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景観にさぐる中世 : 変貌する村の姿と荘園史研究

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

景観にさぐる中世 : 変貌する村の姿と荘園史研究

服部, 英雄

九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授 : 日本史

http://hdl.handle.net/2324/21647

出版情報:1995-12-20. 新人物往来社 バージョン:

権利関係:

(2)

第 I 部 みそさく・ょうじゃく

(3)

扉 写 真

u

) 近世梁村検地帳(よ室井謙次郎氏所蔵) み そ ふ さ く (御正 作)は上聞である

(下) 明治15年小字名取調議(群馬県立公文書館所蔵) 字御正 作 は そ れ 以 前 の 地 名 御 正 作 と 土 定 方 の 二 つ が 合 併 し 、 字 竹 の内は竹の内、仏;工耐(仏供免であろう)など五つが、合 併したものであるニとがわかる

(4)

第一章

周防国仁保庄の荘園地名

│ 現 地 景 観 が 語 る 真 実 と 文 献 史 料 が 語 る 虚 実

│ はじめに

周防国仁保庄は筆者が領主直営田地名(ヨウジャク︑ミソサク等)に

関心をもつことになった最初のフィールドである︒仁保庄における中 世文化財の宝庫である源久寺を訪れて︑地頭平子重経が関東より将来 周防国仁保庄の荘園地名

したという本尊阿弥陀如来︑平子重経坐像︑仁保弘有画像等の数々の 寺 宝 また石造宝箆印塔等を拝観したのち︑住職の蔵本永生氏と立ち 話をしているうちに︑源久寺の周辺にヨウジャクという小字名がある

ことを聞いた︒

そこでヨウジャクを濯概する用水の名をたずねたとこ ろ︑氏はどこかに電話をして確認されたのち︑用水の名は﹁殿井手﹂

であると回答された︒領主直営団である用作(ヨウジャク)を領主の用

土 早

水である殿井手が濯瓶していること││まさに中世荘園における地頭 の経営とほとんど同じ形態が近代に残存していることに︑筆者はいい

しれぬ感動を覚えた︒

そしてそれから筆者の領主直営回調査︑ミソサ

ヨウジャク(ユウジャク)に関する踏査がはじまったのである︒

平子氏館とその周辺

法勝寺領仁保庄の地頭は平子(たいらご︑たいらく)氏︑

防三浦氏である︒平子氏はのちに仁保氏を称し︑大内氏の重臣となる

いわゆる周

が︑最後は毛利氏に従い萩藩士となり︑三浦姓を名乗った︒

その家に

残されたのが﹁三浦家古文書﹂で︑早く﹃大日本古文書﹄(家わけ︑

九三七年)として刊行されているが︑ただし内容としては︑在地の状況

を知りうる文書はきわめて乏少である︒)こでは﹃防長風土注進案﹄

(山

口県

立図

書館

一九

O年刊)・﹁防長地下上申﹄(マツノ書応︑

一九

tO年刊)・三浦氏系図(宝暦三年︿一七五三﹀︑﹃大日本古文書﹄所収)

2 7  

等近世の叙述を参照しつつ︑現地の景観によって平子氏の館を検討す

(5)

ることにしたい︒なお仁保庄および平子氏に関しては高木九一一編﹃仁 み ぞ き く ・ ょ う じ ゃ く

保 ぴ コ

‑一

一一

浦出

入刊

行会

(2 ) 

一九五九年刊)といった先行研究があることを紹介しておく︒

仁採庄は現在は山口市に合辞された旧仁保村一帯である︒小郡から

山 口 線 を た ど れ の

袖判立券文で知られる東大寺領官野症の故地で︑立券文四軍にもつ限

の次が仁保釈である︒

I部 東仁課庄中山﹂として仁採庄が登場している︒

さで平子氏館跡は︑

キ ロ メ

! ト ル の 土ど 井い平

河ミ子内ち氏

周 館

ヲ議 証会

定 寸

L

ただしそれらしい遺講が

てい

るわけでは左く︑地名としてのみ残る館跡であるが︑荘園調査の第一

がかりとして現地

}とから始めたい︒

土井河内には源久寺がある︒

九七﹀に源

頼朝より仁保庄および恒富保地頭職を給与された人物で︑一克仁元年

によれば源久西仁であ

⁝一

一四

)に

てい

る︒

その

2

に あ る い く つ か の 文 化 財 の 中 に

(国

指定

重要

文化

財)

および石造宝鑑印塔(山口県指定文化財)がある︒

参道脇にある後者は

てい

る︒

口県文化財要覧﹄あ

σ

るいはの文化財﹂によれば︑

の作成時期は鎌倉中期 を下らず︑{玉屋昂塔は鎌倉後期の形式をもっ︒後者は重経墓塔とする と時期が合わないので彼の供養塔であろうとされている︒ま 木 造 問 弥 陀 知 来 坐 像

は 鎌 倉 初 期 を 下 ら ぬ 中 央 作 で︑重経入部に欝し︑将来されたものとされている︒援の法号を寺号

とすであったことは︑確実といえる︒ 壌の内・殿河内

源久寺の近辺が土井と呼ばれていることは︑男︑辺

に館がているが

J¥

。 コ

たこと

長照

的土

注進

案﹄

は︑

一名所旧跡

御 舘

堀 ノ 内 館 関 土人云︑是等の諸所ミな仁保家先祖の侶跡なりと

している︒}れらは今日も地図

A l

ーのように

って

いる

iま

か に中ノ土井という小字や︑おたて山という地名もある︒

とのごうち殿河内と呼ばれたらしい︒

またかつて土

iま

一堀之内

只今は場跡

日ヨ

相成居候︑

一殿河内

但此所往古一一一浦平子一一一郎結州鎌倉より御下向之時住居被致︑

敷ニ結成居設事

σ

てい

るむ

現在佐伯家

ι

継承されているが︑

このようにわずか六

OO

i

トルほどの間に館跡地名が集中している ため︑館跡の比定に関しては堀の内説︑土居説︑両者間の移動説など

(6)
(7)

みそさく ・ょうじゃく

I

が出されている︒また︑

右の民家が御館、右の用水が駁井手 土 井 周 辺

写 真A‑l

)の地域には寺社跡も集中しており︑正法寺(丸山へ移転)および舟山八幡故地(のち北方に移転︿﹃風土注進案﹄﹀

)が

跡・光現寺跡・若宮跡などが残

っている︒正法寺は﹃源久寺由来記﹄

この下から水が湧く 屋 号 泉

写 真A‑2

土井河内の用作 あり︑後者は宮の段と呼ばれている︒

3

写 真A‑3左の水田が用作、下が清水

以上の寺社の集中に加えて︑最も興味深く思われ

みしようさくるのは用作の存在である︒用作は御正作・佃に同じく領主の手作地・ では平子氏最初の菩提寺とされており︑永和三 年 (

一三

七七

)︑平子

重らがその敷地を寄進していることが﹁三浦文書﹂に見えている︒近

年まで一部建物もあったようで︑寺域からは明応五年(一四九六)・永

正十六年(一五一九)に建てられた仁保護郷・興棟のものという宝鑑

印塔(寿塔)残欠が検出されている︒

ウジ

ャク

とも

いう

)︒

直営地をいい︑この地方ではヨウジャクと発音している(他地域ではユ

また︑仁保重郷が建立したという

さらにその南には若宮跡 光現寺もその南に屋号として残

って

いる

二つの用作さて土井河内の近辺には近接して二か所の用作がある︒

一か所は源久寺より東方に下がった段丘のへりに︑一か所はそれより

(8)

