覺
海
法
橋
傳
中
田
法
壽
御
傳
略
誦
覺
海
大
徳
、
諱
は
南
勝
房
、
和
泉
法
橋
と
號
す
。
康
治
元
年
但
馬
國
養
父
郡
長
野
村
に
誕
生
、
父
は
和
泉
守
雅
隆
氏
、
蚤
に
神
悟
天
發
の
風
貌
を
備
へ
幼
に
し
て
醍
醐
三
寳
院
の
大
僧
正
定
海
師
の
室
に
八
つ
て
薙
髪
、
觀
誦
錬
行
師
の
認
擧
を
得
て
両
部
秘
密
の
大
灌
頂
悉
て
瀉
し
て
漏
ら
す
こ
と
な
く
、
神
識
雷
發
、
瑜
伽
の
妙
極
を
究
め
て
但
馬
、
建
屋
の
奥
光
寺
に
去
る
。
碩
に
大
師
深
密
の
教
義
を
學
び
、
曠
く
釋
尊
闡
演
之
幽
頤
を
曉
る
の
傍
ら
専
ら
寺
門
興
隆
、
攝
化
衆
生
の
勞
を
惜
ま
ず
遂
に
與
光
寺
の
學
頭
と
な
る
。
師
壯
年
に
し
て
既
し
三
五
部
の
法
水
を
心
藏
に
淘
湧
し
五
八
の
藏
教
を
器
界
に
飄
々
す
る
と
雖
も
未
だ
瑜
伽
の
奥
旨
を
徹
し
て
缺
く
る
な
か
ら
ん
か
と
憂
ひ
、
或
は
隨
心
院
の
親
嚴
僧
正
に
且
つ
は
勸
修
寺
の
碩
匠
文
泉
の
流
を
尋
ね
て
研
鑚
孜
々
た
り
、
遂
に
文
治
の
頃
、
恭
く
大
師
の
舊
址
を
慕
ひ
高
野
山
に
攀
躋
し
勝
地
を
求
め
て
艸
庵
を
結
び
開
敷
華
王
の
稱
を
以
て
之
れ
に
號
け
、
大
樂
院
第
二
世
寛
秀
上
綱
に
從
つ
て
受
職
灌
頂
の
印
璽
を
蒙
り
、
常
に
無
極
の
微
密
を
談
じ
闔
山
の
淨
侶
を
導
引
し
て
四
曼
の
覺
藥
を
賁
り
、
普
天
の
信
人
を
誘
提
し
て
三
密
の
教
果
を
授
く
、
一
山
大
衆
其
の
徳
に
敬
し
身
に
親
近
す
る
又
以
て
由
な
し
と
な
さ
ず
。
遂
に
順
徳
院
建
保
五
年
、
蓮
上
院
覺
基
阿
闍
梨
に
替
つ
て
南
山
檢
挾
執
行
第
三
十
七
世
に
擢
ら
れ
法
橋
上
人
の
位
に
昇
る
。
職
に
在
り
寺
務
を
顧
む
こ
と
四
年
、
心
を
専
ら
一
山
の
興
隆
に
灌
ぎ
、
建
保
六
年
、
高
野
と
吉
野
と
地
領
相
論
あ
つ
て
吉
野
春
賢
僧
正
、
領
地
の
郷
民
を
引
率
し
て
來
り
寺
領
大
瀧
村
及
御
廟
橋
下
に
膀
爾
を
標
し
、
吉
野
領
の
高
札
を
設
け
て
精
進
結
界
の
靈
域
を
殺
生
汚
穢
の
獵
地
と
化
せ
し
め
て
は
院
奏
を
經
、
嚴
重
の
起
請
文
を
捧
げ
後
鳥羽
院
の
院
宣
を
贈
つ
て
非
理
の
事
業
を
制
禁
し
、東
寺
覺 海 法 橋 傳 九 三覺 海 法 橋 傳 九 四
長
者
長
海
に
書
を
贈
つ
て
は
春
賢
奇
怪
の
業
を
語
り
、
新
中
納
言
宗
行
公
に
希
つ
て
は
成
敗
決
断
の
糺
明
を
求
め
、
蓮
花
谷
御
庵
室
明
遍
僧
都
に
談
つ
て
は
吉
野
の
狼
藉
終
に
淨
地
に
殺
虐
の
血
を
見
、
弓
箭
獵
戲
の
歎
き
を
憤
懣
し
、
検
非
違
使
別
當
右
衞
門
尉
基
廣
に
對
つ
て
は
金
峯
山
泉
養
房
等
の
悪
態
を
訴
ふ
な
ど
粉
骨
碎
身
の
勞
あ
り
、
山
僧
怒
り
法
滅
國
傾
の
時
と
衆
議
評
決
し
て
大
小
佛
事
を
廢
絶
し
離
山
逐
電
を
謀
り
一
昧
の
神
心
を
飲
み
三
千
大
衆
蜂
起
し
て
山
門
を
出
で
去
ら
ん
と
す
る
に
到
つ
て
は
九
旬
の
齢
を
捨
て
愁
涙
を
袍
袖
に
沾
し
て
離
山
の
延
引
を
乞
ひ
閻
魔
の
慮
に
己
が
辭
を
糺
さ
ん
と
す
爾
來
身
を
下
品
に
落
し
悉
知
を
希
ひ
魔
障
對
治
を
祈
る
。
承
久
二
年
十
二
月
、
職
を
辭
し
て
専
ら
精
誠
を
抽
で
須
知
前
生
の
因
縁
を
大
師
に
懇
蘆
し
、
眞
影
の
靈
威
な
る
を
見
て
は
七
生
の
因
果
を
知
る
。
貞
應
二
年
八
月
十
七
日
、
毘
盧
の心
印
を
結
ん
で羽
化
し
去
る
。
實
に
今
を
去
る
七
百
歳
。
世
壽
八
十
三
、
後
其
の
徳
を
思
慕
し
て
遍
照
岡
に
覺
海
社
を
建
立
し
て
燈
を
挑
ぐ
、
付
法
數
人
就
中
、
寳
性
の
法
性
、
正
智
の
道
範
、
心
南
の
尚
祚
、
十
輪
の
眞
辨
を
以
て
門
下
の
四
哲
と
す
。
共
に
高
野
八
傑
の
内
な
り
。
御
傳
細
説
辨
彙
一
誕
生
よ
り
祝
髪
ま
で
覺
海
大
徳
誕
生
の
地
に
就
い
て
は
御
傳
記
其
の
説
を
異
に
し
て
ゐ
る
、
先
づ
金
剛
頂
無
上
正
宗
傳
燈
廣
録
續
第
八
卷
に
は
、
﹁
但
馬
州
人
、
和
泉
守
雅
隆
之
子
也
﹂
と
し
、
野
峰
名
徳
傳
上
卷
二
十
一
丁
左
秘
行
に
は
﹁
覺
海
但
馬
人
也
﹂
と
し
て
ゐ
る
。
又
金
剛
峯
寺
沙
門
維
賢
師
編
輯
の
覺
海
傳
に
は
﹁
但
馬
國
朝
來
郡
人
也
未
詳
氏
族
也
﹂
と
し
續
紀
伊
國
風
土
記
第
四
輯
第
三
十
五
卷
高
僧
行
状
淨
惠
の
部
に
は
﹁
但
馬
國
朝
來
郡
人
和
泉
守
雅
隆
之
息
也
﹂
と
し
て
ゐ
る
。
然
し
て
、
又
但
馬
考
及
但
馬
新
圖
は
共
に
﹁
但
馬
國
養
父
郡
人
﹂
と
し
共
に
誕
生
國
を
但
馬
と
し
て
ゐ
る
。
然
し
、
彼
の
本
朝
高
僧
傳
や
東
國
高
僧
傳
に
到
つ
て
は
共
に
大
徳
を
以
て
﹁
對
馬
の
人
﹂
と
し
て
ゐ
る
。
今
此
れ
に
依
つ
て
之
を
考
ふ
る
に
東
國
高
僧
傳
は
本
朝
高
僧
傳
に
依
つ
た
も
の
で
あ
り
、
本
朝
高
僧
傳
は
音
を
誤
つ
て
對
馬
と
し
た
も
の
で
あ
ら
う
。
何
と
な
れ
ば
但
馬
に
は
今
も
尚
覺
海
屋
敷
と
稱
す
る
地
名
が
存
し
て
居
り
、
但
馬
與
光
寺
に
は
