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近 世 前 期 に お け る 天 の 思 想 に つ い て

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(1)

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第20巻 第2号 三十一‑五十四(一九八〇年一月)

近 世 前 期 に お け る 天 の 思 想 に つ い て

‑ 中 江 藤 樹

︑ 貝 原 益 軒 の 所 説 を 中 心 に

‑ 佐

T h e   I d e a   o f   T e n   ( 天 )   i n   t h e   e a r l y   T o k u g a w a   P e r i o d

‑ t h e   t h o u g h t   o f   N a k a e   T o j u   ( 中 江 藤 樹 )   a n d K a i b a r a   E k i k e n   ( 貝 原 益 軒 )

T

A

D

A

S

H

I

 

S

A

K

U

M

A

序 本稿の課題をめぐって

第一節 中江藤樹における天の思想

第二節 見原益軒における天の思想

結び 今後の展望をめぐって

(2)

佐 久 間 正

序本稿の課題をめぐって

近世‑幕藩封建制社会における支配恩執なるものを考えた場合︑朱子学に代表される儒学思想がとりあげられるのが通

例である︒朱子学のイデオロギー的意義については︑﹃日本政治思想史研究﹄における丸山真男氏の指摘以来︑その所謂連

続的思惟によって支配体制‑支配秩序は正当化されるとともに永遠化され︑あるいは儒教道徳が近世社会の支配的身分秩

序の形成に向けて特有の階層的倫理を提供したとされることが多い︒しかし︑いかなるメカニズムを介して儒学思想が民衆

支配のためのイデオロギー的主柱となりえたのかは︑必らずLも自明のことではない︒右に概括したどとき理解は︑ある特

定の支配体制に対する思想のイデオロギー的適合性をいわば外在的に指摘するのみであり︑そのこと自体の意義を認めるの

に決してやぶさかではないにせよ︑ある思想が支配道徳‑秩序意識の形成を通して被支配民衆を捉えていく内的な関係を

把握したものとはいいがたいように思われる︒

cq

ところで︑しばしばその﹁合理主義﹂が指摘される朱子学の諸主張が真に民衆を捉えその精神的支柱となるためには︑民

衆の側にその﹁合理主義﹂を理解しうる知的水準がなければなるまい︒しかし︑現実の被支配民衆(とりわけその大多数を

占める封建的小農民)の知的I精神的実態は︑そのような課題に応えられるものでは魔かった︒むしろ民衆の精神世界 3 は︑多分に宗教性をおびた非合理なるものによって支配されていたと推測しうるのであK?cとするならば︑主要には儒教道

徳に基づく幕藩制的封建道徳‑秩序意識が民衆を捉えていくためには︑民衆の心の内部に深く浸透しその日常生活を支配

している非合理なるものに訴える必要が不可避ではなかったか︒そして︑民衆の内なる﹁非合理主義﹂を媒介にすることに

よってはじめて︑支配道徳‑秩序意識が民衆の心の内部に形成されていったのではないだろうか︒

右のように理解しなければ︑幕藩制的支配イデオロギーの形成は︑体制的強圧を背景とする上からのいわば民衆の内的世

界とは無縁の︑それゆえに民衆的主体にとっては思想外的な事柄となりかねない(歴史事実としては多分にその傾向は認め

られるが)︒たとえその形成過程において民衆の﹁声﹂が一定程度反映されているにしても︒

以上のような視点に立つ時︑最近とみに関心の高まりつつある次のような課題︑すなわち儒教思想史のみによって近世恩

(3)

llt'想史を代置させるのではなく︑神・儒・仏などの諸思想を包括しうる視角‑方弘の1つを設定することが可能になるので

はなかろ与か︒そしてそのことは逆に︑近世儒教の諸主張が幕藩権力による人民支配ないしは民衆的主体の自己形成に及ぼ

した固有の役割を新たに捉え返すことを可能にするように思われる︒

本稿は以上のどとき課題の検討を試みるが︑しかしその全体的かつ包括的な解明を期すものではない︒さしあたり一八世

紀初頭までのほぼ近世前期に時代を限定し︑主として中江藤樹一議定〜讃㌃一および貝原益軒議‑¥J H!O'議is;

の思想を考察の対象としながら︑とりわけ両者の思想における﹁天﹂に関する所説の意義と役割とに注目しつつ検討を進め Lr'ていくことにする︒両者の思想を主たる考察の対象とするのは︑考察する側の包括的な研究の不足という点をいま一応おけ

ば︑次のような理由に基づく︒

しばしば藤樹学と称される成熟期の藤樹の思想については︑周知のように︑その学問的基盤の重要な構成要素として陽明

学に代表される中国明代の心学の影響が論じられ︑また宗教的ないしは神秘的傾向が指摘されることも少なくない︒一一方益

軒については︑最晩年の著作﹃大疑録﹄における朱子学への﹁大疑﹂が思想(史)的に注目され︑事実そこには彼の思想を

考えるうえで小さくない問題が率まれているとはいえ︑阻裸門下の太宰春台一諸州○〜讃㌘一の評剖ロに既に端的に示さ

れているように︑なお朱子学者として世に遇40れてきたといってよい︒また益軒については︑﹃大和本草﹄序文などを例証

に経験合理主義的傾向が指摘される場合もあK>c

このように︑藤樹と益軒の思想に対する一般的評価はほぼ対照的なものであるといってよいが︑それゆえに︑そのような

両者の思想における共通の問題を検討することによって︑近世前期の思想史的考察を進めるための︑より客観的ないわば時

代の思想的刻印とでもいうべきものの抽出を期待できるのではなかろうか︒同時にまた︑両者はいずれも時代の頂点的思想

家であるとはいえ︑門人の階層的基盤あるいは著作の読者対象などによって︑民衆との思想的接点を考慮しうる存在だから

である︒さらに︑藤樹の場合はいうまでもな‑︑益軒においても︑・先にふれた一般的評価にかかわらず︑天(天地)と人間

との関係をめぐる所論︑例えば彼の著作に1再ならずあらわれる﹁人たるの道︑身を路へるまでの職業は︑ただ天地に事へ

近世前期における天の思想について

三 十

(4)

8

るにあるのみ]というどとき文章に凝縮された考えは︑彼の思想において極めて重要な部分を占めていると考えられるので ある︒すなわち益軒にあっても︑思想の体系ないし構造のいわば窮極原理として天が措定されているといえるのである︒

以上が︑藤樹と益軒の思想を主たる考察の対象として先に述べた課題の検討を進めていく理由である︒

川﹁支配思想﹂ということばは︑本稿ではさしあたり次のような意味で用いられる︒①支配の正当性を弁証し︑㊤支配秩序へのイデオ

ロ ギ

ー 的

動 員

を は

か る

も の

㈹近世思想史における合理・非合理をめぐる問題については︑大桑斉氏﹁幕藩体制と仏教‑近世思想史における仏教思想史の位置づ けの試み‑‑﹂(仏教史学研究1七巻言号所収)を参周︒

川ここでは︑例えば来世観・後生観の問題を念頭にいれている︒そのような問題は︑それゆ.毘例えば能涙蕃山(謡㌔し詣畑一一

など儒教的思想家の側から民衆の迷蒙の最たるものとして批判されるのである︒

糾この点については前掲大桑論文とともに次の諸論文を参照︒奈倉哲三氏﹁幕藩制支配イデオロギーとしての神儒習合思想の成立﹂

( 歴

史 学

研 究

一 九

七 四

・ l

二 別

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収 )

