飛鳥白鳳芸術精神史研究序説
その他のタイトル Introduction to a Study of the Artistic Spirit in the Asuka and Hakuho Periods
著者 横田 健一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 4
ページ 99‑119
発行年 1971‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16110
飛鳥時代は日本の国にはじめて芸術らしい芸術の生れた時代であ
る︒それ以前の綱文︑弥生︑古墳各時代にも芸術といえなくはない
ものはあ
った
︒
しかし︑それらは原始的で洗練されず︑かつ実用品
が主であ
って
︑
が多い︒大陸文化の模倣ないしは帰化外国人の作品も多いかも知れ
ぬが
︑
工芸品というべきものである︒
日本芸術史はここから始まり︑白鳳時代より天乎時代に開花
した︒私が歴史研究を一生の仕事とするに至った原因には︑幾つか
の筋を考えることができるが︑その中でも︑日本古代史を特に志す
にいたった原因として︑飛鳥︑白鳳︑天平時代の仏教芸術に対する
惑動が非常に強力であったことはみ``つから認めている︒旧制高校の
薬師寺
その建築 ︑唐招提一年の時代に法隆寺︑法起寺︑
寺︑東大寺三月堂︑同戒壇院︑新薬師寺等をおとずれて︑
法輪
寺︑
中宮
寺︑
や仏像群をはじめてみたときの強烈な感動︑
させたのであった︒このように崇高な︑ また形も小形のものジョックが私を夢中に
理想的な︑神秘的な︑可憐
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵横田︶ 当時の私には︑
九九
Jれらの素晴らしい美を造形し得た人々の精神 Jって来るのを禁ずることができなかった︒ な︑優美な︑あるいは堂々雄偉な︑そして異国的な仏像や仏寺を造り得た人びとは︑どのような心の持ち主であったのか︒なんのために︑どのようにして︑これらの仏像や仏寺を造ることができたのであ
るか
︒
しかも︑飛鳥時代とそれ以後︑時代が推し移るにしたがっ
て︑
なぜ
︑
その表現様式︑方法も︑その美の感覚︑情調も︑これほ
どまでに相違して来るのであるか︒そのような推移︑変遷をなさし
めるものは
一体
な
んであるのか︑などの疑問が︑
は︑全く崇高な仏への信
仰に
満たされているかのように思えた︒そ
のような完璧な心と技術との全き一致の上にのみ︑こうした作品の
数多くが出現して来たように思えた︒万葉集の多くの傑作とこれら
の美術作品とは相まって︑未熟な私には古代世界を憧れさせた︒
しかし︑次第に私自身が成長し︑歴史研究も進むに従って︑こう
した古代の理想化があたっていないことを思い知らされた︒飛鳥時
代から白鳳時代を経て天平時代に︑これらの仏寺塔や仏像の造顕を
飛 鳥 白 鳳 芸 術 精 神 史 研 究 序 説
横 田
つぎつぎと沸きぉ
健
り︑精神史的研究方法は邪道としてしりぞける立場が有力︑優勢で
あった︒時代精神のようなものが超越的に︑人間の視覚構造を規定
するようなことはあり得ない︒作家である人間の視覚は︑ものを視 美術史学界の主流はあくまでも様式史的研究を追究する立場であ
祖父が 発願した貴族たちの世界は︑凄惨なまでに血みどろな権力闘争に彩ら
れて
いた
︒
やはり︑古代も醜い人間の歴史の一こまであった︒
そ
して民衆は貴族のこうした造寺︑造仏の莫大な経費の調達や建立の
激
しい
労働に悲惨な生活を嘗めていたこともわかるようになった︒
また︑その芸術の美も大陸の六朝から隋・唐時代に︑長安や洛陽
に伝来したものであることを知るようになった︒
サン
朝︒
ヘル
ジャ
︑
日本人の独創とい
ロー
マ︑
サ
その他中央アジアや南海地方の各地の文化の影響
にいたるまで︑多くの要素が流入し︑渾然と一体となっていること
を知った︒したがって︑飛烏︑白鳳︑天平と時代様式の流れと︑そ
こうしたことは︑私に研究への意欲を一面では掻きたてるるとも
に︑反面︑茫洋たる世界史の大海の中に︑私の目ざす芸術の様式の
精神史研究が溶解し去
って
︑とらえどころのない不確実さを歎かせ
るもととなった︒ とを区別し得るであろうか︒ 史の変遷といえるかどうか︑疑わしくなった︒ の表出する美の精神の変遷をたどることは︑日本における精神の歴 朝︑隋や唐のものにも︑中国以外にインド︑ギリジャ︑
るこ
とを
︑
その伝統的環境の中で学び︑形成されてゆく︒それはあ
くまでも︑物の形や色の一定の様式を造形形式を通じてのみ形成さ
よって規定されることを説くものもいたが︑学界の大部分からはあ
まり問題とされなかったようであった︒
意︑発願にもとづき︑その資力によって︑民衆を搾取して造られた
貴族芸術と仮に規定
したとして
も ︑
た︒それらの建築︑彫刻︑絵画︑
族の一部はいたかもしれぬが︑施工し︑ しかし古代芸術を貴族の発
工芸等を実際に設計したものに貴
ャリガソナやチョウナやノ
ミや筆をふるって製作したのは多くの民衆であったとすれば︑それ
は民衆の美意識を表現するもので貴族芸術とはいえないのではない
かと︒果して古代の造形芸術において貴族の美意識と民衆の美意識
いやそればかりではない︒法隆寺の四十八体仏の多くや百済観音
や広隆寺の二体の半珈思惟像のごときをはじめとして︑少からぬ仏
像が朝鮮から渡来したとの伝説がある︒実際︑朝鮮にあるものと酷
似したものが少くない︒また作者も朝鮮や中国から渡来した芸術家
も少くない︒有名な止利仏師の如きは中国の人であることは︑その
敏達記是歳条︑用明紀二年四月条にみえる司馬達等で︑
﹃扶桑略記﹄欽明十三年条に次のようにしるす︒但し後の史料で信 つぎのような疑問が湧いてき
える
もの
が︑
どれだけあるのか疑わしく思えて来た︒中国の六 をはじめ︑大陸各地で形成されたそれがいろいろなルートで日本 部構造としての美意識も︑下部構造である社会経済構造︑階級性に 唯物史硯に立つ美術史家の中には時代精神のみならず︑人間の上 れると考える︒はたしてそうであるか︒
10 0
飛凡
白鳳
芸術
神粕
史研
究序
説︵
横田
︶
を見ればいえることではあるまいか︒ るから︑
仏像自体の様式からいえは︑日本のものも朝鮮のものも︑飛烏時 代には中国の六朝様式ついでは隋︑初唐の様式をうけているのであ
日本や朝鮮︵高句腕︑百済
︑新薙のいずれにせよ︶で作られた
いと
っても︑どの程度︑
と︑イタリア︑ ぬ ︒ 憑性には少し問題がある︒
﹁日吉山薬恒法師法華瞼記云︑延麿寺偕祁谷記云
︑第廿七代搬肱
く
ら り た っ
と大唐漢人案部村主司馬逹止︑天皇即位壬寅︑此春二月入朝︑即
結 章 棠 於 大 和 國 高
市郡坂田原玉含置本辱み岬依酪拝︒怨し世皆云︑
是大塵評之︑
縁起
出﹂
﹃禅
