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琉 球 使 節 通 行 に 対 す る 「 御 仕 構 」

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Academic year: 2022

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(1)井. 建. 也. 会の中で'我々の拠り所はどこにあるのであろうか。その葛藤の中. わってい‑。特に「安全」を希求しなければならな‑なった現代社. それに伴い、今まで普遍的だと捉えられてきたことへの認識も変. 近年'様々な価値観の崩壊・変容が叫ばれるようになってきた。. 討が必要であるという点を踏まえても'そのまま首肯するわけには. 「観光」という近代的な概念は近世史研究に応用可能かどうかの検. 事例としているという点、及びゲスト・ホストが相互作用的に働‑. めて画期的である。しかし'富士山山麓という極めて特異な地域を. ける 「ゲス‑」‑「ホス‑」関係という概念が活用されたことは極. 伊予国津和地島を事例としてI. 琉球使節通行に対する「御仕構」 態勢について ‑. 玉. う問題を可視化することそれがこの論文の目的である。. (‑). 移動の問題はここ数年、歴史学において新たな視点として導入さ. で'私は津和地という島を取‑上げ、論じてい‑。しかし、そこで. いかない。また陸上交通だけではな‑'海上を含めた移動の問題に. はじめに. 起きた出来事をただ取り上げるだけではない。琉球使節の通過時の. 着目する必要性もある。. れるようになってきた。特に青柳周一氏によって、観光人類学にお. 出来事を踏まえて'瀬戸内海という海上における安全性・安定性に. 参勤交代等々、様々な事象に関して述べられてきた。しかしながら、. 研究史上、海上交通については海運・外国使節通行・長崎奉行・. 物ともいえる事象を受け入れることで触発される側面、そしてそれ. 根本的な海上における安全の問題については目配りがそれほどなさ. ついて論及するつもりである。移動という、地域社会においては異. を受け入れるために維持され、努力される側面。意識して眺めなけ. れていない。藤木久志氏が豊臣政権下における海賊停止令に着目Lt. m. れば見えてこない要素というものは現代社会の日常性の中にも数多. 真栄平房昭氏が東アジアを視野に海賊問題を取‑上げているが'そ. l=rJl. く埋没している。凡庸としていては気が付かない・気付けないもの. れらに対し近世日本の内部に目を向けてみると海上交通の安全性'. 三一. を見る、つま‑'今まではほとんど顧みられてこなかった安全とい 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(2) そして安全であることの日常性についてはほとんど問われてきてい. し、船団を組んで接待が行. は津和地誌の伊予松山藩士. なわれた。それを勤めたの. 琉球使節に関しては、使節の構成などの詳細を明らかにした宮城. である八原家であり'格式. ないといえる。. 栄昌氏、日本の琉球認識及び出版文化を考察した横山学氏、政治. は寄合大小姓格'石高は一. (*‑). (ll). 0. 史・外交史の側面から使節を分析した紙屋敦之氏'及び書翰問題を. 〇石前後であったとされて. ". 敬‑上げた梅木哲人氏、豊見山和行氏、また使節の東照宮参詣を考. いる。では、その「御仕構」. (. 察した実栄平房昭民らの諸研究がある。また本論考の主眼の1つで. はどのようにして行なわれ. (. ある使節を迎え入れる現場レベルに関する研究は、岡山藩の事例を. ていったのであろうか。ま. (S). (6). 敬‑上げた紙屋敦之氏、小倉藩の事例を分析した三宅英利氏、そし. ずは現場レベルではな‑、. (co). て川登りの際の綱引助郷を考察した飯沼雅行氏の研究がみられる。. それが大局的にどのように. 当然のことであるが'. ( 」 ). しかしながら、移動を受け入れる側の問題としては、特に海上交通. 把握されていたのかについ. (9). においてその具体相は岡山藩一つにとどまり、それ以外の地域では. て述べていく。. ( S ). どのように行なわれていたのかは未だ研究されていない。また、今 回取り上げる津和地島に関しては、藩領を越えた人的ネットワーク. 「御仕構」は八原氏が自発. ( 3 ). について述べる井上淳氏'参勤交代への対応について考察する東昇. 的に行なっていたわけでは. 1 Z >. 氏の研究がある。特に束昇氏は 「御仕構」 に関して論及しているが'. ない。寛政二年(一七九〇) ( S ). 琉球使節通行時については述べていない。. の 「琉球人来朝御用記」 に よると事の始めは次のよう. 一筆令啓達候、然者別. 一㌧ 「御仕構」 における浦触について. 今回'注目する「御仕構」とは 「御仕成・諸仕構」などとも記さ. 紙之通'大坂御留守居. になっている。. れ'長崎奉行や諸役人、琉球使節等の外国使節への対応のことを指. 瀬戸内海概要図.