︑ 石

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艮 氏

﹁ 前

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と 朱

子 学

派 の

恩 想

﹂ (

日 本

思 想

大 系

2  

8 所

収 )

倉地克直氏﹁幕藩制前期における支配思想と民衆1一つの試論・‑﹂(日本史研究1六三号所収)0

糾天の思想をより包括的に扱ったものとしては︑石毛忠氏﹁江戸時代初期における天の思想﹂(日本思想史研究二号所収)および衣笠 安善氏﹃近世儒学思想史の研究﹄があり︑本稿における論点のいくつかはそれらに負っている︒

㈹﹁それ損軒(益軒の別号‑佐久間)は︑宋儒の徒を以て而も能く宋偏を疑ふ︑誠に奇士なり︒然もただこれを疑ふのみ︒未だこれ

を排する能はず︒かつその論弁する所︑なは宋儒の中にあり﹂(﹁春台先生読損軒先生大疑録﹂︑日本思想大系3 4︑四〇五頁︒原文は

漢文︑以下漢文は書き下して引用することにする)0

間源了園氏﹃徳川合理思想の系譜﹄などを参照︒

㈱例えば﹃自娯集﹄巻之1︑慣事論上︑益軒全集二巻l八1頁︒また後にふれるように益軒にあっても﹁天道おそるべし﹂という語句

が 頻 出 す る の で あ る ︒

(5)

第7節中江藤樹における天の思想

中江藤樹の思想については既に別の機会に検討したことがあれ︑ここでの考察も多分にそれらと重複するきらいもある

が︑本稿の課題にそってあらためて考えてみることにしよう︒

﹃藤樹先生年譜﹄によれば︑三三歳の時に明代末期に鍾人傑の編纂した﹃性理会通﹄を読み感ずるところがあって︑毎日 一日斎戒して大乙神を杷ることにしたとい,㌢しかし︑天をめぐる彼の特徴的な主張は︑既に三一歳の著作﹃持敬図説jに

うかがうことができる︒そこでは︑天子以下庶人に至るまで全ての人間の行為が﹁天事﹂として﹁天命﹂のもとにあるとさ

れ︑その天事の精勤いかんによって︑﹁常に照臨して須輿も離れざる﹂ところの﹁上帝﹂が﹁五福六極﹂による賞罰を人間

cO

に対して行なうとされるのであか.右のどとき天人関係の論理における上帝の普遍的主宰者としての性格は︑﹃持敬図説﹂

とはぼ同時期に著わされたと推定しうる﹃明徳図説﹄の次の文章に顕著であろう︒

造化に在りては︑これを天と謂ひ︑またこれを帝と謂ふ︒天地を造り︑万物を生じ︑善に福ひし悪に禍ひし︑昭昭とし

て萄産の差なし︒遠くして天地の外︑近くして一身の中︑久しくして古今の問︑暫くにして一息の頃︑微かにして一塵

.̲ヽ

の内︑幽かにして隠独の中︑皆上帝の在る所なか︒

以上の論理は︑同じく三一歳の著作﹃原人﹄において一層明瞭となる︒﹃持敬図説﹄および﹃明徳図説﹄における上帝

は︑ここでは﹁万物の父母﹂たる﹁皇上帝﹂とされ︑著しく人格神的主宰者の様相をおびる︒そして︑自然‑社会の全存

在はその主宰下におかれ︑いわば皇上帝王国とでも称しうるその世界は次のように構想されることになる︒

°

°

°

°

°

大虚はこれその(皇上帝を指す︑以下同じ‑佐久間)国家︒乾坤はこれその公︒大君はこれその孤︒六卿諸大夫四民

°

°

°

°

°

°

はこれその百工︒禽獣草木はこれその食政︑すなはち乳養の理なり︒五金登玉はこれその貨政︒日月星辰風雨雷霞春夏

°

°

°

°

°

.

秋冬はこれその政教︒五福はこれその賞︒六極はこれその刑︒

近憧前期における天の思想について

(6)

それゆえに︑人事も﹁これその人極︑これ時︑これ処︑これ位︑命にあらざるはなし﹂とされ︑人間存在の時・処・位の各

局面そのものが皇上帝の強力な主宰下におかれるのである︒また﹃持敬図説﹄において天事として把握された人間の行為

は︑﹁天官﹂・﹁天職﹂としてより分析的に捉えられ︑皇上帝の命によって全ての人間の社会における位置と役割が規定さ

れ︑そしてそのことこそが人間の人間たる所以であるとされるのである︒ほかならぬその探求こそ﹁原人﹂の主題であっ

た︒ そこには明らかに︑皇上帝と人間との間に緊張を学んだダイナミックな関係が成立しているといえよう︒それゆえにこ

そ︑﹁敬以て天職を修め︑その逸なきを所として以て天事を勤労すれば︑すなはち歳かにこれ人なり︒人にして誠あれば︑

すなはちこれ衛ふるに五福を用ふ︒五福の多少は敬勤これ則る︒怠以て天職を廃し︑逸以て天事を勤虜せざれば︑すなはち これ人の禽獣なり︒人にして禽獣なれば︑すなはちこれ威すに六極を用う︒六極の軽重は台還これ則叡﹂と述べられ︑皇上

帝の賞罰作用が一層強力に主張されることになるのである︒以上がしばしば皇上帝信仰と称される藤樹の天‑皇上帝をめぐ る所論の概要である︒

右に見た皇上帝信仰の論理は︑さらに二年後の三三歳よりはじまる大乙神信仰においても基本的には変化はないといって

よいoただ次の二つの点において一層その宗教的傾向が深まっ虎点については十分注目すべきであろう︒第1は︑身体や自 然あるいは生死をも超越した天人合一の神秘的境地を述べていか点であり︑第二は︑民衆を主要な対象とする具体的な信仰

行為の提唱という点である︒第二の点に関連して︑三三歳の著作﹃大上天尊大乙神経序﹄は次のように述べる︒天を妃るこ

とは天子にのみ許された行為であるが︑﹁斎戒報本の事﹂は民衆であってもなさねばならないから︑そのために︑﹁先聖︑

大乙尊神の霊像を作りて︑以て斎戒の^本主となし︑毎月聖降の日を択びて︑以て斎戒の期となし︑祭文を定め著はして︑以 8 て心を洗ひ天に事へ感通の助けとなし﹂たというのである︒また霊像制作の理由については︑﹃大上天尊大乙神経序﹄とほ

ぼ同時期に著わされたと推定しうる﹃霊符疑解﹄においてより具体的に次のように述べられている︒

有形の仮象に依つπ無形の真体を見得すれば︑すなはち仮真1致しその別を見ず︒これすなはち中人以下の味者の為に

O)

して制作する所なれ︒

(7)

