Kyushu University Institutional Repository
From autonomous activity to the hook-up with Kwantung Army: the relationship between De Wang and Japan
丁, 暁杰
九州大学大学院比較社会文化学府
https://doi.org/10.15017/4494615
出版情報:比較社会文化研究. 18, pp.1-13, 2005-08-10. Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
Social and Cultural Studies No. 18 (2005), pp. 1 ‑‑‑13
自治運動から関東軍との連携ヘ
徳王と日本との関係 その一一—
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はじめに
20世紀初めの30年代に、中国の内蒙古西部で徳王という 人物は日本関東軍と協力したことがあった。なぜ、徳王は 関東軍と協力する道をたどっていったのか、この協力関係 をいかに評価すべきかということが本稿で明らかにしたい 問題である。
この徳王と関東軍との連携について、従来の研究では、
中国人の視点から、蒙古人の政治行動は、愛国的あるいは 売国的というように区分されてきた。中国では、政府側が 公式に出版した徳王と関東軍との連携についての文書にお いて、彼が日本と結託し、民族と国家の分裂をした「蒙奸」、
「日本帝国主義の手先」、「日本の愧儡」だったことを指摘 している(I)この指摘は、後に明らかとなった徳王と関東軍 との接触経緯から分析すれば、説得力に乏しい。
客観的に徳王が関東軍と協力したことを評価するため に、徳王の当時の行動は蒙古人が自民族の生存を求めるた め、あるいは自らの政治権力を獲得するために政治活動に 参加したということを念頭におくことを忘れてはならな い。さらに、蒙古の歴史は蒙古人の視点に即して理解しな ければならないという自明の理を、ここで確認しておきた
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このような徳王に対する評価に対して、近年、中国・日 本の徳王研究は、「徳王は明確で強固な政治的意思を持ち、
日本軍の力を利用してでも蒙古独立の悲願を達成しようと した蒙古王公である」という観点から修正を迫っている。(2)
こうした従来の評価への修正を踏まえつつ、本稿は徳王 が自治運動から関東軍との連携へと移行したプロセスに注 目したい。ここで重要なのは、関東軍との連携へ転向した 原因である。このことについて、先行研究は徳王と関東軍 の「協力」の真の原因を明らかにしているとは言えず、補 充して説明する必要があると思う。
では、徳王は自治運動をどのようなものとして構想して
いたのだろうか。さらに、なぜのちに関東軍との連携を図っ たのだろうか。以上のような観点から、本稿では、徳王が 関東軍と「協力」した歴史の経緯を中心として、内蒙古自 治運動から蒙古軍政府成立までの徳王と日本関東軍との関 係を再検討するものである。
蒙古自治運動
1930年代に、中国の西部内蒙古で徳王をはじめとして、
蒙古王公と青年知識人達が参加した蒙古自治運動が発生し た。この自治運動は中央政府に対して内蒙境内で設置され ているチャハル、緩遠省の撤廃、蒙地の放墾停止、内蒙高 度自治などを要求したが、中央政府はその場しのぎの政策 を取って、また、チャハル、緩遠省方に相継いで圧迫を加 えたため、徳王らの中央政府に対する信頼感を次第に薄く させ、関東軍の力を借りて、蒙古独立を実現しようとする 道をたどり始めた。
1.自治運動の発生
徳王は、 1933年に内蒙古自治運動発生の原因を「開墾に よる牧畜経済への圧迫に対する蒙古人民大衆の反対、省・
県を設けて盟旗の権利を侵害することへの蒙古王公の不安 および日本の侵略など」と指摘している。(3)すなわち、国民 政府の蒙古に対する圧迫政策によって、蒙古自治運動が発 生したのである。
清の時代、政府は、蒙地開墾を禁止する法令を何度も発 布して蒙古の放牧地を保護したが、漢族農民の蒙地への進 出を押し止めることができなかった。薙正初年、直隷省・
山西省の大飢饉を契機として、被災地の多数の貧農が蒙地 へ流入した。西部内蒙古の帰化トモトでは、蒙古王公ある いは蒙民が漢族との間で借地養民(私的な入植契約による 小作地)を設定して租子を徴収した。義和団の乱の鎖圧後、
清末の親政がはじまるや、清朝はチャハル部・イクジョウ
(1) 慮明輝著『徳王其人』、1998年、遠方出版社、呼和浩特、 70頁。 (2) 森久男『徳王の研究』、創土社、 2000年、 8頁。
(3) 徳王著、森久男訳 r徳王自伝』、 1994年、岩波書店、 3頁。
盟で積極的に蒙地開放を実施した。い辛亥革命後、当時の中 華民国政府は、熱河、緩遠、チャハルには省を置かずに特 別区とされるとともに、漢族の蒙地への入植の勢いをいっ そう強めた。漢民族の入植につれて、内蒙古の蒙古族は放 牧地を奪われていた。遊牧生活を送る蒙古族は土地所有の 観念がなく、漢民族の入植に対して、一部の遊牧民は北方 へ逃避したが、盟旗の移動制限によって周囲を農地で取り 囲まれた一部の遊牧民は、みずから農民となって狭い土地 での生活維持をはかるほかなかった。(5)
1928年6月、国民革命軍は北京に入城し、蒋介石による 全国統一が完成した。 9月17日に国民政府は、内蒙古地域 に熱河、チャハル、緩遠の三省を設置した。(6)はじめてシリ ンゴル盟とチャハル部はチャハル省に、ウランチャブ盟と イクショウ盟は緩遠省の行政区域に編入されることになっ たのである。
このように、盟旗と省県とは内蒙古同一区域内の行政上 の二重の組織になり、数旗に跨って一県を設けるものもあ り、また一旗にして数県を置くものもあるがために、旗県 が並有すれば属人行政となるとはいえ、蒙古人は県の設け られるのが多くなるに従って、盟旗の権益も亦それにつれ て、侵蝕されるとみなしていたため、蒙古人は省県の設置 については、非常にこころを痛めていた。そして、各盟旗 は各省の区域内に散在し、統一的な自治機関を持たず、省 県の強大な圧力に対抗できないのである。この行政改革に よ っ て 旗 長 で あ る 王 公 の 身 分 は 旧 来 通 り 中 央 に 属 す も の の、旗公署は省政府の管轄となり、必然的に省政府の指図 をうけることとなり、蒙民は省県、盟旗の二重行政をうけ ることになった。封建的特徴をなお色濃く残す各盟旗の蒙 古自治が、直接脅かされた。また、改省後、各省政府は県 治区域の拡大と財税増加を図るため、墾民を招致し、県治 を増設したため、漢族農民の蒙地への進出にいっそう拍車 がかかった。漢族農民の入植開墾は省政府でさかんに奨励 され開墾可能の土地は次々と漢族が入植して蒙地は侵蝕さ れた。これに対して、蒙古の土地は元来総有で個人の所有 者がないためもあり、蒙古人は反抗する方法もなく、次第 に北方に追い上げられた。
この省の設置は、一般蒙民や知識人層、王公など、すべ てに反感を持たせた。それが自治運動を起こさせる要因と
して作用したのである。(7)
また、 1931年の満州事変以後、東部内蒙古の一部が、日 本の建てた満小' │国の領土に編入されたことで引き起こされ た危機感も、内蒙古人の政治意識の覚醒に寄与した。関東 軍が華北と西部内蒙古に勢力を拡張しようとした時、国民 政府は、「共産党掃討作戦」に没頭しており、「安内攘外」
という対日妥協政策を採用していたため、日本の進出に対 し消極的に抵抗する方針を取っていた。蒙古人は、内蒙古 地域を日本の侵略から守る方法は、内蒙古自治を通して蒙 古 人 の 団 結 を 誘 導 す る 道 し か な い と 認 識 す る よ う に な っ た。 (8)また、内蒙古は辺遠の地にあり、関東軍が続けて攻め て来ると、保全し難いことが明白だったため、蒙古民族の 抗日を動員、組織だけでなく、内蒙古の国防安全を守るた めの措置を何も取らなかった。民族主義者である徳王は、
