有害化学物質管理と人権法アプローチ
―水銀条約の策定による新たな展開―
石橋 可奈美
はじめに
1.
有害化学物質管理についての国際法制度2.
人権法アプローチの強化2.1 人権法アプローチの意義
2.2 国連人権理事会及び OHCHR
の役割2.3 OHCHR
報告書と水銀管理・規制2.4 有害物質・廃棄物特別報告者報告と水銀管理・規制 3.
新条約―水銀条約の試みおわりに―「分断化」への歯止めとしての意義
はじめに
現在、国際社会では、「水銀条約」(現段階では仮称、以下、単に水銀条約という)の策定に 向けた準備作業が大詰めを迎えている。
そもそも、この「水銀条約」の策定にあたっては、日本が強いイニシアチブをとってきた。
周知のように、日本では、高度成長期、熊本の水俣湾が水銀を含有する工業用水の排出により 汚染され、
1956
年、その水銀が蓄積した魚介類を食した多くの人々が、いわゆる「水俣病」(メ チル水銀による中毒性神経系疾患)を発症するという悲惨な出来事を経験した。この「水俣病」は過去の公害病ではなく、今なお、多くの人々が、その症状に苦しみ続け、また認定を受けら れない人々が国に対して認定を求めた切実な闘争も進行中である1)。
これまで、国際社会では、「水銀」による環境損害への対処の必要性が、単独で取り上げられ たことはなかった。「水銀」は人体に取り込まれた場合、有害であるということはわかってはい ても、①そもそも、自然状態で水銀は大気中に原子として存在するということ、②体温計など の医療用器具としても広く使われてきたこと、③人力金採掘などの鉱業で日常的に使われてき た他、④石炭火力工場からの非意図的排出など、排出源が多く規制が困難と思われたこと、な どから、取り立てて包括的な規制は行われてこなかった。後述するように、バーゼル条約に基 づく有害廃棄物として水銀・水銀化合物の規制・管理が行われ、あるいは、国際貿易における
適正な管理を可能とするため、ロッテルダム条約に基づき、輸出入がなされる際の事前通報・
同意手続、すなわち手続的義務・要請に服せしめられるに過ぎなかった。
しかし、ここにきて、「水銀」への包括的規制・管理、究極的には可能であれば「廃絶」が必 要だ(望ましい)とする国際的な合意形成がなされようとしている。
水銀を含む有害化学物質管理については、「人権法アプローチ」(詳しくは後述、環境保護実 現のために既存の人権法を活用すること)が機能する土壌がそもそもある。というのも、それ が人の身体や健康に直接的な被害を及ぼすからである。
これまで、環境損害は、その特徴として、漸次蓄積型(cumulative environmental degradation)
と突発型(accidental environmental degradation)に大別されてきた2)。漸次蓄積型としては気 候変動がもっとも典型的なものであり、日々の環境変化は小さいが、それが徐々に蓄積するこ とによって、ある日、環境損害として認識されるというものである。これに対して、突発型は、
このたび我が国でも経験したような原子力発電所事故のようなケースで、それが発生する確率
(蓋然性)は低いが、ひとたび起これば甚大かつ人の生命・健康に対しても直接的な被害をも たらすような環境損害とされている。
しかし、有害化学物質による汚染については、そのどちらとも、ただちには分類できない。
有害化学物質による汚染は、たとえば、有害化学物質の大気中への放出は、ゴミ焼却によるダ イオキシンの環境中への排出などを念頭におけば「漸次蓄積型」と言えようし、他方、今回の 原子力発電所事故後の有害化学物質による人体・健康、区域の土壌や沿岸海域などへの甚大か つ直接的な汚染を考えれば「突発型」である側面を有するとも言える。したがって、その両方 の性質を兼ね備えた環境悪化、汚染として定式化できる。
気候変動に関して、「人権法アプローチ」が機能する余地はすでに別稿で論じたが3)、とすれ ば、同様に「漸次蓄積型」としての性質を有する有害化学物質汚染についても、同アプローチ が有用である可能性があるであろう。また、他方、「突発型」である有害化学物質汚染における 人体・健康への被害を含む甚大かつ直接的な環境影響を考えれば、原子力事故の際の損害賠償 などに端的にみるように、個々の被害に対応して権利ベースの救済が不可欠とされるから、そ のような意味で、国際法の平面でも「人権法アプローチ」は強く必要とされると考えられる。
このような理由から、有害化学物質汚染に関しては、いわば、「二重の意味で」、「人権法アプ ローチ」の活用が求められる(なければならない)。これまで、筆者は、「人権法アプローチ」
に依拠し、既存の「人権法」を新たな「理念」や「軸」として活用することは、今日懸念され ているところの環境法体系の「分断化(fragmentation)」4)を防ぎ、整合化を図るため、非常に 効果的であることを述べてきたが、有害化学物質汚染が、こうして「漸次蓄積型」と「突発型」
の両方の性質を併せ持つ複合的な汚染であるとすれば、この問題に対処する目的での「人権法
アプローチ」の援用は、むしろ、必然と言ってよいだろう。
本稿では、有害化学物質のうちでも、とくに「水銀」を扱う。今回、数ある有害化学物質の 中でも取り立てて「水銀」を扱う理由は、これまで、国際社会の対応では必ずしも十分ではな かったこと(したがって、後述するように現在条約策定作業が進行中である)、他の有害化学物 質よりも国際社会での使用頻度が高く一般的で(日常的で汎用性もある)、人体・健康への影響 が顕著であること(とくに、途上国で使用される人力による金採掘時の水銀使用は深刻である)、
「突発型」(特定の原因に基づく直接的な汚染・被害という意味で)である部分に関しては、条 約という対応だけでなく、国際・国内レベルでの法的(政治的)救済が望まれるということ(日 本の水俣病、カナダの水俣病、米国でのツナ缶の被害に象徴的)が予想されるからである。
また、この水銀条約の策定にあたって、既存の有害化学物質規制・管理の多数国間条約との 整合性が重視されたこと、さらには同時並行で、国連人権理事会が、
2012
年6
月の会合で検討 を予定し、新たな「人権と環境のリンケージ」の問題に取り組んでいたことなど、背景として も、環境法体系の分断化への対処、また、人権のさらなる重視ということも言えるのではない かと考えている。1. 有害化学物質管理についての国際法制度
有害化学物質管理の最初の考え方は、有害化学物質の中でもとくに「廃棄物」管理・処理か ら始まった。
1976
年イタリアの北部のセベソ(Seveso)の農薬工場で起きた爆発事故で、ダイ オキシンを含む化学物質が飛散し(100万分の1
グラムでも人間にとって致死量に達する物資 が数キログラムも飛散した)、地域の住民や家畜に急激なかつ多大な被害を生じさせ(数十平方 マイルにわたる森林、土壌の汚染、約600
人の住民の避難、及び約2000
人のダイオキシン被爆 など)、この時に汚染した土壌がドラム缶に詰められ、やがてフランスで発見されるという事態 が生じた5)。フランス政府はイタリア政府に回収を求めたが、拒否され、結局は工場の親会社 があるスイスが回収したという事例である。この事件の結果、EU(当時のEC)では、1982
年 にセベソ指令(Council Directive 82/501/EEC on the major-accident hazards of certain industrialactivities)
6)、1996年にセベソ指令Ⅱを採択した。さらに、本年2012
年、セベソ指令Ⅲが施行され、廃棄物管理は、2008年に採択、2009年に施行された
CLP(Classification, Labelling and Packaging of substances and mixtures)に関する EU