以上︑所謂皇上帝および大乙神信仰における天‑皇上帝(大乙神)をめぐる藤樹の主張について検討してきたが︑ここで

また︑ほぼ同時期より主張されることになる﹁孝﹂をめぐる彼の所論についてふれておくことは有益であろう︒彼の思想に

おける孝については︑三三歳の時の著作﹃翁問答﹄を中心に既に別稿で考察し︑彼における孝の二つの意味・性格について

, n r

指摘したが︑ここであらためて注目しておきたいのは︑皇上帝・‑天神地祇‑父母〜我という血縁的ないし擬制血縁的

関係における上位者への帰属のあり方をそれが示す点である︒すなわち彼における孝は︑儒教におけるその1般的意味を内

包しっつ著しく拡大されて把握されているのであり︑親子(父子)間を律する血縁的倫理としての意味をもちつつ︑全人間

関係を律するものであり︑さらに根源的絶対者たる皇上帝への宗教的帰依をも意味しているのである︒﹃翁問答﹄では次の

ように述べられている︒

ママ

我人の大始祖の皇上帝︑大父母Q^天神地示の命をおそれうやまひ︑其神道を欽崇して受容するを孝行と名づけ︑又至徳

H ut

要道と名づけ︑また儒道と名づく︒

すなわち︑藤樹の思想を特色づける独特の孝なる観念もまた︑天=皇上帝に関係づけられていることを知るのである︒

かくして︑中江藤樹の恩憩における﹁天﹂の占める位置およびその思想的性格について知ることができたといえよう︒皇

上帝ないしは大乙神としばしば称される藤樹における天は︑人格神的色彩の色濃い超越的主宰者であり︑それゆえに宗教的

帰依ないしは信仰の対象でもあった︒しかしそれは︑出世間的かつ脱俗的な宗教行為を要請するものではなかった︒それ

は︑いわば人倫内部における天の信仰のtつの憧俗化を示すものであったと評しえるが︑そのことの具体的な意味内容は︑

彼の思想における天命論および天の禍福応報の論理との関係を検討していく中でより明白になろう︒

ところで右の検討に入る前に︑藤樹における天の性格の別の一面についてもおさえておかねばならない︒先に指摘した天

の性格はその超越性に注目したものであったが︑同時にそこには︑人性への内在をも示す遍在的性格をも指摘しうるのであ

る︒そのような性格は︑しばしば﹁明徳﹂・﹁独﹂・﹁中﹂・﹁良知﹂などと称されることに明瞭である︒結局︑彼にあっ

ても本体としての天は超越‑内在的性格を示すのであり︑その意味では朱子学的な天観との類似を見出すことは困難なこ

とではない︒しかし彼の場合︑既に別稿で論じたように︑そのような本体の二様の性格を前提にしつつも︑本体とされる内

(8)

的な本心がしだいに優位していくことにより︑晩年になるにつれ思想の唯心論的傾向がしだいに深まっていくのである︒

それゆえに︑本稿で課題にしているところの︑儒教道徳に基づ‑幕藩制的封建道徳‑秩序意識が民衆を捉えていく過程

の究明という点からは︑天の超越的なそれゆえに非合理なる性格と︑人性に内在するとされる本体がまたその天と同義にさ

れる点が問題とされねばならない︒

それでは︑右の点を踏まえながら︑藤樹の思想における天命論および天の禍福応報の論理についての考察に移ろう︒﹃霊

符疑解﹄では次のように述べられる︒

禍福寿天︑皆1定の命あって︑人を以て変ふべからず︒然れども正あり︑変あり︒而してまた始生の初めに受けたる者

あり︑生后の行ひに由って受くる者あり︒およそ人は始生の命に随ひ︑而して生后の行ひに由って命を受けざる者鮮な

し︒もし能く誠敬を以て奉祖すれば︑すなはち生后の行ひに由って禍命を受くる者なし︒天定の禍福寿天︑免がれ易か

らず︒然れども呉二禍ひを免がれL等の事あれば︑すなはち能く奉祖の誠を尽し︑内外十六景の累ひなければ︑すなは

ち天定の禍災と錐もまた変消すべし︒もし変消することなければ︑必らず身后の幸ひあり︒

ここでは︑﹁生后の行ひ﹂によって自らの運命を切り拓くことができることが強調され︑﹁天定の喝災﹂でさえ変化消滅さ

せうること︑あるいは﹁身后の幸ひ﹂に転化させうることが述べられており︑彼の天命論が単なる受動的な運命論的主張で

はないことを示している︒しかし︑果して彼の天命論をそのようにのみ評価してよいだろうか︒すなわち︑右の引用文にお

ける﹁始生の初めに受けたる者﹂(﹁始生の命﹂)の内容がさらに吟味されねばならない︒

この問題については︑まず﹃翁問答﹄上巻之末にある︑﹁天道は福善禍淫とて︑善をなす人には福をあたへ︑あくをなす

ものには禍をあたへたまふとうけたまはりをよび候に︑善人も仕合あしく︑あるひはわざはひにあふ事あり︑悪人も或は仕

合よく︑かへってさいはひをうるものおはく候は︑なにたる道理にておはしまし候や﹂という体充の問いに対する天君の答

えが注目される︒﹁(天道の‑佐久間)賦与の分数﹂とされる﹁命﹂について︑﹁人間1生涯のあひだあふところの境

界︑吉凶禍福︑1飲1食にいたるまでことぐーく命にあらざるなし︒みなこれ天道の流行なりといヘビも此命に本来正変あ

り︒正変に虚実の勝負あり﹂と述べられ︑現象的には天道の福善禍淫の作用が正しく作動しないように思われる場合でも︑

(9)

結局は正しく作動し貰徹することが︑﹁本﹂・﹁末﹂・﹁正﹂・﹁変﹂・﹁虚﹂・﹁実﹂などの概念を用いて詳細に論じら

れる︒この場合注目されるのは︑﹁夫にんげんの貧富貴焼売天の分数はみな資生のはじめ︑胎育十箇月のあひだにさだまる

ところなり﹂とされ︑貧富貴鹿という人間存在の社会的・階級的側面をも﹁胎背のはじめにうけたる運命﹂として︑﹁実﹂

▲‑1

の範噂にいれている点であ聖その後の彼の論述によれば︑﹁実﹂にうちかちがたい﹁虚﹂とされる天道の福善禍産の作用

も結局は貫徹するとされるのであるが︑しかし彼のあげる例証からうかがえる限りにおいては︑人間存在の社会的・階級的

側面は︑当該の個人にとっては不可抗・不可変なる運命として甘受せねばならぬと観念されていたといってよい︒例えば次

の文章のどときである︒

しあはせよく富貴になるも運命の生れつきにして︑わがちからのなすところにあらず︑仕合あしく貧晟になるも運命の

うまれつきにして︑親の答にもあらず︑人のなすわざにもあらず︑もとより天道のあやまり給ふところにもあらず︒

°°

かくして︑先にふれておいた﹁生后の行ひ﹂とは︑右のように規定される社会的・階級的枠内‑分限内での人間的努力︑

すなわち天職の誠実なる精勤を指すものであったといえよう︒そして︑ここでいう天道の禍福応報の論理とは︑この﹁生后

の行ひ﹂に対応するものであったのである︒

右に検討してきた﹃翁問答﹄段階における天命論および禍福応報の論理は︑その後も基本的には変化はないといってよ

い︒三七歳の時のものとされる﹁谷間村民﹂と題された書簡においては︑﹁人間万事皆天命二御座候︒乍去わがなすわざに

レ的

てまねきたるハ天命と申しながら正命こて無御座候︒道を受用しての上ハ︑吉凶・禍福・1飲・一食万事皆正命にて御座候﹂

二一

とされ︑さらにまた晩年四〇歳の時のものとされる﹁書土橋子巻﹂と越された第二書簡においては︑死生・窮達・貧富・貴 壌・得失・禍福は全て﹁命﹂であるとされるが︑命を﹁正﹂と﹁変﹂とに分析して把握することにより︑﹁その良知に致れ

