53
英国における教員見習生制度(Pupil−Teacher Systern)の成立とその意義
教育学研究室 三 好 信 浩
〔1〕序 言
〔皿]助教生制度と教員資質の問題
〔皿〕ケイ・シャトルワースと見習生制度
(1)教 師 ・教 師 養 成 論
(2)見習生を用いた教育実験
〔IV〕1846年の覚書と見習生制度の成立
(1)覚書制定に至る経過
(2)覚書の内容とその特質
〔V〕見習生制度と英国教員養成
〔VI〕結 語
〔1〕 序 言
英国における教員見習生制度(pupil−teacher system)の成立過程と,その教育史上の
(1)
意義を考察しようとする場合,少なくとも次の二つの視点から研究を進めることができる と思う。即ち,その第一は,英国公教育の成立過程を制度面から考察する立場であって,
この視点からすれば,1846年の福密院教育委員会の覚書(Minutes)によって公的に制度 化を見た見習生の方式は,国家の教育関与への注目すぺき一階梯であり公教育制度の基本 的な柱の一つである教員養成制度成立への重要な契機であった。それは19世紀後半におけ
(2)
る教員養成の中核となり,歴史的な穴埋めの機能を果たし,同時に幾多の伝統と影響とを 今日に残した。第二の視点は,見習生制度を創案したケイ・シャトルワース(J.P. Kay一
Shuttleworth,1804〜1877)の思想及び業績を研究しようという立場である。ケイは,救 (3)
n法補助委員時代,救貧法の適用を受ける児童の悲惨な教育状態を改善しようという目的 から,内外の教育視察や自らの教育実験によって,この制度を創案した。「英国庶民教育 の先駆者」と云われ,すぐれた公教育論や教師・教師養成論において,当時の教育界を指
㈲
導したケイは,師範学校の創立,視学制度の樹立,国庫補助金政策の確立,救貧法児童を 収容する地区学校の提唱等に卓越した業績を挙げたが, 見習生制度の成立に対する寄与
は,これらと並んで,彼の特筆すぺき業績の一つであった。 曳
@本稿は,kに挙げた制度史研究と人物史研究の二方法を併せ綜合した立場から,考察を
試みたいと思う。蓋し,1846年の覚書は,ケイ自らが起草し,実施のための処置を講じ たものだからである。偉大なる「教師」にして, 「教育行政官」であったとサドラー卿
(M.Sadler)が賞讃するように,橿密院教育委員会の初代書記官長として,自己の教育
@ (5)
論を政府の教育政策の中に具現化したケイの場合は,その業績がそのまま英国公教育制度 の成立に結びつくと考えられるからである。従って,本稿は「ケイ・シャトルワース研究
一英国公教育制度成立史一」と題する筆者の研究計画の一環を構成するものでもある。 (6)
〔皿〕 助教生制度と教員資質の問題
古代ギリシャ人の奴隷的教職観は,19世紀に至るまで英国初等教育史の中に流れてい た。マッコーリー(Macaulay)が下院で証言したように,「他の凡ゆる職業から見棄てら れた人,解雇された馬丁,零落した行商人,比例式の計算のできぬ人,地球が球か立方体か を知らぬ人,ヱルサレムがアジアにあるかアメリカにあるかを知らぬ人,およそ我々が地 下室の鍵を安心してまかせようとしないような人に対して,我々は来るべき世代の魂一 わが国の自由と幸福と栄光を背負う魂を委ねてきた」のである。優秀な人材を教職に惹き
@ (7/
ツける社会的・経済的魅力が極めて乏しかったため,生計を得る「最後の手段」として教 ⑧
職に従事する者が多く,その資質の低さはこの国の初等教育の発展を著しく阻害した。18 世紀の博愛時代(Age of Philanthropy)の慈善学校(charity school)教自11iの中に・現代 用語でのプロフェションとしての最初の専門的教師の発生を認め得るとしても,このよう
@ (9)
な教師を養成する計画は実現を見ず,有能な教師の不足は依然として続いていた。慈善学
@ ⑳
校にかわって18世紀後半から隆盛を見る日曜学校(sunday schoo1)運動において・ 教師 の不足は解決を要する焦眉の問題となり,特に産業革命以降急速な人口の増加を見た工業 都市の日曜学校では,多数の児竜を安価で能率的に教育する必要に迫られた。
このような時代の要求にこたえた新しい教授法として考案されたのが,助教生制度
(monitorial system)であった。1797年に,国教会の牧師ベル(A. Bell)はインドの マドラスにおいて行なった実験結果を発表し,1803年には, クエーカー教徒のランカス ター(J.Lancaster)が,バラー・ロードでの実験結果を発表した。この二人の名をとっ
@ ⑳
て,ベル・ランカスター法とも呼ばれるこの教授法は, 従来の個別教授法(individual method)の非能率性を克服しようとする相互教授法(mutual method)であつて,児童 の中から選抜された成績優秀な助教生が,教師に指導された学習内容を機械的に年少児童 に伝達する方法である。 それによると,一人の教師が300人から1000人もの児童を一教室 に収容して教育することができるため,教育経費の著しい節減が可能となった。「貧民に 教育の基礎的な要素を教授する安価な,利用の容易な,迅速な方法」であることが,産業
(12)
1
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher System)の成立とその意義 55
革命後の機械的大量生産主義の思惟形式に適合して,19世紀初めの英国教育界を風靡した。
この方法を普及させるために宗教団体が二派に分かれて,ベルとランカスターを別個に支 援し,それが国教派と非国教派,更にはそれと結びつく政党の対立抗争にまで発展した。
また国外においては,大陸の諸国やアメリカにも紹介され,各国の教育に大きな影響を与
えたのてある。
⑬
助教生制度の教育的意義としては,一斉教授への道を開き,段階的なクラス編成を可能 にしたこと,貧民に教育の機会を与え,国内に網の目のような学校組織を作り出したこ と,教育に対する与論を喚起したこと,個別教授における生徒の怠慢・不注意・混乱を活 動・競争・秩序の状態に置きかえたこと,等を挙げ得るが,同時にそれは見逃し得ない弊 害を伴なっていた。教育内容や紀律は表面的・形式的なものとなり,教育方法は機械的な 記憶暗調を主とし,教育の質より量に,人格的要素よりメカニズムに重点を置く方法であ ったが故に,思考判断を要する学科や教師と生徒との人格的接触は完全に無視された。助 教生制度が教員養成に対して与えた影響は特に重大であって,教師の社会的地位の低下に 拍車を加えた。「24人の子供を今日与えてくれたら,明日は24人の教師にして返す」とい
團