規則(Regulation (EC)No 1272/2008)に準ずる方向で強化された。
また、インドのボパール(Bhopal)では、1984年、米国のユニオン・カーバイド社のインド 子会社が操業する化学工場が爆発し、殺虫剤の原料、有毒ガスのイソシアン酸メチルが大量に 流出し多くの死者(直後約
2500-3500
人、その後1
万5000-2
万5000
人とも言われる)、負傷者を出した7)。
ついで、1986年
11
月、スイスのバーゼル郊外の製薬会社サンド社(現在チバガイギー社と の合併によりノバルティス社となった)の薬品庫で火災が発生し、殺菌剤、除草剤、水銀など の有害物質が消火用水とともにライン河に流入し、ライン河が汚染された。ウナギなどの魚類 が大量に死滅し、水道水としての利用も一時停止された8)。さらには、1987年
8
月から1988
年5
月にかけて、ナイジェリアのココ港付近で、イタリア からの大量の有害廃棄物(PCBを含む廃トランスなど)が約8000
個のドラム缶に封入されて 不法投棄され、地域住民に化学性熱傷、吐き気、吐血などの重篤な健康被害が生じた。ナイジ ェリア政府は、持ち込んだ業者の本国がイタリアであったことから、イタリア政府に引き取り を求めた。イタリア政府はこの廃棄物の引き取りのため、ドイツ船籍のカリンB号などを傭船 し、有害廃棄物を引き取り積載して適正な処理先を求めたが、自国であるイタリアでも、また 多くの欧州諸国にも入港を断られフランス沖の公海で長期間停泊を余儀なくされたという事件 が発生した9)。こうした中で、まずは、セベソ事件やココ事件などを受けて10)、有害廃棄物の越境移動の規 制管理・適正な処分先の確保の必要性が強く認識され、
1989
年3
月、バーゼル条約が策定され ることとなった(1992年5
月5
日発効)。また、セベソ事件やココ事件は、有害化学物質の(適 正な)国際貿易において、手続の整備の必要性を感じさせ、やがて1998
年9
月11
日、「事前通 報・同意」を前提とするロッテルダム条約の採択を導くこととなった(2004年2
月24
日発効)。 さらに、セベソ事件、ボパール事件では、有害な化学物質が飛散した場合(セベソ事件ではダ イオキシン、ボパール事件ではイソシアン酸メチル)、多くの人命を奪い、またその後も残る健 康への悲惨な被害という結果を示したため、こうした事件を踏まえ、またその後採択されたリ オ宣言やアジェンダ21
を受けて、また、とりわけ「リオ宣言の原則15
に規定する予防的な取 組方法に留意して、残留性有機汚染物質から人の健康及び環境を保護することを目的」(1条)とし、2001年
5
月、有害な、つまり毒性や残留性の強い有機化学物質については、ストックホ ルム条約で列挙し、特別に製造・使用の禁止や規制がなされる途が開かれた(2004年5
月17
日発効)。ところで、本稿が扱う「水銀」は、「有害」な化学物質であり、また、したがって当然、「有 害廃棄物」ともなり得る物質である。よって、上記の
3
条約も、それぞれの条約の適用の範囲 で、水銀に関する規定を含めることができるはずであった。しかし、実際には、バーゼル条約、ロッテルダム条約では、水銀について対象とされるもの、ストックホルム条約下では、対象物 質とされていない(但し、「水銀」の中でもとくに有害性の強いメチル水銀は「有機化学物質」
であり、対象物質とすることはできた)。
以下、条約ごとに、有害化学物質(前
2
条約については「水銀」を含む)につき、いかなる「規制・管理」体制があるのかを概観する。なお、これらの
3
条約は、有害化学物質の規制・管理に各々の観点から取り組むものとして別途策定されてきたが、今日では、強く協力・連携 が模索されており11)、そのような中で、今日水銀条約の策定に向かっているということも意識 されなければならない。新たに策定される「水銀条約」もまた、当然ながら、この
3
条約との 協力・連携なくしては、十分に機能を発揮することはできないであろうからである。その意味でも、この
3
条約が「水銀」についてどのような規制・管理体制を有する(有しな い)のかが重要となる。(1)
バーゼル条約正式名称は、「有害廃棄物の越境移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約(Basel
Convention on the Control of Transboundary Movements of Hazardous Wastes and their Disposal)
」である。バーゼル条約は、水銀につき、バーゼル条約下での規制を可能にしている。附属書Ⅰ(有害 物質リスト)の有害物質として水銀、水銀化合物(Y29)が指定されており、また附属書Ⅷで はさらに規制対象となる水銀、水銀化合物を含む物質がリスト化され、より明確に対応が義務 付けられた12)。
さらに、
2011
年のCOP10
では、「水銀廃棄物の環境上適正な管理に関する技術ガイドライン」が採択された13)。それによれば、より一般的に元素水銀を含む「廃棄物」もしくは元素水銀で 汚染された「廃棄物」が規制・管理の対象とされ、バーゼル条約下で対処されることになった。
また、ESM(Environmentally Sound Management(環境上適正な管理))の中心的なコンセプ トとして、水銀の
life-cycle management
を据えており(技術ガイドライン、para.22-33)、した がって、内容も、水銀廃棄物の(自然・人為的)発生・生成から回収、最終処分に至る全プロ セスに関わる管理方針を含んでいる(特定とインベントリー、サンプル採取・分析とモニタリ ング、水銀廃棄物の発生防止と最小化、水銀廃棄物の処理、分離、回収、容器への封入、環境 上適正な処分、燃焼その他の廃棄物処理から発生する水銀の削減、汚染サイトの修復、健康と 安全、緊急対応、公衆の意識と参加など)。しかし、バーゼル条約は、同時に、水銀の一次採掘や「廃棄物」ではない金属水銀、水銀化 合物の国際貿易についてはバーゼル条約では対応できないことを認識している14)。
(2)
ロッテルダム条約正式名称は「国際貿易の対象となる特定の有害な化学物質及び駆除剤についての事前のかつ 情報に基づく同意の手続に関するロッテルダム条約(Rotterdam Convention on the Prior
Informed Consent Procedure for Certain Hazardous Chemicals and Pesticides in International
Trade)
」である。この中に、水銀及び水銀化合物(無機水銀化合物、アルキル水銀化合物、アルキルオキシア ルキル及びアリル水銀化合物を含む。)が規制物質として指定され、この規制物質については、
加盟国は事前通報・同意手続(Prior Informed Consent、以下、PIC手続ともいう)に服するこ とになる。PIC手続とは、締約国が附属書Ⅲに掲載の有害化学物質について、予め輸入するか どうか(条件付き輸入、輸入不可も含む)について意思表示を行い(10 条)、輸出国は輸入国 の明確な同意がある場合等に限って輸出することができるとし(11条)、その場合であっても、
輸出国は輸入国に対して、輸出に際し、ラベリング等により環境汚染や健康被害に関するリス クや有害性についての情報を提供しなければならないことを定めるものである(13条)。
附属書Ⅲに掲載の化学物質(条約採択当時は
27、2011
年の改正により現在は43
物質)の多 くについて、先進国では使用・製造・販売が禁止・規制されているが、途上国ではそのような 禁止や規制がなく、また危険性・有害性についての情報もないままに使用・製造・販売されて いるため、そうした状況を背景として締結されたものである。水銀については、米国や
