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﹃ 土 佐 日 記

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(1)

はじめに

  ﹃土佐日記﹄が︑﹁歌集﹂でもなければ﹁歌物語﹂でもなく﹁物語﹂でもない︑

新しいジャンルの作品であることは︑その文体からも明らかである︒助動詞﹁ケリ﹂

の使用頻度が低い﹃土佐日記﹄の地の文は︑﹃伊勢物語﹄のそれとも︑﹃竹取物語﹄

のそれとも︑著しく異なる︒その特異な文体から紀貫之の﹃土佐日記﹄構想を窺

い知ることができる︒一に︑﹁日記﹂という新ジャンルが見えてくる︒その可能

性と限界を﹁文体﹂が逆照射するからである︒二に︑作品の﹁内容﹂が見えてくる︒

﹁文体﹂と不可分な関係にある﹁内容﹂を︑稀出の﹁ケリ﹂が照射するからである︒

﹁亡児追慕﹂のテーマと万葉の伝統﹁行路死人歌﹂とのパロディックな繋がりは︑

こうして認識されるに至った︒

  ﹃土佐日記﹄の分析に﹁パロディー﹂という概念を導入したのは︑長谷川政春氏

である︒﹁パロディ的精神︑パロディ的方法をもっていたがゆえに︑貫之は古代

文学史の節目に立って︑広い領域にかかわり︑文学史の流れに棹さして︑ひそか

にわが︿文学史﹀を演出することができたのだ﹂とは︑氏の嚆矢の発言である︒

確かに︑今に通じる日本文学の多岐にわたる流れを︑その水上で分岐させ方向付

けたのは貫之であった︒知る人ぞ知る孤高の文芸改革であったにせよ︑二十一世

紀の今でも︑内外を問わず文学上の新機軸に出遇う度に︑筆者は貫之の﹃土佐日記﹄

に思いを馳せる︒﹁︿貫之﹀亡くなりにたれど︑︿日記﹀のこととどまれるかな﹂と︒

  本論は︑﹁亡児追慕﹂の記述に現れる﹁ケリ﹂が示唆する﹁日記﹂というジャン

ルと﹁亡児追慕﹂の行為と﹃土佐日記﹄執筆との絡み合いを︑﹁行路死人歌﹂を糸

口に︑読み解こうとする試みである︒

一   ﹁ケリ﹂を拒む文体

﹁ケリの原義﹂について︑馬渕和夫氏は︑春日政治氏の説を踏襲し︑

ケリの原義は﹁来有り﹂であるから︑そういうコトやモノがずっと続いてき

ているということを表わすことになり︑現代語で理解すれば﹁ソウイウモノ

ダ﹂﹁ソウイウコトダ﹂という常在必至のこと︵つまり真理と考えたこと︶を

表わそうとしたものだ

と結論づける︒馬渕氏が照会する他の諸説は︑春日説に帰着すると氏が判断す

る大野晋氏の﹁気付きの表現﹂説および竹岡正夫氏や春日和男氏の﹁あなたなる

表現﹂説︑春日説に帰着するとしながら齟齬も指摘する井上親雄氏の﹁心に得た

こと﹂説︑そして馬渕氏は否定する﹁詠歎﹂説および佐伯梅友氏の﹁伝聞回想﹂

説である︒これら諸説を踏まえて︑比較文学の徒であり英語と日本語を併用する

筆者が︑後述する見地から︑私見を纏めると︑以下のようになる︒

  ﹁キアリ﹂即ち﹁ケリ﹂は︑過去を示す﹁キ﹂に対して︑時空を超えて通用す

る物事を︑それと認識した人が発する感動︵﹁気付き﹂・﹁詠嘆﹂︶の表現である一

方︑語り手がその﹁思う﹂ところを︵﹁思う﹂が﹁知る﹂でも﹁聞く﹂︑﹁考える﹂︑

﹁信じる﹂︑﹁感じる﹂でも構わないが︶︑時空を超えて︑誰かに︑語る﹁語り﹂の

表現でもある︒

  ﹁ケリ﹂は英文法で言う﹁現在完了﹂と︑﹁キ﹂は同じく﹁過去﹂と︑時間の捉

え方において︑一致する︒過去の出来事を終わったこととして︑つまり︑﹁今﹂と

関連付けずに捉えるのが︑古語の﹁き﹂であり英語の﹁過去﹂である︒ところが︑

﹁ケリ﹂も﹁現在完了﹂も︑﹁今﹂との関連で過去を捉える︒具体例として︑馬渕

氏も挙げた﹁春は来にけり﹂を検討する︒

﹃ 土 佐 日 記

﹄ に お け る 新 ジ ャ ン ル 創 造 の 方 法

     ︱行路死人歌のパロディー︱

佐 藤 美 弥 子

(2)

  ﹁春は来にけり﹂にせよ “Spring has come.”  にせよ︑語り手の関心は︑﹁春が来た﹂

こと︵﹁いつ﹂を特定し得る過去の一時点における出来事︶に在るのではなく︑﹁春

が来た﹂結果︑今は野も山も花盛り︑といった現実そのものに在る︒﹁春﹂を人間

に置き換えてみると解りやすい︒﹁春子が︵帰って︶来た﹂と言う時︑語り手は﹁い

つ﹂︵例えば︑三日前︶を問題にしているのではなく︑春子が戻ったので︑家が賑

やかになって︑嬉しい︑と言っているのである︒逆に︑﹁三日前に帰って来た﹂と

いう事実が重要であれば︑﹁帰り来し﹂あるいは “Haruko came back (three days 

ago).”  とし︑過去の一時点︵一出来事︶を凝視すればよい︒﹁帰り来にけり﹂ある いは “Haruko has come back.” の場合は︑視線を現在に注ぎつつ過去を視野に収

