学ぶことと帰郷すること
r青い鳥』を追い求めて
生 越 達*
(1993年11月17日受理)
Leaming as Becoming
AR Essay on L Oiseau Blea
Tohru OGosE
(Received November 17,1993)
1.はじめに
「教える」という営みを教育方法という枠組みのなかで捉えようとするとき,物足りなさを感じさ
せられることがある。その理由のひとつは,教えるという行為がその相手の成長それ自身に対して 責任をもたなければならないという事実のうちにある。教えることには,知識の伝授や技能習得の 援助としては捉えきれない領域が含まれている。それは,知識の集積や技能の獲得といった現実的 な成果のみによって測り切れるものではない。このように教えることを結果からばかりは捉えられ ないことは,教えることの曖昧さであると同時に豊かさでもある。教えることは,学んでいく過程 を視野に入れざるをえない。この場合,過程という言葉が意味するのは,学んでいく際のステップ として細分化され,図式化されうるような過程ではない。その意味は学んでいく過程そのものが自 らの成長をどれほど導くものなのかへと目を向けるということである。そして,このことはまた学
ぶことが知や技能の蓄積を越えていることを明らかにするはずである。以下においては,上記の問いである「学ぶ過程そのものの意味」を捉えるべく,メーテルリンクの
『青い鳥』を読み,「青い鳥」という言葉にこめられている事柄を解きほぐしていきたい。
2.「青い鳥」とは《何》か
チルチルとミチルは,妖婆に娘の病気を治すために青い鳥が必要だと促されて,その青い鳥を探し
に旅に出ることになる。その際,妖婆はチルチルに娘の病気について聞かれ,次のように答えてい
る。
*茨城大学教育学部学校教育講座(〒310茨城県水戸市文京2丁目玉一1).
94 茨城大学教育学部教育研究紀要第26号(1994)
「なんだかよくわからないけれど,幸福になりたいんだってさ・…・」1)
娘の病気は幸福になりたいという病気である。そして青い鳥は幸福をもたらす鳥である。「青い鳥」
は幸福を象徴している。だが,それでは幸福とは《何》を意味しているのだろうか。チルチルとミ チルが旅するところ,あらゆるところに青い鳥の影は見える。しかし,それはかごに入れようとす
ると,色が変わってしまったり,死んでしまったりする。青い鳥は掴み所のない鳥である。そこで始めに,チルチルとミチルが行く先々で出会う青い鳥の様子を整理することから始めたい。
まず第一に,青い鳥とは対象化できる存在者ではない。対象化して,「もの」として保存しようと するや2),それは青い鳥であることを止めてしまう。かごに入れること,捕まえて所有すること,青 い鳥はそうしたことを拒否する。別れの場面でのチルチルと光との次のような対話がある。
「チルチルでも,ぼく,青い鳥とれなかったんだ!r思い出の国』のは,まつ黒になつちゃうし,r未 来の国』のはまっかになり,『夜の国』のは死んじゃったし,森の中じゃっかまえられな
かったんだもの・・…みんな,色がかわったり,死んだり,逃げたりしてしまって,ぼ くが,いけなかったのかしら?魔法のおばあさん,おこるかしら?なんていうだろ?