つまり段

( )

よび堂村を﹁りゅうのすい﹂(用水末端の意︒広島県地方では﹁じ?っのす小字堂村を挟んだ南方徴段丘崖の末端に接する低地にある︒

え﹂という)としている︒下の用作(南方の用作)にはこの井手の﹁う丘の上と下に用作がある︒まず後者の水がかりを見ょう︒

)の

用作

だり﹂(余水)のみがかかり︑同干魅の年は水がこない︒上の用作までを

小字および屋号の泉・清水が語るように︑段丘崖下に無数に湧く湧水

あっ

た︒

を水源としている︒最も早期に開発された古田で︑中世には安定田で

一方段丘上の用作は井手がかりである︒ ただし半湿田であり︑今日では必ずしも良固とはいえない︒

潅概するこの井手を殿井手と呼んでいる︒殿井手がかかる用作は﹁畝

もちろん

)の井手の取水口は浅地川︑ でき﹂(一畝で一俵できる上田)であり︑近辺の最高田である︒

湧水に依拠する古田の下の用作に比較すれば新田ということになる︒

仁保舟山八幡宮対岸にある︒途中︑小谷を樋で渡り︑堀の内以下約

(下

井手

)が

ある

︒ 浅地川右岸にはほかに用作より一段低い段丘面を潅瓶する下みぞ井手

ねがや井手があり︑下の用作一・五キロメートルを潅概して下り︑最後は上の用作(北方の用作)お

周防国仁保庄の荘園地名

立 早

取入口 殿井手 写真A‑4

またさらに下流には︑

浅地の養着

3

写真

A‑6

長寿寺跡 写真A‑5

(9)

みそさく・ょうじゃく より下方の部分︑小字泉の一部︑中村等を潅概している︒

路 の 開 撃 の 時 期 に 関 し て は 何 ら 文 献 も 伝 承 も な い が

︑ 殿 井 手 に つ い て

これらの水 は

そ の 呼 称 お よ び 用 作 に か か る と い う 点 に お い て

︑ 中 世 平 子 館 が 存 在 し た 時 期 に は 完 成 し て い た も の で あ ろ う

︒ 取 水 口 に 近 い 舟 山 八 幡 宮 は 先 述 の よ う に 殿 河 内 か ら 移 転 し た も の と い う が

︑ }こには貞和三年 I

( 一

四七

)︑

地 頭 平 子 重 嗣 が 大 願 主 と な

﹁ 仁 保 御 庄 上 領 八 幡 宮 御 社 堂 宇

Lを建立した際の棟札がある(﹃風土注進案﹄︑﹃防長寺社証文﹄︿山

口県

文書

館︑

一九七一年刊﹀所収)︒重嗣がこの社を重視した理由の一つ

は 後 述 す る 浅 地 の 重 視 で あ ろ う が

︑ 今 一 つ に

︑ 近 接 す る 浅 地 川 取 水 口

(3

と殿井手の保全を祈る気持ちがあったと考えてみたい︒

川 に 直 接 取 水 口 を も ち

︑ 小 谷 と 樋 で 立 体 交 差 す る 殿 井 手 の 完 成 は け っして容易ではなか

っただろう︒

そ れ を 維 持 し て い く こ と も 中 世 の 土 木 技 術 で は 必 ず し も 容 易 で は な か っ た は ず で あ る

︒ 地 頭 平 子 氏 は 湧 水 に依拠する安定回︑用作を把握し︑

万一に対応できる体制を整えてい た

︒ 用 水 が 破 損 す る 程 の 暴 風 雨 や

︑ 逆 に 用 水 の 引 水 が 困 難 な 大 早 魅 の よ う な 天 災 の 年 に も

︑ 少 な く と も 次 年 度 の 作 付 を 保 証 す る 種 籾 の み は 確 保 し

︑ 領 主 支 配 の 根 幹 た る 出 挙 米 の 維 持 を 図

ったものといえる︒

か し な が ら 開 発 の 力 点 は む し ろ 井 手 濯 瓶 に 置 か れ て お り

︑ 積 極 的 な 新 回開発が展開されたと考えたい︒

浅地の養着

次に旧仁保村の範囲には︑

用 作 が 小 字 と し て ほ か に

K Jゃく

順 次 検 討 し て い き た い

︒ ま ず 浅 地 の 小 字 養 着 を か所残

っているので︑

見る︒養着とは無論用作の宛字である︒

}こには隣接して小字寺ノ河 内があるが︑長寿寺の跡と伝えている︒﹃地下上申﹄はそこに二間四方

の薬師堂が存在した

)とを語っているが︑

今 日 も 小 洞 が 残

って

いる︒長寿寺につい て注目されるのは平 子 重 嗣 の 法 名 長 寿 寺

帰覚

(﹁

三浦

系図

﹂)

を と っ て そ の 寺 号 が 命 名されていることで ある︒重嗣の館跡の

位置は不明であるが︑

深野の用作

)の用作が重嗣の領

主 経 営 に と っ て 重 要

浅地は土井河内と比較してもはるかに狭く︑

回である︒ であっ

たことはまち

﹀︑︑

hhhO BLω

L し て 用

7

力?は

も 谷

深野の用作

あ る 所 で は な い が

︑ 用 作 は 比 較 的 収 穫 量 が 多 い 方 と の こ と で あ

った ︒

次に深野殿河内の用作を見る︒﹃風土注進案﹄

﹃地 下 上 申

﹄ は

︑ 深 野 殿 河 内 を 庶 流 の 深 野 郷 地 頭 で あ っ た 平 子 重 綱

・ 重 頼

・ 重 茂らの館跡に比定している︒

)の用作は殿河内の南方に隣接して西方

ろ ﹀ フ ︒ に

延 び る 谷 の 下 半 部 に 相 当 す る

︒ 深 野 館 と 密 接 な 関 連 を も つ も の で あ

みしようじ

な お 殿 河 内 北 方 に は 重 綱 が 建 立 し た と い わ れ る 微 笑 寺 が あ っ た

とされている︒

(10)