めて︑過去の出来事の影響が現在にまで及んでいることを確認している︒﹁キ﹂は

一点凝視の視線を︑﹁ケリ﹂は拡い視野を︑それぞれ前提とする︒

  話を元に戻すと︑﹁春は来にけり﹂と言う語り手が一人称の場合︑その﹁ケリ﹂

は︑春景色の美しさに思わず発した﹁詠嘆のケリ﹂であったり︑知らぬ間の春の

到来に﹁気付き﹂発した﹁ケリ﹂であったりする︒語り手が三人称の場合は︑話

題にしている時点で春が現前することを語り︑聞き手あるいは読者を其の時点の

﹁現在﹂へと誘導する︒そして読者は︑ひととき︑その﹁現在﹂を生きることとな

る︒説話や物語の冒頭で﹁今は昔﹂や﹁昔﹂など﹁過去﹂を指し示す副詞と共に

用いられる﹁ケリ﹂は︑この﹁語りのケリ﹂である︒それを春日政治氏は﹁過去﹂

と見なすが︑﹁過去﹂は﹁過去﹂でも﹁現在﹂に繋がる﹁過去﹂であって︑﹁現在﹂

から隔絶された﹁過去﹂を示す﹁キ﹂とは︑本質的に異なる︒﹁ケリ﹂に竹岡氏の

指摘する﹁現在時から物語りの世界︵つまり︑あなたなる世界︶へ誘いこむ働き﹂

があるのも︑﹁ケリ﹂だと﹁現在﹂も﹁過去﹂も視野に入っているので︑視線を﹁現

在﹂から﹁過去﹂へ移すだけで︑﹁現在﹂から﹁過去﹂への移動が可能になる︒﹁今

は昔﹂とは︑﹁現在﹂から﹁過去﹂への移動を読者に促す合図である︒﹁過去﹂か

ら﹁現在﹂へ読者を帰還させる工夫については別稿に譲るとして︑﹁語りのケリ﹂は︑

サイエンス・フィクション用語を借りれば︑時空を超えた﹁瞬間移動﹂を可能に

する﹁転送装置﹂に他ならない︒

  ﹁語りのケリ﹂を︑仏典や教典の語り手︑即ち﹁全知の語り手﹂が用いると︑﹁普

遍の真理﹂が語られることになり︑語り手が限られた知識や情報しか持ち合わせ

ない場合は︑話をありのまま受け入れると︑読者は惑わされることも騙されるこ

ともある︒説話には全知もしくは全知に近い語り手が採用されるが︑物語の語り

手は様々である︒このことを念頭に置くと︑井上﹁心に得たこと﹂説への馬渕氏 の疑念も晴れるであろう︒﹁﹃ケリ﹄は  〝心に得たこと〟  として述べるのに用いる﹂

と説く井上氏は︑語り手が﹁ケリ﹂を用いて﹁自分なり﹂の認識を表明すること

に注目する︒語り手が﹁語り手なり﹂に語るとは︑語り手が﹁どのような語り手﹂

かによって語る内容が変わるということである︒作中人物の一人である﹁語り手﹂

が如何なる属性を与えられているか︑見極めることから﹁読み﹂は始まる︒いか

にも﹁ケリ﹂は﹁語り﹂を﹁読み﹂解く鍵である︒

  ﹃土佐日記﹄初出の﹁ケリ﹂は︑十二月二十三日条にある︒八木のやすのりとい

う人物を取り上げた条で︑国司庁で重用された訳でもないのに出向いて来て︑立

派に餞別をした︑とある︒それを︑日記記者︵以下﹁語り手﹂とも呼ぶ︶は︑前

国司の人徳の為すところとし︑﹁国人の心の常として︑いまはとて見えざなるを︑

心ある者は︑恥ぢずになむ来ける﹂と記す︒ここで語り手が﹁心ある者﹂を八木

のやすのりに限定していると考えるなら︑この﹁ケリ﹂は︑奇特な個人の奇特な

行為に感じ入った語り手が発した﹁詠嘆のケリ﹂ということになる︒しかし︑い

つの世においても﹁心ある者﹂は︑と普遍化していると考えれば︑語り手はここ

で﹁離任して都へ帰る官人に対し現金な態度に出るのが人心というものの︑鄙で

も﹁心ある者﹂は今も昔も人目を憚らずに餞別に来るものだ﹂と言っていること

になる︒すると︑この﹁ケリ﹂は︑常在必至の真理として物事を語る︑﹁ケリの原義﹂

に忠実な﹁語りのケリ﹂ということになる︒このような﹁ケリ﹂も在るには在るが︑

﹃土佐日記﹄は概して﹁ケリ﹂に冷淡である︒

  ﹃土佐日記﹄の本文には﹁ケリ﹂が八十例しかない︒歌謡も含め六十一首もの和

歌が挿入されているこの作品に︑なぜ︑これほど︑﹁ケリ﹂が少ないのであろうか︒

因みに︑八十例の﹁ケリ﹂のうち十九例は歌の中に︑残る六十一例は地の文に在る︒

地の文中﹁ケリ﹂の偏在は顕著で︑二十六もの﹁ケリ﹂が後述する﹁歌語り﹂四

箇所に集中して使われている︒先ず︑一月二十日条と二月九日条に在る﹁歌語り﹂

を観てみよう︒どちらも﹃古今和歌集﹄に収録されている当代の名立たる名歌を

巡る﹁歌語り﹂であり︑前者は﹃古今集﹄の中で︑後者は﹃伊勢物語﹄の中で既

に﹁歌語り﹂としての姿を現している︒

  一月二十日の条は︑悪天候のため船出が儘ならず︑日ばかり過ぎて不安が募り

安眠できない︑という嘆きに始まる︒その百文字弱の文章に﹁ケリ﹂は無い︒続

いて︑阿倍仲麻呂の故事が紹介される︒

二十日の夜の月出でにけり︒山の端もなくて︑海の中よりぞ出で来る︒か

(3)

うやうなるを見てや︑昔︑阿倍仲麻呂といひける人は︑唐土にわたりて︑帰

り来ける時に︑船に乗るべきところにて︑かの国人︑馬のはなむけし︑別れ

惜しみて︑かしこの漢詩作りなどしける︒飽かずやありけむ︑二十日の夜の

月出づるまでぞありける︒その月は︑海よりぞ出でける︒これを見てぞ仲麻

呂のぬし︑﹁わが国に︑かかる歌をなむ︑神代より神もよん給び︑今は上︑中︑

下の人も︑かうやうに︑別れ惜しみ︑喜びもあり︑悲しびもある時にはよむ﹂

とて︑よめりける歌︑

   青海原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも とぞよめりける

︒かの国人

︑聞き知るまじく

︑思ほえたれども

︑言の心を

男文字にさまを書き出だして︑ここのことば伝へたる人にいひ知らせければ︑

心をや聞き得たりけむ︑いと思ひのほかになむ賞でける︒唐土とこの国とは︑

言異なるものなれど︑月のかげは同じことなるべければ︑人の心も同じこと

にやあらむ︒

  さて︑今︑そのかみを思ひやりて︑ある人のよめる歌︑

   みやこにて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

仲麻呂歌の詠作事情を伝える﹁歌語り﹂では次から次へと十度も繰り出される﹁ケ

リ﹂が︑日記文に戻った途端︑使われなくなる︒仲麻呂歌は﹁よめりける歌﹂と

紹介されるが︑ある人の歌は単に﹁よめる歌﹂である︒

  二月九日条の﹁渚の院﹂の件でも︑﹁歌語り﹂の地の文では使われる﹁ケリ﹂が

続く日記文では使われず︑業平歌は﹁といふ歌よめるところなりけり﹂と﹁ケリ﹂

で締め括られるのに対し︑二人の﹁ある人﹂の歌は︑それぞれ﹁よめり﹂﹁よめる﹂

と︑﹁ケリ﹂を用いることなく提示される︒

  かくて︑船引き上るに︑渚の院といふところを見つつ行く︒その院︑昔を

思ひやりてみれば︑おもしろかりけるところなり︒しりへなる岡には︑松の

木どもあり︒中の庭には︑梅の花咲けり︒ここに︑人々のいはく︑﹁これ︑昔︑

名高く聞こえたるところなり﹂﹁故惟喬親王の御供に︑故在原業平中将の︑

   世の中に絶えて桜の咲かざらば春の心はのどけからまし

といふ歌よめるところなりけり﹂︒

  今︑今日ある人︑ところに似たる歌よめり︒

   千代経たる松にはあれどいにしへの声の寒さは変はらざりけり また︑ある人のよめる︑   君恋ひて世を経る宿の梅の花むかしの香にぞなほにほひける

といひつつぞ︑みやこの近づくを喜びつつ上る︒

右に引用した二箇所の﹁歌語り﹂に十二例︑阿倍仲麻呂の故事を戯化したと思

われる新旧国司交歓の宴︵十二月二十五・二十六日︶の記述︵﹁擬・歌語り﹂と呼ぶ︶

に八例︑﹁昔︑土佐といひけるところに住みける女﹂が登場する﹃伊勢物語﹄章段

のパロディーとおぼしき﹁土佐の泊﹂の件︵一月二十九日条︒﹁新・歌語り﹂と呼ぶ︶

に六例︑と﹁歌語り﹂には﹁ケリ﹂が多出する︒その反面︑﹁歌語り﹂を除く地の

文で﹁ケリ﹂に遭遇することは稀である︒

  その日その日の出来事を記す﹁日記﹂という様式が﹁完了﹂の助動詞﹁つ﹂﹁ぬ﹂

﹁たり﹂﹁り﹂の多用をもたらすことは︑予想の範囲内である︒確かに︑﹃土佐日記﹄

冒頭から︑それが顕著である︒

  ある人︑県の四年五年果てて︑例のことども皆し終へて︑解由など取りて︑ 住む館より出でて

︑船に乗るべきところへわたる

︒かれこれ

︑知る知らぬ

送りす︒年ごろよくくらべつる人々なむ︑別れがたく思ひて︑日しきりにと

かくしつつ︑ののしるうちに夜更けぬ︒

  二十二日に︑和泉の国までと平らかに願立つ︒藤原のときざね︑船路なれ

ど馬のはなむけす︒上︑中︑下︑酔ひ飽きて︑いとあやしく︑潮海のほとり

にてあざれあへり︒

﹃土佐日記﹄では︑﹁日記﹂の文と﹁歌語り﹂の文が︑明らかに識別され書き分け

られている︒そこには︑どのような配慮があったのであろう︒阪倉篤義氏の﹃竹

取物語﹄論が参考になる︒阪倉氏は︑﹃竹取物語﹄に﹁漢文訓読文的性格の文章﹂

と﹁非訓読文的性格の文章﹂の共存を認め︑後者が物語の﹁枠﹂を造り前者が﹁枠﹂

内を塗る役割を担っていると述べる︒﹁漢文訓読文的﹂文章は︑男性である作者が

日頃使い慣れたものであり︑これを作者は﹁創作﹂に用い︑  ﹁ケリ﹂で終止する文︵特

に﹁なむ・・・ける﹂﹁ぞ・・・ける﹂の係り結び文︶に特徴づけられる﹁非訓読

文的﹂文章で︑作者は︑読者に念を押しつつ︑口承や書承で伝わっていた︵つまり︑

手をつけることができない︶話素を﹁物語﹂った︑と阪倉氏は言う︒その上で︑

(4)

