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地震防災における意思決定に関する研究

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

地震防災における意思決定に関する研究

清家, 規

https://doi.org/10.11501/3163990

出版情報:Kyushu University, 1999, 博士(人間環境学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

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地震防災における意思決定に関する研究

平成11年

清 家 規

(4)

自 次

第1章 序論

S l.1 研究の背景と目的

S l.2 論文の構成

-ょ っム バ匂

1i

第2章 地震荷重および地震地域係数に関する研究

S 2.1 はじめに

S 2.2 経済モデル

S 2.3 地震動最大加速度の発生確率

S 2.4 地震荷重に対する経済的パラメータと目的関数の値

S 2.5 都市モデルの経済的パラメータ

S 2.6 都市モデルの数値解

S 2.7 現行の地震地域係数の妥当性

S 2.8 むすび

7 8 9 0 1 5 7 8 9

1

1 1 2 2 2 2 2 2

第3章 各地点で被害確率を揃える手法による地震地域係数の考察

S 3.1 はじめに

S 3.2 中低層RC建物の被害程度別被害確率の計算法

S 3.3 計算例

S 3.4 計算例の検討と解釈

S 3.5 計算例の検討からみた考察

S 3.6 まとめ

円ノω っο Fhu Qd 1i 1i つ'u qtu qJ

?d ηJ A-A AT A吐

第4章 地域防災計画の基本構造の現状分析

S 4.1 地域防災計画の改訂の背景

S 4.2 地震防災システムの基本構造

S 4.3 計画の定義と性格指標

S 4.4 応急対策計画の課題一実行可能性

S 4.5 地震防災計画の検討事項

S 4.6 地域防災計画策定の基本

S 4.7 事例研究:福岡県の地域防災計画

4ム Fb ぷU ウi Qd nu っ,JU つ。

4

4 4 4 4 5 5 5

(5)

第5章 社会生活統計指標に基づく行政区別地震災害脆弱性評価 (35.1 はじめに

(35.2 対象とする自治体及び地域特性の調査項

(35.3 多変量解析の手法を用いた各自治体の分類、

(35.4 自治体別地震災害脆弱性の評価基準 (35.5 自治体別地震災害脆弱性の評価結果 (35.6 まとめ

60 61 63 64 69 70 75

第6章 経済的尺度に基づく地震防災行政における意思決定法に関する考察……89 (36.1 地震防災行政における政策決定法の課題

(36.2 地震被害想定の手法

6.2.1 地表面地動の大きさの推定 6.2.2 建物全壊率の推定

6.2.3 建物資産被害額の算出法 (36.3 地震被害想定結果の概要

6.3.1福岡市の概要と構造別・建設年代別建物分布 6.3.2 地震による建物被害の想定結果

(36.4耐震投資戦略の検討

(36.5 費用有効度分析を用いた耐震投資戦略の評価 (36.6 自治体の財政力と防災予算との関係

(36.7 まとめ

1 2 3 4

6

6 9 3 4 7 9 9 9 9 9 9999

0 0 0 0

11ム 可1よ 11ム ーーム

第7章 結論 ..112

(37.1 総括 (37.2 今後の課題

...113 .・・116

(6)

第1章 序論

91.1 研究の背景と目的

9 1.2 論文の構成

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第1章 序論

91.1 研究の背景と目的

阪神・淡路大震災後, 多くの自治体で地域防災計画の見直しが行われている。 しかし

部の自治体を除いて, 自発的な危機意識に基づいて主体的に見直しが行われているわけでは ない。 また, 専門家を信頼し, これに物事を任せる社会と信頼しない社会があるとすれば,

現代の時代的背景は,昨今のジャーナリズムによる官僚パッシングに端的に見られるように,

明らかに専門家を信頼しない社会へと動いているように見える。 こうした中で, 地震防災の 必要性を社会に対して説明し, 理解を得ていくためには, 従来の通常の科学的手続きによる 専門家相互だけに話が通じるような形ではなく, 社会現象をできるだけ相互に関連づけ, 総 合化しながら解釈することにより, 一般の人々の理解しやすい形で問題を提示していくこと が必要であろう。

本論のタイトルは「地震防災における意志決定に関する研究」であり, 非常に広範な議論 を含みうる, タイトルだけでは内容がよくわからないものとなっている。 これは, 本論がこ こで実際に展開されている議論のみでなく, より広範な問題意識に基づいて論考されたもの であることを示したかった, という著者の意図と関係している。

このような半ば漠然としたテーマに取り組み始めた頃, 衝撃を受けた文章に, 現在,大阪 府立大学人間科学科教授として, r生命学jという知の新たな地平を切り開いている森岡が まだ\大学院博士課程にいる頃に書いたという「姥捨山問題Jがある1)。 これを読んで, 地 震防災の問題を解決して行くには, この問題をある種特殊な形の姥捨山問題として考えなく てはならないのではないかと考えるようになった。 長くなるが, 全文を引用してみたい。

最近、 この国で静かに進行しつつあるいくつかの社会的な出来事の裏には、 それらを互いに結びつける、

何か共通の糸があるような気がしてならない。

朝日新聞の天声人語(昭和62年1月24日)はマザー・テレサの次のような言葉を紹介している。

「東京で道端に倒れている人を見ました。 通行人が誰も救おうとしないのには、 ショックを受けました。 助 けてもまた戻ってくるからといって手をさしのべないのは、 その人の尊厳を奪うことになります。 」天声人 語はこの言葉を受けて次の ように続ける。 r多くの人は、 この「正論Jに頭を下げる。 下げながらも、 内心 では公園や地下街に野宿する人々を迷惑に思っている。 」

医大で聞いた話。 重い糖尿病の女性が、 合併症を起こし、 ほぼ全盲となり、 股関節もやられて歩行困難に なった。 そのうえ腎臓が悪化し尿毒症も進んでいるので、 透析をする必要がある。 ただしその場合、 日常生 活や通院のために、 長時間の他人の介助が必要になり、 かなりの額の出費が予想される。 医者はこの女性に 透析を勧めるが、 彼女ははっきりとした意志表示をしない。 そこで医者は、 彼女の家庭を訪問し、 家族に事

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情を説明する。 家族の皆さんのご協力があれば、 彼女は透析を受けることができ、 病状の悪化を少しでも遅 らせることができますよ、 と。 ところが家族は、 透析の勧めに対して賛成も反対もせず、 ただお茶を濁すの みである。 その脇で、 彼女は、 申し訳なさそうに、 うつむいて座っている。

この不幸な女性のために自ら犠牲を引き受けて手をさしのべよ、 という医者の言い分は正論である。 家族 はこの正論には頭を下げる。 下げながらも、 それを迷惑に思う。