耶凶

ば︑すなはち正命ここに立つ﹂とされているのであ聖

それでは︑これまで述べてきた藤樹における天命論および禍福応報の論理は︑彼の思想においていかなる意義をもってい

ると考えたらよいのであろうか︒先に見たように︑道を受用して良知に致れば︑あらゆる行為の結果やその個人をめぐる境

遇は正命となるのである以上︑正命となった事柄自体はもはや人事ではいかんともなしがたい︒しかしまた︑道を受用して

近位前期における天の思想について

(10)

の工夫である明明徳・誠意(致良知)を実践することによって︑﹁人皆これを敬し︑天道これを佑け︑福禄これに随ひ︑衆

邪これに遠ざかり︑神霊これを衛り︑成す所必らず成り︑所として利ならざるはなし﹂という結果がおのずからもたらされ

るとするのである︒このことは︑道の受用・実践主体である人間の側からいえば︑明らかに禍福応報の論理が個々の人間に

対して道の受用・実践を迫るというイデオロギー的機能を有していることを示していよう︒藤樹はこのイデオロギー的機能

を別の箇所では端的に﹁勧戒﹂と捉えているのである︒三八歳の時のものとされる﹁送中西子﹂と題された書簡には︑次の

ように述べられている︒

°

°

°

°

°

°

°

°

°

°

°

°

°

°

問ふ︒禍福の説は︑ただ中人以下の勧戒のみにあらずや︒答ふ︒これすなはち上下通用の勧戒なり︒‑‑問ふ︒福を求

め善をなすは︑究寛利心にあらずや︒答ふ︒福を求めて善の適に襲るは︑すなはち利心に庶し︒禍福を以て勧戒となし

て︑至善に止まれば︑すなはちいはゆる利心は己れの懲らす所の悪念なり︒何の利心かこれあらん︒問ふ︒今を以てこ

れを見るに︑過吉逆凶︑差武あるに似たり︒答ふ︒福喜禍淫は天道自然の妙理にして毒髪の差式なし︒蓋し善悪の報応

s

は︑.大率五世を以て大限となす︒この大限に依りて福極の法を以てこれを察すれば︑すなはち泡に疑ふべきものなし︒

すなわちここでは︑第一に︑禍福応報の説が中人以下の資質をもった人間のみならず全ての人間に通用する﹁勧戒﹂である

こと︑第二に︑禍福応報の説を勧戒としてうけとめ至善に止まらないと︑福を求めて善の適に襲ってしまい﹁利心﹂に堕し

てしまうこと︑第三に︑自己1代という限定した時ではなく︑五世という血縁的連続の過程で見るならば︑禍福応報の作用

には少しの誤まりもないことが述べられているのである︒まさに︑藤樹における禍福応報の論理の内容および性格を集約的

に明示したものであるといえよう︒

さて︑これまで考察してきたところによれば︑中江藤樹の思想における天をめぐる思想的構図は︑次のように示すことが

できる︒人格神的色彩をおびた超越的主宰者として捉えられた天(皇上帝・大乙神)は︑個々人の社会的・階級的側面をい

わば運命的に戚与するのであり︑それゆえにまた天職とされる個々人の生業はア・プ‑オ‑に規定されたものであった︒そ

して︑定められた社会的・階級的枠内‑分限内での天職の精勤‑儒教道徳の実践に応じて︑天より禍福応報がくだされる

とするのである︒そのような禍福応報の論理に勧戒というイデオロギー的意義を見出すことにより︑より1層の誠実なる天

(11)

職の精勤‑儒教道徳の実践を人々に期待しまた要請したのであった︒

右のように理解することによってはじめて︑女性の教誠のために著わしたかの﹃鑑草﹄に︑現代の私達から見ればしばし

ば荒唐無稽な怪誕と思われる天の禍福応報の事例を執劫に羅列した︑藤樹の真意を窺い知ることができるのである︒

日次の拙稿参照︒﹁時処位論の展開‑藤樹から蕃山へ‑﹂(日本思想史研究九号所収) として‑﹂(文化四二巻三・四号所収)0 ﹁中江藤樹の思想‑いわゆる後期を中心

脚 日

本 思

想 大

系 2

  9

糾藤樹先生全集1︑

帥 同 右 t ' 糊 同 右 一

㈲ 同 右 一

二 九 六 頁

︒ 六 九 六 頁

︒ 六 八

〇 頁

︒ 一 二 八 〜 一 二 九 頁

︒ 一 三

〇 百

間例えば次のどとくである︒﹁誠敬以て能‑これに事へ︑而して尊神感格すれば︑すなはち所謂天地とその徳を合せ︑日月とその明を合 せ︑四時とその序を合せ︑鬼神とその吉凶を合せ︑天に先って天違はず︑天に後れて天の時を奉ずる者なり︒大和を保合してすなはち利

点なり︒ここを以て︑天地の成聖を以て成聖せず︑躯殻の存亡を以て存亡せず﹂(﹃大上天尊大乙神経序﹄︑藤樹先生全集一︑一四〇頁)0 ㈱藤樹先生全集一︑二二八〜一三九貢︒

㈹ 同 右 一

︑ l 四 五 頁

㈹前掲拙稿﹁時処位論の展開﹂三一頁参照︒

㈹日本思想大系2 9︑一二四頁︒あるいはまた次のどとく述べられる︒﹁此たから(孝〜佐久間)をもちひて五倫にまじはりぬれば︑五 倫みな和睦してうらみなし︒神明につかふまつればてんかたひらかなり︒国をおさむれば国おさまり︑家を弄れば家と〜のり︑身にをこ なへば身おさまり︑心にまもれば心あきらかなり﹂(同右二二貢)0 ㈹前掲拙稿﹁中江藤樹の思想﹂三七・三八貢参照︒

㈹藤樹先生全集一︑一五〇頁︒

帥 以 上 ︑ 日 本 思 想 大 系 2   9 ︑ 八 〇 〜 八 四 頁 参 照 ︒ ㈹同右︑九〇〜九一頁︒

近髄前期における天の思想について

(12)

近位前期の著作にしばしば登場する﹁天道次第﹂と﹁天道は此方次第﹂という二つの語句に代表される︑表面的には相矛盾するように

思われる二つの生活態度が︑実は分限観念を媒介にして調和・統一されて独特の庶民倫理が形成された点については︑石毛忠氏が前掲論

fs

一日ur

h

文において論じている(特に︑

藤樹先生全集二︑四七二頁︒ ﹁三庶民倫理と天の思想﹂の部分を参照)