﹁けり﹂止めの文を用いて︑﹁語る﹂という形式をとることは︑物語という文

学様式にとって︑歴史的な由来をもつ約束であったのであろう︒しかし例えば︑

これと屡

︑ ︑ 対比される﹁伊勢物語﹂が︑総ての叙述をこの形式によって行い︑﹁語

り﹂の姿勢を強調したのに対して︑この物語は︑これをもって枠づけながらも︑

その内部を異質の様式の文章を用いて新しく彩ろうとしたところに︑その創

作態度の違いがあったと思われる︒

と総括する︒その特異な文体と文章構造から﹃竹取物語﹄の生成と特質に迫ろう

とする阪倉論は︑﹃土佐日記﹄を考える上で︑なぜ貫之は﹁ケリ﹂の使用を控えた

のか︑そして︑その﹁ケリ﹂を貫之が敢えて使う時︑いかなる企図がそこに在っ

たのか︑我々に熟考を促す︒

二    亡児哀傷歌と﹁ケリ﹂

  ﹃土佐日記﹄の地の文に在る六十一例の﹁ケリ﹂から前述の﹁歌語り﹂四箇所の﹁ケ

リ﹂を差し引くと︑三十五の﹁ケリ﹂が残る︒そのうちの六例は和歌の前後の言

わば詞書や左注に相等する場所での用例である︒他の二十九例中︑﹁白散を︑ある者︑

夜の間とて︑船屋形にさしはさめりければ﹂︵元旦︶や﹁よき人の︑男につきて下

りて︑住みけるなり﹂︵一月七日︶など﹁語りのケリ﹂は七例︑﹁九日のつとめて︑

大湊より︑奈半の泊を追はむとて︑漕ぎ出でけり﹂︵一月九日︶のように﹁語りの

ケリ﹂とも﹁詠嘆のケリ﹂とも解せる﹁ケリ﹂二例︑残りは﹁この人々ぞ︑志あ

る人なりける﹂﹁これを見送らむとてぞ︑この人どもは追ひ来ける﹂︵同日︶など

総て﹁詠嘆のケリ﹂である︒

  ここで︑土佐で亡くした女児を巡る言説に目を向ける︒﹁詠嘆のケリ﹂が頻出す

るかと思いきや︑以下の通りである︒

  十二月二十七日 かくあるうちに

︑ 京にて生まれたりし女子

︑国にてにはかに亡せにしかば

このごろの出で立ちいそぎ見れど︑何ごともいはず︒京へ帰るに︑女子のな

きのみぞ悲しみ恋ふる︒ある人々もえ堪へず︒このあひだに︑ある人の書き

て出だせる歌︑    みやこへと思ふをもののかなしきはかへらぬ人のあればなりけり

  また︑ある時には︑

   あるものと忘れつつなほなき人をいづらととふぞかなしかりける

といひけるあひだに︑

  一月十一日   この︑羽根といふところ問ふ童のついでにぞ︑また︑昔へ人を思ひ出でて︑

いづれの時にか忘るる︒今日はまして︑母の悲しがらるることは︒下りし時

の人の数足らねば︑古歌に﹁数は足らでぞ帰るべらなる﹂といふことを思ひ

出でて︑人のよめる︑

   世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

といひつつなむ︒

  二月四日

ただ︑昔の人をのみ恋ひつつ︑船なる人のよめる︑

   寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ

といへれば︑ある人の堪へずして︑船の心やりによめる︑

   忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ

となむいへる︒女子のためには︑親︑幼くなりぬべし︒﹁玉ならずもありけむを﹂

と︑人いはむや︒されども﹁死じ子︑顔よかりき﹂といふやうもあり︒

  二月五日

ここに︑昔へ人の母︑一日片時も忘れねばよめる︑

   住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく となむ

︒うつたへに忘れなむとにはあらで

︑恋しき心地

︑しばしやすめて

またも恋ふる力にせむ︑となるべし︒

  二月九日   かく︑上る人々の中に︑京より下りし時に︑みな人︑子どもなかりき︑到

れりし国にてぞ︑子生める者ども︑ありあへる︒人みな︑船のとまるところに︑

子を抱きつつ︑降り乗りす︒これを見て︑昔の子の母︑悲しきに堪へずして︑

   なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ

(5)