うベルの言葉,「たとえそれについては何も知らなくとも字の読める子なら教えることが できる」し,「他人を教える間に自分自身も急速に成長する」というランカスターの言葉α5) ⑱
からも肯けるように,教師は一種の「オートメーション」であり,理想的教師とは,よき 編成者(organizer),よき監視者(inspector)であるにすぎなかった。
こ7)
これに対して,「真の教育とは成熟した魂と未成熟な魂との相互作用から生まれ出るも のであっで一助教生は指導者(instructor)ではあっても教育者(educator)ではない」
という反省が生まれ,助教生制度は漸次克服されることになる。機械論的教職観に代わっ
⑱
て,教師の人格・教養・知性を要求する新しい教師論と,「真に専門的教師の発生は最初の師範学校設立の日から始まる」という新しい教師養成論が勢力を得てくるのである。こ {19
フような新しい刺戟は,国の内外からもたらされたが,中でも,国外からはペスタロッチ の教育思想と各国の師範学校制度が,国内からはスコットランドの教員養成が特に大きな 刺戟をもたら1.た。ペスタロッチ主義はシンジ(Synge)やグリーブス(J P.Greaves)やメ イヨ・一(Ch.Mayo)によって紹介されたが,それは助教生制度を「文盲を駆遂する最も効 果的な方法だ」と信ずる人々に対する「恐ろしく強力な挑戦」であった。大陸の師範学校
はオースチン(S.Austin)やホーナー(L. Horner)によるクザン(V. Cousin)の報告書の
⑳
英訳によって広く英国入に知らされた。またスコットランドでは,ウッド(J.Wood)や
⑫1>
ストウ(D.Stow)が助教生制度の欠陥を是正して一斉教授法(simultaneous method)ζ・
採用し,ストウの設立したグラスゴーの師範学校(Normal Seminary)は高い資質の教
員を養成し,英国全土に送り出していた。
囲 、
一方,この国の民間教育団体は,ベルとランカスターの助教生制度に即応した教員養成
機関(例えば,ベルの方式によりデュルハムの僧正が設立したBarrington Schoo1とか・ランカスター
の創立したBorough Road SchooDを設置したし,「国民協会」と「内外学校協会」が結成され た後は,夫々が自派の管理+る小学校教師を養成する目的で,中央学校(central school)またはモデル・スクールを経雷t.たが,いずれも短期間の不完全な養成であって,養成と いう名には値せぬものであった。このような民問団体による教員養成の限界を克服する必 要を感じとった人々の目は, フランスのEcole Primaire Normaleとか・スイスやプロシ
ヤのLehrerseminarに向けられたし,議会でも教員養成側度の提案がなされるようにな った。ローバック(J.A.Roebuck)は1833益1乱に,幼児学校・勤労学校とならんで師範}校 を[K1家が設、乞するよう提案したし,ブルーアム(ll.Brougham)は1835乍の」:院で・教授 技術を教える!li碗学校の設置を説いたが,いずれも宗教問題等の困難i生のため実現を見る
⑳
@ 図 に至らなかった。
〔皿〕 ケイ・シャトルワースと見習生制度
(1)教師・教師養成論
「畑教散上蚊も注目すぺき人物の モとか・「教育に関する最灘威榊 園
とか云われるケイは,教育畑の出身者ではなく,エジンバラ大学で医学を修めた医師であ った。彼の教育論は彼の波瀾に富んだ体験の中から生み出されたもので,彼の教師・教師 養威論も彼の人生経験を捨象して論ずることは不可能である。
大学卒業後,マンチェスターのスラム街で,医療面から貧民救済に従事したケイは,18 32年に・これら蜴蠣和悲惨な状態について「繭の網的な q」を行ない・撚
や革命の危険性を指摘し,その唯一一の防」ヒ策は教育にあることを訴えた。1834・ドの改正救 貧法(4&5Wil1. IV.・.76)1こよって,中火に救貧法委員会ができ・これにm萬して査察 業務を担当する補助委員が任命されたが,ケイは妥請されてその補助委貝(Poor Law Assistant Commissioner)となり,東部地区を担当した。彼は委員会の求めに応じて,救 貧院(workhouse)の実態を調査・報告し,同時にその改善策を検討することになるが・
幽
゙の関心は専らそこに収容される救貧1#児童の教育に向けられ,その改蒔のために献身的 な努力をなした。彼ら貧困児童(pauper child)の生活や教育の状態は極めて惨めであ
り,地方の救貧委員は責任逃避のため,彼らを屡々悪徳工場主の下に教区徒弟(parish apprentice)に出したため, 「東インドの奴隷以下」とさえ云われるような過重労働に苦 吟する児童労働者も彼らの中から生み出されていた。彼らのために設立された救貧院学校
@ 凶
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher System)の成迄とその意義 57
(workhouse school)は,「地方税からの財源を教育に使用した最初の事例」であるが,
その実情は非常に貧弱であったため,ケイは小規模学校を併合して地区学校(district
⑳
school)を設置するよう提唱した。このような救貧院学校の改善に際してケイの直面した (31)
最大の障碍は,貧民教育に従事する教師の不足という問題であった。職人や商人より少な い収入と,陰欝で不安定なその業務に有能な教師を求めることは甚だ困難であり,そのγ とが救貧院学校の教育を更に不活澄なものにしていた。
教師不足の事態に直而したケイは,しかしながら,助教生制度に一時的な解決を求めよ
㈱
うとはしなかった。その理由は,1837年に,スコットランドのウッドやストウの学園を訪 問して,一斉教授(即ち,クラス教授)を参観した際,イングランドで人気を集めていた助 教生制度の欠陥を強く感じとっていたからである。彼の著作の至るところにその批判が見 られるが・彼はそれを「ごまかし(monitorial humbug)」だと断じ,その機械主義を鋭く〔331
批判した。1838年に「貧因階級の教育に関する特別委員会」に証人として出席した際も,
マンチェスターにあるランカスター派の学校を視察した感想を述ぺ,助教生の年令を12〜
3才まで引き上げることの財政的に困難な地方都市では,助教生の採用は却って有害であ
_一
驍ニ証言した。助教生は教師として若すぎること,彼らの年令を引き上げることが,先ず 図