年老いた親を離れに住まわせる。 やがて親は、 夜中に大声で騒ぎ、 何度も何度も食事を催促し、 いたると ころで失禁を始めるようになる。 痴呆性老人を抱えた家族の多くは、 いずれその世話に疲れはて、 精神も肉 体もズタズタになって、 結局は痴呆性老人を老人施設に送るであろう。 家族は言うかもしれない。 r私の力 ではこれ以上あの人の世話をすることはできません。 老人施設でめんどうを見てもらった方があの人のため になるし、 あの人もその方が幸せだと思います。 」しかしその表現の裏には、 「あの人のために私がこれ以 上苦しむのは嫌ですJという思いが見えかくれする。

痴呆性老人を抱えた家族に対して、 「確かにつらいのはわかるが、 その苦しみを両肩に引き受けてこそ、

真に 人間らしい行いといえるのですよJというのはたやすい。 これは正論である。 しかしこの正論を、 他人 に対してだけではなく、 自分に対しても責任を持って言える人が、 どのくらいいるだろうか。 自分の親が、

親戚が、 痴呆性老人になって、 私と私の家族を苦しめ、 私と私の家族の生活をどん底にまで崩壊させたとき、

それでもなお「私はこのすべての苦しみを引き受け、 どんなことがあろうともこの老人の世話を責任を持っ て続けるJと断言できる人が、 どのくらいいるのだろうか。

人工妊娠中絶がこんなにも多いのはなぜか。 若い女性たちはどのような動機で、 人工妊娠中絶を選択する のか。 彼が堕せと言ったから。 経済的理由から。 生まれてくる子どものことを思って。 しかし、 表面にはで てこない重要な動機のーっとして、 「経済的に私が苦しくなるのが嫌だからJ r生まれてくる子供のことを 思いやってではなく、 子供を生んだ後の私の生活のことを思ってjという動機があるのではなかろうか。 私 はま だ若い。 お腹のこの子さえいなければ、 私はもっともっと楽しい生活をエンジョイすることができる。

今、 この時期に子供が生ま れるのは、 私にとってこのうえない迷惑である。 だから、 胎児にはかわいそうだ が、 私は人工妊娠中絶を選択する。

これ ら様々な問題は、 同じーっの構造を持った問題として見ょうとしない限り、 ただのバラバラな出来事 でしかない。 これらの問題を結びあわせる共通の糸、 それが「姥捨山問題Jである。 姥捨山問題は、 現代、

突然に生じたものではない。 それは、 その名が示すように、 姥を背負って楢山に捨てに行った貧しい昔から、

存在していた。 ただ、 その行為が、 巧妙に姿を変えて、 豊かな社会に生きる私たちの生活の思いもかけぬと ころにまで浸透している点が、 現代の姥捨山問題の特徴であろう。

現代、 姥捨山問題は広義の医療の場面に集中して現れているように見える。 しかしそれは、 医療の場面で の姥捨山問題の現れ方がショッキングなだけに、 それ以外の場所で生じているものよりも、 目立つためであ ると私は考えたい。 姥捨山行為とは、 石ころのようなモノを捨てる行為ではない。 血も涙もある生身の他者 を捨てる行為である。 他者を捨てるという行為が、 他でもない、 他者の命を救うことを至上目的とする広義 の医療の現場で、 私たち自身をも巻き込んでなされているという点が、 人目を引きつけるのだ。

私は以下、 姥捨山問題について、 少々探求してみたい。 姥捨山問題なんて「言わずもがなJのことさ、 と いう意見も当然あるだろう。 しかし、 「言わずもがなJのことをあえて言葉に出して言ってみることもまた、

大切なことだと思う。 ましてや、 言葉に出さずに「あうん」の呼吸に任せることが、 姥捨山問題の本質の一 部をなしているとすれば、 なおさらである。 以下の叙述によって、 姥捨山問題の構造は、 思いの外複雑で根 が深いことがわかるだろう。

救命ボートの倫理という話がある。 乗客をたくさん乗せた船が難破して、 人々は救命ボートで脱出する。

ボートの定員は六人。 定員いっぱいになってようやく浮かんでいる救命ボートに七番目の人聞が泳ぎ着いた。

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彼を乗せるとポートは沈没し全員死んでしまう。 私たちは彼を乗せるべきか、 それとも見捨てるべきか。

これは典型的な極限状況である。 では、 次の例を考えてほしい。

定員六人のボートに五人乗っている。 そこへ六番目の人間が泳ぎ着いた。 彼をボートに乗せた場合、 一人 分の食糧の割り当てが少なくなり、 生活環境は極度に悪化して、 一人一 人の生存の確率も低下し、 乗員の苦 しみは急激に増加することになる。 それでもかまわない。 六番目の人間を乗せてみんなで苦しみを分かち合 おう、 というのは正論である。 しかし実際には、 この正論に頭を下げながらも、 六番目の客を迷惑に思い、

結局彼を見捨てることがあるかもしれない。

姥捨山問題は、 この後者の問題に似ている。 特に、 これ以上の苦しみを引き受けることができるにも関わ らず、 あえてそれを引き受けずに、 他者を見捨てるという点が。

たと えば、 前述の尿毒症の女性が透析を受けることは、 家族に莫大な負担をかけるかもしれない。 そして その結果、 家庭は崩壊の危機に直面するかもしれない。 しかし、 そのようなすべての苦しみを引き受けて、

彼女に透析を受けさせることは、 決して不可能な行為ではない。 家族がその気になりさえすれば、 できるは ずである。 できるにもかかわらず、 しない。

痴呆性老人の世話は、 家族に莫大な負担をかける。 老人の下の始末や食事の世話、 そして行動の監視など、

家族がすべて引き受けざるを得ない。 家族は精神的にも肉体的にも疲労困懲する。 しかし、 老人の世話によ って家族の誰かが死んでしまうわけでもない。 異常な苦しみにあえぎつ つも、 家族が協力して、 老人の世話 を続けることは、 不可能ではない。 不可能ではないにも関わらず、 家族は老人を施設に送る。

同じ構造は、 人工妊娠中絶の場合にも見られることがある。 赤ちゃんを生むことで、 私の経済状態は悪化 し、 日々苦しい生活が待ち 受けていることが予想される。 しかし、 健康な赤ちゃんを生んで育てることは、

決して不可能ではない。 不可能でないにも関わらず、 私は赤ちゃんを見捨てる。

できないからしない、 というのなら話はわかる。 ところがこれらのケースでは、 「できるのにしないJの である。 できるのに、 しない。 それはなぜか。 それをすることで、 私が(あるいは私の身内が)これ以上苦 しむのが嫌だからである。 痴呆性老人の世話を続けることで、 あるいは赤ちゃんを生んで育てることで、 私 がこれ以上苦しむのが嫌だから、 私は彼らを見捨てる。 本人のためを思って、 とか様々な言い訳がなされる だろうが、 心の奥底では、 私がこれ以上苦しむのが嫌だから彼らを見捨てるのだ。

私の心の中に潜む利己傾向、 私がこれ以上苦しむのは絶対嫌だという利己傾向が、 姥捨山問題を生む。 た だし、 姥捨山問題は、 単なる利己傾向・エゴの問題ではない。

