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トルコ語における態の選択

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(1)

トルコ語における態の選択

著者 川口 裕司

雑誌名 人文論集

巻 45

号 2

ページ A117‑A144

発行年 1995‑01‑31

出版者 静岡大学人文学部

URL http://doi.org/10.14945/00008911

(2)

トル コ語 にお ける態の選択

!。

いまなぜ「態」なのか

?

ある言語研究者が何 らかの理論的枠組 みの中で、ある特定言語の基本的な統 辞構造 を明 らかにし、 そ こにあ らわれ る単位の機能 を考察 しようとす る とき、

程度の差 こそあれ、一般 に、二 つの全 く相反す る方向づ けが研究者の間に観察 され る。た とえば基本的な統辞構造 と思われ る「主辞」「述辞」「 目的辞」 を考 えてみれ ばよい。ある分析者 に とって これ らは自明の統辞単位である。彼 はこ の三つの単位 により基本的な統辞構造が構築 され ることをもちろん認 める。 し か し彼 は自分の文法知識 ない しは直観 に照 らして これ らを理解 し、それ以上 そ れ らの単位 の間の統辞関係 を分析の対象 としない。そして別の もっ と複雑な統 辞機能 とは何 なのかを問 う。 ところが別の分析者 に とっては、 これ ら二つの統 辞単位 の機能 をまず もって明 らかにしない ことには、いかなる統辞構造 も分析 す ることはで きない相談なのである。

とはいえ現状では、基本的な統辞構造 についてす ら研究者の間に見解の一致 が見 られるわけではない。 それゆえ上記の相反する方向づけは、いわば統辞論 者が言語研究 に取 りかか るときの姿勢の違 いにす ぎない。 しか しそうは言 うも のの、統辞論者がいったん「態」 を分析 しようと思 ったが最後、 もはやそうし た姿勢の違いを等閑に付すわけにはいかな くなる。基本的な統辞構造 とそこに 現れ る統辞単位の機能、「態」はまさにこれ らを考 える上で格好の材料 を提供 し て くれ る。だか らこそ「態」 を分析す ることで、おのず と統辞論者 は次の こと に気づかされ る筈である。それはみずか らが依 つて立つ ところの理論的背景が 基本的統辞構造 とその統辞関係 について何 を教 え、何 を考 えさせて くれ るのか

とい うことだ。

本論文では トル コ共和国で話 され、そ して書かれている トル コ語 を例 に とり、

(3)

「主辞」「述辞」「 目的辞」からなる基本的な統辞構造 とその二つの単位の統辞 的機能を「態」 との関係において考えることにする(1)。

「態」の研究は トルコ語学の中の他のテーマにくらべ先行研究に恵まれてい る。本論文でも必要に応 じて出典 を明 らかにしながら先達の例文を引用するこ とにした。 また独自の資料体 として以下の作品に現れる文や発話を分析 した。

資料体 ([ ]内 は本文中での省略形)

ALTAN,cetin(1981)Al i,te istanbulの

以下の随筆 Surlar boyunca, Yenikapl'rlln Pazar gezmesi, Merkez Efendi, ZeyTek, Bir taverna, Sonunda biz bitecttz [Istanbul]

FAIK,Sait(1981)Buth Eserleri l,Semaver/Sarrucの 以下の随筆 Meser̲

ret Oteli,Bir kёメh dёrt hikayesi,Babamm ikinci e宙 ,ipekli mendili,

Klskancllk,BOhca,,ehri tmutan adam,09範 Кu mevki,Louvre'dan

cald増l heykel,Robenson,Bir vapur[Faik]

KEMAL,Yasar(1983)ince Memed 

Ⅱ の

pp.50‑117[Memed]

OFLAZOGLU,A.Turan(1982)Kosem Sultanの

1幕

1場

か ら第

7場

,

pp.13‑95[Kё

sem]

SEMIH Mttmet(1982)Tttk Mizah Hikayeleri Antoloiisiの

以 下 の小話

Imrenilecek bir  ёlunl,Gё bek,Slrca Kёsk,Hava dollnusu,Abbas yolcu, Kavga,insanlar uyanlyor,imza elcisi,Acllk psik01oiisi,iyi bir klsmet icin,Mirasin hakklm vereceksin,Uzmanlar[Mizah]

.行

為項分析

「態」が言語的選択要素であることは川口(1993b,31‑34)で すでに触れたの で同じことをここで繰 り返すつもりはないが、 トルコ語の具体的な分析を始め る前に、若干の言語事実 とその解釈を確認 しておきたい。

まず、「態を選択する」 というからには、「態を選択 しない」発話がある筈で あり、これを能動態

(=態

ゼロ

)と

呼ぶ。「態アリ」と「態ゼロ」の関係はこう して欠如的対立(opposition privative)で あると考えられる。この解釈が意味す るところは、一つの発話の中に受動態 と能動態が共起することは決 してないと いうことである。ところが多 くの言語理論は、西欧伝統文法の影響であろうか?、

‑118‑

(4)

「態 (voix,di江睦se)」 の名の もとに様々な現象 をひ とまとめにして しまって いる。

た とえば、Lucien Tesnttreは Eにments de syntaxe structurale(1976)の 中で6つの「態」について触れ、能動態(di配腱se act市e)、 受動態(do passive)、

再帰態 (d. f16chie)、 相

E態

 (d. ciprOque)、 使役態 (do causative)、 行為項 消去態(d.r6cessive)の解説 を行 なった。こうした分類 は、彼が主張す る ところ

の「行為項(actants)」 の観点か ら発話 を眺める場合 にのみ納得で きる。 ここで 問題 になる「行為項」とは、基本的統辞構造 に現れ る二 つの要素、俗 にい う「主 語」 と「 目的語」(使役態の場合、 さらに第二の「行為項」 も関係 しうる

)が

述 部 とどの ような論理的関係 を持 っているのか を示すための用語であ り、 そ うし た基本的な行為項 の組 み替 えとい う視点か ら出発 して彼が六つの態 を認定 した ことは評価 され るべ きであろう。 しか し発話の論理的関係 を分析 しているにす ぎない行為項分析が、すなわち統辞関係の分析 に等 しいわ けではない。

言語現実 を観察する限 りにおいて、筆者 にはTesniё

reが

認定 した六つの「態」

がそれぞれ同 じ言語学的地位 をもつ ようには思 えない。 もしも仮 に同等の言語 単位であるとすれば、特定の意味 ない しは文脈 の制約がな く、他の条件が全て 同 じであれ ば、その六つの「態」 はそれぞれ同等の両立可能性 あるいは結合可 能性 をもっていておか し くはない。 しかるに現実 は全 くそのようにはなってい ない。能動態かつ使役態、能動態かつ再帰態、受動態かつ使役態、受動態かつ 再帰態、な どが後述 す るように若干の制約 はあるものの現 に存在 しているのに、

能動態かつ受動態の発話 はあ り得 ないのである(2)。 すなわち能動態 と受動態 は 両立不可能であ り、両者が同一の述辞 の中に同時 にあ らわれ ることはない。

能動態 と受動態 は欠如的対立 をな し、他の態 との関係 とは異なっている。川 口(1993b,31‑33)でも触れたが能動態 と受動態では発話の論理的関係が組み替 えられない。 これに対 して能動態 と再帰態、能動態 と使役態、等では論理的関 係 その ものが組 み替 えられている。 この ことをまず トル コ語の簡単な例 を用い て説明 しよう。

今、「

Aと

い う人物が

Bと

い う人物 を見た」 とい う経験があった としよう(3)。

この経験の中には二つの行為項が現れている。能動的な

Aと

受動的な

Bで

ある。

い くつかの言語理論 は「態ゼロ」の発話か ら「態ア リ」の発話が生み出される と解釈す るが、 この考 えは大いに批判 を受 ける必要がある。「態ゼロ」の発話が ア・ プ リオ リに存在す る根拠 は何 なのか?このような前提 に対 して後で反論 を 述べたい と思 う。受動態が能動態か ら生成 され るとい う見解で は、言語現象 に

