トルコ語における態の選択
著者 川口 裕司
雑誌名 人文論集
巻 45
号 2
ページ A117‑A144
発行年 1995‑01‑31
出版者 静岡大学人文学部
URL http://doi.org/10.14945/00008911
トル コ語 にお ける態の選択
!。
いまなぜ「態」なのか?ある言語研究者が何 らかの理論的枠組 みの中で、ある特定言語の基本的な統 辞構造 を明 らかにし、 そ こにあ らわれ る単位の機能 を考察 しようとす る とき、
程度の差 こそあれ、一般 に、二 つの全 く相反す る方向づ けが研究者の間に観察 され る。た とえば基本的な統辞構造 と思われ る「主辞」「述辞」「 目的辞」 を考 えてみれ ばよい。ある分析者 に とって これ らは自明の統辞単位である。彼 はこ の三つの単位 により基本的な統辞構造が構築 され ることをもちろん認 める。 し か し彼 は自分の文法知識 ない しは直観 に照 らして これ らを理解 し、それ以上 そ れ らの単位 の間の統辞関係 を分析の対象 としない。そして別の もっ と複雑な統 辞機能 とは何 なのかを問 う。 ところが別の分析者 に とっては、 これ ら二つの統 辞単位 の機能 をまず もって明 らかにしない ことには、いかなる統辞構造 も分析 す ることはで きない相談なのである。
とはいえ現状では、基本的な統辞構造 についてす ら研究者の間に見解の一致 が見 られるわけではない。 それゆえ上記の相反する方向づけは、いわば統辞論 者が言語研究 に取 りかか るときの姿勢の違 いにす ぎない。 しか しそうは言 うも のの、統辞論者がいったん「態」 を分析 しようと思 ったが最後、 もはやそうし た姿勢の違いを等閑に付すわけにはいかな くなる。基本的な統辞構造 とそこに 現れ る統辞単位の機能、「態」はまさにこれ らを考 える上で格好の材料 を提供 し て くれ る。だか らこそ「態」 を分析す ることで、おのず と統辞論者 は次の こと に気づかされ る筈である。それはみずか らが依 つて立つ ところの理論的背景が 基本的統辞構造 とその統辞関係 について何 を教 え、何 を考 えさせて くれ るのか
とい うことだ。
本論文では トル コ共和国で話 され、そ して書かれている トル コ語 を例 に とり、
司
口
「主辞」「述辞」「 目的辞」からなる基本的な統辞構造 とその二つの単位の統辞 的機能を「態」 との関係において考えることにする
(1)。
「態」の研究は トルコ語学の中の他のテーマにくらべ先行研究に恵まれてい る。本論文でも必要に応 じて出典 を明 らかにしながら先達の例文を引用するこ とにした。 また独自の資料体 として以下の作品に現れる文や発話を分析 した。
資料体 ([ ]内 は本文中での省略形
)
ALTAN,cetin(1981)Al i,te istanbulの 以下の随筆 Surlar boyunca, Yenikapl'rlln Pazar gezmesi, Merkez Efendi, ZeyTek, Bir taverna, Sonunda biz bitecttz [Istanbul]
FAIK,Sait(1981)Buth Eserleri l,Semaver/Sarrucの 以下の随筆 Meser̲
ret Oteli,Bir kё
メh dё
rt hikayesi,Babamm ikinci e宙,ipekli mendili,
Klskancllk,BOhca,,ehri tmutan adam,09範 Кu mevki,Louvre'dan
cald増
l heykel,Robenson,Bir vapur[Faik]KEMAL,Yasar(1983)ince Memed
Ⅱ の
pp.50‑117[Memed]OFLAZOGLU,A.Turan(1982)Kosem Sultanの
第
1幕第
1場か ら第
7場,pp.13‑95[Kёsem]
SEMIH Mttmet(1982)Tttk Mizah Hikayeleri Antoloiisiの
以 下 の小話
Imrenilecek bir ёlunl,Gё bek,Slrca Kё
sk,Hava dollnusu,Abbas yolcu,Kavga,insanlar uyanlyor,imza elcisi,Acllk psik01oiisi,iyi bir klsmet
icin,Mirasin hakklm vereceksin,Uzmanlar[Mizah]‖.行為項分析
「態」が言語的選択要素であることは川口(1993b,31‑34)で すでに触れたの で同じことをここで繰 り返すつもりはないが、 トルコ語の具体的な分析を始め る前に、若干の言語事実 とその解釈を確認 しておきたい。
まず、「態を選択する」 というからには、「態を選択 しない」発話がある筈で あり、これを能動態 (=態ゼロ)と呼ぶ。「態アリ」と「態ゼロ」の関係はこう して欠如的対立
(opposition privative)で
あると考えられる。この解釈が意味す るところは、一つの発話の中に受動態 と能動態が共起することは決 してないと いうことである。ところが多 くの言語理論は、西欧伝統文法の影響であろうか?、
‑118‑
「態
(voix,di江
睦se)」
の名の もとに様々な現象 をひ とまとめにして しまって いる。た とえば、Lucien Tesnttreは Eにments de syntaxe structurale(1976)の 中で6つの「態」について触れ、能動態
(di配
腱se act市 e)、
受動態(do passive)、
再帰態
(d. f16chie)、
相E態(d. ciprOque)、
使役態(do causative)、
行為項 消去態(d.r6cessive)の
解説 を行 なった。こうした分類 は、彼が主張す る ところの「行為項
(actants)」
の観点か ら発話 を眺める場合 にのみ納得で きる。 ここで 問題 になる「行為項」とは、基本的統辞構造 に現れ る二 つの要素、俗 にい う「主 語」 と「 目的語」(使
役態の場合、 さらに第二の「行為項」 も関係 しうる)が述 部 とどの ような論理的関係 を持 っているのか を示すための用語であ り、 そ うし た基本的な行為項 の組 み替 えとい う視点か ら出発 して彼が六つの態 を認定 した ことは評価 され るべ きであろう。 しか し発話の論理的関係 を分析 しているにす ぎない行為項分析が、すなわち統辞関係の分析 に等 しいわ けではない。言語現実 を観察する限 りにおいて、筆者 には
