れ に
属 す
る )
物
体 的
( k
o r
p e
r l
i c
h )
な 世
界 の
実 在
意 識
と を
包 含
せ ね
ば な
ら な
い と
い
(3)うことの内に見出されうる﹂のである︒
なおここで︑我々の論題に必要な︑考察されるべき主要な差異
性ないし特徴的なメルクマールとして︑我々は以下の三点を要約
的に挙示しておこう︒
;︑﹁我々の内的経験でさえ︑外的経験を前提にしてのみ可能で
あ る
﹂ ( B 2 7 5 ) こ と 0
これのヴァリエーションとして︑﹁外的経験は本来直接的
( u
n ヨ
i t
t e
l b
a r
) で
あ り
︑ 内
的 経
験 は
外 的
経 験
を 通
し て
の み
可 能
で あ
カントと内感の問題
る﹂ (B 27 6‑ '7 )と いう 意味 で︑ 内的 経験 は間 接的 (m it te lb ar )で
あるということである︒
出︑﹁外的直観の優位﹂ということ0
﹁もっと注目に値することは︑物の可能性をカテゴリーに従って
理解し︑それ故カテゴリーの客観的実在性を示すためには︑我々
・
・
・
・
は単に直観をだけでなく︑まさに常に外的直観を必要とするとい
うことである﹂(B291)︒
このヴァリエーションとして︑﹁認識のためには︑時間的表象
(内的直観)は空間的表象(外的直観)を必要とする﹂と換言でき
る︒﹁なぜならば︑空間のみが持続的に規定されうるものであり︑
時間は︑従って内感中にあるものはすべて︑絶えず流れてゆくも
のだからである﹂(B291‑'2)<
臼︑﹁我々は︑我々の内感のためにさえも︑認識の全素材を我々
の 外
な る
物 か
ら 手
に 入
れ る
( v
o n
d e
n e
n ︹
D i
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e a
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f u
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n s
e r
e n
i n
n e
r e
n S
i n
n h
e r
﹂( Bx xx ix )と いう こと
︒
換言すると︑﹁内的直観においては︑外感の表象は︑我々がそれ
をも って 我々 の心 を占 有す るた めの 本来 の素 材( de ne ig en t︼ ic he n
Stoff)を形成するものであるばかりでな‑︑時間とは︑我々がこ
・
・
・
・
れ ら
の 外
的 表
象 を
そ の
中 へ
定 立
す る
( s
e t
z e
n )
も の
で あ
る ﹂
( B
6 7
V
以上︑これらの差異性のメルクマールがいずれも︑書き改めた
十7