(3) 占申参候間、津和地表御仕樺等之儀被相伺候様可中人旨、御部. (傍線は筆者による。以下同). 吉田左次兵衛. 奉行中iQ申来候間、早々御申達可有之候、恐憧謹言 八月九日 八原佐之右衛門殿. 文化三丙寅年. 石川執負. 御印. 御印. 御料私領浦々. 七月. 佐久間備後守. 水野若狭守 御印. 状であるが'注目すべきは大坂留守居役から話が来ている点である。. 庄屋. 従大坂薩摩国迄. これは次に掲載されている史料に 「薩州様、大坂詰御留守居占遠山. 年寄. 伊予松山藩の郡奉行である吉田佐次兵衛から八原氏に対しての書. 新吾江'左之適中来候事」とあるように、薩摩藩が藩の大坂留守居. では、具体的な様相ではな‑、「御仕構」について漠然と尋ねている. へ、そして津和地の八原氏へという流れになる。この寛政二年段階. えていることが理解できる。そして桧山藩大坂留守居役から郡奉行. 付繋其外不作法無之棟於浦々急度可申付候'此触状浦次順々相. 相聞候'今度琉球之使者往来渡海之節泊々二而往来之商船等御. 交繋'又ハ不限昼夜船中をのそき或怪敷船杯も乗廻候儀有之由. 琉球人渡海之節前々於泊々往来之商船等琉球人乗船二不遠慮入. 役を通して、伊予桧山藩の留守居役へと今回の江戸上りについて伝. だけである。残念ながらこの次段階である寛政八年(一七九六) の. 廻し書面之通承届候段庄屋・年寄印形手形相添、至薩摩国 松. ( S ). 「琉球人来朝御用御仕成拍」では、このような記述はな‑'最初から. 平大隅守家来江可相添者也 文化三丙寅年. 御印. 情報収集の段階に入っている。しかし'続いての文化三年二八〇 六) になると様相は変わって‑る。. 御印. 佐久間備後守. 石川敬負. 今度琉球之使者松平薩摩守家来召連薩摩国占大坂迄渡海之事こ. 水野若狭守. 七月. 候間'自然海上こ而風波荒候ハ、浦々iQ船を出し曳入候様二可. 従大坂薩摩国道. 一大坂三御奉行占御印附御浦触左之通. 致候、其外急用之儀有之節者於其浦々無滞様可致沙汰候、右之. 御料私領浦々. 三三. 庄屋. 御印. 通船中江も折紙遣候'此触状浦次順々二道至薩摩国松平大隅守 家来江可相添者也 琉球使節通行に対する「御仕横」態勢について.

(4) 年寄. 三四. 酉時分伊予之内津和地江碇を卸候事」とあ‑、復路では「一昼時分. 占曇天二相成'風波荒立候付、御家老御用人衆占致陸宿候様被仰涯. ( 3 ). 「御仕構」態勢において一番重要なのは、いかに接待が行うかでは. 文化三年の 「琉球人来朝帰朝御用控」 の冒頭部分に以上の記述が. 船を出して対応することや琉球使節が乗船している船をのぞかない. な‑、事前の準備であるといえる。その中でも琉球使節が現在どこ. 候付、正使御姶いづれも酉時分寝具等取卸致陸宿候事」と上陸して. ことなどという具体的な内容にまで踏み込んできている。そして仝. を通行しているのか、そしていつ頃'到着するのかという情報を得. 見られる。寛政二年には間接的に津和地へと伝えられてきた情報が、. ‑同文の記録が天保三年(1八三二)'天保十三年(1八四二)、そ. るのは 「御仕構」態勢を行なうにあたって極めて重要な情報である。. 泊まったことしか記されていない。現場レベルの具体像はどのよう. して嘉永三年(1八五〇) に確認することができる.つま‑はこれ. そのために津和地島の八原氏は幾重にも渡る情報網で事前準備を行. 今回は浦触という形式で大坂町奉行から直接的に伝えられてきたの. 以降'この浦触は定型化してしまうのである。また、薩摩まで浦々. なっている。しかしながら初めから情報収集が上手‑出来ていたわ. なものであったのだろうか。. へと順にまわしてい‑ことを考えると、寛政期には薩摩1大坂1. けではない。. である。さらには琉球使節が海上で風雨に遭った時には'浦々から. 浦々というル1‑が確立しておらず'各個に対応していたが、文化. (往路でいうと西側から)、浦継ぎで渡って‑る「順達」がその中心. 寛政二年の段階では'情報収集の中心は琉球使節がいる場所から. る。これは1つには大坂町奉行による瀬戸内の海上支配の一面を指. であった。例えば「l九月三日上関iQ飛船到来之処'左之通順達」. 期になると浦触という形で通達の一本化が可能になっているのであ. 摘することができる。しかし、現場レベルの変容はこれとは違う様. とあ‑、文中には 「下筋占順達到来仕候二付、差送申候'上筋へも. 「右状賃弐百文相渡候様申参、直こ相渡申候」とあるので賃金を支. 門からの独自ルートでの情報を得てもお‑'彼からの書状のあとに. ( S ). 和地から蒲刈へと 「順達」されている。また豊前小倉河内屋六左衛. 達していることになる。そして 「右之段早速蒲刈江致順達候」と津. 御順達可被下候」とあるように'下筋から上筋へと浦々を順番に通. (20). 相を見せている。. 二㌧「御仕構」における情報収集について 琉球使節側の詳細な記録としては、天保三年の江戸上‑時に記さ. れた「儀衛正日記」が存在するのみである。津和地通行時の記録と. 払っていたことも分かる。以上のように情報は二方向から入ってき. ( S ). しては往路に「一明六ツ時分貝鳴候付あなせ浦出帆'間々押船こ而'.