強 敵 が 迫 っ て 来 て 蒙 古 民 族 が 存 亡 の 瀬 戸 際 に 立 た さ れ た 今、団結してこそ外敵を防ぐことができると痛感した。そ こで、内蒙古自治を実現しようという強い願望を抱くよう になった。彼のねらいは、内蒙古の各盟旗を一つの集団に して、その上に自治機構を作り、日本側と接触しながらも 日本の勢力拡張を牽制することにあった。(9)
こうして、内蒙自治運動最初の目的は、衰退しつつある 蒙古民族の現状を憂い、分裂した盟旗を結集して統一自治 組織を作り上げ、関東軍による侵略への抵抗を有力な根拠 としながら、国民政府の支配の枠内で高度自治を要求する ものであった。
徳王らは1933年7月と10月に各盟旗の王公を召集してウ ランチャブ盟の百霊廟で会議を開催し、国民政府にチャハ ル・緩遠両省の廃止、内蒙高度自治、および統一的な内蒙 古自治政府の設立を要求した。(10)
内蒙側の要求に対して、国民政府は曲折の末に結局譲歩 し、蒋介石は「高度自治」を「地方自治」と改めたうえで 徳王らの要求を承認した。(11)
1934年3月、国民政府は、「蒙古自治問題弁法原則八項 令」、 (12)「蒙古地方自治政務委員会組織大綱」などを公布し、
4月23日、百霊廟で蒙古地方自治政務委員会(蒙政会と略 称)を発足した。委員長は雲王(雲端旺楚克、ウランチャ プ盟盟長)、政務庁長は徳王が任ぜられた。イニシアティブ を握っていたのは徳王である。形式上では、内蒙古各盟旗
(4) 安斎庫治「清末に於ける緩遠の開墾」び満鉄調査月報』第18巻第12号、 1938年12月、 6 9頁) (5) 平野蕃「蒙古人の農業」(同上誌、第18巻第4号、 1938年4月、 1頁)
(6) 黄奮生編 r蒙蔵新誌』上、 1938年、中華書局、 305...,306頁。
(7) 内蒙古大学編『内蒙古近代史論叢』第三輯所収、 1987年、内蒙古人民出版社、烏蘭少布「中国国民党対蒙政策(1928‑1949)216...,223 頁。
(8) 黄奮生著『内蒙盟旗自治運動紀実』、1935年、中華書局、 61頁。
(9) 札奇斯欽著『我所知道的徳王和当時的内蒙古 (1)』、1985年、東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所、 59頁。 (10) 慮明輝著『蒙古自治運動始末』、1980年、中華書局出版社、 28 58頁。
(11) 慮明輝著『徳王其人』、1998年、遠方出版社、 55 65頁。 (12) 讀場吾著『内蒙之今昔』、商務印書舘、 1935年、 182...,183頁。
の統一した民族自治機構となった。
2.蒙政会と中央政府との対立及ぴ省方の圧迫
蒙政会の発足によって内蒙自治運動は一応の目的を達成 した。しかし、国民政府が認めたのは「高度自治」ではな く、「地方自治」にすぎず、統一自治組織の名称も「内蒙自 治政府」ではなく、「蒙古地方自治政務委員会」に改められ ていた。これは、国民党政府が内蒙古の情勢を安定させる ために、やむをえず譲歩したものであった。省と県の統治 を中心とした大漢民族主義の対蒙古政策には、実質的な変 化はなかった。
したがって、国民政府は蒙政会に対してその場しのぎの 対応をとっていたにすぎず、チャハル省政府(主席宋哲元、
二九軍軍長兼任)・緩遠省政府(主席博作義、三五軍軍長兼 任)はその後も蒙政会に対する妨害や切り崩しを重ねたた め、徳王側は国民政府側への反発を強めることとなった。
一方、蒙政会成立後、国民政府は開設費を三万元しか支 給せず、事務経費や職員手当を支払うと何も残らず、省・
県政府が農耕地帯の税収を独占する一方、蒙政会が支配す る遊牧地帯には財源がほとんどなかったので、行政費など が不足し、たちまち組織存亡の危機に見舞われた。(13)
1934年8月中旬、徳王は側近の陳紹武を鷹山に派遣し、
蒋介石に対し経費・武器を請求させた。その際、西部内蒙 古への日本人の接近問題を意図的に漏らして蒋介石の指示 を請い、彼の関心を引こうとした。蒋介石は蒙政会への経 常費月額三万元、建築費十二万元、および武器の供給を約 束した。日本人の進出には、「高ぶらず、卑屈にならず、様 子をみてことを運べ」と指示を与えた。この時、陳は、徳 王が蒙旗のなかで声望が高く、断固として蒋介石を擁護し ていると述べた。 (14)しかし、当時、「安内攘外」政策を採っ ていた蒋介石は関東軍の内蒙工作に対して蒙政会に断固と した処置を指示することができず、若干の財政・軍事援助 を与えることによって当面を糊塗するほかなかった。
特に蒙政会成立後、省・県の設置に反対するという自治 運動の中心的な問題は、依然として解決されなかった。西 部蒙古地域には盟旗と省県がそのまま併存しており、摩擦 の余地は依然として残っていたのである。しかも国民政府 側は、「蒙古自治問題弁法原則八項令」のなかの「政費は、
中央から支給される。省県が盟旗地方で徴収した各項の地 方税収は、一律的にその若干の盟旗に支給する」という条 項を、初めからまった<守らなかった。(15)
このような国民政府のあいまいな対蒙政策は、蒙政会と チャハル・緩遠省政府の間に軋礫を生み、関東軍と徳王が 接近する糸口を与えることとなった。
そして、蒙政会と緩遠省の間に特税配分問題をめぐって、
激しい対立が起った。特税とは中国西北地方で生産された アヘンが、北京、天津など消費地への向かう過程で、緩遠 省政府が中間で取り立てる通過税であったが、その額は毎 年、約二百万元に達していた。もともと緩遠省政府は、約 定に従って税収の一部を蒙政会側の盟旗に支給することに なっていたが、履行されなかった。そのため蒙政会は経済 的困難に直面し、徳王の不満も高まっていた。(16)
西公旗事件で、蒙政会は緩遠省方とも厳しい対立関係に あった。この事件は、西公旗の旗長の就任をめぐって発生 した問題で、本来、西公旗の後任旗長の就任は、該当盟長
(ウランチャブ盟長雲王)の責任の下で前任旗長に最も近 い親戚が継承するのが原則であったが、緩遠省政府主席博 作義の支持の下で、石王(石拉布多爾済)が、伝統的な継 承原則を無視して就任したことにより雲王と対立した。徳 王は百霊廟蒙政会が成立してから、蒙政会の権威の確立と いう観点から、雲王を支持して伝統的方法を強力に推し進 めたが、博作義の反対で意を遂げることができなかった。
このことが、徳王と博作義とが政治的軍事的に対立する契 機となった。(17)
とりわけ、韓鳳林事件によって、徳王は国民政府との関 係を悪化させ、中央政府に対する不信感を深めた。徳王の 側近韓鳳林は、蒙古浪人笹目恒雄の援助で日本の陸軍士官 学校で学び、満州事変勃発後、蒙古独立軍の副官長を努め たが、満州国興安省の施政に失望して徳王の蒙古自治運動 に参加した経歴をもつ人物である。彼は民族主義者で、関 東軍の満蒙政策に批判的であったが、国民政府はその実状 を知らず、彼を日本のスパイとして疑っていた。 1934年9 月、韓鳳林は北平へ赴いた際、憲兵第三団に逮捕され、殺 害された。 (18)この殺害事件は、徳王の恨みを招いたほかに 何の威喝の役割も果たさなかったのである。逆に、この事 件を契機として、徳王は側近者が殺害されたため、中央政
(13) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、 1994年、岩波書店、 61頁。
(14) 中国人民政治協商会議内蒙古自治区委員会文史資料研究委員会編 r内蒙古文史資料』第一輯所収、 1962年、内蒙古人民出版社、陳 紹武「内蒙徳王和蒋介石的関係」、 31 35頁。
(15) 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道 (3)日中戦争(上)』所収、 1962年、朝日新聞社、島田俊彦「華北 工作と国交調整」、 227頁。