(5)

おける量的価値 (発話 にお ける能動態の頻度 と形態の単純性

)が

質的価値 (統 辞構造の派生関係 における基本性

)に

転化 されて しまっている。 この種 の誤解 は言語研究 において しばしば見 られ る。た とえば形態論 における基本形の認定 作業 を思い出 してみるとよい。形態的に頻度が高 く単純であるか らとい う理 由 で、それが派生関係 における基本形 になるとは限 らない。

先 にも述べたように「態ゼロ」 と「態ア リ」 は欠如的対立 をなしている。そ もそ もどち らが派生関係 において基本的なのか という疑間は、「統辞構造の派生 関係 における基本性」 とい う意味 をまず もって定義するべ きだったのだ。た と えば音韻論 における子音pと

bは

欠如的対立 をな していると言われる。声の有 無 によ り両者 は区別 され るか らである。 この「声」 をその対立の「標識」 と考 えるなら、

pが

「無標」で

bは

「有標」の項である。 しか しだか らと言 って、

pの

ほうがbよ りも音韻構造の派生関係 においてより基本的であると言 えるの だろうか

?(4)

話 を元 に戻すが、「

Aと

い う人物が

Bと

い う人物 を見た」という経験 を、能動 の行為者

Aの

視点 に立 って言語的現実 として切 り取 る、 これにより「見た」 と い う述部(gёr山

)が

選択 され、 この述部 を中心 にして発話 AB'yi gёr山 。「

A

Bを

見た」(―yiは限定 の直接 目的)が生 み出され る。

Bの

項 は「見た」とい う 行為 を受容す る行為項、受動項である。いまこの受動項

Bの

視点 に立 ち、経験

を言語的現実 に切 り取 る、換言すれば「態 を選択する」 と、 こん どは「見 られ た」 とい う述部 (gёrtildti)が選択 され発話 B gё■ldu,「

Bは

見 られた」(発 話内の 一ul― が受身 を表す)が生み出され る。この とき

Bは

台ヒ動態の ときと同 じ

ように発話の論理的関係 としては受動の行為項である。すなわち態が選択 され て も発話の論理的関係 はなにも変わっていない。

つぎに「

Aと

い う人物がBと いう人物の体 を洗 った」 という経験 を想定 しよ う。態 を選択 しない場合、AB'yi ylkadl。 とい う発話が生 まれ る。今、

A=B

の関係 を仮定すると、「

Aは

自分の体 を洗 った」 ことにな りA ylkandl。 (―n―

が再帰 を表す

)と

なる。 この発話では

Aは

能動的行為項であると同時 に受動的 行為項で もある (Gencan 1979,338)。 つ まり再帰が起 きているわけだ。この再 帰の発話 においては、態ゼロの行為項 の論理的関係

(Aは

能動、

Bは

受動

)が

組 み替 え られて しまい、

Aは

能動かつ受動の行為項 になっている。ただ し トル コ語では再帰 をもっとはっきりと表現するために再帰代名詞 を使 った態ゼロの 発話 を用いることもある。A kendi kendini ylkadl。 「

Aは

自分 自身の体 を洗 っ た」(発話中の kendi kendiniが再帰代名詞、一

niは

限定の直接 目的辞 を表す)

―‑120‑―

(6)

(Lewis 1983,150)。

最後 に「

Aと

い う人物がその仕事 をした」 という経験 を想定 しよう。態ゼロ は A su isi yaptl。 となる、 これを使役の発話「

Aと

い う人物が

Bと

い う人物 にその仕事 をさせた」 は、A su isi B'ye yaptlrdl。 (発話内の一tlr― が使役 を表 す

)と

なる。態ゼロでは「(その仕事 を

)し

た」のは

Aで

あ り、

Aが

能動的行為 項 であったが、使役の発話では「(その仕事 を

)し

た」のは

Bで

あって

Aで

はな い。 また して も発話内の論理的関係が組み替 えられてしまった。

発話 に現れ る要素の論理的関係が能動態 と受動態の発話 において組 み替 えら れていない ということは、同一の経験 を異なる視点か ら言語的現実 として切 り 取 ったがためであろう。 ここでは経験の中に現れる行為項 と述辞 の間の関係が 発話の論理的関係 を決めると考 えているわ けだが、 これを組 み替 えることによ り再帰 と使役の発話が生 まれているとい うことを忘れてはな らない。能動態 と 受動態の間では発話の論理的関係が組 み替わっていない とい う点が再帰 と使役

とは全 く異なっているのである。 したがって、発話の論理的関係 をいち ど組み 替 えた後で も態 を選択す る可能性 はまだ残 されている。上記の再帰 と使役の発 話 を受動態 にす るとそれぞれ、A ylkamldl.(―n―が再帰で‑11‑が受身),uio B'

ye yaptirlldl。(―tir―が使役で‑11‑が受身)となる。しか しなが らこれ らの発話 には い くらか制約があるようである。再帰受身の発話 は一般 に人称が三人称単数に 限 られ 01ken 1981 a,76)、

90%以

上が母音で終 る語幹 をもつ動詞だけに見 ら れ る(Lees 1973,508)。 使役受身の発話 は意味が能動態の ときと変わ らない こ

とがあるため、稀 にしか現れない とい う(Lees 1973,508)。

Ⅲ 。主辞・ 目的辞

0述

ところで「態」 を選択 して も発話の論理的関係 は「態ゼロ」の ときと変わる ことがないが、当然の ことなが ら統辞関係 には組み替 えが起 きる。 この組み替 えを関係文法 (Relational Grammar)に な らって、能動態の目的辞が主辞 に昇格 し (2 to l Advancernent)、

 

讐読初 の主爾物ゞchOrrlellr lこなる (the initial l to become a l―

chOmeur)(Korだ

ilt 1991,88)と 説明 したのでは、何 のために「態 ゼロ」 と「態ア リ」の欠如的対立の意義 を上で長々 と説明 したのか分か らな く なる。能動態の一部 とそれに対応す る受動態だけを解釈で きれば事足れ りとす るのであれば、 このような説明で も納得で きようが、言語事実 を注意深 く観察 してみれば、す ぐに問題 はそんなに単純ではない ことが分かる。

(7)

この関係文法の解釈 に対 して、す ぐに指摘で きる疑間は、能動態ではなぜ主 辞 と目的辞がなければな らないのか、である。上 の説明にはその前提 として、

能動態の述辞 は主辞 と目的辞 を とる動詞であるとい う暗黙の了解がある。その ような動詞 は一般 に他動詞 と呼ばれている。 トル コ語では自動詞の語幹 に使役 の接辞が付加 され ると自動詞 は他動詞化 され る。 この ことは多 くの文法書が指 摘す るとお りである。

Sebuktekin(1971,82)は

この使役の接辞 を「他動化辞 (transitivizers)」と呼んでいる。た とえば自動詞の語幹 bat―「沈む」、dur―「止 まる」、kork―「怖が る」に使役の接辞 (―tlr―,一dur―,一t―

)が

つ くとそれぞれ 他動詞 batlr―「沈める」、durdur― 「止 める」、korkut― 「怖が らせ る」となる。

使役の接辞 により他動詞化 され るとき、語幹が変化 し、 これによって他動詞が 自動詞か ら独立 した一 つの記号素 になることもある。た とえば ge卜「来 る」、

r―「見 る」、kalk― 「起 きる」に対応す る他動詞が getir―gёster一kaldlr―

になるといった具合である(Gencan 1979,334)。

議論 を簡単 にす るため、 しば らくは他動詞 と他動詞化 された自動詞 に話 を限 定 しよう。これ らの述辞 は一般 に、二つの参加項(participants)(5)を ともなって 現れ る。一つは主辞 であ り、 もう一つは限定 の直接 目的辞である。