考記﹄は九世紀末を潮らぬが︑奈良時代以前に大寺であった
坂田寺の縁起かもしれず
︑ 伝 来
の正しい費重な史料である可能性
があると︑岩波古典文学大系の校注者はいう︒
から来たものかもしれぬか︑中国から渡来したものもないとはいえ
ヽイツ卜 日本や朝鮮固有の様式に︑日本や朝鮮固有
の美意識が表出されているが疑わしいといわねはならない︒
ョーロッパのルネッサシス後期からゞハロック芸術あたりになる
フラソドル等の地方差というものが︑相当
程度浪度に認められるが︑それにしても一時代様式が︑国境を越え
て拡散する時︑国や民族の固有の様式や美意識を明瞭にとり出すこ
とが︑古く潮り︑かつ世界的な帝国がうちたてられた時代ほど困難
であることは︑ギリツャ時代やロ
ーマ
時代の地中海周辺地域の美術 沈人は大部分百済
10
朝︑隋︑唐から朝鮮半島の三国を日本とが共通︑
すなわち飛鳥︑
白鳳︑先進国中国の文化の
光被をうけた地方は︑中国の六朝︑隋唐の芸術様式と美意識に追随
し︑それを受容し︑模倣して製作したのであって︑これが日本独自
とか︑朝鮮固有とかいえる要素は︑多少あっても︑強くはないよう
であ
る︒
され
ば︑
その多少の独自性とは何かということを研究することが
大切であることはいうまでもないが︑時代様式と美意識について
は︑
東アジア的世界が一体として考えられねばなるまい︒およそ漢 の武帝の楽浪遠征以後︑そうした中国文化を基本とする東アジア的 世界の一元化的世界史の展開は徐々にすすみ︑ほぼ七世紀から八世
紀に至って絶頂に達したといえよう︒ここには日本古代の芸術様式
とそれの表現する美意識の精神史的研究をするに
して
も︑多分に六
の文化を含むという前提をもって論じていることを認めていただき
こ︑
︒
tし
一体のもの
として
推古十一年十二月はじめて冠位十二階制を制定した︒並ひに当色
の施をもご
l縫うたとあり︑それぞれの色はよく分らぬが︑色彩に
よって区別したことが察せられる︒それは︑同十六年四月条に隋客 を迎えたか﹁是時︑皇子︑諸王︑諸臣悉以金髯華著頭︑亦衣皆用錦
紫縮織内五色綾羅﹂とあることから紫と五色を用
たい
こと
が察せら 天平時代において
ィックに至っても繁碑な細部を生じたが︑基本の形式は明晰なツソ シンメトリカルな明晰な美術を好んだ︒
ロ マ
ネスクも
しか
り︑
・
コテ
感覚への強い憧憬がある︒ れ
る︒
また︑その後の大化三年︑大化五年︑天智三年の冠位︑天武 十四年
︑
持統四年に制定された位階等の冠や服の色や形や作り方な どが︑各位階によって異ることが明らかだからである︒
このことは推古︑飛烏時代に至って貴族社会において冠位による 秩序`︑つけという秩序︑礼節の整然たる美の体系を設けたということ
である︒むろん︑
それまでの貴族社会の服装になんらか尊卑による 秩序`︑つけがあったらしいことは︑古墳出土の天冠や耳飾︑珠玉
︑金
銅の履︑帯金具などから考えられる︒
しかし︑整
然たる秩序体系は 推古十二年正月に︑この冠位制が施行された年の四月に憲法十七
条が発布された︒憲法といっても簡単なもので︑貴族たる官吏の道 徳であり服務規律のごときものであるが︑
ここに秩序体系としての 法式︑礼儀の基本が定められた︒
推古三十一年七月に大唐に遣わされていた学問者たちが帰朝して
9ョウ
奏聞 した 言葉に﹁其大唐国者法式備定之珍国
也︑常須レ達﹂といっ
ているが︑法式備定が珍しかったのである︒法式の整然とした秩序 美意識には
︑
現在の抽象芸術やとくにノソ
・フ
イ ギュラティッフ
のように︑無
秩序の美を喜ぶ考え方もあるが︑これは非常に新
しい
傾向である︒西欧でもギリシャ︑
ローマでもニジプトでも整然たる
冠位十二階制が第一歩ではあるまいか︒
秩序の美を理解し︑建設しはじめたといってよい︒ くっていたわけであるが︒ メトリイであり︑
ルネッサンスにいたってはいうまでもない︒東ア ジアでも殷周の青銅器などはシンメトリィが基本である︒礼は周
礼
をはじめとして官制は左右相称︑整然たるものである︒日本人も伊 勢神宮の社殿建築様式が太古のものかどうか
しらぬが︑天武朝には じめられたとすると七世紀には︑ああした整然と単純明晰な家をつ
四世紀代の家屋文鏡の家や︑各地埴輪 の家でみると伊勢神宮の様式のもっと簡単なものをつくっていたか ら︑左右相称の整然性をしらないわけではなかったと思うが︑推古 時代にいたり︑法制︑官制︑服制や芸術等あらゆる方面において︑
そして冠や服のばあい︑それを着用して行為する人間たちの行動 の美︑すなわち儀式典礼その他︑礼をもって節度ある行動をする美 というものを隋唐に学んだと思う︒いわゆる有職故実という貴族の 行動美の演出︑演技の源流がある︒
むろんその前段階としての古墳時代社会の貴族にもそれが皆無と は思わない︒埴輪の貴人︑武人︑女子や儀器埴輪等にそれを窺える が︑未だ原始的であった︒その家屋や服装の
色彩のごときは不明で
あるが︑家屋をとっても伊勢神宮や出雲大社の社殿が白木造である のに対して︑仏寺の建築が今みる法隆寺をはじめとして︑朱柱︑白 壁︑青甍の外観︑内部に極彩色の天蓋やキラキラ見る金銅の幡
︑鍍
金された仏像や極彩色の壁画︵法隆寺金堂や玉虫厨子︶あるときに は格天井の極彩色の宝相華などが描かれたことを思えば︑服装も六
10
いう
もの
が︑
世紀から七世紀になって一段と多様多彩になってきたことを思うべ きであろう︒推古時代の服装として中宮寺蔵の天寿図絋帳曼荼羅の
•• ︑
r)カ
人物像をあげるのは︑どの程度の妥当性があるか︑多少問題もあろ
ほぼ
この曼荼羅
は七世紀前葉のものとして
もよいであろう︒
それは費族の服飾のみではない︒僧侶の法衣
︑
袈裟︑珠数等︑今 日の僧侶の金悩のそれを連想してはならないが︑多様な法衣袈裟を
まとっ
た僧侶が︑異国的な香を蕉じ練行し漢訳梵音の読経をすると
飛烏時代の仏教建築や仏像の前に演ぜられ
︑ そ
れら
が一体となった総合芸術であった
ことは︑注意す
べき であ る︒ 従来の飛烏
︑
白鳳︑天平時代の芸術の研究においては
︑
建築
︑絵
画︑仏像が個々バラ
. . ハラに切りはなされて研究され︑
建築︑仏像は仏像というように個々のジャソルの様式美が別々に研 究される傾向があった︒私はこれを非常に不満とする︒むろん法隆 寺なら法隆寺の金堂や諧堂の前庭で︵当時ぱ内部で法会や礼拝をやらぬ︶
どういう服装の便か
︑
どういう形式で︑どういう法会を行なったか を復原することは至難である
︒
しかし︑現代のいわゆる会湯芸術は
建築と無関係に︑ それら建築は
また他の調度
や庭
園や︑ここを背尿や舞台に行為 する人々の服装とは無凋係につくられた
芸術である︒これをみなれ
た芸術史家が
︑
一点の絵画だけを︑一点の彫刻だけを抽出してこの 美的様式や系諮を論ずるのは非常な誤りである︒