大法の罵作次に大法の用作を見る︒}の地には大悲寺跡が残って

おり︑思作はその北方になる︒大法寺の由緒は不明である︒

は約一・五キロメートルほど上流に取水口をもっ大景井手の﹁りゅう

この用作

のすい﹂(流末の田﹀となっており︑﹁畝でき﹂の上回である︒この用作

IJ~

IJ~

のものであったかはまたは

カである‑公文のものでめった

られ

る︒

用作のニ形態以上から用作を二形態に分類できる︒つは湧水あ

るいは谷水に故拠する︑最も開発が容易な水田である(土井再内下︑浅

地︑深野)己中世の安定田で古田であった︒地力はさほどないが︑谷田

の場合辻上部にはなく下方を占地し日陰を避けるのが普通であった︒

もう一つの形態は井手の末端︑﹁りゅうのすい﹂である(土井河内上︑大

法)︒今日でも最高田とされている︒当然︑用水関撃詩の薪由であろ

ぅ︒ただし中世においてその維持は必ずしも容易ではなかった︒

この後者の用作にかかる井手は︑地頭そのものが顎撃した可能性が

ある︒地頭は﹁りゅうのすい﹂を用作としているが︑井手に対する最

周防国仁保庄の荘園地名

も強い権利を有していたことがその

にあ

った

つまり地頭は多少

(}) 

ができたのであり︑

︹史料・手継証文一四通︺

( )

﹁鐸下文代々譲状案文﹂

( )

ω

前右大将家政所下

平重経 題は井手の流域︑中間部分の新居間開発の推進にあったと思われる︒

殿井手の場合︑﹃地下上中﹄のいうように﹁堀の内Lにかつて堀が存

在したとすれば︑用水の不安定性をいくらかは補強するものだったは ずで︑地頭はっ堀の内﹂の堀に汚水を湛水し︑用水の安定化・温暖化

をはかったもの

れる

生ずる疑問さて︑以上館鉢・用作のってきたが︑次の

ような疑問が生じよう︒重婦は重軽霞系の嫡流︑五代の後奇とされて

いる人物だが︑なぜ土井河内より一プキロメートル以上も離れた浅地に

用作・菩提寺そして館を置いたのだろうか︒水田が大きく拡がる土井

河内に惣領︑狭小な深野には庶子︑

という惣庶の配置からすると︑浅

地の谷もまた庶子が配置されるタイフの地形に思われるが︑なぜそこ

が惣領の拠点となったのか︒そこでこの疑問点の解明に﹁三浦文書﹂

の力を借りることとしようc

二浦文書・手継証文の史料批判

の孫にあたる︒

。 コ

令大蔵丞藤原在御判

()別当兵庫頭中原朝臣在御判

33 

右人請を復職之状︑所仰如件︑住人宜承知︑

散 位 葉 原 朝 臣 在 御 判

周防国恒冨保井仁保庄勿違失︑以下︑

第一章

住人建久八年二月廿四日

請在地頭職事︑

( )

安主清原在御判

知家事中原

( )

@将

軍家

政一

新下

周防国仁保庄住人

(11)

みそさく・ょうじゃく I部

補任

地頭

職事

平重経

右人如本補任彼職之状︑所仰如件︑以下︑

()案主

( )

知家事惟宗在御判 承元四年二月九日

( )

令図書允清原在御判

( )

別当相摸守平朝臣在御判

( )

書博士中原朝臣在御判

( )

右近衛将監源朝臣在御判

( )

武蔵守平朝臣在御判

( )

散位中原朝臣在御判

ω

可令早平重資為周防国仁保庄地頭職事︑

右人任親父重経法師之譲状︑

可為

彼職

也︑

兼又重綱分深野村︑不可有異論之状︑依仰

下知

如件

貞応三年十一月品川日

( )

武蔵

守平

在御

倒譲渡

所領

壱所

事︑

周防国仁保庄地頭職事︑

右件職者︑平重資所譲与実也︑仰為後日沙

汰︑所譲渡也︑且可仰将軍家御成敗之状

如件

貞応二年五月廿六日 ︑

( )

地頭沙弥西仁在判

( )

@すわうのくににほのしゃうのちとうしきを

( )

ハ︑平子三郎さへもんのせうしけすけにゆ

つりあたえて︑ちゃくしにたつるところ也︑

( ) ( )

二郎つねむらハすけして︑

きみの御大事に

( ) (

四郎しけつくに︑つね

あふましきによて︑

)

とみのほうをハ︑ゆっりあたえおはぬ︑も

( ) ( )

しさまたけんこともいできたらハ︑ふけう

( )

こな

り︑

後日のために

自筆をもてゆっり

わたすところなり︑

( )

ちゃうおう三年五月廿九日地頭沙弥西

仁在

(め

()御判

周防国仁保庄住人

可早以平重資為地頭職事︑

右人去貞応三年十一月以川日下文︑可安堵之

状如

件︑

安貞三年三月廿二日

ω

可令早平重親領知周防国仁保庄内五箇郷地

頭公文両職事︑

右︑任祖父左衛門尉重資法師位一弘長二年

十一

月十

七日

譲状

︑橋

一一

詰一

詳一

肝⁝

長一

泊暗

転︑

之︑為彼等職︑守先例可致其沙汰之状︑依仰

下知

如件

文永七年八月廿八日

日譲渡

( )

相摸守平朝臣在判

( ) ( )

左京権大夫朝臣

周防国仁保庄内五箇郷地頭公文両職事︑

渡実

也︑

且可仰 右件職者︑依為重代相伝私領︑平重親所譲

将軍家御成敗者也︑何為

後日沙汰︑譲状如件︑

文永元年二月十八日

ω

譲渡

所領

壱所

事︑

周防国仁保庄内五箇郷地頭公文両職事︑ 地頭平重資在判

後日沙汰︑所譲渡也︑ 右件職者︑平重有為嫡子所譲与実也︑何為

将軍家御成

敗之

状如

件︑

正応六年七月廿五日

ω

譲与 且可仰

地頭平重親在判

右件

所領

者︑

周防園仁保庄弁多々良庄地頭公文両職事︑

(O

﹁重﹂/字︑モ卜﹁代﹂ト書シタル重有重代相伝之私領也︑彦三

(12)

周防国仁保庄の荘園地名

)郎重嗣所譲渡也︑

任先例可勤

一九

七)

