九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
芥川龍之介「神神の微笑」と大正期の文化意識 : 欧 州大戦以降の〈日本的なもの〉の表象
河田, 和子
九州大学大学院比較社会文化研究院 : 特別研究員
https://doi.org/10.15017/1931477
出版情報:九大日文. 30, pp.34-47, 2017-10-01. Association of Japanese Literature, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
一はじめに
芥川の〈切支丹もの〉の一つである「神神の微笑」
(「
新
小説
」
大一一・一
は、キリスト教に対する日本の精神風土を問題に )
(1)
していることから、日本文化論的な側面から論じられることも
多い。特に「日本人の同化力の強さ」(吉田精一『芥川龍之介』三
省堂、昭一七・一二)に関する芥川の意見が織り込まれている点
や、「いかなる外国の宗教も思想もそこへ移植すればその根が
腐り(略)似而非なるものに変わってしまう日本の精神風土を
指摘」したもの(遠藤周作「「神々の微笑」の意味」、「日本近代文学大系
第三八巻芥川龍之介集月報四」角川書店、昭四五・二
として日本の )
神の「造り変へる力」に注目して論じられてきた。だが、作中
の語り手については解釈も分かれており、小説の最後で語り
(2)
手自身が語る「我我」が、幕末に来航した西洋人か、それとも
近代の日本人を指すのか、その解釈により語り手がオルガンテ 《特集文学テクストの時代性・多様性》
芥川龍之介「
神神の微
笑」
と
大正期の文化意識 ― 欧州 大戦 以降の 〈 日本的 な も の 〉の表 象 ―
河 田 和 子
KAWADAKazuko ィノの物語を語ることの意味も変わってくる。留意したいのは、この語り手が「南蛮船入津の図を描いた、
三世紀以前の古屏風」、即ち一六・一七世紀頃制作された南蛮
屏風を眺めながら、オルガンティノの架空の物語を想像してい
る点である。そもそも江戸幕府のキリスト教弾圧と鎖国政策に
より、「それ以前の半世紀間に作られた多数の南蛮屏風が、幕
末までの二〇〇余年間にすっかり消散」し、「明治の世になっ
て(略)国民が投売りをし出した美術品のうちに、少数の南蛮
屏風が初めて現われた」が、その頃は「何の関心をも懐かず」
評価されることもなかった。岡本良知『南蛮屏風考』(昭森社、
(3)
昭三〇・一二)によれば、「大正の末から昭和の始めにかけて、
日欧交渉史の研究が進歩し、次第に交渉史上の事実が明かにせ
られるに従つて、南蛮屏風に関する興味も増大した」とされる。
そうした点からも、作中の語り手は幕末に来航した西洋人では
なく、大正期の日本人
(知 識 人
)と考えられるのだが、芥川が
こうした同時代の語り手を設定して南蛮寺のオルガンティノの
物語を書き、「造り変へる力」を問題にしたのは何故か。
柄谷行人「日本精神分析」
(『
日 本
精神
分
析』
講
談社
学
術文
庫
、平
一
九・六)では、「神神の微笑」で見ているのは、一六世紀の日本
ではなく「まさに彼の同時代」の大正期で、「日本人が日本あ
るいは日本の文化について熱心に語り始め」、「日本の文化的独
自性を言いはじめた時期」だと述べている。柄谷は、大正期に
そうした議論がなされたのも「日露戦争後」西洋列強下の「軍
事的経済的緊張から解放され、また、自ら列強の中に入ったと
いう誇り」に由来するとしているが、実際に大正期の知識人、
文化人が日本の文化的独自性を言い始めたのは《欧州大戦》期
(=第一次世界大戦、一九一四〈大三〉年七月二八日に勃発し、一九一八〈大
七〉年一一月一一日に終結。ここでは当時の呼称を用いる)である。後
述するように、哲学者の和辻哲郎をはじめ、当時の知識人が外
来のものを同化する日本の文化的特質について論じるようにな
るのもこの時期である。本稿では、「神神の微笑」と欧州大戦
期の日本文化論との関わりを検証したいが、作中の語り手がオ
ルガンティノの物語を夢想していることの意味も合わせて考え
る必要があろう。
「神神の微笑」は、南蛮寺のオルガンティノの物語とその物
語を南蛮屏風から空想している語り手の話(=小説の最後の付記)
で構成され、二重構造の小説になっている。南蛮寺のオルガン
ティノの物語自体、語り手=大正期の知識人の認識、文化意識
を反映した形で語られていると考えられるのだが、オルガンテ
ィノの物語を想像するにあたり、どのようなキリシタン資料を
参照していたのかということも踏まえておきたい。本稿では、
芥川が参照したキリシタン資料も視野に入れ、欧州大戦期に書
かれた日本文化論との関わりについて検証することで、オルガ
ンティノの物語が南蛮屏風を見ている語り手=大正期の知識人
