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上井喜彦の労働問題研究 ─上井喜彦『労働組合の職場規制』再読─

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(1)

1 はじめに

 上井喜彦の主著は上井[1994]『労働組合の職 場規制─日本自動車産業の事例研究─』(以下,

上井『職場規制』と表記する)である。上井は,

その「あとがき」において,自身の研究軌跡を簡 潔に記している。

 「本書は,私が大学院博士課程在学途中から開 始した日本自動車産業の労使関係と労働組合に関 する研究の成果を,ひとまずとりまとめたもので ある。そもそも私がこの研究に手を染めるように なったのは,次のような契機からである。もとも と私は日本労働政策史研究を志して大学院に進学 したのであるが,政策史の分析方法上の難問に直 面し,極度の混迷状況に陥った。時あたかも組織 された労使関係調査会に参加するよう勧誘され,

いわば一杯の水を求める心境から,自動車産業の 労使関係調査に入っていったのである。このよう に一時的な緊急避難の心積りで始めた研究であっ たが,いつしか17年が経過した。」(上井[1994]

249)

 この文章は,若き日の上井を知る者にとって は,上井の痛切な気持ちを伝えている。しかし事 情を知らない者は,軽く読みすごしてしまうであ ろう。しかしこの文章は,軽く読みすごされては ならない。本稿は,この文章の労働問題研究史に おける意味を検討する。

2 .  上井の大学院進学

 上井は,1972年4月に「日本労働政策史研究を 志して大学院に進学した」。上井が東京大学大学 院経済学研究科(東大経済大学院)修士課程に進 学した時,東大経済大学院は,制度的に,他大学 の経済大学院や,東大大学院の他の研究科とは大 きく異なっていた。上井が「極度の混迷状況に 陥った」にもかかわらず,その後,研究者として の道を歩むことができたのは,東大経済大学院の 独自な制度のおかげでもある。

2.1  独自な大学院

 東大経済大学院の独自な制度は,1968年の東大 闘争の後で,経済大学院自治会と研究科当局との 間で成立した次のような合意にもとづいていた。

 (1)指導教官制の廃止。それまでの東大経済大 学院は指導教官制をとっていた。指導教官と院生 との関係は,いわゆる師弟関係であった。師弟関 係は,良い意味でも悪い意味でも濃密な人間関係 であった。東大闘争においては,悪い意味での濃 密な人間関係が激しく非難された。その結果,指 導教官制は廃止された。指導教官制の廃止によっ て,教官と院生との関係は,基本的には授業時間 中の関係だけになった。もちろん,授業時間以外 にも院生が教官の研究室に出入りすることはあっ た。しかしそれはプライベートな自発的関係で あった。指導教官制の廃止によって,院生は教官 の指示に従う義務がなくなり,また,教官は,院 生の論文作成や就職斡旋の責任から解放された。

上井喜彦の労働問題研究

─上井喜彦『労働組合の職場規制』再読─

野 村 正 實

《特 集》

(2)

さらに,指導教官制のもとでは,院生が専攻分野 を変更したり指導教官を変更することはかなり困 難であった。指導教官制の廃止によって,だれに も教えを請わないことも含めて,院生がだれに教 えを請うのか,まったく自由となった。

 (2)修士課程博士課程の5年一貫制。それま での経済大学院では,修士課程2年の終りに修士 論文を提出する義務があった。修士論文は,高い 完成度が求められ,審査は厳しかった。すぐれた 修士論文を提出した者のみが,博士課程への進学 を許された。しかし新しい5年一貫制のもとで,

修士課程に入学したものは全員,希望すれば,博 士課程に進学できるようになった。修士論文は まったく形式的なものとなり,修士論文の枚数や 水準に関係なく,修士論文と称するものを提出し さえすれば,それは無条件で,博士課程への進学 要件を満たす「論文」とされた。5年間の在学中 に論文を書くかどうかは,院生次第であり,制度 的にはなんの強制もなかった。

 (3)自主研究の単位化。修士課程修了,博士 課程修了に必要な単位数は東大闘争以前と同じで あった。しかし,複数の院生が院生だけの研究会 を組織し,それを「自主研究」として研究科に届 け出れば,ある単位数までは自動的に正式の単位 として認定された。研究会の内容についてチェッ クされることはなかった。自主研究の単位化に よって,教官のおこなう授業に出席する義務は大 幅に減少した。

 要するに東大経済大学院では,指導教官による 指導・締めつけがなくなり,院生の自主性がほぼ 全面的に認められるようになった。そのことは院 生にとってプラス面とマイナス面があった。プラ ス面はもちろん,院生が教官の意向とは関係な く,自分で研究テーマを決め,個人責任で論文を 執筆できるようになったことである。マイナス面 は,こうした体制の下で大学院からドロップアウ トする者がかなり出るようになったことである。

私の学年では,修士課程に入学したものは42名 であった。その当時の考えでは,現在とは違っ て,経済大学院の修士課程に入学した者ほぼ全員 が研究者になるものと思われていた。しかし私の

学年で実際に研究者となったものは,入学者のほ ぼ半数にとどまった。残りの半数は,いつしか大 学院に顔を出さなくなり,研究者にならなかった。

2.2  大学院に進学した当時の上井喜彦

 私が上井と知り合ったのは,上井が大学院に進 学してきた1972年の春である。その時,私は修 士課程2年生(M2)であった。

 相手の名前をどのような敬称で呼ぶのかという 問題は,日本社会ではなかなか微妙な問題であ る。私の院生時代,私より年配の人たち(教官や 上級生)は,私たちを「野村君」のように,「ク ン」づけで呼んでいた。ところが私たちの学年 は,上級生にはだいたい「さん」づけで呼び,同 級生と下級生は呼び捨てにしていた。知り合った 時に,私はM2,上井はM1だったので,その慣 行にもとづいて,私は上井を「上井」と呼び捨て にした。ところが上井は上井で,当然のように,

私を「野村」と呼び捨てにした。上井が私を呼び 捨てにしたのには,理由があった。

 一つは年齢である。上井は1947年生まれ,私 は1948年の早生まれなので,小学生や中学生の 時には上井と私は同学年だったことになる。上井 は大学院に進学する前に,学部で留年していた。

上井の学部時代に東大闘争があり,留年はべつに めずらしいことでもなかった。学部の時の同級生 で留年することなく大学院に進学してM2になっ ている者も多数おり,上井がM2の院生を「さん」

づけで呼ぶ気がしないのも当然であった。しかし 上井が私を呼び捨てにしたのは,年齢が主たる理 由ではなかった。上井は,相手によっては,同年 齢のM2の院生でも「クン」づけで呼んでいた。

 上井と私との関係において決定的であったの は,貫禄というべきか,研究力量というべきか,

要するに実力の違いであった。上井は,大学院に 進学してきた時点ですでに,明確な研究テーマと 分析方法をもった一人前の若手研究者であった。

私はといえば,M2でありながら,海の物とも山 の物ともつかない一院生にすぎなかった。

 M2の私が研究テーマを持ちえていなかったの は,研究分野を変更しようと考えていたからであ

(3)