仏教寺院は門︑塔︑金堂
︑講堂︑僧房︑鼓楼︑鐘楼︑廻廊等の総
飛几
白凪 芸術 精神 史研 究序 説︵ 横田
︶
合建築の体系的秩序を場として︑僧侶の法会が行動的に演出される のであり︑さらにいえば
︑金堂︑講棠︑
塔などの内部の仏像群や壁 画群においても︑中央にどの仏像があり︑その周囲にどのような仏 像や菩薩像や天部が囲続するかというようなことは俊軌である程度 定まっていて︑それらの姿勢︑高さ︑大きさ︑配色などの
︑・
ハラ
ソス
ゃッソメトリ
イが
︑
設計︑計画されているのである︒それが中世の 禅寺などでも建院造の母屋をはじめ
︑他
の副
家屋
やあ
`つ
ま屋
等の
建 金閣寺︵鹿苑寺︶や銀閣寺︵慈照寺︶など一っ二つをとっ
てみて
むろん現在の法隆寺や東大寺三月堂︱つなどを
とってみても︑古
代のままではなく︑後世の修理や附加物や客仏などが多く︑復原か 研究が困難で
︑
ないものねだりの惑があるが︑基本的な研究態度と なお仏教以前の神社神道においても神殿の建築やその前における 神職群の服装︑神楽等の音楽︑舞踊︑祝詞や託宣などを伴った総合 的な行為秩序体系として理解せねばならぬ︒
しか
も本質的に神社は 森林の森厳幽暗の中にあり
︑祭
は夜間の暗
中に
拇火をたいて行なわ れる暗黒の神秘的な寡囲気を基調とする︒明るい昼間に原色の彩色 が施された寺院と異り
︑かつ仏
像仏画などのような造形芸術を欠
く︒それは日本の神々が人に憑依顕現するのをもって本質とするか し
ては
︑
総合的にみねばならぬ︒
10
三 も明らかであろう︒ ま ︑, " ' に至るまでが︑
一種の総合的体系として把握されねばならないこと
いう視覚︑
嗅覚
︑
聴覚をともなった多彩なニキゾチックな行動美と
築群と庭園の配置設計家屋内の襖絵や襴間の彫刻から
︑
室内の調度
古代芸術はむろん宗教的崇拝︑礼拝の対象である︒ 多くのこの時代の寺院が︑難波京︑大津京︑藤原京︑平城京等にあ
り︑多くの僧侶を擁しているのをみても分るように都市的な性格が
浪厚であ
り︑人間の造建の意志が他人に対し積極的に訴え︑押しせ
まるものである︒人の視覚に挑戦するものである︒梵唄は人の耳に
エキゾチックに強く響き︑蒸香はニキゾチックな香で人を挑発する
ものであった︒
古代芸術を現代芸術をもって考えてはならない︑もう︱つの視点
は︑実用と効果の問題である︒近現代の芸術は美的鑑賞のための美
の創造である︒そこには実用の意識はない︒むろん工芸品のような
実用品の美的デザイソは別である︒
ところが古代芸術は美的鑑賞のために創作せられたのではない︒
現在芸術作品の鑑賞︑理解は芸術家個人の視覚創造のみに基づく
ものとして考えられる傾向がある︒それは一面において正しい︒し 飛烏︑白鳳︑天平の仏教寺院は︑あきらかに人工的である︒また いものであった︒ ら
であ
る︒
また磐座︑磐境の如き巨岩や巨木のごときものに宿ると
されているのである︒そこには仏教のごとく明るい場所での可視的
な造形芸術︑総合芸術としてみられる要素はより少かった︒これは
より自然に近い︑自然の山や森ととけ合っている農村的な性格が漉
る︒埴輪のばあいにもみられるし︑中国の雲岡や龍門等六朝の仏像
にもみられる︒わが飛鳥仏のばあいでも法隆寺金堂本蒋薬師像や同
釈迦三尊像︑夢殿観音像や中宮寺の半枷思惟像など枚挙に暇がな
なぜ笑いを顔に浮べるか︒私には定説である技術の拙いというだ
けでは説明がつかぬように思われる︒埴輪はいざしらず︑六朝仏や
飛鳥仏の像は技術的にかなり高度なものであると思う︒作家に笑い
顔に表現しようという意欲があったものと思うのである︒飛鳥仏の
ばあいは︑すでに大陸の六朝時代に定型的模範かあり︑それを真似
︑ ︒
し ったような眼つきゃ口もとや顔になって
しまうのだといわれてい 現しようとするとき︑特に笑い顔を表出するつもりはなくても︑笑
かし
芸術
家は
︑
その作品の置かれる場所︑眺められる位置︑用
いら
れる場合︵儀式等:・:︶それを作る人と見る人︑これを拝み信仰する
人への心理的効果を考えて作ることが多い︒その心理的効果という
識︑潜在的意識︑いわば構造的無意識につき動かされて創造を行な
う︒個人の意識も伝統的な歴史的︑社会的環境の中で形成されるの
であるから︑そこに作家の棉造的視覚を形成する過程において︑日
本的な伝統のみでなく︑アジア全体の伝統が︑その表現創造の中に
担われているのである︒例えば︑飛鳥彫刻芸術の特色の
一っ で
ある
古拙の笑︵アルカイック・スマイル︶について考えてみよう︒
古拙の笑いとは未だ技術の幼稚な段階においては︑人の面貌を表
ものも︑それは明らかに意識されるものとは限らず︑無意識の意
10
四
飛烏白鳳芸術精神史研究序説︵横田︶ たと考えられるから︑大陸R六朝時代に︑
の仏に対する観念の中に仏が笑いをうかべた像を理想的なイメージ
としてもっていたと思う︒しかし日本の作家がそれを忠実に模造す
るだけでなく︑直観的に仏のそうした理念像を理解し︑表出し得る
だけの思惟と技術を持たねばこうした飛鳥時代のすぐれた彫像を製
作し得るとは思われない︒なお︑ここで断っておかねばならぬが︑
飛鳥仏像彫刻のすべてが大陸からの輸入品であるならば︑こうした
ことは問題にならない︒しかし私は全部が輸入品ではなく︑相当数
が日本国内で日本の作家によって制作されたと考えているからであ
る︒これは明治維新以後のわが国における近代西洋風の油絵や彫刻
をもし︑作者の名前が不明であるとすれば︑
あると外国人であるとを問わず︑
およそ笑は思いがけない形相︑イメ
ージが結ばれるときに生ず
西洋人の作品であると疑われるかもしれない︒ その定型を創造した作家
おそ
らく
︑
である︒顔の筋肉のゆるみと口の開放は心のゆるみ︑ その多数が
る︒その思いがけなさには俗世間における非日常性もあるが︑非日
常的な性格が超俗性︑宗教性︑神秘性をもつ
こと
があ
る︒
日本人で
ロを開いて笑う哄笑(laugh)~
しろ
︑
頬の筋肉や口もと眼もとをゆるめて
頬笑む微笑
(s mi le )
に
しろ
︑
それは多くの場合︑他の人間に親しみを感じさせるものであ
る︒とくに微笑はそうであって︑人の心を暖くさせ︑解かせるもの
心の開放を象
徴している︒もっとも哄笑の原因には驚き︑
り︑他人にはこの膀きと意外さ︑とくに軽蔑の表情がときに怒りを 意外なおかしさがあ
10五 者にはとりつくことができない一線が画されている︒ みを感ずるとともに︑その気高さの前 J
れに
対し
て︑
モナリザの場合には︑気品高い女性の微笑に親し 招くことがある︒また︑哄笑には化物のそれのような人を脅かす無気味さ︑底の知れない神秘
性 ︑
超越性の要素をもつ︒
微笑においても神秘性︑超越性を表現した例と
して
はレオナルド
・ダ・ヴィソチのモナリザがある︒化物の哄笑の神秘性︑無気味さ