の視点から語られていることの意味について考察する。
二南蛮寺とオルガンティノの造型 「神神の微笑」の最後で、語り手は「アビトの裾を引いた、
鼻の高い紅毛人」が「一双の屏風へ帰つて行つた」と述べてお
り、オルガンティノの物語自体「南蛮船入津の図」の古屏風、
即ち〈南蛮屏風〉から語り手が空想したものである。ただし、
一六・一七世紀に制作された南蛮屏風に南蛮寺や宣教師達の姿
が描かれていても、類型的なその絵柄から人物の特定をするの
は難しく、史実上の人物たるオルガンティノを描いたとされる
ものがあるわけではない。寧ろ語り手の関心が南蛮寺のオルガ
ンティノにあったから、屏風に描かれた南蛮寺と宣教師にその
姿を重ね、架空の物語を想像したと考えられる。
「神神の微笑」以外にも、南蛮寺が登場する芥川作品は「煙
草と悪魔」
(「
新 思
潮」
大 五
・一
一
、
原題
「 煙
草」
)や「悪魔」
(「
青 年 文
壇」大七・六)
、「
る し へ る
」(
「 雄
弁」
大 七
・
一一
)、
「 お し の
」(
「 中 央
公論」大一二・四)がある。「悪魔」には「古写本の伝説」として
南蛮寺門前に現れた悪魔を捕らえた「伴天連うるがん」の話が
書かれているが、同じ人物名であるにもかかわらず、「神神の
微笑」では、前作とは別人の様なウルガンことオルガンティノ
の宣教師としての煩悶が描かれている。
そこでまず考えたいのは、芥川はどのようなキリシタン資料
からこの物語の着想を得たのかについてである。芥川は、大
(4)
正三年一〇月九日付斉藤阿具(一高時代の歴史教師)宛書翰にお
いて「日本西教史内政外教衝突史山口公教会史其他吉利支丹夜
話南蛮寺興
廃 記以下
の 随筆以外に
天 主教渡
来 の事を記
せるも
の」について教示を願う旨を記している。書翰に列挙された資
料のうちオルガンティノに関する記述があるものは、ジアン・
クラセ/太政官飜譯係訳述『日本西教史』上・下巻(明一一・六
~明一三・一二、原著一六八九年
と渡辺修二郎『内政外教衝突史』 )
(5)
(民友社、明二九・八)、『南蛮寺興廃記』(編著者、成立年月未詳)で
ある。ただし、『日本西教史』では「オルガンタン」、『内政外
教衝突史』や『南蛮寺興廃記』では「ウルガン・バテレン」「ウ
ルカン」
(「
ウル
ガン
」)
と表記されている。「神神の微笑」に出て
くる「南蛮寺のウルガン伴天連」の呼称は後の二著に見られる
が、それよりも新村出の「京都南蛮寺興廃考」
( 「史
林
」大
七・
七
、
『南蛮広記』岩波書店、大一四・九収録)に「オルガンチーノ」と
(6)
表記されているのに近似している。そのことからも、キリシ
(7)
タン資料や南蛮文化について研究していた新村の著作を参照し
た可能性が高い。
新村の「京都南蛮寺興廃考」は、京都南蛮寺建立の経緯やそ
の興廃の歴史について『南蛮寺興廃記』や『日本西教史』、そ
の他のキリシタン資料を参照しながら考察したものである。同
論文によれば、「南蛮寺」の呼称は「一般に吉利支丹寺院の意
味でも用ゐられてをるが、主として信長の保護によつて建立さ
れ秀吉の禁教の結果破壊された京都の吉利支丹大寺院の特称」
で、信者らは宣教師の定めた洋名の寺号を用いたが、一般世間
には伝わらず、教会堂を日本の寺と同様に見立てていた。その
京都南蛮寺の興廃の歴史を整理すると以下のようになる。師父
ルイス・フロイスが信長の保護を受けて建立した寺が戦乱によ
り廃頽したため、「オルガンチーノ・ニエッキ(OrgantinoGnecchi) が元亀二年に当る一五七一年に初入洛して先住のルイス・フロ
イスを輔けて布教に努め」、「旧き建物に代るべき新寺の建立に
尽瘁し、遂に一五七六年八月十五日、即ち天正四年七月十一日
を 以
て落
成 奉 献 の 式
を挙
げ る に 至
つた
」。
「 天 正
五年
に 於 て オ ル
ガンチーノの教下にある南蛮寺全盛の模様はクラッセの『日本
西教史』等にも見える如くで」、「爾来信長の保護の下にあつた
京畿地方の基督教は、その最盛期」にあったが、「天正一〇年
六月の本能寺事変の際には、京都の南蛮寺は幸に余災を受けず
に済んだが、安土の修行所は寺院と共に全滅し、彼所の生徒ど
もは高槻、京都、引きつゞいては大阪に移された」。秀吉の時
代に「基督教の反映も一時大阪に移つた」が、天正一五年六月
に秀吉は「「禁教令」を発して宣教師の日本退去を命じ」、「天
正一六年(一五八八年)の初頃に京都南蛮寺は破壊された」
(「
京
都南蛮寺興廃考」)。
こうした南蛮寺の歴史的経緯は『南蛮寺興廃記』や『日本西
教史』等にも断片的に記されているが、「神神の微笑」では南
蛮寺のオルガンティノが見た幻覚について語られるだけで、信
長や秀吉との関係など政治的、歴史的背景は省かれている。そ
れは南蛮屏風から想起された架空の物語として設定されている