比 較 的 權 威 の あ る 史 實 も 殘 つ て ゐ る と 云 ふ 事 で あ る か ら で あ る 。 元 來 大 徳 の 但 馬 産 な る 事 は 既 に 定 説 を 有 す る 所 で あ つ て 此 の 問 題 に 就 い て は 既 に 已 に 論 究 の 必 要 は な い で あ ら う 。 唯 吾 等 の 此 處 に 問 題 と し て 考 究 す べ き は 其 の 誕 生 の 郡 村 に 關 す る 研 究 で な け れ ば な ら ぬ 。 大 徳 誕 生 の 郡 に 就 い て は 維 賢 師 編 纂 の 御 傳 記 や 紀 伊 風 土 記 は 朝 來 郡 と し て ゐ る が 但 馬 考 や 但 馬 新 圖 は 養 父 郡 と し て ゐ る 。 又 彼 の 與 光 寺 の 史 實 の 示 す 所 は 養 父 郡 で あ る の み な ら ず 、 最 近 此 の 國 の 覺 海 研 究 者 櫻 井 照 山 氏 は 但 馬 考 に 覺 海 屋 敷 と あ る を 參 照 し 實 地 踏 査 し て 養 父 郡 と 斷 定 し て ゐ る か ら 予 も 亦 此 れ を 信 じ て 此 れ を 決 定 す る で あ ら う 。 元 來 朝 來 郡 と 養 父 郡 と は 共 に 相 隣 れ る も の な れ ば 風 土 記 や 維 寳 の 傅 記 は 傳 ひ 聞 い て 以 て 此 れ 誤 れ る も の で あ ら う 。 尚 大 徳 が 誕 生 村 に 就 い て も 櫻 井 氏 は 但 馬 考 の 両 説 を 引 用 し 、 且 つ 養 父 郡 建 屋 郷 池 山 村 の 元 比 丘 の 説 を も 引 證 し て 畢 竟 同 郡 建 屋 郷 長 野 村 と 確 定 し て ゐ る か ら 予 も 亦 此 れ に 從 ふ 事 と し た 。 養 父 郡 建 屋 郷 は 大 日 本 地 名 辭 書 に 依 る な ら ば 和 名 抄 に は 遠 屋 と 書 け ど も 建 屋 の 誤 り で あ り 、 輕 部 郷 以 南 の 一 山 谷 で あ つ て 東 南 は 朝 來 郡 に 限 り 西 は 大 屋 郷 を 以 て 限 ら れ て ゐ て 、 長 野 村 に 齋 明 神 楯 縫 神 社 あ る が 故 に 楯 縫 建 屋 の 音 讀 近 き よ り 誤 つ て 用 ゆ る か と 云 つ て ゐ る 。 古 來 は 建 を 健 の 古 字 に 用 ゐ 、 タケ ノ ヤ と 稱 し て ゐ た が 後 タ キ ノ ヤ と 讀 み 今 尚 ほ 建 屋 村 存 す と 誌 し て ゐ る 。 次 に 俗 縁 の 事 で あ る が 此 れ に 就 い て 誌 し て ゐ る も の は 風 土 記 と 傳 燈 廣 録 の 二 部 に し か 過 ぎ な い 、 彼 の 高 野 山 史 最 上 の 參 考 書 高 野 春 秋 編 年 輯 録 に す ら 一 言 も 此 れ に 及 ん で ゐ な い の で あ る か ら 今 は 此 れ を 究 む る に 由 も な い 。 さ れ ば 予 は 彼 の 元 一部 の 書 に 從 つ て 和 泉 守 雅 隆 の 息 と す る よ り 外 に 何 等 言 及 す る 事 は 出 來 な い 。 殊 に 大 徳 の 母 や 其 の 家 の 系 譜 に 到 つ て 悉 て 無 知 で あ る 、 唯 吾 等 は 大 徳 を 以 て 後 世 和 泉 法 橋と 號 し た 事 が 父 の 和 泉 守 な り し に 起 る も の で あ ら う と の 想 像 の み で 滿 足 し て 行 か ね ば な ら ぬ 。 然 ら ば 大 徳 は 何 歳 に し て 剃 髪 せ ら れ た の で あ ら う か 。 此 れ に 就 い て も 一 書 と し て 誌 し て ゐ る も の 覺 海 法 橋 傳 九 五
覺 海 法 橋 傳 九 六 が な い 。 唯 蚤 に 定 海 大 僧 正 の 室 に 入 つ て 薙 髪 し た と あ る の み で あ る 。 然 ら ば 略 何 歳 頃 に し て 上 京 入 室 せ ら れ た の で あ ら う 。 大 徳 得 度 の 師 の 定 海 大 僧 正 は 右 丞 相 藤 顯 房 の 子 、 承 保 元 年 の 誕 生 、 久 安 五 年 の 入 寂 で あ る 。 然 し て 付 法 + 五 人 あ る 内 大 徳 は 第 十 二 番 目 の 弟 子 で あ る 。 然 し て 大 徳 の羽 化 は 貞 應 二 年 八 十 三 歳 で あ る か ら 此 れ を 通 算 す れ ば 康 治 二 年 の 誕 生 と な る 。 此 れ に 依 つ て 見 る に 大 徳 の 誕 生 は 大 僧 正 入 寂 前 纔 か に 七 年 し か 經 て ゐ な い の で あ る 。 さ れ ば 大 徳 の 入 室 は 勿 論 七 歳 ま でヾ な け れ ば な ら の 。 然 る に 傳 の 誌 す 所 に 依 れ ば 秘 密 入 壇 灌 頂 を も 禀 け た と 云 ふ 。 密 法 を 崇 ひ 唯 佛 與 佛 の 境 界 唯 一 人 授 法 と 嚴 格 に 取 扱 つ た 當 時 に あ つ て 果 し て 此 の 事 を 易 々 と し て 承 認 す る 事 が 出 來 る で あ ら う か 。 尤 も 定 海 大 僧 正 は 承 保 元 年 に 誕 生 七 十 六 歳 で 入 寂 せ ら れ た と あ る か ち 此 れ は 文 安 五 年 で は な く て 久 壽 二 年 と な る が 然 し 例 へ 此 れ が 事 實 で あ る と し も 大 僧 入 寂 の 年 は 大 徳 が 十 二 歳 に し か 過 ぎ な い 。 未 だ 幼 稚 な 幼 年 に 両 部 灌 頂 を 授 け る こ と 、 そ れ は 寺 家 の 緩 怠 、 密 法 亂 授 の 今 日 に 於 て も 許 容 出 來 な い 事 で は あ る ま い か 。 さ も あ ら ば あ れ 、 大 徳 は 六 七 歳 か 乃 至 十 二 三 歳 頃 ま で の 間 に 定 海 大 僧 正 の 室 に 入 つ た の で あ る 、 二 大 徳 の 師 資 及 同 室 衆 上 に 一 言 せ る 如 く 大 徳 は 定 海 大 僧 正 の 室 に 入 つ た の で は あ る が 未 だ 幼 少 に し て 其 の 師 を 失 つ て ゐ る 。 さ れ ば 從 つ て 他 師 を 求 め て 密 法 研 鑽 の 必 要 が あ つ た 事 は 勿 論 で あ る 。 故 に 大 徳 受 法 の 師 と 稱 せ ら る 人 亦 多 き を 見 る の で あ る 。 今 予 の 知 れ る 所 を 以 て し て も 既 に 定 海 、 禪 慧 、 親 嚴 、 先 海 、 光 海 、 寛 秀 等 數 人 を 數 へ あ げ る 爭 が 出 來 る 。 其 の 定 海 大 僧 正 は 東 寺 三 十 八 代 の 長 者 法 務 醍 醐 山 第 十 六 世 座 主 、 三 賢 院 第 二 世 で あ る 。 童 稚 に し て 勝 覺 の 室 に 入 り 康 和 三 年 十 月 二 十 八 日 無 量 光 院 之 殿 に 登 つ て 傳 法 灌 頂 を 本 師 に 於 て 受 く 、 天 承 二 年 四 月 十 三 日 、 二 長 者 に 加 へ ら れ 上 皇 の 不 豫 に 依 つ て 詔 を 奉 じ 孔 雀 經 を 修 す る に 驗 顯 は れ て 法 印 に 叙 せ ら れ 長 承 元 年 五 月 座 主 職 を 元 海 に 付 し 二 年 十 月 元 長 者 に 叙 せ ら る 。 終 に 久 安 元 年 に 到 つ て 別 當 、 座 主 等 の 諸 職 を 辭 し て 四 般 別 院 に 閑 退 す 、 爾
來
垣
に
毘
盧
の
大
定
に
入
り
妙
觀
三
昧
に
入
つ
て
慈
氏
の
心
地
に
遊
ぶ
、
久
安
五
年
四
月
十
二
日
寂
化
す
、
世
壽
七
十
六
、
付
法
十
五
人
、
著
は
す
所
の
大
治
記
、
保
延
記
は
共
に
後
人
の
賓
冊
と
な
る
。
次
に
禪
慧
は
相
州
鎌
倉
極
樂
寺
の
第
二
世
心一
上
人
、
字
は
教
王
房
、
本
名
を
義
覺
と
云
ひ
興
福
寺
の
湛
秀
師
と
雙
璧
終
に
醍
醐
山
の
頼
照
阿
闍
梨
に
傳
法
灌
頂
を
受
く
。
資
九
人
と
又
隨
心
院
親
嚴
師
付
法
石
山
文
泉
房
や
光
海
阿
闍
梨
並
に
先
海
師
に
師
事
せ
ら
れ
た
と
も
聞
い
て
ゐ
る
が