光わたしたち,できるだけのことはしました。r青い鳥』なんて,ほんとはいないらしいし,
かごに入れると色がかわるらしいですね。」3)
第二に,青い鳥はだくさんいる。実際に,夢の世界でチルチルとミチルは無数の青い鳥を見てい
る。ここで重要なのは,青い鳥は見えるものであるということである。つまり,青い鳥がいくら「存 在」していようと,それが「見える」かどうかはまた別の事柄である。ある時,チルチルとミチルは幸福の御殿に行く。そこは魔法の帽子のダイヤを回す前にはぜいたく の国である。しかしこのぜいたくの国には青い鳥はいない。光は言っている。「どうも,もしかする と,青い鳥は,ちょっとくらい,あの人たちのところにいたことがあるかもしれないですがね」4)。そ
こでチルチルは魔法のダイヤを回す。すると世界は一変する。ぜいたくだちは逃げまどい,不幸の
洞穴の底へと落ちていく。新しい世界では本当の意味での幸福であるよろこびが見えるようになる。光はあまりにきれいな世界にチルチルが驚いていることに対して,「わたしたち,おなじところにい るのよ。ちがったように見えるのは,おまえの目のせいさ…・・いまこそ,ほんとうに,ものが見え るんですよ。」5)と,言っている。そこでさらに,チルチルは幸福に青い鳥がどこにいるかを聞く。
「チルチル青い鳥,どこにいるの
幸福 青い鳥がどこにいるか知らないんですって!」6)
青い鳥は常に身近にいる。だが,近くにいることは,それが見えることを保証しない。ダイヤを回
すことは,世界そのものを変えることではなく,世界の見方を変えることである7)。もっとも,ダイヤを回すことだけが眼差しを変えることではない。大切なのは見えないものを見続けること,ある いは見えないものを求め続けることである。そして,その見えないものはどこか遠くにあるのでは
なく,いつも近くにある。眼差しが転換されるまで見続けることを求められているのである。次のようなエピソードがある。あるとき,チルチルとミチルは夜の御殿を旅することになる。そこ
には幾つもの鍵のかかった戸がある。その一つをあけると夢のような花園が開け,妖精のような無
数の青い鳥が飛んでいる。そこで,チルチルとミチルたちは,青い鳥をたくさん捕まえるが,それら は月の光のもとでは生きられても,日の光のもとではみんな死んでしまう。だが花園には「月の光で 生きていて,日の光にあたるとすぐ死んでしまう夢の青い鳥にまじって,日の光のなかででも生きていられるたった一羽のほんとうの青い鳥が…いる」8)のである。青い鳥のなかには夢の青い鳥とほ
んとうの青い鳥がいる。確かに,青い鳥は夢の世界,つまり遠い世界にもいる。だが,それはあく
までも夢の青い鳥に過ぎない。それは真の青い鳥の幻に過ぎない。そして,日の光のもとで生きられ る,つまり日常の身近でありふれた生活のなかで生きられる青い鳥が真の青い鳥なのである。チルチルやミチルにとって旅することは,多くの事物を次から次へと見て歩くことではなく9),自
らの見方を変えること,そして見方を変えることにより世界の現れが一変することを学ぶことへと 凝縮していく。しかも眼差しの転換は,眼差しの方向を自由に変えることによってではなく,見続
けることによって生起する。出会いの部分でのチルチルと妖婆との対話は興味深い。「妖婆 おまえなんかに見えるものか!…わたしはどう見えるね?…わたしは,きれいかね?み
つともないかね?(チルチルはだまっているのが,きまずくて,いよいよもじもじしてくる)返事できないね。… たぶん,わたしを,せむしだとでもいうんだろう?…」
チルチル (きげんをとるような調子で)ううん,でもちょっとまがっているだけだよ…
妖婆
チルチル 妖婆
チルチル 妖婆
チルチル 妖婆
ここでは隠れているもの,見えないものを謙虚に見続けることが求められている。
第三に,青い鳥を追い求めるという過程そのものが青い鳥だということがある。物語全体がそう した構造を持っているし,青い鳥を捜し求めることが眼差しの転換と深く関わっているからには,青
い鳥を対象として捉えることは出来ないのであって,青い鳥を過程,あるいは「生成」そのものと
して捉えるほかないことになる。例えば,幸福の御殿では,ぜいたくの世界が経験されたあとで初
めて,真の喜びの世界が示される。この点については最初の妖婆の言葉からも察せられる。「あれならいらないよ。あれはまだ,ほんとうに青くならないからね。おまえたちは,わたしのほし
い青い鳥をさがしにいってくれなくちゃいけないよ。」m
その鳥は,青い鳥でないのではなく,まだ青い鳥になっていないのである。そしてチルチルとミチ ルは青い鳥を探すことを求められるのである。しかも,旅から帰ってきたあとも,青い鳥は確かに
「旅にでるまえよりずっと青い」】2)色をしていたものの,まだまだ「すっかり青くはない」】3)のであ って,「もっと青い」]4)鳥がいるのであり,さらに青くなる余地を残していたのである。
象徴的なのはこの青い鳥が,最後にとんで逃げてしまうことである。つまり,青い鳥は,最後まで
籠の鳥とはならないのであって,対象化されて所有されうるものとはならない。そうだろうとも,その顔つき見りゃ,だれが見たって,ひどいせむしだと思うだろうよ。…
わたしの左の目は,つぶれているかね?