からだが、わずかに史実的事柄を踏まえて書かれていると思わ
れる箇所が「君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金
泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めてゐる」というくだ
りである。その海辺の光景は南蛮屏風の「南蛮船入津の図」に
由来するものだが、『南蛮寺興廃記』の次の記述に依拠したも
のと考えられる。
山門奏状の趣、信長へ命ぜらる。信長不快なりと雖も、勅
令に准ひ、永祿寺を改めて南蛮寺と号す。(略)又ウルカン
一人にては、弘法力に叶ふべからず。本国より数人召呼ぶ
べしと命ぜらる。ウルカン悦んで本国へ申し送る。(略)斯
く て ウ ル カンが本国
よ り渡 来する
者
、浮羅天破天
連、
フラテンバテレン
計理故離イルマン、彌理居洲イルマンといふ。(略)是等が ヘリコルヤリヰス
乗る所の南蛮船、若州小濱に著船す。信長兼て、再度南蛮
人渡来の時、龍造寺が思慮計り難く、ウルカンに命じて小
濱へ入津せしむるなるべし。南人共、若州海津へ至り、船
を湖上に浮めて、大津に至り、京都南蛮寺に入りて、ウル
カンに謁し、信長へ注進す(傍線は引用者、以下同様)。
(8)
引用箇所では、南蛮寺の由来とともに信長の命によりウルガン
(=オルガンティノ)が本国から仲間の宣教師らを呼びよせ、小
濱に彼等を乗せた南蛮船が入津した経緯が書かれている。この
『南蛮寺興廃記』は一八世紀中葉、江戸中期ごろ成立したと推
定される排耶書(キリシタン宗門の排撃を意図した著述)であり、「江
戸時代のみならず明治に至るまで排耶論の一根拠をなした」「実
録的排耶御用小説の代表的なもの」とされる(海老沢有道訳『南
蛮寺興廃記・邪教大意・妙貞問答・破提宇子』平凡社、昭三九・三「解説」)。
年代や史実の誤謬、作為された所も多く実録風の小説と言える
ものだが、布教のため渡来したウルガンの記述から始まり、織 田信長の庇護による南蛮寺造立、豊臣秀吉による伴天連追放と
南蛮寺破却、寛永一五年(一六三八)年の島原落城までが記さ
れている。前の引用のようにオルガンティノが仲間の宣教師を
呼び寄せたのは、南蛮寺建立後の天正四年から五年にかけて、
南蛮寺が最盛期にあった時期である。したがって、「神神の微
笑」でも、南蛮寺全盛の頃のオルガンティノを想定していると
考えられる。
「南蛮寺のウルガン伴天連」の物語を創作するにあたり、芥
川が『南蛮寺興廃記』から着想を得た所は少なくない
。『
南
(9)
蛮寺興廃記』冒頭では、ウルガンの乗った南蛮船が長崎の港に
入港した際の様子と彼の風貌が記されており、「長崎の津に、
南蛮船一艘著岸せり。此船に異相の者一人入り来る。其人長九
尺余、胴より頭小く、面赤く眼丸く目鼻高く、(略)其年齢五十
計に見えたり。名はウルカン破天連といふ。」とある。「神神の
微笑」では、「悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人」
と書かれているだけだが、オルガンティノが仲間の宣教師と南
蛮船の入港を眺めている姿自体、『南蛮寺興廃記』に記された
ウルガン渡来時の南蛮船入港のイメージとも重なり、作中に「ウ
ルガン伴天連」(破天連)の呼称も出てくることから、同書の記
述に基づいて書かれていると考えられる。
史実上の人物たるイタリア人宣教師オルガンティノは、キリ
スト教迫害期も日本に留まり、他の宣教師のように国外追放や
殉教者になることはなかったが、布教の頓挫とともに南蛮寺
(10)
の破壊と宣教師や信者らの悲劇的末路を見ることになった。い
わば前近代の日本でキリスト教伝道の盛衰と南蛮寺の興廃を目
の当たりした宣教師がオルガンティノだったのだが、「神神の
微笑」に登場するオルガンティノは、南蛮寺の全盛期にあって
「懐郷の悲しみ」と「何の理由もない憂鬱の底」に沈み、「こ
の国の霊」の「不思議な力」との戦いに不安を感じている。こ
うしたオルガンティノの人物像は語り手の想像により作りださ
れたもので、史実上のオルガンティノとは性格を異にしている。
一五 七 七
(天 正五
)年一
〇 月 一五 日 付 の 京 都 か ら 発 信 さ れ た
オルガンティノのイエズス会総長宛書翰には「私たちが大勢の
宣教師をもつならば、十年以内に日本人は
(挙 げ て
)キリスト
教徒となるであろう」、「当地では、憂鬱な構想や、架空の執着
や、予言や奇跡に耽る僭越な精神は、ことに不要」だと書いて
おり、「全世界で、これほど天賦の才能をもつ国民はいない」
と日本人に好意的態度を示していた
(「
西 洋 人 の 見 た 日 本 と 日 本 人
―
ガブラルとオルガンティーノの書翰より」、松田毅一編『探訪大航海時代の日本3キリシタンの悲劇』小学館、昭五三・一〇)。寧ろ「日本人