ω

譲 周防国仁保庄井多々良庄地頭公文両職事︑ 渡

小三郎氏重所譲与実也︑ 右件所領者︑重嗣重代相伝私領也︑而平子

将軍家御

成敗之状如件︑

観応元年八月十二日 側譲渡

且可仰

地頭平重嗣夜判

周防国仁保庄井多々良庄地頭職事︑

右所領者︑氏重々代相伝地也︑而童寿丸所

沙汰︑譲状如件︑ 譲与也︑守先例永代可知行者也︑何為後日

正 平

/ ¥  

年 卯 月 十 日 応安五年(一三七二)までの多数の文書を含む一連の平子氏本領相伝

の本御下文以来︑

ヰ 早 関東御公事︑

仕之状如件︑

文保元年十月十六日

地頭平重有在判

重書案に含まれている︒実はこの重書案の形態にこの問題を解く大き

ω

平子彦三郎重嗣井庶子同十郎入道唯円等申

周防国仁保庄地頭職事︑元弘コ一年雄被収公

な手がかりがある︒即ちこの重書案は今日三種類のものが残っている

之︑建武元年重嗣︑唯円等︑蒙安堵

勅 裁 之処︑当給人上総宮内大輔所務代官︑背施 行致非分押妨

f

︑不日夜彼所︑如元可被沙

汰付重嗣唯円等状︑依仰執達如件︑

( )

武蔵守在判

建武三年四月十五日

( )

大内豊前守殿

ー重有!重嗣が嫡流であると記す文書は︑

文永元年(一二六四)二月十八日平子重資譲状

正応六年(一二九三)七・月廿五日平子重親譲状

文保元年(二三七)十月十六日平子重有譲状

の三通である︒

)れらは全て案文であって︑建久八年(

地頭平氏重在判

MW

譲 与

(

す わ う の く に に ほ の し よ う ち と う く も ん

)

しき

の事

︑ 右 し よ り や う つ 平重世ちうたいさうて

( )

んのほんりやうなり︑た

Lししつしなきに

(甥)(赤章丸H

) ( )

よて︑おいしゃくとう丸をやうしとして︑

( )

ゆっりわたすところしちなり︑たのさまた

けなくちきゃうすへきなり

よてゆっりし

ゃう

如件

︑ 応安五年二月十一日

出羽守重世在判

一t三︑以下

M W J

とす

る)

そのうち肘は

一四通の文書から︑仰は一 (

﹃大

日本

古文

書﹄

﹁三

浦文

書﹂

一通

から

︑ 例も一一通の文書から構成され

てい

る︒

ω

と例の一一通はまったく同じもので︑併はこの一一通に三

通が加わったもので︑別掲史料(三コ一頁以下)が併である︒例の末尾には

至徳元年(一三八四)七月二日の平子重房申状(紛失状)がついてお

したがって肋の作成年代は至徳元年であ

り︑大内義弘の証判がある︒

であ

るが

る︒また肋の紙継目には大内義弘の裏花押もある︒一方︑例

ω

は同筆

ω

には紙継目に裏花押があるのに対し︑併には紙継目裏花

3

この仰の継旦裏花押は平子赤童丸(重房)のものに運筆︑形押がない︒

(13)

(4 ) 

態に似るところがあるDもっとも多少の形の差異もあるが︑赤童丸は

み そ さ く ・ ょ う じ ゃ く

この連券中最後の応安五年譲状(併のうち側)で平子重世から養子とし

て譲りを受けた人物であるから︑重書案を作成した人物と考えて不自

然な点はない︒したがって︑連券初︑的︑ともに併に同じく重一房(赤童

丸)が作成したもので︑川wの紙継目裏花押も彼のものと判断しておく︒

I

ところで重房は肋を提出して大内義弘の紛失状証判を受けたわけだが︑

その際なぜからな

}

からな

のであろうか︒

除かれた三通の識状

そこで験かれた三通を検討することになるわ けだが︑実はこの三通こそ︑先にあげた重親

i

重有

l重嗣流が嫡流で

あると記した三通そのものなのである(怖のうち町山山)口

文永譲状の問題点│未来年号そこで注意してこの三通をみなおして

みると次々に問題点がみつかってくるむまず価の文永元年(一二六四)

一一月十八日譲状であるが︑弘長田年が改元されて文永元年となったの

は二月廿八日である︒一二六四年の二丹十八日はわが国では﹁弘長四

年二月十八日

Lであって)の年がのちに文永元年となることは︑改

元十日前の十八日段階では知る人はいなかったはずである︒改元前に 改元後の年号と日付で認められたこの譲状は︑明らかに当時のもので はなく︑後じなって作成されたものである︒こうし

れてし

これが第一の問題点で︑文永元年譲状は疑わしい文書ということに

なるが︑事実これ以後に出された文永七年間関東下知状仰をみると︑下

知にあたって典拠とした譲状は弘長二年(一二六二)の譲状(﹁三浦文 童百﹂に現存すす)のみで︑当然に引用されてしかるべきはずのつ文︑京一克

36 

Lの譲状は引用されていない︒)れが第二の問題点で

)の

こと

文永七年当時︑﹁文永元年﹂の譲状が存在しなかったことを詰示する︒

正昆譲状の問題点i同じ日付の譲状

次に第三の問題点は山の正応六

年(一二九三)の譲状である︒実は山に同じ﹁正応六年七月廿五日﹂付

の別加の譲状が三浦文書中にある(一七五号)︒即ち沙弥から法子とう

宇 品

てて出され

}れ

には

月二日の

。 コ

めるから︑沙弥は御家人平子氏

の中の最有力者ということになる︒文中には﹁嫡子﹂にも部の譲状を

出した言の記述もある︒してみればこの﹁沙弥﹂は平子重窺(唯担)そ

の人にちがいあるまい︒もしそうであれば︑同日付で同一人物によっ

て出された譲状の一方の署名が﹁沙弥L一方の署名がっ地頭平重親﹂

となっているのは不自然ではなかろうか︒また山は漢字文︑とうごま

ろ宛譲状は平仮名であり︑両通は同一人物が同じ日に出したにしては︑

あまりに文言︑様式が違いすぎている︒

安堵の有無

初︑

山︑

ω

の三通の譲状をはさんで重書案の前半は鎌 倉期の︑後半は南北朝期の文書群となっているが︑前半には将軍家政

所下文が一一一通︑関東下知状が二通含まれており︑援代当主であった重

経 ︑

り︑その

2

れたことを

σ

示し

てい

る(

料︑

的問

G︑

例︑

mM

﹀ ︒

しかしその後の

つづく家系のうち重有︑重嗣については幕府の承認を一不す安堵の下

文・下知状・外題が出された形跡がない︒重有︑重嗣以外の人物に対

して安壊がなされたか︑

あるいは相論等によって幕府が安堵できる状

(14)