る。私は横浜国立大学で肥前榮一ゼミに所属し,

大学院には西洋経済史専攻ということで入学し た。大学院では大塚史学の方法で論文を書こうと 思っていた。しかし同時に,大塚史学に対するい くつかの疑問もあった。最大の疑問は,なぜ大塚 史学は説教調になるのか,という問題であった。

私は人から説教されることも,人に説教すること も好きではない。それだけに大塚史学の説教調に 私はなじめなかった。

 M1を終わる頃,この疑問に対する私なりの答 えを出した。封建制から資本主義への移行期にお いて,社会の課題は近代社会をいかにして成立さ せるかにあった。その課題の担い手は,中産的生 産者層であった。つまり課題と,その課題を解決 すべき主体が存在した。それでは現代日本の課題 と主体はどのように設定されるのか。現代日本に おいて市民社会の確立が依然として課題となって いるとしよう。その課題を解決すべき主体はどの ような社会層なのであろうか。中産的生産者層が 担い手とならないことははっきりしている。それ ならばどの社会層が担い手なのであろうか。大塚 史学は現代日本における担い手を明言しなかっ た。市民社会の確立という課題は存在する。しか し,課題を解決すべき担い手はわからない。その ため,大塚史学を信じる研究者が民衆に向かっ て,市民社会を作り上げよ,と説教せざるをえな くなった。大塚史学が説教調になってしまったの は,そのためである。これが私の出した答えで あった。私は,大塚史学に依拠して論文を書くこ とはできない,と思うようになった。

 私にとって新しい研究分野として,労働問題研 究が面白そうだと思えてきた。しかし私は労働問 題研究についてほとんど知らなかった。M1を終 る頃になって新しい専攻分野に方向転換すること は,論文執筆や就職にとってリスクが大きすぎる のではないか,と考え,ためらっていた。

 そのようなときに,上井が大学院に進学してき た。上井は中西洋ゼミ出身で,学部から労働問題 研究一筋であった。労働問題研究の基礎的なこと を身につけていただけではなく,すでに明確な研 究テーマを持っており,自分の論文を書こうとし

ていた。研究テーマは日本の労働政策史,具体的 には1900年治安警察法の解釈適用にかんする分 析であった。上井が,上井『職場規制』の「あと がき」で,「もともと私は日本労働政策史研究を 志して大学院に進学した」と記しているのは,こ のことを指している。

 上井は,労働問題研究のいわば先輩として,労 働問題研究に方向転換すべきだと私に助言した。

上井はさらに,私の背中を押すように,「労働問 題研究会」に私を参加させた。社会科学研究所で 月一回の頻度で開かれていた労働問題研究会は,

第一線で活躍していた研究者を組織していた。私 はこの研究会で多くを学ぶことになる。研究会の 雰囲気も,西洋経済史の研究会とは大きく異なり,

じつに自由闊達で,居心地がよかった。私は労働 問題研究に方向転回することを決めた。

3   中西洋の「政策論的分析方法」

 上井は,なぜ「日本労働政策史研究を志して大 学院に進学した」のであろうか。それは,研究面 においてもパーソナリティの面においても強烈な 存在であった学部ゼミ指導教官の中西洋さんに,

優等生的に早熟であった上井が反応した結果で あった。中西国家論・政策論の正しさを確信した 上井は,中西国家論・政策論にもとづく日本資本 主義論を展開しようと大学院進学を選んだ。

 中西さんは早くから「政策論的分析方法」を考 えついていた。中西さんが最初に自分の考えを表 明したのは,大河内一男還暦記念論文集において であった(中西[1966])。中西さんは,1971年か ら,のちに中西[1979]『日本における「社会政 策」・「労働問題」研究―資本主義国家と労資関係

―』としてまとめられることになる一連の論文を 発表しはじめた。一連の論文は,それまでの「社 会政策」・「労働問題」研究史を厳しく批判し,研 究史を総括すると,大河内一男還暦記念論文集に おいて中西が提唱した「政策論的分析方法」の正 しさが立証される,という内容であった。

 中西さんは,「政策論的分析方法」を,次のよ うに要約した。今日では「政策論的分析方法」が

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引用されることがないので,上井を魅了した「政 策論的分析方法」がどのようなものかを示すため に,長くなるが引用しておく(中西[1971]86-87,

引用文中の頁数は中西[1966]の頁数である)。

第一主題─資本主義国家の発見。その原理的規定。

 資本主義国家は,「国家一般として資本主義経 済にとっても前提されているという如きものでは ない。まさに資本主義経済こそが,国家を 近代 国家 として,─ 「労働力商品市場維持政策」の 主体として─はじめて創出することになるのであ る。」換言すれば,「 ブルジョア国家 が国家の 一形態として…立ち現われるということは,…私 有財産制を保証することによって,たんに商品生 産者の相互関係を安定させ,経済社会の外枠をか ためるという如きことではない。経済社会の根幹 をなす労働力の商品化を強制するものとして,即 ち一方では,その商品化の拒否を制するムチを もって,他方ではその商品性の質的・量的保全を 配慮するというアメをもって─この二面の強制を もって,労働力の商品化を保証せねばならない機 関として,自らを定立するということに根拠を有 するのである。」〔145頁〕

第2主題─資本主義国家の叙述。その歴史的分析      方法。

 かかる「政策主体としての現実の国家にせまろ うとするわれわれにとって…問題は次の二段を構 成している。

(1)特定の国家が現に打ち出している「規範」

   あるいは「理念」の発見,整序。」─それ    を通しての資本主義国家〔したがってまた    資本主義社会〕の動態の段階的規定。

(2)かくて発見された 理念 が,その実現を    保証さるべき強制機構…の具体的形態の究    明。」

 この場合「 理念 そのものの検討」こそが「第 一の問題でなければならない。」それは「 理念

…の形態を要請した根拠=ブルジョア社会の経済 的運動に対する 理念 の反作用」の分析─いわ ゆる「「社会政策」(=労働政策)を基準とした

「経済政策」の分析」を通してのみなしうる。そ

の具体化の方法は,すでに第一主題において論理 的に明らかにされたところの,資本主義国家に よって「 想わるべき 理念」=「労働力商品市場 の確立・維持」という「基準」をもって,「現実 の主体によって」「主観的に想われているところ のものをその究極の原理に照して整序して示し,

それが特定の具体的手段と結合する過程を吟味 し,更にその行為の結果を主観的に想われていた ものの実現の程度と,想わざる結果の派生という 観点から確定する」〔159-160,143頁〕というこ とでなければならない。

4 . 「政策論的分析方法」と上井  

 学部学生であった上井は,中西論文を読んで,

「政策論的分析方法」こそが唯一の正しい社会科 学の方法だと確信した。学部学生がゼミ指導教官 から大きな影響を受けることはごく普通のことで ある。しかし中西・上井関係は,ゼミ生が指導教 官の影響を受けるというありふれた関係ではな かった。中西さんにとって上井は,中西さんのい わば分身になるはずであった。