の長所をあまりにも強調し評価して楽観的でありすぎた」(松田
前出)所もあるのだが、「神神の微笑」のオルガンティノが「こ
の国から、一日も早く逃れたい気が」して「憂鬱の底」に沈む
のとは対照的で、芥川の造型したオルガンティノは余りにも感
傷的、神経質になっている。
作中では日本の霊
(「
古 い 神
」)
の「造り変へる力」、外来のも
のを日本化する同化力に焦点が当てられており、神々に象徴さ
れる日本の精神風土とキリスト教との戦いがオルガンティノの 幻覚を通して語られている。史実の上ではオルガンティノの布
教は頓挫するものの、作中の語り手は「泥烏須が勝つか、大日
靈貴が勝つか
―
それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない」というように、その勝敗が保留にされているこ
とは注意したい。初出稿では、キリスト教の敗北を暗示するか
のように、オルガンティノの見た幻覚として、「耶蘇」の顔が
「美しい女」=「大日靈貴」に変わる所も描かれていた。その
場面は『春服』(春陽堂、大一二・五)に収録する際削除され、作
中の語り手自身「作り変へる力」を肯定したのか、否定したの
かが曖昧になっているのだが、着目したいのは、その「作り変
へる力」の一例として漢字の訓読化の問題が語られており、そ
こに和辻哲郎の日本文化論の感化も見られることである。
三和辻哲郎の日本文化論とラフカディオ・ハーンの神道観
「神神の微笑」では、オルガンティノの見た幻覚に「この国
の霊の一人」と称する老人が現れ、次のように語る所がある。
文字は我我を征服する代りに、我我の為に征服されました。
(略)人麻呂はあの歌を記す為に、支那の文字を使ひまし
た。が、それは意味の為より、発音の為の文字だつたので
す。舟と云ふ文字がはひつた後も、「ふね」は常に「ふね」
だつたのです。さもなければ我我の言葉は、支那語になつ
てゐたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂
の心を守つてゐた、我我この国の神の力です。(略)しかし
我我が勝つたのは、文字ばかりではありません。我我の息
吹は潮風のやうに、老儒の道さへも和げました。
老人が「泥烏須のやうにこの国に来ても、勝つものはな」く、
「天主教はいくら弘まつても、必勝つとは云はれ」ぬ理由とし
て、日本の古い神々の「造り変へる力」について述べている所
だが、「支那」から入った文字、漢字を訓読し日本化したのも
「この国の神の力」だとしている。この箇所は漢字の日本化、
訓読の問題と絡めて日本の文化的特質を論じた和辻哲郎の言説
に感化を受けて書かれたものと見られる。
和辻は漢字の日本化について「日本文化に就て
(「
偶 像 禮 讃
」
序論)」(「思潮」大六・五)や「古代日本人の混血状態」
(「
思 潮
」 大
六・六)等で言及しており、特に「古代日本人の混血状態」で
は、具体的な漢字を示して次のように述べていた。
古事記を見ると、この書の製作の遅れたのも無理はないと
思ふ。この書には既に漢字と日本語との調和が実現されて
ゐるのである。その最も著しい証拠としては、漢字の訓読
を挙げることが出来る。我々の祖先は、全然音を写すため
に漢字を用ふるか、或は漢文を原形のまゝに用ゐるか、と
いふ二つの道の間から、漢字を日本語で読み、漢文を日本
風に反つて読む、といふ新らしい方法を見出した。山をヤ
マと読み、川をカワと読むのは、我々にとつては何でもな くなつてゐるが、最初は象形文字の日本化として、かなり
の努力を要したに相違ない。(略)日本字日本文が出来たと
殆ど同様である。
―
この同化は永い間に知識階級全体の意識が徐々に築き上げたものであらう
(「
思潮
」前
出
)。
挙げている漢字は異なるものの、和辻は、象形文字の漢字を訓
読する形で消化し、「日本化」する所に日本文化の独自性が見
られることを指摘していた。芥川は、大正六年五月創刊の「思
潮」を読んでおり、次号に掲載されたこの文化論も目を通し
(11)
ていたに違いない。和辻は「日本文化に就て」でも、「我々の
祖先は仏教の刺激によつて」文字を受容し「自国の文章を造り
出し得」たとして、次のように論じていた。
まことに我々の祖先の霊肉合致の生活は、抵抗しがたい誘
惑である。(略)祖先崇拝、血統の重視、生殖の尊重、現世
的な生の歓び、自然的な人間性質の強調、
―
一言に云へば自然兒の生活、
―
それはまた古代日本人にも著しい。(略)しかるに仏教の文化は古代日本を全然自分の内に抱
き入れてしまつた。(略)そこで在来の肉の勝つた生活は、
霊肉合致の方へ引き寄せられて、新らしい衣の内に再び活
発に栄えることが出来た。それは確かに、未だ分裂を経験
しない統一である。(略)しかしその代り原始的な力強さに
於ては実に目覚しいものがある。そうしてそこに(私の考