まずは使役の接辞がついていない単純 な他動詞、た とえば

acmak「

開ける

(―

makは

不定形の接辞)」 とい う述辞 を例 にとって説明 しよう。

Beni iceriye almamak icin neden bu kadar direndiniz P Nihayet ben kaplyl αθ力珍,sizler de yere yuvarlandinlz,demis.[Istanbul,34](主 辞 は ben、 限定 の直接 目的辞 は kaplyl)

「「 こん な に まで して どうして私 を中 に入 れた くないのですか?と う と う私 は ドア を開 けた、 あなた方 も床 に ころんだのですね」 と (彼は)

言ったそうだ」。(6)

Koca Osman Onardl首

l eski kaplyl da gOttirdu a91lan yere taktl, kilitledi c吻 ,kilitledi ασ力

,tamamdl.[Memed,60]「 (Memedは

)

Osman伯

父が修理 した古い ドアも持ってきて、開いた場所にそれをはめ、

鍵をかけては開け、かけては開けし、完了した。」

1)の

文で は他動詞

acmakは

限定の直接 目的辞 を ともなっている。 ところが

2)の

文で、他動詞 kilitlemek「 鍵 をかける」と

acmak「

開ける」はいずれ も限定の直接 目的辞 なしで使用 されている。 さらに観察 を進めると以下の例文

(8)

もみつか る。

Ben isteksiz kendisine yerィ カ物.0,matttur Otllrdu.[Faik,66]

「私はしぶしぶ彼自身に席を開けた。彼は威張って座った。」

Karlsmaィ

.[Mizah,92](― aは

方向をあらわす接尾辞)

「(彼は

)妻

に打ち明けた。」

3)では述辞が非限定の目的辞 と凝結 (figement)(Martinet 1985,39)を 起 こし、

yer acmak「

席 をゆず る」という単一の複合動詞 を形成 していることがわかる

(7)。 最後 に

4)で

は、同 じ述辞が方向をあ らわす目的辞 karlslna「自分の妻 に」

のみをともない、 もはや他動詞であることをやめているかのようである。使役 語尾 によって他動詞化 された述辞 で も同 じことが言 える。

COk力 ο ″

Z″

"り

attlamadl.[Faik,42]

「 わ た した ち は(小僧 の コ ソ泥 を)ひ ど く脅 した が 、 彼 は泣 か な か った 。」

〈〈Ben eski bir avclylln Bey.C)atl nerё deyse bulur,bir iki gtin icinde vururumo Ya da sana yakalar̀″ ″″ππ.〉

〈〈Bana getirlne vtlr.〉 〉dedi Bey.[Merned.53]

「「旦那、わしゃ老練の猟師じゃ。どこにいたってその馬を見つけて、

一日かそこらで

(そ

いつを )仕 留めまさ。それか捕まえてお前んとこ に持ってきてやろ。」「俺には持ってこないで殺せ。」と

(Ali Safa)氏

は言った。 」

5)と 6)の

いずれの例で も他動詞

korkutmak「

脅す」、

getirmek「

持 って くる」は限定の直接 目的辞 をともなっていない (他に も vllrlnak「 仕留める」

yakalamak「

捕 まえる」を指摘す ることがで きよう)。 このように トル コ語 では他動詞 と自動詞 を分 け隔てている垣根が きわめて低 い ことがわか る。

L.Tesniё

reは

二つの価(valellrs)を もつ述辞がその一方の価 を不間に付 して 使用 され る、た とえば一般 に主辞 と目的辞 を ともな うとされ る他動詞があたか も自動詞の ように目的辞 な しに用い られ る現象 をやは り「態」の現象 と考 え、

「行為項消去態(diathёse rёcessive)」 と命名 した(Tesniёre 1976,277)。 第 Ⅱ 節で述べた ように、Tesniё

reは

行為項 の組 み替 えの観点か ら「態」を分析する。

そのためこのような「行為項消去」 をも「態」 として認定するわけである。 こ 3)

(9)

の言語現象 を「態」として認定することに筆者 は異論 を唱 えるが、「行為項消去」

とい う現象その ものを統辞論 において捉 えようとした功績 は十分 に評価 され る べ きである。 トル コ語 はまさしく「行為項消去的」(rёcessive)な 言語であると 言 えよう。

もし以上の ことが理解 され るとすれば、「態ゼロ」か ら「態ア リ」が派生 され ることを理論の前提 にはで きない ことがわか る。 トル コ語の場合 には、他動詞 が常 に主辞 と目的辞 をともなっているとは限 らないか らである。 目的辞 は「行 為項消去」 されているか もしれない。

この「行為項消去」の現象が、 さらに重要な言語事実 を明 らかにして くれ る ことを指摘 し忘れてはなるまい。その ことを説明するには上の例文 において目 的辞ではな く、主辞が どうい う現れ方をしているのかを観察す る必要がある。

1)と 3)の

例文で―人称単数の主辞

benが

現れ るのに対 し、

2)と 4)で

は人称代名詞 はな く、述辞の活用語尾 によって二人称単数の主辞が明示 され る。

トル コ語では文脈の力 により主辞が何であるのか明 らかな とき、人称代名詞 は 用い られない

(5)と 6)の

例 を参照)。 これ も多 くの文法家たちが指摘すると ころだ (8)。上でみた ように目的辞 は容易 に消去 され うるのに、主辞 はなぜ この ように抵抗 を示すのか。理 由は明 らかである。比喩 を用いて説明することはあ まり好 ましくないか もしれないが、この場合 にはあえて比喩 を用いたい と思 う。

主辞 と目的辞 は独 自の軌道 を持 ちなが ら惑星の周囲を回つている衛星の よう な ものである。 この とき惑星 とはもちろん述辞の ことである。主辞 と目的辞 は 常 に述辞 か らの強い引力の影響下 にあ り、両者の統辞的ふるまいは述辞 により 制御 され ることになるが、述辞か ら受 ける引力 は明 らかに主辞 のほうが 目的辞

よりも大 きい。述辞 と主辞 の間、あるいは述辞 と目的辞 の間の統辞関係 とはこ うした力関係 に例 えることがで きる。主辞 と目的辞が うまくそれぞれの統辞機 能 を発揮で きているのは、述辞か らの引力が働 いているおかげである。 したが って、述辞 を統辞的結合の「核」 を構成する単位 と考 えることはまった く正当 なことである (渡瀬 1992,13‑14)。

主辞 は述辞 の「第一参加項」、 目的辞 は「第二参加項」である。上でふれた「行 為項消去」の現象 はこの言語事実 を見事 に説明 して くれ る。他動詞 において「行 為項消去」が起 きるとき、 まず最初 に消 えるのは目的辞 であつて主辞ではない。

‑124‑

(10)

Ⅳ 。主辞機能

主辞 は述辞 の「第一参加項」である。 これは述辞 と主辞 の統辞関係 を示 した にす ぎない。 それゆえ主辞 は述辞 により第一 に引 き出され る参加項 となるが、

主辞 その ものの働 き、すなわち「主辞機能」 とはいったい何なのだろうか (9)。

他動詞の発話で「態」 を選択す ると主辞 にたつのは能動態の ときの目的辞 で ある。では能動態の ときの主辞 はどうなるのか。 トル コ語の受動態 を扱 った論 文では

tarafmdan+行

為項 によって受動態 における本当の行為項が明示 される と述べているものが多い。 しか し実際の発話 を分析 してみると、 こうした例 は 稀 であることがわか る。資料体 の中では五例 しかみつか らない。少 し長い引用

になるが、議論 に関係す ることなので全ての例 をあげることにする。

V ytizyllda Teodos II'nin klz karde,i  ″ψ %∂物% Bizans'daki ilk hlristiyan topluluttunun dOmasinl satthyan Aziz Andrё 'nin anlsl icin yψ 多′%多 ,ル.