 中西さんは「政策論的分析方法」と並んで「経 営史的分析方法」を提唱していた。そして経営史 的分析方法については中西さん自身が長崎造船所 を経営史的分析方法で分析し,その有効性を示し た(中西[1969a/1969b/1969c])。しかし中西さ んは,「政策論的分析方法」を自ら用いて歴史過 程や現状を分析しようとはしなかった。「政策論的 分析方法」の有効性を立証する任務は,上井に託 された。中西さんが,経営史的分析方法について は自らその有効性を立証しながら,なぜ政策論的 分析方法については自分でその有効性を立証する 作業をおこなわなかったのか,私にはわからな い。しかし,上井にその任務を託した理由は容易 に推測できる。上井は優等生的に早熟であり,難 解な中西説を素直に,かつ完璧に理解したからで ある。上井は,大学院に進学してきた時点ですで に,中西さんの代理として,「政策論的分析方法」

が実証研究に有効であることを立証する任務を帯 びていた。

(5)

5 .  上井の論文執筆

5.1   隅谷還暦記念論文集

 ある日,上井が,論文の発表場所が決まった,

と私に言った。1977年に隅谷三喜男さんが定年退 官となるので,記念論文集を準備することになっ た,そのうちの一冊が日本労使関係史をテーマと するものとなる,そこに論文を発表する,という ことであった。その論文集に寄稿するのは,中西 さんをはじめ全員が上井の先生筋にあたる人たち であった。そういう人たちと並んで,大学院生の 上井が研究者デビュー論文を発表する,というの である。

 指導教官制が廃止された経済大学院において は,最初の活字論文をどこに発表するのかは,院 生の悩みの種であった。ところが上井の場合に は,論文をまとめる前に,晴れがましい発表場所 が用意された。それを聞いた時に私は,上井の実 力を以てすれば当然の成り行きだ,と思っただけ であった。しかしそういう感想は素朴すぎた。

 上井が隅谷記念論文集に寄稿することになった のは,中西さんの推挙によるものであった。中西 さんが上井を高く評価していたことは,明らかで ある。しかし中西さんが上井を隅谷記念論文集の 執筆者の一人に加えたのは,それだけの理由では なかった。

 日本労使関係史をテーマとする隅谷記念論文集 は,隅谷三喜男編[1977]『日本労使関係史論』

として刊行された。この本の「あとがき」に「世 話人」の中西・兵藤の連名で,次のように記され ている。

 「私たちのねらいは,一般的な体裁のよい通史を めざすのではなく,手わけをして,まず肝心かな めの場所に日本資本主義の岩盤にまで達する確か な手応えのあるクイを打ち込んでみたい,という にあった。だが正直のところ,この仕事はそう生 やさしいものではなかった。とくに,参加メン バーのうちから,急拠長期の海外出張に出なけれ ばならなくなったり健康を害ったりして,成果の 最終的なとりまとめを断念しなければならなく

なったものが出たことは痛手であった。当初立て た計画のうち,「第一次大戦後の労働政策」,第二 次大戦下の「戦時労働政策」および「産業報国会 運動」の部分は,さしあたりブランクのままに止 めねばならなかった。」(隅谷編[1977]309-10)

 この「あとがき」,公刊された隅谷記念論文集 の編別構成,それにその当時に私が聞いていたこ とをまとめると,最初の計画どおりに出版されて いたならば,隅谷記念論文集は次のような編別構 成になるはずであった。

第1章 工場法体制と労使関係  隅谷三喜男 第2章 第一次大戦前後の労資関係  中西 洋

(第3章 第一次大戦後の労働政策 上井喜彦)

第4章 昭和恐慌下の争議  兵藤 

(第5章 戦時労働政策  氏原正治郎)

(第6章 産業報国会運動  二村一夫)

第7章 日本帝国主義の崩壊と「移入朝鮮人」労     働者  戸塚秀夫

第8章 戦後労働組合の出発点  山本 潔

 以上の編別構成において,括弧でくくった章 は,実際には執筆されなかった章である。

 中西さんは,この隅谷記念論文集において,

「政策論的分析方法」にもとづく時期区分を披露 している。わずか数行のラフ・スケッチである。

「第一次大戦を単に 一つの結節点 と規定する のみでは,勿論不充分である。それが,総体とし ての日本資本主義発達史のどのような発展段階に 位置するものであるのかが確定されていなければ ならない。これを問うには,〈個別的・部分的な 労資関係〉を扱う際のミクロ的・動学的観点を超 えたマクロな観点,即ち日本資本主義を一つの社 会体制として把握しうる視角が必要とされる。そ うしたものとして,筆者は〈国家の労働政策〉を 指標としたいわゆる比較静学的な画期を主張する のであるが,この観点から概括するなら,われわ れの対象(「第一次大戦前後の労資関係」を指す

─野村)は,1900〔明治33〕年治安警察法制定 と,1926〔大正15〕年同法第17条廃止,労働組 合法案流産・労働争議調停法制定の二時点によっ

(6)

て画期される日本資本主義〈確立期〉の中枢部分 を形成するものと位置づけうる。」(中西[1977]42)

 この引用文が語っていることをわかりやすくパ ラフレーズすると,(1)「〈個別的・部分的な労資 関係〉を扱う際のミクロ的・動学的観点」にもと づく論文は中西自身が「第2章 第一次大戦前後 の労資関係―三菱神戸造船所の争議史を中心とし て―」として発表する,(2)「〈国家の労働政策〉

を指標としたいわゆる比較静学的な画期」につい ては,上井が「第3章 第一次大戦後の労働政策」

として発表する,ということである。中西プラン にしたがえば,「日本資本主義〈確立期〉の中枢 部分」は,第2章中西論文と第3章上井論文によっ てミクロ的・マクロ的に明らかにされるはずで あった。そしてそれとともに,中西さんが提唱し ている二つの方法─経営史的分析方法と政策論的 分析方法─の有効性が立証されるはずであった。

つまり第2章中西論文と第3章上井論文はペアに なっていた。

5.2  論文執筆直前の上井

 上井は,1900年治安警察法17条の意義,治警 法17条の解釈適用問題,争議調停法の意義につ いて,何度か私に語った。語り口はなめらかで,

そのまま文章化するだけで論文は完成するだろ う,と思われた。

 私は中西国家論・政策論とは距離を置いてい た。正確には,敬して之を遠ざく,という態度で 臨んでいた。中西さんは,研究史を鋭く批判し,

研究史のなかから最良の部分を集めて創造的に再 構成すると中西国家論・政策論になる,と主張し た。私は,研究史批判は鋭く問題点を突いている,

と思った。しかし同時に,研究史批判の正しさ は,中西国家論・政策論の正しさを保証するもの ではない,とも考えていた。

 私にとって中西国家論・政策論の最大の問題 は,中西国家論・政策論には実証手続きとの接点 がない,ということにあった。実利的にいってし まえば,私がおこなおうとしていた実証研究に