では)著しく日本的なものがひそんでゐるのである。(略)
我々の祖先は、先ず、生の歓びに傾いた自己特質を強める
所の特殊の部分にのみ共鳴を感じた。さうしてそれをその
生活の内に力強く生かせた。(略)この特徴はこの後の諸種
の文化に、形を変へ程度を異にして必ず現はれてゐる。こ
ゝに欧州文化とは様式を異にした一つの開展の仕方が認め
られる様に思ふ。(「思潮」前出)
和辻は、「印度支那文化の所産」として渡来した仏教が、祖先
の「自然兒の生活」、「霊肉合致の生活」と結びついた点に着目
し、そこに欧州文化と様式を異にし、印度や支那、欧州とも異
なる「日本的なもの」=日本の文化的特質が潜在しているとす
る。この論文では、仏教文化が古代日本を自分の内に抱き入れ
たとするが、それは祖先の「生の歓びに傾いた自己特質を強め
る所の特殊の部分にのみ共鳴を感じ」て統一されたもので、逆
に言えば、仏教が祖先の生活に「力強く生か」されるよう「形
を変へ」たということでもある。これらの日本文化論が発表さ
れたのは芥川と和辻の親交が深かった時期で、和辻の言説に
(12)
影響を受けて芥川は「支那の文字」も日本化する神々の「造り
変へる力」を問題にしたのだと考える。
ただし、注意したいのは、和辻の日本文化論では仏教受容の
影響を重視して漢字の日本化の問題を論じている点である。和
辻も「仏教渡来前の神々」
(「
思潮
」 大 六
・ 八
)や「仏教渡来前の
わが国民道徳」
(「
思 潮
」
大六
・ 九
)など、記紀に見られる神々の
物語、伝承を取り上げ、仏教渡来前の日本の古い神について言 及しているが、漢字の受容に関して、「文字を使はうとする欲
求」は「我々の祖先」において論語や千字文が渡来した時も強
く起こらず、「仏教の刺激」により「文字なき国民が文字を有
する至」った(「日本の文化に就て」)と解している。仏教の影響
に力点を置く和辻の文化論に対し、「神神の微笑」では、文字
の日本化も柿本「人麻呂の心を守つてゐた」「この国の神の力」
の作用によるものとし、神々の「造り変へる力」に焦点を当て
た点で和辻の文化論とも相違している。
そもそも、芥川の関心は小説の題材として西洋の神と日本の
神の相克を描くことにあり、大正六年五月七日松岡譲宛書翰で
も「
僕 は 三 部
作を
計 画 中 だ
始は奈良朝中途は戦国時代の末、
おしまひは維新前後だ中心は外国の神と日本の神との克服し
あひにある」と書いていた。そのモチーフが「神神の微笑」に
繋がるのだが、日本の神を問題にしたのは、芥川自身ラフカデ
ィオ・ハーンの日本観に影響を受けていたことが関係する。
すでに指摘されているように「神神の微笑」には『知られぬ
日本の面影』(以下『日本の面影』と略記、原著はGlimpsesofUnfamiliar
Japan,1894)の影響が見られ、特に終りの二章「日本人の微笑」
と「さようなら」を念頭において書いている(井上洋子「「神神の
微笑」の主題と方法
―
ハーン、フローベール作品とのかかわりから」、「語文研究」平六・一二)。芥川が「外国の神と日本の神との克服しあ
ひ」を小説のモチーフとして考えたのも、『日本の面影』「第八
章杵築
―
日本最古の社殿」で、日本人の信仰、神道について次のように述べていたことが関係していよう。
神道は西洋の科学に対して歓迎の手を拡げるが、西洋の宗
教に対しては不可抗の敵となつてゐる。で、これと戦はん
と欲する外国の熱狂者輩は、恰も磁力の如く説明し難く、
空気の如くに損傷されざる一種の力が、彼等の必死の努力
をも打ち負かすのを見て驚いてゐる。(略)神道は或る人々
に取つては単に祖先崇拝のやうに見え、他の人々には自然
崇拝が加つたものと見え、また他の人々には全然宗教とは
見えないし、宣教師の中の無智頑迷の輩には、極めて劣等
なる異教の形式と映ずるのである。(略)国民のあらゆる動
機、能力、直観を含める全部の魂、即ち偉大なる霊力が潜
在して慄へてゐるのである
( 『 小
泉八
雲全
集
』第
三
巻、
第一
書
房、
大一五・八)。(13)
自然崇拝や祖先崇拝といった日本人の信仰感情、即ち神道は、
西洋の宗教、キリスト教にとって「不可抗の敵」で、ハーンは
「これと戦はんと欲する外国の熱狂者輩」=宣教師らの必死の
努力も打ち負かす「一種の力」=「霊力」が潜在していると見
ていた。「神神の微笑」では、オルガンティノが「この国の山
川に潜んでゐる力」=「人間に見えない霊」と戦おうとして煩
悶しているが、こうした設定自体ハーンの神道観に由来する。
ハーンは「日本の知的土壌」として「神道は、この人種の精
神同様折衷的で」「あらゆる種類の外国思想を我が物にして同
化した」
(『
日 本
の面
影
』「
第
一七
章
家の内の宮」)と認識していた。 けれども、神道とキリスト教はあくまで敵対関係にありキリス
ト教は同化しない宗教と考えていたし、古代ギリシャに対する