(16) 中国人民政治協商会議内蒙古自治区委員会文史資料研究委員会編『内蒙古文史資料』第五輯所収、 1979年、内蒙古人民出版社、任 乗鉤「徳穆楚克棟魯普与博作義争奪阿片過境税」、 19~20 頁。
(17) 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道(3)日中戦争(上)』所収、 1962年、朝日新聞社、島田俊彦「華北 工作と国交調整」、 228~229頁。
(18) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、 1994年、岩波書店、 61 65頁。
府に反感を抱き、日本側に心を近寄せていくこととなった。
また、蒙政会成立後、チャハル省主席宋哲元は徳王府の 東北榜江に兵力を駐屯させ、王府に常時将校を見回りに派 遣して、日本側と徳王との接近工作を監視させていた。徳 王らの高度自治要求運動について、国民政府が日本の示唆 によるものとみて警戒したことは自然であったものの、逆 にそれがますます徳王らを日本側に押しやる結果ともなっ たわけである。(19)
これらのことによって、徳王は中央政府への信頼を次第 に失っていった。徳王の指導した蒙政会は、国民政府と省 方の衝突する最中で、次第に関東軍との距離を縮めていく こととなったのである。「日本の誘惑と国民党の圧迫によ り、徳王は日本の愧儡になった。」(20)国民政府のもとでは
「地方自治」しか許されないので、蒙政会によっては自分 の政治的理想が実現できないと悟った徳王は、西部蒙古を 中国から「独立」させるための援助を行うという関東軍の 誘惑に心を動かされ、 1934年末から関東軍に接近し、国民 政府から離れて、関東軍と連携し、日本の力を利用して蒙 古 独 立 の 理 想 を 実 現 し よ う と 考 え る よ う に な っ た の で あ
る。
本来、徳王らが唱えている自治運動は、関東軍による西 部蒙古への侵略に抵抗することと、国民政府の支配の枠内 で高度自治を要求するものであったが、国民政府と省政府 が対蒙政策に不誠実であった結果、関東軍との連携を試み るものへと変じていくこととなったのである。
関東軍の西部内蒙古への拡張計画
徳王らが蒙古自治運動を行うと同時に、関東軍は、内蒙 古西部にその勢力を拡大しようと計画して、「内蒙工作」を 推し進めていた。徳王は協力の相手としてマークされた。
関東軍は徳王との協力を通して、地方自治政権を樹立し、
西部内蒙古をコントロールしようと計画していた。関東軍 の内蒙工作は、初期の文化工作を中心とする段階と、後期 の 西 部 内 蒙 古 を 中 国 か ら 分 離 さ せ 、 関 東 軍 の 手 で コ ン ト ロールする自治政権を樹立しようとする段階の二つの部分 に分けられている。 1936年5月、関東軍の支持により、徳 王を中心とした蒙古軍政府が樹立され、内蒙工作は一時的
に成功した。
1.初期「内蒙工作」一文化工作を中心に
徳王は日本関東軍と正式に接触する前に、軍と関わり合 いがある民間日本人と交流を持ったことがある。
徳王が初めて会った要路の民間日本人は、 1929年に西ス ニト旗の徳王府に徳王を訪ねた盛島角房と蒙古留学生事業 の先覚者笹目恒雄である。
盛島は大正末期から内蒙古に入って、三年間、晋北(中 国山西省の北部)のラマ(廟麻)寺で語学と現地事情を勉 強した。チャハル、シリンゴル、ウランチャブまで顔が広
<雲王、徳王、索王という内蒙古上層人物と親密な関係が あり、(21)関東軍との関係も深く、特に軍部の出先は「蒙古の 盛島」として重要視していた。 1933年初頭、関東軍が、「内 蒙工作」を推進するために、「蒙古研究員」を養成しようと した時、すべての採用者は、盛島の推薦されたものから選 ばれたのである。 (22)盛島は1929年冬に西スニト旗に入り、
直接徳王懐柔工作をはじめた。(23)
熱河作戦後、関東軍は、初期の「内蒙工作」をはじめた。
1933年8月、シリンゴル盟西ウジュムチン(烏珠穆沿)旗 に特務機関を開設した。新設に当っては、同地域にまだ関 東軍の勢力が浸透していなかったので、盛島は、関東軍参 謀 部 委 嘱 で 民 間 人 と し て 、 西 ウ ジ ュ ム チ ン 特 務 機 関 長 に なった。(24)盛島は、百霊廟で内蒙自治会議が開催されてい た頃、蒙古自治会議の情報を収集して、その都度、詳細な 報告を関東軍に送っていた。徳王を、関東軍に引き合わせ たのもこの盛島である。(25)
蒙古浪人笹目恒雄は、蒙古留学生事業の先覚者であり、
1924年夏に東部内蒙古を旅行した際、蒙古留学生事業を決 意した。笹目恒雄の祖父笹目八郎右衛門は、当時、現役の 多額納税貴族院議員であり、蒙古留学生事業のすべての費 用は笹目の祖父から出されたのであった。(26)
翌年、ホロンバイル(呼倫貝爾、東部内蒙古の一部分、
中心地は海拉爾)から蒙古青年を日本に連れ帰り、東京で 戴天義塾を設立して彼らの教育にあたった。ここでは韓鳳 林・郭文林・包海明・阿思根・甥尼巴達拉などの蒙古青年 36名を教育した。(27)彼らは、のち、満州国の興安省と蒙弧 政権の幹部となった。 1931年9月、満小什事変が勃発するや、
蒙古留学生ば帰国し、戴天義塾は解散された。
満州事変前後の時期、笹目は北京・奉天で徳王等の蒙古 人有力者と幅広い交友関係を持った。徳王は、笹目に「外
(19) 善隣会編『善隣協会史』所収、 1981年、日本モンゴル協会、後藤富男「善隣協会は何をやり残したか」、 5頁。 (20) 中国中共中央統戦部編 r民族問題文献雁編』、 1991年、中共中央党校出版社、 417頁。
(21) 内田勇四郎著 r盛島角房翁伝』、http://wwwl.odn.ne.jp/morisima.htm、3頁。
(22) 社団法人日本モンゴル協会、 r日本とモンゴル』 6巻2号所収、 1971年4月号、中嶋万蔵「関東軍蒙古研究員の回想」①、 27頁。 (23) 内田勇四郎著『内蒙古における独立運動』、1984年、朝日新聞西部本社編集センター、 71頁。
(24) 岡村秀太郎・内蒙古アバガ会編 r特務機関』、2000年、国書刊行会、 32頁。 (25) 内田勇四郎『盛島角房翁伝』、http://wwwl.odn.ne.jp/morisima.htm、19頁。 (26) 笹目恒雄 r神仙の寵児J 3、神秘編(下)、 1991年、国書刊行会、 235頁。 (27) 笹目恒雄 r神仙の寵児』6、地恵編(上)、 1991年、国書刊行会、 10頁。
蒙古はソ ビエトに蹂躙され、自由にして純然たる蒙古色は 失われてしまった。今や満州は完全に宣統帝の満小11復活よ り、蒙古はそのなかに従属され、ここにも蒙古は特徴を失っ てしまった。残りは外蒙古と満州に挟まれた、いわゆる内 蒙古あるのみである。ここに祖先の伝統培わなければ、蒙 古民族は亡びる」 (28)と述べたことがあり、蒙古独立の意向 を伝えた。笹目は蒙古民族の現状に対して同情的であり、
蒙古独立運動に熱心であった。
将来、蒙古独立後の文化活動のために、蒙古留学生の養 成機構として「日蒙協会」(善隣協会の前身)を創立してお く必要があるとの見解で、 1933年3月、笹目は林銑十郎大 将•松井石根中将等の後援の下、三井・三菱等の財閥から 約百万円の資金援助を得て日蒙協会(戴天義塾の代わり)
を設立した。(29)同年春、笹目は徳王と会見するために内蒙 古に赴いて、徳王の私設顧問として長期間徳王府に起居し た。
徳王は盛島と笹目の二人と付き合った経験から、のちに、
関東軍の内蒙工作に便宜を図ることとなったのである。
1931年、日本関東軍は満)、11事変を起こし、満)小1地域を確 保した後、引き続き1933年の春熱河作戦を展開しながら、