「使えない」と私は判断した。私は戸塚秀夫さん が提唱しはじめていた労働問題研究方法が「使え

る」と考え,それにもとづく論文執筆をはじめた。

戸塚さんが提唱していた労働問題研究方法は,少 しのちに,戸塚秀夫 / 徳永重良[1977]「課題と方 法」として文章化された。

 私の実証研究は,野村[1980]『ドイツ労資関係 史論』として出版された。私はこの本を学位請求 論文として提出した。審査委員長は中西さんで あった。口頭試問の冒頭,中西さんは,「あなた は労資関係の方法をまったく理解していない」と 言った。中西さんのいう「労資関係の方法」とは,

もちろん,中西さんの政策論的分析方法と経営史 的分析方法のことである。私は,中西労資関係論 を理解していないわけではありません,使ってい ないのです,と答えようとしたが,その機会はな かった。審査委員の一人であった加藤栄一さん が,おかしいのは中西君の労資関係論だ,と言い だし,中西さんと加藤さんの論争になってしまっ た。審査されているはずの私は完全に無視された。

 一方で私は,中西国家論・政策論は「使えな い」と判断していた。しかし他方,中西国家論・

政策論にもとづいて治警法や争議調停法を論じる 上井の議論を説得的だと思っていた。この食い違 いを,私は深く考えることはなかった。たんに,

労資関係の実態分析には中西国家論・政策論は使 えないが,治警法や争議調停法の分析には有効な のだろう,という程度にしか考えていなかった。

そのため,上井の議論の問題点に気づかなかった。

 上井が中西国家論・政策論を受け入れ,私が距 離を置いた最大の理由は,上井と私の資質の違い であった。私は学部学生のころから,タダモノ論 者と言われてきた。ただし,経済決定論という意 味 で の タ ダ モ ノ 論 者 と い う の で は な い。私 は ウェーバーの影響を受けており,変革期において は思想が転轍手となる,と考えていた。私は理論 のための理論に関心がなかった。理論を理論とし て論じる能力が乏しいのであろう。具体性と結び ついた理論には関心があった。私と違って上井 は,当時の学生用語でいう「スコラ」をいとわな かった。おまけに上井は優等生的性格であった。

中西国家論・政策論を受容するのにぴったりの資 質と性格であった。

(7)

5.3  論文執筆開始と混迷

 上井は論文を執筆しはじめた。上井が論文をま とめることは簡単だろう,と私は思っていた。上 井の話を聞く限り,論文内容はもう完成してい た。あとは文章化するだけだった。ところが,上 井の論文執筆は,遅々として進まなかった。上井 は,なかなか書けない,と弱気な気持ちを口にし はじめた。私はその言葉を深刻には受け取らな かった。私も最初の活字論文を執筆したとき,筆 が進まなかったからである。

 私がはじめて活字論文を書いた1970年代の中 ごろ,まだワープロやパソコンがなく,400字詰 め原稿用紙に手書きで書いていた。自分が書いて いる論文を批評家の目で見ると,内容希薄の論文 を書いていると思わざるをえなかった。こんな程 度の論文しか書くことができないのか,とみじめ な気持になった。原稿用紙に記された自分の下手 な字が,みじめさを増幅した。筆がなかなか進ま ない,と上井が言った時,上井も最初の活字論文 の執筆にさいしては,私ほどではないにしても,

多少の自己嫌悪を感じるのだろう,と軽く考え た。

 しかし次第に,上井の様子が普通でなくなって いった。顔色から生気がなくなり,しゃべらなく なった。大学院に顔を出すことも少なくなった。

心配になり,上井の下宿に行ってみた。書きちら された原稿が散乱していた。それらを拾い集めて 読んでみると,以前から上井が私に語っていた論 文の内容通りであった。文章にもおかしなところ はほとんどなかった。なんだ,ちゃんと論文が書 けているではないか,このままいけば論文は完成 するであろう,と思った。様子はたしかに変では あるが,論文はまっとうに書けているので問題は ないだろう,と私は判断した。

 しかし私の予想は見事に外れ,上井の論文執筆 は完全に行き詰まった。原稿用紙に文章を書き,

次にその原稿用紙を破る,また文章を書いて,ま た破る,ということを繰り返すようになった。原 稿用紙に文章を書くといっても,ほぼ同じ文章を 何度も何度も書いているだけであった。ついに上 井は,隅谷記念論文集への寄稿を断念した。

 なぜ上井は論文が書けないのか,その理由を当 時の私は,隅谷記念論文集への予定執筆者が隅 谷,氏原,二村,中西,戸塚,兵藤,山本である ことが上井にとって大きなプレッシャーになって いるのではないか,と推測した。いかに早熟とは いえ,院生が自分の先生筋にあたるこれらの人々 と肩を並べるような論文を,しかも最初の活字論 文を執筆することは,心理的に容易ではないはず であった。そのプレッシャーに負けてしまったの ではないか,と私は推測した。

 上井はプレッシャーに負けた,という私の推測 は,間違いではないであろう。上井は,隅谷記念 論文集に寄稿すること断念してから数年後,隅谷 記念論文集に寄稿するはずであった論文を,上井

[1979a]「第一次大戦直後の労働政策」および上井

[1979b]「第一次大戦後の労働政策」という2本 の論文として発表したからである。隅谷記念論文 集に寄稿するというプレッシャーから解放された から論文を取りまとめることができた,という解 釈は十分に成立する。

 しかし,プレッシャーに負けたという外面的な 理由は,上井が隅谷記念論文集に寄稿できなかっ た理由の一部にすぎない。主たる理由は研究内在 的なものであった。事実,上井は上井『職場規制』

の「あとがき」において,「政策史の分析方法上 の難問に直面し,極度の混迷状況に陥った」と記 している。

 なぜ論文が書けないのか,上井は一言も説明し なかった。質問しても,上井は答えなかった。「政 策史の分析方法上の難問」の内容について,結 局,上井はなにも書かなかったし,語ることもな かった。

5.4  「政策史の分析方法上の難問」

 上井はなにも語らなかったが,最終的に上井は 中西国家論・政策論を放棄した。そのことは,上 井が書いた2本の論文を読めばはっきりする。

 2本の論文タイトルは,「第一次大戦直後の労 働政策─治警法17条の解釈・適用問題を中心と して―」「第一次大戦後の労働政策─1926年労資 関係法をめぐって─」である。上井は,あきらか

(8)

に中西さんが主張する時期区分にもとづいてこの テーマを選んでいる。しかし上井は,そのテーマ について分析するときに,政策論的分析方法を用 いなかった。そのことは,中西論文への言及の仕 方によく表れている。論文「第一次大戦直後の労 働政策」において中西論文に言及しているのは,

イギリスの主従法の理解(上井[1979a]156),第 一次大戦前後の労資関係の理解(上井[1979a]