憧憬を近代以前の日本に投影していたハーンは、「日本の国体
や美風を破壊すると云ふ」考えから「キリスト教を憎んだ」(田
部隆次『小泉八雲』北星堂書店、昭二五・六)。それに対し「神神の微
笑」では、オルガンティノの幻覚に現れる老人によってキリス
ト教の日本化がほのめかされており、この小説は、旧日本にこ
だわりキリスト教の受容に否定的だったハーンの見方を相対化
する視点に立って書かれている。芥川は「松江印象記」
(「
松 陽
新報
」大
四・
八
)でも、千鳥城の「天
主閣」について「天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入
された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同
化力は、殆何人もこれに対してエキゾテイツクな興味を感じ得
ない迄に、其屋根と壁とを悉日本化し去つた」というように、
キリ スト教
文 化を 作 り 変 え る日本の同化力
に ついて
記 して い
た。「天守閣」が「天主」教に由来する説は、バジル・ホール・
チェンバレン『日本事物誌』(原著ThingsJapanese,1890)に書かれて
おり、同書の記述に基づいている。ハーンの友人でもあるチ
(14)
ェンバレンは、同書で「『見知らぬ日本の面影』は日本を讃美
した」が、「昔の日本、ヨーロッパの汚れを知らぬ純粋の日本」
は「彼の空想の中以外には存在するはずもな」く、「彼の一生
は夢の連続で、それが悪夢に終った」
(「
ラ フ カ デ ィ オ
・ハ
ー ン
」)
と批判的に述べていた。
(15)
こうしたチェンバレンのハーン評も念頭にあって、芥川はハ
ーンの影響を受けつつもその日本観を相対化する視点を持って
いたと考えられるが、日本の知識人の間でもキリスト教の同化
の問題は議論として出てきていたことに留意したい。筧克彦は
『続古神道大義皇国之根柢萬邦之精華上卷』(清水書院、大四・
四)で、古神道は「西洋の文明を遺憾なく包容し、キリスト教
が入つて来れば之を同化して使用する」と述べていたし、
「 万
(16)
朝報
」 の記
者で評論家の茅原華山は「新日本主義の勃興(世界
の大破壊)」
(「
中 央 公 論
」
大正
新 気 運 号
大四・七)で、「日本人は基
督教を西洋の形式に以てしては決して取らない、(略)融けた基
督教を取る、融かして取つて固めて取らない、故に基督教も日
本人にあつては御膳の上の一皿である」という見解を示してい
た。和辻の日本文化論は、こうした論調、伝統主義的な文化論
に対する形で書かれているのだが(それについては後述する)
、「
神
神の微笑」は同時代の日本文化論を意識しながら、ハーンの古
い日本観も相対化する形で書かれている。
そこで問題になるのは、小説末尾に語り手が登場し、西洋の
神と日本の神の相克も「我我の事業」の問題として語られてい
ることの意味である。最後にこうした語り手を登場させたのは
何故か。この語り手や「我我」に、大正期の知識人の文化意識
が反映されていると考えられるのだが、欧州大戦を契機に自国
の文化的特殊性に対する自覚が高まったことが背景にある。
四語り手の問題と大正期の文化意識 「神神の微笑」の語り手は、南蛮屏風に描かれた宣教師をオ
ルガンティノに見立てた形で架空の物語を想像しており、小説
末尾には次のような付言が記されている。
悠悠とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏の光
の漂つた、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰つ
て行つた。南蛮船入津の図を描いた、三世紀以前の古屏風
へ。/さやうなら。パアドレ・オルガンテイノ!君は今
君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙
げた、大きい南蛮船を眺めてゐる。泥烏須が勝つか、大日
靈貴が勝つか
―
それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我我の事業が、断定を与
ふべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我我
を見てゐ給へ。たとひ君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹
や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んで
ゐても、新たに水平へ現れた、我我の黒船の石火矢の音は、
必古めかしい君等の夢を破る時があるに違ひない。それま
では、
―
さやうなら。パアドレ・オルガンテイノ!さやうなら!南蛮寺のウルガン伴天連!