内蒙古工作を積極的に推進するようになった。1933年1月、 陸軍きっての蒙古通であった松室孝良大佐が騎兵第一連隊 長から関東軍司令部付に転任を命じられ、承徳特務機関長 として、「熱河省政府の内面指導に任ずるとともに蒙古民族 の懐柔に努める」という任務にあたった。(30)
関東軍が内蒙工作を推進した最初の意図は、満小卜1国と接 壌しているチャハル東部地区に親日満勢力を扶植し、満小卜1
国の西側の安全を確保するとともに、華北と外蒙古に拡張 する足場を獲得しようとした。(31)
熱河作戦の過程で、東北軍の崖典武旅団に属する李守信
(熱河省卓索図盟土黙特旗出身で、蒙古人、のち、蒙彊政 権副主席、蒙古軍総司令)が日本側に寝返り、崖に代わっ て、旅長となった。関東軍承徳特務機関長松室孝良大佐は 李守信軍に兵器、被服、軍費等を支給し、関東軍の謀略部 隊としてチャハル省へ侵攻させた。李軍は1933年4月に チャハル省の多倫を占領し退却、再び占領をへた後、関東 軍の指導下に多倫県に察東特別自治区を設定した。ここは 満州国ではなく、中国領でもない独自の行政地区として存
在し、日の丸の旗を掲げ、親日満の旗職を表明した。李守 信は行政長官を兼任した。(32)
こうして熱河省と接するチチャルの一角が関東軍の支配 下に入り、関東軍はここに特務機関を設置し、多倫は関東 軍の内蒙古工作の根拠地となった。察東特別自治区は、関 東軍にとっては、満小11国から西部内蒙古への橋頭堡となっ ていた。したがって、この設置によって、関東軍の内蒙古 工作は実際的にスタートしたといっても過言ではない。
1933年10月、松室大佐は多倫でシリンゴル盟・チャハル 部の長官会議を主催したが、王公・旗長・総管は参加せず、
代表の参加にとどまった。当時、徳王は百霊廟会議を主催 しており、この多倫会議に関心を示さなかった。(33)松 室 大 佐は蒙古独立を認めなければ、内蒙古工作の進展がおぽつ かないと痛感した。多倫滞在中に、松室大佐は「蒙古国建 設に関する意見」(34)を起草し、関東軍・参謀本部に提出し た。同意見書は「蒙古国は満朴1国の姉妹国」で、 3年間の 準備期間で西部内蒙古における蒙古国建設が可能であると 想定している。当時、関東軍の対蒙施策は、満朴1国におけ る蒙古族の民族意識を刺激するような「蒙古独立」のスロー ガンを許さず、「民族協和」を基調としており、松室大佐の 意見は関東軍の方針を大きく逸脱していた。ゆえに関東軍 は、この後、松室をチチハル(斉々唸爾)特務機関長に異 動させた。(35)
関東軍は初期の内蒙工作を「国際情勢を無視し露骨な活 動と国内外の視聴を惹くが如き急進的施策の実施は厳に戒 むを要す」と強調し、その実行方法として、 重点を経済と 文化面に置き、「同地方蒙民をして不知不識の間附満親日た らしめるにある」とする。すべての軍政工作はひそかにお こなわれ、その中心は当時満)
1
、│国に帰順した李守信の察東 警備軍が担った。上述した目標を実現するため、道路交通、通商貿易、産業開発を行い、ラマ教と回教信者を懐柔利用 し、医療及び教育機構を設立、善隣会館の開設と経営、 蒙 古軍を編成、蒙古自治軍を強化し、通信と諜報機関を設置 するなどの具体的な計画を制定した。(36)
1933年7月30日に関東軍参謀部は「暫行蒙古人指導方針 要綱案」(37)を作成した。この要綱案には、「西部内蒙古に於 ては蘇支両国勢力の波及を排撃する自治政権の樹立を促進 し、又は外蒙古に在りては逐次蘇連の濶絆を脱して親日満
(28) 善隣会編『善隣協会史』所収、 1981年、日本モンゴル協会、春日行雄 「戴天義塾、日蒙協会、善隣協会」、 18頁。 (29) 笹目恒雄『神仙の寵児』 6、地恵編(上)、 1991年、国書刊行会、77頁。
(30) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料 く8〉 日 中 戦 争 <l〉』、 1964年、 みすず書房、I Xii頁。 (31) 同上、 447頁。
(32) 劉映元編 r李守信自述』内蒙古文史資料第20輯、 1985年、内蒙古人民出版社、 146‑‑‑‑‑158頁。
(33) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 90 92頁。
(34) 島田俊彦、稲葉正夫編 r現代史資料く8〉・日 中 戦 争 <l〉.I、1964年、 みすず書房、 449‑‑‑‑‑464頁。
(35) 関東軍司令官「関与二命第四七号」 1933年10月19日(防衛図書館) (森久男 r徳王の研究』、 2000年、創土社、 115頁から転引。)
(36) 島田俊彦、稲葉正夫編 r現代史資料く8〉日中戦争 <l』〉、1964年、 みすず書房、468‑469頁。 (37) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く8〉日中戦争 <l〉』、 1964年、みすず書房、447頁。
の趨向に転ぜしむる如く指導する」「主として平和的文化工 作特に経済的関係の連鎖に依り自発的に親日満に導き遂に 不可分の関係を生ぜしむる如く指導するを要す」とある。
すなわち、関東軍は満州国内の蒙古人の生活を安定させて、
西部内蒙古と外蒙古の同族をして満小11国に対する憧憬心を 起させ、進んで彼らが親日、親満を志向するように方針を 立てていたのである。
また、関東軍参謀部も1934年1月24日に作成された「対 察(チャハル)施策」(38)で、「将来先づ察東及錫林郭勒盟を して自発的に満州国と経済的に密接不可分の関係に有る行 政地域たらしめ、以て満小11国統治及国防を容易ならしむる と同時に、北支及外蒙に対する諸施策の根拠地たらしめる 如く準備指導す。……将来情勢の推移によりては施策範囲 を更に西方に拡張す」という方針を掲げた。(39)すなわち、
察東およびシリンゴロ盟地域を満小卜1国と密接な関係にし、
満小
1 l
国国防問題を容易にすると同時にこの地域を回復し て、外蒙古に対する影響力を拡大するための根拠地にすべ きであると主張している。上述の方針を踏まえて、 1934年1月、「内蒙工作」を推進 するために、関東軍の文化工作機関として財団法人善隣協 会が設立された。「内蒙工作」の初期の段階で、関東軍は善 隣協会を利用して、文化・経済工作中心の穏健な工作方針 を採用していた。協会の任務は関東軍のための情報収集と 日蒙親善関係の構築、教育、文化、医療活動と蒙古に対す る研究を行うことであった。「本協会の事業は教育、宗教、
衛生に力を用ひしめ経済方面に関しては直接人民の福祉を 増進し得べき簡単なる事項に限り実行せしめあり」 (40)とあ るように、善隣協会は「人道的立場」に立ち、「比隣諸民族」
の「文化の向上二資ス」を目的に掲げた。その行動は総務、
調査、蒙古留学生各部に具体化され、まず対象を中華民国 のチャハル、緩遠両省に居住する蒙古民族にしぼり、「教育、
医療、牧畜指導」の施策を実行した。(41)つまり、善隣協会 は、関東軍の内蒙古工作に協力したが、とりわけ、医療、
教育活動を通して、文化的事業を内蒙古西部に浸透させよ うとしたのである。
当時、善隣協会は新京事務所を根拠地に、藤中弁輔の「ア バガ班」、前川垣吉の「西スニト班」を編成、各班長の下に 教師、医師、獣医、蒙古語及び中国語に堪能な調査員、通
訳を配して、林西あるいは多倫を経由して、チャハル省ア バガ貝子廟および西スニトに入り、蒙古民族のための小学 校、診療所、模範牧場を開設した。(42)
1934年7月、前川坦吉の西スニト班が西スニトの徳王府 に到着し、「西スニト班」を開設したと同時に、関東軍の承 徳特務機関は嘱託として中嶋万蔵を派遣し、西スニト班に 配属した。一方、藤中弁輔のアバガ班は西ウジュムチンに 進出し、関東軍承徳特務機関の嘱託山本信親が派遣され た。 (43)こうして、関東軍の情報員らは、善隣協会スタッフ の身分で、情報活動をはじめた。のち、善隣協会内に、特 務機関も開設された。「衛生・文化事業をやるという煙幕を 張りながら、こっそりスパイ活動をおこない、各旗の王公 を抱きこんだ」のである。(44)徳王は、善隣協会に依頼して、