160,178)についてであり,政策論的分析方法に ついてはなにも触れていない。もうひとつの論文

「第一次大戦後の労働政策」においては,中西論 文への言及はない。

 中西政策論的分析方法は,きわめて抽象度の高 いものであった。それだけに,政策論的分析方法 を実証研究に使おうとすると,いくつかの問題が 生じる。

 第一に,政策論的分析方法は単独で使ってよい のであろうか。中西方法論によれば,分析方法は 政策論的分析方法だけでなく,経営史的分析方法 もある。この二つの分析方法はどのように関係し ているのであろうか。中西方法論によれば,経営 史的分析方法は「個別的・部分的な労資関係」を 分析し,政策論的分析方法は「日本資本主義を一 つの社会体制として把握しうる視角」である。抽 象的な言葉としてはこれで充分であろうが,具体 的な分析においては,このような説明で済むわけ ではない。

 中西さんは,経営史的分析方法と政策論的分析 方法の予定調和的な一致を信じていたと思われ る。しかし,個別経営における出来事が,その経 営体がいかに日本資本主義にとって重要な経営体 であっても,国家の労働政策と一義的に照応して いるわけではない。実際,中西[1982/1983/2003]

『日本近代化の基礎過程』は,経営史的分析方法 と政策論的分析方法を統一的に適用にしようとい う意図で執筆が開始された。しかし,最終的には 政策論的分析方法を放棄し,経営史的分析方法の みで叙述が終わっている(野村[2005])。経営史 的分析方法と政策論的分析方法の連関は,中西さ んによって明らかにされていない。

 第二に,中西政策論的分析方法によれば,はじ

めに「特定の国家が現に打ち出している「規範」

あるいは「理念」の発見,整序」をおこなわなけ ればならない。そのさい,立法過程は無視してか まわない。「第1次的に重要なのは《法》の制定過 程でも,またその機能でもなく,《法》そのもので ある」(中西[1979]413)からである。「労働政策」

は「資 本 主 義 的 階 級 関 係 の 自 己 総 括」(中 西

[1979]412)であり,「労働政策」は「客体的な

《法》の姿をとってあらわれる」(中西[1979]413)

はずである。

 このような「法」のとらえ方は,ヘーゲルの理 性的国家観にもとづいている。しかし,ヘーゲル 的な理性的国家論は,現実の国家の行動を説明し えない。ヘーゲル的国家と現実の国家は,異なる 次元にある。

 一般に,重要な法案が成立するまでには,政府 内のセクション間の対立があり,政府案がまと まった後でも議会における駆け引きがあり,よう やく成文法として成立する。政府内の各セクショ ンにはそれぞれ法案について理念があったとして も,制定過程において対立・駆け引き・妥協がお こなわれ,成立した法律に理念があるかどうかき わめて疑わしい場合もある。「労働政策」に限定 しても,制定された法律すべてについて「特定の 国家が現に打ち出している「規範」あるいは「理 念」の発見,整序」をおこなうことは,現実には 無理である。

 第三に,政策論的分析方法は,法律の解釈・実 施の問題をどのように考えるのであろうか。

「(1)特定の国家が現に打ち出している「規範」 

     あるいは「理念」の発見,整序

(2)かくて発見された 理念 が,その実現を      保証さるべき強制機構〔即ちいわゆる立法,

     行政,司法の諸機構〕の具体的形態の究明」

     (中西洋[1966]159)

 こうした考えによれば,法解釈・実施は「強制 機構〔即ちいわゆる立法,行政,司法の諸機構〕

の具体的形態」になるのであろう。しかし,司法 や行政が法の解釈・実施によって,「理念」の「実 現を保証」するとは限らない。たとえ法の「理念」

が明確になったとしても,法解釈・実施は「理念」

(9)

とは別に,それ自体で検討さるべき課題である。

 中西政策論的分析方法は抽象度が高いため,実 証への適用にかんしては以上のほかにも問題が生 じるであろう。上井は上井[1979a]と上井[1979b]

において法解釈・実施の実態と立法過程を論じて いるので,上井が直面した「政策史の分析方法上 の難問」は,法解釈・実施の実態と立法過程の評 価にあったと思われる。しかし,上井が直面した

「政策史の分析方法上の難問」が何であったのか については,上井の説明を待つ以外にない。

5.5  「極度の混迷状況」の研究史的意義

 上井の挫折は,中西政策論的分析方法の挫折で あった。上井は,高い代償を支払って,政策論的 分析方法は実証研究に適用できないことを立証し た。

 中西さんは,上井の「極度の混迷状況」を見て,

政策論的分析方法の欠陥に気づいたと思われる。

そう判断する根拠は,中西さんが自分で政策論的 分析方法にもとづく実証分析をおこなわなかった という事実である。中西さんは,経営史的分析方 法については,長崎造船所の分析(中西[1982/

1983/2003])によってその有効性を自ら立証した。

政策論的分析方法については,上井が挫折したの であるから,中西さん自らが政策論的分析方法の 有効性を立証する必要があったはずである。しか し中西さんは,今日にいたるまで,その作業をお こなっていない。

 上井が学部学生・大学院生であったときに発表 された一連の中西論文は,学界に波紋を投じた。

とりわけ大学院生に大きな影響を与えた。上井と 同じ年齢の森建資による中西[1979]『日本にお ける「社会政策」・「労働問題」研究』の書評は,

次のような文章ではじまる。

「本書に結実することになる,一連の論考が発表 された時,それが経済学の一分野の研究史の総括 の企てであるばかりか,政策論の復位をもって,

社会科学の再創造をめざすものであることが明ら かであった。その衝撃力の大きさにもかかわら ず,この作品が受けるべき反応はすぐにはもたら されなかった。本書は,新しい学の出発ふさわし

く,独特の構成をもち,首尾一貫した明快な論理 から成り立っている。それはまた批判の書であ り,論点を政策論へとまとめ,そこから近代社会 における経済と法の立体構造を浮び上がらせて,

資本主義国家論の提唱ヘと進む主題は,実証へと 埋もれていった労働問題研究,そしてその理論的 空白に持ち込まれた経済学原理論,への批判とし てでてきたのである。」(森[1980]120)

 上井がはじめて中西国家論・政策論に接したと き,まちがいなく,ここで森が記しているような 感想をいだいたはずである。上井は中西国家論・

政策論に魅せられた。それから森建資や遠藤公嗣 などが続いた。上井は挫折した。森と遠藤は,そ れぞれに中西国家論・政策論の難点に苦しみなが ら自分なりの「解決」を模索した(森[1988],遠 藤[1989])。しかしその点を論じることは,本稿 の範囲を超えている。

 上井を知る者たちにとって,上井の苦しむ様子 があまりにも悲惨であったために,それ以後,こ の時期の上井について語ることは,タブーとなっ た。今回,私があえてこの時期の上井について記 しているのは,それが労働研究史上にとって意味 のある「事件」であり,書きとめておかなければ ならないと考えたからである。研究の挫折という きわめて高い代償を支払って,上井は,中西国家 論・政策論の限界を立証したのである。

 以上において,上井『職場規制』の「あとがき」

の前半部分「もともと私は日本労働政策史研究を 志して大学院に進学したのであるが,政策史の分 析方法上の難問に直面し,極度の混迷状況に陥っ た」という文章が何を語っているのかが明らかに なったであろう。次に「あとがき」の後半部分,