ううん,ぼく,そんなこといわないよ。… でも,だれが,その目とつちゃったの
とってなんかいるものか!…わたしの髪の毛はどうだね?… こんなにふさふさたれて,・・ほら手のひらにのっているのが見えるだろう?
ああ,ちょっぴり見えるよ
ちょっぴりだって?… 世間にゃ,なんにも見えないっていう人間もあるけれど,まさか おまえは,そんなめくらの悪党どもの仲間じゃあるまいね?・・
ううん,ぼく,かくれていないものなら,なんでも見えるんだ。・
かくれているものだって,うたぐらないでみなくちゃいけない!jIo)
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3.見えるということ
さて,青い鳥は以上のような特徴を持っている。ここで,最初の問いに戻り,学ぶことと青い鳥と
の関係を捉えつつ,青い鳥に含意されている事柄をさらに深く捉えていきたい。その際まず上記 で第二の特徴としてあげた見えることに注目し,これまで述べてきたことをもう一度整理すること
から考え始めることにする。すでに,青い鳥がそれを捉える眼差しによって見えたり,見えなかったりすることが明らかにされ
た。そして,青い鳥を求めて旅することが生きることを象徴しているとすれば,ここでは生きるこ とと見えることとの関係が述べられていることになる。つまり,生きることは自らの見えを転換し ていくこと,見ることを学んでいくことだということになる。あるところで,かしは次のようなこ
とを言っている。「うん,おまえが青い鳥を・…・つまり,すべての物と幸福との偉大な秘密をさがしていることは知
つとる。おまえはそれを見つけて,人間がわしらをもっとひどくこき使えるようにしょうというの
だろう。」15)
あるいはまた,ネコが次のようなことを言っている場面がある。
「あたしたちここにいるものは,動物だって,物だって,元素だって,みんな,まだ人間の知らない 魂というものをもっているのです。だからこそ,あたしたちは,どうやら独立していられるのです。
けれども,もし人間が,青い鳥を見つけたら,すべてを知り,すべてを見ることができるでしょう。
そうなると,あたしたちは,まるっきり,人間の命ずるままに従わなきゃなりません。」16)
青い鳥はすべての存在者の秘密であり,魂である。青い鳥は「あたしたちの(すべての存在者の)
秘密を知っているあの青い鳥」mなのである。青い鳥を見つけることの出来た人間は,そうしたすべ ての存在者の秘密を暴くことができるようになる。そしてそのことは同時にすべての存在者を統べ ることを可能にする。ここには明らかに,青い鳥を捜し求めることと学ぶこととの連関が述べられ ている。青い鳥は幸福への鍵であると同時に,すべての存在者の秘密を暴く鍵でもある。つまり青 い鳥を探すことが,じつは世界を知ること,世界を学ぶことにもなるのである。存在者の秘密を暴 露しようとする際には,それぞれの存在者をいくら見ていても駄目なのであり,青い鳥を探さなけ ればならないのである。しかも,この青い鳥は見ようとして見えるものではない。それではこのよ
うな青い鳥を見るとは,いったい,いかなる見ることなのであろうか。第一に,見ようと意志することは見えることを保証しない。もちろん,このことは見ようと意志す
ることが無駄だということではない。チルチルとミチルが青い鳥を探しに旅にでることは意志する
ことの必要性を示している。だが,彼らには,青い鳥が見えない。いくら見ようとしても見えない。しかもすでに述べたように,青い鳥は何処にもいなかったのではなく,彼らには見えなかったのだ。
したがって,見ることは見えないものを見ようとして見続けることなのである。
チルチルも,隠れていないものを見ることはできる。だが隠されているもの,隠蔽されているもの
こそ捉えられなければならない。隠蔽されているものを非隠蔽性へともたらすことこそ見えること
の本質であり,青い鳥を捕まえることである18>。第二に,見ることにとっては見られる対象(ノエマ)よりも見ようとする者の眼差し(ノエシス)が
問題となる。青い鳥は常に既に近くにいる。このことは既に述べてきたとおりである。とするなら