必要な措置だと考えていたケイにとって,彼の担当地区であるノーフォークのグレセンホ 一ノレ救貧院学校(Gressenhall Workhouse School)で遭遇した出来事は,彼に新しい構 想を抱かせる出発点となった。即ち,その学校では13才のラッシュ(W.Rush)という少 年が,教師の病気欠席を補って,自発的に,しかも極めて成功裡に授業を進めていた。そ の状景を見て,教師不足に悩んでいたケイは探し求めていたものを発見したと感じ,「こ
岡
の明らかに偶発的な事件が次第に体系的な形式をとる」よう研究を始めた。G句
それと同時に,大陸における教育の実情を視察することにより,国内の困難な問題に解 決を求めようと考えたケイは,1838年には2回に亙って,即ち,最初は救貧法委員ニコル
ス(Nicholls)と・2回目は教師のマクレオド(McLeod)と共に大陸を訪れた。翌1839年 には・ケイと同じく救貧法補助委員であり,ケイの親友であったタフネル(E.C.Tufnell)
と連れ立って,オランダ・ベルギー・フランス・スイス・プロシャ等の諸国を歴訪して,
深い感銘を受けた。これらの旅行では,オランダの見習生制度を現地に見て,それが視学 制度と並んでこの国教育制度の二大特質をなし,しかもそのために,この国がプロシャや スイスに対抗するヨーロッパ最高の教育国になっていることを感得した。そこでは,1806
働
年の教育法の規定に基づき,最も有望な生徒を選抜し,最初は比較的機械的な学校の整備
・整頓の援助者として,後には凡ゆる部門の見習生として奉仕させながら,同時に彼らに 教育を与えていた。即ち,見習生となった者は,昼間は学校の一般的業務や紀律・秩序の
維持にあたったり,年少クラスの授業を援助したりするが,夜間になると,都市の現職教 師の協会から派遺される講師によって,学級の編成・運営等に関する理論や技術とか,必 要な基礎的な教養とかの指導を受けた。知識と経験が向Lするにつれ一ヒ級クラスの授業を 担当し,視学官の行なう試験に合格すれば助教諭となり,更に希望者はハーレムの師範学
校に欝して衡の鮪を完成し・儲の顯鼎状を鮒され サ・ケイはオランダにお いて見習生制度が初等教育の重要な推進力になっているのを見て,ノーフォークの出来事 以来構想していた新しい計画に対する確信を強めた。ケイはオランダの教育を見た時,英
@ G9
国の助教生制度のもとでの不完全な教育を思い浮べて,賞讃の言葉より「苦痛の印象」を 受けたと述ぺている。
⑳
ケイはまた,フランス・スイス・プロシヤの如き教育先進国を視察したが,ペスタロッ チ主義に立脚するスイスの学校に数週間滞在したことは,彼の教育論に大きな進歩をもた らした。フライブルグではギラード(P6re Girard)に,ベルンではフェレンベルグ(M・de Fellenberg)に,コンスタンスではべ一ルリー(JJ.Wehrli)に会ったが・ Thurgovia 州の師範学校を管理するべ一ルリーから受けた印象は特に強く,以後のケイの教師論に影 響を与えた。初めて相会した時,「私は辰夫の息子です。私は農夫の息子達の教師になる 以上の事を欲しません」「嶽はそ銀心が神の前1こ純粋であれば王子より倖せ̀」と
いうペールリーの言葉に感動し,貧民教育に携わる者の銘すぺき真理であると感じた。そ の師範学校では,節倹・質素・労働に対する喜びが説かれ,宗教的・道徳的教育がその根 本目標とされた。ケイは,望ましい理想的な教師像として,「自己否定の精神と,地域社
会への自発的な奉仕と,倹約及び質素の生活形式とを身につけた,勤勉で知性ある教師」 囮
を挙げ,教員養成の基本日標として,「道徳的・宗教的性格の形成」を主張しているが,
㈲
このような表現の中に,我々はべ一一ルリーの影響を明瞭に読みとることができると思う。
自己否定と,自己の属する階級に対する同情と奉仕とを,教師に求めたケイも,個々人 の宗教的動機に訴えて,教師になろうと希望する人々を集めただけでは,教師の不足と資 質の向上は永久に期待でどぬと考えていた。抜本的な解決策は,国家の援助する師範学校
を創設して,組織的な養成計画を樹立すること,そして,教師に対しては固定した給料を 支給して,生活の安定と老後の保証を与えること,以外にはあり得ぬと考えた。「国家の 第一の仕事は教師の身分を改善することである。教師に対して名誉ある地位と報酬とを与 えることなしに,広大な通風の良い学校を建てたとしても,それは残酢な幻影でもって貧 民を欺隔するものである」というケイの言葉は,「有能な教師の供給は先ず第一一に経済問 題であるという事実の卒直な是認であって,当時の教育思想の中での偉大な前進と新しい
㈹
運動の起源を示す」ものである。教員養成の問題点の所在が明瞭に認識されていなかった㈲
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher System)の成立:とその意義 59
当時の教育界に対して,ケイの大陸旅行は,この意味から,非常に貴重な成果をもたらし た。特に1838年のオランダ旅行は,ケイに国立師範学校の具体的な計画を立案させる契機 となった。それ以前には,ケイの思想の中においても,必らずしも明瞭でなかったこの計 画が・旅行後は彼の「購燗らのU」となったのである・1839年に倉σ設された瀦騰
育委員会は,成立後直ちに国立師範学校の計画を発表したが,この計画を示唆し,それを 具体化したのはケイであった。宗教問題のため失敗に終わったが,彼はその目的を達成す
る残された手段として,自己の費用でもって師範学校の設立に着手した。「教師なくして は何事もできない」という彼の確信は,彼の公教育論の骨子となり,そのための処置を講 ずることが彼の教育実践の大目標となったのである。
(2)見習生を用いた教育実験
ケイは「すぐれたアイデア」を抱き,それの「実現可能性」を正しく評価し,更にそれ を「実際に適用」する才能の持1{であった。医学部出身という学歴からも肯けるように,
⑳
自ら「科学的調査者(scientific investigator)」になろうと志し,教育に関する新しいア 鰺
イデアも,それを「教育実験」の場に移し入れるこれによって,その効果を科学的・客観 的に評価しようとした。彼の行なった教育実験の場としては,救貧法補助委員時代の救貧 院学校と・櫃密院教育委員会書記官長時代のバターシー師範学校(Battersea Training CoUege)とが挙げられるが,いずれにおいても教員養成の問題は実験の主要な目標であ
った。
最初の教育実験は・補助委員としてケイが担当した東部地区のノーホーク(Norfork)
とサホーク(Suffork)で始められた。彼は専ら救貧院学校の改善に関心を寄せ,効果的 な教授法を案出し,正規の教育を受けた教師を雇い入れる方策を検討した、,さきに行なっ たスコットランド旅行で強い感銘を受けたため,先ず初めにそこから教師を招聴して学校 改鯵に当らせることにした。ウツドの学校で教育を受けたホーン(Horne)が先ず招かれ,