同右 同右

︑ 二

〇 三

頁 ︒

︑ 一

五 頁

︒ 鮒 同 右

1︑1九七〜一九八頁︒

第二節貝原益軒における天の思想

前節では︑中江藤樹の思想における天の性格および位置︑そしてそれをめぐる天命論および禍福応報の論理について検討

した︒本節では︑そこで明らかになった点を念頭におきながら︑同様の問題について貝原益軒の田蒜心を対象に考察すること

にしよう︒その場合藤樹とは異なり︑これまでの益軒思想の研究史およびその思想の性格上︑朱子学の主張との関連ないし

帝雛という問題が新たに登場することになるが︑いうまでもなくここでは︑その全面的な解明が期されるのではなく︑天の

思想の検討という本稿の課題との関連においてのみ︑それはとりあげられることになる︒

それではまず︑天ないし天地をめぐる益軒の思想の基本的構成を示してみよう︒﹃大和俗訓﹄巻之1では次のように述べ

ら れ

る ︒

人は天を父とし︑地を母として︑︑かぎりなき天地の大恩を受けたり︒故に︑常に天地につかへ奉るを以て人の道とす︒

天地につかへ奉る道はいかんぞや︒およそ人は︑天地の万物をうみそだて給う御めぐみの心を以て心とす︒此の心名づ

けて仁といふ︒仁は人の心に天より生れつきたる本性なり︒仁の理は人をめぐみ物をあはれむを徳とす︒此の仁の徳を

たもち失はずして︑天地のうみ給へる人倫をあっく愛し︑次に鳥獣草木をあはれみて︑天地の人と万物を愛し給ふ御心

(13)

にしたがひ︑天地の御めぐみのちからを助くるを以て︑天地につかへ奉る道とす︒これすなはち人の道とする所にして

仁 な

炉 ︒

右に引用した文章に示された︑大父母としての天地の大恩の強調‑それへの報恩としての天地につかへ奉る道‑天地の御

心(仁)にしたがふこと‑具体的には人倫を愛し鳥獣草木をあはれむこと(人道の基本内容)︑という論理構成は︑彼の

著作の随所にあらわれる︑いわば益軒思想の基本的構成といってよい︒このような論理構成は︑例えば張桟巣の﹁西銘﹂な

いしは朱子の'﹁仁説﹂(﹃朱子文集﹄巻之六十七所収)などと比較すればよくわかるように︑宋学(朱子学)の主張に負っ

ているところが少なくない︒ただここで注目しておきたいのは︑第一に︑後に詳しく検討することになるが︑天(天地)と

人間との関係をめぐる論理構成が彼の思想の原理的な部分を占めているにと︑第二に︑﹁仁はたゞ愛の理を以ていふべし︒

°̲

天の道︑人の道︑皆此の愛を以て本とせり︒愛をすてゝ仁をいふは非なか﹂として︑彼があくまで愛に重きをおいている点

である︒周知のように︑仁‑愛の理(心の徳)というのは朱子学のテーゼの1つであるが︑朱子学では情としての愛ではな

くその理こそが仁を定義する場合には常に強調されたのである︒

さて︑右の第一の点をめぐって以下検討をすすめていくことにするが︑彼もまた藤樹と同じように︑﹁天地に事へる﹂こ

とを︑天子のみに許された﹁天地を祭る﹂ことと対比させてとりあげ︑それを天子以外の全ての人間に開かれた実践すべき

こととして捉えているのである︒

或ひと日く︑天子は天地を祭るO諸侯と雌もこれを祭るを得ざるは︑僧旅を授るればなり︒然らばすなはち衆人のどと

きは︑ただ君父に事へるのみにて足れり?古人の天に事へるといふは︑恐ら‑は僧輪に似たり︑いかん︑と0日く︑諸

侯以下の天地を祭るはすなはち非なり︒天地に事へるは︑天地を条杷すると同じからず︒その威を費敬して侮らず︑そ

の道を奉若して背かず︑人物を愛育して暴ならず︑そ9恩を仰思して忘れざるがどときは︑これ天に事へるの道なり︒ 3 晟民と錐もまた以て身を終へるまでこれに事ふべきなか︒

このよ巧にして︑益軒にあっても︑祭天と対比される事天が全ての人間の1生の課題として提起されるのである︒この場 合︑事界の具体的内容の冒頭に︑﹁その(天‑佐久間)威を艮敬して侮らざる﹂ことがおかれているのは︑人間にとって

近健前期における天の思想について

(14)

5 大父母たる天(天地)が何がしかの意味で宗教的敬贋の対象としても考えられていることを予想させるのであ有︒右の問題

についてさらに検討をすすめるために︑次に益軒の思想における天の性格およびその位置について吟味することにするが︑

その前に︑﹁朱子学者﹂益軒の思想の理解の1助とするために︑朱子における天をめぐる1︑二の所論を見ておくことにL

s s

朱子学における天は︑﹁天即理也﹂という語句に端的に示されるように︑しばしば理と同義にされることによりその超越 s

的性格を希薄にすると評される場合が多いが︑むろん朱子学においても天は理とのみ一義的に規定されているのではない︒

朱子の天をめぐる所論は︑r朱子語軒し巻一理気上︑大極天地上にまとめて収録されているが︑そこには例えば次のような

記 録

が あ

る ︒

蒼蒼之謂天︑運転周流不巳︑便是那箇︑而今説天有箇大在那裏批判罪悪︑固不可︑説道全無主之者︑又不可︑這裏要人

見 得

澗 ○ 又 欄 間 ︑ 経 伝 中 天 字 ︑ 日 ︑ 要 人 自 看 得 分 暁 ︑ 也有諸蒼蒼者︑也有説主宰者︑也有単訓理時的

すなわち︑経伝の中の天の字を考えた場合︑そこには﹁蒼蒼﹂(自然的・物理的天)︑﹁主宰﹂および﹁理﹂という三つの

意味があるというのであり︑また禍福応報を考えた場合には︑朱子の天観はその主宰的性格と非主宰的性格との問を微妙に

揺曳していると見られるのである︒益軒がr朱子語類﹂を熟読したのは︑彼の読書備忘録であるr玩古目録﹂によって明ら

かであるから︑たとえば右に引用したどとき朱子の所論は理解していたといってよい︒従って︑右に摘記した朱子における

天の意味内容を手がかりに︑益軒の場合について考えてみることにしよう︒

道や理などの諸概念をめぐって論述した﹃慎思録﹄巻之四は︑益軒の思想を理解するうえで欠かすことのできない重要な

資料といってよいが︑その第三条および第八条などに示されているどとく︑天は﹁万物末だ生ぜざる時﹂と﹁万物既に生ず 8 る時﹂とに区別され︑その前者のレベルにおいて﹁天はすなはち理なり﹂として天が理と同義におかれるのであ慰そして

そのような場合には︑明らかに天には人格的ないし主宰的性格は与えられていないのである︒右のどとき天の非人格的・非

主宰的性格は︑﹁無心﹂なる﹁天道﹂と﹁有心﹂なる﹁聖人﹂とを対比させながら天地の化青に対する両者それぞれの役割

を述べた︑第1三条などに顕著にうかがわれる︒

(15)