陳国藩・劉建華らを日本留学に派遣した。彼らは、のち蒙 彊政権の幹部となった。(45)
善隣協会の医療・文化活動によって、当時、「信頼できる 日本人」、「善隣協会は本当に蒙古人のため、蒙古のために 働いてくれる」と、蒙古人の信頼度は不変のものとなって いた。善隣協会の活動は蒙古人への人心収攪に大きな役割 を果たして、 1935年以後の、関東軍「内蒙工作」への道を つけたのである。
2.関東軍内蒙工作の本格化ー中央より分離
関東軍は満州国内の治安の確立につれて、 1935年から西 部内蒙古での地方政権樹立構想を急速に具体化させた。
1935年1月4日、関東軍は大連で会議を開き、「華北分離 工作」と「内蒙工作」について検討した。
この大連会議の「内蒙工作」の内容は、要約すれば、内 蒙にたいする政治工作を強化すること、従来工作対象とし てきた索王にかえて徳王の起用を考慮すること、チャハル 省の宋哲元軍を満小卜1国国境から排除すること、多倫の李守 信軍による察東特別自治区をあくまで確保することなどで あった。(46)
百霊廟会議前、関東軍はシリンゴル盟盟長の索王(索徳 那木拉布坦)を内蒙工作の主要な対象とみなしたが、索王 の不協力の態度によって、蒙政会成立後、大連会議の決定 を踏まえて、同会秘書長として実権を握る徳王に関心をつ よめた。
(38) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く8〉日中戦争 <l〉.J、1964年、みすず書房、 468‑‑‑‑471頁。 (39) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く8〉日中戦争〈1〉』、1964年、みすず書房、 468頁。 (40) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く8〉日中戦争〈l〉!.、1964年、みすず書房、500頁。 (41) 善隣会編『善隣協会史、』 1981年、日本モンゴル協会、「善隣協会の沿革」ii頁。
(42) 善隣会編『善隣協会史』、1981年、日本モンゴル協会、「善隣協会の沿革」 ii頁。
(43) 社団法人日本モンゴル協会『日本とモンゴル』6巻3号所収、 1971年5月号、中嶋万蔵「関東軍蒙古研究員の回想」、 31頁。 (44) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 93頁。
(45) 同上、 93頁。
(46) 陸軍省『昭和10年満受大日記(密) 11冊内其1』所収、国立公文書舘蔵。「昭和10年1月大連会議二於ケル関東軍説明事項」、(江口 圭一 r日中戦争着阿片政策』、1985年、岩波書店、 37 38頁から転引。)
徳王は最初の段階で、関東軍との接触に対して極めて慎 重な態度を取っていた。徳王をはじめ各王公らは歴史的な 関係もあり国民政府の了解の下に、蒙古復興の唯一の方途 である高度自治を求めた。関東軍との接触も、その促進の ため、中央政府に対して、日本の威力を側面的に利用しよ うと考えたものであって、徳王らは、関東軍と接触しなが ら、中国政府から蒙古自治の許可を得ようと考えていたの である。当初は、日本主導による自治を遂げようとする考 えはなかった。自治運動実施中における、関東軍との接触 は中国政府に対する脅かしの手段にすぎなかった。(47)
たとえば、徳王は第二回百霊廟会議後の国民政府内政部 長黄紹宏との会談で、承徳特務機関長松室大佐が蒙古国建 国を煽動した事実を暴露した。また、 1934年夏に陳紹武を 薩山に派遣した際、典安警備軍司令巴特馬拉布坦・興安西 警備軍司令代理烏古廷・興安西警備軍顧問本間誠少佐一行 が西スニト旗訪問した事実をわざと蒋介石に告げ、国民政 府からより多くの経費、武器を引き出そうとした。(48)ま た、巴特馬拉布坦ら来訪の際、烏古廷が「将来、日本軍は 西進するでしょう、あなたの合作と協力を希望していま す。」と言ったことに対して、徳王は「このことは、日本が 誠意を持って我々を援助するのかどうか見極めた上で、改 めて決めたいと思います」 (49)と答え、関東軍側との接触は 慎重な態度を取っていたのである。
1934年の初め、前述の盛島角房は多倫特務機関員中嶋万 蔵とともにシリンゴル盟各旗を歴訪し、西スニト旗で徳王 と会見した。「当時、徳王は、国民政府との関係から日本側 との接触にかなり警戒心をもっていた。彼は、日本に対し て好意こそもっていたが、特別に日本側に対する申出をし なかった。」(50)従来、関東軍は徳王を特別マークしていな かったが、盛島は新京の関東軍参謀部に対して、今後の「蒙 古工作で工作の対象とする人物は、徳王以外には考えられ ない」とその旨を報告した。(51)その後、関東軍は急速に対 徳王工作を展開することとなった。
1934年の後半、満州国と隣接した長城線一帯で抗日武装 勢力の活動が活発するや、土肥原賢二奉天特務機関長はし だ い に 華 北 分 離 工 作 、 内 蒙 工 作 へ の 関 心 を 深 め て い っ
た。(切同年末、土肥原機関長は、徳王を抱きこんで、より いっそう日本に接近させようとして、飛行機で西スニト旗 にやって来て活動した。徳王も丁軍にもてなしたと同時に、
韓鳳林の行方の調査を依頼した。この接触が機縁となって、
徳王はしだいに関東軍との接触を深めていった。(53)
前述したように、 1934年に徳王の西スニト旗に善隣協会 西スニト班が設置され、小学校、診療所を開設したが、大 連会議後、 1935年3月、関東軍は徳王に対する工作を急い だ。関東軍宍浦直徳少佐は西スニト特務機関の開設を命じ られ、西スニト旗へ出かけた。徳王は特務機関に無線機の 設置を許可し、宍浦少佐は善隣協会理事石田三雄の変名で 特務機関長の任務を遂行した。(54)当時、宋哲元軍の将校が 徳王府の榜江に駐屯し、常時徳王府に出入りして徳王を監 視していたので、宍浦少佐は善隣協会を隠れ蓑として非公 式に活動を開始した。これ以後、徳王と関東軍との恒常的
な連絡が可能になった。(55)
1935年3月、田中隆吉中佐は関東軍第二課参謀として赴 任し、かつて1927‑1929年に支那研究員として張家口に駐 在した際、「徳王と相知り、共に語り合った仲」であること
を利用して、徳王を対象とする工作を積極化した。(56)
大連会議の決定に基づいて、 1935年5月28日、関東軍第 二課長石本寅三大佐•田中隆吉中佐参謀は、西スニト旗に 飛来して徳王と会見し、田中中佐は「我が日本はすでに満 朴1人を援助して満)、卜1国を樹立しました。現在さらにあなた 方を援助して蒙古国を樹立するつもりです。今後、日本・
満州国・蒙古は協カ・合作が可能です。」と言い、蒙古国の 樹立を援助する旨を提案した。徳王はその主張に当然非常 な興味をそそられた。(57)
秦・土協定後、関東軍の内蒙工作が急展開することに よって、徳王と関東軍との関係もいっそう親密なものと なった。
1935年1月、チャハル省境から熱河省内に入った宋哲元 軍と関東軍とが衝突し、宋軍を長城線外へ撃退するという 第一次熱西事件がおこった。これは、関東軍の実力による 宋軍排除の第一歩となった。一方、河北省では5月末から 支那駐屯軍が動き、 6月10日の梅津・何応欽協定で国民党
(47) らくだ会編『高原千里』(蒙古回顧録)所収、 1973年、らくだ会本部、中嶋万蔵「蒙彊回顧録」、 55頁。
(48) 札奇斯欽著 r我所知道的徳王和当時的内蒙古 (1)』、1985年、東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所、 90頁。 『内蒙文史資 料』第一輯所収、 1962 年、内蒙古人民出版社、陳紹武「内蒙徳王和蒋介石的関係」、 31~35頁。
(49) 徳王著、森久男訳 『徳王自伝』、 1994年、岩波書店、 95頁。