痴呆性老人を施設に送る。 あるいは人工妊娠中絶を行う。 その後で私は内心ほっとする。 今までの緊張と 苦しみはほぐれ、 再び静かな生活がよみがえってくる。 しかし、 やがて、 私は自分のした行為に対して新た な苦しみを覚えるようになるだろう。 自分のエゴを通して他者を捨ててしまったことへの悔恨と、 自責の念 と、 それに対する正当化が、 私の心の中で激しく衝突する。 その衝突を経験することは苦しみである。 私が 他者の世話をすることでこれ以上苦しむのは嫌だから、 私は他者を捨てたはずなのに、 今度は捨てた行為そ のものが、 私を苦しめる。 捨てずに世話をするのも「苦しみJ、 捨ててしまうのも「苦しみ」 。 姥捨山問題 は、 このような苦しみの構造を持っている。 自分の利己傾向を見つめることの苦しみなど、 痴呆性老人を世 話する苦しみに比べれば、 微々たるものだ、 と人は言うかもしれない。 しかし、 自分の利己的行為を正面か ら見つめたときに、 さしたる煩悶を覚えないほど、 人間は利己に徹しきれる動物ではない。

では、 これ以上苦しむのが嫌な人はどうすればよいか。 答え。 捨て方を考えればよい。 千葉県動物愛護セ ンターは、 一年間に、 捨て犬25252匹、 捨て猫7345匹を受け入れた。 そのほとんどは殺処分になった。 I殺 処分施設は、 あってはならない施設だと思います。 しかし、 犬、 猫が捨てられるという現実を、 じゃあ誰が 引き受けるのでしょう。 …一-人間のエコでしょうね。 結局、 自分の命の尊さしか感じていないのではないで しょうか。 そして、 自分は残酷なことはしていないと思いたいから、 こういう施設が必要になる。 J (朝日

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新聞、 昭和62年7月3日朝刊・金曜ひろば)

残酷なことはしていないと思えるような形で捨てればよいのだ。 私は確かに他者を捨てたのだが、 実はそ れが結局は彼自身のためであり、 私は自分の行為に苦しみを感じる必要などまったくないのだ、 と自分に言 い聞かせることができるような形で。

そのような、 いわば社会的に認知された言い訳を、 ハード面で支えるものとして、 「施設」はあるのだと 思う。 そして、 それをソフト面から支えるものとして、 ある独特の言説システムが用意されている。

その話にはいる前に、 ここで述べておくべきことがある。 道端に倒れている人は、 どんな人であれ助け起 こすべきである、 というのは正論であった。 どんな苦しみを背負うことになっても、 自ら犠牲を引き受けて 痴呆性老人の世話をせよ、 というのは正論であった。 救命ボートに六番目の人間を助けあげよ、 というのは 正論であった。 ところで、 「正論」とはいったい何のことだろうか。

正論とは、 理想化された人間に対して発せられる、 倫理的な命令である。 しかし、 私たちは聖人君子のよ うな理想的な人間ではない。 すべての苦しみを引き受けて老人の介護をせよ、 という倫理的な命令に対して、

私たちは頭を下げる。 本当はそうすべきであることを私たちはよく知っているから。 ただ、 私たちのすべて が、 その理想論を実行できるわけではない。 私たちの多くは、 結局は自らのエゴに負け、 正論には頭を下げ ながらも、 痴呆性老人を捨ててしまう。 すべての苦しみを引き受けて痴呆性老人の介護をせよ、 という命令 の価値がわからずに老人を捨てるのでもなく、 その命令を間違ったものとみなして老人を捨てるのでもない。

その命令は正論であり、 倫理的には正しいということを十分承知しながらも、 老人を捨ててしまうのである。

私が苦しむのが嫌だという利己傾向が姥捨山行為を生み、 その姥捨山行為が今度は再び私を苦しめる。 そ れにもかかわらず、 姥捨山行為を生む原因となった利己傾向を、 私たちの多くは、 決して克服することがで きない。 老人を捨てるのはよくないことだとわかつてはいても、 あるいは自分の楽しい将来のために胎児を 中絶するのはよくないことだとわかつてはいても、 私は結局彼らを捨ててしまう。 利己傾向を克服できない という、 人間の弱さ、 これが姥捨山問題を生む土壌となる。

正論にのみ立脚する倫理学というものがある。 すべての人に正論を説き、 利己傾向に陥りがちな人間を、

あらゆる方法で正論へ導こうとする。 正論の倫理学にとって、 老人を捨ててしまう人間のこの弱さは、 克服 されるべき課題である。

しかし私たちの多くは、 正論が正論であることを承知しつつも、 他者を捨ててしまう。 老人をすでに捨て てしまった私に対して、 苦しみを引き受けなかった私に対して、 正論の倫理学はいったい何を与えてくれる のだろうか。 正論の倫理学は、 結局、 「すべての苦しみを引き受けて痴呆性老人の介護をせよJという正論 をここでも繰り返すのみではないだろうか。 正論を正論と知りつつしかも他者を捨ててしまった人間に対し て、 正論を繰り返し説いたとしても、 それは何の解決をも導かない。 いついかなる場合においても、 正論の みを振りかざす倫理学があるとすれば、 それは正論を振りかざすことの自己満足や快感におぼれているので あろう。

姥捨山問題が生じる状況において、 正論の倫理学は不毛である。 rこうすべきだ、 ああすべきだjと述べ ることで自足してしまう倫理学ではなく、 すべきではない行為を結局はしてしまう人聞を見つめ、 その人間 の立場に立って、 その人間がその人間のままで何をすればよいかを考える倫理学こそ、 そこにはふさわしい。

姥捨山問題の最大の特徴は、 それが、 自らを見えにくくする仕組みを備えていることである。 このような 仕組みが存在するからこそ、 姥捨山問題は、 単なる人間のエゴの問題としてではなく、 まさに「姥捨山問題J として問われなければならない。

自らの行為が姥捨山行為であることを見えにくくする最も簡単な仕組みとして、 問題状況を決して言語化 しないという暗黙のルールの存在があげられる。 尿毒症の女性に透析を受けさせるかどうかについて、 賛成 も反対もせず、 ただお茶を濁している家族は、 あえて言語化しないことによる意志決定、 つまり臭いものに

(11)

蓋をしたまま相手に「あうん」の呼吸でわからせる、 という態度 を選んでいる。相手がこの暗黙のルールを 了解して、 呼吸が通じたとき、 家族は臭いもののにおいを直接かぐことなく、 姥捨山行為を完了することが できる。 rあうんJの呼吸を通じさせること で、 私は自分の姥捨山行為から目をそらすことができ、 姥捨山 行為がもたらす苦しみを軽減することができる。 rあうんJの呼吸とは、 姥捨山問題を見えにくくするため の、 一つの装置である。