(5) ばよいのかの指標が明確ではなかったようで'八原氏から郡奉行吉. ていたが、この寛政二年の段階では、「御仕構」をどのように行なえ. 菜・肴・炭薪差遣し申候、長崎御奉行同様之事こ御座候、葬左. ニ御座候、其外格別之儀者無御座候、尤麦元之儀者所有合之野. こちらは上関の時よ‑も明確で、八原氏は沖家宣の在番に「御仕. 国行半左衛門. 様御承知可被成候、以上 九月七日. 田左次兵衛への八月十二日付の書状では 「宝暦年中御仕成別紙之通 御座候、此度も前格之通可被仰付哉御伺中上候」と一先ず宝暦年間. 終わらず八原氏は各浦の 「御仕構」 の情報を集めている。九月1冒. 構」 の内容を接待の具体像まで含めて問い合わせていることが理解. 八原佐之右衛門様. に八原氏から郡奉行高木四郎左衛門への書状の中に宝暦の時に上関. できる。では何のために八原氏はこれらの情報を集めていたのであ. に行なわれた「御仕構」を参考にしている。しかし、それだけでは. における「御仕構」 で準備された船名・数が記されている。さらに. ろうか。往路の琉球使節通過後に次のように記されている。. は「御仕構」態勢の確立期であったと考えられ、「順達」を中心に琉. 子を意識しての情報収集であったことが分かる。まだこの寛政二年. 最後に記されているように、他の浦々、さらにいえば他の藩の様. 者大方御他邦御並合二相成無差支相済可申候. 此分入船共不時御勘定立二被仰付被下庭草、斯之通被仰付候得. 1同御通船之時者漕船拾膿相増都合船高三拾五鯉二相成候事、. 右者琉球人・御家老御引纏之節御手当如斯'但薩州様御召連御. は、この情報とは別に次のように上関へ尋ねている。. 一炭薪積船 壱般. 1水木船 拾舷. 一上関江薩州横井琉球入江御仕成之儀尋遣候処、左之適中来候 一漕船 弐拾壱膿. 一押へ船 四肢. 一瀬戸番船 壱膿. 但方角三才判催合二〆. 一用通船 弐肢 ′ 1 ′. 右之通来ル晦日用意有之候由. に意識して構築されていたものであった。しかし'次の寛政八年は. 球使節通行の情報を得、それだけではな‑他邦と何ら遜色ないよう. 書状の1部である。宝暦年中だけではな‑、現状についても問い合. また違った様相を見せることになる。河内屋との書状のやり取‑の. これは九月二十六日に八原氏から嶋方大庄屋の忽那宗兵衛宛ての. わせていたことが分かる。また沖家宣の「御仕構」については次の. 3 抑 内. 記述で始まる寛政八年は'前段階では情報伝達の中心であった 「順 達」が機能しな‑なっている。 一上関右左之適中来候. 三五. ようになっている。 一沖家宣御仕構左之適中来候 先達而被仰聞候舟数之義者、漕船弐拾膿・水船拾膿・番船四肢 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(6) 以飛札致啓上候'今般琉球人江戸罷登‑候こ付 松平豊後守様. も同様に順達なしで「御仕構」を行なうことにしていることが分か. 達が来ていないが準備に入ったことを受けて、伊予松山藩において. 三六. 御家来召連、1昨十二日赤間関着船仕候由相聞申候'海上筋順. る。しかし、情報なしで準備をすることはやはり問題であったよう. 1上ノ関・家宣江左之通聞合遣ス飛船十七日iQ十九日、日数三日、. 達無御座候間相決シ候儀こ而ハ御座有間敷候得共'右之段承‑. 召連趣こも無御座候二付、水槽舷・薪計仕入仕候様こと城下表. 水主四人上乗‑壱人都合五人乗‑上乗‑五人与市左衛門差遣'. で、上関へ次のように問い合わせている。. 占申参候二付、右之通相決申候'此段被聞召可被下候'自然前. 以飛札致啓上候'然者此間琉球人之様子御知被下候所奉存候、. 候二付'於蒙元ハ先諸向之手当仕居申候'此度之儀者薩州様被. 断之趣二而候得ハ火急之儀可有御座候奉存候二付為御知如此御. 右二付早速諸手当申付相待居申候処、未下筋御順達無御座如何. 硯与奉存候、大里・赤間関廻着も御座候ハ、走而申送り可有御. も御座候ハ、御報被仰聞可被下候、猶此巳後下筋御聞合之上大. 井原源内. 座候、猶追々様子相分‑次第可得貴意候 恐憧謹言 九月十四日. 「海上筋順達無御座候間」とあるように「順達」がな‑なっている. 里着出帆等之訳相知候ハ、 '早々こ被仰越可被下候、且又左之. 座与存候得共、隙取候こ付御尋中人候、其後之様子及御聞之儀. ことが分かる。自らの判断で行なうわけにはいかないが'薩摩藩主. 趣も下筋御駈合御知と被下度、勇此段1人奉願候、其余便口上. 八原佐之右衛門. が赤間にまでやってきているために、そして城下からも命じられて. 恐憧謹言. 被申含候. 九月十七日 井原源内殿. 八原佐之右衛門. いるために準備を行なうことにしたという。そしてこれに対し、八 原氏は次のように対応している。 一左之通'松山江申達侯 此度来朝之琉球人去ル十二日下関着船之由相聞候旨、上関井家. 覚 一琉球人姓名井官人惣人数. 茎被申来候'尤未順達ハ無御座候得共御手当等被仰付候由、則 直書御披見人中候、右こ付豪元御仕構之儀も先達而被仰付候通、. 1琉球人乗‑船井惣船立 一琉球人引纏. 今十五日朝占相揃申候 以上は上関から書状が来た翌日一五日に'八原氏から鴨方代官の 堀口善兵衛への書状の一部であるが、そこにあるように上関にて順.