今
は
其
の
傳
を
知
る
に
由
な
け
れ
ば
此
れ
を
誌
す
こ
と
は
出
來
な
い
。
唯
最
後
に
高
野
山
に
於
て
受
職
灌
頂
せ
ら
れ
た
寛
秀
上
綱
を
見
る
な
ら
ば
師
は
大
樂
院
第
一
世
基
舜
阿
闍
梨
に
師
事
し
た
覺
義
の
付
法
で
あ
る
。
寛
秀
に
就
い
て
は
大
樂
院
の
過
去
帳
は
第
二
世
に
列
ね
、
高
野
山
春
秋
第
七
卷
は
﹁
(建
久
八
年
)
秋
七
月
廿
四
日
、
阿
闍
梨
密
嚴
房
入
寂
、
(此
人
覺
義
阿
闍
梨
入
室
之
上
足
也
)
、
紫
雲
靡
于
庵
上
﹂と
し
て
誌
し
て
ゐ
る
の
み
で
あ
る
。
其
の
他
子
細
に
此
れ
を
研
む
る
な
ら
ば
或
は
他
師
を
見
る
事
も
出
來
る
で
あ
ら
う
が
此
れ
を
詳
か
に
す
る餘
裕
を
持
つ
て
ゐ
な
い
か
ら
む
後
日
を
期
し
て
今
は
此
れ
を
以
て
終
る
で
あ
ら
う
。
要 之 、 大 徳 の 師 は 定 海 、 禪 慧 、 文 泉 房 、 先 海 、 光 海 、 寛 秀 、 寛 琳 を 數 へ る が 然 し 果 し て 此 の 師 の 悉 て が 付 法 の 師 で あ り 、 又 其 の 他 に 受 法 の な か つ だ 事 を 誓 ふ 事 は 出 來 な い 。 然 ら ば 次 に 大 徳 は 同 室 の 學 侶 幾 許 を 持 つ て ゐ ら れ た で あ ら う か 、 此 の 問 題 も 上 と 同 じ く 充 分 明 確 に す る 事 が 出 來 な い 、 殊 に 傳 記 を 知 る に 由 も な い 師 に は 何 人 の 同 室 が あ つ た か 決 し て 知 る 事 が 出 來 な い 。 故 に 予 は 今 其 の 知 れ る 範 圍 に 於 て 其 の 名 を 列 記 す る で あ ら う 。 元 海 ・ 禪 慧 、 隆 賀 、 行 海 、 覺 鏡 、 行 朝 、 宗 海 、 乘 海、 禪 忠 、 豪 海 、祐 源 、 眞 海 、 良 勝 、一 海 、 珍 海 、 (定 海 大 僧 正 付 法 ) 、 元 海 行 海 、 範 賢 、 聖 尊 、 仁 意 、 慶 快 、 教 西 、 院 嚴 、 (以 上 禪 慧 上 人 付 法 ) 明 任 。 次 に 大 徳 付 法 の 資 で あ る が 此 れ も 上 述 と 同 一 の 規 範 に 入 つ て ゐ る も の で あ る 、 然 し て 此 の 付 法 資 の 傳 は 今 此 れ 詳 説 す る 事 を 止 め る 事 と し た 。 惠 深 、 法 性 、 道 範、 尚 祚 、 眞 辧 、 理 海 、 盛 海 、 定 曜 、 覺 忠 、 珍 海 、 源 朝 、 印 修 、 智 海 、 覺 惠 。 以 上 大 體 に 於 て 覺 海 大 徳 の 師 資 及 同 室 の 衆 侶 を 覺 海 法 橋 傳 九 七覺 海 法 橋 傳 九 八 列 記 し だ が 事 相 方 面 に 暗 い 予 と し て 此 の 衆 侶 を 一 々 流 儀 に 依 つ て 分 類 し 以 て 實 否 を 糺 す だ け の 勇 氣 を 持 つ て ゐ な い 。 の み な ら ず 此 の 衆 侶 に 對 す る 史 料 に 於 て 其 の 傳 を 欠 け る も の が 多 か つ た 爲 め 此 所 に 大 徳 學 密 の 年 代 を 明 示 す る 事 が 出 來 な い の は 最 も 遺 憾 と す る 所 で あ る 。 後 證 を 待 つ て 再 び 之 れ を 研 究 し 以 て 完 璧 を 期 す る 事 が 出 來 る な ら ば 再 録 す る で あ ら う 。 三 大 徳 の 住 坊 覺 海 大 徳 が 幼 少 に し て 醍 醐 三 賓 院 の 定 海 大 僧 正 の 室 に 入 ら れ た こ と は 前 述 の 如 く で あ る が 然 し 何 歳 に し て 入 室 せ ら れ 、 幾 年 間 此 所 に 滯 留 受 學 せ ら れ た か は 知 る に 由 な い 、 恐 ら く 三 十 歳 前 後 ま で は 此 の 寺 を 中心 と し て 大 僧 正 元 門 の 碩 學 に 從 は れ 、 然 る 後 に 但 馬 與 光 寺 へ 移 り 住 ま ふ た の で あ ら う 。 然 ら ば 其 の 與 光 寺 に 於 て は 何 年 留 ま ら れ た の で あ ら う か 、 與 光 寺 の 學 頭 と な ら れ た と 云 ふ 史 實 を 見 る と 比 較 的 長 く 住 職 せ ら れ た の で は あ ら う か 然 し 此 れ に 就 い て も 彼 の 寺 は 一 時 廢 絶 せ し 事 も あ り 何 等 此 れ を 知 る に 由 も な い の で あ る 。 然 し て 現 今 與 光 寺 は 同 村 に あ る 大 仙 寺 の 奥 院 と し て 存 し 此 の 關 係 か ら 本 年 當 住 が 七 百 年 忌 を 奉 修 し た が 此 所 に は 奥 院 と し て 池 山 の 覺 海 尊 廟 が あ り 、 自 作 の 木 像 や 自 筆 の 不 動 明 王 は あ る が 眞 の 留 住 年 代 に 就 い て は 史 料 と し て 一 も 此 れ を 見 る 事 は 出 來 な い 。 現 今 ﹁ 幾 分 史 料 の 存 す る も の は 唯 石 山 寺 と 高 野 山 に 於 け る 花 王 院 と に 過 ぎ な い の で あ る 。 次 に 石 山 寺 に 關 す る 史 料 は 彼 の 寺 の 藏 書 第 六 十 一 函 、 阿 毘 逹 類 (身 ) 足 論 第 十 八 の 奥 書 に は 正 治 元 年 五 月 十 八 日 於 東 大 寺 塔 本 塔 以 東 南 院 本一 校 了 三 論 覺 者 洲 門 覺 澄 承 元 二 季 七 月 十 日 於 石 山 寺 如 形 一 見 畢 後 必 可 見 也 洲 門 覺 海 と あ り 、 又 衆 事 分 阿 毘 曇 卷 十 二 に は 承 元 二 年 七 月 十 日 於 石 山 寺 如 形 元見 畢 覺 海 の 文 を 見 、 同 寺 所 藏 の 石 流 相 承 血 脈 集 に は ﹁ 覺 海 當 寺 之 住 阿 闍 梨 ﹂ と 出 て ゐ る 。 此 れ に 依 つ て 之 れ を 考 ふ る に 覺 海 大 徳 は 六 十 七 八 歳 の 頃 即 ち羽 化 し 去 ら る ゝ の 前 十 四 五 年 の 頃 に は 石 山 寺 に も 住 し て ゐ ら れ た と し な け れ は な ら 漁 。 然 し 此 の 代 に は