姥捨山行為がもたらす苦しみから逃れるもう一つの道は、 私が苦しまないような方法で他者を捨てること であった。 そのためには、 自分に言い聞かせる「言い訳Jがあればよい。 たとえば、 「施設に入ってもらう ことが結局は痴呆性老人のためになるのだから」という言い訳によって、 自分を十分納得させることができ れば、 私はさほど苦しむことなく老人を捨てることが できる。 もし社会の中に、 「施設は老人のためになる」

という共通了解が形成されていれば、 この言い訳はさらに効果的に機能するだろう。 共通了解は言い訳を裏 付け、 より説得的なものにする。

ところで私たちの住んでいるこの社会には、 実は、 このような働きをする共通了解が、 津々裏々まで、 は りめぐらされているのではないだろうか。 共通了解という形で、 私の目をうまく閉じさせる仕組みが、 この 社会には備わっているのではないだろうか。

妊娠初期の胎児診断によって、 胎児の重大な異常が発見されたとする。 そして妊婦の意志によって、 選択 的人工妊娠中絶が可能であるとする。 わが国では、 このような問題に対する倫理的な指針を、 言説レベルの 論議に求める習慣がまだ少ない。 言葉には出さず、 「あうんJの呼吸で処理してしまうことが多い。 だが、

もし、 このようなケースにおける倫理的指針を、 生命倫理の公の論議に求めた場合、 どうなるだろうか。

およそ三つほどの考え方がある。 一つは、 共苦の実践を勧める考え方。 つまり、 生まれでてくる新生児と 共に苦しみを 分かち合い、 その苦しみがやがて喜びへと開花するのを待つ。 もう一つは、 女性の自己決定権 の考え方。 人工妊娠中絶するか否かは、 純粋に妊婦の自己決定権に委ねられる問題である。 三番目は、 生命 の質の考え方。 価値の低い生命は生かしておく必要はないので、 人工妊娠中絶をしてもよい。 (これらに、

生命の尊厳論や人格論が絡んでくる。)

ところで、 選択的中絶のケースの中には、 姥捨山問題をその本質とするようなケースがあるはずである。

すなわち、 障害を持った赤ちゃんを育ててゆくのは理論的には可能であるのに、 私が将来苦しむのが嫌だか ら人工妊娠中絶をし、 人工妊娠中絶という行為によって再び苦しまないように、 それに目を閉じようとする。

そして人工妊娠中絶にいたる原因となった私の利己的傾向は結局克服できないようなケースが。

ところが上にあげた三つの考え方はどれも、 この種のケースの本質である姥捨山問題を、 見事に視野から はずすような構造になっている。

たとえば共苦の実践の考え方は、 要するに正論の倫理学であり、 多くの人間が自らのエゴを脱却できない という事実に目を閉ざしている。 すべてを女性の自己決定権に収散させる考え方は、 私がこれ以上苦しむの は嫌だから他者を捨て、 今度はその捨てた行為によって私が苦しむという苦しみの重層性が、 全く見えない ような構成になっている。 生命の質の考え方は、 私がこれ以上苦しむのが嫌だから他者を捨てるということ を、 その段階で実質的に肯定しており、 この開き直りとも見える肯定の壁によってその先に潜む問題が遮断 される格好になっている。

姥捨山問題をその本質とするような選択的中絶のケースを論じる際に、 その論議が、 姥捨山問題を捉える ことのできないこれら三つの考え方 を軸とする論争へと変容してしまう点に、 注目したい。 この論争の形態

こそ、 私たちの目を姥捨山問題からそらすための言説システムとして機能するのではないか。 言い換えれば、

姥捨山問題の解決を、 「あうんJの呼吸ではなく、 言説レベルに持ち込んだとしても、 そこには、 姥捨山問 題を視野からはずしてしまう言説システムしか用意されていないのではないか。 すなわち、 本当は姥捨山問 題であるはずの問題を、 それが姥捨山問題であるという事実に目を閉ざしたまま、 倫理的に議論できるよう

(12)

な仕組みに、 この社会の言説システムはできあがっているのではないだろうか。

では、 誰がその仕組みを作り上げたのか。 どうして、 社会は姥捨山問題を見えにくくする仕組みを備えて いるのか。 答えは一つしかない。 私 自身がそれを作り上げたのである。 いや、 正確には、 「私たちがJと言 った方がよい。 私たちが、 二重の苦しみから効果的に目をそらすための装置を望み、 それを作り上げたので ある。 私たちの多くが、 二重の苦しみから目をそらすための共通の仕組みを望むとき、 言い換えれば、 「私 の姥捨山問題jが「私たちの姥捨山問題Jとして共有化されたとき、 それに呼応して社会のレベルで、 その 仕組みが自ずから立ち現れてくるのである。

虚心に、 世界の姿と人間の生き様を眺めてみよう。 私を苦しめる出来事から距離を取って、 情報から身を 遠ざけ、 目を閉ざすことによって、 私の良心の苦しみが癒される、 という構造にこの世界はなっている。 姥 捨山問題は、 医療現場にのみ現れる問題ではない。 想像力を広げることで、 姥捨山問題は、 現代社会のあら ゆるところに見いだせる。

たとえばアジア ・ アフリカで飢餓に苦しむ人々がいる。 その一方で私たちはこの国で大量の食糧とエネル ギーを消費し、 豊かに生活を送っている。 どうして私たちは南の飢える人々と苦 しみを分かち合おうとしな いのだろうか。 私たち全員の所得の半額を有効な援助に提供し、 彼らに食糧と住居と技術を与え、 彼らが 立できるようになるまで彼らと苦しみを分かち合うことも、 理論的には可能なはずである。 しかし、 私たち の多くは、 そのことがわかっていても、 そのような行動へは移らない。 せいぜい、 アフリカのごく一部地域 の子供たちに毛布を一度だけ送るという、 きわめて姥捨山的な行為をするのみである。

私たちはこれ以上苦しみを増やすのが嫌なのだ。 南の人々と苦しみを分かち合え、 というのは正論である。

しかし、 いくら正論を説かれても、 私たちの多くは内心それを迷惑に思 う。 確かに南の人の惨状には心が痛 む。 しかし、 いったん目を閉じれば、 日々の食事はおいしく味わえるし、 食後のひとときはこんなにも幸福 である。 なんといっても南の国々は遠い。 日々の身の回りの生活に没頭していれば、 南の人々の苦しみも、

南の人々を助けようとしない私の苦しみも、 忘れることができる。

ポートビープルと呼ばれる難民がいる。 先進諸国の中で、 私たちの国ほど、 彼らの受け入れに消極的な国 はない。 彼らはまさに大洋の真ん中に捨てられている。 楽しい生活をエンジョイしようと胸膨らませている 若いカップルにとって、 お腹の中の 子が招かれざる訪問者であるのと同様に、 豊かなわが国にとって、 移住 を希望してくるボートビープルは、 私たちの幸福をかき乱すかもしれない招かれざる訪問者である。