(7) 胴悶家名 右之通御聞合被下度奉願候、以上 九月十七日 井原源内殿. 八原佐之右衛門. 仕度奉存候、恐憧謹言 八月廿四日 西川杢右衛門様. 八原儀左衛門. これは八原氏から鴨方代官である西川杢右衛門への書状の一部で. ある。ここで注目すべきは豊前小倉河内屋からの情報が何らかの理. かった「順達」 についても来ないわけではないが遅れるので当てに. 由で滞っていることである。また寛政八年段階で既に機能していな. しい情報も尋ね、さらには次の覚書では、琉球使節の姓名・船・率. はならないものと認識されている。では、この年はどのようにして. 「順達」がないことについて尋ねているだけではな‑、その後の新. いている薩摩藩家老等の情報も要求している。以上を踏まえるとこ. l先こ中上候通下筋iQ之順達ハ何つ連も延着仕候二付差支二相成. 情報収集を行なったのであろうか。. ために八原氏自らが動き出して、情報収集を行なうようになってい. 候程難斗御座候故'通船二無油断承合させ候得共、猶為急副刺. の寛政八年の段階になって順達が機能しな‑な‑、それを補完する. ることが分かる。では天保三年はどうであったのだろうか。寛政八. 之通上ノ関家老之内江附船壱膿差出置可申与奉存候. 用聞占飛脚船便ヲ以私江知七呉候二付'御仕構向等格別日数懸. 且亦前々者薩州様御往来井琉球人・朝鮮人之様子等豊前小倉御. 右夫々御窺申上候、否之儀早々御下知被成下候様仕度奉存候'. いるのであろう。そしてこれ以降、次々と津和地から「附船」が出. とあるのは寛政八年段階での琉球使節の姓名を尋ねた事例を差して. でも述べられ、上関へ「附船」を出すべきとなっている。「前々之通」. るが、既に述べているように「順達」が機能していないことがここ. これは九月十三日に八原氏から西川杢右衛門への書状の一部であ. 年には「順達」が機能しな‑なったことは既に述べたが、この段階 こ 」 '. ‑不申様差配‑之都合宜御座候虞、近来ハ右御用懸之者無御座. されていくことになる。. では既述の豊前小倉河内屋六左衛門からの情報が来な‑なっている。. 哉1向文通不仕、下筋占之順達ハ何つ連も延着仕丈夫之当テニ. 只今下筋占別紙到来仕候二付御附船帰‑候便‑差送‑申候間上. 一附船代‑罷戻‑候虞、下筋右左之通順達到来之旨中越ス. 兼々御仕構相揃侯様可仕哉与奉存候、尤御隣領茂通船杯こも無. 筋江も御順達可被成候、追々様子相知候ハ、早速御知達可仕候. 相成不申二付'此度ハ薩州久見崎出帆之頃合占天気之趣ヲ以. 手抜承合候上之取斗二可仕覚悟二者御座候得共'御仕構船之. 以上. 三七. 村々iQ罷出候儀故是等之所御高考之上幾重共御差図被成下候棟 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(8) 九月廿日. 八原儀左衛門殿. 加辺七郎左衛門. 三八. わけである。では'以上の様々な手段によって得られた情報の精度. は如何なるものであったのであろうか。. と記されていた「附船」が二十日に戻ってきたことを指し示す。沖. 適中参侯二付為御知達御附船差返し申候'未下筋iQ順達ハ到来. 一筆致啓上候、然者琉球人之儀こ付上ノ関占聞繕相成、別紙之. 1附船罷戻‑候虞左之通申越ス. 家室の在番加辺七郎左衛門からの書状は 「順達」がやって来たこと'. 無御座二付、憶成儀ハ相分‑不申候得共、火急之儀難計二付得. これは九月十六日に「1沖家宣江附船今日iQ差出ス、九月十六日」. そしてそのために「附船」は戻ってきたことが理解できる。つま‑. 加辺七郎左衛門. 御意侯、為其如此二御座候、恐憧謹言. 八原儀左衛門様. 十月六日. は 「附船」を差し出す相手は上関のみに限らず'沖家宣へも送って. 東風. いたのである。しかし、情報収集の手段はこれだけではない。 同十日. 尚々順達到来次第早速可致御知達候間、左様御承知可被下候、. 琉球人之儀二付今日蒙元占御登船江致聞合候虞、朔日平戸之た. 一右こ付今日御仕構相揃遠見番船差出候事. はな‑、津和地周辺に遠見番船を出して、琉球使節がやって来るか. すき占下関参着任候との儀地下役座右承り合申出候、右こ付妥. 巳上. どうかについて探索する手段もあったのである。またこの九月十日. 元諸仕構今日占敦沙汰候間左様御承知、於其御方も其御心得ヲ. 遠‑の場所へと船を派遣し、情報を得て帰って‑るというだけで. の記述から遠見番船が「御仕構」態勢に組み込まれていることが理. 武弘九右衛門. 以諸御仕構被成可然様存候'右為可得御意如此こ御座候、巳上 十月五日. 解できる。. 一琉球人乗船兄へ候旨遠見占注進二付早速船々引纏罷出御用伺相. 尚々下筋占之順達ハいつれ及遅滞可申と存候. 加辺七郎左衛門様. 川上十郎左衛門与申仁ヲ以被申開候'左候而申ノ中刻頃津和地. 此度之儀も大隅守樵御家来召連被罷登候儀こ付、先例之通人数. 勤候虞'於江戸表可被仰達候間'御役人中迄宜中上候棟御取次. 湊江御繋船、同夜御泊船こ付御仕構船々御茶屋御長屋前へ揚桃. 其外今日占敦仕向申候'且又着服之儀ハ羽織・袴二而御勤向相. この史料は琉球使節が下関へ着いたという情報が書かれた上関在. 済せ候覚悟二御座候、此段右横御承知可被下候'巳上. 灯燈村方打廻‑致させ候こ付'蝋燭左之通 そして、このように津和地周辺において 「遠見番船」 によって疏 球使節の姿が確認され、「御仕構」態勢の船々で出迎えにいっている.