(50) 社団法人日本モンゴル協会、 r日本とモンゴル』、6巻9号所収、中嶋万蔵「徳王とともに」④、 1971年12月号、 52頁。 (51) 社団法人日本モンゴル協会、 r日本とモンゴル』、6巻9号所収、中嶋万蔵「徳王とともに」④、 1971年12月号、52頁。
(52) 『別冊知性( 5) 秘められた昭和史』所収、 1956年、河出書房、専田盛寿「親日華北樹立の夢崩る一土肥原工作の失敗ー」、 138~139 頁。
(53) 徳王著、森久男訳 『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 71 72頁。
(54) 同上、 98頁。
(55) 社団法人日本モンゴル協会、 『日本とモンゴル』8巻1号所収、中嶋万蔵『徳王とともに』⑫、 1973年1、2月合併号、 51頁。
(56) r別冊知性 (5)秘められた昭和史』所収、 1956年、河出書房、田中隆吉「上海事変はこうして起された」、 184頁。 (57) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 98頁。
勢力を河北省から排除した。この華北分離工作の進行に呼 応して、関東軍は内蒙古工作を推進した。
6月5日、関東軍特務機関員が宋哲元軍に一時監禁され る第二次張北事件、ついで 11日、満州国官吏が熱河省内で 宋軍から射撃される第二次熱西事件が発生すると、関東軍 は宋軍を威圧し、 6月27日、察唸雨省主席代理秦徳純と土 肥原との間で「土肥原・秦徳純協定」(58)が結ばれた。
その中の「日満の対蒙工作を承認し特務機関の活動を援 助し」という条目は関東軍が内蒙工作を推進するうえで有 利に働くこととなった。この協定の実施によって、宋哲元 軍が長城線以北から撤退し、宋軍の撤退地域には停戦区域 に準じて軍隊を入れず、治安維持には中国人・蒙古人の両 隊からなるチャハル省保安隊があたることになり、蒙古人 保安隊長官には卓王(卓特巴札布)が就任した。(59)
協定後、関東軍に対して外長城線以北と満小11国との往来 が自由となり、徳王と対立していた宋哲元の軍隊は、チャ ハル省から平津(北京と天津の略語)へと撤退することと なった。これによって、関東軍は、徳王に彼を支援してい るという一面を見せ、彼を関東軍に接近しやすくしたので ある。徳王府附近に駐屯して徳王の行動を監視していた宋 軍部隊も協定によって撤退したので、西スニト王府に常に 出入して徳王の行動に看視を加えていた宋軍将校の出入も 解消して、徳王の行動は自由となり、関東軍に対して警戒 的であった徳王をさらに関東軍に接近させたることとなっ た。
7月25日、関東軍参謀部「対内蒙施策要領」 (60)が策定さ れたが、それは「軍は対蘇作戦並之が準備の為必要とする 平時諸工作を有利ならしめ、且満州国の国防及統治を安全 容易ならしむる目的を以て、先づ内蒙に於ける親日満区域 の拡大強化を図り、北支工作進展に伴ひ内蒙をして中央よ り自立するに至らしむ。施策の重点は多倫及西蘇尼特方面 に指向す」という方針のもとに、チャハル省では徳王・卓 王・李守信を連携させ、緩遠省では「先づ博作義の態度、
真意を明徴にし、若し彼にして誠意なき於てはこれを打倒 す」というものだった。(61)
また、徳王工作については、「自治政府に対しては徳王を 通じ交渉しつつあるのみなるも 7月上旬飛行機一機を関東 軍の名に於て贈与し西スニトに於ける飛行場及格納庫の建 設に関し同意を得たり、……内蒙古有力者を努めて満州に
招致し日満側の実状に親灸せしめ其信頼心を向上せしめん ことを期す特に徳王に対し適当に機会満小卜1国内に来り関東 軍に敬意を表し軍最高責任者と意志の疎通を図らしめんこ
とを期す」と記している。(62)
このような施策要領を踏まえて、関東軍は、徳王との提 携に積極的に取り組むことになった。
7月8日、関東軍は小野寺信少佐を西スニト旗へ派遣し てスーパー機を徳王専用機として贈呈し、満小11航空会社を 通じて燃料・操縦士・機関士を提供した。(63)徳王への贈機 目的は徳王に吋する援助の姿勢を示すとともに、徳王府の 近くに飛行機格納庫を建てるということであった。同時に 蒙古王公たちに対する徳王の地位を上昇させることも意図
されていた。
一方、徳王は、関東軍の田中隆吉中佐らとの5月28日の 会見後、もう一度蒋介石と何応欽(国民政府軍事委員会北 平分会委員長代理、当時蒙古地方自治指導官を担当してい た)の日本に対する本意を探る必要があると考えるように なった。それで、陳紹武を鷹山に派遣し、日本への対応方 法について蒋介石に尋ね、前述したように、蒋介石から「高 ぶらず、卑屈ならず、様子をみてことを運べ」という指示
をもらった。
徳王は、自ら北平に赴き、何応欽と会見し、日本の西部 蒙古への進出活動について西スニト旗に特務機関、無線機 を設置している状況を訴え、抗日の力量を蓄えるために武 器の交付を要求した。しかし、本当の目的は、日本の進出 に対する蒋介石政府の態度をもう一度確認するということ であった。
何応欽は徳王を苦心慰撫しながら、「中央に軍隊があって も抵抗できないというのに、あなた方蒙古が少しばかりの 軍隊を編成・訓練してもなんの役にも立ちません」と指摘 し、中央から経費の支給をうけて、教育・衛生・実業・交 通等の建設事業にあたるよう説得した。(64)この話しを聞 いて、徳王は、国民党政府は、少なくともこの時点におい ては日本に抵抗する力がなく、抵抗する方針と決意がない と判断した。したがって、徳王は、蒙古の存続のためには、
関東軍の進入に対して、ひたすら中央政府に頼るだけでは 問題解決にはならず、ほかに方法を考え出さなければなら ないと考えるようになった。(65)
この打診によって、徳王は、国民政府の消極的な日本抵
(58) 島田俊彦、稲葉正夫編 r 現代史資料〈 8 〉•日中戦争 <l 〉」、 1964 年、みすず書房、 491 頁。
(59) 秦郁彦著『日中戦争史』、 1972年、河出書房新社、 108 109頁。
(60) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料〈 8 〉•日中戦争<l〉」、1964年、みすず書房、492,..̲500頁。社団法人日本モンゴル協会、『日 本とモンゴル』 6巻9号所収、
(61) 島田俊彦、稲葉正夫編 r現代史資料く8〉・日中戦争く1〉」、 1964年、みすず書房、 492 493頁。 (62) 同上、 497頁。
(63) 満)小l航空史話編纂委員会編『満州航空史話』所収、 1972年、「河井田日誌抄」 226頁。 (64) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、 岩波書店、 99,‑.̲,100頁。
(65) 札奇斯欽著『我所知道的徳王和当時的内蒙古 (1)』、1985年、東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所、 98頁。
抗政策を感じ取り、日本との連絡をさらに大胆におこなっ ていくことにし、関東軍との接近を促進した。
1935年9月18日、関東軍参謀副長板垣征四郎少将・第二 課長河辺虎四郎大佐•田中中佐参謀一行は西ウジュムチン 旗へ飛来して徳王らと会見し、関東軍の協力方針を再度、
正式に伝達した。五月の田中参謀の提案に気をよくした徳 王は「東西蒙古を合併して、蒙古の独立と建国を達成でき るよう希望します」と述べた。板垣少将は、「我が日本は蒙 古の独立と建国を援助したが、東部の盟旗は満小卜1の領土で、
満州は独立国であり、わたしにはこれに答える権限があり ません」と答えた。(66)これ以後、特務機関の活動は頻繁と なり、中嶋万蔵・中沢達喜・金永昌など関東軍の嘱託が蒙 政会に出入りして、徳王に日本との正式な協力を勧め、蒙 政会の関東軍への接近を促した。(67)
3.関東軍と連携を決定
ついに1935年10月に蒙政会第三回委員総会で、蒙政会の