天道は心なくして理あり︒心なき故に自ら成すことあたはず︒理ある故に生生愛育窮りなし︒それ四時序あり︑寒暑風

雨時に随ひ︑善に福ひし淫に禍ひして達はざるは︑天地の常理︑至誠息むなきものなり︒陰陽災珍あるは︑天地の常理

にあらず︑これ陰陽変化の大過不及の差のみ︒天は心なくして自ら成すことあたはず︒故に独りその過不及を制するこ

とあたはず︒必らず人力の裁制輔相を待ちて︑その成育の功を成すことあり︒聖人︑天に継ぎ極を立て︑中を民に建

て︑天地の道を裁制し︑以てその過を制しその不及を蘭げ︑天地の宜きを輔相し︑以て民を左右け︑以て造化の力の及 9 ばざる所を補ふ.これ心あるを以て心なきに代ふるなかo

益軒にあっては︑天道=天地の道(自然的秩序)そのものはそれ自体自足的に完全なのではなく︑無心なるが故の不完全性

をまぬかれえないのであり︑そこに有心の聖人(人間)の主体的営為が要請される原理的根拠があるとされるのである︒彼

,

,

は第一条において道を﹁天地の主宰﹂とも定義していたが︑その主宰とは﹁統ぶる所を以て言つ﹂ただけなのであり︑意志

°°

的に統轄する意ではないことに注意しなければならない︒それゆえに︑後にふれるどとく︑過不及である悪なるものも︑変

というl種派生的なものとされながらも︑道‑理の中に包摂されるのである︒

それでは︑前節で考察した中江藤樹の場合とは異なる︑右に指摘したような益軒の思想における天の非人格的・非主宰的

性格は︑その天命論および禍福応報の論理にいかなる色彩を与えるのであろうか︒次に﹃大和俗訓﹄巻之四で述べられる天

命論に関する包括的な所論を示してみよう︒

天命に常あり︑変あり︒善を行へば福あり︑悪をすれば禍あるは常なり︒善人に禍あり︑悪人に福あるは変なり︒人の

吉凶・禍福・寿天・富貴・貧腰︑万づの幸不幸︑皆天の命ずる所なり︒人間の万事天命にあらざることなし︒或は生れ

つきて定まり︑或は時により︑不慮に命くだりて︑偶然として福にあひ︑わざはひにあふ︒求めても命なければ得がた

く︑求めざれども命あれば得やすし︒只︑人の法を行ひて︑天命をまつべし︒善を行ひて福来るは︑常の理なれども︑

もし禍あるは是れ亦天命の変なれば︑うれふべからず︒およそ︑人天命をしりて命にまかせ︑うれひなき工夫をなすベ

m

L︒

ここでまず問題となるのは︑天命を常(常理)と変(変化)とに二分する点である︒この常・変の観念の導入は︑藤樹にお

近憧前期における天の思想について

(16)

ける正・変の観念のどとく天命論および禍福応報論による現実解釈の論理的整合性を貰徹させるために用意されたといって

よいが︑後に引用する彼の所論にうかがわれるように︑明らかにその天の非人格的・非主宰的性格に照応したものであっ

た︒常・変の観念の多用はそもそも益軒の思想の特色をなすものといってよいが︑その全体的な問題の考察は別の機会にゆ

ずり︑ここでの課題に即していえば︑常理たる天道の福善禍淫が貫徹しないこと(すなわち変)がまた天命として合理化さ

°

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れ︑結局天命論が原理的には現状肯定の運命論に堕している点については︑そのイデオロギー的性格を考えるうえで十分注

目されてよい︒右の点は︑次に引用する﹃慎思録﹄巻之二の第五三条の一節に明瞭にうかがわれる︒

天道の福善禍淫︑善を作せばこれに百祥を降し︑不善を作せばこれに百殊を降すは︑これ四時の序に循ひ風雨時に順

ひ︑災害興らざると︑同じくこれ一理にして天道の常理なり︑正命となすべし︒君子の災禍に遇ひ︑小人の福禄を得る

は︑天道の常理にあらず︒これ四時の序を失ひ︑風雨時ならず︑災珍疾疫ある者と︑同じくこれ一理︑正命となすべか

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らざるなり︒然れども正と不正と︑また命にあらざるはなし︒これ皆天の命ずる所︑陰陽のなす所にして︑当に順受す

べ き

の み

ところで︑藤樹において認められた人間存在の社会的・階級的側面を規定する天命については︑どのように理論化されて

いるのであろうか︒﹃自娯集﹄巻之七﹁天命説﹂においては︑まずそれは﹁前定の命﹂であり︑まさにどのように生まれつ

くのかは﹁偶然﹂であるが︑またそれゆえに﹁自然﹂であるとされる︒そして同巻之四﹁天命有二義説﹂によれば︑富貴利

二︼

達の命は﹁求めて致すべからず︒これを求めて得るに益なきは︑外にあるものを求むればなり﹂として︑まさにそれは運命

的な所与に委ねられるのである︒

以上の考察からわかるどとく︑益軒においては︑天の非人格的・非主宰的性格に対応して︑その天命論および禍福応報の

論理に常・変あるいは偶然・必然なる観念が導入されたのであるが︑またまさにそれゆえに︑彼の天命論および禍福応報の

論理は︑藤樹の場合以上に︑イデオロギー的には1種の現状肯定論に堕していったのである︒

それでは︑彼の場合︑その禍福応報の論理は﹁勧戒﹂としてのイデオロギー的機能は皆無であったのか︒いうまでもな

く︑そのように評することはできない︒﹁必然の理﹂とされる天(天道)の福音禍浮の応報は著作の随処で繰り返し強調さ

(17)

れ︑﹁天道恐るべし﹂という警句が執勘に繰り返されるのである︒やはり彼もまた禍福応報の論理のイデオロギー的機能を

勧戒と捉えていたことは︑例えば次に引用する︑仏教批判を主題とする﹁自娯集﹄巻之七﹁送道春上人序﹂に明白であろ

' つ︒

苛しくも民俗を諭すに︑福善禍浮報応影響の理を以てし︑諸悪英作衆善奉行の説を以てし︑これを以て立てて教禁を設

け︑衆人これに順頼すれば︑すなはちその民教においてあに小柄なしとなさんや︒もし然らずして徒らに勧むるに念仏

詞経を以てし︑これを以て求福抜苦の方便となし︑かつこれを以て極悪の罪科を免れて必らず天堂に生じて快楽を受く

べLと説くは︑すなはちこれ愚俗を討誘して︑罪悪をなさしむるなり︒吾れの容るる所にあらずO

そして︑このような場合における天の性格は︑これまで指摘した非人格的・非主宰的なものとはまた異なるように思われ

る︒先にふれたように︑朱子その人にあっても︑禍福応報を考えた際には︑天は非人格的・非主宰的性格と人格的・主宰的

性格との問を微妙に揺曳しているように思われたが︑益軒においてはそのような場合︑むしろ人格的・主宰的なものとして

天が強くうちだされるのである︒例えば﹃初学訓﹄巻之五では次のように述べられている︒

天地は万物をうみそだて給ふ父母なるゆへ︑其うめる所の人倫は天地の子なれば︑是をあはれみ給ふ事︑人のおやの子

を恩ふが如し︒こゝを以て其うみ給ふ所の人倫と万物を愛すれば︑天地の御心よろこんで︑必さひはひを下し給ふ︒こ

れをくるしめそこなへば︑天地の御心いかりて必わざはひを下し給ふ事︑たとへば人のおやのわが子をいとおしむ者を

よろこびて︑其恩をむくひん事を恩ひ︑わが子をそこなふ者をいかりにくみて︑其恨を報ぜん事を恩ふが如し︒天道は

お そ

る べ

し ︒

右の引用では︑天地は明らかに擬人化されて捉えられている︒それゆえに︑﹁古の君子は︑朝夕︑只天道の眼前にある事を

恩ひて︑つねに心も事も︑おそれつゝしみて天にそむかず︒今の人は天道ははるかに遠き事にて︑わが身にあづからざる事

{リ

‑u,

と恩ひて︑天をあざむきておそれず﹂と指摘し︑厳粛かつ敬虞なる心的態度を前提とする天(天道)との緊張を学んだ生き

方がしばしば強調されるにいたるのである︒

ところで︑益軒の天命論および禍福応報の論理はイデオロギー的には一種の現状肯定の運命論に堕していると先に指摘し

近世前期における天の恩想について

(18)