語り手は「南蛮船入津の図」の「三世紀以前の古屏風」を見な
がら、オルガンティノの架空の物語を語っている。前述したよ
うに、南蛮屏風に対する関心が増大したのも大正期で、欧州大
戦以降日本文化の特殊性に着目した文化論が書かれるようにな
ったことと連動している。南蛮文化や南蛮屏風に関心を持っていた木下杢太郎が「現代の趣味に対する批評」は「個人の生活
様式」とともに「国民的文化の自覚に対する批評になる」
(「
新
東洋趣味」、「中央公論」大五・七)と述べたのも、「此度の世界的戦
争がいろいろな意味で邦人に国民的意識を覚醒せしめ」、「日本
を世界に於ける日
本とい
ふ よう に考へる
観 念 が強 くなつ
た
」
(「
国民
的文
化
の自
覚と
は何
ぞ
や」 、
「新
日本
」
大五
・六
、 『
木下
杢太
郎全
集
』
第九巻、岩波書店、昭五六・一一)ことが背景にある。「神神の微笑」
の語り手もこうした同時代の知識人の文化意識を反映した形で
設定されているのだが、「我我の事業」とは何を意味するのか。
想起したいのは、「思潮」を主宰した阿部次郎が最終号(大八・
一)の「告別」で、「狭隘なる国粋主義と浮薄なる外国模倣と
の両者に対抗して、新しき文化を根柢から建設せむとする事業
に貢献すること
―
これが我らの願望」だったとして、次のように述べていたことである。
世界はこの大戦の終結から始まつて、精神的に云へば世界
史的多事の時代に入らむとしつゝある。さうして日本は、
日本の特殊なる地位によつて、日本に特殊なる多くの問題
を持つてゐる。我らは世界的改造の事業に参加するために
(略)戦はなければならぬ特に多くの戦を持つてゐる。(略)
愛国を装ふ危険思想を徹底的に撃破しなければ、日本はい
つまでも文化の大道を堂々として闊歩することが出来ない
であらう。(「思潮」前出) 「神神の微笑」で「泥烏須」=西洋の神が勝つか、「大日靈貴」
=日本の古き神が勝つか、「やがては我我の事業が、断定を与
ふべき問題」だとする「我我の事業」は、「我ら」の「世界的
改造の事業」という言い方と似通っている。阿部のいう「世界
的改造の事業」とは、欧州大戦期に台頭してきた国粋主義的な
文化論に対する形で日本の文化的特殊性を自覚し、外国模倣に
終わらぬ新しい日本文化の建設を考えることを意味していた。
「思潮」創刊の趣旨もその点にあっただけに、同じような志向
から和辻の日本文化論も書かれていたし、「思潮」第六号(大六・
一〇)掲載の西田幾多郎の「日本的といふことに就いて」も、「我
々は益特有の文化を発展し、益々日本的となると共に、此文化
をして世界文化の一要素として欠くべからざるものとしたい。」
と説いていた。「我ら」の「事業」という言い方自体、外来の
ものを同化する日本の文化的特質によって世界的視野から新し
い文化建設を考えることを意味している。
こうした議論は「思潮」同人に限らず、西洋文明の影響を受
けてきた知識人に見られ、英文学者の野上豊一郎は「伝統主義
を排す」(「新潮」大六・一一)で次のように述べていた。
我々は昔から外国の文化の影響の下に在りながら、常にそ
れを我々のものとしてよく生かして来たのである。(略)私
は伝統主義の必要を否定すると同時に、我々は今少し世界
的でなければならぬ。(略)我々は常に日本人であることを
意識しながらも、此の大きな広い同化的な心で西洋の文化
に接して行くことが出来るのは、或る意味に於て最も日本
的なことであると云ひ得る。何となれば、我々の祖先が支
那、朝鮮、印度の文化を吸収したのも此の態度に依つたも
のと認められるから。
(「
新 潮
」前
出)
野上が排する「伝統主義」とは、岩野泡鳴や三井甲之の「日
(17)
本主義」、および筧克彦の説く「古神道的精神」を指している。
阿部や和辻ら「思潮」同人が「国粋主義」、「伝統主義」と難じ
ていたのも同じもので(名前は挙げられていないが、茅原もその一人
に含まれよう)、和辻の日本文化論も筧克彦の古神道論を難ずる
立場から書かれていた。つまり、欧州大戦を契機として、日
(18)
本文化の特質に対する自覚が高まる中、伝統主義的な議論と折
衷主義的な日本文化論が対峙していた状況があったのだが、両
者の相違は、日本文化の特性を国粋的伝統から考えるか、外来
文化の同化において考えるか、その方向性の相違によるもので、
外国模倣ではない日本文化の新しい展開=〈文化建設〉を目指
していた点では同じ問題意識を持っていた。
「神神の微笑」において作中の語り手が、日本の古い神が勝
つかキリスト教の神が勝つか、「現在でも、容易に断定は出来
ない」問題として保留にしているのは、伝統主義と折衷主義的
な文化論の対立も意識してのことだろう。語り手自身、自らの
立場は示さず、「やがては我我の事業が、断定を与ふべき問
(19)
題」としたのは、安易な断定を避ける為だろうが、芥川自身、 西洋に対する憧憬(南蛮趣味)を抱きつつも、日本の伝統的なも