「自救自全」策として、日本と連携することが決議された。
1935年10月21日、蒙政会委員19名が百霊廟に集まり、蒙 政会第三回委員総会が一週間の会期で開催された。この総 会において、雲王(名義上の第一責任者)の名義で「蒙政 会は、中国政府との関係を離脱して、日本に依存し、蒙古 自治を達成する」と決議された。(68)関東軍の徳王工作は奏 効したのある。
この蒙政会の「自救自全」策背景には、蒋介石の黙認が あったと言っても過言ではなかった。
当時、国民党政府蒙蔵委員会委員、蒙古各盟旗連合駐京 弁事処主任呉鶴齢(蒙古人、のち、蒙彊政権政務院長)が 蒋介石の許可をもらって、百霊廟会議に参加したが、蒙政 会第三回委員会総会後、彼は南京に戻ることを決意した。
呉鶴齢が百霊廟から離れる際、蒙政会の雲王は、自分に 代わって百霊廟のことを蒋介石に詳しく報告し、蒋介石の 指示を受けてもらいたいと呉鶴齢に頼み、また、蒋介石に 対する次の三項の伝言を依頼した。第一、蒙古は人口が少 なく、力も弱いが、中央が蒙古の武装を整えて大軍を北方 に派遣すれば、協力して日本に抗戦する。第二、前項の方 法が不可能な場合、西蔵(チベット) •新彊・青海・そのほ かの適当な土地を指定してもらいたい。 蒙古官民は牧畜を 率い大移動を行い、暫くの間、敵を避けることにする。第 三、第二の方法も承認されなければ、仕方なく、蒙古は暫 くの間敵と表面だけの妥協をする。これは地方を保全し、
徐々に回復を図る一つの方法であると強調した。雲王はさ らに呉鶴齢に対して、南京で蒋介石委員長の指示を得たら、
すぐ蒙古に戻って、民族と生死 を と も に す る よ う 委 託 し t.:.',‑0 ., (69)
1935年末、呉鶴齢は蒋介石と会見し、 雲王より托された 各項意見を伝えた。蒋介石は「敵は必ず侵略を拡大するで あろう、蒙古同胞が一時災難に遭うばかりでなく、華北同 胞も同様に難をのがれないと思う。中央は非常に申し訳な いと思っている」と述べた。また「今直ちに蒙古を武装す る こ と は 間 に 合 わ な い 。 集 団 大 移 動 も 自 分 の 土 地 を 人 に やってしまうのと同様である。暫くの間事情に即して自己 に損害の無いよう対処すべきである。どうしてもやむをえ ぬ場合は、それを実行するより外はない。蒙古が国家に忠 実であることを私は知っている」と答えた。蒋介石は蒙政 会の「自救自全」、すなわち、やむをえない場合、日本と協 力することを黙認したのである。呉鶴齢が蒙古に戻ること も許可し、「敵が一日も遅く一歩でも進まぬような方法を考 えて牽制していてくれ」と新任務を与えた。(70)したがっ て、日本敗戦後、国民政府は、徳王をはじめ、戦時中に日 本と協力した蒙古人に対して責任を追及しなかった。
1935年11月12日から23日にかけて、中国国民党第五回全 国代表が開催された。そこでの蒋介石の外交報告は、徳王 が新京を訪問し、関東軍との提携の実現段階に入ることと なる重要な要因となった。
19日、蒋介石は重要な外交報告をおこない、「和平が完全 な絶望に至らぬ前、けっして和平を放棄しない。犠牲が最 後の関頭に至らぬうちは、けっして軽はずみに犠牲を口に しない。」と演説した。(71)蒋介石は中国の戦力はまった<
日本に及ばず、軽はずみに日本と開戦すれば、国家が滅亡 するという認識から、「安内攘外」政策を唱えていた。先に 準備して、のちに抗戦するという蒋介石の抗日戦略に従え ば、中央政府が蒙古に大軍を派遣することは考えられず、
蒙古を保全する方策は考慮されなかった。この声明を聞い たあと、徳王らは国民政府が関東軍の内蒙古における行動 に抵抗することは不可能であり、むしろ関東軍が西部蒙古 地域を占領する前に接触したほうがよいと考え、関東軍と の連携の最重要の時期を迎えることとなった。
11月末、関東軍の招請によって、徳王は、関東軍宍浦西 スニト機関長 ・中嶋万蔵機関員等を伴って、満小卜1国新京に 赴いた。これで関東軍と徳王の提携は実現段階に達した。
まず、関東軍司令官南次郎大将・参謀長西尾中将と会見し
(66) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く12〉日中戦争く4〉』所収、 1964年、みすず書房、「河辺虎四郎少将回想応答録」、 406‑‑‑‑‑‑407頁。 (67) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 105‑‑‑‑‑‑106頁。
(68) 社団法人日本モンゴル協会、『日本とモンゴル』六巻九号所収、中嶋万蔵「徳王とともに」④、 1971年12月号、 56頁。 (69) 社団法人日本モンゴル協会、『日本とモンゴル』第21巻第1号所収、「呉鶴齢回想録」、 1986年8月、 93 94頁。 (70) 前掲「呉鶴齢回想録」、 96頁。
(71) 蒋総統集編輯委員会 r蒋総統集』、第一冊所収、 1960年、蒋介石「対外関係之報告」、 921頁。
︐
たのち、板垣征四郎参謀副長・田中隆吉参謀などと会談し た。徳王は「日本はまず内蒙が独立した局面を生み出すの 援助し、さらに蒙古が建国を実現するのを援助して頂きた い」と希望するとともに、東部内蒙古の現状に不満を表明 した。板垣参謀副長は「よろしい、我々はできるだけあな た方を援助します。まず、 50万円をあなたにあげましょう」
と徳王への援助を約束した。田中隆吉はすぐに「さらに五 千挺銃をあげますので、軍隊の拡充に用いて下さい」と述 べた。(72)「内蒙古へ帰ったら直ぐ自治宣言の準備をされよ。
関東軍はあくまでもあなたがたを援助するであろう」と、
奉天、大連を見学、帰途、徳王は多倫飛行場で多倫特務機 関長浅海喜久雄少佐・察東警備軍顧問下永憲次中佐の出迎 えを受け、李守信と初会見した。関東軍計画の両者合同が 成立した(73) (当時、関東軍の内部には蒙古独立を支持する 一部の軍人がいたが、関東軍参謀部は一貫して蒙古独立に 反対し、西部内蒙古の「中国からの独立」を容認したにす
ぎない)(74)
会談はこれで終わりを告げたが、協定を結ばなかった。
これは蒙古人の初めての外交交渉であったため、その経験 不足から、外交文書の調印は行なわれなかった。蓋溝橋事 変後、関東軍の対蒙古政策が変わって(「蒙古独立」から「民 族協和」へ)、徳王はその時に協定を結ばなかったことを悔 恨した。(75)
4.蒙古軍政府の成立
関東軍は徳王を現地側の最高政治指導者として、軍事力 を握る李守信とチャハル部の有力者卓特巴札布の二人を徳 王に協力させるという形で、察北に「蒙古軍政府」を樹立 する布陣を固めていた。
土・秦協定の保安隊条項の履行を口実として、内蒙工作 を一挙に推進させるため、関東軍は1935年末に「察東事件」
を引き起こし、関東軍の支持を得た徳王は、この察東事件 を通して、チャハル省長城以北の農耕地帯を確保するよう になった。
1935年8月5日、張家口で松井・張允栄協定が調印され、
中国保安隊と蒙古保安隊が共同で察北の治安維持に当たる こととなり、チャハル省保安処長張允栄が漢族居住地区の 治安を担当し、蒙政会チャハル部保安長官卓特巴札布が蒙 古人居住地区の治安を担当した。関東軍は蒙古保安隊を察
(72) 徳王著、森久男訳『徳王自伝』、1994年、岩波書店、 109頁。
北各県に入れるよう要求したが、チャハル省主席代理張自 忠は蒙古人がいない各県内への蒙古保安隊の進駐に反対し た。関東軍は華北分離工作の促進をはかるため、 11月25日 までに一部の兵力を長城線上に集結させるとともに、この 機会を利用して、蒙古保安隊の名目で李守信の察東警備軍
を察北各県に進出させることにした。(76)
関 東 軍 参 謀 部 第 一 課 は 武 居 清 太 郎 大 尉 を 現 地 に 出 張 さ せ、多倫特務機関の補佐官松井大尉は、武居参謀と交えて 作戦会議を開き、察北の宝昌・古源の占領を確認した。 12 月9日、察東警備軍は宝昌を奇襲・無血占領して中国保安 隊を武装解除した。(77)