況にはなかったことが想定されよう︒

したがって以上から判断すれば︑除かれた三通︑旬︑川︑

ω

は偽文

書の疑いが濃厚となる

( ω

の問題点辻後述する)︒大内義弘に安堵を申

請した平子重一房もそのことを承知していたが故に︑

)の

コ一

通を

申請

ら除

き︑

一一通のみの保証を求めたものであろう︒偽作の目的は山の

中の﹁嫡子﹂の文言が示すように重親

i

重有

i

重嗣と続く一流が嫡流

であるとするための作為にあっ

もっとも紛失状とい

れた

て正し

いも

ることに

貞応譲状の問題点即ち︑例えば掛真誌二年(一二二一二)五月廿六日

西仁譲状にも次のような疑問点があるcその第一点は︑一年後に西仁

が出した自筆の譲状(的貞応コ一年五見昔九日譲状)との関係である︒

の中で先判譲状である

ω

に全くふれていない点や︑同一人物が出した

はずの二通の譲状の文言︑

およ

30

が漢字︑@が平仮名であるなど︑

その形式があまりにちがいす︑ぎている点が︑直感として不自然に思わ

周防岡仁保庄の荘園地名

れる

偽文書に共通する﹁将軍家﹂文言i将軍は不在 ︒

第二点はこの貞応二年 譲状の文言形式が︑偽文書である鵠文永元年譲状︑山正応六年譲状に

に﹁可停酷似していることである︒将中平家御成敗﹂とい

るが

しては

れな

い︒

貞応二年は源実朝の死去以後で︑かつ摂家将軍

第一章

前の時期にあたる︒つまり鎌倉将軍が不在の時である︒実在しない人

物に対し忠誠を誓う﹁将軍家﹂云々の文言は不自然ではないか︒

て﹁鎌倉毅Lないし﹁二位殿﹂といった文言が欲しいところである︒

﹁将軍家文言﹂は観応擾乱期将軍家文言は実はむ観応一五年(二二五

︒)八月十二昌平子重嗣譲状でも用いられている︒観応一五年という年

は将軍家是利尊氏に対して錦小路殿足利直義ならびに長門課題足利直 冬が散対していた観応擾乱のさ中である︒後述するように重婦は反直 冬としての旗色が鮮明であり︑尊氏に忠誠を誓う﹁可侍

将軍家御成

}の観応元年にこそふさわしいとみたいQそして

σ

ずれにひきずられたもの︑つまりそれ

したものと考えたいのである︒

郎ちこの推察が正しければ︑﹁一二浦文書﹂の手継連券に含まれる鵠文

書群の作成時期は︑観応以降になるはずであるから︑その作成者は連

券の作成者でもあった重房(赤童丸)その人ということになる邑

重有父重親の位置

以上の考察によって平子重有を購読とした文書

が議文書であり︑彼は当初よりの嫡流とはみなしがたいことが現らか

} h 1 4

A

t J J J A H N

それではその父重親はどのような位置にあったのだろう

か︒重親は重資の孫であり︑弘長二年(一二六二)に重資より譲りを受

けた際も︑﹁無実子者︑可譲千手女﹂という文言を付せられているよう

に︑かなりの

で子供がなかったらしい︒またその所領も前代

までのではなく

職﹂と設定され

であ

った

であったことを否定はできない

が︑蔀代までの惣領とはかなりあり方が異なっていただろう︒

3 7  

地の史料にみる重親・重有

重親の子重有の場合︑板山路をめぐる応

(15)

長二年(一三二一)の相論では関東裁許状(﹁三浦文書﹂八)に﹁仁保庄

みそさく・ょうじゃく

下領内深野郷地頭﹂重頼と﹁上領地頭﹂である重有と表現されている︒

重有は上領・下領を併せた惣領地頭ではなかったのである︒

(唯

如)

であるさらに

rJ) 

とニろも引舟してみよう

…  / ¥  

I部

契約 罵訪国仁保庄惣領地頭公文両職山野井多々良庄以下事

右︑当庄者︑亡父平子兵衛コ一郎入道唯如所領也︑語唯如死去之後︑

何重連強行之隙︑彦六郎重有構出謀書︑令押訪唯お之遺額之問︑

及上

一一

誌之

娃(

下略

)︑

この史料によれば重有の兄弟であった重連が︑自分自身が惣鎮である

ことを主張し︑重有の惣領職を否定していたことは明らかなのである︒

重連は梧論においてはかなり劣勢であったようで︑文保の段階では敗

であるのぺくこの兄如円にその

さて

を作成した}の契状におい

いる

が︑

いかにもありそうなことに思われる︒重有は吉身が

であることを強く示して相論に打ち勝たなければならなかったし︑

のためには鵠文書の作成もいとわなかったはずだからである(この時

の﹁謀童三辻本稿が問題にしてきた一連のものとは作成時惑を異にする)︒

重者︑重麗による一族の統合以上で平子重有が重親の矯子ではなく︑

兄弟(重連ら)との間で嫡庶相論を行なっていたことが明らかになっ た︒文書山(文保譲状)は︑先に状況証拠から偽文書の疑い濃厚としたが︑確かにこの譲状が記すような︑文保という段階に﹁仁保庄地頭公文職Lが重有に譲られたという事態は考えにくい︒

に嬬流としての

いて

いっ

た︒

父唯如

めぐ

以前口

は兄如円と︑文保一苅年(七)以前には先述のように兄弟の重一連と

相論を行なっている(﹁三浦文書﹂回︑五︑二ハ四)︒前者のそれは︑子ら

に引き継がれて康暦元年(一三七九)までの八

O

年以上も争われるも

のとなった

(同

二ハ

三)

元亨期の平子重嗣

そして重右の子重嗣はこの一連の相論をのりき

って実力で惣領となった︒元応一五年(一二二九)︑そして元亨四年(一

三二四)には平子重嗣が一分地頭(重通)分の関東御公事を﹁寄合﹂っ

て勤仕しているが︑鎌倉末期には重婦流が平子一族内のある部分の惣

領であったことを示している(﹁三滞文書﹂九︑

d

そして元亨元年

の所領の一部をその重通に去渡すに際して︑所領を

ている

先に重親と思われる人物﹁沙弥﹂が庶子に宛てて出した正応六年

(一

二九

一二

)の

譲状

を見

た︒

)の譲状には幕府の外題安堵があるが︑実

はそれがなされたのは二九年後の一克亨二年(一一一二三乙なのである︒

この

O

年に近い空白は先に述べたような平子一族内における一連の

紛争状態を裏づけているが︑需時に重嗣になって急速に一族の統合が

進み

元亨段階に到って鎌倉幕前もそれを承認したことを示してもい

(16)

るの

であ

る︒

南北朝期の平子重嗣しかし重嗣は元弘三年(一三三三)︑庶子重通ら

の所領とともにその所領を収公された︒鎌倉幕府滅亡の年であるが︑

この所領は上総宮内大輔のものとなった(史料

K)