(9) 日の三日後にまた同様のパターンで沖家宣から書状が届いている。. 帰ってきたことが書かれている。しかし、これが記録された十月六. 年十月五日の書状を'津和地の「附船」が最新情報として持参して. 番の武弘九右衛門から沖家宣在番の加辺七郎左衛門へ宛てた天保三. 島近辺の捜索が主な役目である。そして最後に四つ目として小倉御. 「遠見香船」で、これは「御仕構」態勢に組み込まれている。津和地. に動き始め、天保三年には情報収集の中心となっている。三つ目が. 船である。これは「順達」が機能しな‑なった寛政八年から本格的. 使節が来る方向へ(往路の場合は西へ)'情報を得るために派遣する. 用間の存在が指摘できるが、これは天保三年には情報が途絶えてい. 関連するところだけを抜き出すと次のようになる。. 尚々此間得御意候下関着船之儀早船承‑懸申達候庭、間違二而、. る。. これは武弘から加辺への書状の一部分であるが'前述の琉球使節. 上'様々なものを準備しなければならないのである。特に目に付‑. 情報を得るだけが「御仕構」 ではない。接待というものである以. 三㌧ 「御仕構」 における接待準備. 琉球人先船二而御座候由於愛元承‑懸致用意候御座候故、此度 も自然者先船共二而ハ無之哉と申候庭、先船二而ハ無之と中辛 帽蛭ISKS. ニ御座候、親最早間相も無之儀こ付勇之趣○被仰越候様存候、. が下関に着いたという情報は間違いであって、到着したのは先船で. のが蝋燭や炭などの消耗品の準備である。寛政二年については次の. 以上. あったことが分かり訂正をしている。以上のように 「附船」を利用. ように記されている。. 一火鉢. 十ヲ. 三九. 琉球使節が復路の際に、上陸し風呂に入る可能性があるというこ. 拾俵. 一弐杖御扉風一双. 宿風呂等内用意可申付置故、要用之品別紙之通'其節二重‑御. 御鳴之趣二而、御帰朝之節津和地江茂御揚‑も可有之二付'御. l此度琉球人所々こ而御揚‑御座候由、鹿老渡江茂御揚御取次iQ. (24). して、少しでも新しい情報をと求めていったあま‑'間違った情報 をも持って帰ってしまう場合も見られたのである。 以上の情報収集を簡単にまとめると次のようになる。大坂町奉行 からの浦触を1つの契機として動き始めた「御仕構」態勢の準備は、. 差出し置可然事 一六枚御犀風一双. つ目としては. 「順達」が挙げられる。これは琉球使節のいる場所から浦継ぎで回っ. 一居湯桶. いくつかの方法によって情報収集が行なわれる。1. てくる書状であるが、寛政八年段階・で機能に配膳が出始め、天保三. 一焚炭. 二つ. 年には既に「延着」するものとして最初から期待されていないもの であった。二つ目としては「附船」が挙げられる。津和地から琉球 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(10) 醐家借受、人払二而[其] 家致幕張」とあるので'他者との接触を. 「儀衛正日記」の九月五日の記述においても「船中於港琉球入湯入之. とを鹿老渡から聞き、その用意としての犀風類であることが分かる。. 二而芸州御領江御移、船々同日夕迄こ相仕廻御都合克相済申候. 方打廻り穿仕らせ申候、左候而昨十二日天気能未明御出船漕船. 御仕構船二茂御茶屋御長屋前水場江例之通揚桃灯燈葦火焚せ村. 被申開候両、同申ノ中刻頃津和地湊江御繋船、同夜御泊船二付. 一右こ付先達而御渡之蝋燭別紙之通燈申候. 避けるための犀風であったと推測できる。また寛政八年は八本、文 化三・天保三年は一〇〇本'天保十三年は二〇〇本、嘉永三年は二. 一此度御仕構向井附船所々飛船御借入共別紙之通二御座候'別来. 右夫々御達為可中上如此御座候、恐憧謹言 十月十三日. 西川杢右衛門様. 八原儀左衛門. 一三津方こ而拝借之御桃灯御小早被積組差戻し申候. 朝之節之御用意二積‑置可申与奉存候'左様被聞召可被下候. 一焚炭之儀此度者御揚陸無御座格別入用筋も無御座候庭、無程帰. 状返番共夫々御聴こ人中候. 二本と年を追うごとに準備する蝋燭の数が増えていっているが' 嘉永四年の記録を見ると 「1蝋燭拾壱挺、天保十五辰年二月百挺御 渡御用二付毎灯残之方」や「一同、百挺、嘉永三成年二月御渡之分」 ( S ). と書かれている。年々増えているのは'単に以前に使用した時の残 りをそのまま保存しているだけであって、それを再利用しているに 過ぎない。よって同じ‑嘉永四年の記録に「同百挺、同年八月琉球 人来朝二付御用意卜〆御渡之分」とあることを考えると、文化三年 以降は百挺ずつ渡されていたと推測できる。では実際に、琉球使節. 以上は十月十三日に八原から嶋代官西川杢右衛門に出された書状. で、使節がやって来たときのことが記されている。使節に対し'八. が到来した時にはどのような対応が津和地では行なわれていたので あろうか。前述した琉球使節側の記録「儀衛正日記」が残されてい. 原は 「御仕構」 の船団を率いて応対し、水・薪を差し入れている。. 御引纏一昨十l日未ノ刻頃津和地表江御乗懸こ付'私儀御仕構. 一筆啓上仕候'然者此度来朝之琉球人'薩州御家老嶋津但馬殿. ‑をしている。それに伴って津和地では周囲を取‑囲んでいるので. とのや‑敬‑を経て、使節は 「御泊船」とあるように船の中で寝泊. 風及びその意を受け実際に対応している琉球舘聞役川上十郎左衛門. (w). る天保三年に焦点を当ててみる。. 船之引纏罷出御用窺相勤申候'水者御受納'薪ハ御受納無御. あろう「御仕構」 の船団及び「御茶屋御長屋前水場」 に提灯・葺火. そして八原と琉球使節とともに行動している薩摩藩家老島津但馬久. 風樹、御手厚ク御手当等被仰付候段但馬殿占御直答被仰聞候趣. を焚かせている。往路は以上である。復路はどうであろう。. 一松山へ左之通申達候. 二御役人中棟迄宜御礼中上候様御取次川上十郎左衛門与申仁占.