救貧院学校の編成教師(organizing master)として指導にあたった。彼は一カ所に2〜3 か月ずつ滞在して,学校を組織化し,昼間にはクラス単位の一斉授業の模範を示し,夜間
には教師たちを集めて教授法や学校経営の指導をした。「彼が現われた処では凡てが変え 』
られた…彼の去った後には深い影響の足跡が残された」とケイはその成果を喜んだが,こ
剛
の実践の中から,教育の進歩はひとえに教員の資質にかかっていること,然るに有能な教 師を得ることが現実には如何に困難であるかを痛感した。この頃偶々相遭したのが前述の ラッシュ少年の自発的な授業であって,その中に当面の困難を解決する途があると感じた ケイは・病欠中の教師が学校に復帰した後も,ラッシュを助教師(assistant teacher)と して学校に留ませることを認め,その効果を観察した。その結果,ケイは助教師となる希
望のある生徒をその学校に留まらせて勤務させることの利点を認め,それを各救貧院学校 で実行するよう勧めた。
1838年6月にミドル・セクスとサーリーを含む首都地区(Metropolitan District)の旭 1/
になったケイは,ここで見習生を用いた本格的な実験に着手1、た。この地区にあるノーウ ッド(Norwood)の救貧院学校は,1100人もの児童を収容すろ「すしづめ学校」であって,
ケイにとっては自己の教育論をテストに移す恰好の場所であった。これを管理するオービ ン(Aubin)は快く学校を提供したし,時の内務大臣ラッセル卿(J.Russell)は,ケイの 申請に応じて毎年500ポンドの国庫補助金を支出することを認めたので, その実験の進行 は容易になった。技術訓練が完全に疎かにされ,身体的・道徳的・知的な教育が極めて不 完全であったこの助教生制炭の}鮫を,ケイは凡ゆる角度から,全而的に改論しようとし た。宗教を特別の教科として重んじ,時間割を作成し,技術教育をとり入れ,クラス単位 の一斉授業を行なった。前任地におけると同様,スコットランドから若い教師達を招いた が,教員の絶対数の不足は如何ともし難く,これを補うための見習生制度の実験が大規模
㊤0)
に試みられた。即ち,14才の年令に達し,「熱心さと,才能と,気質の温順さ」に秀でて いる少年少女が助教師の資格で学校に残り,教師の授業の援助をした。同時に彼らは,夜 問には教師から個々に指導を受け,「教え,学ぶ」という二而の機能を果たした。彼らは この両面の進歩について定期的に試験され,絶えず責任ある職務を振り当てられた。ノー ウッド以外の救貧院からも,有能な少年達が見習生になるためにこの学校に来て,5年間 の徒弟契約を結んだ。
⑳
ノーウッドの教育実験は評判となり,多くの参観者が集まるようになるが,ケイには未 (5鋤
ネ二つの問題が残っていた。即ち,その一は,地方の救貧区に新しい教育方法を導 入する目的から,ノーウッドを訪れ,そこに長期間滞在して,その実験成果を研修しよう と希望する,多数の教師や救貧院関係者が現われたことである。ケイは,「喚起された熱 意が,何らかの新しい有益な径路に導かれなければならない」と考えたが,ノーウッドの
(53
施設ではそれは不可能であった。その二は,ノーウッドで多数i採用された見習生の将来を どうするかという問題である。見習期間を終わった者は各地の救貧院から求められて助教 師となったが,しかし見習生を見習生のまま終わらせるのはケイの真の意図でなかった。
彼が見習生を採用した動機は,「単に年長の少年を年少の少年に置きかえること以一ヒの意 図」から出たものであって,オランダの見習生がハーレムの師範学校でその教育を完成す
ω 、
驍謔、に,ノーウッドでの見習生の教育も,教員養成を目的とするより高い機関に引き継 がれるべきだと考えた。以上の二つの問題点は,「新しい径路」である師範学校の設立に よって解決されることは云うまでもない。「予備段階」としての見習生制度の当然の発展
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher System)の成立とその意義 61
として,ケイは国立師範学校計画を樹てたが,不幸にして失敗に終わった時,ケイは更に 新しい教育実験において,彼の構想を具体化しようとした。
ケイはタフネルと共同で,1万2千ポンドの私費を投じて,ロンドン郊外のバターシー に師範学校を設立し,彼自身が「英国最初の師範学校」と呼ぶように大きな抱負のもと
㈲
に,組織・編成・教授等の凡ゆる面から師範教育の模範を示した。全員寄宿制の家庭的な 共同生活の中において,道徳的・宗教的性格の形成を基本目標として,職業訓練や知的訓 練をこれに従わせ,学習活動と農耕・飼育・家事等の労働との結合をはかり,卒業後農民 の生活の中に入り込めるよう,農民と同一の生活経験を積むことを要求した。この師範学
岡
校に関する詳細な論考は別の機会に譲らなければならないが,本稿ではそれが見習生制度 と如何に関連していたかについて,以下若干触れてみたいと思う。
各地の小学校で見習期間を終わった者を彼の師範学校に入学させることが,当初のケイ の計画であつたが,現実にはそれが不可能であったため,設立当初のバターシー師範学校 では,現に見習生となっている少年達を入学させて教育をする方法がとられた。1840年2 月に学校が開かれると,直ちにノーウッドの救貧院学校から,出席良好の13才の孤児8名 を受け入れ,見習生学級(class of apprentice)を編成した。彼らは3年間その師範学校 で教育を受け, 2年間はバターシーの村落学校(village school)で見習生として毎日3 時間ずつ教えることになった。一定の成績に達した者は,更に助教師として21才になるま
鋤
で,救貧法委員会の指導と指示のもとで,勤労学校(school of industry)に奉職する義 務を負わされた。この間,彼らは年々増額される一定の報酬を受けた。この見習生クラス
の生徒数は漸次増え,1841年の第一一回報告書作成の時までには24名となり,この数は更に ■
増加することが期待された。このクラスの外に,20〜30才の青年で1年間入学して指導を 受ける学生(student)のクラスも設けられ,1841年に学生数は9名であった。当時入学 者の一般教養が著しく低かったため,バターシーでは師範教育というよりも,それの前段 階としての基礎教育に重点が置かれた。1843年の第二次報告書が出る頃には,財政的困難 その他の理由で,入学年令が引き上げられ,18才に高められた。従って見習生クラスの教 育は中止され,より高い年令の少年を受け入れて一年間教育することになった。