︒彼は長門・周防の

守護であった上総介北条実政の一門と思われるが︑仁保庄も北条氏一

門所領になったわけである︒

しかし建武三年(一三三六)の足利尊氏御教書(﹁三浦文書﹂

一二

)で

は重嗣は所領を回復し得ていたし︑貞和四年(一三四八)の足利直義裁

許状(三浦文書一七六)においては︑﹁惣領地頭平子彦三郎重嗣﹂と明記

さらに康暦元年(一三七九)には︑かつての敵方であった

はずの如円の孫重時からも﹁惣領彦三郎重嗣﹂と呼ばれている(同一六 さ

れて

いる

一一

.../

北条氏から弾圧された重嗣は︑南北朝内乱期には︑

その中で着実に成長をつづけた︒貞和六年(一三五

O)

一貫して尊氏方

として行動し︑

周防国仁保庄の荘園地名

七月十七日の足利直冬宛行状(深江家文童弓﹃南北朝遺文﹄九州編三l

( )

八O二)では﹁周防国仁保庄ヨ肝臓﹂即ち重嗣の所領のはずの仁保庄が

安富泰重に与えられているが︑観応擾乱のさ中に尊氏の敵直冬により

発給されたこの文書は︑かえって重嗣の尊氏方武将としての地位を示

すものといえよう︒そして同時に重嗣が自身の譲状の中で﹁将軍家﹂

尊氏への忠誠を誓っていたことが再び想起されるのである︒

第一章

まとめl

浅地の養着と重嗣菩提寺長寿寺の立地が意味するもの│

以上ゴニ浦文書﹂を検討する中で︑平子重有│重嗣とつづく一流が

実は当初からの嫡流ではなかったことを明らかにした︒重親流でも重

有・重嗣は平子重経(西仁)以来の土井河内の館を相伝し居住するよ

うな立場にはなかったのである︒

先に平子氏歴代の中で重嗣の菩提寺のみが土井河内より二キロも離

れた地にあることを疑問としたが︑どうやらその答えを得ることがで

きたようである︒

重有は分割相続により土井河内の館を出て上領の浅地に移り住んだ︒

浅地の地に新たな館を構え︑用作田も設定した(これが浅地の地名﹁養

Lとして今日に伝えられた)︒舟山八幡宮も浅地の地に移される︒浅

地の地を拠点とした重有│重嗣流は︑やがて仁保庄の実質的な惣領と

なり︑再び土井河内の館にも居住したことであろう︒しかし重嗣の菩

提寺が浅地の地に営まれたことは︑重嗣が幼少より育ち︑重有│重嗣

流の実質的拠点であった浅地の地に愛着をもち︑重視したためだった

と思われるのである︒

以上本書第一の作業においては︑現地の歴史的景観をさぐりつつ︑

その景観が示すものを手がかりとして古文書のウソを見抜くことがで

きた︒景観は沈黙史料であり︑寡黙である︒文献は陳述史料であり︑

雄弁であり︑時には繰舌でもある︒しかしその雄弁さの中に陥穿があ

39 

る︒文書の偽作は︑遺跡や伝承等歴史的景観を偽作することに較べれ

(17)

ぱ︑はるかに

のである︒このこム}

みそさく・ょうじゃく

示してくれたと思う︒

さ て 筆 者 が 仁 様 庄 を 訪 れ た の は 一 九 八

O

年のことと記憶する︒

その

後一

O

年以上が経過したが︑

一 九 八 八 年 頃 か ら 仁 義 地 区 に も 圃 場 整 備

が盛場するようになり︑

一九九一年現在︑仁保の半ばに及ぶ地 の l

区 の

であ

る︒

}れ

推 定 地 の 発 掘 諌 査 が 行 な わ れ

︑ 掘 を と も な う 館 跡 が 検 出 さ れ て い る

(山口県教育委員会﹃土井遺跡﹄一九九一年)︒

ま た こ れ と 併 行 し つ つ 山 口 でも仁保庄域荘額調査を実施中である︒

そ の 成 果 に 期 待

/初

句︑

r

ー し

(

L

1)

 

平子氏の本官一地は系国(﹁三浦文書﹂一八二)等に明記はないが︑武

蔵国久良岐郡平子郷であろう︒武蔵国における平子氏には経久︑経一長︑

重一成等の名が見え

﹁重﹂の字を通字とする点に湾訪平子氏との共通点がみられる︒但し

武蔵の平子氏を小野姓横山氏とするものもあるが(小野︿横山﹀系図

︿﹃続群書類従﹄七﹀)︑この点は良文流平氏・三浦の一流とする周防平

子氏の所長とはあわない︒

(仁保の郷土史刊行会︑一九八七年)も刊行

( 3

)  

れている︒

舟山社背後の山からは経需が出土しており︑山口県立博物館蔵とな

って

いる

この点﹃大日本古文書﹄の花押の印刻ではわかりにくいが︑東京大

学史料一編纂所架蔵影写本で挨討した︒ 服部の自付とそれが欝かれた日││l

九八

一一

一年

)︑

問﹁

未来

年号

の世

界か

1 1

日付に矛活

のある文書よりみた荘園の様詔

i

iー﹂(﹃史学雑誌﹂九二八︑一九八 書研究﹄二O︑

三年)

(6

)

重親(沙弥)より譲与を得た庶子とう二まろは︑文書の伝来の仕方

から考えれば︑重嗣に従った庶子重通(唯円)につながる人物だった

はずである︒ニの庶流にかかわる一連の文書群三六五︑ヱハムハ︑一

に伝来したことは︑当時庶子分文書をも惣領七五等﹀が

が作成・保管していたことに関連しよう(服部﹁軍患状の彼方﹂︿﹃史

八九i七︑一九

て い の 系 統 の

ある

一一

一詩

文書

に伝

来し

た理

告は

︑重

一連

が兄

如田

川と

連携

し︿

﹁一

一一

浦文

書﹂

一六四)︑指円の子親重が重婦と和与し(同二ハ一二︑一二

O)

︑同時に関

係文書も移動したためと考えられる︒

の ふ 又 櫛

一 一 闘 で

源 久 寺 の で 日 本 中 世 史 を 専 攻 中

であり︑仁採庄の調査の中心と在るべく期待されていたが︑不幸にも

夫逝されたc両親のお悲しみ辻︑いくばかりかと心が痛む︒

(18)

第二章

みそさく考

はじめに

﹁み

そさ

く﹂

との

出会

関東地方には﹁みそさくL﹁みそぎくL

という地 名がしばしばみられる︒私がはじめてこの地名に出会ったのは茨城県 真壁郡真壁町大字長岡で︑小字以外の通称地名の聞取調査を行なって いた時である︒小字にもなく︑検地帳にも記載のない地名ではあった