大 徳 は 既 に 高 野 山 に 來 り 住 ん で ゐ ら れ た の で あ つ て 或 は 元 年 か 二 年 此 の 寺 に 遊 び 住 ま れ た 事 は あ る で あ ら う が 決 し て 此 の 寺 の 住 職 と し て 永 く 住 せ ら れ た と は 考 へ ら れ な い 。 何 と な れ ば 大 徳 は 文 治 二 年 に は 既 に 入 寺 と し て 高 野 山 住 僧 等 の 訴 状 に 連 名 し て ゐ ら れ 、 建 永 元 年 に は 阿 闍 梨 と し て 金 剛 峯 寺 衆 徒 置 文 に 連 證 し て ゐ ら れ る か ら で あ る 。 然 し て 建 保 四 年 に は検 挾 の 職 に 就 い て ゐ ら れ る 。 さ れ ば 建 永 、 建 保 の 中 間 十 年 間 中 に 石 山 寺 へ 來 り 住 ま れ だ か は 知 ら な い が 此 れ 已 上 永 く 住 せ ら れ た と は 考 へ る 事 が 出 來 な い の で あ る 。 最 後 に 高 野 山 の 花 王 院 は 大 徳 の 開 基 と さ れ て 居 り 其 の 名 は 大 徳 の 心 中 三 昧 を 現 は した も の で あ る と さ れ て ゐ る 。 即 ち 彼 の 維 賓 の 御 簿 記 に ﹁ 慕 大 師 舊 趾 攀 躋 紀 陽 高 野 山 勝 地 構 艸 庵 選 明 師 受 事 業 期 二 轉 妙 果 故 有 院 於 開 敷 華 王 之 稱 號 ﹂ と あ る 如 く 大 徳 が 南 方 之 賓 勝 如 來 の 賢 部 三 昧 に 住 し て 大 悲 萬 行 を 果 さ ん と 志 さ れ た に 始 ま る も の で あ る 。 さ れ ば 此 の 院 を 稱 し て 開 敷 花 王 と 稱 す る の で あ る 。 然 る に 彼 の 信 堅 師 の 院 號 帳 や 文 明 記 に は 唯 ﹁ 花 王 院 ﹂ と 略 稱 し て ゐ る か ら 後 者 は 此 れ を 呼 ん で 今 の 如 く な し だ に 過 ぎ な い の で あ る 。 然 し て 此 の 舊 趾 は 今 は 増 福 院 に 合 併 さ れ 其 の 名 を 以 て 知 ら れ て ゐ る が 舊 地 は 今 に 變 更 し て ゐ な い の で あ る 。 即 ち 現 今 靈 賓 館 の 前 、 元 賓 性 院 (今 の 大 師 教 會 本 部 の 地 ) の 西 、 勸 學 院 の 東 方 、 元 心 南 院 の 南 方 に 位 し て ゐ て 天 保 南 谷 大 火 累 燒 の 前 迄 は 本 堂 、 護 摩 堂 、 客 殿 、 淨 厨 、 庫 裡 、 土 藏 、 所 化 寮 、 表 門 、 裏 門 、 路 次 門 (二 ッ ) 等 を 完 備 し 天 正 以 前 は 所 領 三 千 五 百 石 を 有 し 室 下 花 藏一 字 と 末 寺 五 院 を 有 し た 大 坊 で あ つ た が 維 新 の 改 廢 と 時 代 の 變 化 と 天 災 の 然 ら し む る 所 と な つ て 現 今 に 到 つ た の で あ る 。 元 來 此 の 寺 は 大 徳 が 貞 應 二 年 八 月 十 七 日羽 化 し 去 ら れ る 迄 住 せ ら れた 寺 で あ つ て 高 野 山 學 侶 方 と し て は 頗 る 名 門 に 屬 し て ゐ る の で あ る 。 さ れ ば 此 の 寺 に は 小 池 、 閼 伽 井 傍 柳 の 舊 蹟 が あ つ て 此 所 に 大 徳 が 入 定 せ ら れ た と傅 へ て さ へ ゐ た の で あ る 。 故 に 仟 遍 師 は 此 の 院 に 就 い て 斯 く の 如 く 物 語 つ て ゐ る 。 覺 海 法 橋 傳 九 九
覺 海 法 橋 傳 一 〇 〇 ﹁云 御 住 房一 往 南 照 院 云 々 彼 院 家 有 小 池 彼 中 入 定 云 々 、 一 往 花 王 院 彼 庭 前 有 閼 伽 井 傍 有 柳 彼 木 下 入 定 去 々 ﹂ 此 の 南 照 院 に 就 い て は 深 く 知 る 事 は 出 來 な い が 恐 ら く 大 徳 が 南 山 に 登 り 賓 生 三 昧 に 住 し て 地 を 南 溪 の 勝 地 に ト し て 自 ら 南 勝 房 と 稱 せ ら れ し に も 起 因 す る 為 の で あ ら う . 故 に 彼 の 維 賓 師 は 其 の 御 傳 記 に は ﹁ 受 生 於 北 國 勵 行 於 南 山 故 自 呼 南 方 賓 部 南 勝 名 字 、南 溪 南 勝 皆 是 爲 大 悲 萬 行 勸 修 密 部 内 證 也 ﹂ と 誌 し て ゐ る の で あ る 。 南 勝 と 南 證 、 南 證 と 南 照 、 皆 共 に 順 序 の あ る 言 葉 で は あ る ま い か 。 大 徳 は 南 勝 房 と 號 す 、 然 る に 取 意 し て 南 證 房 と も 書 く の で あ る 。 南 證 す れ ば 即 ち 南 證 と な る 。 故 に 院 に 其 の 名 を 附 し た の で は あ る ま い か 。 四 入 寺 か ら検 校 ま で 大 徳 の 高 野 山 登 山 は 何 聴 の 時 代 か は 此 れ を 知 る に 由 な い 。 元 來 覺 海 大 徳 が 高 野 山 に 於 て は 大 樂 院 第 二 世 の 寛 秀 上 綱 に 就 い て 受 職 灌 頂 し て ゐ ら れ る。 然 る に 寛 秀 上 綱 密 嚴 房 は 上 述 の 如 く 高 野 春 秋 に 依 る な ら ば 建 久 八 年 七 月 二 十 四 日 の 示 寂 で あ る か ら 大 徳 が 此 の 年 以 前 に 登 山 し て ゐ ら れ る と し な け れ ば な ら 源 。 然り 大 徳 は 文 治 二 年 四 十 七 八 歳 の 頃 に は 既 に 高 野 山 に 於 け る 入 寺 の 位 迄 進 ん で ゐ ら れ る の で あ る 。 即 ち 文 治 二 年 五 月 に 高 野 山 住 僧 二 百 七 十 六 名 が 連 署 し て 次 の 如 き 訴 状 を 鎌 倉 殿 下 頼 朝 公 へ 提 出 し た 事 が あ る 。 高 野 山 住 僧 等 謹 解 申 請 鎌 倉 殿 下 御 裁 定 事 請 殊 蒙 鴻 恩日 依 道 理 且 任 證 文 被 斷為 佐 左 藤 衞 門 尉 能 清 背 度 々 院 廳 御 下 文 井 法 性 寺 (忠 通 ) 殿 下 政 所 御 下 文 等 擬 押 領 當 山 領 荒 川 庄 四 至 北 堺 不 當子 細 状 副 進 證 文 等 院 廳 御 下 文 案 六 通 内 鳥羽 院 一 通 當 院 一 通 高 倉 院 一 通 美 福 門 院 一 通 八 條 院 二 通 院 使 等 注 文 案 二 通 内 盛 弘 注 文 一 通 國 忠 檢 注 文 一 通 法 性 寺 殿 下 政 所 御 下 文 案 一 通 右 、 謹 檢 舊 貫 、 當 寺 領 荒 川 庄 者 、 平 等 院 (明 尊 ) 大 僧 正 堺 四 至 被 寄 進 鳥 羽 院 、 左 官 掌 盛 弘 依 院 宣 、 引 率 在 臆 官 人 等 、 臨 地 頭 、 任 往 古 公 驗 之 旨 、 堺 四 至 膀 示 畢 、 數 十 年 之 間 、 敢 无 他 妨 、 其 後 美福 門 院 御 傳 領 之 時 、 能 清 之 親 父 仲 清 始 巧 新 議 、 恣 押 領 北 堺 、 致
種 々 濫 吹 、 因 茲 、自 美 福 門 院 被 奏 聞 當 院 之 日 、 於 院 廰 召 對 両 庄 之 住 人 等、 被 決 斷 理 非 之 尅 、 田 中 庄 住 人 卷 舌 墮負 畢、 仍 任 大 治 年 中 、 鳥羽 院 廳 御 下 文 、 長 承 三 年 同 院 御 使 盛 弘 之 注 文 、 保 延 元 年 同 院 御 使 國忠 檢 注 文 之 旨 、 於 四 至 内 者 、 不 可 致 相 論 之 由 當 一 院 御 時 被 宣 下 畢 ( 中 畧 ) 然 能 清 爲 預 所 之 職 、 不 用 本 家 御 下 文 、 又 忽 諸 度 々 院 宣 、 頗 似 在 陰 折 枝 、 非 理 至 不 遑 毛 擧 矣 、 抑 當 山 、 者 、鎌 倉 殿 下 萬 壽 (頼 家 )御 前 、 井 御 臺 所 (政子 ) 等 、 致 長 日 御 祈 禧 、僧 徒 各 抽 懇 志 者 也 、 然 能 清 遣 无 道 使 者 、致 種 々 濫 行 、 欲 亂 寺 領 止 佛 事 、 愁 緒 不 少 哉 、 望 請 鴻 恩 、 早 停 止 彼 能 清 之 濫 妨 、 任 度 々 院 宣 井 關 白 殿 下 御 下 文 等 之 旨 、 蒙 御 裁 許 者 、 將 抑 正 道 之 嚴 旨 、 彌 奉祈 千 秋 壽 福 矣 、 仍 勤 状 以 解 文 治 二 年 五 月 日 大 法 師 永 覺 大 法 師 覺 増 (中 畧 百 五 十 八 人 ) 三 昧 大 法 師 延 遍 ( 中 畧 十 一 人 ) 入 寺 大 法 師 行 寛 入 寺 大 法 師 寛 全 ( 中 畧 八 人 ) 入 寺 大 法 師 覺 海 (中 畧 四 十 三 人 ) 山 籠 大 法 師 兼 圓 (中 畧 三 十 九 人 ) 阿 闍 梨 傳 燈 大 法 師 明 信 (中 畧 三 人 ) 阿 闍 梨 傳 燈 大 法 師 寛 秀 (中 畧 四 人 ) 檢 校 阿 闍 梨 傅 燈 大 法 師 理 賢 此 れ は 理 賢 大 徳 の検 挾 法 務 治 山 の 當 時 で あ る が 此 の 中 に は 大 徳 は 入 寺 大 法 師 と し て 連 名 せ ら れ 師 匠 た る 寛 秀 上 綱 が 阿 闍 梨 傅 燈 大 法 師 と し て 連 名 し て ゐ ら れ る の で あ る 。 