〔IV〕 1846年の覚書と見習生制度の成立
(i)覚書制定に至る経過
1833年に「貧困階級の児童を教育する学校を建築するため,民間寄附金を援助する」目
倒
的で2万ポンドの国庫補助金交付が議決されたことは,「小さくはあるが大きな将来を妊 んだ種子の獲得」として,「重要な歴史的先例」となった。しかし教育の中央機関が存在し倒 ㈹
、なかったため,この補助金は民間の二大教育団体に配分され,以後6年間「試験的に」同 額の補助金が交付された。1835年には,「師範学校またはモデル・スクールの建築」のた めに1万ポンドの補助金が議決されたが,交付方法が決定されなかったため,1839年まで
・ 棚上げにされた。教員養成に対する国家関与の要望は,ブルーアムやローバックや自由主 義者達の参加する「教育中二央協会」に属するワイズ(Wyse)等によって議会にも提出され たし,またチャーティストの教育計画においても,附属学校をもっ師範学校の設立が取り
上げられていたが,現実には,民間の極めて貧弱な師範学校が3校存在するだけで,国家 ㊨1) 國
はこれに対処するには至らなかった。1839年2月4日に内務大臣ラッセル卿は,枢密院議 長ランズダウン(Lansdowne)卿に書簡を送り,教育の中央機関(Board of Committee)
を設立することを呼びかけたが,その目的の一として,「資格ある教師数の不足」と,新 しい教授法の模範を示す「モデル・スクールの欠如」という現行教育の欠陥を是正するた めに,「宗教教育・一般教育・道徳教育・勤労の習慣を4大目標とする師範学校またはモ デル・スクールの設立」を検討することを挙げた。ラッセル卿の提案は女王の強い支援が
@ 6鋤
あったために,同年4月10日の勅令に実を結び,「公教育を促進する目的で議決される公
金の使途を監督する」ため,枢密院議長・国璽尚書・内務大臣・大蔵大臣によって構成さ (64)
れる枢密院教育委員会(Committee of the Privy Council on Education)が,下院で投 票に持ち込む危険を冒すことなく「ひそかに」成立を見た。
岡
委員会は成立の翌日,4刀11日に第一回の覚書を出して,国立師範学校の計画を明らか にした。それによると,二つのモデル・スクールを建て,その一は最低450人を収容する 寄宿制の学校(model boarding school)とし,その二は150人から250人程度の通学制の 学校(model day school)とした。そこでは,教員を志望する生徒に,「貧困者の児童を 教育する完全な技術」を習得させるよう,様々の条件を整え,また教授は新しい一斉教 授法に従って進めることになっていた。 この計画は委員会の書譜宮長(Secretary)とし
圃 圃
て,その後の委員会の教育政策の立案・遂行に指導的役割を演じたケイの起学:によるもの であることは明自である。ケイが書記官長に就任した正式の日付は4月26日であるから,この計画が発表された時はその役職にいなかった筈であるが,「ランズダウン卿は,新し い部局の第一歩について私にご相談下さるという栄誉を賜わったので,私は直ちに師範学
校の創設を進言した」とケイ自身が語っているように,ノーウッドでの教育実験の成功者 (67)
であるケイは,教育問題の最高権威者として,正式就任以前から委員会の計1面立案に参画
していた。
駆)
しかし,枢密院教育委員会が教育の分野に立ち入ることは,教会のもっ教育管理権に対 する挑戦であり,教会側は深い憂慮と警戒心でこれを見つめた。「1839年,政府は近ずき
三好:英国における教員見習生制度(Pupil−Teacher System)の成立とその意義 63
つつある暴風雨によって波立ち始めている海中に,国家関与の小舟を漕ぎ出すことを企て た」が,教会側の抵抗の波は激しく,小舟は難航を重ねざるを得なかった。まず第一の抵 ゙抗は,国立師範学校計画に含まれる宗教教授の規定をめぐって生じた。委員会の計画に
.よれば,師範学校教育の基礎となる一般宗教教授は,国教派がこれを担当し,一定の時 間に行なう特別宗教教授は,非国教派の牧師がこれを担当するという・云わば結合方式
(combined plan)をi採用することにしていた。この場合・何が一般的で何が特別的であ るかを決定する権限を委員会が保有することは,精神の問題に対する公権力の介入である
⑩
として,凡ての宗派が反対したが,同時にこの規定が,国教派と非国教派の主導権争いに まで発展する一因となり,事態は益々困難となった。「ライオンの分け前…(lion s share)」を狙う国教派は,非国教派の牧師を学校に入れることは危険な譲歩だと考えたし,非国教 派は国教派に宗教教授の中核を独占され,僅かに「分担分け前(contingent)」しか認めら れぬことを不満とした。各方面から反対の峰火があがり,遂には上下両院にまで持ち込ま れたため,委員会はこの計画を放棄せざるを得なかった。当時の国教派と非国教派の対立 は,「今日の英国人にさえ理解できぬほど辛辣なもの」であり,ケイは「対立の熾烈さの
@ ㈹
評価に失敗していた」ため,結果において「1839年の公教育計画」は挫折に終わった。
@ ㈱ 圏
6月3日の勅令において,委員会は,「議会で議決される公金の最も有効な使途は,政 府の監督下にあって,民間団体の管理下におかれない師範学校を建立すること」であると の意見を持っているが,「対立する見解を調和することが甚だ困難なることを経験した」
ので,「より大きな意見の一致が広まったとわかるまでは,この目的のために手段を講ず ることを延期する」と声明し,従って1835年以来その使途が未解決のままであった,1万 ポンドの師範学校補助金は,二大民間団体に「等分に配分」されることになった。しかし,
その交付にあたっては,従来の校舎建築補助のように決して無条件ではなく,「委員会に よる視学権(right of inspection)が留保されない限り,今後は師範学校またはその他の 学校の設置・維持のための如何なる補助金も交付されない」として,補助金交付と交換に 勅任視学官(Her Malesty s Inspector)の学校査察権を要求し・ これによって政府の教 育関与への糸口を見出そうとした。以後,政府補助金の額とその適用範囲は次第に拡大さ
{74)
れ,それに附随して視学官の権限も漸次明確にされ,かくして委員会は,「開いた窓から 香気がしのび込み嗅覚に達する」ように,「徐々に,しかも殆ど気づかれぬ間に,その監 督権を学校に及ぼして行った。」まず,1843年の覚書によって,男女教員の住宅,学校に
(75)
必要な器具や備品,師範学校の建築等に補助金を出すことになり,1846年4月には,救貧
@ ⑯