「時あたかも組織された労使関係調査会に参加す るよう勧誘され,いわば一杯の水を求める心境か ら,自動車産業の労使関係調査に入っていったの である。このように一時的な緊急避難の心積りで 始めた研究であったが,いつしか17年が経過し た」,に移ろう。

(10)

6 .  上井の自動車産業研究

6.1   自動車産業研究への転進

 上井は自動車産業研究に転進し,挫折から立ち 直った。立ち直りが可能であったのは,上井のも ともとの実力と東大経済大学院の制度のおかげで ある。修士課程博士課程の5年一貫制のおかげで,

修士論文を書くことなく博士課程に進学できた。

また,指導教官制が廃止されていたことによって,

問題なく研究テーマの変更ができた。

 上井は学部学生の時に中西ゼミだったので,も し指導教官制が存続していたならば,上井は間違 いなく大学院で中西さんを指導教官にしていたは ずである。中西さんは,いわゆる東大社研調査は 次第に退化していった,と考えていた。「実践と の緊張関係が弛緩してきている」ために「全体理 論の不明確化」が進行した。問題関心の低下が

「認識対象の恣意化」につながり,そのために

「外部からの要請を充分批判的に吟味しえない 調査請負機関 に転落する危険をはらむように なっていった」,というのである(中西[1979]

485-87)。中西さんは上井に,実態調査には参加 するな,とはっきり言っていた。指導教官制が存 続していたならば,上井が自動車産業の実態調査 に転進することは,簡単ではなかったはずである。

上井の実態調査への転進といい,私の労働問題研 究への方向転換といい,経済大学院の新しい制度 は,ありがたいものであった。

 上井『職場規制』の「あとがき」の「時あたか も組織された労使関係調査会に参加するよう勧誘 され,いわば一杯の水を求める心境から,自動車 産業の労使関係調査に入っていったのである。こ のように一時的な緊急避難の心積りで始めた研究 であったが,いつしか17年が経過した」という 文章は,もちろん間違ってはいないが,誤解を生 みやすい。上井は,自動車産業の労使関係調査を はじめてから17年経過して上井『職場規制』を 出版した。引用文を素直に理解すると,あたかも

「労使関係調査会」に参加してそのまま 17年が 経過したかのように見える。しかし,17年間の研

究は,三つのコンポーネントから構成されていた。

 一つは,引用文にふれられている「労使関係調 査会」での日産調査である。二つ目は,「国内労 使関係調査会」でのトヨタ・日産調査である。そ して三つ目は,上井の個人研究による日産争議研 究である。労使関係調査会と国内労使関係調査会 は,名称としてはきわめてまぎらわしいが,まっ たく別個の研究プロジェクトであった。上井の代 表作である上井『職場規制』は,この三つのコン ポーネントから構成されている。

 ここであらかじめことわっておくことがある。

調査対象会社の名前について,上井の参加した調 査では,中間報告書や最終報告書において,会社 の実名を出さずに,A社,B社などと記していた。

自動車会社の数はきわめて少ないので,報告書を 読めば,会社の実名は容易に特定できた。それに もかかわらず匿名にしたのは,調査を受け入れて もらう時に会社にたいして,報告書には会社の実 名は出さない,と約束したからである。しかし報 告書の出版後,調査した会社名はあたかも自明で あるかのように受け取られた。また調査グループ の責任者も,会社の実名を明らかにしている。約 束は時効となった,と判断しているのであろう。

したがって本稿では会社の実名で記すことにす る。

 上井の自動車産業研究を構成する三つのコン ポーネントのうち,もっとも簡単に説明できるの は,上井の個人研究である日産争議研究である。

上井は日産自動車の実態調査と並行して,1953年 の日産争議とその前史に関する資料を収集した。

また関係者への聞き取り調査もおこなった。上井 が実態調査と並行して歴史研究をおこなったの は,歴史的なパースペクティブの中でこそ現状を 理解することができる,という考えを持っていた からである。

「人間の社会的営みについては,現在の穴は中空 に漂う点としてではなく,歴史的に形成された管 の断面として存在するから,現在を理解し未来を 展望しようとするならば,現状の断面分析で足り るのではなく,歴史分析が不可欠となる。」(上井

[1994]11)

(11)

 上井が中西国家論・政策論に魅力を感じたのは,

中西国家論・政策論がすぐれて歴史的な方法で あったためでもあろう。上井の日産争議研究は上 井『職場規制』の第一部として収められている。

6.2   「労使関係調査会」

 上井が自動車産業研究に入るきっかけとなった のは,1976年に発足した「労使関係調査会」に参 加したことである。上井が「時あたかも組織され た労使関係調査会に参加するよう勧誘され,いわ ば一杯の水を求める心境から,自動車産業の労使 関係調査に入っていった」,と書いているその労 使関係調査会である。

 東京大学社会科学研究所で労働実態調査のプロ モーターであった氏原正治郎さんは,1981年3月 で定年退官になることが予定されていた。氏原さ んの退官記念に調査報告書を出版しよう,という ことで,氏原さんを代表者とする「労使関係調査 会」が組織された。労使関係調査会は文献研究グ ループと実態調査グループからなり,それぞれ報 告書を取りまとめることになった。しかしその後,

労使関係調査会は事実上,実態調査グループだけ の活動となった。

 労使関係調査会の実態調査グループは,自動車 班,鉄鋼班,国鉄班,中小企業班にわかれていた。

上井は山本潔さんに勧誘されて山本さんとともに 自動車班のメンバーとなった。隅谷記念論文集の 論文執筆に行き詰まっていた上井にとって,この 誘 い は,た し か に 息 を 吹 き 返 す「一 杯 の 水」で あったであろう。

 私には労使関係調査会から勧誘の声がかからな かった。いつかは実態調査を経験しなければいけ ないと考えていたので,声がかかれば参加しよ う,と私は思っていた。しかし労使関係調査会の 事務局担当であった山本さんに呼ばれて,君はド イツのことをやっているから,そのままドイツの 研究を続けた方がいい,実態調査に入ると,何年 かは実態調査のみになってしまう,それよりも少 しでも早くドイツの仕事をまとめなさい,と言わ れた。私は労使関係調査会に参加しなかった。し かし上井をはじめ身近な院生が何人も参加してお

り,労使関係調査会の活動内容をだいたい知って いた。

 労使関係調査会自動車班のメンバーは,山本 潔・嵯峨一郎・上井喜彦であった。上井は労使関 係調査会の最終報告書(労使関係調査会[1981]

『転換期における労使関係の実態』)において「第 一篇第三章 生産=「経営協議」」を執筆し,日産 自動車における経営協議の実態を分析した。上井 の執筆部分を含めて,労使関係調査会自動車班の 報告書には大きな問題があった。

 労使関係調査会自動車班は,調査対象の日産労 組との間で,さらに労使関係調査会内部で,深刻 な軋轢を引き起こした。自動車班がいわゆる裏門 調査にもとづいて報告書を書き上げたからであ る。山本さんは,自動車班がどのようにして日産 の情報・資料収集をおこなったのか,率直に語っ ている。