というものは︑観者である人間にとって︑何を化物が笑うのか哄笑
の理由か分らず︑理解を絶した︑
生ず
る︒
不意をついたものであるところに
笑の理由がやはり分らず︑
に︑人は己の卑小さを直観的に痛感させられる︒このように口を開
かぬ微笑には︑ロを開いた笑のように心の開放の通路がなく︑理解
を超絶している点に不可解がある一方︑ゆるんだ眼や頬の筋肉に︑
超絶した相手の開かれた心への通路を僅かに惑じ︑己の心を解き弛
ませられる︒そうした二元性が神秘な微笑にはある︒問題となるの
は︑飛烏仏のばあい︑仰月形の口である︒仰月形とは﹁へ﹂の字は も
まけたッカツメらしい︑怒りの口の形の逆であり︑正反対である︒
ロの両端があがりその点にゆるみがある︒しかし閉されていて︑観
しかし︑元来︑仏の救いには︑仏の方から手をさしのべる慈悲の
救済の面があると同時に︑その悟りの世界はあくまでも世間を超越
隔絶したものであり︑むなしくはかない人生をきびしく越えた別世
界で
ある
︒
飛烏時代の信仰でいえば︑聖徳太子が﹁世間虚仮
︑唯仏是真﹂と
いった(r
上宮
型徳 法王 帝説
﹄︶ ことばが示すように︑仏教的無常観
︑
人生のはかなさ︑現世を空虚な仮のものとする仏教思想が︑当時の 日本人に大きなジョックを与えた︒それと同時に仏という超越者の みが真の実在であると信じた︒その仏の示す悟道法悦の世界を聖徳
一般には理性的に
理解できなくても︑直観的に仏像のごとき宗教芸術を通じて︑神秘 的な超越者の慈悲として仰ぎ信じたことは︑考えられる︒
おそらく飛烏時代人は︑今までみたこともない堂々たる華罷な寺
院に︑
金色まばゆく鍍金されたプロどス巨像の神秘な︑しかしほほ えみをもつ仏像に一抹の親しみと慈悲を惑じ
︑その前で行なわれる
ところの眼をうばう行事が説く﹁世間虚仮︑唯物是真﹂の︒ハラドッ クスを理性的に分別することなく
︑前にひれふしたのである︒
私は巨像といったが︑この点は
︑
仏教伝来以前に︑人間の形姿を
とっ
た法興寺の飛鳥大仏のごときものは見られなかったのであり︑
こうした巨大性という美的理念の与えた衝撃は注意せねばならぬ︒
同時にプロどス像のもつ硬質な鋭い線のもつ立体的な強さ︑迫力も
考慮に入れなければならぬ︒
飛鳥彫刻から
︑
その時代の精神的構造をどれだけ汲み出すことが
でき
るか
︒ はたして︑飛鳥時代の芸術作品によって飛鳥時代人の世
四
太子のような一部のすぐれた知識人は別として
ま継受してきたものであることが多い
︒ 界観を知ることができるか︒
およそ芸術作品を史料として︑その時代の美的理念︑さらにその
美的理念の特殊性を規定する︑諸要素を考察せねば
ならぬばあい
に︑その前に予備的な諸条件について︑考える必要がある︒
飛烏彫刻の様式が表現す
る美の理念を直ちに飛鳥時代人全体のも のと考え得ないことはいうまでもない︒同時代の一般庶民階級︑と
くに地方遠限の地方の人民は︑飛鳥芸術の代表作品である法隆寺や
法起寺︑
法輪寺︑四天王寺の存在はおろか仏教の存在すらも知らな
︐
いものが少くなかったろう︒都に近い地方民にもそうしたものがあったに違いない︒いわわんやそうした造形芸術の製作に関与したも
また飛鳥芸術の模範︑
母型
と
なっ
のは非常に少かったに違いない︒
た大陸の文化については︑なおさら︑何らの知識ももたなかったで
あろう︒もちろん費族階級でさえも
︑大陸文化の実態︑さらに具体
的な芸術様式とその芸術の根本的理念について︑どれだけ理解
し得
ていたかについては疑問がある︒
およそ芸術様式の表
出 ︑ に︑その様式が前代以来の伝統的諸様式に従い︑あるいはこれに対 抗して形成されるものであることはいうまでもない︒新
しく他国︑
他地方の様式が︑伝統的様式の
上に摂取されるばあい︑
れる国にとっては新様式でも︑
外国や他地方では︑ それが行なわれていた︑
それがその地の伝統的様式であって
︑伝統のま
形成を規定する諸要素を考えるばあい
10六
その
と
り入
そのもとの
る︒しかも現代のようにコスモボリクソで︑世界的に隔壁の乏しい いては︑伝統的様式の打破の試みが︑
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵横田︶ ゆくといえる︒ いずれにしても両者 その逆 もちろん芸術様式に発展が絶えず行なわれることはいうまでもない︒その発展の仕方は︑伝統かそのまま墨守されるのではなく︑必ずそこに人々によって程度の美こそあれ︑芸術家の天分︑創造力に
よって︑古い様式に対して︑自己の反撥を感ずる点を改め︑自己に
より快適と信じる︑自己のよりすぐれたものであると思う様式に改
める改革が行なわれる︒そこに芸術様式の更新がある︒その際︑外
来様式や伝統様式に対して︑自己がよりすぐれたと信じ︑
値基準はどうして得られるか︒
力を
感じ
て︑
より快適
と思う点の基準はどうして得られるか︒または反撥するばあいの価
つまり新旧の美的価値観の闘争が︑
様式の更改に際して行なわれるが︑新しい価値観の基準は何である
か︒自国の伝統様式に対して反撥するばあいに︑外来様式により魅
それを模倣し︑反伝統となることもあろう︒
に︑自国の伝統様式になじんで外来様式に反撥することもあろう︒
後者は多くの場合︑保守的ナショナリズムの立場とされる︒前者は
革新的であり︑進歩的とされることが多い︑
が︑取捨選択の結果︑新しい様式に渾然と
して
融合して形成されて
しかし現代作家のように︑自由な創意が尊重される時代に︑こと
さらに自己の創意を発揮しようとして︑新奇な様式を競う時代にお
しき りに
︑ 性急に行なわれ︑
多種多様な様式があらわれる︒そこに作家の強烈な個性があらわれ 飛鳥彫刻の様式が含む価値観を論ずるばあい︑その伝統的様式としては︑朝鮮三国時代のそれにさかのぼり︑さらに中国六朝︑とくに北朝のそれにさかのぼる︒
六朝文化︑六朝芸術様式が︑割合い簡単に朝鮮へ︑さらに日本に
流伝し得たこ
とは
︑
10七 そうした様式のもつ価値観を理解し︑表現し得
るだけの技術的な基盤があった︑それと同時に︑高価な仏寺や仏像 疑問と探究意欲をそそってやまないのである︒
しか
も︑
われわれが芸術史︑とくに彫刻史を研究してみると︑停
滞的な古代の割合いには︑飛鳥︑白鳳︑天平︑貞観と約二︑三世紀
の短い時間にやはり︑次ぎつぎと新しい様式が生れてきて︑それら
の時代様式の差︑その様式の表現する時代精神の差はかなり大きい
ものがある︒この差を生ぜしめたものは何かの問題は︑ 要素は少いようにみえる︒ ネリズム︑創意の不足︑沈滞を叫ぶことをやめない︒ 時代にあってすら︑各国の作家の新奇にみえる作品︑作風の中にやはり︑時代︑国家︑民族︑階級等の特性があらわれていることを否
むわけにはゆかない︒そして批評家たちは︑伝統にとらわれたマン