といひてぞ泣きける︒父もこれを聞きて︑いかがあらむ︒

  二月十六日

思ひ出でぬことなく

︑思ひ恋しきがうちに

︑この家にて生まれし女子の

︑ もろともに帰らねば

︑いかがは悲しき

︒船人も

︑みな子たかりてののしる

かかるうちに︑なほ︑悲しきに堪へずして︑ひそかに心知れる人といへりけ

る歌︑   生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

とぞいへる︒なお飽かずやあらむ︑また︑かくなむ︑

   見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや

以上︑亡児追慕の言説中︑地の文での﹁ケリ﹂の使用は僅か三例しかない︒右に

引用したどの日記条にも漏れなく歌が︵一首もしくは二首︶記されているが︑そ

の殆どが︑他の日記条におけると同様︑﹁ある人の書きて出だせる歌﹂﹁人のよめ

る・・・といひつつなむ﹂﹁船なる人のよめる・・・といへれば﹂﹁ある人の︵略︶

よめる・・・となむいへる﹂﹁昔へ人の母︵略︶よめる・・・となむ﹂と﹁ケリ﹂

を用いずに紹介されている︒ところが︑亡児追慕の言説初出の十二月二十七日条︑

二月九日条︑そして最終の二月十六日条では︑﹁といひける﹂﹁といひてぞ泣きける﹂

﹁といへりける歌﹂と﹁ケリ﹂が用いられている︒なかでも︑二月十六日の﹁ケリ﹂

は︑歌を披露するにあたって﹁いへりける歌﹂と聴衆や観衆の耳目を引く︑大仰

な表現行為の支柱を成している︒この用例は︑﹃土佐日記﹄中︑先に引用した仲麻

呂挿話の﹁これを見てぞ仲麻呂のぬし︑﹃略﹄とて︑よめりける歌︑青海原・・・﹂

が他に在るだけである︒仲麻呂挿話同様︑ここでも読者の期待を最高潮にまで高

めた上で︑亡児哀傷歌二首が紹介される︒その二首を以て︑二月十六日条ばかり

か﹃土佐日記﹄そのものが結ばれる︒末尾に添えられた﹁忘れがたく︑口惜しき

こと多かれど︑え尽くさず︒とまれかうまれ︑とく破りてむ﹂という一文は︑日

記記者の︑更に言えば︑作者紀貫之の︑擱筆の言である︒

  亡児追慕の言説の︑なぜ︑これらの箇所に︑他では使い控えられる﹁ケリ﹂が

使われたのであろうか︒そもそも︑五十五日間の旅日記の中で亡児追慕の記述が

あるのは︑先に示したように︑僅か六日間の条に限られている︒少ないと言わざ

るを得ない︒しかし︑その少なさが逆にそのテーマの重さを物語っていることは︑

萩谷朴氏も指摘するところである︒然るに︑亡児追慕の記述を︑先ず個別に︑そ れぞれの日記内での配置︑それぞれに欠かさず挿入される和歌︑そして最後の二

首の内容と役割に留意して観︑次に総体として覧てみると︑﹁亡児追慕﹂は﹃土佐

日記﹄の主題の一つに過ぎないと片付けてしまえなくなるのではなかろうか︒以下︑

﹁亡児追慕﹂と﹃土佐日記﹄の構想と完成作品の構造を︑総合的に考察する︒

  ﹃土佐日記﹄の構想については︑菊地靖彦氏が﹃土佐日記﹄と﹃古今和歌集﹄巻 九羇旅部との関連を指摘し︑貫之が旅を素材に﹃土佐日記﹄を創作するにあたっ

て﹃古今集﹄の羇旅を念頭に置いていたのは︑﹃古今集﹄撰者として当然と主張す

る︒﹃土佐日記﹄一月十一日条の﹁今日はまして︑母の悲しがらるることは︒下り

し時の人の数足らねば︑古歌に﹃数は足らでぞ帰るべらなる﹄といふことを思ひ

出でて﹂という一節と︑そこに引かれている古歌︑即ち﹃古今集﹄羇旅四一二番︑

読人しらず︑を比較対照させた菊地氏は︑四一二番歌の左注が伝える詠歌状況と﹃土

佐日記﹄における亡児追慕の状況設定とが︑更には︑﹃古今集﹄羇旅の﹁帰路の旅﹂

と﹃土佐日記﹄の帰京の旅とが︑符合すると述べる︒その上で︑﹁﹃古今集﹄の羇

旅なるものが︑四一二番歌を欠いては成り立たぬように︑﹃土佐日記﹄も亡児追懐

の記述がなかったならば成立し得ないであろう︒これを単なる暗合といってすま

すわけにはいかない﹂とまで洞察しながら︑菊地氏は

﹃土佐日記﹄は﹃古今集﹄的羇旅の具現と見てよいであろう︒そういう観点に

立てば︑たとえば亡児追懐ということがこの作品の主題そのものではないと

いうこともはっきりするであろう︒それは﹁帰京の旅﹂という︑より大きな

テーマをかたちづくるに必須重要な要素であったことになる︒

と結論づける︒果たして︑そうであろうか︒

  ﹃古今集﹄巻九﹁羇旅歌﹂に収められている和歌十六首は︑松田武夫氏によると︑

﹁往路初期の旅の歌﹂︑﹁往路中期の旅の歌﹂︑﹁帰路の旅の歌﹂に分類される

︒ ﹁ 羇

に﹁往路の旅﹂も﹁帰路の旅﹂も含まれるのであれば︑﹁﹃古今集﹄的羇旅の具現﹂

とされる﹃土佐日記﹄は︑﹁往路﹂﹁帰路﹂どちらの旅日記であってもよかったは

ずである︒﹃土佐日記﹄は︑然るに︑﹁帰路の旅﹂の記録である︒﹁帰路の旅﹂の記

録でなければならない事情が︑あったに相違ない︒

  任国土佐への往路の旅と土佐からの帰路の旅との決定的な違いは︑﹁京にて生ま

れたりし女子︑国にてにはかに亡せにしかば︑︵略︶京へ帰るに︑女子のなきのみ

ぞ悲しみ恋ふる﹂

︵十二月二十七日︶

︑また

﹁下りし時の人の数足らねば﹂

︵一月

(6)

十一日︶とあるように︑往きは一緒だった女児が帰りにはいない︑ということで

ある︒しかも︑十二月二十七日条の冒頭﹁二十七日︒大津より浦戸を指して漕ぎ

出づ︒かくあるうちに︑京にて生まれたりし女子︑国にてにはかに亡せにしかば﹂

にあるように︑女児は︑一行が帰京の準備に大童の最中に︑突然亡くなっている︒

当時︑﹁女性は婚姻しても︑養女となっても︑その本姓の地に葬られた﹂︒そうで

あれば︑この幼女も京で埋葬されるのが本来で︑遺族は︑遺髪を持ち帰るにせよ︑

土佐で荼毘に付したにせよ埋骨はせずに︑﹁送終の礼﹂を京で執り行おうとしたは

ずである︒そうなると︑一刻も早く我が子の御霊を祀ってやりたいという親の悲

願が︑望郷の念に勝って︑帰京を急がせたとしても不思議ではない︒女児の死が

一同こぞって待ち焦がれていたはずの帰京の旅を暗転させたことは︑本文に明記

されている︒十二月二十七日条の記述は﹁かくあるうちに︑京にて生まれたりし

女子︑国にてにはかに亡せにしかば︑このごろの出で立ちいそぎを見れど︑何ご

ともいはず︒京へ帰るに︑女子のなきのみぞ悲しび恋ふる︒ある人々もえ堪へず﹂

と続く︒しかし︑女児の死が旅そのものの性格を変えてしまったことは︑本文に

仕込まれた暗号を読み解いて初めて︑明らかになる︒

三    亡児哀傷歌と行路死人歌

  女児の土佐での不慮の死は︑言わば旅先での横死である︒旅先で落命し埋葬さ

れずに放置された死者を目撃して詠んだ歌を︑万葉研究では﹁行路死人歌﹂と呼ぶ︒

行路死人歌が詠まれた背景には︑中央集権型国家の成立によって都と地方の

間を官人や民衆が往来することが頻繁になったという事実がある︒︵略︶地方

官として派遣された官人たちが客死を遂げた人々の屍を実際に目にする機会

も多かったと推測される︒

﹁挽歌﹂の中でも特異な﹁行路死人歌﹂は︑同じく人の死を悼むにせよ︑横死しか

も客死した人︑即ち︑無念の余り﹁祟るカミ﹂になると怖れられた死者︑を詠む

のであるから︑︿ウタ﹀という呪性を帯びた言語活動を通して死者の︿タマシズメ﹀

を図ろうとする

︑折口信夫の云う

﹁鎮魂﹂の行為そのものである

︒死者の

﹁家﹂

を想い︑待ち侘びているであろう家族を想い︑道なかばにして倒れた無念を想い︑ それらの想いを﹁言葉﹂にして死者へ語りかける︑即ち︑死者の無念を代弁する

ことで︑その無念を晴らし︑死者が荒魂とならず和魂となるよう﹁鎮魂﹂︿タマシ

ズメ﹀をするのである︒

  ここで︑柿本人麻呂が詠んだ二群四首の行路死人歌を引用する︒      讃岐の狭岑の島にして︑石の中の死人を見て︑柿本朝臣人麻呂の作る歌一首      并せて短歌 玉藻よし  讃岐の国は  国からか  見れども飽かぬ  神からか  ここだ貴き 天地  日月と共に  足り行かむ  神の御面と  継ぎ来る  中の湊ゆ  舟浮けて 我が漕ぎ来れば  時つ風  雲居に吹くに  沖見れば  とゐ波立ち  辺見 れば  白波さわく  いさなとり  海を恐み  行く舟の  梶引き折りて  をち こちの  島は多けど  名ぐはし  狭岑の島の  荒磯面に  廬りて見れば  波 の音の  しげき浜辺を  しきたへの  枕になして  荒床に  ころ臥す君が 家知らば  行きても告げむ  妻知らば  来も問はましを  玉桙の  道だに知 らず  おほほしく  待ちか恋ふらむ  愛しき妻らは︵二・二二○︶

   反歌二首

妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや

        ︵二・二二一︶

沖つ波来寄する荒磯をしきたへの枕とまきて寝せる君かも︵二・二二二︶

   柿本朝臣人麻呂︑香具山の屍を見て悲慟びて作る歌一首

草枕旅の宿りに誰が夫か国忘れたる家待たまくに︵三・四二六︶

長歌の詞書には﹁石の中の死人を見て﹂とあり︑巻三の四二六番歌の詞書には﹁香

具山の屍を見て﹂とある

︒一般に

︑行路死人歌は

﹁︵死者︶を見て作る歌﹂と題

して詠まれており︑後に詳述するが︑﹁見る﹂という行為も︑また︑﹁歌う﹂とい

う行為と同様︑﹁鎮魂﹂の一環である︒﹃土佐日記﹄では︑最後の﹁亡児追慕﹂の

記述の最後を飾る二首に﹁見る﹂という語が三度使われていることを︑ここでは

指摘しておくに留める︒人麻呂の長歌の前半は︑讃岐の国の賛美に終始する︒そ

の名も美しい狭岑の島に

︑﹁波の音の

しげき浜辺を

しきたへの

枕になして 荒床に

ころ臥す君が﹂とある

︒﹁

荒床に

ころ臥す君﹂とは

︑まさしく

︑水死

した人間の骸のことで︑その骸に向かって歌い手は語りかける﹁あなたの家を知

(7)