 「実際どのように進行したかと言いますと,76 年2月に,自動車会社に数年間勤めていて,労務 の仕事を担当し,組合役員も経験している人が,

退社して,大学院に入ってきたのです。その人に 同年3月,4回ばかり,松崎君と上井君と僕と3 人で,いろいろお話をうかがいました。最初は予 備的にお話をうかがおうと思っていたら,彼は非 常 に 詳 し い の で す ね。か な り の こ と が わ か っ ちゃって,それから,どういう文献・資料があり ますよ,ということも教えていただいたわけで す。それで,調査会が正式に発足して,第2回目 の5月8日の会合で自動車班が「自動車産業にお ける労資関係の機構と運営─予備調査結果報告」

という報告をしましたら,みなさんから「もう,

できちゃっている」(笑),と言われたのです。そ うやっているうちに,今度は,戸塚さんから,当 時,横浜市大の非常勤講師だったと思いますが,

嵯峨一郎君が,自動車の調査に参加させてほしい と言っているということでした。そこで,77年 の春に嵯峨君と相談して,彼が知っている自動車 工場の職場労働者に,JC系の集中回答日の前後 一週間ずつの,毎日の「春闘職場日誌」を書いて もらいました。それから,彼等が集めていた組合 機関紙とか会社の配布文書を数年分借りてコピー

(12)

する,それから大原社研に入っている機関紙をコ ピーする,というような形で,資料を集めました。

また,「工場調査票」というのと「職場調査票」

というのを作って,その職場活動家一人ずつか ら,聴き取りをやりました。」(山本他[1993]183- 84)

 労使関係調査会自動車班は,こうして集めた資 料や聞き取りによって,最終報告書を作成した。

労使関係調査会自動車班は,山本班長の強いイニ シャチブのもとで,日産労組について,「A労組 とA自動車とは癒着している」と判定し,日産労 組の「本質」は,「特定企業の従業員を組織し,

従業員としての利害を穏便な手段で追求する「従 業員会」と,労資協調思想のもとに反対派を統制 しつつ資本に対しては一定の実力行使を背景とし て団体交渉を行なう「黄色労働組合」との,中間 的形態」と結論づけた(労使関係調査会[1981]

156-57)。

 自動車班の調査が,氏原還暦記念とは関係なく おこなわれていたならば,氏原・山本関係はあれ ほどまでには悪化しなかったであろう。山本さん は,表門調査が望ましいものの,必要な情報が集 まるのであれば,裏門調査をやるべきであると考 えていた。山本さんは,自動車班の調査報告書に ついて,「日本で最初の自動車産業の労使関係に ついての本格的な調査報告であると,自分ではか なり高く評価している」(山本他[1993]185)と発 言している。山本さんにとって,表門か裏門かと いう調査手法はたいした問題ではなく,重要な情 報を入手して報告書を発表することが大切であっ た。他方,氏原さんにとって自動車班の調査方法 は,「調査対象に調査されていること知らせない 闇討的・興信所的調査」であり,決して容認でき ないものであった。裏門調査をめぐって,氏原さ んと山本さんは決定的に対立した。その具体的経 緯は,山本[2004]第8章にくわしく記されてい る。氏原さんは,自動車班の報告書も念頭に置い て,氏原[1981]「調査論における危険な傾向―山 本助教授「実態調査と社会科学」を評す―」を発 表し,山本さんとの対立を公表した。

 氏原・山本の対立は,上井と氏原さんとの人間

関係を悪化させるものではなかった。氏原さんか ら見れば,まだ院生だった上井は,山本班長の指 揮のもとで動く一兵卒であった。事実,上井は労 使関係調査会自動車班の調査について,次のよう に発言している。

 「この「転換期の労使関係」の調査の手法です けれども,自動車班の調査の手法ですが,僕はこ の調査に入れていただいたのが,調査との最初の 出会いでして,始めは,これがノーマルな調査の 手法だと思っていたのです(笑)。ところがほか の班の話を聞いていくうちに,ほかのグループの 調査手法とかなり違うことがわかってきました。

また,ほかのグループが調査を始める時点では,

こちらは,もう結論がすでに出ている。実は仮説 の議論をしているうちに調査はすでに終わって おったという気がするのです。」(山本他[1993]

186-87)

 氏原さんと山本さんの深刻な対立は,それを間 近に見た上井にとって,調査はどうあるべきかを 考える重要なきっかけとなった。上井は,労使関 係調査会自動車班の調査について次のように「自 己批判的総括」をおこなっている。引用文中の

「転換期調査」は,労使関係調査会自動車班の調 査を指している。

「「転換期調査」は,たしかに多くの事実発見を行 い,貴重な成果を残した。しかし,反省すべき点 も多い。本稿に関わる範囲で言えば,一つには,

労働組合の体質把握の問題がある。すなわち,こ の調査は,A労組の体質を労務管理機構と「癒着」

した経営からの独立性の弱い組織として描き出し たが,それは,この間の労使関係情況とは相当距 離がある。このようなギャップは,経済的基盤の 変動に対応した変化,というような経済決定論で は説明できない。いま一つには,賃金と個別人事 を除けば,個々の問題をめぐって労使が如何に取 りむすんでいるかが必ずしも明らかにされていな い。石油危機以降とくに重要となってきた柔軟な 要人員管理・時間管理についても,これをめぐる 労使関係は明らかにされていないのである。

 こうした問題は,一面では,労使の対立がわず かにその兆しを覗かせるにとどまる一方,A労組

(13)

による組合内反対派への各種の抑圧行為がさまざ まに取沙汰されるという調査時点に制約され,視 角が一面化したためといってよいが,調査方法と してみるならば,外在的批判を是とし,A社の労 使両当事者に直接接近することを怠った故の弱点 が現われたもの,と筆者は反省している。このこ とは労使関係の制度の運用面に深く立ちいれてい ないことに繋がっている。労使が各レベルで,何 をめぐって,どのように対峙しているかを,当事 者の主張と行動に即して正確に把握すること。A 社の現状は,このことなくしては,労働組合と労 使関連の実態に迫れないことを示している。」(上 井[1988]45)

6.3   「国内労使関係調査会」

 上井は,労使関係調査会自動車班の調査にしっ くりこないものを感じていた。そのため,戸塚秀 夫さんが「国内労使関係調査会」を立ち上げると,

ただちに参加した。似たような名前なので注意し ておくが,「労使関係調査会」と「国内労使関係 調査会」は別物である。以下においては,この二 つの調査会を混同しないように,上井が最初に日 産調査をおこなった「労使関係調査会」を氏原還 暦調査会,戸塚さんが組織した「国内労使関係調 査会」を,戸塚調査会と記すことにする。