Tesniё
reが認定 した六つの「態」がそれぞれ同 じ言語学的地位 をもつ ようには思 えない。 もしも仮 に同等の言語 単位であるとすれば、特定の意味 ない しは文脈 の制約がな く、他の条件が全て 同 じであれ ば、その六つの「態」 はそれぞれ同等の両立可能性 あるいは結合可 能性 をもっていておか し くはない。 しかるに現実 は全 くそのようにはなってい ない。能動態かつ使役態、能動態かつ再帰態、受動態かつ使役態、受動態かつ 再帰態、な どが後述 す るように若干の制約 はあるものの現 に存在 しているのに、
能動態かつ受動態の発話 はあ り得 ないのである
(2)。
すなわち能動態 と受動態 は 両立不可能であ り、両者が同一の述辞 の中に同時 にあ らわれ ることはない。能動態 と受動態 は欠如的対立 をな し、他の態 との関係 とは異なっている。川 口(1993b,31‑33)でも触れたが能動態 と受動態では発話の論理的関係が組み替 えられない。 これに対 して能動態 と再帰態、能動態 と使役態、等では論理的関 係 その ものが組 み替 えられている。 この ことをまず トル コ語の簡単な例 を用い て説明 しよう。
今、「Aとい う人物がBとい う人物 を見た」 とい う経験があった としよう
(3)。
この経験の中には二つの行為項が現れている。能動的なAと受動的なBである。
い くつかの言語理論 は「態ゼロ」の発話か ら「態ア リ」の発話が生み出される と解釈す るが、 この考 えは大いに批判 を受 ける必要がある。「態ゼロ」の発話が ア・ プ リオ リに存在す る根拠 は何 なのか?このような前提 に対 して後で反論 を 述べたい と思 う。受動態が能動態か ら生成 され るとい う見解で は、言語現象 に
おける量的価値
(発
話 にお ける能動態の頻度 と形態の単純性)が質的価値(統
辞構造の派生関係 における基本性)に転化 されて しまっている。 この種 の誤解 は言語研究 において しばしば見 られ る。た とえば形態論 における基本形の認定 作業 を思い出 してみるとよい。形態的に頻度が高 く単純であるか らとい う理 由 で、それが派生関係 における基本形 になるとは限 らない。先 にも述べたように「態ゼロ」 と「態ア リ」 は欠如的対立 をなしている。そ もそ もどち らが派生関係 において基本的なのか という疑間は、「統辞構造の派生 関係 における基本性」 とい う意味 をまず もって定義するべ きだったのだ。た と えば音韻論 における子音pと bは欠如的対立 をな していると言われる。声の有 無 によ り両者 は区別 され るか らである。 この「声」 をその対立の「標識」 と考 えるなら、pが「無標」でbは「有標」の項である。 しか しだか らと言 って、
pのほうがbよ りも音韻構造の派生関係 においてより基本的であると言 えるの だろうか?(4)
話 を元 に戻すが、「Aとい う人物がBとい う人物 を見た」という経験 を、能動 の行為者Aの視点 に立 って言語的現実 として切 り取 る、 これにより「見た」 と い う述部
(gё
r山)が選択 され、 この述部 を中心 にして発話 AB'yi gёr山 。「AはBを見た」(―
yiは
限定 の直接 目的)が
生 み出され る。Bの項 は「見た」とい う 行為 を受容す る行為項、受動項である。いまこの受動項Bの視点 に立 ち、経験を言語的現実 に切 り取 る、換言すれば「態 を選択する」 と、 こん どは「見 られ た」 とい う述部
(gё rtildti)が
選択 され発話B gё
■ldu,「Bは見 られた」(発
話内の 一ul―
が受身 を表す)が
生み出され る。この ときBは台ヒ動態の ときと同 じように発話の論理的関係 としては受動の行為項である。すなわち態が選択 され て も発話の論理的関係 はなにも変わっていない。
つぎに「Aとい う人物がBと いう人物の体 を洗 った」 という経験 を想定 しよ う。態 を選択 しない場合、
AB'yi ylkadl。
とい う発話が生 まれ る。今、A=Bの関係 を仮定すると、「Aは自分の体 を洗 った」 ことにな り
A ylkandl。
(―n―
が再帰 を表す)となる。 この発話ではAは能動的行為項であると同時 に受動的 行為項で もある (Gencan 1979,338)。 つ まり再帰が起 きているわけだ。この再 帰の発話 においては、態ゼロの行為項 の論理的関係 (Aは能動、Bは受動)が
組 み替 え られて しまい、Aは能動かつ受動の行為項 になっている。ただ し トル コ語では再帰 をもっとはっきりと表現するために再帰代名詞 を使 った態ゼロの 発話 を用いることもある。
A kendi kendini ylkadl。
「Aは自分 自身の体 を洗 っ た」(発
話中のkendi kendiniが
再帰代名詞、一niは限定の直接 目的辞 を表す)― ‑120‑―
(Lewis 1983,150)。
最後 に「Aとい う人物がその仕事 をした」 という経験 を想定 しよう。態ゼロ は
A su isi yaptl。
となる、 これを使役の発話「Aとい う人物がBとい う人物 にその仕事 をさせた」 は、A su isi B'ye yaptlrdl。 (発
話内の一tlr―
が使役 を表 す)となる。態ゼロでは「(そ
の仕事 を)した」のはAであ り、Aが能動的行為 項 であったが、使役の発話では「(そ
の仕事 を)した」のはBであってAではな い。 また して も発話内の論理的関係が組み替 えられてしまった。発話 に現れ る要素の論理的関係が能動態 と受動態の発話 において組 み替 えら れていない ということは、同一の経験 を異なる視点か ら言語的現実 として切 り 取 ったがためであろう。 ここでは経験の中に現れる行為項 と述辞 の間の関係が 発話の論理的関係 を決めると考 えているわ けだが、 これを組 み替 えることによ り再帰 と使役の発話が生 まれているとい うことを忘れてはな らない。能動態 と 受動態の間では発話の論理的関係が組 み替わっていない とい う点が再帰 と使役