(11) 同十日. 御乗込御繁船之上御用伺相勤申候処'同昼時分御取次川上十郎. 村表江御乗懸二付、私儀船々引纏罷出候処、風波強津和地湊江. 夕切二相仕廻御都合克相済申候'且亦此度御手当向厚被仰付'. 九日卯中刻比天気能御出船、漕船二而防州御領被御移‑船々同. 右夫々同夜御止宿翌八日昼御乗船御座候、左侯而同夜御泊船昨. 助次郎. 左衛門私宅江 被罷越御家老始琉球人其外御役人共揚陸致度侯. 其上一統揚陸致重々厚預御世話候段但馬殿御帰国之上'江戸表. ′′. 間'宿指押即刻手当致呉候様、尤表立揚陸与申訳二者無之'内. 大隅守様江可被仰達候間、此段御役人中様迄私iQ宜中上侯様、. 一筆啓上仕侯、然者此度帰朝之琉球人去ル七日辰中刻頃津和地. 分二而湯二人、穿揚陸敦候趣こ取計呉候様こと被相願候こ付'. 但馬殿iQ之御口上ヲ以川上市左衛門占被申開候. 疋ツ、被下候. 一同断正使・副使左之通被下候 正使占 銀弐枚 副使トC・. 同7枚. 八原儀右衛門. 小左衛門. 与頭. 新四郎. 二神村. 太蔵. 庄屋. 1御乗船之醐御家老嶋津但馬殿占左之人々江御祝儀として金子百. 弐軒ハ兼而手当罷在候間、其余こ八軒早速可申付段'相答候処、 正使之儀ハ大切成品持参致罷在候へ者'私役宅江揚らせ呉候様. 組頭. 和泉宅. 庄家. 小左衛門宅. 組頭. 被相願候故、伺其意引請申候、御家老始其外御役人左之人々宅 江昼後御一同御揚御座候 御家老 1嶋津但馬殿. 1副使 其外御役人左之人々宅. 良蔵 組頭 栄助 関田tm. 庄家 上野 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(12) 和泉 二月十日. 西川杢右衛門様. 四二. 八原儀左衛門. 波強」 のため津和地に上陸することにしたのであろう。川上が八原. 以上の記述は天保四年二月十日の記述である。復路の場合は 「風. 除井仮雪隠静方其余便等二人足別紙之適中付相請させ申候宿井. に直接それを要求している。また'薩摩藩側の意図としては内密に. 一石宿之内弐軒ハ兼而内手当仕置候得共、外八軒分俄之儀二付掃. 人足井不時御勘定二御立被下候様仕度奉存候、尤右宿挨拶之内. ‑なかったのか残‑八軒の用意をしている。そして琉球使節正使は. 上陸し、湯に入るという意向であった。それに対し津和地側は上陸. 一先達而御渡之蝋燭両夜御泊船二付例之通船々井御茶屋御長屋前. 「大切成品」を持っているために八原氏宅へ泊まっている。そしてそ. 左之分ハ不用こ相成候得者'前文之通手当仕候事故、是又同様. 揚提灯、灯村方相廻‑等も仕らせ、殊二一夜ハ御揚御止宿二而. の後津和地を出発するわけだが、その際'薩摩藩家老島津但馬久風. の可能性を考えて、既に宿二軒の用意は出来ていたが、それでは足. 宿々江も灯多分不足仕候故村方二而別紙之通相調申候、代札不. から庄屋・組頭らへ、琉球使節の正使・副使からは八原・庄屋へ礼. 少々御勘定二御立被下候様仕度奉存候. 時御勘定こ御立被下候様仕度奉存候、其余宿々江灯油も別紙之. として金銀が渡されている。. そして、その後の事後処理の部分においても'「一夜ハ御揚御止宿. 通灯申侯、是又同様御立被下樵仕度奉存候 一新福々江入用二付別紙之通相調申候、是又同様御立被下候様仕. 二而」とあるように琉球使節が思いもよらず上陸ということになっ. たため'宿への蝋燭支給という想定外の使用によって不足し、村方. 度奉存候 一来朝之節、御添之焚炭五俵宿々江割賦仕焚せ申候. でそれを補っていることが、まず分かる。また予想外としては 「琉. 上からの表立って上陸はした‑ないという意向は'「儀衛正日記」の. ( a ). せざるを得ない場面が見られたわけである。また、それとは別に川. 至るわけだが、そこにおいても以上のような予想外の出来事に対応. 前述のように入念に行なわれた情報収集を経て、実際の接待へと. い番胎の要求がなされ、漕船から用意している。. 球人乗船江番船昼夜付呉候様」と 「御仕構」 には組み込まれていな. 一此度御仕構入船附船所々飛船茂御借入共別紙之通御座候'来状 返書入御覧申候 一両夜例之通葺火五ヶ所ツ、焚せ申候 一御繁船中琉球人乗船江番船昼夜付呉候様御取次占被相願侯二付、. 漕船之内江別段こ上乗壱人ツ、相添別紙之通差出申候 二二津方二而拝借之御挑灯此度差戻申候 右夫々御達為可申上如斯御座候'恐憧謹言.