EU
などがすでに水銀(元素水銀)について輸出禁止に踏み切って いるのに対して15)、日本は依然として国際社会で主要な輸出国となっている。水銀は多くの鉱 石に含まれており、石炭や亜鉛をつくる過程で残りかすとして排出され、また蛍光管、乾電池 等のリサイクルで抽出されるため、国内でも毎年多量の余剰水銀(国内の水銀需要は、蛍光灯 や血圧計、薬品、電池など、年間10t
程度。水銀ゼロの電池や低水銀蛍光灯、LED照明の普及 により、需要は年々減少)が出る16)。このような余剰水銀を、日本は、2005 年以降だけでも、アジアの途上国などに年
100t
以上輸出してきたのである17)。日本は、ロッテルダム条約の締約国であり(日本については
2004
年9
月13
日に発効)、同条 約の下に、事前通報・同意に基づく適正な輸出がなされているとすれば、少なくとも、途上国 での違法な使用を防止することはできるはずであるが、実際には違法な取引も多くなされ18)、 国際社会における水銀供給量が結局は減らないというのが現状である。ここまでの条約交渉の 状況に鑑みれば、現実的には、現段階で国際社会における水銀使用を「廃絶」するところまで いくことは困難と考えられる。とすれば、新「水銀条約」においても、当面、(締約国における 水銀使用を認め、一定の国際取引を認める間)、「適正」な規制・管理の手続的手法の整備を確 保する必要があるであろう。その意味で、(上述したように違法取引の可能性を完全には排除で きないにしても)このロッテルダム条約の「事前通報・同意」手続は、新条約の輸出入規制管 理の手続面でのモデルとなり得るものであり、極めて有用と言えよう19)。(3)
ストックホルム条約「残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約(Stockholm Convention on Persistent
Organic Pollutants)
」が正式名称である。残留性有機汚染物質(Persistent Organic Pollutants(POPs))とは、「毒性が強く、残留性、生物蓄積性、長距離にわたる環境における移動の可能 性、人の健康又は環境への悪影響を有する化学物質のこと(ダイオキシン類、PCB(ポリ塩化 ビフェニル)、DDT 等)であり20)、アルドリン、クロルデン、ディルドリン、エンドリン、ヘ プタクロル、ヘキサクロロベンゼン、マイレックス、トキサフェン、
PCB
などについては製造、使用の原則禁止(1条(a)、附属書
A)
21)、及びDDT
については、原則制限(1条(b)、附属書
B)、また、ジベンゾーパラージオキシン、ジベンゾフラン、ヘキサクロロベンゼン、PCB
については非意図的生成物質の排出の削減(5条、附属書
C)
、在庫・廃棄物からの放出の削減 及び廃絶(6条)、これらを実施するための国内実施計画の策定(7条)を規定するものである。水銀もまた、毒性が強く、残留性、生物蓄積性も顕著であり、大気中に自然に存在し、あるい は放出されて長距離にわたる移動をし、人の健康又は環境への悪影響を有する化学物質ではあ るが、同条約が、有機化学物質(organic (carbon-based)
chemicals)に対象を限定したため、
元素水銀や無機水銀はそれに該当せず、「水銀」一般について、ストックホルム条約では規制対 象とされてこなかった22)。
こうして、上記の
3
条約による規制では、「水銀」についての管理・規制は十分ではなかった。とくに途上国での金採掘時に水銀は利用され続け、また工場等からの非意図的な放出も行われ 続けている。これらは、とりわけ、人の健康や生命に対して、重篤な影響を与えているのであ る。たとえば、金を含む鉱石を粉砕し、水銀と混合、不純物と分離させアマルガム化させたも のから、次に水銀のみ蒸発させて金を抽出する手法を用いる人力小規模金採掘(ASGM ;
Artisanal Small-scale Gold Miners)においては、アマルガムの加熱により気化した水銀を、無
防備のまま吸入することや、あるいは加工に際して十分な知識もなく水銀に直接触れることに より、人々に日常的に深刻な水銀曝露を生じさせている。また工場等から大気中や河川・海洋 に排出された水銀は食物連鎖を通じて人体に取り込まれ、その水銀蓄積濃度を高め、人々は、知らず知らずのうちに水銀被爆を受けており、もはや看過できない事態となっている。
そこで、後述するように、こうした問題にも対応できるようにするため、「水銀条約」の策定 作業が進められてきている。
水銀条約の策定にあたって、注意が必要とされたのは、上記
3
条約との抵触や重複を避け、どのように整合的に策定するかであった。そこで、3 条約の事務局が合同で会議を開き、シナ ジー化を図った23)。そのような基盤に立ち、水銀条約は、水銀発生にかかわる発生源、水銀利 用の態様、回収の方法等、水銀使用の削減・廃止に向かって、包括的にアプローチするもので あり、国際的な水銀の規制・管理、やがては(可能である場合には)廃絶へとの道筋を示した
ものとして非常に評価できる。
ただ、こうした条約策定がなされても、おそらくは十分に対応できない問題がある。
それが、個別具体的な水銀被害の救済の問題である。たとえば、日本の水俣病(熊本・新潟)
がその最たるものではあるが、他にも、カナダのカナダ・オンタリオ州で上流のパルプ工場の 工業廃水を原因とする有機水銀中毒により先住民族に同様の健康被害が生じた事例24)、ペルー で小規模金採掘に係る労働者に生じた被害の事例25)、さらにはアメリカでツナ缶の食べ過ぎか ら健康被害を起こした事例26)など、世界各地で、様々な形態の水銀被爆による健康被害が起き ており、そうした個々の水銀被害については、むしろ各々の事情に即した具体的な救済が必要 とされるだろうからである。
実際に、日本の水俣病やアメリカのツナ缶のケースでは国内での訴訟での救済が求められ、
また上述のカナダの先住民族の事例やペルーの労働者の健康被害についてはまだ具体的な救済 が求められたり図られるには至っていないが、これまでにも、米州人権委員会に対してなされ た、カナダの先住民族であるイヌイットによる気候変動による被害についての請願27)、またペ ルーのラオロヤ地区に建設されたアメリカの多国籍企業
Doe Run
の金属製錬工場から排出さ れる鉛毒を中心とした被害に関する請願28)、などの事例を鑑みれば、やはり今後は、米州人権 委員会などに代表される準司法機関やあるいは場合によっては司法機関を通じた個別の救済が 求められていくのではないかと思われる。事実、後者の事例で、米州人権委員会が果たし、また果たしつつある役割は非常に重要なも のであった。すなわち、同委員会は、ペルー政府に対して当初(2007年)、医療ケアを含む「予 防的措置(precautionary measures)」をとるよう要請したが、ペルー政府がこれを十分に実施 しなかったことから、ついに
2009
年、委員会は、ラオロヤ地区の住民の請求、すなわち、生命 に対する権利(right to life、4条)、人道的な取扱いを受ける権利(right to humane treatment、5
条)、公正な裁判を受ける権利(right to a fair trial、8
条)、思想・表現の自由(freedom of thoughtand expression、13
条)、子どもの権利(rights of the child、19条)などの諸権利侵害に関する 請願につき、受理可能であることを認め、調査を開始した29)。環境保護と人権の実現、その相 互補完性、リンケージをより重視すべきという観点からして、極めて重要な先例の一つである ことは疑いがない。確かに、水銀条約は、策定過程にあり、これからまだ改善される余地はあるが、それでも、