難民の受け入れに関して、 わが国の世論が盛り上がらないのはなぜか。 そして、 知床の森林伐採や脳死に 関してはあれほど盛り上がったマスコミが、 第三世界からの難民の受け入れについては、 こんなにも鎮静化 しているのはなぜか。 それは、 結局、 私たちの多くがそれを望んでいるからではないのか。 私たちを二重の 苦しみに陥れるかもしれない情報をカッ卜するように、 私たちが心の底で望んでいるからではないのか。 そ のような仕組みに支えられて、 私たちはこの国で、 幸福に暮らしている。

私は姥捨山問題を、 個人の内面の問題として語りすぎただろうか。 確かに姥捨山問題は、 社会システムの 問題、 すなわち本来ならば苦しみを分かち合うはずの人々のネットワークが、 現代、 崩壊しつつあるという 問題でもある。 しかし現代の風潮として、 老人問題や南北問題を、 単に経済社会システム固有の問題として のみ捉え、 その底に潜むはずの私の心の問題に対して、 目を閉ざそうとする傾向があるように思えてならな い。 そのよう な風潮は、 まさに、 私 がこの論文で述べたような、 姥捨山問題を見えにくくする言説システム として機能する恐れが十分にある。

私はこの論文で、 姥捨山問題を、 肯定も否定もしなかった。 老人を捨てるのが悪いとも、 南の人々と苦し みを分かち合わなくてもよいとも言わなかった。 私がこの論文で行ったのは、 た だ姥捨山問題の姿と構造を 明るみに出すことであった。

では明るみにでた姥捨山問題に私たちはどのように対処してゆけばよいのか。 ここにいたって私たちは、

(13)

姥捨山問題がはらむ最大の難問に直面することになる。

まず、 姥捨山問題の単純な肯定は、 姥捨山問題の状況に対して目を閉ざすことになり、 姥捨山問題という 視点そのもの を解消してしまうことにつながりかねない。 これに対して、 姥捨山問題の単純な否定は、 姥捨 山問題に対して正論を説くことになり、 これまた姥捨山問題から目をそらすことにつながってしまう。 かと いって、 肯定も否定もしない態度を続けていると、 いつのまにか姥捨山問題は姿をくらましてしまう。 姥捨 山問題は常に自らの姿を見えにくくする方向へと運動を続けている。 このような問題に対しては、 肯定/否 定の二分法はもはや通用しない。

多くの人は、 口には出さないまでも、 姥捨山問題についてすでに充分気付いているに違いない。 その意味 で私たちは、 言わずもがなのことを、 あえて口に出して言ってみただけのことかもしれない。

しかし私たちの試みの最大の挑戦は、 姥捨山問題が「自らの姿を見えにくくする仕組み」を備えていると いう点を、 明るみに出すことにある。 その 仕組みが十全に機能しているからこそ、 私たちは口に出して言う べきことを、 言わずもがなのことへと押し込めてしまうのである。 この得体のし れない「自らの姿を見えに くくする仕組みJとはいったい何か。 その 仕組みは、 私たちの思考回路の中で、 あるいは社会システムの中 で、 どのような位置を占めているの か。

姥捨山問題に対決するため に、 今必要なのは、 常に自らの姿を隠そうとする姥捨山問題の運動に逆らって、

姥捨山問題を私たちの日常生活の隅々に、 そして世界の いたるところに新しく「発見」しようと試み続ける ことではないだろうか。 このような「発見Jの継続の みが、 姥捨山問題を捉える数少ない道ではないだろう か。

たとえば南北問題を姥捨山問題として見る。 南北問題を、 そのような構造を持っ た問題として見る。 地味 ではあるが、 このような「発見Jをひとりひとりが積み重ねてゆくことから、 姥捨山問題への 道は開けるの だと思う。 そしてその「発見」の継続の中から、 姥捨山問題の本質と、 「自らを見えにくくする仕組みJの 実態が、 次第に露になってゆくに違いない。

阪神・淡路大震災から4年が経過し, この間, 復旧 ・復興活動が進められるとともに, 大 震災の多くの検証が行われてきている。 しかし, ほとんどの被害が, 現在の技術をもってす れば, 防ぐことができたであろうと思えるものばかりである。 現実の防災対策が進まないこ とに関する説明として, まず取り上げられるのはコストの問題である。 しかし, 実はコスト は大した問題ではないのではないかと筆者には思える。 たとえば, 建築雑誌の1994年l

号で「建築の耐震コスト」という特集が組まれているが, 現実の耐震コストの相場は数%の オーダーであろう, ということである2)。 確かに建築物は高額であるから, たとえ数%でも 大きいと言えば大きい。 しかし 建築主にとってはその前の, 建築物を建てるかどうかのと ころでの決断の方がはるかに大きい問題なのではないだろうか。 もちろん, 現在, 地震防災 においてより大きな問題となっている既存の市街地を抜本的に改良してしまうことには莫大 なコストがかかる。 このコストを負担することは我々の社会には難しいであろう, と思える ほどの額である。 しかし このことを理由に 「やはりコストのせいで防災対策が進まない のだ」と考えるわけにはいかない。 このことは, 藤田が「都市は食糧を生産しないにもかか わらず, 通常食糧を生産する農村よりも飢えないJという命題をライト ・ モチーフとして展

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関する都市論からも明らかである3)。 古代史家Fクーランジュが古典的名著「古代都市J .1)

のなかで, 都市が出現していく過程を説明しているが, これは次のように要約される。

「都市(キヴィタス)を構成するのには長い年月を要したのに対して, 一旦これに同意する と都会(ウルブス)が一挙に建設された」と。

キヴィタスは宗教的・政治的団体である都市を意味する言葉で, 英語のCityの語源にも なった言葉である。 それに対してウルブスは建造物などの集合を意味する言葉で, 英語の urban の語源にもなった言葉である。 現在, この文章を読むと, 都市と都会を意味するキ ヴィタスとウルブスという二つの言葉の意味は, まったく逆になっているように見える。 つ まり, 宗教的・政治的団体である都市の形成など, 人々の合意さえ取り付ければよいのであ る。 これに対して, 都会を意味する物理的な都市の建設にはおびただしい石材や木材を周辺 部から運搬し, それで城壁や宮殿, 市民のための家屋などを造らなければならない。 まして 今のように機械のない時代であり, いかに大変であったかと感じられる。

ところが, 実際にはF . クーランジュのいうように, 都市の物理的建設よりも, 人々が新 たな都市の建設に合意することの方が, よほど難しいのである。 そのことは現在の都市建設 を考えてみても同じである。 たとえば首都移転の問題を考えてみればわかるが, 集団間や地 方聞のおびただしく錯綜する利害の調節が必要である。 その厳しい対立の中から新たな合意 を得ることなど, ほとんど不可能に近い。 東京の過密問題は昔から指摘されているが, 遷都 が近いうちに実現するとは, その推進者を含めて本気で考えている人はあまりいないという のが, 偽らざるところだろう。 これに対して, ニュータウン建設のための合意など, それが いかに大規模な土木工事を伴うものであれ, はるかに簡単に得られるものである。