[Istanbul,35](語幹yap― に受身 ‑11‑;行為項klz kardesi taraflndan)

「(聖アンデレ教会 は)五世紀 にテオ ドシウスニ世の姉妹 によって、 ビザ ンチウムでの最初 のキ リス ト教徒の共同体作 りに尽力 したアジズ・ ア ンデンを記念 して作 られた という。」

Kilise 2.Beyazlt zamanlnda padisahin emriyle Sadrazam KoM.Pasa

″ηO%滋π camie rιυ″滋.[Istanbul,35](語 cevr― に受 身 ―il― ;

行為項

K.M.Pa,a tarafmdan)

「教会 はバヤジッ トニ世の時代 に、同王の命令 によ り宰相

KoM.パ

シャ によってモスクに変 えられた。」

Fatih Canlii vaktiyle Saints― Aportres Kilisesinin kahntllarl iisttine Fatih ttπん

%滋

%sorlradan Musithnan Olan Kristodulo■l adlndaki bir Rllm rniinara夕2クカπ″み%多s力, 1942'den 1970'e kadar surmustu yapllnl.

[Istanbul,43](語幹 yap― に二 重使 役 ―tlrt― と受 身

‑11‑;行

為 項

Fatih tarafindan)

「 ファーティフ・ モスクはその音 に聖使徒教会の遺構 の上 に征服王 によ って(建築 されたが)、 のちにイスラム教徒のク リス トドゥロム とい う 名のギ リシャ人建築家 に (再び

)建

てか えさせた とい う、その工事 は 8)

(11)

1942年か ら 1970年までかかった とい う。」

7)‑9)に

は共通性がある。いずれ も歴史的事実 を報告 している。歴史的事 実「

Aは Bを

〜 した」 とい う文脈で、受動項

Bの

視点か らこの事実 を伝 えてい る。taraflndanの現れ るこうした文体的条件 については 枷

kenが

既 に述べて いる。彼女 によれば、「科学論文や印刷物 ない し放送 による報道以外の 日常会話 ではtarafindanや

ceの

語尾を用いることはない」(01ken 1981b,58)と いう。

ceに

よる行為者表現 は資料体 の中に一つ も現れなかった。

トル コ人の文法学者が指摘するように受動態の場合、行為項 は問題 にな らず、

表現 されるのは稀である

(Atabay他 1983,85;Gencan 1979,337)。

その稀 な 二つの例 をあげよう。

10)Lokanta sahibi lttradl首l Zararln kimin ttψ%滋 ttπtt 

θ ″′ ′ ι θ ′

gttπ

anlamak tela,lnda 91rplnarak,ё yle diyordu:[Mizah, 17]

(語幹 tazmin ed― に受 身 ―i卜

;行

為項 kimin taraindan)

「レス トラン経営者は自分にふ りかかった損害を誰に賠償 してもらえば よいものか、不安にな り顔 をひきつらせなが らこう言っていた:」

11)Sldlk,maksadlFlln ёtekiler″%"π 滋′πα%滋,多′″勿saπtt pek istemiyordu:

[Mizah,130](語

anlas― に受身 ‑11‑;行為項ёtekiler tarafmdan)

「Sldlkは 自分の意図を他人によって知られてしまうことをあまり望んで いなかった。」

Mizahの

資料には明らかに受動態をあらわすと思われる例が全部で

48例

あらわ れるが、そのうち

46例

は tarafindanを ともなわない。このtaraflndan十 行為 項についてはさらに後述する。行為者は tarafindan以 外の表現により表される こともある。dolaylslylaや etkisiyleを使って行為項を表す とする文法書 もあ るが(Gencan 1979,337)、 資料体 にその例 はない。

以上述べたことから、受動文のほとんどが行為項の表現をともなわないこと は明 らかである。他動詞の受身では態ゼロの ときの目的辞 (受動項

)が

主辞 と なり、態ゼロのときの主辞 はすでにふれたTesniё

reの

表現を借 りるならば「行 為項消去」される。 これを図式化 しよう。態ゼロと態アリの関係を見てみよう。

‑126‑

(12)

行為項消去 (態ゼロの主辞)

(A tarafmdan)

したがって、態ア リの主辞 は自動詞の構文で主辞が受動項 をなしている構文 に きわめて近 い論理構造 をもつ ことがわか る。例 を示 そう。

12)O paraslzll曽

aめ

απttИ物。「彼 は貧乏に耐 えていた」

13)Bu olay Hasan'1像

滋 。「 この事件 はハサ ンを悲 しませた」

14)Hasan bu olaya滋

滋物。「ハサ ンはこの事件 に悲 しんだ」

01ken 1981b,65)(語

uz― に受身 ―ul―)

12)の

動詞

dayarlmak「

耐 える・ よ りかか る」 はdayarrlak「支 える」の語daya― に後 に述べる再帰の接辞 ―n― がっいて自動詞化 した と形態的には解 釈で きるが、論理的には「貧乏が彼 を責 め、彼 はこれ に耐 えていた」 と解釈で きるであろう。 したがって主辞

0「

彼」は少な くとも事態 に働 きか けを行 な う 行為項で はな く、事態 を受 け止 める立場 にある受動的な参加項 である。一方, 他動詞の文

13)を

苦 しみを受 けるハサ ンの視点 にたち受動態で表現 した

14)の

論理的関係 は

12)と

同 じであると言わねばならない。すなわち

0と Hasanは

述辞 に対 して受動項 を形成 し、方向 をあ らわす接 尾辞 ―

(y)aの

つ いてい る paraslzl通

aと

bu 01aya COは共 に事態が実現す る場面 を示 している と言 えよ

う。 これ も図式化 してお こう。

<<他

動詞の態ゼロ

>>

行為項

 

 

受動項

 

 

事態 (主辞

)  (目

的辞

) (述

)

A         B'yi      gёrdu

<<他

動 詞 の態 ア リ

>>

受 動項

 + 

場 面項

 + 

事 態 (主辞

)  (場

面辞

) (述

)

Hasan    bu olaya   izuldii

<<他

動 詞 の態 ア リ

>>

受動項

 

 

事 態 (主辞

)  (述

)

B    gё

l■ldti

<<自

動詞 の態ゼロ

>>

受動項

場面項

 

 

事態 (主辞

)  (場

面辞

)  (述

)

O     paraslzhtta dayanlyOrdu

(13)

すでに述べたように主辞 を述辞 との関係 によって定義す るな らば、述辞 の「第 一参加項」 となるが、主辞 自体 の もつ機能 は二つの相反す る機能か ら成 り立 っ ている。一つは述辞があ らわす事態 に論理的に「働 きかけを行 なう参加項」 を 提示する、すなわち行為項 を提示す る機能であ り、 もう一つは事態 を「受 け止

める受動的な参加項」 を提示す る機能である。

V.受

動態 と再 帰

:相

反 す る二 つの主辞機能 の相克

上 にあげた14)Hasan bu olaya uzuldu.が 「態」の表現なのか と疑われ る 方 もお られ ようが、そ こでは意味内容 による態の定義 は問題 にな らない。態ゼ ロ文 との対立 によって この発話が受動態だ と認定 したのである。次の例 も同様 に考 えられ る。

15)Ayse,Hasan'1磁

ηο筵 「アイシェはハサ ンを苦 しめる」

16)Hasan,Ayse'ye動

物の0筵 「ハサ ンはアイシェにうんざ りす る」

01ken ibid.,65)(語 幹 slk― に受身 ‑11‑)

「態ア リ」の

16)は

「態ゼロ」の15)に対立す る。 ところが次の例 はどうだろ う。

17)Oradan bir kaplan hlzlyle denize α力t&.[Faik, 32]