最終的な国際交渉をあと
1
回、2013
年1
月13
日から18
日に予定しているだけで、2013
年秋に は条約の採択及び署名のための外交会議を日本(熊本・水俣)で開催する運びとなっており、INC4
までの議論へ大きく修正が盛り込まれる可能性はあまり期待できそうにない。この点、化学物質問題に取り組む
NGO
の国際的なネットワークであるIPEN(International
POPs Elimination Network、国際 POPs
廃絶ネットワーク)も、INC4を踏まえINC5
に向けて 準備された議長案(最新のもの)では、ASGMの問題や、汚染サイトの浄化・修復の問題、被 害者への補償の問題などに十分対応できないのではないか、と危惧している(IPEN Note toMercury Treaty Delegates、以下 IPEN Note)
30)。たとえば、現行の条約案では、ASGM
に関し、後述するように、ASGMに関連する一連の規制を免れたり、一定期間適用を猶予されたり、あ るいは、許容される使用(Use allowed)の余地があり、その場合は輸出入も認められるという ような内容となる可能性もなくはない(詳しくは後述)31)。
しかし、初めて、水銀について包括的な規制・管理の仕組みが整えられつつあるのは確かで あり、評価すべきである。ただ、このように、「水銀」条約の策定により、水銀の管理に係る国 際的な枠組みを構築する動きが急速に進む中で、(繰り返しになるが)忘れてはならないのは、
それと同時に、個別具体的な被害者の救済(司法的、準司法的、政治的救済を含む)もまた、
必ず視野に入れなければならない、ということなのである。新条約に、先に述べたような個々 の具体的な水銀曝露による健康被害を救済する途が含まれればよいが、それは、INC5 議長案 までの内容を見る限り、もはや現実的な選択肢ではないように思われる。
「水銀」のような有害化学物質の場合には、人の健康や生命に対して直接的かつ深刻な被害 を生じさせるため、とりわけ、個別具体的な被害救済の途が確保されなければならない。しか し、この点は、まずは、現在策定中の水銀条約の採択を待って、その枠組みの中でどのような 可能性があるか(又はないのか)を見極めた上で論じるのが適切であろうから(現時点で盛り 込まれないと悲観的に決めつけることはできないので)、別稿にて改めて検討することとしたい。
2. 人権法アプローチの強化 2.1 人権法アプローチの意義
環境保護の実現について、「人権法アプローチ」が有益に機能することは、これまでも環境保 護のいくつかの分野で検討してきた。ここでは、同様に、それが、有害化学物質規制・管理の 局面でも見て取れることを述べることとする。
すでに、別稿で示したように、ここでいう「人権法アプローチ(human rights law approach)」 とは、いわゆる「人権アプローチ(human rights approach)」として言及されるもののうち、
とくに既存の人権法の援用によるものを意味する。「人権アプローチ」と括られるものには、「環 境権」といった新たな人権を国際法のレベルで創設することや、EU で行われているように既 存の人権の「発展的解釈」によるもの、そして、本稿がそれらから敢えて区別して定義すると ころの既存の人権法の援用によるもの、「人権法アプローチ」が含まれる32)。
ここで敢えて、環境保護の実現を考える上で、なぜ「人権アプローチ」の中でも「既存の人
権の援用」によるアプローチに絞って検討するかであるが、それは、「既存の人権の援用」によ るものが、最も安定的、効果的、即応的にかつ、また人権を基盤とするために正当性をも付与 する形で環境保護の実現を支援し得ると考えられるからである。「環境権」を創設する方向はこ れまでにも試みられてこなかったわけではないが、残念ながら頓挫してしまっている。例えば、
1972
年のストックホルム宣言前文1項に象徴されるような「人は、環境の創造物であると同時 に、環境の形成者である。・・中略・・自然の環境と人が創り出した環境は、ともに人間の福利 および基本的人権ひいては生存権そのもの享有にとって不可欠である」という考えは、環境法 と人権法の確固たる連携の確立を目指す方向であり、以降の環境法の発展にとって理想的な基 盤となり得たはずであったが、実際のところ途上国の発展の権利を考慮しないものとして敬遠 され、1992
年のリオ宣言ではより現実的な理念、「持続可能な開発(sustainable development)」 に取って代わられてしまったのである。環境保護の人権的側面を再び強調する立場からは、いわゆる「環境権」の創設は望ましいと ころであるが、このように必ずしも現実的な手法ではないことは、これまでにも指摘したとこ ろであり)、また今日の国際的な動向を見ても明らかである。他方で、EUで行われてきたよう な既存の人権諸規則の「発展的解釈」による環境保護の手法も、国際法のレベルでは難しい。
EU
はそもそも同質性が高い地域共同体であり、また地域共同体としての共同体法が存在する からこそ可能なのである。したがって、今日、環境法の更なる健全な発展が模索され、その体系化・精緻化の新たな「軸」
として、「人権アプローチ」の可能性が期待されるとするならば、その「中核」はあくまで「既 存の人権の援用(あるいは、少し広義で考える必要があれば、「活用」も視野に入れた形式での)」 による手法、すなわち「人権法アプローチ」を通じてなされるのが現実的であろう、というこ とになる 。
ところで、筆者は、すでに、GMO 管理・規制における「人権法アプローチ」の機能、また 気候変動問題への法的対応における「人権法アプローチ」の補完的機能について論じてきたが33)、 ここでは、それらを踏まえ、さらに有害化学物質管理、とくに水銀に焦点を当てて、論じるこ ととする。
2.2 国連人権理事会及び OHCHR の役割
人権と環境とのリンクの必要性を検討し、そのリンクの活用を積極的に推進する上で、国連 人権理事会及び
OHCHR(国連人権高等弁務官事務所; Office of the High Commissioner for
Human Rights)が果たした役割は大きいと言ってよい。とくに、2005
年頃から、気候変動による環境損害と人権法とのリンクに焦点が当てられ、国連人権理事会や
OHCHR
が、この問題を取り上げ、以降、学術的にも議論が活発化した。
OHCHR
は、2011
年12
月16
日「人権と環境との関係に関する分析的な研究(Analytical Studyon the relationship between human rights and the environment)
」34)と題する文書を、OHCHR
報 告書としてまとめた。これは、2012年6
月の人権理事会の定期総会で提出された。この報告書は、
2011
年4
月12
日の人権理事会決議16/11
35)を受けてまとめられたものであり、①人権と環境の関係の概念的関係、②人権への環境的脅威、③環境と人権保護の相互補完、④ 人権と環境の域外的局面、に焦点が当てられている。これまで漠然としていた人権と環境との 関係性について、概念的な議論の整理のみならず、とくにどのような場面で人権と環境の関係 性が問題となり、また必要とされるのか、指摘しており、この報告書の意義は極めて大きい。
以下、2.2.1から
2.2.4
において、その内容をそれぞれ概観しつつ、分析する。また本稿との関連では、2011年
9
月、国連人権理事会が決議18/11
36)に基づき、とくに、有 害物質や廃棄物の投棄、有害製品の製造から最終処分に渡る全行程につき、特別報告者に調査 報告を求めたことも注目に値する37)。この点についても、2.4で言及する。2.2.1 人権と環境の関係の概念的関係