まして古代のごとく伝統墨守の意識が強く︑新奇な創意が排撃さ
れるような時代に︑仏教の儀軌などの定型を約束された表現方法に
よって様式が厳密に規定されているばあいには︑作家の創意個性が
あらわれ難い︒そこに表現されるものには︑停滞的な過去の伝統的
精神が漉厚であり︑問題にしている時代の精神の新所産と考え得る
われわれの
り年代を経た養老︑神亀の
頃とされているのである︒ を造り得るだ
けの
経済的な基盤があった︒とくに︑仏教文化を受容
し ︑ その受客に対して反対を
しな
い︑
寛容さ︑
多元的価値を認める
社会が存在
した
︒喜んで禎極
的に新文化をとり入れることが出来る
の空
気かあった︒むるんその空気
とは近代の自由なそれとは異り︑
古代社会の通有
の強い制限のある
もの
ではあっ
たが︒自由よりもむ
しろ
︑
六朝︑朝鮮三国︑日本の六
ー七世紀の社会構造︑と
くに文化
居り︑
五
荷担者である毀族社会の樅造や文化のレヴェルが︑かなりよく似て
ほぼ近い水準にあったことが
︑
考え得るのである︒ただ
し ︑ そうした水準は仏教文化を受容する中心にある少数質族階級とそれ に奉仕する技術家集団のそれとが
︑
同一水禅であったのであるが
︑
一般庶民はとうであったか
︒それを明確にし得
ない
が︒
準にあったことが推定される︒
る薬師寺金堂三尊像のごとき︑問題はあるが
︑ ほぼ近い水
およそ一時代の芸術作品とその時代様式を研究するためには︑時 代を限定することが必要である︒ここでは飛鳥時代をかりに仏教伝 来から大化改新までとし︑白鳳時代を大化改新から神亀末年までと する︒これには異論もあろう
︒
しかし白鳳時代の典型的作品とされ
ほぼ平城遷都後かな かりに通説のように平城遷都後を天平時代という時代を区分とし
た場合︑薬師寺の建築は平城遷都後の造建であるとすれば︑薬師寺
そのようにして︑ある作品の年代を定め
︑
ない
ものとして︑外したいと思う︒
または限定してのち︑
の建築は天乎時代の建築であり︑薬師三芍像は天平時代初期の彫刻
ということになる︒したが
って
︑
私は薬師寺を白鳳時代様式とする ために︑天平時代を天平元年以後とし︑神亀五年までを白限時代と し ︑ あえて乎城遷都という政治的大事件を美術史の時代区分
に関係
もっ
とも現在の薬師寺を旧藤原京の木殿にあ
った本薬師寺の移
建︑
仏像は移座説があるが
︑こ れに対する反駁はここには述ぺず
︑
別の機会にゆずる︒
時代区分を設定すると︑
が果して︑
ある
いは
︑ か︑遡った時代に属するのかを定める問題がある︒
一般に芸術作品
には
︑
時代を設定するに必要な年号銘を附けられていることは珍ら
しい
︒
つぎに問題となるのは︑個々の芸術作品
その時代に屈するのか︑もっと降った時代
また年号銘が干支であるばあい
︑干
支は六十一年目ごとに廻って
くるから︑
果してその干支が一周期またはそれ以上あがる場合︑
一
週期またはそれ以上さがるばあいがある︒そのどれに同定するかが 問題である︒人名が記入または彫り込んであるばあいでも︑その人 物の生存期間のいつ頃のものかを定める必要がある︒
はじめてその様式を基準と
して︑
様式の発展の流れの
中で︑他の無
銘の
作品の様式を比較検討して︑様式史の展開を研究することがで
きる︒
ここに基準作品の研究設定が非常に必要となる︒
10八
飛悲
白鳳
芸術
神精
史研
究序
説︵
横田
︶
さて飛鳥様式を考えるにあたって︑
ある
︒
ついでは何らかの確実な文献
る。 次に標準作とされているのは
‑0九
る ︒
︵昭和二十二年︶や金森遥氏の﹃日本彫刻史の研
︵昭
和二
十四
年︶
︑同氏﹃日本彫刻史要﹄
︵ 昭
和二
十三
年︶
︑足立康
いかなる作品が最も確実な飛
鳥時代の作品であるかを定めることが問題である︒それは︑かって
飛鳥時代の最も確かな基準的作品と考えられていた法隆寺金堂本眸
金銅薬師如来坐像ですら︑その光背銘が︑時代の限った大化改新か
ら天武朝へかけての時代の書風と文体を持ち︑かつ彫刻の様式も北
魏様式よりも後の北斉か北周の様式をもっとされた説があらわれ︑
学界の支持をうけたことから︑疑われ︑基進作品とすることが出来
① なくなったからである︒なお銘文は願文体でなく︑国語的漢文であ
る
こと
も疑点の︱つである︒
銘文のある像ですら疑をかけられるのであるから︑無銘である法
隆寺宝蔵の百済観音像や中宮寺の半蜘思惟像︑太秦広隆寺の半珈思
惟像など︑一般に飛鳥時代のものといわれる有名な諸像も︑確実な
時代の決め手の証拠を欠き︑研究上はなはだ困るのである︒
しからば何を飛烏時代の基準作品とし
る得
か︒
の像自体に紀年銘のある作品である︒ いうまでもなくそ ﹁‑:‑:小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王︑大命受賜而︑歳次
丁卯
年仕
奉﹂
の銘文をもちながら︑後刻と考えられる例をさきにのべた︒
ここで先学が基準作品として通例先づあげられるのは︑法隆寺金
堂の釈迦三蕗像で︑次の銘文︵一部のみをのせる︶を有し︑推古三
十一年のものと考えられている︒銘文の字体も六朝様式とされてい
法興元州一年歳歳次辛
已︵
註推古二十九年︶鬼前太后崩︑明年正月
廿二日上宮法皇枕病
: ・ ー
・・ニ月廿一日癸酉︑王后即世︑翌日法皇登
逗癸未年︵註︑推古三十一年︶三月中如願敬造繹迦尊像井侠侍
⁝⁝
法隆寺戊子年銘釈迦三眸像であ
これは右脇侍を欠き︑中尊はその坐高わずか一六・六
c m 左脇侍︑ は立高一五•-cm、光背を考慮に入れても、高さ三九.――-cmの小像
で︑基準作としては小さすぎる嫌がある︒その船形光育にある銘文
はつぎのとおりである︒
戊子年十二月十五日、朝風文、賂其〖今酒師惹燈、為嗽加大臣、菩
願敬造繹迦佛像︑以此願力︑七世四恩六道四生︑倶威正登 る多数の建築史関係論文のこときが非常に大きな寄与をなしたので ﹃日本建築史研究﹄︵昭和四十三年︶に収められたものをはじめとす
究﹄
博士.﹃日本彫刻史の研究﹄
︵昭
和
十九
年︶のごときや福山敏男禅士のにつくられたという な
い
ものがある例としては︑法隆寺金堂本尊薬師像が︑推古十五年 ﹃日本彫刻史研究﹄それと同定できる作品である︒銘文かあっても必ずしも基準とでき わが国のその方面についての研究史においては︑小林剛博士のJ年代についての手がかりが記載されていて︑しかも現在の作品を
前者は台座桓の前面上縁及び右側上縁につぎの銘文をもつ観音立
像で
ある
︒
辛亥年七月十日記笠評君名大古臣︑辛丑日崩去︑辰時故︑兒在而
布奈太利古臣︑又伯在建古臣二人志願
とほりこんである︒
この辛亥について崇峻四年︵五九一︶説と白雉二年︵六五一︶説と
あって決定されていない︒前者ならば飛鳥時代︑後者ならば白鳳の
ごく初期となるであろう︒竹内理三氏編﹃寧楽遣文﹄には︑白雉二