ば,青い鳥を捉える秘訣は捉えようとする者の眼差しの内にある。このことは魔法のダイヤに象徴
されている通りである。しかも第一の点について述べたように,この眼差しを獲得するためには旅 を必要とする。つまり見えないものを見続けるという時間の経過を必要とするのである。この点に ついて光がチルチルとミチルの旅の随伴者であったことは象徴的である。光が物を照らすことによ って始めて存在者は見えるようになるのである。通常は,物のほうが際立ち,それを照らす光に焦 点があてられることはないが,実は常に見えることには光が伴っているのである。光は物語の最後
のほうで次のように言っている。「わたしは水のように声をもっていません。ただ,ごうごうとした光をもっているだけなので,人間 にはわからないのです。けれど,わたしは,人間を,その最後の日まで,見守っていますよ一・・わ たしはね,くまなく照らす月の光のなかにも,キラキラ光る星のなかにも,すべての曙のなかにも,
毎晩ともされるランプのなかにも,それから,おまえたちの魂の,すべてのよい,そしてあかるい
考えのなかにも,どこにでもいて,おまえたちにお話しているのは忘れないでちょうだい。」19)光は人間が生きているかぎり,どこにでもいるのである。
ここにおいて,青い鳥を対象化して捉えることが出来ない理由も明らかである。青い鳥は,それを
捉える眼差しがあって始めて捉えることができるようになる。捉える眼差しと切り離して,存在者 を対象化して理解するような仕方で青い鳥を見いだすことは出来ない。青い鳥は主体と切り離され た客体として見いだされることはありえない。青い鳥は主体と客体の分離以前の世界で探されなけ ればならない。
第三に,第一と第二の点を鑑みるかぎり,見ることは自らの拠ってたつ地盤つまり自明性に問い かけることである。見ることは,次から次へと新たな存在者へと眼差しを移しつつ捉えることでは なく,同じものを新しく見ることである。旅を終えたチルチルとミチルには魔法の力を借りること
がなくとも世界が異なって見えるようになっていた。チルチルは次のように言っている。「(じぶんのまわりを,しばらく見まわしてから)とうさん,かあさん,家,どうかしたの?…・もと のとおりだけど,ずっときれいになったね・…・」20)
「そうね,なにもかも,ペンキが塗りたてで,あたらしく見えるよ,なにもかも,きれいで,みがい
てあるね,去年(旅の前)はこんなじゃなかったよ。」2])
「それから森をごらんよ!なんて,大きくって,きれいなんだろう!まるで新しいみたいだね!ここ,
いい気持ちだね。」22)
確かに,チルチルにはすべてのものが新しく見えている。もとのとおりなんだけど,でもずっとき れいなのである。すでに述べたように,新しさは眼差しの移り行きによってもたらされているので
はなく,同じものを新しく見ることによってもたらされる。この意味で,見ることは自らのそれまでの見え方を壊すこと,あるいは自らの拠ってたつ自明性へ
と問いかけることなのである。したがって見ることは,自らの存在と深く関わっている。見ること
は,自らの拠ってたつ自明性を壊し,見えない深淵のなかへと自らを陥れようとする冒険である。だからこそ,見ることを単に認識の範囲で捉えることは決して出来ないのである。この意味で見るこ
とは人間にしかできないことであり,他の動物たちはこの意味で見ることは出来ない。見ることは,人間として生きる,その生き方そのものを意味している。
そして,見ることがこのような性質を持っていることから,見ることが気分と関わることも理解で
きるようになる。見ることは単に目で見るのではなく,おのれの存在を賭けて見ることだからであ
る。チルチルは旅から帰ってきて家を見たとき,そこで見たものすべてを綺麗だと感じる。それは,98 茨城大学教育学部教育研究紀要第26号(1994)
見ることが気分と関係していることを示している。そもそも,見ることが,つまり青い鳥を追い求 めることが幸福と関係していたことが忘れられてはならない。青い鳥はこの気分と深く関係してい
たのである23)。