人権と環境の関係の性質は何か、また、新たな人権、すなわち、健康的な環境への権利(right
to a healthy environment)を国際社会は認めるべきか、という問題意識は、1972
年の国連人間環境会議の時から問われてきた。
この点、2011年の
OHCHR
報告書(以下、とくに断りがなければ単にOHCHR
報告書とい う)は、人権と環境の関係につき、(a)環境は人権の享受にとって前提である(the environment is a precondition to the
enjoyment of human rights)とするもの、
(b)人権は、環境問題に対処するための手続的・実体的ツールであり(human rights
are tools to address environmental issues, both procedurally and substantively)
、十分な環 境保護を達成するため人権の利用可能性を強調する(emphasizes the possibility of usinghuman rights to achieve adequate levels of environmental protection)もの、
(c)人権及び環境を『持続可能な開発』の概念の下に統合する(the integration of
human rights and the environment under the concept of sustainable development)もの、
のいずれかに分類されると整理した。但し、この関係性に関する
3
類型は、必ずしも排他的 ではなく、相互に関連することが付言されている点については注意を要する(OHCHR報告書、para.7-9)
。また、「環境権」については、そのような権利を国際法上認めるとしても、権利義務主体がど
うなるのかという問題が依然として解決されないことが確認された(同、para.11-13)。他方で 国内判例における人権法ベースの紛争解決・救済事案の蓄積や、多くの環境保護関連文書で人 権と環境とのリンクが言及されていることが強調された点が注目される(同、para.14)。
2.2.2 人権への環境的脅威
2011
年のOHCHR
報告書では、環境悪化により人権の実現が脅かされる可能性について強調されている。とくに、環境影響に脆弱な人々に対する影響が懸念として重視されている。さら に、それらの懸念は
(a)大気汚染、気候変動、オゾン層の破壊などの大気関連の環境損害、
(b)土地の劣化、森林破壊、砂漠化といった土地関連の環境破壊、
(c)水質汚染、水不足、漁場破壊のような海洋への悪影響、
(d)有害廃棄物、化学汚染や公害、
(e)生物多様性の喪失、
(f)自然災害の脅威(ハリケーン、熱帯性サイクロン、火山噴火、津波、地震、干ば つ、洪水、地滑り)、
の
6
つの類型に分類され、これらが様々な環境損害の中でもとくに人権の享受にとって重要 な影響を与えうる環境損害の種類と初めて明確に区別化された。依然として、それぞれ大きな カテゴリーであり、漠然としたものであるが、人権の享受への脅威となり得る環境損害として 抽出・列挙したことの意味は大きい(OHCHR報告書、para.15-22)。なお、本稿との関係では、この中に、「(d)有害廃棄物、化学汚染や公害」が含められてい ることに注視しなければならない。
2.2.3 環境と人権保護の相互補完
OHCHR
報告書はさらに、環境保護と人権保護とは、相互補完関係にあることを強調している。第一に、環境保護が人権の享受にとって重要であり、それは、初めて環境と人権のリンク に言及した
1972
年ストックホルム宣言以降の条約等でも確認されるとする。たとえば、児童の 権利条約24
条2
項(c)は、「環境汚染の危険を考慮に入れて、基礎的な保健の枠組みの範囲内 で行われることを含めて、特に容易に利用可能な技術の適用により並びに十分に栄養のある食 物及び清潔な飲料水の供給を通じて、疾病及び栄養不良と闘うこと」と規定しており、また地 域条約には、より明示的に環境保護の必要性に言及するものもあることが指摘されている(人 及び人民の権利に関するアフリカ憲章、経済的, 社会的および文化的分野における米州人権条 約の追加議定書など)(OHCHR報告書、para.23-26)。他方で、環境条約も、その目的が、人の健康や環境保護、人類の共同遺産の保護などとして おり、環境保護が、人類の生存と発展にとって不可欠であることを認めている。さらに、民主 主義及び法の支配を担保するため、環境情報へのアクセス、公衆参加、司法手続へのアクセス を明示的に規定する条約が存在することも指摘されている(同、para.27)。
このように、環境と人権の相互補完関係は明らかであるが、しかし、権利ベースのアプロー チをどのように実際の環境保護で役立てるかについては、まださらに明確化されなければなら ないことが認識されている(同、para.28)。
2.2.4 人権と環境の域外的局面
OHCHR
報告書が、人権と環境のこの側面にとくに焦点を当てたことは、非常に重要である。すなわち、人権と環境の関連性を模索していくことは、「人権法は国家の領域外義務を認めるか 否 か 」 と いう 議 論 に 帰着 す る ことで あ る (The linkage between human rights and the
environment raises the question whether human rights law recognizes States’ extraterritorial obligations)
、と端的に指摘している(OHCHR報告書、para.64)。人権と環境の域外的局面のもっとも典型的な例は、もちろん、越境環境損害であり、例えば、
ある国家の発生させた公害が、他国の環境に悪影響を与えたり人権を侵害したりした場合であ る。越境環境損害は、国境を接した
2
国間でも、あるいは、気候変動のような形式や、また国 家の管轄権を超えた公海の汚染というような形式で、地球規模でも起こりうる(同、para.65-66)
。さらに、域外性は、多国籍企業が域外で活動する際の規制をどうするかという問題とも関係 する(同、para.67)。
こうした問題について、OHCHR報告書は、今日とくに経済的、社会的、及び文化的権利の 分野で、国家の域外義務を認める重要な進展があることを指摘している。2011年
9
月28
日に 研究者らが会合して採択された、マーストリヒト原則(Maastricht principles on extraterritorialobligations of states)
38)は、この意味で、人権法の域外適用がなされる局面につき詳細な分析を したもので、参考になるとする(同、para.68-71)。もし、国家の人権法上の義務の域外適用が認められれば、先に述べた意味で、地球規模の環 境損害も含む、越境環境損害、あるいは、国家の管轄権外であるために活動の規制が及ばない とされていた多国籍企業の活動から生ずる環境損害に関して、被害を受けた人々が救済を求め る途が開かれることとなり、重要であることが強調されている(同、para.72-73)。
2.3 OHCHR 報告書と水銀管理・規制
以上のように国連人権理事会決議
16/11
に基づきOHCHR
が作成した報告書では、それまで単に概念のレベルに留まっていた「人権と環境との関係」についての議論を、さらに掘り下げ、
具体的な事象別、あるいは、どのような場合に「人権と環境の関係」を補強することが有意義 であるか、また現時点での限界はどのような点かについて指摘しており、それは、環境法の今 後の発展にとって、非常に重要な指針であることは明らかである。
ただ、上記
2.2.1