森岡や藤田が言うように 人類は飢えの問題をいまだに解決できていない。 なぜ\飢餓が 存在するのかは決して新しい問題ではない。 人類、は数万年来, このことを問い続けてきた。

ところが, 月に人間を送り込んだりするのと比較にならないほど簡単に解決すると思われる この問題ほど困難な問題もない。 飢えの問題は食糧生産の総量が増大するだけでは解決でき なかった。 食糧生産自体は世界的規模で見ると, 1980年代半ばに, 50 億人の地球で穀類だ けでも120億人分も生産されているのである九なぜ\これで飢えが発生するのかといえば,

われわれが美食を楽しみたいからだ, というしかない。 つまり, 穀類を食べるのは人間だけ ではない。 穀類、はその多くが家畜によって消費されるのである。 現代日本のわれわれは科学 技術の恩恵により, かつての王侯貴族も及ばぬほどの生活を享受しているが, 一方で人類全 体としては, 人間にとって根源的な苦痛である「飢え」の問題さえ克服できないのである。

現代日本のわれわれの社会は, 年間3万人を超える自殺者を容認する社会であり, 年間1

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万人を超える交通事故死者を容認する社会でもある。 こういった言い方には反発を感じる人 も多いであろう。 しかし, 現実には誰もが現状を追認してしまっているのである。 たとえ,

反対意見を持っていたとしても, それを社会に対して提示できなければ現状追認になってし まう。 もちろん筆者も同罪である。 こうしたさまざまな社会問題の中で地震防災問題の位置

づけが問われなければならない。

地震防災の問題解決のためには現実の社会への働きかけを必要とする。 地震防災における 意志決定は多かれ少なかれ社会的決定である。 地震防災への取り組みが成果をおさめられる かどうかはーにかかつて, 社会的同意が得られるかどうかにかかっている。 冒頭に述べたよ うに, 現代の社会は専門家を信頼しない社会へと動いているように見える。 専門家だけがも のを考えて社会的決定を下し, 一般の人々に押しつけるわけにはいかない。 現代社会はエリ ーテイズムとポピュリズムの対立において ポピュリズムが優勢になってきている社会であ る。 佐伯による論考6)を見てみよう。

国家にとって重要な問題を, 一部の専門家の手にゆだねる場合には, この専門集団に対する信頼がなけれ ばなら ない。 それが失われたとき, 官僚という専門集団 の権威は失墜する。 そして, 確かに現在, 官僚集団 に対するこの「信頼Jが失われつつある。 (中略)

現代日本で は, エリー卜専門家であるには, ごく限られた世界だけを知ればよいのである。 こうして, リート専門家はますます大衆から遊離する。 そして大衆から遊離したエリートに対して大衆 は, ますます反 感をつのらせることとなる。 同時に, 大衆の側には, 戦後 の一貫した反権威主義, 反エリート主義の風潮が あった。 重要な事項をすべてエリー卜専門集団にゆだねているにもかかわらず, ムードとしての反エリー卜 主義が大衆の信条に根を下ろしているのである。 そしてそ れをもっとも巧妙に操作した のがマスメディアで あった。 戦後デモクラシーがわれわ れに与えた精神的態度の, もっ とも額著な一つがこの反権威主義, 反エ リート主義だと言ってよいだろ う。 (中略)

ここに二つの思考方法がある と考えてみよう。 一つは, 物事を区切り, 分節化し, そ のそれぞれを取り出 して分析する ものであり, 通常の科学の手続きはこれに従っている。 そ うしてもう一つは, 社会現象をでき

るだけ, 相互に関連づけ, 相関させ, 総合化しながら解釈してゆくやり方である。

前者は, 現象を分析するためにある領域をあらかじめ取り出すのだが, この区切り取り出すという作業に おいて, すでに一定の価値観をインプリシット(暗黙のうち)に持ち込んでいる。 にもかかわらず, それが インプリシット なのと, 分析方法が一見客観的に見え るために科学と称せられ, 客観的妥当性が主張される。

方, 後者は, 本来, ちぎり取った り分節化したりできない現象をそ のまま扱お う とするにもかかわらず,

総合化 の説明において「解釈」という 一見主観的要素をもちこむために, 非科学的, イデオロギー的に見え る。 結果は明らかであり, 分析的科学の勝利である。 切り取った特定のフィールドの分析家は「専門家Jと 称せられることとなる のであり, 現代社会の知的世界で最も重要な役割を果たすのは, 各種の「専門家Jで あることは言う までもない。 (中略)彼らは, 現代のよう な知識社会においては重要なエリート層を形作る。

そして, こうした「専門家Jの持つ価値観が社会の公認された価値観となってゆく。 すなわち , 客観性, 値化さ れデータ化さ れた科学性, 専門的謙虚さ , 善意ある中立性, 反権威主義といったものである。 実際,

「専門家Jというエリートへの「信頼Jは, まさにこのよう な価値観にかかっているように見える。 しかし,

ある状況では, 実は, このことは欺踊でしかないことにも注意しておか なければなら ない。 しばしば「専門

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家Jエリートの客観性とは, 強固な思いこみの上に装われた客観性であり, 科学性はただデータ化不能なも のを切り捨てた科学性であり, 謙虚さは尊大なまでの自意識を伴った謙虚さであり, 中立性は自己満足の手 段であり, 反権威主義は無意識の権威主義を隠す口実である。 こうした狙善的な客観主義, 尊大な謙虚さ,

権威的な反権威主義というねじれた価値観こそが現代の「専門主義」エリート文化の精神構造の軸をなして いる。 (中略)

言うまでもなく, 現代の社会は, ますます複雑性と不確実性を高めている。 グローパリズムは, 世界の均 一化をもたらすと言うよりも, 多様な世界の調整しがたい葛藤や摩擦を高めつつある。 (中略)こうした不 透明さの中で, われわれはどこに確実性の根拠を求めてゆけばよいのか, これは現代社会の第一級の問題と なりつつある。 幾つかのレベルでの「信頼Jこそが, かろうじて, 確実性を確保し, 社会的な生をかろうじ て安定化する決定的なファクターとなる以外にないのではないだろうか。

こうした中で, 地震防災の必要性を社会に対して説明し, 理解を得て社会的同意へと進ん でいくためには 従来の通常の科学的手続きによる専門家相互だけに話が通じるような形で はなく, 社会現象をできるだけ相互に関連づけ, 総合化しながら解釈することにより, 一般 の人々の理解しやすい形で問題を提示していくことが必要であろう。

阪神・淡路大震災による犠牲者の大部分は, 古くて質の悪い建物や家具の倒壊による圧死 と救出困難が原因であったし, 長田区を中心にして発生した大火もそこが質の悪い木造家屋 が密集した地域であったことが原因である。この事実をもとにして地震災害を考えてみると,