(その猫 は

)そ

こか ら トラのように速 く海 に飛び込んだ」

atmak「

投 げる」は受身の接辞 ‑1卜 をとりなが ら、実際 に「投 げられ る」の は「その猫 自身」である。つ まり主辞

=目

的辞の関係が成 り立ち、再帰が起 き ている。筆者 は中世 フランス語 において再帰表現 (se十述辞

)が

受動態の意味 になるのは、「事態に積極的に参加す ること」をあらわす主辞機能が弱 まったた めであると述べた (川口 1994,70‑77)。 ここでは逆の ことが言 えよう。

形態 は受身であ りなが ら意味的に再帰 になるのは、「事態 に働 きか けること」

をあらわす主辞機能が強 まり、その結果 として「事態 を受 け止めること」 をあ らわす主辞機能のほうが弱 まったためである。

14)と 16)に

おいて主辞 のハサ ンは、「悲 しませ る」と「苦 しめる」とい う事態に積極的に関与 して、 自分 自身 を悲 しませ、 また苦 しめる対象 にして しまった。 こうして意味的に再帰が生 じ

‑128‑

(14)

た と思われる。また付 けカロえてお くと、「態ゼロ」の文

13)と 15)の

主辞 Bu 01ay

Ayseは

、受動文

14)と 16)の

中では「事態 に働 きかける」主辞機能 を失い、

このため もはや行為者(物)で はな くな り、 これをtarafindanを用 いて表現す ることがで きな くなっている。

18) *Hasan,bu olay taraflndan uzuldu.

19)*Hasan,Ayse tarafindan slklllyor.( 

 

は容認不可能 を示す)

このような現象 を トルコ人の文法家たち(Ergin 1982,206;Gencan 1979,340) は、「再帰が未発達の動詞では受動形 を用いて再帰 を意味す る」と記述 している が、 これは不正確 な解釈である。

確かに トル コ語の受動態 と再帰表現 は、 しばしば混同 して使用 され るように 見 える。 しか し注意深 く観察 してみるとそこには機能的な違いを読み取 ること がで きる。

 

トルコ語では受動態 と再帰が形態的に区月Jできない ことがあ り、

 

れが両者の混同の根本的原因であることを指摘 してお く。Lloyd Swiftがその 混同の生 じる文脈 をまとめている(Swift 1963,108‑109)。

動詞の語幹末音

母音 曖昧 さな し

子音 曖昧 さなし

再帰形 saklan― (―n一)

「隠れ る」

sevin―  (―in―)

「気に入る」

血 ― (― un―)

「現れる」

bulun―  (―un―)

「いる」

受動形 (11) saklaml―

 

nll―)

「隠される」

se宙

1‑   

i卜)

「好かれる」

rtil―   (―ul―)

「見られる」

bulurl―   (―un―)

「見つけられる」

子音の

‑1‑   

曖昧

Swiftの

分類 は形態的な基準のみに関す るものであるが、動詞の語幹末が母音 の ときにも曖昧性が生 じることを指摘 し忘れている。 しか し真の混乱 はむしろ 文脈が多義であることか ら生 じているように思 える。た とえば主辞が物の とき

は受動文、

Cama,lr ylkanlyor.「

下着が洗われる」

(語

幹末母音の後では再帰・

受身ともに一

n―)、

いっぽう主辞が人のときは再帰文、

Turgut ylkanlyor。

「 トゥ

ルグ トは体を洗う」と解釈され′ るとする学者

(Gencan 1979,339)力

れヽるが、主辞

(15)

が人のときで も多義性は生 じうる。Cocuk ylkandl.は「子供が体を洗った」の か、それ とも「子供が洗われた」のか (Wendt 1972,156)。

Swiftが

上の表で語幹末母音のときに曖昧さがないとしたのは、一部の動詞 についてである。確かに語幹が母音で終るい くつかの動詞は、上のような曖昧 性 を避けるために二重の受身形を用いる。 これは多 くの文法書が指摘するとこ

ろである

(Gencan 1979,340;Ozkaragёz 1986,78;Wendt 1972,156)。

能動

        

単純受身(―n―

)    

二重受身(一nil―又は一ml―)

bekle―「期待する」 beklen―「期待 される」

  beklenil―

「(同左)」

de―

 

「言う」

  den―  

「言われる」

   deni卜   

「(同左)」

iste― 「欲 しい」

  isten―

「欲 しがられる」 istenil―

 

(同)」

ye―

 

「食べる」

 yen―  

「食べられる」

  yenil―  

「(同左)」

ylka― 「洗 う」

  ylkan―

「洗われる」

   ylkaml―

(同)」

曖昧性 の生 じる文脈 で規則 的 に この二重受身が使 用 され るのな ら、体 系的 な欠 如 はた しか に補 なわれ よう。 しか し受身 の形態が意味 的 に再帰 にな る例 は他 の 文脈 で も少 なか らず指摘 で きるので あ る。

語幹 al― に受身 ‑ln―

20)Mehnet(α

みπz″

,ayrllarak):[Kosem,60]

「メフメットは苛立ち、別れぎわに

:」

21)Bendenize gelince,uzmanlar kurulШ la neden 

α ル

%グ

を多 π夕

bilmiyorum.

[Mizah,263]

「俺 なんか は、専 門家委員会 になぜ入 れ られたのか分 か らない」

語幹 boz― に受身 ―ul―

22)Tё

reみ

θ

z%ι

%,duzen ba曽

l koptu.[Kosem,38]

「道徳は破壊され、規律が乱れた」

23)Ferhat Hoca da bttπJ″

%.[Memed,98]

「 フェルハ ト師 も苛立 った」

語幹 m― に受身 ―ul―

24)Bir ara at ayaklarinin sesleri kesildi,kurulunlar slkllmadl,kё y derin

‑130‑

(16)

bir sessizl増e gσ%グ′″ク

.[Memed,78]

「 しばらく馬の足音は止んだ、弾丸 も発射 されなかった、村は深い沈黙 の中に埋めこまれた」

25)Pecesiyle ytizunu ёrtup konarlnln arasina gグπグt観.[Istanbul, 19]

「黒 いベールで顔 を覆い、両腕 の間 に (顔を

)埋

めた」

20)23)25)の

再帰 は明 らかであるが、

24)は

受身 なのか再帰なのか分か らな い。擬人化の用法以外では一般 に「村がみずか ら静 まることはない」であろう。

結局の ところ、 ここで決め手 になるのは、村 (kёy)が「沈黙する」という事態 に「積極的に参カロしているのか」あるいは「沈黙状態 を受 けとる場」なのか を 判断するよ り他 ないのではなかろうか。前者であると解釈すれば再帰文、「村 は みずか ら沈黙 した」のであ り、後者の ように解釈す ると受動文、「村 は沈黙の中 に (自然 によって

?)埋

め込 まれた」のである。多義性 は主辞 の事態への参加 の程度か ら発 していると思われ る。そ して この多義性 は第Ⅳ節 p。

128で

述べた 主辞 の相反す る二つの機能 に由来す る.「事態 に働 きか けを行 なう参加項」を示 す機能 と「事態 を受 け止める受動的な参加項」を示す機能 との間に葛藤が生 じ、

そこか ら再帰 と受身の間の多義性が生 まれて くる。

枷ken 1981bの例 を使 いなが ら主辞 の事態への参加 について もう少 し詳 しく 説明 してみよう。受身形 を使 っていなが ら再帰的意味解釈が可能 になるとき、

能動態の主辞 は「事態への積極 的参加」の機能 を失 い、 もはや行為項 として tarafindanを用いることがで きな くなる と上で述べた (p.128‑129参照)。