とは全 く異なっているのである。 したがって、発話の論理的関係 をいち ど組み 替 えた後で も態 を選択す る可能性 はまだ残 されている。上記の再帰 と使役の発 話 を受動態 にす るとそれぞれ、A ylkamldl.(―
n―
が再帰で‑11‑が
受身),uio B'ye yaptirlldl。
(―tir―
が使役で‑11‑が
受身)と
なる。しか しなが らこれ らの発話 には い くらか制約があるようである。再帰受身の発話 は一般 に人称が三人称単数に 限 られ 01ken 1981 a,76)、 90%以上が母音で終 る語幹 をもつ動詞だけに見 ら れ る(Lees 1973,508)。
使役受身の発話 は意味が能動態の ときと変わ らない ことがあるため、稀 にしか現れない とい う(Lees 1973,508)。
Ⅲ 。主辞・ 目的辞 0述辞
ところで「態」 を選択 して も発話の論理的関係 は「態ゼロ」の ときと変わる ことがないが、当然の ことなが ら統辞関係 には組み替 えが起 きる。 この組み替 えを関係文法 (Relational Grammar)に な らって、能動態の目的辞が主辞 に昇格 し
(2 to l Advancernent)、
讐読初 の主爾物ゞchOrrlellr lこ
なる(the initial l to
become a l―
chOmeur)(Korだilt 1991,88)と 説明 したのでは、何 のために「態 ゼロ」 と「態ア リ」の欠如的対立の意義 を上で長々 と説明 したのか分か らな く なる。能動態の一部 とそれに対応す る受動態だけを解釈で きれば事足れ りとす るのであれば、 このような説明で も納得で きようが、言語事実 を注意深 く観察 してみれば、す ぐに問題 はそんなに単純ではない ことが分かる。この関係文法の解釈 に対 して、す ぐに指摘で きる疑間は、能動態ではなぜ主 辞 と目的辞がなければな らないのか、である。上 の説明にはその前提 として、
能動態の述辞 は主辞 と目的辞 を とる動詞であるとい う暗黙の了解がある。その ような動詞 は一般 に他動詞 と呼ばれている。 トル コ語では自動詞の語幹 に使役 の接辞が付加 され ると自動詞 は他動詞化 され る。 この ことは多 くの文法書が指 摘す るとお りである。Sebuktekin(1971,82)は この使役の接辞 を「他動化辞
(transitivizers)」
と呼んでいる。た とえば自動詞の語幹bat―
「沈む」、dur―
「止 まる」、kork―
「怖が る」に使役の接辞 (―tlr― ,一 dur― ,一 t―
)がつ くとそれぞれ 他動詞batlr―
「沈める」、durdur―
「止 める」、korkut―
「怖が らせ る」となる。使役の接辞 により他動詞化 され るとき、語幹が変化 し、 これによって他動詞が 自動詞か ら独立 した一 つの記号素 になることもある。た とえば
ge卜
「来 る」、gё r―
「見 る」、kalk―
「起 きる」に対応す る他動詞がgetir―
、gёster一
、kaldlr―
になるといった具合である(Gencan 1979,334)。
議論 を簡単 にす るため、 しば らくは他動詞 と他動詞化 された自動詞 に話 を限 定 しよう。これ らの述辞 は一般 に、二つの参加項
(participants)(5)を
ともなって 現れ る。一つは主辞 であ り、 もう一つは限定 の直接 目的辞である。まずは使役の接辞がついていない単純 な他動詞、た とえばacmak「開ける
(―makは不定形の接辞
)」
とい う述辞 を例 にとって説明 しよう。Beni iceriye almamak icin neden bu kadar direndiniz P Nihayet ben
kaplyl αθ力珍
,sizler de yere yuvarlandinlz,demis.[Istanbul,34](主辞 は ben、 限定 の直接 目的辞 は kaplyl)
「「 こん な に まで して どうして私 を中 に入 れた くないのですか
?とう と う私 は ドア を開 けた、 あなた方 も床 に ころんだのですね」 と (彼 は
)言ったそうだ」。
(6)
Koca Osman Onardl首
l eski kaplyl da gOttirdu a91lan yere taktl, kilitledi c吻 ,kilitledi
ασ力,tamamdl.[Memed,60]「 (Memedは) Osman伯父が修理 した古い ドアも持ってきて、開いた場所にそれをはめ、鍵をかけては開け、かけては開けし、完了した。」
1)の文で は他動詞 acmakは限定の直接 目的辞 を ともなっている。 ところが
2)の文で、他動詞 kilitlemek「 鍵 をかける」とacmak「開ける」はいずれ も限定の直接 目的辞 なしで使用 されている。 さらに観察 を進めると以下の例文
もみつか る。
Ben isteksiz kendisine yerィ
カ物.0,matttur Otllrdu.[Faik,66]「私はしぶしぶ彼自身に席を開けた。彼は威張って座った。」
Karlsmaィカ.[Mizah,92](―aは方向をあらわす接尾辞
)
「
(彼
は)妻に打ち明けた。」3)では述辞が非限定の目的辞 と凝結 (figement)(Martinet 1985,39)を 起 こし、
yer acmak「席 をゆず る」という単一の複合動詞 を形成 していることがわかる
(7)。 最後 に4)では、同 じ述辞が方向をあ らわす目的辞
karlslna「
自分の妻 に」のみをともない、 もはや他動詞であることをやめているかのようである。使役 語尾 によって他動詞化 された述辞 で も同 じことが言 える。
COk力 ο″
Z″
"り
attlamadl.[Faik,42]
「 わ た した ち は (小 僧 の コ ソ泥 を)ひ ど く脅 した が 、 彼 は泣 か な か った 。」
〈〈Ben eski bir avclylln Bey.C)atl nerё deyse bulur,bir iki gtin icinde
vururumo Ya da sana yakalar̀″″″ππ
.〉〉
〈〈 Bana getirlne vtlr.〉 〉
dedi Bey.[Merned.53]「「旦那、わしゃ老練の猟師じゃ。どこにいたってその馬を見つけて、
一日かそこらで
(そ