の(古典)にも関心があったからと思われる。それゆえ、語り
手に大正期の知識人の文化意識を反映させ、「我我の事業」と
して、キリスト教に象徴される〈西洋〉と対峙しながら(即ち
西洋模倣に留まらぬ形で)、いかに新しい日本文化の創造を考えて
いくかという問題を提示するに留めたのだと考える。
つまり、大正期、日本文化の特殊性に対する自覚が強まった
知識人の文化意識を反映する形で「神神の微笑」は書かれてい
るのだが、作中の語り手はオルガンティノの物語を夢想しなが
ら、そのオルガンティノに対し「必古めかしい君等の夢を破る
時があるに違ひない」と述べ「さやうなら」を告げている。南
蛮屏風から夢想したオルガンティノの物語を語り手自ら相対化
しているのだが、同じ時期に発表された「江南游記」
(「
大 阪 毎
日新聞」大一一・一・一~二・一三、『支那游記』収録)に「ロマンテイ
シズムよ、さようならである」というくだりがあり、それと似
た表現になっている点も注意すべきだろう。芥川は、大正一〇
年三月下旬から同年七月下旬まで大阪毎日新聞社の特派員とし
て中国を視察旅行し、帰国後に「神神の微笑」を書いた。その
旅で中国の現実、実情を目の当たりにし、中国に抱いていた憧
憬、夢が打ち砕かれた体験もしている
。 「 神 神 の 微
笑 」
で
、 「 懐
(20)
郷の悲しみ」を抱き憂鬱の底に沈むオルガンティノを造型した
のも、その体験が投影されていると考えられる。
作中の語り手は、南蛮屏風から喚起された異国憧憬の夢=オ
ルガンティノの夢想の物語を相対化する形で「我我の黒船の石
火矢の音」、即ち西洋文化を同化して作った「我我の黒船」=
近代化した日本によって「古めかしい君等の夢」即ち西洋人の
視線、オリエンタリズムを打ち砕く時もあるにちがいないと語
る。そこに異国憧憬の夢が打ち砕かれた芥川の心情も投影され
ているのだが、当時の知識人の文化意識を語り手に反映させる
ことで、キリスト教の西洋的な原理とは異なる日本の文化的特
質=「作り変へる力」をどう考えるのか、欧州大戦以降の知識
人の文化的問題として問うていたのである。
このように、「神神の微笑」を欧州大戦期の日本文化論との
関わりから考察してきたが、日本の文化的特質の議論が再び高
まるのが昭和一〇年代であり、それは芥川が意識していた問題
と接続している。特に横光利一の『旅愁』(昭一二・四~昭二一・
四)は〈日本的なもの〉の議論が高まる中で書かれており、日
本の知識人の思考的対立として日本派と西洋派の議論やキリス
ト教も包容する古神道の問題が思索されていた
。「
神 神 の 微
(21)
笑」で認識されていた「やがては我我の事業が、断定を与ふべ
き問題」に挑んだのが『旅愁』と見ることも出来るのだが、そ
うした点から見るなら「神神の微笑」は、一〇数年後に再燃す
る〈
日 本 的 な
もの
〉の
問
題も
見 据 え て
いた
も の と 言
える
だ ろ う
。
【注記】
初出稿では「神々の微笑」だが、『春服』(春陽堂、大一二・五)収録
の際「神神の微笑」と表記される。本稿では『春服』所収のものを底本 1
とした『芥川龍之介全集』第八巻(岩波書店、平八・六)を参照、芥川 の他の著作も同全集全二四巻(平七・一一~平一〇・三)から引用した。
三好行雄が「小説の最終の段落は、日本へ同化したオルガンテイノへ
の西洋からの呼びかけ」であり「〈我々の事業〉はすなわち西洋の事業」 2
(『芥川龍之介論』筑摩書房、昭五一・九)と解して以来、それを踏襲す
る形で幕末に現れた西洋人と見なす論も多いが、『芥川全集』第八巻(前
出)の注解(神田由美子)では「我々の黒船」は「近代日本の軍艦を指 (ママ)
すか」とされており、「我我」を近代の日本人と解している。さらに「大
正期の日本人」と解したものに田口麻奈「芥川龍之介『神神の微笑』と
日本文化論
―
戦後作家による再評価を起点として」(「東京大学国文学論集」平二三・三)がある。
岡本良知・高見沢忠雄『南蛮屏風』解説巻(鹿島研究所出版会、昭四
五・一二)参照。 3
安藤公美「「神神の微笑」
―
< 我我
> の聴く
不協和音」(宮坂覚編『芥
川龍之介と切支丹物
―
多声・交差・越境』翰林書房、平二六・四収録) 4は、「神神の微笑」の「プレテクスト」として木下杢太郎の戯曲「南蛮寺
門前」(「スバル」明四二・二)との関連を指摘する。南蛮寺物として芥
川が触発を受けた所もあろうが、同戯曲にオルガンティノは登場せず作
品の趣向も異なる。南蛮寺のオルガンティノの物語を書くにあたりその
着想を得たのは、オルガンティノに直接言及したキリシタン資料であろう。
『日本西教史』上・下巻(洛陽堂、大二・一二、大三・五)参照。
『新村出全集』第六巻(筑摩書房、昭四八・一)参照。 5
同論文に「オルガンチーノは同記(引用者注、『南蛮寺興廃記』のこと) 6
等に所謂ウルガンに当る」と記されている。なお芥川の「るしへる」(前 7
出)にも、新村の著作に直接言及した箇所がある。