年説をと
って
い
て︑近ごろはこの方をとる人が多い︒しかし白雉二
年といえば︑芸術様式としては飛鳥様式と白鳳様式の区別をはっき 作としない考えの人もある︒
︵金
森﹃
史要
﹄七
ペ
ージ ︶
十四年に馬子が死に︑蝦夷が父の後をついで大臣に任ぜられている
から︑この像は蝦夷が馬子の追福のために作ったことが推定される
ので︑基準作とすることができる︒
つぎに御物四十入体仏中に銘文のある像が二体ある︒辛亥年銘の
ものと丙寅年銘のものとである︒この両者については︑その千支を
一巡くり下げて考える説や︑その何れかに決定しがたいので︑基準 その前々年の
る ︒
Jの﹁上宮王等身﹂とある句は法隆寺金堂釈迦像の銘文に﹁尺寸 以上のような銘文の存在する像の他に︑て︑現存の仏像に比定され︑ 文献上に記載されてい
その年代を推定されているものがあ
る ︒ も︑基準作品とするだけの確実な年代を遥き出
すことは困
難であ
その書体や刻銘の手法よりみて︑光背製作時のものと認められ︑
光背と仏像との関係についても疑わしいところはない︒朝風文は難
解だが発願者とされ︑容済師︑惹燈は作家と考ええられている︒嗽
加大臣は蘇我馬子もしくは蝦夷のいずれかと考えられ︑この二人の りつけ難い境界の時代である︒ここでは白雉二年とかりに定めて論
じよ
︒う
つぎに︑丙寅年像は︑弥勒菩薩といわれる半珈思惟像で︑総高四
一・八
c m の
小像
で︑
その台座桓につぎの銘がほりつけてある︒
歳 次 丙 寅 年 正 月 生 十 八 日 記
︑ 為 分 韓 婦 夫 人 名 阿 麻 古 願︑南元頂橙作奏也︵註︑藪田氏は斡を邦とし︑也を之とされる︒今
この丙寅は推古十四年︵六0
六 ︶
R 田氏は天智五年にあてている︒
しかし︑この
像は
小さ
く︑
帳に
と記されており︑
R と推定されているが︑これを藪
かつ︑この短い銘文と様式からいって
すなわち法隆寺東院夢殿の観音立像は︑天平宝字五年の東院資財
上宮王等身観世音菩薩木像壱躯金薄押
またそれが聖徳太子の斑鳩宮の故地に建てられた
東院の本尊像であるとの理由から︑本像を聖徳太子の推古三十年にc おける舜去をあまり去らないころのものとする説がある︒
しば
らく
竹内
氏に
たし
がう
︒︶
在世中の戊子年は推古三十六年︵六二八︶となる︒
高屋
大夫
︑
︱
10
りヽ
適当と思われる︒
つぎに広隆寺に二体の弥勒坐珈像がある︒
は︑書紀推古三十一年七月の条に︑
とあ
る︒
当するとされている︒ で ︑
年十一月己亥条にしるされた次の記事 とあり
飛烏
白鳳
芸術
精神
史研
究序
説︵
横田
︶
るから︑基準作例とすることは躊躇され︑ か 王身﹂とあることとくらべて︑後生菩提的な意義があり︑太子屍後
し︑
ただちのものとすることが妥当であると︑小林氏はいっている︒し
さればといって直ちに年代を決定することは出来ないのであ
そのうち小さい像の方 新羅遣大使奈末智洗爾︒任那遣逹率奈末智︒並来朝︒初貢佛像一
具金塔︒並舎利︒且大濯頂幡
一具︒小幡十二條︒郎佛像居於葛野 秦寺︒以餘舎利
︑
金塔︑罹頂幡等皆納四天王寺
﹃太
子伝
古今目録抄﹄に︑ 従新羅國金銅佛像獣之︑高二尺︑蜂岡寺安之
されば葛野秦寺も蜂岡寺も今の広隆寺であるとすると︑ニ 体の半珈像のうち小さい方が総高八九・三
c m ︑すなわち約二尺九寸
﹁高二尺﹂とあるのには少し大きすぎるか︑ほぽ近いので︑該
しかし︑真にこれに比定し得るかに問題があ
日本の創作ではな かつ、‘•
朝鮮より渡来したものであるから、
い︒年代的には上限を定
めることが出来ず︑一応︑下限は推古三十
一年
七月以前とし
得て︑様式史上︑比較参考し得る作品かも
しれ
な
︑o
' >
なお小像がきまってくると︑大きな半珈像の方は︑雹紀推古十一
一応これを除外した方が
で表現し得るように思われる︒人間以外のものの表現においては︑
彫刻は種々のものを立体的に表現するが
六
とくに人問を表現する
進日︒臣拝之︒便受佛像︒因以造蜂岡寺︒
から︑この蜂岡寺すなわち広隆寺の本尊に比定され
︑それが推古十
一年
︵六
0 1 ︱‑︶以前の造顕ということになる︒しかし︑これとても
推定の範囲を出でず︑絶対的な基準作品とはなし得ない︒なお本像 は緯国ソウル徳寿宮博物館蔵弥勒半蜘像と全く同一の形相と様式を
R
示すといわれている︒朝鮮より渡来のものと考えた方がよさそうで ある︒前者と同様に
︑
様式史上の参考となるにとどまる︒
つぎに飛鳥様式を以上考えてきた基準作品について考察する︒そ の前に造形芸術のジャソルとしての彫刻の表現のもつ特殊性と限界 についてのべておかねばならない︒
場合に芸術のジャンルと
しての彫刻にとって︑
つ︒すなわち彫刻家の精神の高貨さ︑広大さ
︑心のこまやかな辟衣ま
とかく実用性を有する工芸品のジャソルに属せしめられるばあいが
多い
︒
本質的な意味をも なぜ人間の表現がそれほど彫刻の本質的な意味にかかわるか︒他
の物を表現する工芸品と異るのか︑そ
こに人間的な
精神を表出する 顔面の造形が中心となっていることに︑特に注意されねばならぬ︒
皇太子謂諸大夫曰︒我有辱佛像︒誰得此像︒以恭拝︒時秦造河勝
思う
︒
ぱむつかしいであるう
︒
とこるが人体と
くに頻貌を表出する.はあ
い︑例えば唐招提寺開山立の鑑襄像のごとき崇高な像がつくられる
のであっ
て︑人間像以外の何ものの像もこれに及ばない︒人間の恣 態は顔面と一体をなし︑その顔面の表出する独自な人問的精神
︑個
性の印象の効果を︑観者にと
って︑より適確に与える作用をもつ︒
しかし願面部を除いたトルソは美しさ
や写実の妙のごときものはあ っても︑精神の高さの印象を弥烈にあたえることはできない︒ここ に彫刻史の精神史的研究において
︑
人体の顔面の表出が持つ不思謡 な意味を思わないわけにはゆかない︒故にこうした精神史的研究
は︑
ヴェルフリソ流の様式史家が好んで用いるような︑閉じこめら れた形式︵描築性︶と開かれた形式︵非構築的︶とか
︑
線的
︵彫
塑的
︶ と絵画的とか︑平面性と深奥性とか
︑
多数性と統一性とか︑明瞭性 と不明瞭性といったような様式概念にとどまっては︑宗教芸術史の 如きは探く理解し得ないのではなかろうか︒たとえば神秘性や崇高 性の表現などはいかなる様式概念をもって理解すべきであろうか︒
もちろん様式は軽視でき
ない︒表現様式を通して︑とくに宗教性 を象徴する人体︑人面の表現様式の分析を通して︑精神の高さ
︑深
さに参入することは至難であるが
︑
芸術史の重大な課題であるとい
うことができよう︒このばあい作品より受ける印象の分析が大切と ても高伐な
または偉大な︑頭の下がる思いのする像をつくること いかにすぐれた作家か犬や猫をつくって
写実の妙をつくしたとしいま敢も根本的な基準作品︑
法隆寺金堂阿弥陀三誼像を低察し