いつを)仕留めまさ。それか捕まえてお前んとこ に持ってきてやろ。」「俺には持ってこないで殺せ。」と(Ali Safa)氏 は言った。」5)と 6)のいずれの例で も他動詞 korkutmak「脅す」、getirmek「持 って くる」は限定の直接 目的辞 をともなっていない
(他
に も vllrlnak「 仕留める」とyakalamak「捕 まえる」を指摘す ることがで きよう
)。
このように トル コ語 では他動詞 と自動詞 を分 け隔てている垣根が きわめて低 い ことがわか る。L.Tesniё
reは二つの価(valellrs)を
もつ述辞がその一方の価 を不間に付 して 使用 され る、た とえば一般 に主辞 と目的辞 を ともな うとされ る他動詞があたか も自動詞の ように目的辞 な しに用い られ る現象 をやは り「態」の現象 と考 え、「行為項消去態
(diathё se rё cessive)」
と命名 した(Tesniё re 1976,277)。
第 Ⅱ 節で述べた ように、Tesniё
reは行為項 の組 み替 えの観点か ら「態」を分析する。そのためこのような「行為項消去」 をも「態」 として認定するわけである。 こ 3)
の言語現象 を「態」として認定することに筆者 は異論 を唱 えるが、「行為項消去」
とい う現象その ものを統辞論 において捉 えようとした功績 は十分 に評価 され る べ きである。 トル コ語 はまさしく「行為項消去的」
(rё
cessive)な 言語であると 言 えよう。もし以上の ことが理解 され るとすれば、「態ゼロ」か ら「態ア リ」が派生 され ることを理論の前提 にはで きない ことがわか る。 トル コ語の場合 には、他動詞 が常 に主辞 と目的辞 をともなっているとは限 らないか らである。 目的辞 は「行 為項消去」 されているか もしれない。
この「行為項消去」の現象が、 さらに重要な言語事実 を明 らかにして くれ る ことを指摘 し忘れてはなるまい。その ことを説明するには上の例文 において目 的辞ではな く、主辞が どうい う現れ方をしているのかを観察す る必要がある。
1)と 3)の例文で―人称単数の主辞 benが現れ るのに対 し、2)と 4)で
は人称代名詞 はな く、述辞の活用語尾 によって二人称単数の主辞が明示 され る。
トル コ語では文脈の力 により主辞が何であるのか明 らかな とき、人称代名詞 は 用い られない (5)と 6)の例 を参照
)。
これ も多 くの文法家たちが指摘すると ころだ(8)。
上でみた ように目的辞 は容易 に消去 され うるのに、主辞 はなぜ この ように抵抗 を示すのか。理 由は明 らかである。比喩 を用いて説明することはあ まり好 ましくないか もしれないが、この場合 にはあえて比喩 を用いたい と思 う。主辞 と目的辞 は独 自の軌道 を持 ちなが ら惑星の周囲を回つている衛星の よう な ものである。 この とき惑星 とはもちろん述辞の ことである。主辞 と目的辞 は 常 に述辞 か らの強い引力の影響下 にあ り、両者の統辞的ふるまいは述辞 により 制御 され ることになるが、述辞か ら受 ける引力 は明 らかに主辞 のほうが 目的辞
よりも大 きい。述辞 と主辞 の間、あるいは述辞 と目的辞 の間の統辞関係 とはこ うした力関係 に例 えることがで きる。主辞 と目的辞が うまくそれぞれの統辞機 能 を発揮で きているのは、述辞か らの引力が働 いているおかげである。 したが って、述辞 を統辞的結合の「核」 を構成する単位 と考 えることはまった く正当 なことである
(渡
瀬1992,13‑14)。
主辞 は述辞 の「第一参加項」、 目的辞 は「第二参加項」である。上でふれた「行 為項消去」の現象 はこの言語事実 を見事 に説明 して くれ る。他動詞 において「行 為項消去」が起 きるとき、 まず最初 に消 えるのは目的辞 であつて主辞ではない。
‑124‑
Ⅳ 。主辞機能
主辞 は述辞 の「第一参加項」である。 これは述辞 と主辞 の統辞関係 を示 した にす ぎない。 それゆえ主辞 は述辞 により第一 に引 き出され る参加項 となるが、
主辞 その ものの働 き、すなわち「主辞機能」 とはいったい何なのだろうか (9)。
他動詞の発話で「態」 を選択す ると主辞 にたつのは能動態の ときの目的辞 で ある。では能動態の ときの主辞 はどうなるのか。 トル コ語の受動態 を扱 った論 文ではtarafmdan+行為項 によって受動態 における本当の行為項が明示 される と述べているものが多い。 しか し実際の発話 を分析 してみると、 こうした例 は 稀 であることがわか る。資料体 の中では五例 しかみつか らない。少 し長い引用
になるが、議論 に関係す ることなので全ての例 をあげることにする。
V ytizyllda Teodos II'nin klz karde,i
″ψ %∂ 物
% Bizans'daki ilkhlristiyan topluluttunun dOmasinl satthyan Aziz Andrё 'nin anlsl icin
yψ 多′%多 ,ル
.[Istanbul,35](語幹
yap―
に受身 ‑11‑;行為項klz kardesi taraflndan)
「
(聖
アンデレ教会 は)五
世紀 にテオ ドシウスニ世の姉妹 によって、 ビザ ンチウムでの最初 のキ リス ト教徒の共同体作 りに尽力 したアジズ・ ア ンデンを記念 して作 られた という。」Kilise 2.Beyazlt zamanlnda padisahin emriyle Sadrazam KoM.Pasa
″ηO%滋π
camie rι
υ″滋.[Istanbul,35](語 幹cevr―
に受 身 ―il―
;行為項 K.M.Pa,a tarafmdan)
「教会 はバヤジッ トニ世の時代 に、同王の命令 によ り宰相 KoM.パシャ によってモスクに変 えられた。」
Fatih Canlii vaktiyle Saints― Aportres Kilisesinin kahntllarl iisttine Fatih ttπ
ん%滋%sorlradan Musithnan Olan Kristodulo■l adlndaki bir Rllm rniinara夕 2ク
カπ″み%多 s力 , 1942'den 1970'e kadar surmustu yapllnl.