たのであるが︑そのような評価のみでは︑それらの性格と意義を十分に汲みとったものとはいいがたい︒そこで︑右のどと

き評価を与える場合の現状肯定の具体的内容が︑あらためて問われねばならないであろう︒前節でふれたどとく中江藤樹に

あっても︑人間の分限に即したあるべき行為は天命としてア・プ‑オ‑に規定されていたのであるが︑この天職論は益軒に

おいてもやはり重要な位置を占めているといってよい︒彼の高弟竹田定直一議響〜讃賢一は︑師・益軒のことばを︑

﹁先生常に門人に語りて日︑天人を生じ︑其才によりて︑人に益ある事をなさしめ給ふ︒上たる人の世を経済し給ふより︑下

・んul

一材一芸ある者に至るまで︑其程々につけて人に益ある事をなすは各その天職なり﹂と記し︑益軒自身も例えば為政者の天

職について次のように述べているのである︒

天地は︑人を生じ出し養ひ恵むを以て︑心とし給へども︑天もの言ざれば︑白から命令を下して︑人を治むることあた

はず︒君子を取立て︑官禄をあたへ︑其の地の人民を預け給ふなり︒然れば︑凡国土人民を司り治むる人は︑各その主

君より命を受くれども︑その実は︑天より立て給へる代官なり︒故に天職といふ︒君子と称するは︑国に君として民を

子とすといふ義なり︒天職とは︑天に代りて民を治むることを司るなりQ

私達はここに︑先に見た無心なる天道に対して有心なる聖人の主体的営為が要請された場合とほぼ同様の論理展開を見てと

ることができる︒益軒における天職論の意義は実は先に述べた意義以上にこの点にあるといえるのであり︑全ての人間に要

s

請された分限に即したあるべき行為(天職)とは天地の化青の参費を意味するのである︒それゆえに︑﹁人の法を行ひて︑

天命をまつべし﹂といわれる場合︑その﹁人の法﹂とは右の意味における天職をさしているのである︒私達はそこに︑単に

分限に即したあるべき行為が天職としてア・プ‑オ‑に天より定められているとするだけではなく︑天地の化育の参費とし

て全ての人間の職業労働を意義づけようとする︑換言すれば︑それを天地の全体的働きの分業として位置づけようとする︑

人間把握への益軒のイデオロギー的・思想的努力を見るのである︒しかし︑そのような天職をめぐる論理は︑現実の支配

‑被支配関係との関わりという点からいえば︑前節で検討した藤樹以上に︑熊沢蕃山や山鹿素行IHO讃㌘一な

どにむしろ近いといえよう︒そして︑益軒の天命論および禍福応報の論理の現状肯定(むしろ追随)の運命論としての性格

は﹂右に検討した天職をめぐる論理を内に含むことを別に排しはしないのである︒

(19)

ところで︑現状肯定という思想のイデオロギー的性格は︑実は益軒の思想の大きな特徴の1つということができよう.そ

れは︑例えば﹃慎思録﹄巻之五の第一四一条などに顕著であるが︑そこでは︑中国史における治乱にふれた後次のように述

べ ら

れ る

然らばすなはち今人これ談論をなして︑妄意に古を是とし今を非とすべからず︒これ忠厚の道にあらず︒かつ古昔の世

汚隆あり︑主賢否あるを恩ふべし︒古の及ばざるは︑その時の隆︑その主の賢にして然るのみ︒一概に古を及ぶべから

ずとなして尚論すべからざるなり︒今の世に至りて︑苛し狂妄の学士︑浸りに古を是とし今を非とする者あり︑忌韓を

避けずしてこれを誹議せば︑吾れ恐る︑時君その怒りに任ざるの禍あるやも︑また未だ知るべからざるを︒後健の学

者︑須らくこの邦に居りてその大夫をそしらざるの慎みを思ふべし︒吾輩幸ひに太平の世に生まれ︑治下の中に浴し︑

安閑に居りて盗に詩書を読み︑身を終へるまで干支を事とせず︒誠にこれ人生の一大幸事なり︒学者常にこの楽しみを

s

楽しむべLO.偏に古を慕ひ今を議すべからざるなり︒

すなわちここでは︑前半部分における﹁1概に古に及ぶべからずとなして(古を‑佐久間)尚論すべからず﹂という︑単

純な尚古主義ではなく︑歴史のそれなりに‑アルな見方を含むと思われた主張が︑実は︑尚古主義が現状批判に結びつくと

いう認識を背景にしており︑それゆえに後半部分では批判的視点の欠落した現状の誼歌となっているのである︒右のどとき

論理と関係をもつ﹁清福﹂や﹁楽﹂の強調と太平の世の轟歌は︑また益軒の思想の特徴の一つであったのである︒

以上︑益軒の思想における天の恩想をめぐって検討を加えてきたが︑そこで明らかになった幾つかの点は︑かの益軒十訓

のたぐいの思想的骨格を形成するものであった︒まさにそれゆえにこそ︑それらは幕藩制的封建道徳‑秩序意識の形成に

少なからぬ役割を果したと評しえるのである︒

(3) (2) (1)

岩 波

文 庫

版 ︑

四 四

〜 四

五 頁

﹃ 五

常 訓

﹄ 巻

之 二

︑ 益

軒 全

集 三

︑ 二

五 八

頁 ︒

﹃ 慎

恩 録

﹄ 巻

之 六

第 四

五 条

︑ 同

右 二

︑ 一

三 二

頁 ︒

近位前期における天の思想について

(20)

l t. Hu

博1

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朱子学における﹁事天﹂については︑さしあたり﹃孟子集註j尽心章句上︑孟子日尽其心者章を参照︒そこでは︑﹁事︑則奉承而不達

也 ﹂

と さ

れ て

い る

こ の 点 に つ い て は ︑ つ と に 朱 子 学 に 代 表 さ れ る 近 世 儒 教 の 性 格 を ﹁ 還 俗 せ る 宗 教 ﹂   ‑ と し て 捉 え た 石 田 1 艮 氏 の 指 摘 が 注 目 さ れ る ( ﹁ 近 代精神の系譜‑1朱子学の世界観とその歴史的位置﹂︑﹃文化史学理論と方法﹄所収へ参照)0