26)Ayse taba曽1ん 〃多。「 アイシェは皿 を割 った」

27)Tabak(Ayse taraflndan)た

多効物。「皿 はアイシェによって割 られた」

28)Ayse,Hasan'1ん 滋 。「アイシェはハサンを怒らせた」

29)Hasan,Ayse'yeた 多 πι ″多 。「ハサンはアイシェに腹をたてた」

26)の

主辞

Ayseは 27)に

おいて もtarafindanによって示 され行為項 として 機台ヒす る。 ところが

28)で

の主辞

Ayseが 29)に

おいては、述辞klr― が受身 の接辞 ‑11‑を 取 つてはいるものの、「ハサ ンがハサ ン自身で腹 をたてる」とい う風 に再帰が生 じた結果、「腹 をたてた」とい う事態 を受 け止 めるのはハサ ンで あ り、アイシェはもはや行為項ではな くなる。 これを トル コ語では方向を表す 接 尾辞 ―

(y)eで

表 す。つ ま り

Ayse'ye「

ア イ シ ェ に」 は

12)の

例 文、

O

(17)

paraslzl通a daylmyordu.「 彼 は貧乏 に耐 えていた」におけるparaslzl通 a「貧 乏 に」 と同 じ「事態が発生する場面」 を構成 していると考 えられる。

kenも

指摘するように、受動態 において事態 を受 け とる要素 を方向の接尾 辞 ―

(y)eで

あ らわす動詞 には、上例 の

klrmak「

怒 らせ る」のような心的状 態 を表す動詞がた しかに多い。 しか しこうした主張 に対 しては彼女 自身があげ た例文か らで もた くさんの反証 をあげることがで きる。

30)Mustafa,Hasan tarafindan  αι山 力ι&。

31)Mustafa,Hasan'a 

αJ屁フ%ル.

32)Hasan(Ayse tarafmdan)♂

σ〃脱 .

33)Hasan,Ayse'ye」

σ〃π″″.

30)31)の 例はともに「ムスタファはハサンにだまされた」という意味になる のだが、 31)で はだまされたムスタファの過失が大きいようである

(01ken 1981b,

64)。

「自ら知 りつつだまされた」ようなもので、その意味は再帰に近い。

32)

33)は 「ハサンはアイシェに見られた」を意味するが、33)で はアイシェに見

られることをハサンはすでに意識しているという

(01ken ibid。 ,66)。

「自ら望ん で見られた」のであろう。これらの例の

aldarlmak「

だまされる」と

gorurlmek

「見られる」は心的状態をあらわす述辞ではない。

Mustafa Hasan'a(Hasan taraflndan),α 物′θ腸。

「ムスタファはハサンに勝たれた」

Hlrslz polise(polis tarafindan)ッ 山 滋%滋。

「泥棒 は警察 に捕 まえ られた」 (語幹 yakala― に受身 ―n―)

34)の

yutmak「呑み込む」は俗語的に用い られ「勝負に勝つ」こと意味する。

その受動態の「勝 たれ る」 と

35)の

「捕 まえられる」はふつ う行為項が必要 と される事態 を述べ るためであろうか、能ゼロ文での主辞「ハサ ン」 と「警察」

は 一(y)eのみならず、tarafindanに より表現することも可台旨であるという

01ken

ibid。, 63)。

ところで受動態 を統辞論的 に分析す るとき、「態の選択 により述辞 の もってい る格付与能力(case assigning capacity)が抑制 され る」 と主張する研究者がい る。格付与能力が抑制 され ることによ り、能動態の直接 目的辞が受動態の主辞

‑132‑

(18)

へ と移行するのだ とい う(Kornfilt 1991,91)。 この議論 もやは り、述辞 はもと もと主辞 と目的辞 をそなえた他動詞であるとい う前提か ら出発 しているように 思 える。そうした他動詞の受動態の現象だけを説明す るために生 まれて きた仮 説であ り、それは受動態 に ともなって生 じるもろもろの言語事実 を全 く無視 し た解釈であると言わねばな らない。

36)O yllandan力ο″ηοκ

 

「彼 は蛇 を̀陶が る」

37)Yllandan力

ο″%腸κ

 

「蛇 は怖が られ る」(語幹 kork― に受身 ―ul―)

38)0コ

etmen derse onda滋

力 励。「その教師は授業を十時に始めた」

39)Derse onda滋 ゞ″

%滋

。「授業は十時に始められた」

(語幹 ba,la―

 

に受身

 

n―)

36)‑39)の

例 を眺 めてみ る と、受動態 にな って も述辞 の格 付与 能力 は抑制 され る どころか、まった く手 つかず の まま残 る こ とがわか る。分離 の接尾辞 ―

denを

支配する

korkmak「

怖がる」と方向の接尾辞 ―(y)eを支配する

ba01amak「

める」 は受動態 になって も同様 の接尾辞 を必要 とするのである(12)。

態 はどうして継子い じめをす るのだろう

?主

辞 と直接 目的辞 の格付与 に対 し ては、述辞 を圧迫 して確かにその格付与能力 を抑制する くせ に、なぜ他の目的 辞 では圧力 をかけないのであろうか

?上

にあげた例 は直接 目的辞 を支配 しない 動詞、つ まり他動詞ではない動詞の受動態であって、いわゆる例外 なのだ と主 張すればそれで事足 りるのか ?さ らに過激 な立場 を とる研究者 は、他動詞以外 の受動態 その ものを疑 うとい う(Komfilt 1991,91)。 理論的な整合性 を追及す るあまり、 これでは言語事実その ものの解釈 まで もが歪 め られはしないだろう か ?

Ⅵ 。自動詞 の受身

:主

辞 の行 方

他動詞 における目的辞 は述辞 の「第二参加項」であ り、 トル コ語では「行為 項消去」され る可能性があると述べた(第Ⅲ節

p.123を

参照)。 したが って「態 ゼロ (能動態)」 か ら「態ア リ (受動態)」 が派生す るという前提 は成 り立たな い。

ところで他動詞 の 目的辞 が「行為項 消去」 され る と残 るの は主辞 と述辞 で あ り、 これ は自動詞 と同 じ統辞機能 を有 す る発話 にな る。

(19)

6)の

例 Ya da sana yakalar getiririm。 「それか捕 まえてお前んとこに持 ってきてやろ」、あるいは2)の例(...)kilitledi actl(...)「

(Memedは

)(Ⅲ)

鍵をかけては開け(.…)」を思い浮かべるとよい。 ここで少 し意地悪 く考えて、

「捕 まえる(yakalaコ nak)」「持って くる(getinnek)」「鍵をかける(kilitlemek)」

「開ける(acmak)」 は、たとえ目的辞が消去されても意味的に「他動性?」 を 保持 してお り、潜在的な目的辞が予想される、などと主張 しても議論は平行線

をたどるばか りである。

述辞の意味に照 らして、発話の中に現実には存在 しない目的辞 を文脈の力で 補った としても、述辞 と目的辞の間に統辞関係が存在 していると証明したこと にはならない。「潜在的な目的辞」という概念は、思 うに述辞のもつであろう結 合可能性 と両立可能性の一覧表を議論するときだけに有効な考え方であろう(13)。

それはいわば、述辞の統辞特性 を網羅する作業である。発話において観察され る統辞関係は、述辞のそうした結合可能性が実際に実現 した一つの例であるは ずである。その統辞関係の中で潜在性 を議論するのは本末転倒ではないだろう か。

ところで目的辞の消去 された他動詞が受身 になると、受動項 はもともとなか ったのだか ら受動態の主辞 は存在せず、意味的には非人称受身 になるに違いな い。 この ような事態 を トル コ語では二重受身の形式を使 って表現する (再帰 と の区別のために用い られ る二重の受身 とは異 なる点 に注意 されたい、第Vtt p.