[Istanbul,43](語幹
yap―
に二 重使 役 ―tlrt―
と受 身 ‑11‑;行為 項Fatih tarafindan)
「 ファーティフ・ モスクはその音 に聖使徒教会の遺構 の上 に征服王 によ って
(建
築 されたが)、 のちにイスラム教徒のク リス トドゥロム とい う 名のギ リシャ人建築家 に(再
び)建てか えさせた とい う、その工事 は 8)1942年か ら 1970年までかかった とい う。」
7)‑9)に は共通性がある。いずれ も歴史的事実 を報告 している。歴史的事 実「AはBを〜 した」 とい う文脈で、受動項Bの視点か らこの事実 を伝 えてい る。taraflndanの現れ るこうした文体的条件 については 枷kenが既 に述べて いる。彼女 によれば、「科学論文や印刷物 ない し放送 による報道以外の 日常会話 ではtarafindanや 一ceの語尾を用いることはない」(01ken 1981b,58)と いう。
一ceによる行為者表現 は資料体 の中に一つ も現れなかった。
トル コ人の文法学者が指摘するように受動態の場合、行為項 は問題 にな らず、
表現 されるのは稀である(Atabay他 1983,85;Gencan 1979,337)。その稀 な 二つの例 をあげよう。
10)Lokanta sahibi lttradl首
l Zararln kimin ttψ%滋 7π
ttπtt
θ″′′ιθ′gttπ
′ anlamak tela,lnda 91rplnarak,ё yle diyordu:[Mizah, 17](語幹 tazmin ed― に受 身 ― i卜
;行為項
kimin taraindan)「レス トラン経営者は自分にふ りかかった損害を誰に賠償 してもらえば よいものか、不安にな り顔 をひきつらせなが らこう言っていた
:」
11)Sldlk,maksadlFlln ё
tekiler″
%"π 滋′πα%滋 ,多
′″勿saπ tt pek istemiyordu:
[Mizah,130](語幹
anlas―
に受身 ‑11‑;行為項ёtekiler tarafmdan)
「Sldlkは 自分の意図を他人によって知られてしまうことをあまり望んで いなかった。」
Mizahの資料には明らかに受動態をあらわすと思われる例が全部で48例あらわ れるが、そのうち46例は tarafindanを ともなわない。このtaraflndan十 行為 項についてはさらに後述する。行為者は tarafindan以 外の表現により表される こともある。dolaylslylaや
etkisiyleを
使って行為項を表す とする文法書 もあ るが(Gencan 1979,337)、 資料体 にその例 はない。以上述べたことから、受動文のほとんどが行為項の表現をともなわないこと は明 らかである。他動詞の受身では態ゼロの ときの目的辞
(受
動項)が主辞 と なり、態ゼロのときの主辞 はすでにふれたTesniё
reの表現を借 りるならば「行 為項消去」される。 これを図式化 しよう。態ゼロと態アリの関係を見てみよう。‑126‑
行為項消去
(態
ゼロの主辞)(A tarafmdan)
したがって、態ア リの主辞 は自動詞の構文で主辞が受動項 をなしている構文 に きわめて近 い論理構造 をもつ ことがわか る。例 を示 そう。
12)O paraslzll曽
aめαπttИ
物。「彼 は貧乏に耐 えていた」13)Bu olay Hasan'1像滋 。「 この事件 はハサ ンを悲 しませた」
14)Hasan bu olaya滋 滋物。「ハサ ンはこの事件 に悲 しんだ」
01ken 1981b,65)(語幹
uz―
に受身 ―ul―
)12)の動詞 dayarlmak「耐 える・ よ りかか る」 はdayarrlak「支 える」の語 幹
daya―
に後 に述べる再帰の接辞 ―n―
がっいて自動詞化 した と形態的には解 釈で きるが、論理的には「貧乏が彼 を責 め、彼 はこれ に耐 えていた」 と解釈で きるであろう。 したがって主辞 0「彼」は少な くとも事態 に働 きか けを行 な う 行為項で はな く、事態 を受 け止 める立場 にある受動的な参加項 である。一方, 他動詞の文13)を苦 しみを受 けるハサ ンの視点 にたち受動態で表現 した14)の 論理的関係 は12)と同 じであると言わねばならない。すなわち 0と Hasanは述辞 に対 して受動項 を形成 し、方向 をあ らわす接 尾辞 ―(y)aのつ いてい る
paraslzl通
aと bu 01aya COは共 に事態が実現す る場面 を示 している と言 えよう。 これ も図式化 してお こう。
<<他動詞の態ゼロ>>
行為項 十 受動項 十 事態
(主
辞) (目的辞) (述辞)
A B'yi gёrdu
<<他
動 詞 の態 ア リ
>>受 動項
+場 面項
+事 態 (主 辞
) (場面辞
) (述辞 )
Hasan bu olaya izuldii
<<他
動 詞 の態 ア リ
>>受動項
十
事 態 (主 辞
) (述辞 )
B gё
l■ldti
<<自動詞 の態ゼロ>>
受動項 + 場面項 十 事態
(主
辞) (場面辞) (述辞)
O paraslzhtta dayanlyOrdu
すでに述べたように主辞 を述辞 との関係 によって定義す るな らば、述辞 の「第 一参加項」 となるが、主辞 自体 の もつ機能 は二つの相反す る機能か ら成 り立 っ ている。一つは述辞があ らわす事態 に論理的に「働 きかけを行 なう参加項」 を 提示する、すなわち行為項 を提示す る機能であ り、 もう一つは事態 を「受 け止
める受動的な参加項」 を提示す る機能である。
V.受動態 と再 帰 :相反 す る二 つの主辞機能 の相克
上 にあげた14)Hasan bu olaya uzuldu.が 「態」の表現なのか と疑われ る 方 もお られ ようが、そ こでは意味内容 による態の定義 は問題 にな らない。態ゼ ロ文 との対立 によって この発話が受動態だ と認定 したのである。次の例 も同様 に考 えられ る。
15)Ayse,Hasan'1磁ηο筵 「アイシェはハサ ンを苦 しめる」
16)Hasan,Ayse'ye動物の
0筵
「ハサ ンはアイシェにうんざ りす る」01ken ibid.,65)(語 幹
slk―
に受身‑11‑)
「態ア リ」の16)は「態ゼロ」の15)に対立す る。 ところが次の例 はどうだろ う。
17)Oradan bir kaplan hlzlyle denize α力t&.[Faik, 32]
「
(そ
の猫 は)そこか ら トラのように速 く海 に飛び込んだ」atmak「投 げる」は受身の接辞
‑1卜
をとりなが ら、実際 に「投 げられ る」の は「その猫 自身」である。つ まり主辞=目的辞の関係が成 り立ち、再帰が起 き ている。筆者 は中世 フランス語 において再帰表現 (se十述辞)が受動態の意味 になるのは、「事態に積極的に参加す ること」をあらわす主辞機能が弱 まったた めであると述べた(川
口1994,70‑77)。
ここでは逆の ことが言 えよう。形態 は受身であ りなが ら意味的に再帰 になるのは、「事態 に働 きか けること」
をあらわす主辞機能が強 まり、その結果 として「事態 を受 け止めること」 をあ らわす主辞機能のほうが弱 まったためである。14)と 16)において主辞 のハサ ンは、「悲 しませ る」と「苦 しめる」とい う事態に積極的に関与 して、 自分 自身 を悲 しませ、 また苦 しめる対象 にして しまった。 こうして意味的に再帰が生 じ
‑128‑
た と思われる。また付 けカロえてお くと、「態ゼロ」の文13)と 15)の主辞 Bu 01ay とAyseは、受動文14)と 16)の中では「事態 に働 きかける」主辞機能 を失い、
このため もはや行為者
(物
)で はな くな り、 これをtarafindanを用 いて表現す ることがで きな くなっている。18) *Hasan,bu olay taraflndan uzuldu.