当時、中国側は関東軍の南下を恐れて華北に自治政権の 樹立に同意、12月11日に翼察政務委員会の人員が発表され、
関東軍の示威は十分にその目標を達成した。察東警備軍の 作戦継続は華北談判を破裂させる危険があり、関東軍司令 部は作戦中止を決定したが、松井大尉は独断で作戦を継続 した。 12日、満航のスーパー機は泊源を爆撃し、察東警備 軍は古源を攻略してのち、作戦行動を中止した。(78)
12月18日、翼察政務委員会が成立した。土肥原少将は土・
秦協定の区分線を張家口以北の長城線上に延長し、察北六 県に蒙古保安隊を入れるよう中国側に要求し、秦徳純の間 で交渉が妥結したため、蒙古保安隊の察北六県への進出を 命令した。 30日、関東軍参謀田中隆吉とチャハル省主席代 理張自忠の間で、察東警備軍の進駐区域とチャハル省との 境界について合意が成立した。(79)12月29日、察東警備軍は 宝昌、泊源から出発し、 31日までに察北六県(宝昌・泊源・
康保•徳化・張北・商都)を占領したので、中国人保安隊 は長城以南へ後退した。
関東軍が半年間の努力を払った結果、その「内蒙工作」
は重大な進展を遂げた。徳王を関東軍との協力に応じさせ たばかりか、李守信との合作も始め、「対蒙施策要綱」で提 出した一応の計画を達成したとともに、察北地方をも自分 のコントロール下に置いた。 ・
翌年の 1月22日、この地域と東部にかけて、チャハル盟 が結成され、蒙古人の保安隊長の卓王(卓特巴札布)が盟 長に就任した
当時、チャハル部の改盟問題は蒙政会とチャハル省及び 緩遠省の間の対立の一つの焦点となっていた。
清朝初期、康煕皇帝は抵抗するチャハル部を平定して王
(73) 春日行雄 r日本とモンゴルの一
00
年』、アジア博物舘・モンゴル舘、 79頁。 (74) 片倉衷 r戦陣随録』、 1972 年、経済往来社、 278~279 頁。(75) 札奇斯欽著『我所知道的徳王和当時的内蒙古 (2)、』 1985年、東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所、 3頁。 (76) 島田俊彦、稲葉正夫編『現代史資料く 8 〉・日中戦争く 1 〉.I、 1964 年、みすず書房、 597~598頁。
(77) 松井忠雄著『内蒙三国志』、原書房、1966年、 80 82頁。 (78) 松井忠雄 r 内蒙三国志』、 82~100頁。
(79) 松井忠雄『内蒙三国志』、 119~126頁。
公の爵位を奪い、部民を八旗に再編して旗長に相当する平 民出身の総管をおいた。チャハル部は王公がいないため、
会盟をおこなわれず、盟を構成しなかった。清朝末期、該 部は漢民族が大量流入し、人口の過半数を占めた。 1928年 9月、国民政府はそれまで特別区が実施されていた熱河・
チャハル・緩遠に省制を施行した際、チャハル部四牧群を 旗に改めるとともに、チャハル部を二つに分割して、チャ ハル左翼八旗はチャハル省に、右翼四旗は緩遠省に帰属さ せた。(80)チャハル右翼四旗は緩遠省の涼城、集寧、陶林、
豊鎮、典和五県と同地域にあり、典型的な「旗県併存」地 域であった。
1934年2月に国民政府が定めた「蒙古地方自治弁法八項 原則」の中で、「チャハル部を盟に改称する」と定めている。
1934年7月と1935年4月、チャハル部左右翼八旗四牧群総 管は二回にわたって会議を開き、部を盟に改める決定を採 択し、蒙政会と蒙蔵委員会の承認を求めたが、以上の特殊 事情があったので、この改盟問題は緩遠、チャハル両省の 反対によって、適切に解決できなかった。 1935年11月中旬、
蒙政会第二次全体大会で1934年2月国民政府が公布した
「蒙古地方自治弁法八項原則」の中で、「チャハル部を盟に 改称する」に基づいて、チャハル部を盟に改め、盟公署を 成立させ、卓特巴礼布を盟長に任命されたが、行政組織と
して成立し得なかった。
李守信の察東警備軍は察北の各県に進駐してから、関東 軍は満州国から20人余の日本顧問を上述の各県に派遣し、
県政権を接収した。ここで、統一的な地方行政機構が成立 し、所属の各旗、県を管轄することとなった。そして、チャ ハル部を盟に改め、盟公署を成立する準備が急いで行われ た。
しかし、チャハル盟が成立すれば、緩遠省管轄下のチャ ハル右翼四旗(緩東五県)の帰属問題が表面化し、緩遠に
も関東軍の影響が及ぶことは必至であった。
関東軍は徳王・李守信・チャハル部保安長官卓特巴礼布 の三者を結合して地方政権を樹立する構想を施行に移し、
チャハル盟の結成と盟公署の成立を急いだ。国民政府は土 肥原・秦徳純協定の締結によって察北の施政権を失った が、チャハル盟公署の成立を座視すれば、緩東地域も手放 す危険性があった。内蒙工作が緩東に及べば、国民政府と の外交関係の緊張を招くため、日本政府・陸軍中央部は関 東軍がチャハル右翼四旗で内蒙工作をおこなうのを禁止 し、同地の工作区分を支那駐屯軍とした。しかし、支那駐 屯軍を「隷下兵団」として見下していた関東軍は、このエ 作区分を無視し、西部内蒙古の「中国からの独立」を目指
した。
(80) 西藤辰雄 『内蒙古察唸爾事情』、満州弘報協会、1937、21 22頁。 (81) r現代史資料 く8〉・日中戦争 <l』〉、540頁。
1936年1月22日、張北でチャハル盟公署成立大会が開催 され、盟長卓特巴札布で、主任顧問は安斎金治であった。
日系顧問、保安隊指導官が実権を掌握した。チャハル盟公 署は蒙政会の名義で成立したが、国民政府の許可を得てな かった。国民政府の管轄下にある緩遠省を守るため、
1
月 25日、ウランチャブ・イクジョウ両盟を管轄区域とする緩 境蒙政会の成立を命令した。チャハル右翼旗は緩遠省の一 部であり、チャハル公署がチャハル部全体に対する行政権 を行使しようとすれば、緩遠省との衝突は必至であった。1936年1月、関東軍参謀部は内蒙古西部の情勢に基づい て、「対蒙(西北)施策要領」を制定した。この「要領」で は、関東軍の勢力を緩遠省及び外蒙古、青海、新彊、チベッ トなどの地域へ拡大しようとした膨大な計画が提出され た。
「軍は帝国陸軍の情勢判断対策に基き対蘇作戦の準備の 為必要とする外蒙古の懐柔及反蘇分離気運の促進を図ると 共に対支工作の進展に資し且満小11国の統治及国防の基礎を 翠固ならしめる目的を以て徳王の独裁する内蒙古軍政府の 実質を強化すると共に其勢力をに拡大し北支工作の進展に 伴ひ内蒙をして中央より分離自立するに至らしむ(中略)
其勢力を緩遠に扶植し次で外蒙古及青海、新弧、西蔵等の 拡大せんこと逐次支那西域地方を期す」(81)
すなわち、今後の内蒙工作の方針として内蒙をして中央 より分離して、緩遠に勢力に扶植し、さらに、外蒙古•新 彊・チッベト等への拡大を期している。該「要領」は蒙古 軍政府を樹立させ、そして、蒙古軍政府の組織仕組み、軍 政府軍隊組織系統、アラシャン及び青海での特務機関の設 立計画を決定した。
一方、徳王は1935年末、満小11国から帰ってくるやいなや、
関東軍の首脳部と結んだ口頭協議に基づいて、統一機構と 蒙古軍の成立、そして編成に手をつけた。彼はまず百霊廟 に行き、蒙政会委員長の雲王と相談した上、西スニト旗で 蒙古軍総司令部を、各盟旗を統一的な指揮機関および関東 軍と の 連 絡 機 関 と し て 設 立 す る こ と を 決 定 し た 。 当時、関東軍の田中隆吉参謀は行政と軍事両方を指揮でき るような蒙古軍政府を創立すべきと提起していたのだが、
双方は蒙古政権に関する名称について統一していなかっ た。
2月10日、蒙古軍総司令部の成立式典が徳王府でおこな われ、卓特巴札布、李守信、関東軍西スニト旗特務機関長 の浅海少佐、多倫特務機関長の田中玖中佐及び関東軍から 派遣された顧問らが式典に出席した。関東軍の西尾参謀長 もお祝いのあいさつをした。その大意は「日本と蒙古は手 を携えて、親密に合作しましょう」というくらいのもので