130参

)。 出現頻度の低い発話であるためか資料体の中に例がなかった。

Bu satoda bο哲%腸π 「 この城では息がつ まらせ られ る

(=息

がつ ま りそうになる)」 (Ozkaragё

z 1986,77)(語

bo首― に二つの受身 ―ul―

 

un―)

Harpte  υ

%%腸

%%筵 「戦争では打たれ死ぬこともある」(ibid.,77) (語幹 vllr― に二つの受身 ―ul― と 一un―)

Komfiltは 40)の

例 はこの ままでは容認不可能であ り、 これは

bomak「

窒 息 させ る」 とい う他動詞ではな く、b罐Ⅲ

lmak「

窒息する」 とい う再帰化 した 自動詞の受身 と考 えることで容認可能 になると述べている(Korrilt 1991,89)。

ところが

41)に

ついてはコメン トしていない。これは問題 ない ということであ ろうか

?二

重受身のメカニズムは次のように図式化で きるであろう。

(20)

主辞

1目

的辞

 

場面辞

 

述辞 態ゼロ

  A  B'yi harpte vum.

l   B     harpte vurulur.

2         Harpte vurulunur.

41)に

対応す る「能ゼロ」の文 は、た とえば

AB'yi harpte vurur.「 Aが B

を戦争で打ち殺す」となろう。これを

Bの

視点 にたって態を選択すると、B harpte (A taraflndan)vurulur。 「

Bは

戦争で

(Aに

よって

)打

ち殺 される」になる。

そ こでさらに もういち ど態 を選択す ると

41)の

発話が生み出され る。こうした 一連の操作が可能 な背景 には二つの重要な言語事実があると考 えられ る。

すなわち トル コ語では他動詞 も自動詞 も「行為項消去」が可能であることが まず一つである。 また もう一つは、他動詞の受動態の主辞 と自動詞の能動態の 主辞が論理的に共通 していることである。第二の点 により「態1」 の主辞

Bと

自動詞の主辞が論理的に同一視 され る。つ ま り「態1」 の文 は受動項の主辞

B

をもつ自動詞の文 とみなされ る。 さらに第一の事実 によって、 自動詞 とみなさ れた「態1」 の主辞

Bが

行為項消去 され、結果 として非人称受身の「態2」 の 文 に移行 す る。

非人称受身 にあ らわれ る述辞 では超越時制の接辞 (40)と

41)の

ur―)だけ が用い られ る(Ozkaragё Z 1986,77)。 これは統辞的な制約ではな く、意味的な 制約であろう。非人称 の発話が特定の時 に拘束 されない普遍的事態 に言及する ため超越時制が用い られ るのだろう。

発話の論理的関係か らみて他動詞受動態の主辞 と自動詞能動態の主辞 に共通 性がみ られ ることはすでに何度かみた通 りである (第Ⅳ節

p.127参

)。

12)O paraslzll曽

a″

ν%寧Иル

.「

彼 は貧乏 に耐 えていた」

35)Hlrslz poliSe(polis tarafindan)"α滋%ル.

「泥棒 は警察 に捕 まえられた」

12)と 35)の

主辞

0と

Hlrslzは い ず れ も受 動 項 で あ る。 また「貧 乏 に

(paraslzll曽a)」 と「警察 に(polise)」 も事態が発生す る場面 をあ らわす要素 と解 釈で きる。ただ し

35)で

はtaraflndanを用いて行為項 を表現する可能性 も残 されている。 したがって両者の論理構造 は「受動項

+場

面項 十事態」 とい う構 造 をな していると言 える。

(21)

こうした発話の論理的構造の観点か ら自動詞 を二つに下位分類 しようとする 研究者がいる。分類の基準 として自動詞の主辞 に着 目す る。一つは主辞が事態 に対 して「積極的に働 きかける」、 したがって事態 は主辞の意志が反映 され、主 辞が能動的に振舞 うことので きる状況 をあらわすのでなければな らない。 もう 一つは主辞が事態に対 して「消極的に働 きかける」、 この とき事態は主辞の意図 が反映 されない、主辞 を受容するような状況でなければならない。前者 を「非 能格 自動詞(unergative intransitives)」 と呼び、後者 は「非対格 自動詞(urlac‐

cusative intransit市es)」 と呼ばれ る(Biktimir 1986,56)。

この術語の是非 について ここでは議論 しないが、 この考 え方は自動詞の受身 を考 えるとき問題 になると思われるため引用 した。適切 な術語ではないが、 こ こでは前者 を「能動的主辞 をもつ自動詞」、後者 を「受動的主辞 をもつ自動詞」

と呼ぶ ことにしたい。態 を選択で きるのは前者の「能動的主辞 をもつ自動詞」

に限 られ ると主張する学者が多い。

「能動的主辞 をもつ自動詞」 を受動態 にすると行為項 はもはや全 くあらわれ る余地がな くなる。つまりこの自動詞の受動態では

tarafmdan十

行為項が表現 されることは決 してない。 この ことを説明 しよう。

Ba,l bereli,on uc, On dё rt yaslarindaki genc irisi bir cocuk, iceri girrnemizi engellemek istiyor:一 G:五″ bllraya,yasak diyordu.

[Istanbul,37](語幹 gir― に受身 ―il― )

「頭 にベ レーをかぶ り

1304歳

にしては大柄 な子供が、わた したちが中 に入 るのを邪魔 しようとして:「ここへ は入れないよ、禁止です」、 と 言っていた」

〈 〈 ―

,u terslitt gё

yor ttusun,Su kaynattl.…

〉 〉

〈 〈 ―

Kaynattl首l kadar kaynatsin.Bё yle gideriz。 (.…)〉

〈〈―(蒻″′′%az bё yle.Dttn bir,bugtin iki.

[Mizah,252‑253](語

gid― に受身 ―il― )

「見ろ、また面倒なことが起 きた、(ラジエーターの)水が沸騰 した。…」

「オバーヒー トするだけさせればいいさ。 このままで我々は行 くんだ。

(...)」「 このままじゃ行けない。昨日も故障が一つ、今 日で二つ目だ。」

42)に

対応する能動態の発話はおそらくSiz buraya giremezsiniz,yasaktlr。「あ なたがたはここへは入れません、禁止です」であろう。すなわち言語現実 とし

43)

‑136‑

(22)

て「態」が選択 され る以前の経験 には、行為項「 あなたがた」、場面項「 ここ(へ)」、 事態「入 る (こ とがで きない)」 を想定す ることがで きる。「態ゼロ」の発話 に おいて、 自動詞

gimek「

入 る」は能動的な主辞

Sizを

備 えていた筈である。

43)で

は行為項「われわれ」、場面項「 この ままで」、事態「行 く」が想定 され、

能動態の発話 は Biz bёyle gidemeyiz。 「われわれ はこの ままで行 くことがで き ない」であった と思われ る。

しかるに受動態の発話では自動詞の能動的な主辞 Siz「あなたがた」と Biz

「われわれ」が消 えて しまっている。多 くの研究者 は、 自動詞の受身 はすなわ ち「非人称受身」であると断言 して止 まないが、筆者 はこのような単純 な解釈 に賛同で きない(14)。

42)と 43)の

例か らも明 らかな ように、受動態の二人称 単数形の述辞 Girilmezと

Gidilmezに

は、事態 に積極的 に働 きかけを行 なう 項、すなわち能動的な行為項 Sizと

Bizを

喚起す る機能が未だに残 っている ように思 えるか らである。ち ょうどこれ は、主辞がな く動詞の語幹だけで発話 が成 り立 っている命令文 (Gir!「 入れ」とGit!「行 け」