19)*Hasan,Ayse tarafindan slklllyor.( 事 は容認不可能 を示す
)
このような現象 を トルコ人の文法家たち(Ergin 1982,206;Gencan 1979,340) は、「再帰が未発達の動詞では受動形 を用いて再帰 を意味す る」と記述 している が、 これは不正確 な解釈である。
確かに トル コ語の受動態 と再帰表現 は、 しばしば混同 して使用 され るように 見 える。 しか し注意深 く観察 してみるとそこには機能的な違いを読み取 ること がで きる。 トルコ語では受動態 と再帰が形態的に区月
Jで
きない ことがあ り、 これが両者の混同の根本的原因であることを指摘 してお く。Lloyd Swiftがその 混同の生 じる文脈 をまとめている
(Swift 1963,108‑109)。
動詞の語幹末音
母音 曖昧 さな し
子音 曖昧 さなし
再帰形
saklan―
(―n一
)「隠れ る」
sevin― (― in― )
「気に入る」
gё 血 ― (― un―
)「現れる」
bulun― (― un― )
「いる」
受動形 (11)
saklaml―
←nll― )
「隠される」
se宙
1‑ ←i卜
)「好かれる」
gё rtil― (― ul― )
「見られる」
bulurl― (― un―
)「見つけられる」
子音の‑1‑ 曖昧
Swiftの分類 は形態的な基準のみに関す るものであるが、動詞の語幹末が母音 の ときにも曖昧性が生 じることを指摘 し忘れている。 しか し真の混乱 はむしろ 文脈が多義であることか ら生 じているように思 える。た とえば主辞が物の とき は受動文、Cama,lr ylkanlyor.「下着が洗われる」
(語
幹末母音の後では再帰・受身ともに一
n― )、
いっぽう主辞が人のときは再帰文、Turgut ylkanlyor。
「 トゥ ルグ トは体を洗う」と解釈され′るとする学者(Gencan 1979,339)力れヽるが、主辞が人のときで も多義性は生 じうる。Cocuk ylkandl.は「子供が体を洗った」の か、それ とも「子供が洗われた」のか
(Wendt 1972,156)。
Swiftが上の表で語幹末母音のときに曖昧さがないとしたのは、一部の動詞 についてである。確かに語幹が母音で終るい くつかの動詞は、上のような曖昧 性 を避けるために二重の受身形を用いる。 これは多 くの文法書が指摘するとこ
ろである (Gencan 1979,340;Ozkaragёz 1986,78;Wendt 1972,156)。
能動
単純受身(―
n― )
二重受身(一nil―
又は一ml―
)bekle―
「期待する」beklen―
「期待 される」 beklenil― 「(同
左)」
de―
「言う」 den―「言われる」 deni卜
「
(同
左)」
iste―
「欲 しい」 isten― 「欲 しがられる」istenil―
「(同
左)」
ye―
「食べる」 yen―「食べられる」 yenil―
「
(同
左)」
ylka―
「洗 う」 ylkan― 「洗われる」 ylkaml― 「(同
左)」
曖昧性 の生 じる文脈 で規則 的 に この二重受身が使 用 され るのな ら、体 系的 な欠 如 はた しか に補 なわれ よう。 しか し受身 の形態が意味 的 に再帰 にな る例 は他 の 文脈 で も少 なか らず指摘 で きるので あ る。
語幹 al― に受身 ‑ln―
20)Mehnet(α
みπ
z″,ayrllarak):[Kosem,60]「メフメットは苛立ち、別れぎわに
:」
21)Bendenize gelince,uzmanlar kurulШ
la neden
αル%グ
を多π夕bilmiyorum.[Mizah,263]
「俺 なんか は、専 門家委員会 になぜ入 れ られたのか分 か らない」
語幹 boz― に受身 ― ul―
22)Tё
reみ
θz%ι
″%,duzen ba曽l koptu.[Kosem,38]「道徳は破壊され、規律が乱れた」
23)Ferhat Hoca da bttπ
J″
%.[Memed,98]「 フェルハ ト師 も苛立 った」
語幹 gё m― に受身 ― ul―
24)Bir ara at ayaklarinin sesleri kesildi,kurulunlar slkllmadl,kё y derin
‑130‑
bir sessizl増 e gσ %グ
′″ク.[Memed,78]「 しばらく馬の足音は止んだ、弾丸 も発射 されなかった、村は深い沈黙 の中に埋めこまれた」
25)Pecesiyle ytizunu ё
rtup konarlnln arasina gグ
πグt観.[Istanbul, 19]
「黒 いベールで顔 を覆い、両腕 の間 に
(顔
を)埋めた」20)23)25)の再帰 は明 らかであるが、24)は受身 なのか再帰なのか分か らな い。擬人化の用法以外では一般 に「村がみずか ら静 まることはない」であろう。
結局の ところ、 ここで決め手 になるのは、村
(kё
y)が「沈黙する」という事態 に「積極的に参カロしているのか」あるいは「沈黙状態 を受 けとる場」なのか を 判断するよ り他 ないのではなかろうか。前者であると解釈すれば再帰文、「村 は みずか ら沈黙 した」のであ り、後者の ように解釈す ると受動文、「村 は沈黙の中 に(自
然 によって?)埋め込 まれた」のである。多義性 は主辞 の事態への参加 の程度か ら発 していると思われ る。そ して この多義性 は第Ⅳ節 p。 128で述べた 主辞 の相反す る二つの機能 に由来す る.「
事態 に働 きか けを行 なう参加項」を示 す機能 と「事態 を受 け止める受動的な参加項」を示す機能 との間に葛藤が生 じ、そこか ら再帰 と受身の間の多義性が生 まれて くる。