っていれば︑行って︵あなたのことを︶告げようものを︒あなたの妻が知ったな ら

︑やって来て

︵あなたに︶呼びかけようものを﹂と

︒﹃万葉集﹄巻十三には

三三三五番から三三四三番まで︑行路死人歌が九首まとめて掲載されている︒そ

のいずれの歌でも︑共通して︑死者を目にした歌い手が︑死者の家郷と家人に思

いを馳せ︑死者の無念を代詠する︒

﹃土佐日記﹄の女児も

︑絶えず話に聞かされる己が生地

︑京の都への帰還を楽

しみにしていたことであろう︒子供ゆえ︑大人が尻込みする船旅ですら︑指折り

数え胸弾ませて待っていたかも知れない︒それが︑出立を目前に土佐の地で命を

落としたのであるから︑さぞ無念であったろう︒彼女の無念は︑誰が晴らすのか︒

万葉の﹁行路死人﹂とは違い︑この女児には同行者がいた︒彼らにとって︑京か

ら京への行路は勿論︑土佐滞在そのものが旅であった︒更に︑人生を旅と考えると︑

旅の同行者は︑女児の場合︑父母となる︒その父母が︑誰にもまして︑女児の︿タ

マシズメ﹀を願うはずである︒そして︑︿タマシズメ﹀は︑やはり︑︿ウタ﹀で行

われるはずである︒確かに︑日記中︑六箇所に在る﹁亡児追慕﹂の記事には︑例

外なく︑哀傷歌が挿入されている︒以下に列挙する︒

  十二月二十七日

みやこへと思ふをもののかなしきはかへらぬ人のあればなりけり

あるものと忘れつつなほなき人をいづらととふぞかなしかりける

  一月十一日

世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな

  二月四日

寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ

忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ

  二月五日

住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく

  二月九日

なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ   二月十六日

生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや

以上の︿ウタ﹀九首を含む﹁亡児追慕﹂の︿カタリ﹀を︑﹃土佐日記﹄という本文

の前後関係に照らして︑辿ってみよう︒

  十二月二十七日は︑﹃土佐日記﹄では七日目にあたる︒初日の十二月二十一日条に︑

任を全うした国司が︑引き継ぎを終え︑証書を受け取り︑午後八時頃に官舎を出た︑

とある︒その後︑後任の国司主催の二日に亘る宴を含め数日間︑港に留まったこ

とが記され︑二十七日︑出港の当日︑女児への最初の言及がなされる︒﹁京にて生

まれたりし女子︑国にてにはかに亡せにしかば﹂と︑いの一番に彼女が﹁行路死人﹂

であることが明かされる︒この女児を巡る記述は︑その後︑一月十一日︑二月は四日︑

五日︑九日になされ︑京に帰着した二月十六日︑即ち﹃日記﹄最終日︑に完結する︒

記述の分布を再確認すると︑最初と最後のものが︑土佐から京への船旅の﹁初日﹂

と﹁最終日﹂に︑それぞれ配置されている︒改めて︑瞠目させられる︒

  次に注目すべきは二月五日で︑この日︑荒ぶる海神︑住吉明神の﹁神鎮め﹂が

行われる︒それとの関連は後に考察するとして︑この日を境に作品の中から人物

批評が姿を消す︒その前日の二月四日までは︑

  四日︒楫取︑﹁今日︑風︑雲の気色はなはだ悪し﹂といひて︑船出ださずな

りぬ︒しかれども︑ひねもすに波風立たず︒この楫取は︑日もえはからぬか

たゐなりけり︒

  この泊の浜には︑くさぐさのうるわしき貝︑石など多かり︒かかれば︑ただ︑

昔の人をのみ恋ひつつ︑船なる人のよめる︑︵後略︶

とある如く

︑ 日記記者は楫取を口を極めて糾弾しながら

︑その口の乾かぬ間に

亡児追慕の︿カタリ﹀を始め︑︿ウタ﹀二首を記し︑と︑︿タマシズメ﹀に発揮さ

せるはずの﹁言霊﹂の効力が楫取呪詛に分散されかねない有様だったことを︑日

記は伝える︒翌二月五日条には︑楫取が意図せず発した三十一文字の号令﹁御船

より︑仰せ給ぶなり︒朝北の︑出で来ぬ先に︑綱手はや引け﹂の効力か︑﹁今日︑

波な立ちそ﹂という人々の祈願が通じたのか︑いずれにせよ︑﹁言霊﹂が働いたか

(8)

のように海は穏やかであったことが記される︒

  二月五日は︑﹁松﹂が話題と歌題にされる条でもある︒松の長寿を凌ぐ長寿を慶 ぶどころか悔やむ

﹁今見てぞ身をば知りぬる住江の松より先にわれは経にけり﹂

という父の歌を受けて︑母は短命に終わった我が子を偲びつつ生き長らえる辛さ

を﹁住江に船さし寄せよ忘草しるしありやと摘みて行くべく﹂の歌に込める︒そ

の左注とも言える﹁うつたへに忘れなむとにはあらで︑恋しき心地︑しばしやす

めて︑またも恋ふる力にせむ︑となるべし﹂の一言が︑死さえも断てぬ親と子の

絆を物語っている︒

  この直後に︑anti-climactic という印象すら与えかねない展開が控えているのだ

が︑突然の強風に翻弄される船の上では︑実質上の最高権力者︑楫取が︑一行の長︑

前国司に︑海の神への捧げ物を命じる︒幣では足りず︑鏡まで犠牲にさせられた

前国司の鬱憤が︑女筆ではあり得ない﹁楫取のいはく・・・といふ﹂という漢文

訓読文を﹁楫取︑またいはく・・・といふ﹂と繰り返し用いることで︑読者に前

国司の肉声で伝わるよう工夫されている︒鏡が功を奏したか︑即座に荒海は鎮ま

ったものの︑楫取の言いなりにならざるを得なかった前国司の穏やかならぬ胸中

は﹁楫取の心は︑神の御心なりけり﹂という一言に集約されている︒二月五日条

を締め括るこの一言を以て︑実は︑楫取への悪口雑言も︑また︑言い納められた

ことに︑読者は後になってから気付くのである︒振り返って考えると︑この一見

滑稽な挿話は︑二月十六日にclimaxを迎える女児の﹁鎮魂﹂︿タマシズメ﹀へ向

けての準備がなされた場であった︒追って説明する︒

  二月十六日は︑旅五十五日目にして漸く︑京の都に帰り着いたとされる日である︒

日記は︑夜を待って家に入った一行が︑予想を超えた荒廃ぶりに︑愕然としてい

る姿を描き出す︒管理を申し出︑報酬も得ながら管理を怠った隣人への不満を日

記記者は綴るが︑同時に︑主人が﹁今宵︑﹃かかること﹄と︑声高にものもいはせず﹂

と従者たちを制したことも記録に留める︒かつては厳しく人を批判していた主人

が︑二月六日以降︑ここでも言葉を慎んでいる︒二月五日の︿カミシズメ﹀の後に︑

この日の︿タマシズメ﹀に備えて︑言動の﹁控﹂に入ったと考えられる︒それが︑

後少しの辛抱で︑我が家で我が子の御霊を祀るという悲願が叶うのである︒努め

て冷静に事を運び︑一刻も早く﹁鎮魂﹂︿タマシズメ﹀の儀式に移り︑無事に済ま

せたい̶̶その為には︑堪え難きも忍び難きも堪え忍べるのであろう︒

  二月十六日条にも﹁松﹂が登場する︒﹁松﹂が﹃土佐日記﹄では重要な役割を担

っていることが︑ここになって明らかになるので︑松の描写を含む二月十六日条 の末尾︑即ち﹃土佐日記﹄の末尾︑を以下に引用する︒

  さて︑池めいて窪まり︑水つけるところあり︒ほとりに松もありき︒五年

六年のうちに︑千歳や過ぎにけむ︒かたへはなくなりにけり︒今生ひたるぞ

まじれる︒おほかたの︑みな荒れにたれば︑﹁あはれ﹂とぞ︑人々いふ︒

思ひ出でぬことなく

︑思ひ恋しきがうちに

︑この家にて生まれし女子の

︑ もろともに帰らねば

︑いかがは悲しき

︒船人も

︑みな子たかりてののしる

かかるうちに︑なほ︑悲しきに堪へずして︑ひそかに心知れる人といへりけ

る歌︑   生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

とぞいへる︒なお︑飽かずやあらむ︑また︑かくなむ︑

   見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや   忘れがたく口惜しきことおほかれど︑え尽くさず︒とまれかうまれ︑とく