)に

おいて も、同 じよ

うな行為項 (二人称単数

Sen「

ぉ まえ」

)が

喚起 され るのに似ている (上例の 邦訳 も参照)(15)。 もう一つ別の例 をあげよう。

44)〈〈Bir yanl191lk olacak!〉〉 dedim.〈 〈Sen bilfiil ё

petmenlik de凛

1,

bilf五l rnuhaliflik yaptin!〉 〉〈〈Daha iyi ya!〉 〉

〈〈4πルシι″らotur ic bir kahve!〉〉[Mizah,86]

(語幹 anlas― に受身 ‑11‑)

「そ りゃ少 し違 うよ!」と私は言った。「君は実際のところ教職 じゃあな くて、実際には抵抗運動をやったんだ!」「そいつはさらにいい!」(こ

れで)お互いが理解されたね、 まあ座ってコーヒーでも一杯飲めよ!」

44)も

非人称の受身 とは言えない。能動態の述辞 anla。一「お互いに理解しあう」

(語幹末の 一o一 は相互的な行為を表す

)は

明 らかに主辞

Biz「

われわれ」を 喫起する。能動態はBiz anlastlk。 「われわれはお互いに理解 しあった」 とな

ろう。

このように自動詞の受身は必ずしも非人称の受身 とは言い切れない例がある ことを指摘 してお く。 したがって「態ゼロ」の主辞 は Biktimirの 定義 したよ うに不特定である必要はない。 しかし主辞が人間でなければならないという彼 女の見解は資料体 を観察するかぎりでは正 しいように思える(Biktimir 1986,

(23)

60)。 非人称 の受身 と考 え られ る例 を二つあげてお こう。

45)Kentten kente dttil,kOyden kёye g″′′

%″

物なOndan izin almaylnca.

[Kё

sem,22](語

gid― │こ受身 ―il― )

「「町か ら町ではな く、村か ら村へ は(誰も

)行

けなかった らしい、彼の 許可がない限 りは」

46)Bu alanda iyi力ο,%腸筵「 この トラックでは(誰でも)よく走れる」(Kornfilt

1991,88)(語

ko,― に受身 ―ul―)

さて、自動詞が受動的主辞 をもつ ときはどうであろうか。Perlmutterは この種 の 自動詞受身 に否定的であったが、 トル コ語学者 は逆 にその可能性 を主張 して いる。ただ し Kornfiltも 指摘するように、その種の受動文の容認可能性 には著 しいば らつ きが見 られ、 また何 をもって受動的主辞 をもっ自動詞 とす るのか、

その基準が意味論的な基準である点 も災 い して議論 を難解 な もの に してい る (Komfilt ibid.,88‑89)。 ここでは可能派 に組み し、若干の例 をあげるに留めた い。

47)Buzun ibtmde′

牝夕多み筵 (Kottilt ibid。,89) (語幹 kay― に受身 ‑11‑)

「氷の上では (誰でも

)滑

って転ぶ」

48)Fakat dettistirisin sonwldaki bu melale,huzne, lstlraba  彪″Йttπ%グ′ ιあ″

mi?[Faik,118](語

幹 tahammul ed― │こ受身 ―il―)

「 しかし (いったい誰が

)変

転の結果であるこの悲哀、悲嘆、不安に耐 えられ′ようか」

ここでも超越時制 (47)と

48)の

‑lr―と 一ir―)が非人称受身の中で用いられて いる (同節

p.135 

参照)。

.終

りに

冒頭でも述べたように「態」を定義 し分析することは、すなわち基本的な統 辞構造を定義 し分析することに他ならない。それは統辞論の研究の中でおそら

く最 も基本的で、理論的な、 また地味な作業であろう。その仕事にとりかかる

‑138‑

(24)

には、それぞれの統辞論者が基本的な統辞構造 に関 して自分な りに納得ので き る理論的枠組 みをあらかじめ備 えて置 くか、あるいは分析 をしなが らそれを構 築 してゆかねばな らない。

本論考では後者の立場 を とった。すなわち、機能主義の統辞論 を土台 とし、

そ こか ら出発 しておきなが ら、 トル コ語 とい う言語現実 をで きる限 り現実的に 分析 をすすめる中で、筆者 な りの理論的枠組みをこしらえてゆこうとしたつ も りである。 その仕事 は多 くの点でいまだ未完成であ り、 ここではその大枠 を提 示で きたにす ぎない。 したが って厳密な意味で本論 に結論 なるものはない。

まず最初 に行為項分析 と統辞分析の本質的な違いにふれ、「態」の問題 を考 え る とき、能動態 と受動態 は欠如的対立 をなす二項 と考 えることを提案 し、他の 再帰や使役 との本質的な相違 を述べた。

つ ぎに基本的な統辞構造である主辞、述辞、 目的辞 について、その統辞関係 を略述 した。「態」 との関連では、主辞機能が注 目され る。

主辞機能 には相反す る二つの機能があるように思われる。一つは「事態 に積 極的に参加す る項」 を示す機能であ り、い ま一つは事態 に積極的には参加 しな い、「事態 を受 け止める受動的な参加項」を示す機能である。述辞のあらわす事 態 に主辞がいずれのかかわ り方 をす るかで、主辞機能 は二つに分裂する。 トル コ語ではその相反する二つの機能の間にしばしば葛藤がみられ、その結果、再 帰形 と受身形 の意味的混同が起 きた り、再帰文 なのか受身文 なのか曖味 になる

ことがある。

トルコ語では他動詞 と自動詞 を隔てる垣根 は低 く、他動詞 はしばしば目的辞 な しで用い られ自動詞 と同 じ統辞構造 をもつ。 トル コ語では他動詞 と自動詞の いずれにおいて も態が選択可能である。 自動詞や 目的辞が消去 された他動詞 を 受動態 にす ると、主辞が復元不可能 になることがあ り、結果 として発話 は非人 称受身の意味内容 をもつ。

(1)筆

者 は現代 フランス語 と中世 フランス語 における「態」の選択 について考 察 した ことがある :川 口 (1993b)、 川 口 (1994)を参照。また この論文 を 執筆す るにあた り本論 と密接 に関係す ると思われる

Laura KNECHTの

博士論文 SubieCt and Obiect in Turkish.Ph.Do dissertation,1986,MIT

Press,Cambridge,MA.を

利用で きなかった点力゛悔や まれる。

(25)

(2)Lees(1973,511‑512)は

自らが認定 した トル コ語の四つの態 (受動態、

再帰態、相互態、使役態)の結合可能性 を一覧表 に している。彼 の言語現 実 に対す る認識 とその解釈 は我々の と異なっているが、参考のために掲 げ てお く

(L=受

動態、

N=再

帰態、

S=相

互態、

T=使

役態)。

用   T 使 在

︱ リ 現 N S T A

︱ト リ 使     T 不    

+ く S   N

か     T て稀

ヽt リr め       T わ      

+ き L   T B

{:}T+L

T+N

[N+L]

L N T

C.現

在不使 用

{:│:}T

D.立

証 不可能

{i}N

(3)

L tt L

S+S

全ての態の3つの組 み合せ (例、

L+L+L、

N tt N tt N、)

言語的現実 として切 り取 られ る以前の経験 をどのように記述すればよいの か、筆者 は常 に困難 を覚 えるが、ここでは記述の便 もあ り、

Aを

Bよ り前 に述べ、「見 る」 とい う行為

(=事

)を

最後 に記述 したが、 この ような 位置関係 は発話の論理的関係 と何の関係 もない。おそ らくそ うした順序づ けが問題 となるのは、経験が記号素 として言語的現実 に分節 され る(第一 次分節)過程 を通 じてであろう。後述するように、述辞 を言語的現実 とし て選択することによって、述辞 を中心 とす る記号素の相互関係

(=統

辞関 係

)が

初 めて問題 になる。

R.ヤー コブソン (1976,48‑94)│こ こうした音韻構造の派生過程 における 基本性 (優先性

)の

研究がある。

筆者 は行為項分析 と統辞分析 とは本質的に異なるものであると考 えている

‑140‑

参照

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