で記したように、OHCHR報告書も依然として、「環境権」の創設について は消極的であって、やはり、既存の人権の活用による環境保護の実現の方向性が模索されるべ きであろう。この意味で、2.2.4
において指摘されたように、国家の人権法上の義務が域外適用 される可能性を拡充させ、法的基盤を整備することは、意味のあることだと思われる。さらに、すでに
2.2.2
で指摘したように、本稿の観点では、人権との関連性が深い損害として、「(d)有害廃棄物、化学汚染や公害」が挙げられていることは看過すべきではない。もちろん、
人権にまったく無関係な環境損害などあり得ず、その意味では、すべての環境損害が何らかの 形で人権侵害となり得るといえるが、ここで列挙された環境損害は、
OHCHR
報告書によれば、権利ベースでの救済を求める可能性を含むものと言え (2.2.4)、本稿の目指すところ、結論に 沿うものである。
2.4 有害物質・廃棄物特別報告者報告と水銀管理・規制
上述したように、国連人権理事会は、2011年、決議
18/11
に基づき、2010年より有害物質・廃棄物特別報告者となっていたカリン・ジョージェスク(Calin Georgescu)に、有害物質・廃 棄物の環境上適正な管理及び処理に関連する人権法上の義務(human rights obligations related
to environmentally sound management and disposal of hazardous substances and waste)につい
ての報告を求め、報告書は2012
年人権理事会に提出された(以下、「ジョージェスク報告書」39) という)。ジョージェスクは、同報告書の中でとくに、採掘産業(extractive industries)において使用 され又生成される有害物質・廃棄物の環境上適正な管理及び処理に焦点を当て、また関連する 人権法上の義務についての整理を試みている。
水銀との関連では、鉱物の採掘そのもの(excavation)の過程より(例えばアルミニウムの ような場合には溶液注入により鉱物を溶かして採掘する)、むしろその製鉱(beneficiation)過 程(金の製鉱の場合には、金を含む鉱石から不純物を取り除くため、水銀と混合させてアマル ガムを合成させ、その後加熱し元素水銀を蒸発させて金を抽出する)で発生するとし、このよ うな手法に依拠した
ASGM
での金産出量は、国際社会における金の総生産量の13
パーセント にも達するとしている。そして、この際に、大気中に放出される水銀の吸入や食物・水を通じ ての経口摂取、水銀に直接触れることなどから水銀被爆が起こることを指摘している(ジョージェスク報告書、para.5-7)。
水銀に起因する被害の態様をも踏まえ、ジョージェスクは、とくに関連性の深い人権として
①健康と生命に対する権利(right to adequate health and life)、
②食料と栄養に対する権利(right to adequate food and nutrition)、
③ 安 全 で 健 康 的 な 労 働 環 境 に 対 す る 権 利 (
right to a safe and healthy working environment)
、④安全な飲料水と十分な衛生に対する権利(right to safe drinking water and adequate
sanitation)
、⑤安全、衛生的かつ健康的な持続可能な環境の享受に対する権利(right to the enjoyment
of a safe, clean and healthy sustainable environment)
、などの諸権利を挙げて、関係を考察し、報告書にまとめた。
とくに、①に関して、ジョージェスクは、金の採掘で深刻な水銀被爆が起きており(ブラジ ル、コロンビア、ガイアナ、インドネシア、フィリピン、タンザニア、ジンバブエでは
WHO
が定める許容基準の50
倍の水銀被爆)、水銀の蒸気の吸入により、神経系・消化器系疾患、免 疫機能、肺や肝臓の疾患などを引き起こしていることを指摘した(肺癌は因果関係が証明され ていないが、ASGM 従事者に肺癌のリスクが非常に高いことも報告された)(ジョージェスク報告書、
para.25)
。健康に対する権利、生命に対する権利は、世界人権宣言、国際人権規約(社会権規約、自由権規約)に明記されていることを確認した上で、ジョージェスクはまずは「健 康に対する権利」の実現を重視する。すなわち、社会権規約
12
条が「すべての者が到達可能な 最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有する」ことを認め、社会権規約委員会の一 般的意見14
がこれを詳細に補強していること、また自由権規約委員会一般的意見6
が健康に対 する権利の国家による実現は国民の平均寿命を延ばし、生命に対する権利実現の確保に繋がる としていることを強調した(同、para.27)。また、水銀被爆については、とくに子ども(ILOの推計では
100
万人の児童が採掘産業に従 事、中には3
才の児童も含まれるという)、女性(とくに生殖可能期間)が脆弱であることが指 摘された。そして、子どもについては、児童の権利条約24
条、32条、また女性については女 子差別撤廃条約11
条1
項(f)の存在が指摘されている(同、para.28-33)。②に関して、ジョージェスクは、とくに魚類に蓄積されるメチル水銀の摂取について、懸念 を示し、これが、社会権規約その他人権条約に規定される「食料に対する権利」を侵害するこ とを指摘している(同、para.34)。
また③については、とくに水銀に限定しないが、採掘行為が、有害物質に曝される非常に危 険な労働であり、したがって、社会権規約
7
条、女子差別撤廃条約11
条に規定する人権侵害となり得ることを指摘している。また、国家は、環境衛生及び産業衛生のあらゆる状態の改善(12 条
2
項(b))、職業病その他の疾病の予防、治療及び抑圧(同条同項(c))する必要があるこ とも指摘した(同、para.37-38)。さらに、④について、水銀汚染は水を通じて拡散するため、採掘場や工場の排水場など限定 的な場所のみならず、数百キロメートル離れた地域に居住する人々の「安全な飲料水と十分な 衛生に対する権利」を侵害するとしている(同、para.39-40)。
⑤について、ジョージェスクは、水銀の環境中への放出は深刻な環境被害を引き起こすこと を強調し、したがって、いわゆる「環境権」(ジョージェスクは、人権理事会の定式化に基づき
「安全、衛生的かつ健康的な持続可能な環境の享受に対する権利」としている)の法的位置づ けについても、積極的な立場で捉えようとする。すなわち、ジョージェスクによれば、2012年
3
月の国連人権理事会の決議19/10
(Human Rights and Environment)40)は、今日、国際社会が、「安全、衛生的かつ健康的な持続可能な環境の享受に対する権利」を認める方向へと合意形成 しつつある(the growing consensus among States on the right to the enjoyment of a safe, clean
and healthy sustainable environment)状況を示すものと指摘している(同、para.41-42)
。3. 新条約―水銀条約の試み
以上、現行の有害化学物質規制・管理に関する国際法制度では、「水銀」に対処するためには 不十分であること、また他方で、国連人権理事会や
OHCHR
のイニシアチブに基づき、人権と 環境の相互補完的関係をさらに強固にすることが模索されていること、そのような中で、現在、水銀についての新たな条約策定が進められていることにつき、とくに関連する「人権」の実現 という観点から、どのような評価を与えることが可能か、検討を行いたい。