さ れ ば 今 此 れ に 依 つ て も 大 徳 は 此 の 當 時 己 に 住 山 せ ら れ た の で あ つ て 然 か も 入 寺 位 に ゐ ら れ る 所 か ら 考 へ る な ら ば 既 に 十 數 年 乃 至 二 十 年 を 經 て ゐ ら れ る も の と せ ね ば な ら の 、 さ れ ば 大 徳 は 四 十 前 後 に し て 登 山 せ ら れ た 事 は 或 は 立 證 せ ら る ゝ 事 實 と な る の か も 知 れ な い 。 次 に 大 徳 の 阿 闍 梨 位 に 逹 せ ら れ た 年 代 で あ る が 此 れ に 就 い て は 彼 の 建 永 元 年 七 月 の 金 剛 峰 寺 衆 徒 置 文 ﹁ 大 田 使 者 下 向 間 事 ﹂ の 定 置 の 連 署 を 見 な け れ ば な ら の 即 ち 共 の 連 名 の 第 八 人 目 は 即 ち 我 が 南 勝 房 覺 海 大 徳 な の で あ る 。 行 事 入 寺 (花 押 ) (裏 書 )﹁ 順 光 房 ﹂、 年 預 山 籠 (花 押 ) (裏 書 ) ﹁理 善 房 ﹂ 阿 闍 梨 (花 押 ) (裏 書 )﹁ 巌 明 房 ﹂、令 (令 )﹁ 成 覺 房 ﹂、令 (令 ) ﹁ 相 圓 房 ﹂ 、 令(令 ) ﹁ 勝 光 房 ﹂令(令) ﹁ 光 法 房 ﹂令 (令 ) 、 南 勝 房 ﹂ 、 令 覺 海 法 橋 傅 一 〇 一
覺 海 法 橋 傳 一 〇 二 (令 ) ﹁尊 明 房 ﹂、 令 (令 )﹁ 慈 雲 房 ﹂、令 (令 )﹁ 圓 性 房 ﹂、令 (令 ) ﹁覺 母 房 ﹂、 令 (令 )﹁ 律 嚴 房 ﹂、 令 (令 )﹁ 光 修 房 ﹂、 令 (令 ) ﹁惠 法 房 ﹂、 令 (令 ) ﹁大 心 房 ﹂、 檢 校 執 行 阿 闍 梨 (花 押 )。 (第 卅 五 世 勝 成 法 橋 大 心 房 ) 然 ら ば 大 徳 は 此 の 間 如 何 な る 寺 務 を 執 り 、 何 を 學 ん で ゐ ら れ た の で あ ら う か 、 此 れ に 就 い て は 高 野 春 秋 も 賓 簡 集 も が 何 者 を も 物 語 つ て ゐ な い 。 此 の 間 に 於 け る 大 徳 の 行 跡 と し て 今 殘 つ て ゐ る も の に は 山 史 と し て 唯 此 れ だ け し か 存 じ て ゐ な い か ら 今 は 此 れ 以 上 何 事 を も 誌 す 事 の 出 來 な い 事 を 深 く 遺 憾 と す る 次 第 で あ る 。 斯 く し て 大 徳 は 建 保 五 年 丁 丑 春 、 高 野 山 第 三 十 七 世検 挾 法 橋 上 人 位 に 昇 ら れ た の で あ る 。 さ れ ば 以 下 此 れ に 就 い て 略 述 し な け れ ば な ら ぬ 。 五 大 徳検 按 の 時 代 覺 海 大 徳 の検 挾 と し て 一 山 の 法 務 を 執 行 せ ら れ た の は 建 保 五 年 か ら 承 久 二 年 に 到 る 四 年 間 に し か 過 ぎ な か つ た が 國 家 と し て も 幕 府 と し て も 將 又 一 山 と し て も 非 常 に 多 事 多 端 な 時 代 で あ つ た 。 國 に は 承 久 の 亂 が あ り、 鎌 倉 幕 府 に は 實 朝 將 軍 の 暗 殺 が あ り 、 一 山 に は 吉 野 高 野 地 領 堺 の 一 大 論 諍 が あ つ た 。 さ れ ば 山 史 と し て 見 て も 決 し て 此 の 時 代 を 看 過 し て は な ら な い か ら 今 は 此 の 四 年 間 の 事 件 を 年 代 順 に 彼 の 高 野 春 秋 及 賓 簡 集 に 依 つ て 列 記 す る 事 と す る 。 即 ち 大 徳 の検 挾 在 職 の 第 一 年 建 保 二 年 の 二 月 七 日 に 三 位 僧 都 貞 曉 師 が 鎌 倉 に 參 勤 す る の 招 請 に 應ぜ ら れ た 。 貞 曉 僧 都 と は 即 ち 源 頼 朝 卿 の 三 男 で あ る 。 源 氏 の 衰 亡 と 共 に 北 條 氏 の 隱 謀 が 師 に も 及 ん で 將 に 幼 命 を 彼 が 劍 錆 と な ら ん と せ し を 二 位 公 の 鐘 愛 を 得 て 身 を 御 室 法 親 王 の 室 に 隱 し 薙 染 受 法 し て 武 將 と し て の 望 を 絶 た れ た が 然 か も 彼 等 の 監 視 や 此 所 に 居 る に も 耐 え ず し て 終 に 承 元 二 年 三 月 身 を 高 野 に 遁 れ て 五 坊 寂 靜 院 の 行 勝 上 人 の 下 へ 投 じ て 北 條 氏 の 權 勢 に 遜 せ ら れ た の で る 。 時 殆 か も 第 三 十 六検 挾 覺 基 法 橋 の 時 代 で あ つた が 今 や 高 野 に 隱 る ゝ 事 七 年 に し て 此 の 擧 を 見 る に 到 っ た の で あ る 。 次 に 同 年 四 月 十 六 日 に は 雀 目 僧 正 頼 助 師 が 七 個 日 夜 を 限 つ て 奥 院 に 參 籠 し 夢 中 に 明 遍 上 人 を 威 見 し て 往 生 淨 土 の 義 趣 を 訊 問 し 終 に 安心 決 定 せ ら れ た 。 雀 目 僧 正 は 當 時 既 に 三 年 間 の 住 山 を 終 て ゐ ら
れ 遍 へ に 彌 陀 西 方 淨 土 の 往 生 を 願 つ て ゐ ら れ た . 彌 陀 往 生 の 決 定 に 即 身 成 佛 即 事 而 眞 の 密 宗 高 野 山 に 雀 目 僧 正 の 登 山 は 一 應 不 審 で は あ る が 然 し 當 時 の 高 野 山 は 覺 鑁 上 人 や 明 遍 上 人 の 秘 密 念 佛 流 行 の 後 を 承 け て 法 然 上 人 の 登 山 が あ り 既 に 己 に 彌 陀 往 生 の 思 想 が 盛 ん に 行 は れ て ゐ た 。 此 の 威 見 せ ら れ だ 安 心 も 亦 然 り で あ る 。 此 れ よ り さ き 建 暦 二 年 十 月 廿 五 日 に 示 寂 せ ら れ た 法 然 上 人 が 高 野 山 へ 登 山 あ つ て 西 方 往 生 の 安 .心 を 説 い て 曰 く 、 往 生 も 一 定 と 想 へ は 一 定 矣 云 々 と 教 示 せ ら れ た 其 の 決 定 は 又 雀 目 僧 正 の そ れ で あ つ た と は 吾 が 山 史 の 教 ゆ る 所 で あ る 。 