 氏原還暦調査会の実態調査が山を越えたと思わ れた1977年に,氏原還暦調査会のメンバーであっ た戸塚さんは,日本の現状をイギリスと比較した いという問題意識から,イギリスの自動車産業と 鉄鋼産業の実態調査をおこなうプロジェクトを立 ち上げた。「海外学術調査団(労働)」と称し,自 動車班と鉄鋼班からなっていた。戸塚さんが全体 の団長と自動車班の班長を兼任した。自動車班と 鉄鋼班の調査報告書は,戸塚 / 兵藤 / 菊池 / 石田

[1987][1988]『現代イギリスの労使関係―自動 車 / 鉄鋼産業の事例研究―』上下巻,として公刊 された。報告書は1987/88年に刊行されたが,調 査そのものは,1978年に予備調査,79年に本調 査,80年から81年に補足調査がおこなわれた。

 イギリス調査に一応の区切りがついた1982年 に,戸塚さんは,イギリスを見た目であらためて

日本の現状を見直したいと考え,日本の自動車産 業と鉄鋼産業の実態調査を企画した。戸塚さん は,氏原還暦調査会のメンバーであった。しかし 戸塚さんは中小企業班の班長で,自動車班と鉄鋼 班には関係していなかった。そして戸塚さんは自 動車班と鉄鋼班の調査報告書に納得していなかっ た。そこで自らのイニシアチブで日本の自動車産 業と鉄鋼産業の実態調査を企画した。戸塚さんは,

それを「国内労使関係調査会」と命名した。この 戸塚調査会は自動車班と鉄鋼班からなっていた。

戸塚さんは全体の代表者になるとともに,自動車 班の責任者となった。

 戸塚調査会の二つの班は,調査内容においても 調査スケジュールにおいても,それぞれ独自に動 いていた。戸塚さんは二つの班の動きを掌握して いた。しかし戸塚さんをのぞく自動車班メンバー は,鉄鋼班が何をしているのか,ほとんど知らな かった。鉄鋼班メンバーも自動車班の調査内容や 調査スケジュールを知らなかったと思われる。鉄 鋼班は,中間報告論文は発表したものの,最終報 告書を作成しなかった。自動車班は中間報告論文 を発表し,さらに最終報告書を公刊して解散した。

上井が関係していたのは自動車班なので,以下,

戸塚調査会と記した場合,戸塚調査会自動車班を 指すこととする。

 イギリスを調査した海外学術調査団(労働)自 動車班は,本隊員が戸塚秀夫・兵藤,支援隊員 が山本潔というメンバーであった。日本を調査す べき戸塚調査会は,戸塚さんと兵藤さんがそのま まメンバーとなり,新たに畑隆,田端博邦,上井,

それに私が参加し,6名のチームとなった。氏原 還暦調査会自動車班と戸塚調査会の両方に参加し たのは,上井だけであった。

 戸塚さんが戸塚調査会を発足させた一つの大き な理由は,氏原還暦調査会自動車班の調査報告に 疑問をいだいていたことである。戸塚さんは,上 井も裏門調査に満足していないだろうと見てい た。戸塚さんは,上井を勧誘した理由として,「あ の調査では上井君は不完全燃焼だったでしょうか ら」,と言っていた。

 戸塚調査会は,氏原還暦調査会自動車班とは,

(14)

いろいろな意味で対照的であった。第一に,氏原 還暦調査会自動車班の調査は裏門調査であった。

報告書の原稿は調査対象に見せることなく,活字 にした。戸塚調査会の調査は表門調査であった。

日産については組合側を窓口とし,組合と会社の 双方に聞き取り調査をおこなった。トヨタについ ては,会社側を窓口とし,組合と会社の双方に聞 き取り調査をおこなった。裏門調査はいっさいお こなわなかった。戸塚調査会は,報告書の原稿を,

日産には組合の担当者に,トヨタには会社の担当 者に提出し,事実関係についてチェックを受ける とともに,公表する文章や数字などについて担当 者とやりとりをおこなった。

 第二に,氏原還暦調査会自動車班の調査では,

山本班長が強いリーダーシップをとった。調査仮 説の設定においても,調査の進め方についても,

さらに調査のまとめについても,班長の考えに 沿っておこなわれた。最終調査報告書の出版とほ ぼ同時に,山本さんが単独で単行本『自動車産業 の労資関係』(山本[1981])を出版したことが,

それを裏づけている。戸塚調査会においては,メ ンバー個々人の問題関心や仮説が尊重された。も ちろん,調査項目や調査仮説についてはメンバー 全員で討議し,不適切と思われる調査事項は排除 された。しかし戸塚さんも兵藤さんも,自分の考 えに沿って調査会を引っ張っていこうとはしな かった。戸塚調査論の特徴がよく表れていたの は,戸塚さんが繰り返し強調した「かたい facts」

という言葉であった。「かたい facts」を見いだす ための調査,これが戸塚調査論の核心のように思 われた。

 戸塚調査会では,全員が日産調査にもトヨタ調 査にも参加した。もちろん,収集した資料や聴き 取り記録も全員が共有した。したがって,書こう と思えば誰でも日産とトヨタについて論文を執筆 できる状態にあった。そこで混乱が起きないよう に,上井と私との間で取り決めをした。上井が日 産調査の,私がトヨタ調査の中心となる。日本語 で論文や本を発表する場合,上井が日産を,私が トヨタを執筆する。外国語で発表する場合には,

上井も私も日産とトヨタの両方を扱ってよい,と

した。後に,この線に沿って,上井は上井『職場 規 制』を,私 は 野 村[1993]と Nomura/J u   rgens¨

[1995]をとりまとめた。

 戸塚調査会自動車班においてメンバー個々人の 関心が尊重されていることは,最終報告書(戸塚 / 兵藤編[1991]『労使関係の転換と選択―日本の 自動車産業―』)の構成によく表れている。最終 報告書の構成と執筆者は次の通りである。

序 章 フレキシブルな生産システムと労資関係     戸塚 / 兵藤

第1章 フレキシビリティと労働組合規制─A社     を中心に 上井

補 論 A社の人事管理と賃金 畑

第2章 生産性管理と人間関係諸活動─B社を中     心に 野村

第3章 労働協約と組合運営─A労組を中心に      田端

終 章 日本的経営のゆくえと労働組合の選択      戸塚 / 兵藤

 序章と終章は戸塚 / 兵藤の連名で執筆されてい る。しかし戸塚さんも兵藤さんも,序章と終章に よって本文執筆者たちの執筆内容を拘束しようと は考えていなかった。最初に上井や私などが執筆 した本文があり,それが全員で検討された。その あとで序章と終章が戸塚 / 兵藤によって執筆され た。

7 .  上井喜彦『労働組合の職場規制』

 最終報告書において上井は「フレキシビリティ と労働組合規制」を執筆した。戸塚調査会ではメ ンバー個々人の問題関心が尊重されており,上井 は自発的にこのテーマを選んでいた。最終報告書 が発表されてから3年後に,上井は日産について 単著を公刊した。単著は,『労働組合の職場規制』

というタイトルのとおり,日産における労働組合 の職場規制を詳細に分析したものであった。単著 の構成は,以下のとおりである。

序論 課題・方法・対象

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