枷ken 1981bの例 を使 いなが ら主辞 の事態への参加 について もう少 し詳 しく 説明 してみよう。受身形 を使 っていなが ら再帰的意味解釈が可能 になるとき、
能動態の主辞 は「事態への積極 的参加」の機能 を失 い、 もはや行為項 として tarafindanを用いることがで きな くなる と上で述べた (p.128‑129参照)。
26)Ayse taba曽1ん 〃多。「 アイシェは皿 を割 った」
27)Tabak(Ayse taraflndan)た 多効物。「皿 はアイシェによって割 られた」
28)Ayse,Hasan'1ん 滋 。「アイシェはハサンを怒らせた」
29)Hasan,Ayse'yeた 多πι″多。「ハサンはアイシェに腹をたてた」
26)の主辞 Ayseは 27)において もtarafindanによって示 され行為項 として 機台ヒす る。 ところが28)での主辞 Ayseが29)においては、述辞
klr―
が受身 の接辞 ‑11‑を 取 つてはいるものの、「ハサ ンがハサ ン自身で腹 をたてる」とい う風 に再帰が生 じた結果、「腹 をたてた」とい う事態 を受 け止 めるのはハサ ンで あ り、アイシェはもはや行為項ではな くなる。 これを トル コ語では方向を表す 接 尾辞 ―(y)eで表 す。つ ま りAyse'ye「ア イ シ ェ に」 は12)の例 文、Oparaslzl通
a daylmyordu.「 彼 は貧乏 に耐 えていた」におけるparaslzl通 a「
貧 乏 に」 と同 じ「事態が発生する場面」 を構成 していると考 えられる。枷kenも指摘するように、受動態 において事態 を受 け とる要素 を方向の接尾 辞 ―(y)eであ らわす動詞 には、上例 の klrmak「怒 らせ る」のような心的状 態 を表す動詞がた しかに多い。 しか しこうした主張 に対 しては彼女 自身があげ た例文か らで もた くさんの反証 をあげることがで きる。
30)Mustafa,Hasan tarafindan αι山 力ι
&。
31)Mustafa,Hasan'a α
J屁
フ%ル
.32)Hasan(Ayse tarafmdan)♂σ〃脱 . 33)Hasan,Ayse'ye」 σ〃π″″.
30)31)の例はともに「ムスタファはハサンにだまされた」という意味になる のだが、31)で はだまされたムスタファの過失が大きいようである
(01ken 1981b,
64)。
「自ら知 りつつだまされた」ようなもので、その意味は再帰に近い。32)
33)は 「ハサンはアイシェに見られた」を意味するが、33)で はアイシェに見られることをハサンはすでに意識しているという
(01ken ibid。 ,66)。
「自ら望ん で見られた」のであろう。これらの例のaldarlmak「だまされる」とgorurlmek「見られる」は心的状態をあらわす述辞ではない。
Mustafa Hasan'a(Hasan taraflndan),α
物′ θ 腸。
「ムスタファはハサンに勝たれた」
Hlrslz polise(polis tarafindan)ッ 山 滋
%滋。
「泥棒 は警察 に捕 まえ られた」 (語幹 yakala― に受身 ― n― )
34)の yutmak「呑み込む」は俗語的に用い られ「勝負に勝つ」こと意味する。
その受動態の「勝 たれ る」 と35)の「捕 まえられる」はふつ う行為項が必要 と される事態 を述べ るためであろうか、能ゼロ文での主辞「ハサ ン」 と「警察」
は 一(y)eのみならず、tarafindanに より表現することも可台旨であるという01ken
ibid。 , 63)。
ところで受動態 を統辞論的 に分析す るとき、「態の選択 により述辞 の もってい る格付与能力
(case assigning capacity)が
抑制 され る」 と主張する研究者がい る。格付与能力が抑制 され ることによ り、能動態の直接 目的辞が受動態の主辞‑132‑
へ と移行するのだ とい う
(Kornfilt 1991,91)。
この議論 もやは り、述辞 はもと もと主辞 と目的辞 をそなえた他動詞であるとい う前提か ら出発 しているように 思 える。そうした他動詞の受動態の現象だけを説明す るために生 まれて きた仮 説であ り、それは受動態 に ともなって生 じるもろもろの言語事実 を全 く無視 し た解釈であると言わねばな らない。36)O yllandan力ο″ηοκ 「彼 は蛇 を
̀陶
が る」37)Yllandan力ο″
%腸
κ 「蛇 は怖が られ る」(語
幹kork―
に受身 ―ul― )
38)0コetmen derse onda滋 力 励。「その教師は授業を十時に始めた」
39)Derse onda滋 ゞ″%滋。「授業は十時に始められた」
(語幹 ba,la―
に受身
― n―
)36)‑39)の
例 を眺 めてみ る と、受動態 にな って も述辞 の格 付与 能力 は抑制 され る どころか、まった く手 つかず の まま残 る こ とがわか る。分離 の接尾辞 ―
denを 支配するkorkmak「怖がる」と方向の接尾辞 ―(y)eを支配するba01amak「始 める」 は受動態 になって も同様 の接尾辞 を必要 とするのである(12)。
態 はどうして継子い じめをす るのだろう?主辞 と直接 目的辞 の格付与 に対 し ては、述辞 を圧迫 して確かにその格付与能力 を抑制する くせ に、なぜ他の目的 辞 では圧力 をかけないのであろうか?上にあげた例 は直接 目的辞 を支配 しない 動詞、つ まり他動詞ではない動詞の受動態であって、いわゆる例外 なのだ と主 張すればそれで事足 りるのか ?さ らに過激 な立場 を とる研究者 は、他動詞以外 の受動態 その ものを疑 うとい う(Komfilt 1991,91)。 理論的な整合性 を追及す るあまり、 これでは言語事実その ものの解釈 まで もが歪 め られはしないだろう か ?