︑
それより受ける印象は何か︑第一には異様な神秘性である
︒
つい
で は異様さの中にある厳
し
い強さの追力である︒白鳳仏や藤原
仏のよ
うな柔らかさ︑暖かさは欠けている︒しかし厳しさ︑強さをもつ神 秘性といえば弘仁仏を連想するが
︑
弘仁仏のような韮苦
しさ︑太や かな重拭感をもつ圧力惑
ではない︒また天平仏のようなゆったりと
した究ぎ︑
開いた明るさの感じに乏しい︒以上のような印象は
︑飛
烏仏のいかなる表現様式に基づくものであるか︒
まず神秘な異常性は︑一般に人間の顔貌を写実的にあらわ
した時
には︑余程醜怪な人物をモデルとしない限りは︑感ぜられないもの である︒故に何らか非写実的な表現
︑一般人の常識で理解し得ない
精神を異常な造形をもって象徴的に表現したばあい︑神秘的な異常
性が感ぜられよう︒
無明の世界を超越
︑
解脱した悟道
︑真如の世界のものである限り︑
仏像は︑こうした境地を人体表現をもって象徴せねばならない︒少 なくとも作家において︑信じられ
︑
感得された仏のイメ
ージが表現 される︒それは同時代人の宗教の必然的要請である︒しからぼ仏像
そうした超越性︑
の人体的表現のどこに
︑
神秘性をあらわ
し得る
か︒むろん顔面である︒その顔でも眼と口とである︒我々の注意を
仏なるものが常人を超えた精神世界の存在であり︑常人の煩悩
︑
七
が︑より猥厚となる︒ れは哄笑である︒
la ug h
であ
る︒
あらわにし︑自己の本質を開いて︑客体の形に示された本質との共 と語ることは困難である︒
突飛な言語や行為
ひくのは笑であり︑眼と口とは笑を表現するのに欠くべからざる要
素である︒飛烏仏の古拙の笑といわれるものについては前述
した
が︑さらに分析を加える︒
およそ笑は異常な自然事物の形象や︑人間の日常的︑慣習的な言
語や行為の形式と非常に異るところの異常な
︑
が︑突然︑かつ敏速に形成され︑その形象が︑看者の過去の経験に
基づく観念上の連想において︑きわめて異常な諸観念間の連想を惹
起する時に生ずる︒
その惹起された連想の形成する形象の異常さとは︑通常︑日常の
論理において形成される諸観念の連想にくらべて︑非常に距離があ
り︑異方向の諸観念の間に連想が飛躍し
︑また距離が大きいなが
ら︑一種の機智的な美しさをもつものであり︑看者の不快な経験に
連想を及ほさない︒む
しろ
看者が︑その異常な形象を客観視し得る
心の余裕があり︑その形象と距離があり︑かつ快適さを惑じ得るば
あいである︒連想の飛躍の距離が大であるほど︑方向や形象が異常
であるほど︑その形成が瞬間的に短いほど︑笑は爆発的に起る︒そ
そうした笑とは異り︑形や方向の異常性は小さくても︑対象たる
客体に対する看者の好意︑愛情︑同感が抱かれるとき︑その笑は微
笑となる︒微笑には哄笑のような突き離した冷い客観視が少く︑よ
り主観性が増し︑対象たる客体へそそがれるあたたかい人格的感情
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵横田︶ 対象に対して悪意をもっときは冷笑となる︒それが︑より能動的となり︑感情が客観性を失い︑自己を優越者と感じ︑対象を低くみるとき嘲笑となる︒形成された客体の形象に︑主体が不快の経験を感
じ︑
反省するときは苦笑となり︑それが軽いときは微苦笑とな
る︒こうした笑の種々相をみると︑愛情をもった微笑
こそ
は︑
最も
美しいものであって︑芸術では好んで表現描写されるものである︒
およそ笑は︑人間が他の動物と異って︑人間特有のものとする行
動である︒笑は社会と絶縁した個人のみでは成立し得ない︒それは
対人的行動である︒自然の形象を見て︑或は連想によって︑独り笑
よって生ずる︒ を催すばあいでも︑必ず過去の経験における対人的関係への連想に
まして愛情をもつ微笑は︑豊かな人間的感情をもっ
そこにおこる感動がおのづと表現された社会的行て対象にのぞみ︑
動である︒われわれは魂の孤独な状態に自分自身を閉ぢこめた人間
他人
や社会にむかって開かれた魂
こそ
は︑その人間と語ることができる状態である︒そのばあい微笑
こそ
は︑客体に対して主体が︑自己の心の感動を︑自己の人格的生命を
惑︑共鳴する感情を示
した
ものである︒こうした笑う主体に対して
も亦︑他人は連想し得る経験を共にするとき︑容易に反応し︑人格
の共鳴を共にし得る︒とくに客体に対し愛情を示したばあいは︑暖
い感情が交流し合うので︑然りである︒
笑は口を開くことにより表現されるが︑開かないでも︑頬の筋肉
三
性格を強く表現することであろう︒時代によっても変遷がある︒ を中心とする筋肉の緊張をゆるめることによって︑心の弛み︑開放をあらわす︒その極端に至り︑全身の緊張がゆるみ︑不意の機智的
形象を惑じ躍動的にあらわれるときは抱腹絶倒となったり︑喜びの
際は︑手の舞い足を踏むところを知らぬことになる︒弛み開いた隙
問こそは︑他人の心が入りこみ得る隙間がある︒
眼が笑の際に細められることは︑看者の側よりすれば︑眼が大き
く開かれることは圧力感があるだけに︑細めることは圧力感を減少
し︑親愛感を増し得る表現となる︒
ロを大きく開いた哄笑は︑感動の露わさにおいて心の奥まで隠す
ところがない︒ゆえにその奥底まであらわに見透し得ることによっ
て︑人間的な親しみは弘く感じさせる︒しかし︑そこには人格の奥
深さ︑崇高さ︑厳格さ︑神秘さはない︒
宗教芸術においては︑この深奥さ︑崇高さ︑厳格さへ神秘性等の
美的範疇は超越者をあらわすのに必要な諸条件である︒故に礼拝の
対象として︑かかる要素を欠いた哄笑像が造られることはない︒救
済の宗教の超越者は︑崇高︑深奥︑神秘︑厳格等の性格を保持しつ
つ︑しかも相対的︑有限的存在たる人間への慈悲︑愛情を表現する
者観が異り︑ある派︑ ものでなければならない︒むろん以上の諸性格は宗派によって超越
またある地方にはある性格を欠き︑或はある
早い話が︑飛鳥時代から白鳳時代へ降るに従い︑神秘性や厳格性
への表現はうすれ︑優しさ︑愛情の柔らかな表現は増すが︑崇高さ
は変
らな
いか
︑
より増大する︒もっとも白鳳的といわれるものが︑
中国の南梁様式︑または隋様式などであるとして考える説
もあ
る︒
宗教芸術には超越者の具有する諸性格の複合についていろいろな
場合がある︒平安初期に出現する神像彫刻は︑仏像彫刻の影響によ
り出現したものであるが︑端正さと厳格さが強く︑それを時に憤怒
に近い表現であらわし︑優しい愛情の面で弱い︒当時の神観がよく
分る︒いずれにせよ︑宗教芸術である限り︑超越者の型なるものと
して持つべき崇高性
は必
須である︒その崇高性がいかなる
ニュ
アン
スをもち︑そのニュアンスが他のいかなる美の諸性格と複合して表
現︑象徴されるかに︑宗教芸術の様式史上の問題がある︒その諸類
型︑諸様式の美のニュアソスと複合の相違が何によってもたらされ