破りてむ︒

﹃土佐日記﹄には十三例︑﹁松﹂が描かれる︒そのうちの六例が︑松の長寿に言及

しており︑既に観た二月五日条の一例に加えて︑もう一例﹁千代経たる松にはあ

れどいにしへの声の寒さは変はらざりけり﹂

︵二月九日条︶を挙げておく

︒二月

十六日条に戻ると︑千年の寿命︑あるいは不変︑を誇る松が︑土佐滞在中の僅か

五︑六年の間に︑半減してしまったとある︒ところが︑新しく生え出た松もあり︑

それが今は亡き娘を思い出させるのである︒帰京の旅路で︑折にふれ時につけて︑

哀傷歌を詠んだ亡児の父母が︑家の庭の小松を目にし︑感極まって二首詠む︒

生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ

見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや

この二首を検討するにあたって︑﹃後撰和歌集﹄巻二十︵慶賀  哀傷︶にある貫之自

身の類歌も参考にする︒その詞書から︑藤原兼輔の死後︑土佐から戻って詠んだ

ことが知られ︑﹃土佐日記﹄とほぼ同時期の作と考えられている歌である︒

引き植へし二葉の松は有ながら君が千歳のなきぞ悲き︵一四一一︶

(9)

これら三首に詠み込まれている﹁松﹂であるが︑その﹁千歳﹂の長寿と人の寿命

とが引き比べられると︑後者がいよいよ短く思え︑人生の儚さ︑人の哀れさに誰

しも胸塞ぐのは当然であろう︒まして︑人がその寿命を全うできない時に遇えば︒

三首とも︑﹁松﹂が亡き人を偲ばせる﹁哀傷歌﹂である︒亡児を哀傷する右二首の

うち﹁生まれしも﹂の歌では︑﹁松﹂は﹁小松﹂である︒

  ﹁小松﹂の﹁小﹂は︑﹁空間﹂においては﹁小さい﹂︑﹁時間﹂では﹁若い﹂﹁幼い﹂

ことを意味するが︑転じて﹁いとおしい﹂モノへの愛称・美称となる︒この﹁小松﹂

の用例を﹃古今集﹄に求めると︑次の二首に行き着く︒

梓弓磯辺の小松たが世にか万世かねて種をまきけむ︵十七・九○七︶

ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松万世経とも色はかはらじ︵二十・一一〇〇︶

﹁梓弓﹂の歌の﹁小松﹂が︑文字通りの﹁小松﹂なのか︑石辺山に群生する松なのか︑

海辺の岩の上に聳え立つ見事な大松なのか︑諸説あるが︑万年の寿命が期待され

る樹木として詠まれていることは確かである︒﹁ちはやぶる﹂の歌の﹁姫小松﹂も︑

また同様である︒

  ﹃万葉集﹄では︑﹁小松﹂・﹁子松﹂の表記で用いられ︑十二首︵十四例︶を数える︒

中でも注目すべきは︑次の挽歌二首である︒

後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまた見けむかも︵二・一四六  人麻呂︶

妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに苔生すまでに︵同・二二八  河辺宮人︶

﹁後見むと﹂の歌で﹁君﹂と呼ばれる人物は︑謀反の罪で絞殺された有間皇子であり︑

﹁妹が名は﹂の歌の﹁妹﹂は︑﹁河辺宮人︑姫島の松原に娘子の屍を見て︑悲嘆し

びて作る歌﹂と詞書にあるように︑女性の﹁行路死人﹂である︒共に若くして悲

劇的な死を遂げた死者であれば︑﹁挽歌﹂も︑単にその死を悼み悲しむだけでは済

まず︑﹁鎮魂﹂を目的としているはずである︒その﹁挽歌﹂で︑﹁小松﹂が詠われ

ている︒また︑一四六番歌の本文と二二八番歌の詞書には﹁見る﹂という語も在る︒

更に︑二二八番歌の主眼は﹁名を誉める﹂ことにあった︒﹁小︵子︶松﹂︑﹁見る﹂︑﹁名

を誉める﹂︑そのいずれもが︑万葉の世界では︑﹁称賛﹂と﹁鎮魂﹂の意味を併せ持つ︒

  ﹁千﹂や﹁万﹂の歳月を生きると信じられていた﹁松﹂︑万葉の時代には神木と して畏怖の対象ですらあった松を︑人が敬愛の念を込め﹁コ松﹂と詠う時︑その

言葉に宿る力と

︑﹁打つ﹂を語源とする

﹁歌﹂

︿ウタ﹀自体の呪性とが相俟って

関連する事物を︑歌われる側も歌う側も含めて︑活性させも鎮静させもするはず

である︒単に﹁松﹂の永生と霊魂不滅を祈願する﹁鎮魂﹂とが結びついたという

だけではなさそうである︒

  次に︑﹁見る﹂であるが︑ 古代︑ ﹁見る﹂という行為には﹁予祝﹂の意味合いがあり︑

国見にせよ︑花見にせよ︑儀礼的行為であった︒主権者が国土を見渡し褒めるこ

とで︑豊穣と繁栄を予祝する儀礼が国見であるが︑そもそも国を見るということ

は︑国を治める︑つまり︑乱れをおさめ︑しずめて国を平定︑統治することであ

る︒花見も同様︑花を見︑愛で︑鎮める﹁花鎮め﹂がその始まりとされる︒桜の

散る頃に流行る疫病を花の精の力によって封じ込めんが為に﹁やすらへ花や︵花よ︑

散るな︶﹂と祈願する﹁鎮花﹂儀礼が︑まさしく花見であったとすれば︑名よ永遠

たれ︑と﹁名を誉める﹂行為も︑また︑称賛と鎮魂とを併せ行う︒﹁松﹂を﹁コ松﹂

と呼ぶことも︑﹁見る﹂ことも︑﹁名を誉める﹂ことも︑裏を返せば︑愛情表現である︒

対象への愛情︵同情も含め︶あってこその行為であるからだ︒

  ﹃土佐日記﹄最後の哀傷歌二首では︑﹁見るが悲しさ﹂﹁見し人﹂﹁見ましかば﹂と﹁見

る﹂ことへの意思が感じられる︒それは︑﹁見る﹂という行為に込めた愛情が行き

場を失ってしまったことを自覚する両親の︑再び﹁見﹂たい﹁見﹂られるものならば︑

という切なる願いの顕れ︑と言えはしまいか︒あるいは︑行き場を失った愛情が︑

亡き子を偲ばせる何であれ見るにつけ︑堰を切ったように溢れ出した “spontaneous 

overfl ow[s]”  と言えなくもない︒しかし︑愛情に裏打ちされた  ﹁見る﹂という行

為が︑我が子であれ︑﹁行路死人﹂であれ︑﹁鎮魂﹂を果たすのであれば︑かつて

愛し子を愛でたその同じ眼で庭の小松を見れば︑その小松が︑松の千歳に肖れな

かった我が子に成り代わって︑万世を生き抜くことを︑親は信じ︑かつ祈ったで

あろう︒そして︑その子の﹁名﹂を︑さもなくばその存在すら世に知られずに終

わる定めの亡き子の﹁名﹂を︑﹃土佐日記﹄の︿ウタ﹀と︿カタリ﹀を通して︑後

世に残せることを︑また︑それこそが親に為し得る﹁鎮魂﹂の究極であることも︑

貫之は知っていたはずである︒

  帰路の旅の始まりと終わりに︑即ち土佐と京で︑それぞれ二首︑旅の途上で五首︑

詠まれた亡児追慕の歌九首は︑ここに至って︑もはや﹁哀傷歌﹂では済まされな

くなったのではないか︒そうであれば︑定義し直す必要がある︒

  そもそも﹁哀傷﹂という部を初めて立てたのは貫之ら﹃古今集﹄編者で︑以降︑

(10)