その最も中心に置かれる対象は, 自然条件が悪い場所に建てられてきた構造的な弱点を抱え ている建築物であり, それらが密集している市街地ということになる。 相対的に構造に弱点 のある建物は殆どが民間の建物である。 都市の大災害とは社会の安定が大きく損なわれる現 象であり, その状況はひとえに災害による死者や避難民の多寡によって支配される。 このよ うな議論を進めていくと都市防災の本質は都市に存在する劣悪な市街地の環境改善という都 市計画本来の目的とまさしく合致してくる。 ところが少し考えればわかるとおり, この問題 は容易なことでは解決しない。 最も大きな障害は, 民間の既存建築物, 特に年数を経た古い 建築物の改善を指示できる公的な強制力が使えないことである。

地震という自然現象を震災という人為的災害にしないための基本的な対策は, 構造物の耐 震性強化である。 明治以来, 河川改修, 砂防ダム, 防波堤など台風・豪雨に対しては, その 対策の対象が公共施設であり, 公共事業によるかなりの費用投下が行われてきた。 しかし,

地震に対しては, 対策の主な対象は民間建築物等の私有財産であり, 公的資金の投入を正当 化する理論は未だに構築されていない。 さらに, 一般に風水害に比較して頻度が低く, 危機 態理そのものも困難であることから, どうしても対策が後回しになってしまいやすい。 地方 治体は, 公共信託理論が示すように市民の生命・健康・財産, そして環境を守る義務があ る。 神戸市が自ら地震に関する調査を, 昭和46, 47年にわたって京都大学防災研究所, 大 阪市立大学理学部に委託しており, 直下型地震の警告を受けていたにもかかわらず, 震度V

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の防災計画しか持っていなかったことが, 震災後に社会的批判の対象となった。 神戸市は自 ら経費を支出し調査しておきながら, 専門家の視点からの過剰反応としか受け止めなかった のではなかろうか, と甲南大学の高寄は推測している 7)。 自治体行政に関しては, 福祉・教 育・医療・ 下水・道路・公園 ・住宅などさまざまな需要があり, それぞれの領域が自らの必 要性を強調し, 行政への反映を求めている。 震災対策は, それら多くの課題の中のーっとし て, どうしても軽視されやすい性格を持っている。 しかし, 地震時の家屋倒壊による死者を 根絶するためには, 単なる防災対策だけでなく, 都市構造, そして住宅改良による住宅水準 そのもののレベルアップを図っていかなければならない。 ことに都市スラムの解消という難 事業にどれだけ精力を注ぐかが問われる。

震災前, 非戦災街区の区画整理とか住環境整備事業は, 事実としてきわめて困難視されて きた。 安全性に欠けるがそれなりに住みやすい街区であり, 権力をもって介入するにはあま りに権利関係は錯綜しており, また改造するにはすでに成熟しきったコミュニティとなって いる。 神戸市は何度も事業化を試みては住民の反対と財源の壁のために断念し, 改造プラン も住民の拒否反応によって合意に失敗している。 密集街区は開発のために切り捨てられたと する批判が多くなされているが, 震災前にどのような安全な街に造り替えができたのであろ うか。 どのような環境改善フランを示せば住民は賛同したのであろうか, との問いかけがな されている7)。

阪神・淡路大震災において壊滅的な被害を被った, 戦前に建てられた旧式の重い瓦や土を 載せた屋根を持つ木造住宅, あるいは戦後すぐに建てられた仮住まいのような木造アパート や商底は, まだまだ多くの都市に存在する。 また新築される零細な木造住宅や商庖について も, その耐震性能が十分であるか否かを建物完成後に検査をする制度も現存していない。 現 在の建築基準法が, 一般市民の戸建て住宅や木造庖舗に対する審査や検査について, これま で及び腰の姿勢であったことも否めない。

阪神・淡路大震災は, これまでの建築行政の零細建築物に対する指導の甘さを厳しく問う ものであった。 さらに都市計画においても, 問題の山積みしている劣悪な市街地の再開発に ついて, 役所が目をそらしてきた現状を明らかにした。 質の悪い建築物の建築や改築を許さ ないように, 耐震性能の高い建築群による再開発を, ある程度の強制力を持って押し進める ことが重要である。 ところでこのような方策を適用していく場所は, 都市生活の弱者が居住 し, 生業を営んでいる都市の中の条件不利地区である。 彼らには建物や市街地を改善するた めに充分な資金の負担能力がない。 どうしても公的な補助がこれらの地区に投入されなけれ ばならない。 ここで明らかになってくることは, その財源をこれまでの慣習的な公共事業や 財政投融資の軌道の変更に求めることである。 資産形成能力が弱い高齢者や零細企業従業者 の生活環境の改善のために, 21世紀には大都市の革新的な再開発が緊急の政策課題となっ

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てこよう。 一方において, 都市居住者もその住居や仕事場を安普請の仮の住まいと考えるべ きではなく, 後世の世代に委ねる都市の貴重な資産として認識しなければならない。 阪神・

淡路大震災は, 市民の建築に対する意識の改革をも強く促すものであったと思う8)。

首藤は「震災対策を行わず, 備蓄を持たず, 必要な消防車をそろえず, 防災を基盤とする 都市計画を立てなかった自治体で被害が発生すれば, それは「未必の故意」として刑法上の 処罰を受けるべきであろう。 これは神戸市だけの問題ではなく, 少ない防災予算に合わせて 被害想定を操作するという犯罪的な行為を, 科学的分析の名の下に実行している政府, 自治 体, コンサルタント全員の責任でもある」と厳しく責任を追求している9)。

阪神・淡路大震災が起きる前に, 危険を警告する幾多の科学情報があったにもかかわらず,

それらは生かされなかった。 いくら科学的知識がはっきりしたとしても, それを生かす社会 的条件がなければ, 現実には役立たない。 また, 地震防災問題の対策が現実社会への働きか けを必要とする以上, そこに必要なのは自分のことを棚上げにしたままで, 社会や世界につ いて考えるための思想ではない。 自分のことを棚上げにしている限り, 自分の都合のいいよ うな物事しか見えてこない。 我々が自分のことを棚上げにせずに, そして自分にとって都合 の悪いことからも目を逸らさずに 考え続けられるのか, それが問われている。

本論文は, このような社会的背景と問題意識のもとに, 自然的特性のみでなく, 社会的 ・ 経済的特性を考慮して, 建物単体のミクロレベルから都市・ 国等のマクロレベルまでの地震 防災における意志決定について検討を行ったものである。

qJ 唱'ム

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� 1.2 論文の構成

第1章ではこの研究の背景と筆者の問題意識を明らかにし, 本論文の構成について述べて いる。 第2章から第6章までが各論の形になるが, 位置づけとしては事例研究に当たる。

第 2 章ではまず個人の地震防災に関する意思決定の事例として, 地震荷重の決定問題を検 討する。 建築物に関して, 法令の規制が無く, 自由に品質・性能を設定できる場合には, 建 築主等は, 予算等の制約条件下で, I自己にとって最適なJ品質・性能を選ぶと考えること ができる。 耐震安全性も同様である。 ここでは, 地震カタログに基づいて確率論手法により 地震危険度を定式化し, とれを用いて個人の視点から設定した経済モデルを介して最適地震 荷重の検討を行い, 同時に現行建築基準法の地震地域係数の妥当性を考察したものである。