中 文 出 版 社 刊 ︑ 和 刻 本 ﹃ 朱 子 語 類 大 全 ﹄ に よ る ︒

﹃玩古目録﹄寛文十1&四十二歳の項には次のごと‑ある︒﹁朱子語晶鰐Mir絹晋十七冊﹂(益軒資料七補遺︑一〇頁)0

益 軒

全 集

二 ︑

六 六

・ 六

八 頁

ur

同 右 二

︑ 七

〇 頁

︒ 同 右 二

︑ 六 五 頁

岩 波

文 庫

本 ︑

一 二

八 頁

益軒全集二︑三二貢︒ところで︑天命を常・変とに二分するという問題は︑この引用からわかるどとく︑変(変化)が気(陰陽)のな

すものとされることから︑理気をめぐる問題につながっていく︒益軒における理気論が﹁気の理﹂というテーゼに象徴される理気一体

論的傾向をおびるのとあたかも符節を合わせるように︑これもまた天命に1元化されるのである︒この問題の具体的検討は他日を期した

‑.‖V

益 軒

全 集

二 ︑

二 九

八 亘

同右二︑二五九頁︒以上の論理は︑﹃慎思録﹄巻之三の第四条から端的にうかがわれるどとく︑気の厚薄豊歓により説明する朱子 学 の 論 理 に 基 づ い て い る ︒

㈹ 同 右 二

︑ 三

〇 四 頁

㈹ 同 右 三

︑ 四 1 頁

㈹ 同 右 三

︑ 三 七 頁

㈹﹃文訓﹄序︑同右三︑三一九頁︒

㈹﹃君子訓﹄上︑同右三︑三九一頁︒

鮒 こ の 点 に つ い て は ︑ 石 田 1 艮 氏 ﹁ 徳 川 封 建 社 会 と 朱 子 学 派 の 思 想 ﹂ ( 東 北 大 学 文 学 部 研 究 年 報 1   3 下 ︑ 所 収 ) を 参 照 O

(21)

飢益軒全集二︑二九頁︒荒木見悟氏は︑ここで引用した文章に見られるどとき益軒の考えが益軒特有の所謂気運漸開説と関連をもつこ

と を 指 摘 し て い る ( 日 本 思 想 大 系 3   4 所 収 ﹁ 貝 原 益 軒 の 思 想 ﹂ 参 照 ) 0

結び今後の展望をめぐって

最後に︑これまで考察してきた中江藤樹および貝原益軒の両者における天の思想‑‑その天観とそれに基づく天命論およ

び禍福応報の論理1を概括し︑さらに近世前期における天の思想の意義と機能の解明への展望を述べることによって︑本

稿 の

結 び

に か

, ん

よ う

藤樹においては︑皇上帝あるいは大乙神という呼称から端的にうかがわれるように︑天はしばしば人格神的な主宰者とし

て捉えられていたが︑またそのことによって︑その禍福応報の論理は極めて峻厳に(それゆえ倫理的には理想主義的に)貫

徹するものとされていた.そしてそのことによって︑天命論が受動的な運命論に堕すことな‑︑人々が天職の精勤1儒教

道徳の実践を通して現実を切り拓いていく思想的発条となったといえよう︒彼が禍福応報の論理のイデオロギー的機能を勧

戒と明確に捉えたのは︑そのことをよくものがたっている︒

一方︑藤樹よりほぼ一世代遅れて思想活動をはじめ︑その期間もはるかに長かった貝原益軒にあっては︑朱子学的天観の

°

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影響の下に︑原理的には天は非人格的かつ非主宰的なものとして捉えられ︑また万物を生み育てる母胎としての能産的自然

(天地)の意味で用いられる場合も少なくない︒天が無心の非人格的かつ非主宰的なものとして捉えられるがゆえに︑性界 はきわめて偶然なるものとして描かれるにいたっね︒そして︑彼の思想における重要な概念である常・変の概念がまた天命

論にもちこまれ︑常は価値的には正とされるとはいえ︑変‑那(不正)もまた天命とされることによって︑天道の常理たる福

登禍淫に反する事柄(変)が天命のもとに合理化されるのである︒また︑人間の社会的・階級的側面は天命(定分ともいわれ

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か)としていわば運命的所与のものとされ︑当該の個人にとっては不可変・不可抗なるものとされる︒かくして︑天命論は

受動的な運命論に堕すにいたり︑その現状肯定(追随)的性格が顕著となるのである︒しかし︑彼において︑禍福応報の論

理が勧戒というイデオロギー的機能をもちえないというのではむろんない︒むしろ現状肯定的性格のゆえにこそ︑﹁天道お

近憧前期における天の思想について

(22)

そるべし﹂に象徴される警句がイデオロギッシュにそして執劫に繰り返されるのである︒そしてそのような禍福応報の論理

のイデオロギッシュな強調の際には︑先に指摘した性格とは異なる人格的・主宰的な性格をおびた天がたちあらわれるので

あ る

それでは︑右に概括した藤樹および益軒に見られる天の思想は︑民衆支配との関連という視角から見た場合︑いかなる意 ︒

義と役割をもったものとして理解しうるのであろうか︒ここではさしあたり︑今後の展望との関連で試論的に述べておくこ

とにする︒天子のみに許される祭天に対して事天とされる天職の精勤‑儒教道徳の実践が述べられることは︑まさに彼ら

の教説が︑民衆レベルにおける﹁還俗せる宗教﹂としての役割を担うものであったといってよいが︑﹁天道おそるべし﹂と

強調される禍福応報の論理は︑明らかに幕藩制的封建道徳‑秩序意識の形成をいわばイデオロギー的に強制する役割を果

したということができよう︒比較的庶民レベルに受容されたとされる仮名草子のたぐいには︑禍福応報の論理が顕著に見ら

れるのである︒また︑分限に即した当為が天命とされる天職の観念についていえば︑まず天命という個人にとっては超越的な

不可抗・不可変なるものによって︑現実の身分的秩序が運命的な所与として正当化・固定化されることが指摘されねばなら

ない︒しかしまた天は︑右のどとく社会的存在としての人間にとって単に消極的・否定的意味しかもちえなかったとするの

は正しくないであろう︒天職観念を媒介として︑分限に即した透るべき行為は天地の化青の参費として意義づけられ︑人間 3 の職業労働が天地の全体的な働きの分業として位置づけられる点は︑民衆的主体の自己形成への手がかりを与えるとい・^蝣m⁝

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で十分注目されてよいと思われる︒まさに︑天による主体の自己確認‑自己肯定という思想動向を推定しうるのであプ等 5 ところで︑これまでとりあげてきた天それ自体は︑大桑斉氏の指摘にもあるごと小︑思想の体系ないし構造のいわば絶対

的な窮極原理とでもいいうる不可知の非合理なるものであっね︒そのように考えると︑右のどとき非合理なるものの跳梁が

儒教思想以上に仏教的あるいは神道的思想に見られる点は︑十分注目されなければならない︒近位‑幕藩封建制社会の支

配思想として︑例えば神儒習合的なものあるいは﹁イデオロギー連合﹂なるものなど諸恩想の重層的複合体が構想される場

合︑諸思想を結索するものとして︑例えば本稿でとりあげた天のどとき非合理なる窮極原理を設定することは一つの分析視

角として考えられるのではないだろうか︒

参照

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