﹃万葉集﹄三大部立ての一つであった﹁挽歌﹂に代わって︑この部立てが勅撰集で は踏襲されることになる

︒分類名が

﹁挽歌﹂から

﹁哀傷歌﹂へ替わったにせよ

同じ系譜の歌であれば︑﹃万葉集﹄の﹁挽歌﹂と﹃古今集﹄以降の﹁哀傷歌﹂を同

列に論じることは適当と言える︒﹃土佐日記﹄の亡児追慕歌は︑従来の見方では︑

﹁哀傷歌﹂に分類されて然るべきで︑﹁哀傷歌﹂である亡児追慕歌を﹃万葉集﹄﹁挽

歌﹂の伝統に照らして評価する研究が在って当然である︒現に︑鈴木日出男氏が

亡児追慕歌と山上憶良の﹁男子名を古日といふに恋ふる歌﹂︵﹃万葉集﹄巻五  九

○四〜九○六︶との相似に着目し︑共に晩年に儲けた幼な児の急逝を悲傷する歌

でありながら︑歌の﹁抒情性﹂が﹁理知的な批評性﹂に裏打ちされていることを︑

論証している︒鈴木氏は︑その論中︑これら二群の歌の相似が﹁文学史上﹂﹁単

なる偶然﹂ではなかったことを示唆するが︑確かに︑貫之は﹃万葉集﹄を研究し

ている︒それは︑﹃古今集﹄仮名序で﹁これよりさきの歌を集めてなむ︑﹃万葉集﹄

と名づけ﹂と︑また﹁﹃万葉集﹄に入らぬ古き歌﹂と︑﹃万葉集﹄の内容に具体的

に言及していることからも︑明らかである︒その貫之が︑﹃土佐日記﹄執筆にあた

って︑﹃万葉集﹄を意識していたとすれば︑それは﹃古今集﹄﹁哀傷﹂の部に継承

した﹁挽歌﹂の系統だけではなく︑また︑﹃古今集﹄で部に昇格させた﹁羇旅歌﹂

だけでもなく︑﹁哀傷歌﹂に通じる﹁挽歌﹂と﹁羇旅歌﹂とが交差する処に元々存

在していた﹁挽歌﹂の一類型︑即ち﹁行路死人歌﹂だったはずである︒なぜなら︑

任国土佐で急逝した女児の﹁鎮魂﹂と﹁永生﹂とを念じて詠む︿ウタ﹀が︑﹁哀傷歌﹂

だけでは足らず︑﹁羇旅歌﹂だけでも足りなければ︑﹁哀傷歌﹂と﹁羇旅歌﹂の特

質を併せ持つ万葉の﹁行路死人歌﹂こそが目的に適う手段︑と貫之の眼に映った

であろうから︒

  一千年を超える歳月を経た今︑﹃土佐日記﹄を前に︑﹁亡児追慕﹂というテーマ

を奏でるに相応しい調べは

︑果たして

︑何れであったのか

︑問い掛けてみると

自らが﹃古今集﹄で新たに部立てをした﹁哀傷歌﹂も﹁羇旅歌﹂も︑結局︑その

用を足せないと悟った時

︑貫之は

﹃古今集﹄で採り上げなかった

﹁行路死人歌﹂

に思い至ったのではないか︑と気付かされる︒﹁行路死人歌﹂が貫之の念頭にあっ

たと仮定して︑亡児追慕の歌九首を﹁行路死人歌﹂と定義し直してみると︑﹃土佐

日記﹄は

︑新たな光の下

︑これまで見せなかった一面を見せてくれるのである

その一面とは︱︱﹃土佐日記﹄は︑万葉の﹁行路死人歌﹂の作法に則り︑﹁行路死

人﹂を旅で﹁鎮魂﹂したが︑更には︑万葉の﹁行路死人歌﹂には為し得なかった

家での﹁鎮魂﹂をも果たした︒つまり︑﹃土佐日記﹄は︑結果として︑﹃万葉集﹄﹁行 路死人歌﹂を超えたのである︒これは︑ハロルド・ブルームの言う﹁テセラ﹂と

いう方法の具体例と考えられる︒詩の歴史を﹁影響﹂克服の歴史と考えるブルー

ムは︑詩人が偉大なる先行詩人を如何に陵駕してきたか︑西洋詩を通史的に分析・

分類した結果︑六通りあるとする︒その一つが﹁テセラ﹂で︑あたかも先行詩人

が完成し損なった仕事を後続詩人が完成させたかのように詩作︵即ち創作︶する

方法︑とブルームは言う︒つまり︑貫之は﹁祖歌﹂である﹁行路死人歌﹂を﹃土

佐日記﹄で完成させた︑と考えられるのである︒

むすび

﹁けり﹂止めの文を用いて︑﹁語る﹂という形式をとることは︑物語という文

学様式にとって︑歴史的な由来をもつ約束であったのであろう︒しかし例えば︑

これと屡

︑ ︑ 対比される﹁伊勢物語﹂が︑総ての叙述をこの形式によって行い︑﹁語

り﹂の姿勢を強調したのに対して︑この物語は︑これをもって枠づけながらも︑

その内部を異質の様式の文章を用いて新しく彩ろうとしたところに︑その創

作態度の違いがあったと思われる︒

右は︑本稿一一四頁で既に引用したが︑阪倉篤義氏﹃竹取物語﹄論の一節である︒

文中の﹁この物語﹂は︑当然のことながら︑﹃竹取物語﹄を指すが︑﹁この物語﹂を﹃土

佐日記﹄に置き換え︑﹁これをもって﹂以下を﹁これを控えることで異質の様式の

文章を編み出し︑それをもって﹃歌集﹄でもなければ﹃歌物語﹄でもなく﹃物語﹄

でもない独自のジャンルを新しく彩ろうとしたところに﹂と書き改め︑﹁その創作

態度の違いがあったと思われる﹂と結ぶと︑﹃土佐日記﹄論に成り変わる︒

  ﹃土佐日記﹄中︑前日の出来事を翌朝記録するという所謂﹁日記﹂部分の記述は︑

極論すれば

︑﹁完了﹂の助動詞

﹁つ﹂

﹁ぬ﹂

﹁たり﹂

﹁り﹂で事が足りる

︒しかし

それ以外の部分では︑﹁ケリ﹂が使われて何ら不思議ではないし︑むしろ︑使って

当然と言える︒貫之は︑それにも拘わらず︑﹃竹取物語﹄の作者同様︑﹁ケリ﹂を

使うところと使わないところとを分別し︑更には︑使って然るべきところで敢え

て使わず︑いよいよ使うとなると︑使うからには拠ん所ない事情があってのこと

と読者に伝わるよう︑﹁ケリ﹂の効力を知り尽くした上での︑計算をしていたので

ある︒それは︑﹁亡児追慕﹂の記述において最も顕著であった︒﹁ケリ﹂の頻出を

(11)