僧 正 明 遍 上 人 を感 見 し て 一 ヶ 月 、 同 五 月 七 日 に は 貞 曉 三 位 僧 都 が 教 父 我 が 行 勝 上 人 が 經 智 坊 に 於 て 示 寂 せ ら れ た 。 上 人 は 攝 州 高 木 の 人 、 幼 時 花 藏 院 宮 に 事 ふ る も 常 喜 院 の 心 覺 阿 闍 梨 に 遇 つ て 此 れ に 受 法 し 山 巓 岩 窟 に 籠 居 修 練 し て 名あ り 或 は 明 王 の 出 現 を 見 或 は 止 雨 を 祈 つ て 仁 和 寺 道 法 親 王 の 受 職 灌 頂 を 助 け 終 に 木 食 練 行 元 .心 院 谷 に 五 坊 を 創 つ て 寂 靜 院 に 住 す る に 到 つ て は 專 ら 天 野 の 爲 め に 努 め ら る 、 後 人 、 此 の 示 寂 の 日 を 以 て 大 湯 屋 の 湯 を 沸 し 貴 賎 の 人 品 に 依 つ て 朝夕 を 分 っ て 燥 浴 せ し め 功 徳 傷 と 號 し て 上 人 の 菩 提 を 増 益 し 、 天 野 に 小 社 を 創 建 し て 若 宮 と 稱 し 以 て 其 の 怕 焉 逝 矣 を 弔 ふ も 由 あ る 所 で あ る 。 斯 く し て 山 内 に は 一 方 に 往 生 淨 土 の 念 佛 行 者 の 練 行 が あ り 北 條 の 權 勢 に 怖 れ て の 來 隱 が あ り 艱 行 不 怠 の 行 者 が 僊 化 を 見 る の 時 、 鎌 倉 幕 府 に は 一 大 變 事 が 起 っ て ゐ たの で あ る 。 即 ち 此 れ 源 氏 絶 滅 の 實 朝 暗 殺 の 事 件 で あ る 。 三 代 將 軍 實 朝 卿 は 建 保 六 年 十 二 月 二 日 、 右 大 臣 に 任 せ ら れ た が 、 當 時 北 條 氏 の 隆 盛 は 源 氏 大 將 軍 の 勢 權 を 以 て し て も 如 何 と も す る 事 が 出 來 な か つ た 。 故 に 實 朝 卿 は 常 に 快 々 と し て 書 見 と 作 歌 と に 其 の 樂 し ま ぬ 一 日 を 送 る の み で あ っ た が 終 に 卿 は 身 の 樂 し か ら ざ る 右 大 臣 の 職 又 何 の値 か あ る と 同 月 舊 臣 葛 山 五 郎 景 倫 を 筑 紫 に 赴 か し め 竊 か に 宋 に 入 り 萬 年 寺 を 莊 嚴 し 先 父 の 菩 提 を 祈 求 せ ん と 志 し た 。 舊 臣 景 倫 は 命 を 奉 じ て 筑 紫 由 艮 の 港 に 下 向 し て 重 舶 を 催 し 渡 海 の 日 和 を 俟 つ て ゐ た 。 然 る に 一 方 彼 等 北 條 氏 は 實 權 は 既 に 己 に 我 が 手 に 歸 し た と 覺 海 法 橋 傳 一〇 三
覺 海 法 橋 傳 一 〇 四 は 云 へ 輿 論 は 源 家 を 捨 て ゝ 彼 に 大 將 軍 の 高 名 を 與 へ る 事 を 肯 せ な か つ た 爲 め に 終 に 源 家 系 種 の 絶 滅 を 謀 り 隱 策 を 廻 ら し て 惡 禪 師 公 曉 を し て 、 承 久 元 年 一 月 廿 七 日 の 夜 中 、 右 大 臣 實 朝 卿 を 鶴 岡 八 幡 宮 の 階 前 に 於 て 刺 さ し め 、 罪 を 公 曉 に 責 め て 公 曉 を も 大 藏 谷 に 於 て 殺 害 し 其 の 血 統 を 絶 し て 吾 が 隱 謀 大 成 を 喜 ん だ。 此 れ を 知 る に 由 も な く 由 良 の 港 に 右 大 將 の 入 宋 を 俟 つ て ゐ た 景 倫 は 此 の 訃 音 到 る や 弓 刀 を 擲 つ て 主 君 の 菩 提 を 追 悼 し 二 世 の 忠 勤 を 抽 ん 出 ん か 爲 め に 即 座 に 剃 髪 染 衣 入 道 發 心 し て 願 性 の 名 に 世 を 捨 て 鎌 倉 に 歸 ら ず し て 高 野 山 に 登 り 貞 曉 上 人 に 之 れ を 傳 え た 。 上 人 は 之 れ を 聞 い て 驚 騒 せ ず 唯 其 が 追 善 の 爲 め 奥 院 に 三 石 塔 を 建 立 し て 景 倫 と 共 に 殘 る 半 生 を 新 ら し い 墓 の 前 に 、 北 條 の 勢 威 を 餘 所 に 花 と 香 と 讀 誦 經 典 の 淨 行 に 送 ら れ た の で あ る 。 景 倫 は 終 に 山 を 降 ら ず 、 叛 す る に 力 な く 唯 涙 を 袖 に 禪 定 院 (今 の 金 剛 三 昧 院 )行 勇 師 の 示 教 を 蒙 つ て 切 な い 主 君 の 追 善 功 徳 に 勵 げ ん だ の で あ る 。 六 大 徳 と 高 野 領 高 野 寺 領 は も と 高 祖 大 師 が 山 靈 両 大 明 神 の 神 點 を 受 け て 萬 許 町 の 分 野 四 至 を ト 食 し 官 符 を 奏 請 し て 今 の 地 に 伽 藍 草 創 の 功 を な し 更 に 遐 代 の 藍 吹 を 徹 視 し 御 手 印 圖 記 を 以 て 一 山 門 徒 に 遺 し 給 ふ た も の で あ る 。 後 承 和 已 來 は 後 僧 正 眞 然 大 徳 專 ら 山 務 を 執 り 此 れ を 襲 領 し 加 ふ る に 荘 園 を 以 て し て 堂 舍 を 構 へ 此 所 に 密 教 相 應 、 大 師 八 定 の 地 は 御 燈 を 績 け て 絶 ゆ る 事 な か っ た が 後 、 延 喜 年 間 に 到 り 無 空 律 師 卅 帖 策 子 の 問 題 起 つ て 一 山 廢 絶 、 衆 侶 離 山 の 事 あ り 、 其 後 長 和 よ り 長 徳 に 到 つ て 一 山 の 衰 運 め り 祈 親 定 譽 の 發 願 、 明 算 の 中 興 が あ つ た け れ ど も 然 か も 當 時 の 寺 封 は 相 半 し て 他 の 侵 掠 す る 所 と な つ て ゐ た の で あ る 。 勿 論 此 の 間 決 し て 複 興 な し と は せ な い 治 安 永 承 の 頃 に は 博陸 仰 信 の 餘り 官 省 符 莊 の 御 寄 附 あ り 、 寛 治 己 來 は 白 河 鳥羽 の 両 法 皇 臨 幸 あ つ て 許 多 の 莊 園 を 寄 せ ら れ 爾 來 一 人 三 公 祖 山 の 靈 徳 を 慕 ひ 、 鳳 輦 險 難 を 凌 き 臺 駕 相 繼 き 或 は 運 歩 廟 院 に 或 は 堂 塔 修 營 に 、 山 内 光 輝 を 増 し 人 注 新 に 鬱 興 し た 事 は 勿 論 言 を 盡 し て 猶 及 ば ざ る も の が あ る 。