Ⅵ 。自動詞 の受身 :主辞 の行 方
他動詞 における目的辞 は述辞 の「第二参加項」であ り、 トル コ語では「行為 項消去」され る可能性があると述べた
(第
Ⅲ節 p.123を参照)。
したが って「態 ゼロ(能
動態)」
か ら「態ア リ(受
動態)」
が派生す るという前提 は成 り立たな い。ところで他動詞 の 目的辞 が「行為項 消去」 され る と残 るの は主辞 と述辞 で あ
り、 これ は自動詞 と同 じ統辞機能 を有 す る発話 にな る。
6)の例
Ya da sana yakalar getiririm。
「それか捕 まえてお前んとこに持 ってきてやろ」、あるいは2)の例(...)kilitledi actl(...)「 (Memedは)(Ⅲ
…)
鍵をかけては開け(.…
)」
を思い浮かべるとよい。 ここで少 し意地悪 く考えて、「捕 まえる
(yakalaコ nak)」
「持って くる(getinnek)」
「鍵をかける(kilitlemek)」
「開ける
(acmak)」
は、たとえ目的辞が消去されても意味的に「他動性?」
を 保持 してお り、潜在的な目的辞が予想される、などと主張 しても議論は平行線をたどるばか りである。
述辞の意味に照 らして、発話の中に現実には存在 しない目的辞 を文脈の力で 補った としても、述辞 と目的辞の間に統辞関係が存在 していると証明したこと にはならない。「潜在的な目的辞」という概念は、思 うに述辞のもつであろう結 合可能性 と両立可能性の一覧表を議論するときだけに有効な考え方であろう
(13)。
それはいわば、述辞の統辞特性 を網羅する作業である。発話において観察され る統辞関係は、述辞のそうした結合可能性が実際に実現 した一つの例であるは ずである。その統辞関係の中で潜在性 を議論するのは本末転倒ではないだろう か。
ところで目的辞の消去 された他動詞が受身 になると、受動項 はもともとなか ったのだか ら受動態の主辞 は存在せず、意味的には非人称受身 になるに違いな い。 この ような事態 を トル コ語では二重受身の形式を使 って表現する
(再
帰 と の区別のために用い られ る二重の受身 とは異 なる点 に注意 されたい、第Vtt p.130参照
)。
出現頻度の低い発話であるためか資料体の中に例がなかった。Bu satoda bο
哲%腸
π%κ
「 この城では息がつ まらせ られ る (=息がつ ま りそうになる)」 (Ozkaragё
z 1986,77)(語幹bo首
― に二つの受身 ―ul―
と 一
un― )
Harpte υ%%腸
%%筵
「戦争では打たれ死ぬこともある」(ibid.,77) (語
幹vllr―
に二つの受身 ―ul―
と 一un―
)Komfiltは 40)の例 はこの ままでは容認不可能であ り、 これはbomak「窒 息 させ る」 とい う他動詞ではな く、b罐Ⅲlmak「窒息する」 とい う再帰化 した 自動詞の受身 と考 えることで容認可能 になると述べている(Korrilt 1991,89)。
ところが41)についてはコメン トしていない。これは問題 ない ということであ ろうか?二重受身のメカニズムは次のように図式化で きるであろう。
主辞1目的辞 場面辞 述辞 態ゼロ A B'yi harpte vum.
態l B harpte vurulur.
態2 Harpte vurulunur.
41)に対応す る「能ゼロ」の文 は、た とえばAB'yi harpte vurur.「AがB
を戦争で打ち殺す」となろう。これをBの視点 にたって態を選択すると、B harpte
(A taraflndan)vurulur。
「Bは戦争で (Aによって)打ち殺 される」になる。そ こでさらに もういち ど態 を選択す ると41)の発話が生み出され る。こうした 一連の操作が可能 な背景 には二つの重要な言語事実があると考 えられ る。
すなわち トル コ語では他動詞 も自動詞 も「行為項消去」が可能であることが まず一つである。 また もう一つは、他動詞の受動態の主辞 と自動詞の能動態の 主辞が論理的に共通 していることである。第二の点 により「態
1」
の主辞Bと 自動詞の主辞が論理的に同一視 され る。つ ま り「態1」
の文 は受動項の主辞Bをもつ自動詞の文 とみなされ る。 さらに第一の事実 によって、 自動詞 とみなさ れた「態
1」
の主辞Bが行為項消去 され、結果 として非人称受身の「態2」
の 文 に移行 す る。非人称受身 にあ らわれ る述辞 では超越時制の接辞 (40)と 41)の 一
ur― )だ
け が用い られ る(Ozkaragё Z 1986,77)。
これは統辞的な制約ではな く、意味的な 制約であろう。非人称 の発話が特定の時 に拘束 されない普遍的事態 に言及する ため超越時制が用い られ るのだろう。発話の論理的関係か らみて他動詞受動態の主辞 と自動詞能動態の主辞 に共通 性がみ られ ることはすでに何度かみた通 りである
(第
Ⅳ節 p.127参照)。
12)O paraslzll曽
a″ν%寧Иル.「彼 は貧乏 に耐 えていた」35)Hlrslz poliSe(polis tarafindan)"α滋%ル.
「泥棒 は警察 に捕 まえられた」
12)と 35)の主辞 0と Hlrslzは い ず れ も受 動 項 で あ る。 また「貧 乏 に