が︑﹁みそぎくなんてのもあったなあ﹂とその地名を思い出して語って

くれた古老がいた︒

そして調べていくうちにこの大字長岡に隣接する み そ さ く 考

大字下小幡にも同様︑小字以外の通称地名として﹁みそぎく﹂という 地名が残っていることが判明した︒二か所にあることから関心をもち︑

国語辞典や民俗学の文献にもあたってみたが︑

その地名の意味・語源 第二章

については当時は全く知ることができなかった︒

その意味が理解できたのは一一年後に群馬県邑楽郡大泉町下小泉の御 正作をたずねた時である︒﹁みしようさく﹂はどこかと訊ねた時︑返ってきたのは﹁みそ︑ざく﹂ならあっちだという答えであった︒その時は

じめて御正作をみそぎくと呼ぶことを知り︑

そして連鎖的に真壁にあ

ったみそぎくも御正作の意味だったのかと思いいたったのである︒

その後栃木県小山市大字卒島の小字御正作をたずねた時も︑

ーーみそさくってのか︑みそざくってのか︑それが通り名でね︒

といわれたし︑足利市里矢場の小字御正作も﹁みそざく

Lで通用して いた︒小山市梁の小字味正作の場合は︑元禄検地帳に﹁みそふさく﹂

と表記されていた

(本

部一

扉写

真上

参照

)︒

﹁しょ﹂の字が﹁そLと書かれる例は中世にも﹁そりゃう﹂(所領)︑﹁そ

し﹂(庶子)︑﹁みそう﹂(御庄)︑﹁もんそ﹂(文書)等多く︑御正作もまた

﹁みそうさくL

と発音されていたと推定されるが︑実際中世文書の中に は﹁御さうさく

Lと記したものも少なからずあるのである(﹃高野山文

書﹄五︑年欠秦友貞書状案︿向上五一ーー一O二三﹀︑﹁正木文書﹂応安二年武

4

(19)

蔵国大窪郷田畑注文︑あるいは上野国飯塚郷々帳︿以上﹃群馬県史資料編﹄

み そ さ く ・ ょ う じ キ く

中世

五﹀

)︒

この表記であれば﹁みそうさく﹂以外の発音は考えにくい︒

その中世発音が忠実に継承されて︑地名に定着したのであろう︒古文 書に﹁御そうさく﹂とあれば直ちに御正作と気づくのに︑地名の場合

にそれと気づかなかったのはいささか迂閥な話ではあった︒

I

田遊びの中のミソウサク

中世芸能に系譜をひく回遊びの歌詞を蒐

集︑集大成された新井恒易氏は大著﹁農と田遊びの研究﹄(一九八一年

刊)

の中

で︑

東海道の遠江から駿河にかけての田遊びの中には 正作の用語が見いだされる︒私は初めのうち︑

いみじくも御

)の語の誰りが

はなはだしく︑(意味を)判断しかねていた︒遠江の雄踏町の息神

社では地頭殿・ジョウケン殿のニシャウジャ夕︑袋井町の法多山

では院主のニソウサ夕︑寺野と神沢では地頭ほかの二升作︑となり

の懐山では同じくみそうさく︑駿河の日向では同じく二庄作など

となっていたが︑滝沢においては﹁御正作﹂と明記していた︒

( 六

八六頁)

と︑御正作の語義確定までの経緯を述︑べられているが︑)こにもミソ

ウサクが登場している︒

御正作の地名表記

御正作︑即ちミソウサクの地名表記はまちまち

で︑﹃角川日本地名大辞典﹄によれば︑茨城県の場合︑

コゴ惣作(石岡市小井戸)︑味噌作(水戸市渡里)︑味噌作(阿見町追

原)︑三草作(笠間市大橋)︑味惣作(土浦市田村)︑味相作(大宮町

下岩瀬)︑ミソウ柵(常陸太田市幡町)︑ミソウ作(同・瑞竜町︑大宮

町西

塩子

)︑

ミソ

サク

(関

城町

船玉

)︑

ミソウサク(出島村牛渡)︑見

正作(茨城町下飯沼)︑御正作(岩間町下郷)

4

栃木県の場合︑

ミソウ作(真岡市飯貝)︑味正作(小山市梁)︑三双柵(喜連川町早乙

女)︑コ一ソウザク(市貝町竹内)︑御正作(市貝町見上)

一方︑千葉県の場合は︑

味噌作(我孫子市都部︑市原市小田部)︑味噌柵(市原市能満)︑御早

作(銚子市松岸町)︑味正作(鋸南町下佐久間)︑御正作(東庄町小南)

等となっている︒関東地方では谷のことをサク

(ザク)ということが

多いので︑当初はそうした地名の可能性もあるのではないかと考えた

が︑後述するようにミソウサクは必ずしも谷であるとは限らないし︑

谷田の場合でも谷全体をさすことはなくその一部をさしていた︒

中世の御正作

︑ソウサク即ち御正作はいうまでもなく領家・荘

官・地頭などの直営団を指す語であり︑佃︑用作︑手作(御手作)︑門

田︑前田などと同義の言葉である︒﹃庭訓往来﹄によれば︑

( )

佃御正作之勧農︑除迫地撰熟田︑急令下行種子農料︑促鋤鍬整等

西収之時ニハ可願春法既得

農具︑令耕作梗嬬早稲晩稲等︑

とあり︑﹃地方凡例録﹄には

古之詞に佃御正作という事あり︑之は地頭之田を百姓受て作るを いうなり︑御正作は地頭の手にて作るを云て︑往古兵農分れざる

(20)