鎗 倉 己 降 に 於 て も 其 の 隆 盛 は 見 る べ き も の が あ つ た 。 即 ち 文 治 二 年 に は 鎗 倉 右 大 將 頼 朝 公 御 教 書 を 賜 ひ 寺 領狼 藉 を 停 止 し て 右 の 逹 旨 あ り 、 下 紀 伊 國 高 野 山 御 莊 莊 可 早 停 止 狼 藉 井 地 頭 等 事 右 件 御 庄 々 彼 御 山 所 仰 下 也 仍為 令 致 其 制 止 雑 色 守 清 所 下 遣 也 自 今 巳 後 者 可 令 停 止 旁 狼 藉 也 且 御 庄 折 紙 遣 之 敢 勿 違 失 故 下 文 治 二 年 正 月 九 日 平 然 か も 此 の 頃 高 野 山 に 於 て は 鑁 阿 上 人 の 登 山 、 根 本大 塔 の 建 立 發 願 あ わ 後 白 河 法 皇 に 奏 請 あ つ て 備 後 國 太 田 庄 を 以 て 其 の 領 所 に 宛 つ る の 事 あ り 建 久 八 年 に は 次 の 如 き 大 番 免 除 の 御 下 文 を 給 ふ た 。 内 裏 大 番 役 催 使 入 高 野 御 領 事 早 可 令 停 止 但 於 堪 器 量 之 輩 者 雖 無 使 之 催 尋 聞 月 宛 可 令 勤 仕 者 依 前 右 大 將 殿 仰 執 違 如 件 建 久 八 年 八 月 十 九 日 前 右 京 進 中 原 (在 判 ) 大 臧 丞 在 原 (同 ) 散 位 藤 原 (同 ) 又 建 仁 三 年 に は 後 鳥羽 院 の 廳 宣 あ つ て 諸 國 分 散 の 寺 領 運 送 の 通 路 煩 妨 の 停 止 あ り 元 久 元 年 七 月 に 広 内 裏 造 營 の 事 に 闔 し て 先 例 起 癒 じ 免 役 の 恩 許 を 申 請 す る の 權 を 恣 に し 建 永 二 年 六 月 に は 御 室 の 令 旨 を 奉 じ て 州 民 山 領 を 亂 妨 す る を 武 家 よ り 制 止 せ し む る 力 を も 有 し て ゐ た 。 此 の 案 文 に 到 つ て は 悉 く 賓 簡 集 の 收 む る 所 と な り 今 に 御 影 堂 の 賓 庫 に 珍 藏 す る が 今 は 煩 を 恐 れ て 此 れ を 略 す る 。 然 ら ば 大 徳 の 法 務 執 行 の 間 に 起 っ た 事 件 は 如 何 な る も の で あ ら う か 。 然 り 大 徳 は 寺 領 相 論 の そ れ に 依 つ て 身 を 犧 牲 に し て 一 山 を 保 維 し 以 て 後 人 の 守 護 神 と 化 し 去 ら れ た の で あ る 。 換 言 す れ ば 大 徳 は 高 野 寺 領 の 權 化 で あ る 、 學 者 、 名 徳 智 識 と 名 を 飾 る よ り も 寺 領 保 持 の 努 力 者 、 野 山 興 隆 の 守 護 神 と 尊 敬 す る 方 が 寧 ろ 大 徳 の 心 中 を 物 語 る も の で あ ら う 。 さ れ ば 己 下 大 徳 の検 挾 時 代 に 起 つ た 寺 領 の 興 廢 に 就 い て 一 言 せ ね ば な ら ぬ 。 高 野 春 秋 第 八 卷 建 保 五 年 の 條 を 披 閲 す る な ら ば 次 の 文 を 見 る 事 が 出 來 る 。 同 月 (夏 四 月 )廿一 日 。 自 院 廰 重 被 下 按 察 使 於 神 野 眞 國 庄 官 等 。 是 所 謂 鞆 淵 庄 不 随 去 年 御 下 文 。 猶 押 領 石 走 村 。 横 取 加 弖 和 山 之 條 。為 制 止 非 儀 之 働 故 也 。 此 れ は 元 來 眞 國 庄 三 分 の 二 は 奥 院 領 な る に 當 庄 官 が 其 の 石 走 村 等 を 押 領 し た か ら 昨 四 年 の 十 月 廿 五 日 に 僧 珍 源 師 が 神 野 眞 國 の 政 所 へ ﹁ 石 走 村 百 姓 覺 梅 法 橋 傅 一 〇 五
覺 海 法 橋 傳 一 〇 六 等 有 迯 脱 事 者 、 其 跡 に は 眞 國 住 人 等 を 可 令 沙 汰 居 給 也 、 其 上 猶 靹 淵 圧 致 狼 藉 者 、 雖 爲 神 人 、 不 禪 搦 取 其 身 、 可 申 案 内 之 状 、 依 仰 執 逹 如 件 ﹂ と 書 を 奉 つ た り した が 然 か も 此 れ に 隨 は な か つ た か ら 同 日 に 按 察 使 藤 原 光 親 郷 が 左 の 如 き 下 文 を 降 さ れ た の で あ る 。 接 察 使 家 政 所 下 神 野 眞 國 御 庄 官 等 所 可 早 御 使 御 厩 舍 人 近 重 相 共 致 其 沙 汰 且 停 止 柄 淵 庄 新 儀 押 領 且 追 却 件 使 事 右 當 庄 内 眞 國 方 、 於 三 分 之 二 者 、 爲 彼 庄 被 押 領 云 々 相 論 雌 經 數 代 、 々 々 無 其 妨 之 處 、 始 自 去 閏 六 月 廿 五 日 押 領 石 走 村 之 上 、 近 曾 亦 加 納 最 中 在 家 等 之 由 、 御 庄 官 所 言 上 也 、 如 状 者 、 自 由 之 奸 濫 也 、 縱 有 由 緒 者 可 逹 子 細 、 未 斷 之 間 、 無 左 右 令 掠 領 之 條 、 結 構 之 趣 、 理 豈 可 然 哉 、 早 停 止 新 儀 妨 、 且 御 使 相 共 可 令 追 放 件 使 等 之 状 、 所 仰 如 件 、 以 上 建 保 四 年 十 月 廿 五 日 案 主 左 史 生 高 橋 (花 押 ) 令 前 大 舍 人 允 中 原 (花 押 ) 知 家 事 左 史 生 中 原 花 押 ) 別 當 西 市 正 大 江 朝 臣 (花 押 ) 中 宮 大 屬 中 原 朝 臣 (花 押 ) 散 位 中 原 朝 臣 (花 押 ) 前 筑 後 守 大 江 朝 臣 ( 花 押 ) 中 宮 權 少 屬 兼 右 衞 闔 中 原( 花 押 ) さ れ ば 覺 海 法 橋 法 務 執 行 の 第 一 年 四 月 廿 一 日 に 再 び 院 廳 よ り 左 の 如 き 按 察 使 家 政 所 下 文 が 降 つ た の で あ る 。 按 察 使 家 政 所 下 神 野 眞 國 御 庄 官 等 所 可 早 任 先 度 御 下 文 状 停 止 鞆 淵 庄 押 領 致 沙 汰 石 走 村 井 加 弖 和 山 等 事 右 件 村 事 、 去 年 始 爲 彼 庄 被 押 領 之 間 、 可 停 止 新 儀 濫 妨 之 由 、 成 御 下 文 、 下 遣 御 使 、 被 檢 知 其 堺 之 處 、 神 人 等 不 用 彼 状 、 剩 凌 礫 御 使 畢 、 而 猶 誇 無 道 、 亦 押 取 加 弖 和 山 云 々 、 結 構 之 趣 、 罪 科 旁 不 經 、 於 今 者 、 不 被 下 別 院 宣 之 外 、 停 止 彼 庄 押 領 、 任 故 大 貳 僧 正 知 行 之 例 、 可 令 致 其 沙 汰 之 状 、 所 仰 如 件 、 御 庄 宜 等 宜 承 知 依 件 行 之 、 以 下 建 保 五 年 四 月 翁 一 日 案 主 左 史 生 高 橋 (花 押 ) 令 前 大 舍 人 允 中 原 (花 押 ) 知 家 事 左 史 生 中 原 (花 押 ) 別 當 敬 位 大 江 朝 臣 散 位 中 原 朝 臣 ( 花 押 ) 中 宮 大 屬 中 原 朝 臣 (花 押 ) 前 下 總 守 源 朝 臣 前 筑 後 守 大 江 朝 臣 (花 押 ) 佐 渡 守 藤 原 朝 臣 (花 押 ) 修 斑 域 主 典 中 宮 少 屬 兼 右 衞 閼 中 原( 花 押 ) さ れ ど 此 の 二 度 の 御 下 文 あ つ て も 然 か も 彼 庄 の 庄 官 は 言 を 左 右 に し て 未 だ 隨 は な か つ た か ら 三 度 斯 く の 如 き 御 下 文 が あ つた の で あ る 。