院に勤務する教員の給料補助のために3万ポンドを支出することを議決した。
これより先,ケイは,教員養成を促進するため,国立師範学校計画に代わるぺき新しい
政策の立案にあたった。1843年にまとめた計画は,現場の教師に補助金を出して,師範学 校において1年間研究させる案であったが承認されるには至らなかった。1844年に,ケイ はこの計画を更に発展させて,見習生制度を中核とした,教員養成に対する財政補助(師 範学校経常費の年次補助及び学生の奨学金)の具体案を作成したが,それは1846年の覚書 と比べて,規模が一段と控え目であったことを除けば,極めて類似した内容のものであっ た・ この年に・ケイは・時の保守党内閣の首相ピール卿(RPeel)及びワーンクリフ卿
(Wharncliffe)と教育問題にっいて討議し,彼の計画を提示して非公式ながら承認を得 た。ワーンクリフ卿は,政府から給料を受ける徒弟の制度,小学校教師の報酬制度,徒弟 が教師を援助する方式,の3点を考慮すぺきだとの意向をもらしたが,これはケイの構想
(77)
と一致しており,従ってこの年にケイの案は制度化を見るかに思われた。しかし,政情が 不安定であり・内閣の教育政策が不明確であったため,実現には至らなかった。1845年に
ピール卿に代わってラッセル卿が政権を担当することになり,ケイは「待ち疲れた人間が
救いを得たかのように」喜んだが,ピール卿が政権に復帰したので期待は破られた。政情 (7鋤
の不安は続いたが,1846年になって,ラッセル卿のウイッグ内閣が正式に発足し,ランズ ダウン卿が再び枢密院議長となったために,ケイの計画は漸く実現される運びになった。
この国の公教育の発展に一一H寺期を画した,1846年の覚書がかくして制定を見たのである。
(2)覚書の内容とその特質
所謂「1846年の覚書」は,1846年8月25日と12月21日の2回に亙って枢密院教育委員会 から出され・大別して3部から成っている。即ち,8月に出た「一般覚書General Minute」,
12月に出た「見習生及び有給助教生に関する規則Regulations respecting the Education of Pupil Teachers and Stipendiary Monitors」及び「師範学校補助SupPort of Normal Schools」がそれである。
倒
「一般覚書」は,その冒頭において,視学官数が不足している実情を指摘し,大巾な増 員は爾後検討するとして,とりあえず本年は3名増員する旨記した後に,見習生制度の基 本原則を次の様に明記した。
委員会は,教師の助手をつとめる児童が,学校をおえて手仕事に就く年令があまりに若すぎるこ と,若し学力優秀で品行方正な学生が,師範学校において教師となるための教育を完成する準備と しての教授・訓練を受けるべく,熟練教師の徒弟となるならば,好都合であること,を主張する視 学官の報告書や,若干の学務委員会の建白書や,牧師その他の人の書状を更に検討した。
決定一一委員長は,規則(Regulation)を制定して,教師の資格・学校における教授の条件・初
等学校における徒弟の給料に対する年次補助金の条件として要求される地方寄附金を明記すべきこ
と。更に委員長は,徒弟契約書を準備して,徒弟の義務及び徒弟が受ける教育の性格・視学官によ
三好:英国における教員見習生制度(Pupj1−Teacher System)の成立とその意義 65
る試験の時期・契約書が解消される条件を明らかにし,それによって,徒弟期問中年々増額される 徒弟の俸給が国庫から交付されて,地方拠出金を補うようにすべきこと。
追加決定一学校徒弟の教授と訓練を担当する教師は,彼らの人格と熟練さがすぐれているため
に選ばれるが故に,また徒弟の教育は,かかる教師の勇働と責任を増大させるが故に,これらの義 務を成功裡に成就すれば,教師各人が訓練する徒弟の数に応じて,俸給の外に年次国庫補助金によ
る報酬が与えられるのが適当であること。
追加決定一一ある場合には,一定の年数勤務してそれを受ける資格があると考えられる男女教師 に対して,退職年金を支給することが適当であること。委員長はかかる退職年金の補助金交付に関 する規則の制定に導くこと。
功労のある教師を更に激励するために,委員長の権限のもとで,少額の給与金が,視学官の報告 書により,教育に対する熱意と成功がかかる激励に値すると見なされた教師に対して,毎年交付さ れることが適当であること。かかる給与金交付に関する規則が制定されるべきこと。
この一般覚書の大綱に沿って,12月21日の覚書において,必要とされる規則が詳細に定 められた。まず「見習生及び有給助教生に関する規則」にっいて云えば,「一般的・予備
圃
的条件」が最初に示され,一・定水準以上の学校でなければ,見習生を受け入れることを禁 じた。即ち,見習生を持ちたいという学校関係者の要請が受理されるためには,視学官に よって次の諸点が証明されなければならない。
当該学校の男女教師は,要求される教授課程において,徒弟を指導する能力があること。
学校はよく設備され,図書及び教具が整えられていること。
クラス編成ができていること。即ち,指導は熟練しており,子供の年令及び在学期間に応じて段 階化していて,各クラスに等しい配慮が与えられて来たことを示すに足ること。
紀律は穏やかで且つ毅然としており,しかもよき秩序に資するものであること。
男女教師の給料及び学校経常費が,徒弟期間のために準備されるという明白な見通しがあること。
次に「見習生一志願者の資質」において,見習生を志願する者の条件が明示された。
年令は13才以上であること,支障を来たすような身体上の疾患がないこと,本人及び家族 の道徳的性格がすぐれていることが牧師や学校理事者によって証明されること(若し家庭 環境が悪い場合は他の家に寄宿させる),が要求され,更に学力については次の基準が示
された。
(1)流暢に,容易に,表現を考えて読むこと。
② ゆっくりと読み上げられた簡単な散文体の物語を,きれいに,かつ正しい綴りと区切りで書
くこと。
(3)算術の初歩の四則計算で,単独のもの及び複合したものを口授するのを書きとり,正しく答 を出すこと。度量衡表を覚えること。
㈲ 単純な文法の品詞を指摘すること。
(5)地理についての初歩の知識があること。
(6)英国教会に所属する学校においては,教理問答書を復調し,かつその意味を理解し,聖書の 由来の概略を知っていること。試験のこの部分については教区牧師が援助する。
その他の学校にあっては,宗教的知識の状態を理事者が証明すること。
(7)視学官が満足する程度に,下級クラスの授業を行なうこと。
⑧ 女子はこれに加えて,上手に裁縫と編物ができること。