決定法の枠組みとしては, 期待効用の最大化に基づく決定方式である。 なお, ここで用いる モデルでの確率的要素は, 入力地震動のみとし, 建物耐力や応答の部分については確率的考 慮を行っていない。

第3章では決定法の枠組みとしては, 第2章同様に個人的視点から検討を行ったものであ るが, 建物被害の確率を考える場合, 通常は被害を受ける確率は被害を受けずにすむ確率よ りもかなり小さいところで議論が行われる。 したがって, 第2章におけるように地震動のみ が確率変数で, 建物の応答や耐力を確定値として考えると, 建物の応答や耐力のばらつきを 考慮しないために, 通常この問題を取り扱う範囲では, 被害確率を過小評価してしまうこと になる。 このため 建物被害の考え方として, 信頼性設計法に乗るような形で再検討を行っ ておく必要があると考えた。 そこで, ここでは, 対象として, 新潟, 東京, 名古屋, 大阪,

福岡の5地点を取り上げ, 地震ハザード解析で求めた最大地動加速度の極値分布を用いて,

各地点の中低層RC建物の被害程度に応じた被害確率が等しい, という条件で各地点の降 伏耐震強度の平均値を計算することにより, 地震荷重の地域差をどのように表現すべきか 検討を行った。

しかし, 建築物には, 不確実性, 外部性, 情報の不完全性の性質があり, 個人の最適決定 の集積が社会的に最適な状態を導くとは限らない。 そうした意味で, 個人的決定だけではな に社会的決定の問題を取り扱う必要がある。 そこで4章以降では, 自治体・ 国といったマ クロなレベルでの問題を考える。

第4 章では地域地震防災計画の基本構造について, 地震被害想定と地域防災計画の関係,

地域防災計画と地震防災政策の関係について分析する。 地域地震防災計画の特徴を, 西尾の 性格指標(重要性 複雑性, 完全性, 実効性, 明細性, 未来性, 総合性, 集権性)の観点か ら明らかにし, 地域地震防災計画が性格指標のすべての項目で困難な問題を抱えた, きわめ て特殊な計画であること そしてこのことが計画が想定している事態が生じた際に関係者が

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計画通りには行動できないことにつながることを示す。

上記の困難性をふまえた上で, 地域地震防災計画の検討事項を, 地震被害予測, 災害予防 計画, 災害応急対策計画の各場面において検討し, 地域地震防災計画の評価法のあり方につ

いて検討する。

第5章ではわれわれが地域によって異なる地域性を認識する際に, 客観的指標として用い ることができるのは, さまざまな目的で実施されている統計指標しかないことを述べ, 地域 別に耐震性を評価するために, 地理的 ・ 人口学的, 社会経済的, コミュニティにより地域特 性を分類する際に用いることのできる統計指標について検討する。 統計指標を用いて全国の すべての市区を多変量解析の手法を用いて類型化し, 各自治体の地震災害脆弱性を評価し,

兵庫県南部地震の被害とその影響とを地震災害脆弱性評価と比較して, 評価法の妥当性を検 証する。

第6章では福岡市を例に取り, 具体的な地震防災政策の決定法について検討する。 福岡市 において, 警固断層を震源とした地震に対する被害想定を行い, この想定される被害に対し てどのような防災投資政策をとるのが効果的か, 具体的に検証する方法を示す。

第7章では各章の結論をまとめて総括を行い, 今後の課題について述べている。

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第1章の参考文献

1)森岡正博, I生命学への招待-バイオエシックスを超えてJ , 動草書房, pp.239-254,

1988

2)建築雑誌Vo1.109, No.1352, 特集 建築の耐震コスト, pp.13-53, 1994年1月号 3)藤田弘夫, I都市の論理J , 中公新書, 1993

4) F ・ クーランジュ(田辺貞之助訳), I古代都市J, 白水社, 1961 5)西川潤, I世界経済入門J, 岩波新書, 1988

6)佐伯啓思, I現代民主主義の病理J, NHKブックス[788], 1997 7)高寄昇三, I阪神大震災と自治体の対応J, 学陽書房, 1996

8)伊藤滋, I都市防災が求める市民の責任と政策の転換J, 都市科学, VOL.37, pp.8-9,

1998.9

9)神戸新聞, 平成7年1月30日

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第2章 地震荷重および地震地域係数に関する研究

92.1 はじめに

92.2 経済モデル

92.3 地震動最大加速度の発生確率

92.4 地震荷重に対する経済的パラメータと目的関数の値

92.5 都市モデルの経済的パラメータ

92.6 都市モデルの数値解

92.7 現行の地震地域係数の妥当性

92.8 むすび

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第2章 地震荷重及び地震地域係数に関する研究

� 2.1 はじめに

現行の, 地震地域係数, Z, は昭和27年の建設省告示第1074号の水平震度の数値を減 らす基準を, 分布, 数値とも, ほぼそのまま踏襲している。 当時は震度の低減という言葉が 用いられているが, 告示に際してl), “震度の採用値は都市の重要度によって変えるべきで,

例えば北九州地区は統計的には地震危険度は少なくとも, 重工業地帯であるから, 震度は増 さなければならない" 等という意見があった。 解説2)ではさらに “・ー・・・, 地震によって惹起 される被害の影響もまた著しいので, …-一" という説明が加えられている。 爾来40年近く,

大きい手直しが行われていないところを見ると, 地震地域係数に, 経済的なものなど社会条 件も考慮するべきで、あるという考え方が, 受け継がれたと思われる。 自然条件である地震活 動度に基づけば, 日本でもかなり大きい地域差が生ずるが, その差を縮める要因は, 社会的 条件と言える。

ところで, 現行の地震地域係数が, 妥当であるか, 否か, についての研究はあまり行われ ていない。 理由は関わり合う問題が複雑すぎるということであろう。 例えば地震活動度を定 式化することも困難であったと考えられる。 牧野他は, 確率論手法で求める近年の地震活動 度に基づくいわゆる地震危険度が, 歴史地震を含む地震カタログに基づく地震危険度と, 大 枠で一致するものであることを示している孔1)。 確率論手法によれば, 少なくとも論理的な 地震危険度の定式化ができる。

本章の目的は, これを武器として現行の地震地域係数の妥当性を経済モデルを介して考察 することである。

なおこれに先立つて, 地震荷重についても経済モデルで考察しよう。

ところで, 地震荷重の大きさ, すなわちそのレベルの妥当性は, 構造物の耐震性能に深く 関わるものである。 しかし, 複雑な問題を単純化するために, ここでは耐震性能に立ち入ら ないで, 建築物を破壊せしめる地震動の発生確率で評価することとする。 また, 地震動の大 きさは, その加速度振幅の最大値で評価できるものとする。

参照

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