(13) ているが'みだりに歩き回らないようにという薩摩藩側からの命令. 宜候」という記述に通ずる。湯に入るために上陸する場合を想定し. 相成候'心得違之もの有之侯而ハ御取締届兼之筋相見得、外見茂不. 九月四日の「於他所琉球入湯入御免二而陸卸之節方々江行廻候儀不. うに八原氏によって構成された船だけではな‑、「御仕構」に動員さ. の数が多いため特別に構成されたと推測される。しかし、以上のよ. たことが分かる。それに対し、琉球使節は御目付クラスよ‑も漕船. 摩藩家老に対する「御仕構」は長崎へと下る御徒目付クラスであっ. のであろうか。東昇氏の研究によると接待には段階差が見られ、薩. ( 8 ). である。監督が行き届かないためということもあるのであろうが、. れた水主の問題も存在する。. 天保四年(一八三三) 三月に記された「巳歳琉球人帰朝こ付津和. 前述の大坂町奉行からの薩摩藩家来にまで継ぎ送りされてい‑浦蝕 においても浦々の人間・商人たちが覗くことを禁止する記述がある. 地相江漕船罷出之者共江扶持米涯帳」 によると 「惣〆弐百七十人」. ( S ). ことを考えると、薩摩藩側としての意向は異国人として対面をして. となっている。しかし、それらの人々が一度に動員されたわけでは. 二升四合也. 7市郎右衛門. 同. 二升四合也. 一十蔵. 同. 1与1左衛門. 同. 7蓄蔵. 同. はいけないというものがあったのではないだろうか。. ない。細かく見ていくために一部分だけ記そう。. 一権左衛門. 二升. 正月十二日十三日迄. 同. 一十蔵船. 四㌧ 「御仕構」態勢の内訳. う。年によって若干の変化は見られるが'基本的には家老の船へ. 1利右衛門. では、前述の接待を支える具体的な「御仕構」 の構成をみていこ. 「漕船四鰹'水船二膿、薪船7娘、先案内船7健、先案内者7人'才. (遠見番船兼)一煙」という構成になっている。船を引‑役割の漕船、. 一太郎兵衛. 二升. 〆. 水や薪を供給する水船・薪船、案内をする先案内船などで成り立っ. 同. 一十次郎船. 領l人」、琉球船へは「漕船十二膿、水船1娘、オ領四人'水尾木船. ていることが分かる。しかし、これだけでは不足する場合があ‑、. 一平五郎. 四三. 以上は正月十二日から十三日までの記録である。名前の横に書か. V. 文化四年(1八〇七) の琉球使節帰朝の際は「増漕船」として10 膿を用意している。 この琉球使節に対する「御仕構」は他の場合とはどのように違う 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について.

(14) れているのはそれぞれに対する扶持米であり、また動貞においても 行なっているのである。. 四四. 漕船は十蔵船・十次郎船・覚左衛門船・孫入船がそれぞれ八・七・. 料は一月十二日から始ま‑、二月九日で終わっているが'その間に. と、そして船も同様に数日後とに使用されていることが分かる。史. 料にて、一定数の人間が入れ替わり立ち代わ‑と動員されているこ. の混入も見られたが、すぐさまそれを補完していく情報収集の素早. 集の方法が取られるようになるOもちろん、そこには間違った情報. 機能しな‑な‑、それに伴い 「附船」を送るという自律的な情報収. れている。天保期になると従来は情報を入手していた「順達」等が. 「御仕構」も例外ではな‑、特に準備に入るための情報収集に力を入. 何事も始まってしまえば良いのだが、大変なのは事前準備である。. 五;六回動員され、水主のほうも一人当たりにすれば二、三回動貞. さが存在していた。そのように張‑巡らされた情報ルートを背景に. 一日当たり船二腰、そして一腹当た‑四人が乗船している。この史. されているだけである。. し、近隣の水主たちを連日のように駆‑出して形成された「御仕構」. は'それでも当然ではあるだろうが琉球使節の通過の際には予測不. 第一の要因なのであろう。そのような薩摩藩及び瀬戸内海へと浦触. 体が'琉球使節以外にも応対しているものであるということがその. 存在してないということになる。恐ら‑は「御仕構」という存在自. あ‑'逆には津和地側にはそのような意識が記録上ではあるが仝‑. 浦触にのみ琉球使節に対する異国意識が見られていることが特徴で. ょって「御仕構」態勢は始まる。薩摩藩側、及び大坂町奉行からの. の意向をバックにしながらも大坂町奉行によって出された浦触に. たのかを事前準備の段階から見てきたが'ここでまとめる。薩摩藩. 琉球使節が津和地を通過する際に、どのようにして対応がなされ. は、無意識的に海上交通の安定・安全の維持へと帰結している。そ. いかなければならない。「附船」を自律的に送るという八原氏の行為. いう事実だけではなく、その背後に存在するものを今後も意識して. する。ただ琉球使節が通過した、それに対し「御仕構」を行ったと. きた事象があ‑、そしてそれが存在するがゆえに逆に日常性が成立. ポイントを眺めるだけではな‑、その相関関係の中で作り出されて. レベルの側面によって成立していた。様々な出来事はそのポイント'. 位相において作‑出された情報収集のスキルや人間関係などの現場. な思惑と力関係によって成立した政治的側面、そしてそれとは別の. 海上の安定と簡単に言い放つことは可能であるが、そこには様々. おわりに. を出している大坂町奉行といった支配レベルに対して'津和地とい. して、そのような個別の状況の積み重ね・結び付きによって'海上. 可能な事態(特に上陸) に対面しなければならなかったのである。. う現場レベルではまた違った様相を見せながら琉球使節への対応を.