以上の見習生採用試験の基準は,性格と成績において秀でた児童を集めようという意図 をよく示している。採用された見習生は,「徒弟期間の各年度における見習生の資質」の 項において定められる基準に従って,5年間の徒弟期間の各年度末に視学官から試験を受 けた。例えば第1年度が終わった時に,見習生は次の項目の試験に合格しなければならな
かった。 (*印は女子に免除された科目)
〔1)より一層むつかしい物語の内容を記憶して書くこと。
②算術では,実算の法則と単比例の法則*及び暗算の基本法則。*
(3)文法,文の構造,文章論。
㈲ 大英国及びパレスチナの地理。
⑤英国教会と関係する学校では,聖書及び聖書からの章句による説明を伴なう教理問答書。こ
の試験では教区牧師が援助する。
その他の学校では,徒弟期間の各年度において,理事者が見習生の宗教的知識の状態に満足 していることを証明すること。
㈲ クラスにおいて読方授業をし,読まれた内容をテストする能力。
(7)初年度及び以後の年度において,声楽が楽譜によって教えられる場合は,声楽の原理。
⑧ 行進及び運動においてクラスを訓練する能力。*秩序を保つことが要求されるクラスの移動に おいて,それを指揮する能力。
(9)女子は裁縫及び編物を年少生徒に教授する能力。
5年間の徒弟期間の各年度毎にこのような基準が示され,最後の第5年次には,以下に 示すような基準の試験が課されたが,これを見ると,5年間に彼ら見習生の学業の水準が かなり向上したことがわかる。
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher System)の成立とその意義 67
〔1)教授法に関係ある題目についての論文作成。
② 代数の基本,*または土地測量*及び水準測量の実習。*
㈲ 文章論,語源学,作詩法。
(4)地球儀の使用,*または英国史の概略と結び合わされた大英国*及び欧州の地理。*この年度 において,女子は大英国の歴史地理の試験を受けることができる。
㈲英国教会と関係ある学校では,聖書・祈薦書・教理問答書に関してより完全であること。教
区牧師が試験を援助する。
㈲ 参観授業をなす能力,及び視学官が選ぶ教科について,第1年のクラスに授業をする能力。
「総則」によると,これらの基準は全国的に不公平をなくすために作成した,学業の最 低量を示すものであって,成績優秀な者の徒弟期間を短縮したり,特別手当を出したりす
ることもできた。視学官の行なう各年次の試験に合格し,性格・行動に関する証明書が各 年度末に理事者から提出され,委員会が適当と認めた見習生には,国庫から給料が支給さ れた。その額は,第1年次が10ポンドで,以後2ポンド10シリングずつ増えて,第5年次 は20ポンドになったが,これは苧校その他から受ける報酬とは無関係であった。(「見習生 及び有給助教生の給料」の項)また,見習生の指導にあたる教師にも手当が出され,同時に その義務が明記された。まず手当は,見習生1人につき5ポンド,2人では9ポンド,3 人では12ポンド,それ以上は1人にっき3ポンド増が支給された。上記の教科以外に,園 芸・工芸・裁断・料理・パン焼き・洗濯などを教え,視学官によりその成果が認められた 教師には,技術と労苦に応じて手当が出された。このような手当と,見習生から受ける援 助の代わりに,教師は1週間に5日間,平常の授業時間の前か後に,最低1時間半ずつ見 習生を指導すぺき義務を負わされた。(「教師の報酬と義務」の項)なお,採用できる見習 生の数は,児童25人につき1人の比率を越えないこと,各年次の試験と証明書に無事通過
して5年の期間を終わった者には終了証明書が交付されることも規定された。
農村地区の学校において,見習生を採用するための「一般的・予備的条件」には適合す るが,教師が5年間の全コースを指導する能力のない場合には,見習生の代わりに有給助 教生(stipendiary lnonitor)を置くことができた。彼らは見習生のように生徒と教師との 徒弟契約書ではなく,学校と両親との契約の形式で雇われ,13才から17才までの4年間学 校に留まり,給料を受けながら見習生と同様の機能を果たした。志願者の資格・各年次に 視学官の行なう試験基準・給料・教師の手当等は見習生に準じて定められた。 (「有給助 教生一志願者の資質」「各年度における有給助教生の資質」の項,及び上掲の関連項。)
12月21日の覚書には,上に見てきた「見習生及び有給助教生に関する規則」に続いて,
「師範学校補助」の規定がなされており,それによって見習生は師範学校に進む途を開か
侶1)
れていた。即ち,徒弟期間を終了して,視学官と師範学校長が共同で毎年行なう公開試験 において,学業が優秀で教授技術にすぐれていることを証明され,加えて,教職に対する 適性と熱意を地区の視学官に証明された見習生は,女王奨学生(Qu㏄n s Scholar)とし て師範学校に進学し,年額20〜25ポンドの奨学金を与えられた。女王奨学生になる程優秀 ではない者には下級公務員になる途も開かれていた。また女王奨学生を受け入れる師範学 校に対しては,その負揖を軽減するために,補助金が出された。3か年の修業期間の第1
年次の学生を1人入学させれば20ポンド,2年次の学生なら25ポンド,3年次の学生なら 30ポンドが,師範学校に交付された。師範学校卒業後,政府査察下の学校に就職すれば,
有資格教師として特別増俸を受けた。即ち,師範学校に1年間在学した者は15〜20ボン ド,2欄の都2・−25ポンド,こ3年間賭は25−3・ポンドを,また好はその号綬け た。更に,15年以上在職した者には退職年金も支給されることになった。
以上が1846年の覚書の大要であるが,その特質として,次の2点を指摘したい。先ずそ の形式であるが,覚書は議会を通過した法律ではなくして,枢密院教育委員会の教育政策 の大綱を示すものであるため,体系的に条文化されていないこと,また,この覚書に従っ て,視学宕達が試験をしたり,調査をしたりして,国庫補助金を交付するか否かを決定し たため「補助金交付の基準」の性格が強かったことが特徴である。なお議会の承認を経 ず,女王の勅令で成立した枢密院教育委員会の作る覚書の法的根拠については,当時から 異論もあったが,これを今日云う委任立法権(deligated power of legislation)の初期の 興味ある実例と見ることも可能である。次にその内容であるが,この覚書が単に見習生に
圃
関する規則に止らず,師範学校補助・有資格教師の特別加俸・退職年金など広範囲に亙っ て「スケールの大なるもの」となっていることである。リッチ(R.w.Rich)はこの覚書の 意図するものとして,①見習生制度の樹立,②師範学校に対する政府補助,③国庫からの 給料補助を伴なう教員免許状制度の創設,の3点を挙げているが,これらの3点は,有能