たのか︒時代か︑民族か︑階級か︑宗派か︑環境か作家個人かなど
相違の心理的︑精神的根拠を考えるところに精神史の問題がある︒
仏像彫刻の顔面や姿態の表現を︑とくに顔面の微笑や眼のごとき
うに効果的に印象づけ得るか︒法隆寺金堂釈迦三尊像や夢殿観音像
のごとき止利仏師様式の口は︑仰月形といわれ
る︑笑にみえる形である︒堅く結ばれた唇の両端が緩やかに上りカ
ーヴをもち︑上唇はゆるやかな︑下唇はより強いカーヴの線弧描い
て笑を表す︒唇の縁端は鋭い角をもち︑ふれると切れそうな強い深
みの印象をあたえる︒深みといっても弘仁仏の幽暗さではない︒
前にものべたが
ロ
さて飛鳥仏の口の笑いと眼の厳しさは超越者としての仏をどのよ も︑そうした観点で考えようとしているのである︒
︱︱ 四
飛店白限芸術硝神史研究序説︵横田︶
が顔全体の中で
︑
め︑
笑が仏像全体の中で主要な効果をあげている︒その笑は不自然
で柔さ︑優し
さはない︒無気味な神秘さが残るが
︑親しめるニュア
唇と平行した杏仁形の眼は一重まぶたの鋭い稜線をもつこと
口と
同じいが︑両端がかすかに釣り上り気味となり︑唇の両端が強く釣 り上り気味なのとくらべるとそれほど強くはないが
︑笑を幾分強め
る効果を強め︑
その神秘的な厳しさ強さを表現し得たのである︒
さて心の開いた効果は口だけではない︒こめかみよりも張り出し た頬の表現もある︒法隆寺金堂釈迦三尊の本埒像や同薬師像︑飛鳥 大仏︵旧法典寺︶像などの止利様式は胸の部分が輪袈裟状に強く浮 彫に突
出
せしめられた双曲線によって︑まろらかに大きく開いた感 じをあたえている︒肌の露
出
部分は少くとも開放性を印象づける︒
右手をあげ
︑左手を下し
︑人差指と中指の二本を前にのばし
︑
共に
掌を看者に示すがごとく外に開いていることは︑衆生を迎え迎く象
⑥
徴であるというが
︑
これもまた釈迦が看者に対して包容
的に心を開
く印象をあたえる︒
釈迦三尊の本眸及ひ薬師像について
︑
像全体の描成をいうと︑裳 懸座の両脇の線をのばしてゆくと︑概ね本聰の頭頂部を頂点とする 二等辺三角形が構成される︒この裳懸座の底辺のひろがりが安定惑 をあたえる︒前正面のやや下から仰ぐ看者の視線を︑ひろがった三
角形底辺両端と三角形の頂点である頭部の頭点との間に往復させる ソスは相当ある︒この親しめる口に対し︑
眼はより厳しい︒
やや不自然なくらい
かなり大きな割合いを占
させ
る︒
八
︱︱ 五
視線は自から光背をふくめた像全体の中
心に集中せしめられ
る︒こうした下部の安定したひろがりは︑百済観音
︑夢殿観音ほど
の諸像のような垂直性に長く高い感覚がもたらす崇高性に欠けてい
るが
︑
しかし開いた感じをあたえる︒また止利様式では頭部の大き い割合に胴体が短いことも崇高性を減少させるが︑
気安さを強め
しかし
顔面各部のみならず衣文や裳懸座の裳の鋭いかつ深い積線
のもつ厳しさ︑
裳のたたみ方︑重なり方の形式性︑角の多い文様な
どは
︑
衣や裳が布であるという柔軟性を全く欠いている︒かえって
硬直した厳しさを強める︒
具体性に乏し
く ︑ 全体の表現が簡単︑単純で
︑
で︑親し
みを感じさせぬ︒光背の描成も
︑
個々のモティーフも
︑図
案的装飾的で︑具体的写実的でない︒脇侍の前面に交叉した纏衣の 下に足の部分が殆どみえず︑足
を短く見せていることも窮屈に感じ
全体とし
て像が扁平で奥行に乏
し
いことは範型となった六朝仏が 姫崖の浮彫石仏であった伝統によるのだろうが
︑看者に具体的︑立
体的な実感をあたえず
︑
観念的につくられた印象をあたえることは 宗教的礼拝の対象としてマイナスであった︒
以上は法隆寺金堂釈迦三痺像について︑人間性に対する効果を生 る ︒ と
写実
性︑
抽象的
消 してしまうこと
が少くない︒
九 飛鳥様式から白鳳様式への変化を示している︒
ずる議要素をあげてみたが︑それらが相ま
って構成する印象は︑親
し
みをあたえる要素と
︑
それを減殺する要素とあり︑親
しみ難さが
強い︒これは大陸の造像技術が受容され︑未消化なために晦渋だと いわれるかもしれぬが
︑
私は釈迦三葬像の技術は大陸のそれに比
し
て劣るとは思わない︒むしろ止利等の作家の信仰が︑超越者たる仏
の崇高性︑
神秘性とそれに矛盾する救済者としての慈悲の人格性を
理解し
︑それを把握表現し得たといえると思う︒むろん
︑その宗教
的な超越者の美の表現が洗練統一されきらず混乱を示してはいる︒
これに対して同じ止利様式でも薬師像においては︑美意識の洗練と 秩序化においてて一段と進歩があるという先学の説は肯定できる︒
今︑
釈迦像と薬師像と比較
して︑相
違点を観察
しよ
う ︒ 先づ像の頂部を頂角とし︑裳懸座下部を底辺とする二等辺三角形
を比
べると︑薬師像の方が頂角において鋭角的となる感かある︒そ
の原因は︑
衣の製の表
出法がそう
した
効果を強く
出す︒とくに裳懸
座両端とその中間の段階で︑釈迦像では先端が︒ヒンと反って外へ突 き出た部分を︑薬師像の方は︑ややなだらかに押えて外へ突き出し ている度合が少い︒その部分の内ら側の
製の線も
︑釈迦像では平行
した連
続の弧線が︑薬
師
像では︑上から下へ流れてきた線を途中で これは頂角にあたる像の
顔から底辺に向っ
て流れ上り︑流れ下る 看者の往復する視線が
︑
釈迦では一貫した底辺まで力強く流れるの に︑薬師の方では途中で消して印象を薄く
して
いるわけである︒そ
れは前者の一貫した力強さを後者では優
し
い惑じに変えるのであ る︒従って釈迦の方が力強い感があり
︑
薬師の方が弱い︒また懐の 下部の弧線は釈迦の方が横へ広く張り出しているのに︑薬師の方が
弱い
︑
釈迦の方が安定感が強く︑薬師の方は垂直感を強める︒釈迦 の奨は横に二重にも
し
てあるのを︑薬師では一重に止めていること がある︒釈迦は製をョコにまげてある線を
︑
薬師ではクテに流
して
あったりする︒以上の諸点が薬師の頂角の方が鋭角で
︑垂直性の惑
じを増しスラリとした優し
い感をあたえる︒さらにいえば右手の下 方を釈迦は前へまげているのに︑薬師はまげていないので︑クテに
すなおに流れる感
とな
る︒
光背でも︑釈迦のそれは巾が広く三雑全体を掩うて︑上部は船形 に先が細くなっていながら
下
部は
広
がっ
てい
る︒
これに対し︑薬師
のそれは頭部の背後のみに宝珠火焔形のものをつけていて︑
とした感を強める︒
同じ止利様式でも︑なぜこうも細部が違うか︑おそらく時代様式
の変遷で︑よりスラ
リと
垂直への感じを尊び︑同時にやさしさをカ 強さや安定性よりも優先的に考える傾向が出ているのだと思う︒
こ
れが大陸でそうなったか
︑日
本でそうなったか分らぬが︑これ
こそ
今まで法隆寺金堂釈迦本尊の様式についてのべて来たが
︑
︱︱ 六
その両 ス
ラ
リ