時のことと開ゆ

と記されている︒御正作は中世における一等田であり︑みそぎくはそ

の御正作故地を一不す地名である︒従って各地のみそぎく地名を調査す

ることによっ中世水聞のあり方や瀧概用水のあり方︑

館である堀の内や村落とのかかわりがわかるはずである︒

以下

︑ のような問題意識に基づいて︑群馬県︑栃木県︑茨城県内

ほかのいくつかのみそざくについて検討することにしたい︒

上野国

1  群 馬 県 邑 楽 郡 大 泉 町 下 小 泉 の 御 正 作

﹁地理雑件﹄田小字にみる中世地名

群馬県県議会図書館にある﹃地理

雑件﹄(間的治十四年群馬県小字名調書)や﹃邑楽郡町村誌﹄(皇居地誌)に

は明治時代小字のほか旧小字も記されているが︑

それによると下小泉

のほか竹の内︑

の湯

川で

の中

世地名のあったことがわかる

み そ さ く 考

J士心デ}み也︑

EZ 1

ニ 一一 円

HE t u

文治二年註貫四郎大夫広綱之ヲ領シ︑延徳元年富田内主税助直光所

第二章

佐官

トナ

と村の沿革が記されるほか︑一警の濯滋用水が休泊堀であるとも記さ

れて

いる

)の休泊堀は渡良瀬出より引水する大規模用水で︑戦国武

将大谷休泊が開撃したものとされており︑

その時期は天文年間とも元 亀年間ともいわれている

Q待矢場再堰々尾崎喜左雄編﹁かみつけよ

σ

り群

馬へ

に下小泉村でにかけて

な変化があったことが

れた

またこの小字御正作は遺跡名としても知られており︑

九八

O

年区

画整理の事前調査として発掘謁査が行主われている(大泉町教育委員

会﹃御正作遺跡﹄一九八四年)︒近況も当然変化しているはずだから︑現

地調査が難行することが予︑刻されたが︑事実はさらにより古く明治四

十四年(一九一

一)から大正にかけて一帯では大規模な耕地整理が行

なわれており︑

旧地

割︑

沼地名も既にその時変化していたのである

(﹃

大泉

町誌

一九

八コ

一年

) C

明治末年の下小泉そこで謁査法照的治末年の耕地整理以前の状況を

知る人を探りあてることから辻じめねばならなかったが︑幸いなこと

に鹿沼良一氏の水間の状況

y

れて

おり

うことができた︒また 耕地整理以前の明治期地籍留は大泉町役場では火災のため焼失してい

省 叩︑ ︑

AJAμ

これも幸いなことに群馬県立公文書館に明治初年地籍図が保存

されており︑閲覧・撮影することができた(但し字名の記入はない︒巻

l

真参

照)

︒ )れらをもとにして作成したのが地図

B11

であ

る︒

下小泉村自体は休泊堀があるにもかかわらず︑早害をうけやすい地

43 

(21)

み そ さ く ・ ょ う じ ゃ く I部

)位置の比定がむずかしく、およその 佼設を示したもの

広三ヨ畑 片¥宅地

辻一

橋一

O 二J

0

メートル︑長さコ一

00

メ!ト

44 

ルもあり︑地籍図にも明記される詔である︒

反当収量の多いところは天神下の七俵︑

t

丑・

いのが

で穣まで埋まる水田であった(﹃大泉町誌﹄上

や﹃御正作遺跡﹄は長沼辺の水田土壌を泥炭層と

ている︒強︑提出では稲は根擦れをおこす

明治初期の下小泉村

ので︑反当収量は落ち

箆沼氏は﹁ミソザクは御租作と書くと覚え ていたが:::﹂と述べられているQ

邸内

ち氏

地となって済波したが︑小泉村の語源となった泉を指す︿﹃大泉町誌﹄上︑一

で は

︑ で あ

ったのを︑清水尻からの︑湧水と︑﹁築比地様﹂

わきみず

の屋敷から出る語らかな湧水(小泉飛行場敷 域で︑村誌にも﹁夏窮皐魅ノ時ハ用水ニ苦ム

Lとあち︑﹃待矢場両堰々 ら聞かれ

そこからできた米を殿様に献上 し

のかつてのまたそれとは 四二七頁﹀)を利用して屈を切り開き︑

てる

する出がみそざくだったとのこと 史﹄によっても水分記をめぐる紛争の多数の記録を読むことができる︒

り搬

出い

それで訟の

おられたとの話であった︒なる興味深いものであった︒

即ち明治末期の耕地整理にともない西の根に大排水路を掘削したが︑

それ以前の御正作賂辺は用水の必要はないくらいの滋地帯であった︒

ぐま

れ︑

このよう

ι

して復原し得た御正作は湧水に近いという点で水利にめ

水田一方沼地名をもっ強湿地からもあ

になれば田が

みて︑樹︑鰻︑総がおり︑特に隣接す

であった︒体泊堀完成後ですら常時早舷地であった一帯において︑休

まさにその点に

本尻では水が噴き出る場所があった︒耕地整理後︑熔を水固化した所 辻二毛作もできたが︑大部分は一毛作自のままで︑御正作も

毛作密

泊堀を必要としない程水利に恵まれていた鄭正作は︑

おいて他に擾越する水田だったのだろう︒

f

多い

が︑

ふく

町田の遺跡

の状︑況についててみよう︒

(22)

なるのが

f }rjhj

7 ν

‑41J︐す叱←4

遺跡﹂の発掘調査の成果である︒鹿沼氏によれば︑)の発掘調査地は

明治耕地整理の後に水田北されて︑新小字街正作に編入された土地で ぞれ以前は町田という字名の畑地であったということで︑地籍

あり

︑ 図によってもミソザク南方の高燥地であることがわかる(したがって

正しい遺跡名は﹁町田遺跡﹂とすべきものであろう)︒

平安時代の

ているが︑平安時代では据立柱建物一棟︑竪穴住居二棟が検出され︑

( )( )

後者では﹁依﹂﹁入内﹂﹁若蘇績﹂(若績)と読める墨書土器が出土して

いる

ほかに時代判定のできない九棟検出されており︑

古代末から中世にかけて文字を用いる人々の住宅のあったことが知ら

れる

︒ れらの建物群はいずれも小規模で︑直接館的なものとはつな

がらないが︑﹁みそぎく﹂水屈を後背とする台地上に文字を記す人々が

生活していたことは︑中世にこの地が領主宣営田化する前段階の様梧

を示すものとして興味深い5

域館跡小泉村げいは城館跡が

か所ある︒小泉城跡と筑比地館跡が

それで︑ともに山崎一﹃群馬信用古城塁祉の研究﹄(九七八年刊)にとり

あげられているが︑れも御正作からょう︒御正作の北東

み そ さ く 考

に隣接する小字竹の内周辺は︑既に明治に耕地整理されて何ら遺構ら

しいものをみつけることはできないが︑近くに仏供免地名もあり(﹃地

理雑件﹄による︒宙開取ではこの地名を記憶する人をみつけられなかった)︑

第二重量

あった

であ

る︒

生賓庄小泉郷

吋館

林市

斗一

一室

(一

九八

九年

刊)

や﹃

大泉

町誌

﹄が

記述

する

ように︑中世小泉郷が等にていたことは

よって明らかで︑

また村誌の記述にみえる住貫広瀬辻﹁吾妻鏡﹄をは

じめ﹁八坂神社文書﹂や﹁長楽寺文書Lにも登場する人物で(﹃態林市

の地であるから︑

その

σ

の史実を伝えるものであろう︒

下小泉の御正作は佐貫氏の流が︑定内の郷︑小泉村の竹の内に

居住することにより設定されたもののち中世末期にがこの

一帯を領した段搭には︑小泉域が戦困窮の本格的域砦として築城され

たものであろう︒

関取調査

鹿沼良一氏久保田議雄氏

斎 藤

野治氏ほかより

群 馬 県 太 田 市 強 戸 の 三 惣 作

強一

円は

新田

額一

円氏

の本

賞揚

}の

地は

の故地である︒額一戸郷は古く嘉応年中(

ハ九

t )

目録(﹁正木文

京・九八﹀に

額戸郷田六町九反舟たい

在家六宇

とも

記さ

れ(

同上

八三

)︑

また応永廿二年(一回一五)の称光天皇即位設

伊日←司

J /

vL

4

されている

一方﹁新田氏系図﹂︿向上田部)をみると︑

参照

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