本条約は、また条約案の作成の段階であり、2013年の採択を目指して、国際交渉が進められ ている最中である。したがって、採択時の最終的なものではないことを前提としつつ、現状の 評価を行う。なお、INC4でまとめられた条約案(UNEP(DTIE)/Hg/INC.4.8, annex I、以下
「INC4条約案」という)41)及びその他の議論を踏まえ、
INC5
での交渉に向け、議長案(UNEP(DTIE)/Hg/INC.5/3、以下「INC5 議長案」という)42)が提案されているので、本稿では、
主としてその
INC5
議長案に基づき、人権との関連での考察を行う。水銀条約は、以下に述べるいくつかの重要な点において、人権への配慮を含み策定されよう としている。しかし、IPEN によっても指摘されているように、必ずしも十分でない側面もあ る。以下、具体的に考察する。
(1)
前文について条約の目的、理念、背景として、人の健康に対する言及がなされている。たとえば、冒頭第
1
パラで、リオ宣言第6
原則、7
原則、15
原則及び16
原則を再確認する(Reaffirming the principlesof the Rio Declaration on Environment and Development, in particular principles 6, 7, 15 and 16)
ことが明記され、とりわけリオ宣言第
15
原則を再確認することにより、水銀への包括的規制・管理方法としても「予防的方策(the precautionary approach)」により取り組まれるべきとする 点は重要である。また、第
8
パラでは、「水銀によって生ずる被害から人の健康や環境を保護す る国家の義務を考慮し(Taking account of Parties’ obligation to protect human health and theenvironment against damage caused by mercury)
」とあり、上記と併せて解釈すれば、水銀の規 制・管理において、国家は人の健康や環境保護するため、「予防的方策」をとるべき義務がある ことが読み取れるのであって、こうした新条約の目的については、ジョージェスクが示した関 連する諸人権保護の観点からも積極的に評価できる。ただし、前文については、全体が、[ ]で括られており、最終的な交渉でどのように変更さ れるか、まだわからないという問題がある。そのため、INC5 議長案も慎重な態度をとってお り、INC4条約案から文言を変更していないことにつき、敢えて断り書きをしている。
なお、IPENは、前文が、リオ宣言第
10
原則(情報へのアクセス)、第13
原則(補償)につ いての言及を欠くこと、また、単にリオ宣言諸原則へ言及するに留め、「予防」という文言を明 示的に使用していないことについて懸念を示している(IPEN は、ストックホルム条約の前文(Acknowledging that precaution underlies the concerns of all the Parties and is embedded within
this Convention(前文 8
パラ))と比較すれば、INC4条約案及びINC5
議長案の前文の文言は「予防的方策」(the precautionary approach)に基づく取り組みを明確にしていないとする)43)。
(2)
人力小規模金採掘(ASGM ; Artisanal Small-scale Gold Miners)について途上国でとくに人の健康の問題とされてきた
ASGM
における水銀使用やそれに伴う水銀の 環境中への排出を削減、可能である場合には廃絶すること(この場合については、「可能である 場合には廃絶」(where feasible eliminate)という文言が入っている。9条2
項)について初め て本格的な国際的な規制がなされる予定である。ジョージェスク報告書の①、③と直接的に関 連する非常に重要な規定である。締約国は、国内での
ASGM
がmore than insignificant
であると決定した場合にはいつでも(ifat any time it determines that artisanal and small scale gold mining and processing in its territory
is more than insignificant)
、条約事務局に対して報告し、附属書E
に基づく国家行動計画を作 成・実施、条約発効後3
年以内に計画及び実施状況につき条約事務局に送付・報告することが 義務付けられる(9条3
項)。締約国は、その他の締約国や国際機関等との協力により、ASGM への水銀使用の削減措置(転用予防戦略の策定、教育等)を実施することができる(9条4
項)。 締約国が、3項に基づき国内に一定規模のASGM
の存在を報告する場合であって、かつ、そのASGM
にとって、国内の水銀供給源が利用可能でない場合には、作成する国家行動計画に従い 水銀を輸入することができる(9条5
項(a))。以上に関して、IPEN は厳しく批判している44)。まず第一に、この制度では、国内の
ASGM
についての報告は、存在するかしないか、また存在したとしてmore than insignificant
であるか どうか、基準もないまま締約国自らが判断してよいこととなっているため(9条3
項)、少なく とも自国で行われているASGM
がmore than insignificant
であると報告しない限りは、国家行 動計画の策定の義務もなく、ASGM
で使用される水銀削減の努力も課されないことになってし まうという問題がある。また、そもそもASGM
を抱える国家は途上国であるが、途上国には、10
年間、条約の適用の猶予が認められる(8条bis: [Any Party that is a developing country shall be entitled to delay for ten years its compliance with the control measures set out in Articles 3–14 of this Convention.]ただし、括弧書である)
。また、上記、9
条3
項を満たし、ASGM
を維持し、そのための水銀が国内での産出でカバーできない締約国は、とくに期限の要求もなく
ASGM
で の使用のための水銀の輸入を認められる(9条5
項)。事実上、ASGM
の継続を可能にする余地 がないとは言えず、IPENの指摘するようにこのまま規定されるとすれば、問題が大きい。(3)
大気への排出削減について水銀の大気への排出については、これまで国際的な包括的規制は存在しなかった(但し、例 えば地域条約としては、長距離越境大気汚染条約の重金属議定書の例がある)。このことは、水 銀の大気への排出は、環境及び人の健康の保護の観点からは軽視されてきたことを示している。
水俣病を経験した日本の国内法ですらも、規制してはいない。すなわち、大気汚染防止法は、
ばい煙を「物の燃焼、合成、分解その他の処理(機械的処理を除く。)に伴い発生する物質のう ち、カドミウム、塩素、弗化水素、鉛その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそ れがある物質(第一号に掲げるものを除く。)で政令で定めるもの」(2条
1(3)
)と規定、また 大気汚染防止法施行令は「人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある物質」とし て、カドミウム及びその化合物、塩素及び塩化水素、弗素、弗化水素及び弗化珪素、鉛及びそ の化合物、窒素酸化物を指すとし(1 条)、「水銀及びその化合物」は「人の健康又は生活環境 に係る被害を生ずるおそれがある物質」とされてこなかったのである。INC4