ここにおいて,見ることが時間を必要とすること,つまり旅を必要とすることもよく理解できるよ
うになる。経験を通しておのれの存在を新たに作りかえることによって,始めて見えるようになる
からである。母の愛は次のように言っている。「おまえたちが,ここまでのぼってきたのは,これから下へ帰ってから,下でわたしを見たらどうい
うふうに考えたらいいか,それを,ちゃあんと,知るためなんだからね・・…わかるだろ,チルチ ル,おまえはいま,天国にきていると思っているけれど,おまえとわたしがキスするところは,ど こだって天国なんだよ・…・かあさんていうものは,ふたりはありゃしない,だから,おまえのか
あさんは,ほかにはないのだよ。どこの子だって,かあさんはひとりしかないよ・・…そうして,いつでもおなじで,いつでもいちばんきれいなんだよ。だからおまえは,かあさんをよくおぼえとか
なくてはならないよ一、_でもおまえ,どうして,ここへこられるようになったの?人間が,地上に住 むようになってから,いつもさがしていた道が,どうしてわかったの?」en)以上,見えることの解明を通して,青い鳥が何を意味しているのかを捉え直してきた。そして,見
ることのうちに学ぶことの本質が隠されていることも明らかになってきたように思う。見ることは 学ぶことである。そこで,次に,見ることのうちに託された学ぶことの本質をさらに明らかにして いきたい。
4.見ることとしての学ぶこと
見ることは冒険であった。それは見ることにおいてはおのれの自明性を突き崩していくことを求め
られるからである。そして冒険であるからにはまた,結果が問題なのではなく,冒険することそれ
自身が大切である。見ることにとって,「破壊」と「過程」が本質的である。青い鳥を求めて旅する ことは常に古いおのれを壊し,新たなおのれを創り続けていく生成過程である。非常に単純に考えるかぎり,学ぶことは自らを太らせていくこと,知を自らのうちに蓄積していく
ことであるように思われる。だが,見ることとしての学ぶことはむしろ自らを破壊することを強調 する。もちろん,自らを新たに作り変えるためには,旅することに象徴されているように,自らの 外にある異質な他者との出会いを必要とする。他者と出会うことで始めて自らを破壊することも可 能となる。しかし学ぶことが知を自らに蓄積することに費やされるかぎり,それは似而非教養であ り,そこから新たな自己が生まれてくることはない。おのれの存在については手を付けず,保持し ておいて,そこに知を付け足そうとすれば,知はいつまでたっても自らの眼差しを変えることへ働 きかけようとはしない。現時点のおのれにどっぶり漬かってしまえば破壊という冒険は不可能とな る。そして現時点のおのれにどっぶり漬かってしまうことは,おのれの存在を忘却することでもあ る。そして自己存在の忘却のもとでの青い鳥は夢の青い鳥に過ぎない。それは真の青い鳥ではあり えない。夢の世界でいくら沢山の青い鳥を捕まえようとも,それは日の光のもとで青い鳥でいるこ
とは出来ないのである。古いおのれの破壊ということは,同時に,学ぶためには常におのれから出発せざるをえないという
ことを内在させている。どこか遠い彼方から見ることは真に見ることではない。見ることは常にお
のれから見ることである。未来の国で,時がこれから生まれていく子どもに次のように言っている。「おもえはなにをもっていくんだい?…・・なにもない?・・…空手で?・・…じゃ,おまえ通れない
そ・…・なにか用意してこい。なんなら大きな罪でも,病気でも,なんでもかまわん,とにかくな
にかもつてこなけりゃならんのだ。」25)ここには,人間存在の有限性が語られている。しかし,この有限性は人間としての可能性でもある。
人間として生きることは,おのれの有限性という可能性を世界のなかで実現することである。それ ぞれが生まれたときからおのれの道をもっているのであり,したがって見ることもまたおのれの道
を歩むこととして,おのれから出発するほかないのである26)。つまり,破壊することとしての学ぶこと,破壊することとしての見ることは,おのれの道を歩み直
すことである。そこでは古いおのれを破壊し,そして新たなおのれを作り続けていくという過程そ