按 察 家 政 所 下 神 野 眞 國使 庄 官 事 可 早 任 先 例 爲 當 庄 領 石 走 村 事 右 件 村 者 、 住 古 之 庄 領 也 、 而 以 當 村 住 人 未 宗 守 正 郷 司 男 等 結 構 、 翁 八 幡 御 領 鞆 淵 庄 、 一 且 雖 被 成 妨 、 良 不 及 始 終 儀 、 早 任 先 例 、 以 彼 村 可 爲 庄 領 之 状 、 所 仰 如 件 庄 官 等 宜 承 知 勿 逹 失 、 以 下 建 保 六 年 十 月 十 七= 案 主 左 史 生 高 橋 令 前 大 舍 人 允 中 原 (花 押 ) 知 家 事 右 史 生 中 原 別 當 散 位 中 原 朝 臣 (花 押 ) 佐 渡 守 三 善 朝 臣 (花 押 ) 修 斑 域 主 典 中 宮 槌 屬 兼 右 衞 闌 中 原 (花 押 ) 然 か も 其 の 後 と 雖 も 尚 圓 滿 な る 解 決 を 見 な か つ た か ら 同 年 九 月 十 六 日 に は 城 田 城 介 入 道 覺 智 大 蓮 房 が 書 を 覺 海検 挾 に 致 し て 神 野 眞 國 両 庄 役 官 之 次 第 補 任 の 細 大 を 尋 窮 し た 事 が あ る 。 高 野 山 御 領 紀 州 神 野 眞 國 、 依 爲 按 察 御 領 、 被 注 入 沒 官 所 候 之 間 、 被 成 補 地 頭 候 之 由 承 及 、 言 上 子 細 候 之 間 、 當 時 補 任 地 頭 之 條 被 止 了、 仍 若 猶 有 如 此子 細 所 哉 と 、 雖 御 尋 候 、 依 不 存 知 此 外 所 候 之 際 、 不 言 上 候 也 、 随 於 京 都 所 賜 預 候 之 衆 御 申 状 に も 不 載 子 細 候 之 間 、 丙 々 所 尋 申 候 也 、 恐 々 謹 言 九 月 十 六 日 覺 智 ( 秋 田 城 介 安 逹 景 盛 入 道 ) 謹 上 檢 挾 法 橋 御 坊 (覺 海 南 勝 房 ) 覺 智 入 道 は 登 山 の 初 め は 金 剛 三 昧 院 行 勇 長 老 に 隨 つ て 剃 髪 染 衣 せ ら る 。 北 條 氏 の 外 戚 怩 近 の 故 を 以 て 山 事 の 爲 め に は 時 々 鎌 倉 へ 出 勤 し て 内 奏 を な し 或 は 知 事 を 寄 せ 又 は 法 式 を 定 め た の で あ る 。 故 に 此 の 時 も 斯 く 沒 官 領 な れ ど も 地 頭 職 を 補 任 せ ざ る の 旨 申 送 ら れ た の で あ る 。 (入 道 の 傳 に 就 い て 詳 し い 事 は 水 原 氏 著 ﹁高 野 版 の 研 究 ﹂參 照 。 ) 尚 斯 く 覺 智 入 道 の 盡 力 に 依 つ て 承 久 三 年 の 十 月 に 降 つ た 後 筒 倉 院 々 宣 に は 次 の 如 き も の が あ る 。 高 野 山 領 紀 伊 國 神 野 眞 國 庄 者 、 大 師 御 手 印 之 最 中 也 、 仍 自 關 東 被 停 止 地 頭 職 云 々 、 然 者 早 爲 寺 家 沙 汰 、 可 令 庄 務 執 行 者 、 佐 院 宣 執 違 如 件 十 月 廿 四 日 右 馬 頭 (花 押 )奉 ﹁ 光 俊 ﹂ 此 の 院 宣 の 降 る 迄 に は 上 の 覺 智 入 道 の み な ら ず 禪 林 寺 の 權 大 僧 都 靜 遍 師 も 大 い に 盡 力 し て ゐ ら れ る が 其 の 事 は 同 月 二 十 六 日 附 の 權 大 僧 都 靜 遍 内 々 の 奉 書 を 見 て も 明 か で あ ら う 。 高 野 山 領 紀伊 國 神 野 麻 國 庄 、 閼 東 去 申 地 頭 職 云 々 、 歸 信 大 師 御 手 印 之 最 中 故 歟 、 奏 聞 之 處 、 叡 感 殊 深 、 仍 永 爲 寺 家 之 沙 汰 、 可 令 庄 務 執 行 之 由 、 随 申 請 所 被 下 院 宣 也 、 一 山 興 隆 時 至 、 四 海 崇 重 崇 重 彌 盛 者 歟 、 委 令 仰 使 者 之 状 、 如 件 、 十 月 二 十 六 日 靜 遍 私 申 内 々 觸 遣 子 細 等 關 東 、 本 懐 難 計 、 能 々 有 評 議 、 以 後 使 細 々 覺 海 法 橋 傳 一 〇 七
覺 海 法 橋 傳 一 〇 八 可 注 遺 也 、 先 令 落 居 庄 家 事 、 待 重 仰 、 可 令 始 行 御 願 也 者 斯 く し て 此 の 事 件 は 落 着 す る 事 が 出 來 泥 が 然 ち ば 此 の 神 野 眞 國 庄 の 料 は 何 の 爲 め に 如 何 に し て 使 消 さ れ た の で あ ら う か 、 此 れ に 就 い て は 禪 林 寺 靜 遍 僧 都 が 覺 海 大 徳 に 贈 っ た 書 に 依 つ て 盡 す 事 が 出 來 る 。 故 に 今 は 此 の 全 丈 を 列 擧 し て 此 れ を 説 述 す る の 煩 を 避 け る で あ ら う 。 高 野 山 領 紀 伊 國 神 野 眞 國 庄 事 、 去 比 検 校 覺 海 法 橋 、 以 英 賢 入 寺 爲 使 、 相 副 闘 東 覺 智 城 介 入道 申 状 、 依 言 上 子 細 、 巳 被 下 院 宣 了 、 但 御 願 次 第 等 、 遂 可 仰 下 云 々 、 而 寺 家 申 状 量 到 來 、 子 細 同 前 也 、 仍 今 度 御 願 用 途 次 第 等 、 條 々 所 被 注 遣 也 一 、 以 奥 院 可 爲 道 場 事 院 内 處 々 者 、 恒 例 臨 時 佛 事 、 古 今 有 數 、 仍 以 此 庄 地 利 、 於 當 院 毎 日 不 退 勤 舍 利 講 、 而 可 誦 加 寳 筐 印 陀 羅 尼 七 遍 也 。 以 顯 兼 密 、 定 易 修 難 退 歟 、 且 是 殊 有 被 凝 叡 信 之 深 趣 故 也 、 御 講 式 被 書 遣 之 、此 式 者 凡覺 鑁 上 人 制 作 第 四 段 貞 慶 上人 加之 矣 一 、 講 衆 被 抜 補 間 事 一 山 襌 侶 之 中 、 有 六 重 階 位 、 所 謂 阿 闍 梨 、 山 籠 、 入 寺 、 三 昧 、 久 住 者 、 衆 分 也 、 各 撰拔 其 一 藹 、 爲 六 人 之 講 衆 、 以 五 日 爲 結 番 不 退 可 致 長 日 之 勤、 傳 聞 巳 上 、 一 々 者 徒 蘭 嗜 艾 之 齢 、 多 漏 群 英 之 擇 、一 鉢 資 薄 、 半 粒 施 洪 、 仍 殊 所拔 補 也 、 抑 一 和 上 衆 差 定 皆 及 衰 邁 歎 、 若 不 堪 行 歩 之 時 、 以 二 臈 人 且 令 誂 勤 、 可 分 供 料 、 正 及 其 闘 、 觸 検 校 可 補 正 位、 其 供 料 員數 、 一 准 本 入 寺 僧 、 一 年 各 可 宛 拾 斛 捌 斗 矣 一 、 佛 供 燈 明 事 佛 供 燈 明 、 日 々 各一 升 。 承 仕 三 人 同 之 、 惣 拾捌 斛 矣 一 、 不 斷 經 用 途 事 本 自 件 用 途 者 拾 貳 斛 、 他 所 領 家 之 時 、 無 懈 怠 運 送 之 云 々 、 今 又 不 可 増 減 、 若 實 檢 田 地 之 時 、 有 用 殘 者、 可 宛 置 潤月 分 井 修 理 用 途 、 當 院 殊 無 足 所 故 也 、 於 輕 物 、 可 宛 院 内 恒 例 之 舍 利 會 布 施 矣 以 前 條 々 々 、 依 件 行 之 、 此 上 猶 衆 徒 有 所 存 越 者 、 可 言 上 子 細 也 、 兼 別 構 寺 庫 一 宇 、 納 置年 貢 、 以 奥 院 承 仕 一 臈 、 可 爲 出 納 之 仁 、 於 預 所 職 者 、 永 代 就 檢 校 房 補 之 、 良 不 可 有 異 議 者、 依 内 々 御 氣 色 、 執 逹 如 件 承 久 三 年 十 月 晦 權 大 僧 都 靜 遍 高 野 檢 校 法 橋 御 房 ﹁ 覺 海 南 勝 房 ﹂ 次 は 大 塔 料 太 田 庄 の こ と で あ る が 元 來 太 田 庄 は 文 治 二 年 五 月 に 鑁 阿 上 人 が 大 塔 長 曰 不 斷 両 界 供 養 法 及 用 途 料 と し て 奏 請 し 院 の 廳 許 を 得 官 符 を 得 た の で あ る が 後 前 司 實 平 公 の 押 妨 す る 事 あ つ て 早 く 制 止 す べ き の 旨 を 鎌 倉 に 命 じ 給 ふ に よ り 同 七 月 頼 朝 公 の 承 文 を 得 た , 然 る に 此 れ に も 尚 故 障 あ る に 依 つ て 閏 七 月 に は 籍 び 武 家 に 命 じ 給 ふ 。 さ れ ば 其 の 時 に 贈 ら れ た 頼 朝 公 の 承 文 は 今 に 存 し て 其 の 後