条約案の開催前に示された2012
年3
月のINC4
案(UNEP(DTIE)/Hg/INC.4/3)で は、例えば、オプションの1つとしてではあるが、石炭火力発電所などからから[非意図的に(unintentional)]排出される水銀について、「削減し、可能であれば廃絶」又は「削減し、可 能である場合には廃絶するための手段を講じる」(オプション
1(10
条と11
条を分離する案)/ 10
条1
項))とし、少なくとも「可能である場合には廃絶」(where feasible eliminate)いう文 言が入っていた。さらに「利用可能な最良の技術(BAT; Best Available Techniques)」の適用を[要求
( require )
]又は[推奨( encourage )
]し、「環境のための最良の慣行(BEP; BestEnvironmental Practices)
」の適用を促進(promote)することを規定しようとした(UNEP(DTIE)/Hg/INC.4/3、10
条2
項)。この方向性は、INC4条約案(UNEP(DTIE)/Hg/INC.4.8, annexI)でも基本的に維持されており、一般的義務として「削減」
「可能である場合には廃絶」を目指したこと、また
BAT/BEP
を規制・管理の基本的な前提としていたことから、ジョージェス ク報告書の①、⑤に挙げられた関連の人権実現を重視するものとして一定の評価に値した。しかし、その後、INC5議長案では全く新しい条項案が提示され45)、INC4条約案における
10
条とはかなり異なるものとなっている。まず、INC5
議長案では、一般的義務として排出の「削 減」「可能な場合には廃絶」との文言は削除され、代わって排出の「管理(control)」という概 念が全面的に押し出された。またBAT/BEP
は、排出源が「新しい施設」である場合には必ず 適用されなければならないが(shall require the use of best available techniques and bestenvironmental practices to control emissions)
、「既存の施設」である場合には、限定的に(締約 国の選択の1つとして)適用されるにすぎなくなった(shall require the control of emissions byimplementing at least one of the following measures:
(a) Adopt a goal for reducing emissions;(
b)Establish and require compliance with emission limit values, or equivalent technical measures; (c) Require the use of best available techniques and best environmental practices)
。BAT/BEP
に基づく排出管理を義務づけることが常に排出削減効果を上げるというわけではないかもしれないが、その他の選択肢(上記(a)(b))については、事実上柔軟な援用が可能で あり、
INC5
議長案は、INC4
条約案よりも重要な点において後退している感は否めない。IPEN
も、この点、既存の施設に対する規制・管理が不十分であると指摘している46)。この他にも、IPEN は、大気への放出についての総量規制がないことについて、深刻な懸念 を示している。すなわち、
INC5
議長案では、施設ごとの規制であり(排出限界値(Emission limitvalue)とは、1つの排出源(a point source of emissions)から排出される水銀・水銀化合物の
濃度の限界値についての規制(INC5 議長案、10条2(e)
)であり、既存の施設についての規 制管理方法の1つとして、この「排出限界値」を設定し遵守することが求められる(同、10条5(b)
)、したがって、施設が増加すれば全体としての排出量は増加してしまうという問題があ るとしている47)。またINC5
準備のために各国が提出した意見書には、排出限界値の閾値(thethreshold specified in column 2 of Annex F)の設定をどうするかに関して疑問を呈するものもあ
る48)。(4)
土壌又は水への放出について土壌(land)又は水(water)への放出(releases)は、Annex Gに掲載されたタイプの施設 につき、大気への排出と同様に、「新しい施設」と「既存の施設」とに分けて、それぞれ規制・
管理を定める。ちなみにここでも、放出の「削減」「可能な場合には廃絶」との一般義務規定は 存在せず、放出の「管理(control)」という概念が中核に据えられている(INC5議長案、11条
1
項)。大気への排出管理の場合と同様、「新しい施設」からの放出の管理については、締約国は
BAT/BEP
の適用を義務付けられるが(同、11条4
項)、「既存の施設」からの放出の場合には、BAT/BEPの適用は、選択肢の1つであり、他の方法として(a)Adopt a goal for reducing
releases
か、又は(b) Establish and require compliance with release limit values, or equivalenttechnical measures
も選択可能とされている(同、11条5
項)。土壌や水への水銀・水銀化合物の放出は、(ASGM については別であるが)大気への排出よ りもさらに直接的に(限られた地域において、とくに)人の健康や環境に影響すると考えられ、
したがって、ジョージェスク報告書の①、②との関連において、この項目が規制・管理の対象 とされたことは非常に評価できる。
ただし、大気への排出の場合と同様、放出管理において
BAT/BAP
の適用が義務づけられる のは、「新しい施設」だけになるとすれば、実際の規制・管理の効果は、かなり減じられてしま うだろう。さらにIPEN
の指摘では、例えば附属書G
に掲載の排出源のみでは、採掘による土 壌汚染は、「副産物」として放出されるものに限定され、採掘そのものから直接的に生ずる土壌 汚染をカバーできていないなどの問題もある49)。(5)
保管、廃棄物及び汚染サイトについてジョージェスク報告書がその⑤において指摘しているように、水銀の環境中への放出は、甚 大な環境被害をもたらす。また、健康や生命に対する権利、食料に対する権利、水に対する権 利を脅かすものであり、したがって、①、②、④とも関連する。こうして保管、廃棄物の管理 や汚染サイトの修復については、新たな水銀条約において、人権保護、人権の実現の観点から も不可欠の重要項目といえる。
2012
年3
月のINC4
案(UNEP(DTIE)/Hg/INC.4/3)では、保管に関し、バーゼル条約下 のガイドライン等を考慮しつつ、COP で指針を採択し、「廃棄物」である水銀以外の水銀を管 理することが念頭に置いていた(12条)。水銀廃棄物については、バーゼル条約を考慮しつつ、環境上適正に管理(13条
2
項(a))、当該条約及びバーゼル条約で定める環境上適正な処分を 目的とする場合を除き、越境移動を行わないとする内容であった(13条2
項(c))。以降、大 きな変更はないが、INC5議長案では、12条と13
条のリンクが強調された50)。次に、汚染サイトについては、まず各国が汚染サイト特定のための戦略策定に努力すること
(14条