のものが問題とされざるを得ない。学ぶこととしての見ることは自らを生成し続けることである。学ぶことは常に新たに青い鳥を目指しておのれを作り変えていくことである。そこでは,すべての存
在者は常に新たに捉え直され,新たな現れを持って現れてくる。青い鳥は捕まえたと思った瞬間,もはや青い鳥ではない。我々は常に青い鳥を追い求めていかなければならないのである。だが,そこ には常に変わらず留まるものがある。それこそが青い鳥である。既に明らかにしたように,青い鳥
は対象化したり,所有したりすることのできるものではない。青い鳥は捕まえたと思った瞬間に,別のところに移ってしまっている影のようなものである。常に我々の近くにありながら,決して所有 できないという意味では最も遠いものでもある。しかも,常に追い求めつつも,追いつくことので
きないものなのである。ハイデガーに「帰郷(Heimkunft)」27)という概念がある。人間は,故郷(Heimat)を忘却すべく運命 づけられている。故郷は常に「取り一返さ」れ続けられないかぎり忘却される。先程触れたように,
青い鳥を捕まえることによって人間がすべての存在者を統べるようになることがこの物語では語ら れているが,実は決してこの青い鳥は捕まることがない。したがって人間がすべての存在者の秘密 を握ることはあり得ないのであり,人間がすべての存在者を統べることもありえないのである。ハ
イデガーはこうした秘密に開かれながら,その秘密へと達しえない人間を「牧人(Hirt)」として位置づけている。人間は豊かさに開かれつつも,最終的な豊かさへと達しえないという意味では,本質 的に貧しきものなのである。だがこの貧しさは,所有によっては実現できない人間らしさを意味し
ているという意味では,真の豊かさである。帰郷という言葉からも理解できるように,あくまでも人間は当たり前の日常的世界のなかに「住む
(wohnen)」ことを求められているのである。チルチルとミチルも決して未知の見知らぬ土地を訪ねた
のではなく,よく親しんだ世界を旅して,そして出ていったのとまさに同じ家に帰ってきたのであ る。チルチルとミチルはまさに帰郷した。決して旅の出口は,新たな世界ではなかった。旅はどこ
か遠くへと行くことではなく,常に近さのうちで行われたのである。もう一度整理しておこう。見ることとしての学ぶことは,常におのれを破壊することを求める。し
かしそれは我々を根無し草にすることではなく,むしろ帰郷することなのである。おのれの家を出
発し,おのれの家へと帰ってくることによって,常に日常的世界の近くに住み続けることが学ぶこ
とである。そしてこうした旅をすることは,一定の固定化された場所にどっぶり漬かるという意味
で居場所を確保することはできないことを意味する。というよりも,そうした意味での居場所は旅
100 茨城大学教育学部教育研究紀要第26号(1994)
の否定であり,したがって学ぶことの否定であり,最終的には幸福の否定である。そこではせいぜ い日常の倦怠に抗して,似而非幸福である贅沢を「所有」することが追い求められ,どこか見知ら ぬ遠くに夢の青い鳥が追い求められるのみである。だが,旅することにおいて,おのれの居場所が まったく否定され,我々が根無し草の存在者となるということではない。我々は常に家へと目指し ているのである。青い鳥を追い求めているのである。したがって,追い求めていくかぎりにおいて
我々は居場所を持っているのである。だが,それは捕まえてしまえば,もはや青い鳥ではなくなる。つまりもはや我々は居場所を失い,不安の内へと陥れられる。したがってわれわれは常に新たに青 い鳥を求めていかなければならない。学び続けなければならないのである。我々には過程としての
居場所しか与えられていないのであり,我々には「帰郷」,「住むこと」として常に居場所を求めて いかなければならないのである。人間のみが本当の意味で住むことのできる存在者であると同時に,住むことを求められる存在者である。住むことが出来ないかぎり,人間は,居場所を失い,疎外さ れざるをえないからである。だが,人間が青い鳥を追い求めているかぎり,幸福でありうる。チル チルやミチルにとって戻ってきた故郷が綺麗に輝いていたように。だが,もしチルチルとミチルが