(15) の安全・安定は次第に不可視化されてい‑。今後とも、それを考察 していくつもりである。. ・王 i i i a. (‑) 青柳周l ﹃富岳旅百景丁観光地域史の試み‑﹄角川叢書二〇〇二 (2) 藤木久志「海の平和=海賊停止令」 (﹃豊臣平和令と戦国社会﹄東京大学 出版1九八五所収). 究﹄四号二〇〇〇)、同「1六‑一七世紀における琉球海賊と幕藩制支配」. (3) 真栄平房昭「一七世紀の東アジアにおける海賊問題と琉球」 (﹃経済史研. (﹃日本史研究﹄五〇〇号二〇〇四)、同「清代中国における海賊問題と琉 球」(﹃東洋史研究﹄六三巻三号二〇〇四)、同「琉球と東アジア海域史‑近. 山藩の支配方法と社会構造﹄一九九六. (=!) 三宅英利「琉球使節と小倉藩」 ﹃北九州大学文学部紀要(B系列)﹄第二 一巻一九八九. (2) 飯沼雅行「朝鮮通信使・琉球使節通航時の綱引助郷‑摂河両国を中心に 〜」﹃交通史研究﹄五四号二〇〇四. (2) 井上淳「瀬戸内海の情報ネッ‑ワークー松山藩津和地御茶屋を中心に 1」﹃地方史研究﹄ 二九二号二〇〇一. 愛媛県歴史文化博物館一九九九. (3) 東昇「瀬戸内海の本陣と御茶屋」﹃海道をゆ‑ー江戸時代の瀬戸内海‑﹄. 集 武家文書目録﹄所収) を参照。. (ほ) 註l四㌧及び「八原家文書解題」 (﹃愛媛県歴史文化博物館資料目録第七. (S) 九州文化史研究所所蔵(古文書目録三‑DI1二四)。これ以外にも寛政. 八年「琉球人来朝御用御仕成拍」 (≡‑Q‑1二五)、天保三年「琉球人御. がある。寛政二年の史料には「寛政三琉球人帰朝御用抑」が、寛政八年に. 世の海賊問題をめぐって‑」 (二〇〇五年七月十四日早稲田大学テーマカ. は「寛政九丁巳年琉球人帰朝御用拍」及び文化三年「琉球人来朝帰朝御用. 用日記」(≡‑DI一二七)'嘉永三年「琉球人御用日記」(≡‑D‑一二六). 宮城栄呂﹃琉球使節の江戸上‑﹄第一書房一九八二. 十四卯年正月帰朝控」が'嘉永三年には「嘉永四辛年琉球人御用日記」が. 横山学﹃琉球国使節渡来の研究﹄吉川弘文館一九八七. I」(﹃幕藩制国家の琉球支配﹄校倉書房1九九〇所収)、同「琉球使節の最. 同録されている。また、八原家御用日記の天保三年「辰歳御用日記」(愛媛. 控」が'天保三年には「天保四巳正月帰朝控」が、天保十三年には「天保. 後に関する考察」 (前掲﹃幕藩制国家の琉球支配﹄所収)'紙屋敦之「琉球. が、これらがそれに該当すると思われる。. 県歴史文化博物館所蔵A‑五七) には 「1琉球人1件別録二記ス」とある. 用記」 (古文書目録三‑Dl一二四) である。. (S3) 河内屋とのネットワークについては註十三を参照。. 四五. 以下'寛政二年の引用史料は全て九州文化史研究所所蔵「琉球人来朝御. 五. 池宮正治「資料紹介﹃儀衛正日記﹄」 ﹃日本東洋文化論集﹄創刊号l九九. 九州文化史研究所所蔵(三‑D‑一二五). 九州文化史研究所所蔵(≡‑Q‑1二五). 戸上り」(﹃大君外交と東アジア﹄吉川弘文館一九九七所収)'同「琉球の慶 賀傍について」﹃歴史と地理﹄五三〇号一九九九(後に同﹃薩摩と琉球﹄二. 梅木哲人「琉球国王書翰の検討」﹃地方史研究﹄一九七号一九八五. 〇〇二に収録) 豊見山和行「江戸幕府外交と琉球」﹃沖縄文化﹄六五号一九八五 真栄乎房昭「幕藩制国家の外交儀礼と琉球」﹃歴史学研究﹄六二〇号1九. 九1 (S) 紙屋敦之「岡山藩と対外関係」﹃一九九四二九九五年度科研報告書岡 琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について. 19 18 17. 使節の解体」(﹃琉球王国評定所文書﹄第五巻一九九〇)'同「琉球使節の江. 紙屋敦之「幕藩体制下における琉球の位置‑幕・藩・琉三者の権力関係. レッジ講演会) 4 5 6. 7 8 9.

(16) 用御仕成抑」 (≡‑D‑一二五) である。. vosu 以下、寛政八年の引用史料は全て九州文化史研究所所蔵「琉球人来朝御. 以下、天保三年の引用史料は全て九州文化史研究所所蔵「琉球人御用日 記」 (Ill‑p‑i二七) である。 (S) 同註二十 /LO¥ 九州文化史研究所所蔵「琉球人御用日記」 (≡‑0‑1二六) 同註二十三 /c‑¥ 同註十九 註一四を参照。 (29) 中島総合文化センター所蔵 [付記]本稿を執筆するにあたって'九州文化史研究所所蔵の史料については指 導教授である紙屋敦之先生にご教示していただきました。また史料閲覧に あたって'愛媛県歴史文化博物館の山内清明氏、中島総合文化センターの 能田筆和氏にはお世話にな‑ました。この場を借‑て'お礼申し上げますO.

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