誰もが予想する亡児追慕の︿ウタ﹀で二例︑︿カタリ﹀で三例という﹁ケリ﹂稀出

に目を欹てる読者に︑こらえにこらえてこらえ切れずに﹁ケリ﹂を出した︑と得

心させる術として︑一例を挙げると︑貫之は﹁ケリ﹂使用後に﹁かうやうのこと

も︑歌も︑好むとてあるにもあらざるべし︒唐土も︑ここも︑思ふことに堪へぬ

時のわざとか﹂と書き添える︒二月九日条でのことである︒﹁唐土も︑ここも﹂で︑

貫之は︑一月二十日条に挿入した阿倍仲麻呂歌を巡る﹁歌語り﹂を読者に想起さ

せるのであるが︑この二月九日条でも在原業平歌を巡る﹁歌語り﹂を既に挿入し

ており︑﹁ケリ﹂を使って憚らないジャンル﹁歌語り﹂の︑しかもその﹁正典﹂と

呼ぶべき二例を二例とも︑ここで引き合いに出す︒そうすることによって︑﹁ケリ﹂

の使用が止むに止まれぬ

﹁思ふことに堪へぬ時のわざ﹂であることを

︑貫之は

比類ない強さで︑読者に印象づけた︒

  ﹁ケリ﹂の使用を制限することは︑一方で︑既存のジャンルの文体と一線を画す

為であったに相違ないが︑他方︑内容とも深く結びついていた︒これまで観てき

たように︑亡児追慕の言説初出の十二月二十七日条︑二月九日条︑そして最終の

二月十六日条で﹁ケリ﹂が用いられているという事実は︑そこに帰京の旅の﹁発﹂﹁着﹂

両日が含まれているという別の事実を照射し︑これら特殊な二時点と亡児追慕の

記事との関連を﹁ケリ﹂が一層際立たせ︑我々に︑﹃土佐日記﹄とは︑﹁亡児追慕﹂

の︿ウタ﹀と︿カタリ﹀を記録に留めるための方便だったのでは︑とまで思わせる︒

読者にそう思わせたということは︑鎮魂の手段であった︿ウタ﹀と︿カタリ﹀に﹃土

佐日記﹄という形を与えることで︑亡き児に永遠の生命を与えるという鎮魂の目

的を︑貫之は果たしたと言える︒

以下︑比較文学研究の立場から︑一言述べたい︒

  ﹁男もすなる日記といふものを︑女もしてみむとてするなり﹂という一文を﹃土

佐日記﹄の筆頭に置いた紀貫之は︑新しいジャンルとそれに相応しい文体と︑つ

まり表裏一体である両者の創出を︑そこに宣言していたのである︒﹃土佐日記﹄を

女手の﹁日記﹂と定義することで︑貫之は従来の真名日記に課せられた制約を回

避し︑書き手次第で様々な要素が盛り込める自由度の高い﹁器﹂︵ジャンル︶を創

り出した︒その結果︑﹃土佐日記﹄には︑﹁日記﹂が︑﹁歌﹂が︑﹁歌物語﹂が︑﹁物語﹂

が︑そして︑それら各々の文体が︑それぞれ必要な箇所で︑共存し得るようにな

り︑実際︑共存している︒そもそも貫之が﹁仮名﹂を創作の媒体に選んだ理由は

何だったのか︑ここで改めて問うてみたい︒仮名序を著した人物であれば当然の

成り行き︑と片付けるのは容易い︒しかし︑﹃古今集﹄編纂から三十有余年︑仮名 序を著した人物であればこそ︑みずからが音頭を取った文芸革命の趨勢を見守る

だけでは︑収まりが付かなかったのではなかろうか︒和歌も和歌表記に限られて

いた仮名も市民権を得︑和歌と詞書と左注とが歌物語へと拡大し︑歌物語が物語

へと発展してゆく過程で︑貫之は﹁和歌﹂でも﹁歌物語﹂でも﹁物語﹂でもない

﹁日記﹂という新たなジャンルを︑仮名を使って︑創造したかったのではあるまい

か︒仮名序で見せた気概︱︱文芸を拓こう︑﹁和文﹂を育もう︑というあの気概は︑

歌人としても官人としても不遇な歳月を経て︑衰えるどころか尚一層︑あるいは︑

消えんとして光を増す燭の如く︑燃え盛ったのではないか︒﹁たとひ時移り事去り︑

楽しび悲しびゆきかふとも︑この︿日記﹀の文字あるをや︒・・・ ︿日記﹀のさま

を知り︑ことの心を得たらむ人は︑大空の月を見るがごとくに︑古を仰ぎて今を

恋ひざらめかも﹂と︑貫之は︑その晩年に︑再び︑今次は﹃土佐日記﹄について︑

老躯の声も限りに宣べたかったように思われてならない︒

  二十世紀初頭にジェイムズ・ジョイスが﹃ユリシーズ﹄の中で繰り返したジャ

ンルと文体における実験は︑紀貫之と﹃土佐日記﹄と︑そこでの彼の試みの数々

を連想させる︒ジョイスにとっても︑創作とは︑﹁内容﹂も﹁容器﹂も共に前代未

聞の新作を以てする文学史への挑戦であり︑ホメロスの﹃オデゥッセイア﹄をハ

ロルド・ブルームの言う﹁親﹂と定めたジョイスが︑その﹁親﹂をあらゆる面で

超えようと悪戦苦闘した結果︑﹃ユリシーズ﹄が誕生した︒英雄叙事詩の﹁崇高﹂

な世界を二十世紀ダブリンの﹁卑近﹂な日常に置き換えるという所謂パロディー

もさることながら︑韻文も散文も含めて既存のジャンルと文体を次から次へと﹁パ

ロディー﹂することによって︑ジョイスは新たなジャンルと文体の創出を試みた

のである

︒それこそがパロディーの真骨頂であり

︑それゆえ

﹃ユリシーズ﹄は

二十世紀を代表する文学作品の一つと︑英語散文小説界の最高峰と︑位置付けら

れており︑その地位を︑自身を凌ぐ作品が出現する迄︑維持し続けると考えられる︒

﹁親﹂が︑挑戦相手が︑大きければ大きい程︑強ければ強い程︑﹁子﹂は︑挑戦者は︑

智恵を絞り策を凝らして立ち向かわなければならない︒パロディーとは︑偉大な

﹁親﹂に果敢に挑む﹁子﹂にとって︑強力な武器であった︒

(12)

注⑴

  ﹁︿文学史﹀を演出した男﹂﹃国文学  解釈と鑑賞﹁紀貫之︿醒めた意識の悲し

み﹀﹂﹄一九七九年二月号︒一五〜二三頁︒

⑵  ﹁ケリの原義﹂﹃国語教室﹄二八号︵大修館書店︑一九八六年︶二八〜三一頁︒

⑶  ﹃土佐日記﹄本文の引用は︑総て︑菊地靖彦校注・訳﹃土佐日記﹄︵新編日本

古典文学全集︑小学館︑一九九五年︶に拠る︒

⑷  ﹁解説﹂阪倉篤義校注﹃竹取物語﹄︵日本古典文学大系︑岩波書店︑一九五七年︶

五〜二四頁︒ 

⑸  ﹃土佐日記全注釈﹄︵角川書店︑一九六七年︶四八五〜六頁︒

⑹    ﹁解説三﹃土佐日記﹄の世界古今集的羇旅の世界﹂菊地靖彦校注・訳﹃土

佐日記﹄七四〜五頁︒

⑺  ﹁羇旅歌の構造﹂﹃古今集の構造に関する研究﹄︵風間書房︑一九六五年︶

三九一頁︒

⑻  ﹁葬制﹂角田文衛監修﹃平安時代史事典﹄︵角川書店︑一九九四年︶一四〇八頁︒

⑼   ﹃別冊国文学万葉集を読むための基礎百科﹄︵学燈社︑二○○二年︶一一八頁︒

⑽  ﹃万葉集﹄本文の引用は︑総て︑小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳︵日

本古典文学全集︑小学館︑一九七一〜七五年︶に拠る︒

⑾  日常言語に対して非日常言語である︿カタリ﹀にも︑︿ウタ﹀同様︑﹁言霊﹂

の力を発揮させる﹁呪性﹂を古代の人々は看取していたと考えてよい︒

⑿  片桐洋一校注﹃後選和歌集﹄︵新日本古典文学大系︑岩波書店︑一九九〇年︶︒

⒀  ﹃古今和歌集﹄からの引用は︑総て︑小沢正夫・松田成穂校注・訳﹃古今和歌集﹄

︵新編日本古典文学全集︑小学館︑一九九四年︶に拠る︒

⒁     ﹃古今和歌集﹄巻十七雑歌上九〇七頭・脚注参照︒

⒂  ﹁﹃歌経標式﹄に﹃角沙弥の美人の名を誉むる歌﹄としてこの歌を載す﹂中西進﹃万

葉集︵一︶﹄︵講談社︑一九七八年︶一六一頁︒

⒃  ﹁名の永遠をいって鎮魂する︒讃歌の類型﹂中西進﹃万葉集︵一︶﹄一六一頁︒

⒄ Preface to Lyrical Ballads, William Wordsworth.

⒅   ﹁﹃土佐日記﹄︱︱亡き子を偲ぶ歌︱︱﹂﹃国文学解釈と鑑賞﹄一九九七年五

月号︒二四〜二九頁︒

⒆ Harold Bloom, The Anxiety of Infl uence: A Theory of Poetry (Oxford: Oxford

University Press, 1973).

⒇  “the parent-poem”ブルームの用語﹁親詩﹂を﹁祖歌﹂と言い換える︒

(13)

Tosa nikki and the Creation of a Genre:

Parodying the “ Koro-shinin-ka ” of Man’yoshu

Miyako SATOH Abstract

In writing Tosa nikki, Ki no Tsurayuki incorporated from Man’yoshu a literary theme, koro-shinin-ka, namely,

“the lamenting of the deceased on the roadside.” The lamenting of a deceaced girl in Tosa nikki was in one sense built upon the Man’yo theme, but in another transcended and furthermore completed the theme that Man’yoshu had left incomplete. An auxiliary verb “keri” is the key to disclosing this act of parodying—

parodying that which needs to be overcome. Also, the very scarceness of “keri” in the text enables us to view how Tsurayuki molded a new genre, “nikki.”

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Received on September 7, 2007.

総合文化講座

参照

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