そこで留まってしまえば,再び故郷は輝きを失うはずである。5.おわりに
これまで,メーテルリンクのr青い鳥』を読み進めることによって,そのなかから学ぶことの本質 を捉え,また若干であったが,ハイデガーの思想との関連を述べてきた。もちろん,ここで述べて きたことが学ぶことのすべてを語り尽くしているということではない。しかし,忘れてはならない
学びの一面について少しなりとも触れることができたように思う。読み方によっては,光を教師になぞらえ,老婆を学びのきっかけとしての危機,そしてチルチルと
ミチルの旅を学びの過程としてとらえることもできるかもしれない。だが,学ぶということは教え る側にも常に生じていなければならないのであり,教師を光になぞらえることには無理があるかも しれない。また学びの旅が,老婆の娘のために旅に出る優しさをもっと同時に,老婆とチルチルと の対話として引用したように,見えているものに正直に向かおうとする素直さをもったチルチルと
ミチルによっておこなわれたことを忘れてはならないように思う。
注
1)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫:,1970), p.23.
2)フロムは『生きるということ』(紀伊国屋書店,1977)のなかで,「所有すること」と「あること」
を二つの生き方として提示し,前者の生き方を否定的に捉えている。
3)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫,1970), p.218.
4) ibid., p.152.
5) ibid., p.162.
6) ibid., p.171.
7)ハイデガーの言い方を借りれば,世界そのものでなく,世界像が問題となるということである。
8)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫,1970), p.82.
9)この点についてはハイデガーが次から次へと存在者のあいだを移り行く好奇心を非本来的な人
間の在り方,即ち頽落と捉えていることと重ねて捉えてみると興味深い。10)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫,1970), pp.27 一28.
11) ibid., p.22.
12) ibid., p239.
13) ibid., p.239.
i4) ibid., p.244.
15) ibid., p.115.
16) ibid., p52.
17)ibid., p.106,括弧内引用者。
18)ここではハイデガーの真理観が想起される。詳しくは述べられないが,ハイデガーにとって存 在者の真理よりも根源的なのはその存在者を捉える側の真理,つまり実存の真理である。詳しく
は拙論「他者理解に関わる研究者の存在の研究における意味」,r東京大学教育学部紀要』第30巻,1990,PP.199−208,参照。
19)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫,1970), pp.227 一 228.
20) ibid., p.240.
21)ibid., p.240,括弧内引用者。
22) ibid., p.240.
23)突拍子もない例になるが,例えば,精神分裂病者にとって世界が私たちとはまったく異なって見 えることの一つの理由として,彼らが私たちのもつ自明性を失ってしまっていることがあるという ブランケンブルクの指摘は興味深い。なお,幸福を見方や見方に伴う気分に帰着させることは,対 象への批判可能性,強いては社会への批判可能性を奪うことになるという指摘がありうる。この点 については機会を改めて考えてみたい。
24)メーテルリンク,若月紫蘭訳,r青い鳥(改版)』,(岩波少年文庫,1970), pp.178−179.
25) ibid., p.205.