㈱
な教師の計画的養成というケイの構想にとって,いずれも不可欠な要素である。従って,
見習生から,女王奨学生,師範学校生徒,現職教師,退職教師に至る教師の一生がそこで は問題にされており,この意味からも,見習生制度は,単にそれだけで完結したものとし て把握されるのではなく,教員養成制度の最も基礎的な段階として,即ちその重要な出発 点として,位置づけられる必要があると思う。
〔V〕 見省1生制度と英国教員養成
1846年の覚書の反響について,スミス(F.Smith)は次のように述べた。「進歩主義者 はその計画を断片的で取るに足らぬものだと考え,無償義務学校を要求し始めた。ボラン
三好:英国における教員見習生制度(Pupi1−Teacher Systeln)の成立とその意義 69
タリストは,その中に国家権力の危険な伸長を見た。国教会派は,概して,新しい警鐘の 姻になるとは考えなかつ │特に・「服協会」が「鮪は瞳の永遠魏をあずか
る者の手に委ねら宸「る」と解訳して・この覚書轍迎したため・梱搬の反対1まあ ったにぜよ,比較的混乱が少なくして成立を見た。国立師範学校計画から7年目にして,
漸く教員養成に対する国家の関与が是認されたのである。1847年の議会では,この覚書の 財政的な裏付けをするため,10万ポンドに増額された国庫補助金が目立った反対もなく多 数で議決された。この覚書では,先の国立師範学校計画に比べて,宗教問題に対して細心 の臆磁擁・搬側に力μに譲歩していることが,激しい廊寸翻を引き起さなかっ た原因と考えることができるが,それと同時に,この7年間に教員養成に対する社会的要 請が著しく昂まって来た事実も見逃してはならないと思う。代議政体の国家では,すべて 与論の喚起が第一であり,従って「国民教育は必然的に遅々たる歩みをするものである」
(8㊦
ニいうケイの信念は,こグ)7年間の委員会の政策の中に反映していた。即ち民間の自発的 教育活動を援助し,刺戟しながら,教員養成が公教育を推進する重要な動因となることを 認識させて行ったのである。
そしてひとたび襖が打ち込まれれば,その割れ目に沿って,試行錯誤的な努力が積み重 ねられ,緩漫な進歩を遂げつつ教育制度が確立して行く。見習生制度もその例外ではな
く,1846年の覚書は,それに続く多くの覚書によって補われ,修正されて漸次形を整えて 行った。例えば,1852年の覚書では,見習期間を終了した者は小学校で助教師として雇用
され,国庫から男子25ポンド,女子20ポンドの給料が支給されると定められ,翌1853年
劒には,「女王奨学生・徒弟及び有資格教師に関する覚書」が公にされて1846年の覚書の不
備を
̀た・1856勒「妊難症騨諏び㈱学灘徒の年次試験1・関する驚」では,女王奨学生として師範学校で学ぶ者の数を増加させる方策が講じられた。その他多数
㈲の覚書と,これに従って指導・助言を与える視学官の努力によって,見習生制度は着実に
現場の教育の中に根をおろし,覚書の出た5年後の1851年には,別表のように,見習生の 数は5,607人に達し,1859年には15,224人となった。
1851年12月31日現在の見習生数
⑨①
・年12年13年{・年1・年L合 計
矧列剃女i判女i男図剃女i男1女
757i457:797149・}9581452183・3871・・51・643657巨95・
しかしながら・1862年の改正法典(Revised Code)を頂点として,見習生制度は次第に 批判され始め,見習生の数は減少の一途を辿るようになる。改正法典においては,見習生
と徒弟契約を結ぶ相手が教師から学校理事者に切りかえられたし,3R sだけの試験結 果による補助金方式が教職の魅力を失わせるにつれ,見習生数は大巾に減少し,1861年の 13,871名は,1886年に8,860名となった。改正法典のもたらした打撃は,教育の漸進的発展
@ ⑳
を阻止する反動政策によるものであるが,これとは逆に教育の進歩を求める人々の間から も,見習生制度は次の新しい発展へと席を譲るぺきだという批判が生じて来た。1886年の クロス委員会でもこれを批判したが,しかし廃ILの勧告までには至らなかった()1881年以 降は,見習生センターが設けられ,見習生は半日問教師の援助をし,半日間このセンター で教育を受けることになったが,20世紀に入ってL.E.A.の設置するTraining Collegeわ 中等学校が整備され普及するにつれて,急速に姿を消して行った。
以上1846年の覚書の反響と見習生制度のその後の経過を概観したが,次に見習生制度の 成立が,この国の教育史上にlllめる意義について考察してみたい。見習生はpupiレteacher
という名が示すように,生徒であり教師であった。これは彼らの果たす機能を端的に物詰 っていて,現場の教師の徒弟として指導を受ける面がpupilであり,教師を扶けて教授 や学校管理の援助をする面がteacherである。 従ってここではこの両側面から見習生制 度の意義を指摘するのが便利かと思う。
先ず第一にteacherの側面から見る時,彼ら見習生は小学校における教師の絶対数の 不足を補うのに寄与した。即ち学校設立者の財政的負担を増大させることなく,必要数の 助教師を学校の中に送り込むという緊急の要請にこたえたのである。アーノルド(M・
Amold)が「英国初等教育の腱」 と呼んだように,小学校の中で彼ら見習生の占める役 割は極めて大であって,当時の殆どの視学官達がその意義を認めた。ケイは視学官の視
⑫
察報告の中から,見翌生に関する部分を抜葦して,見習 1三の性格及び行動,宗教教授,学 ・ 識,学校管理の知識,学級経営の感覚と技術,見習生制度の一般的効果,の各項目に分け,それを主著「公教育」の補録に収めた。どの項口を見ても,見習生の結果は満足すぺ
@ 鰯
きものだと報告されており,例えば,ペレヤス(Bellairs)は,「1846年の覚書は,恐らく 他国の歴史の中に類例のない程の速度と改善の故に,貧民教育の中に一つの革命をもたら
した」と述ぺ,ノリス(J.P.Norris)は「1846年の覚書が教育にもたらした道徳的・知的
利蕊棉、屡々襯腱1、より指摘され,報私の幽地区でも鋤・亙って承認で
きることですから・私がこの罷について多くを述べる必要はありませミと・儲の意
義を高く評価した。なお視学官の報告占は,教授法における改善のもたらした利点を強調 するものが多いが,上述のように見習生制度の採用は相互教授法の克服を意味するため,
見習生制度を高く称揚する視学官達は,助教生制度の教授法の打破に一役を演じたことに なる。しかし,見習生制度が初等学校の中に新しい教授法を導入させ,教育水準の向上に
⑨⑤