著者 近堂 秀
出版者 法政哲学会
雑誌名 法政哲学
巻 5
ページ 43‑55
発行年 2009‑06
URL http://doi.org/10.15002/00008153
本稿の目的は、いまなお哲学に残されている課題を示すべく、心理学との接点を明らかにすることにある。かつてカントは魂の科学としての心理学が不可能であると考えた。もちろん、それは科学的心理学が成立する以前の出来事にすぎない。ところが、魂の消去を徹底する「純粋理性批判』解釈を通じて、現代の認知科学と共通する主張がそこから引き出されることになる。本稿では、カントによる霊魂論の否定という歴史的事実を確認して(|)、『純粋理性批判』
カントの自己意識論と認知科学
はじめに (1)
解釈の反心理主義的な展開を辿ったうえで(二)、カントの自己意識論の現代的解釈を検討しつつ、カントと認知科学との対話の可能性を探ってみる(三)。
まず、カントが伝統的形而上学の霊魂論を否定した事実を確認しよう。あえて極端に言うならば、現代の心の哲学に先駆けて、近代の魂の哲学がすでに魂そのものを消去していたのである。周知のように、心理学(っごso一・m戸勺望so-om-①)の名称は カントによる霊魂論の否定
近堂秀
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魂(三)三》三目伊汗の一の)の学に由来する。’八世紀ドイツの
講壇哲学で心理学と呼ばれていた学問は、あくまで精神的実体である魂を対象とした伝統的形而上学の一部門であった。この点について、ヴオルフの心理学をみておこう。ヴォルフの「ドイツ語形而上学』二七一九年)では、形而上学が次のように体系化されている(2)。まず、形而上学は、|般形而上学と特殊形而上学とに区分される。一般形而上学では、存在論として「諸物一般(□ごmのぎの『冨巨官)」が取り扱われる。この存在論を前提に、特殊形而上学では、宇宙論、心理学、神学という三つの部門構成にしたがってそれぞれ「世界(三⑦ご」、「魂(mnn-⑪)」、「神(○.耳)」が主題とされる。魂の形而上学としての心理学はさらに、経験を通じて知覚されるものとして魂一般を説明する経験的心理学と、魂と精神の本質を探究して魂一般を基礎づける合理的心理学とに二分される。それぞれラテン語化されたうえで拡充された著作が『経験的心理学」(’七三一一年)と『合理的心理学」(’七三四年)である。「経験的心理学」では(3)、「人
間的魂の現実存在(の×一m(の三四三目色の言ョ自国の)」を前提に、感覚、想像、記憶などの下級認識能力から注意および反省と知性という上級認識能力へ、快楽、感性的欲求、情動などの下級欲求能力から意志と自由という上級欲求能力へ、順次分析がすすめられていく。他方、『合理的心理学」では(4)、
「魂の本質(①、、①三国三富①)」が「宇宙の表象力(く一切『s『四①いの己昌一く四巨三く①「、一)」であるとされたうえで、これと認
識能力および欲求能力とが関係づけられる。さらに、魂の本質に基づいて心身の交互作用の問題が予定調和説の立場から解決されると同時に、神と並んで人間の魂が知性と自由とをその徴表とする「精神(畳『言い)」により動物の魂から区別されると結論づけられる。このように、ヴォルフの心理学Ⅱ霊魂論では、魂が精神的実体として認識能力と欲求能力の根底に存する表象力であることが主張されていた。これに対して、カントは批判哲学の体系のなかで心理学Ⅱ霊魂論をどのように位置づけたのか(5)。よく知られているように、『純粋理性批判」(第一版一七八一年、第二版一七八七年)弁証論の誤謬推理章では、合理的心理学を批判する議論が展開される(6)。そのうえで、同書の方法論では(く、一・里ヨ魚)(7)、「思考する存在者」の概念に基づい
て「魂(汗①一の)」ないし「思考する自然」を対象とする「合理的心理学(Sごso-.,国『皇・旨一一m)」が、「物質(二皀①『一の)」の概念に基づいて物体的自然を対象とする「合理的物理学(已亘8『皇・目一一m)」とともに、全形而上学の体系の一部門
である内在的な「合理的自然学(『塁・昌一①二房一○一・四①)」を構成するとされる。同時に、「経験的心理学(自己一『一mC言 で望○弓○一・四の)」が形而上学から除外されて、応用哲学である
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「経験的自然論(①己己三m○二の夛冒『|のう『⑦)」の補足物として、人間学の一部門に置かれる。その後、『自然科学の形而上学
的原理」(一七八六年)序文では(く、二点台二、自然科学が
厳密に定義される一方で、もはや合理的心理学については一一一一口及されず、本来的な「自然科学(z回冒皇路自切・言津)」であ る物体論と「経験的心理論(①己で三の&の⑫の①一の二一のき『の)」とが区
別されるのみである。しかも、経験的心理論は「史的自然論(言S『-,s①z自皀『}①き『の)」の「魂の自然記述(z昌巨『すのい○き『①一宮二mこの『mの①一①)」にとどまるとされ、「魂の科学(の①①一①コニ閉gmC富津)」や「心理学的実験論(で望so一・四m◎すの団吾①『一己の二国一一のう『の)」はその可能性から退けられる(8)。カントが伝統的形而上学の霊魂論を否定するようになっていった過程は、H,F・クレンメが思想発展史的に跡づけている(9)。クレンメによれば、カントを取り巻く当時の思想状況とカント自身の思想展開は、それぞれ次のように整理される。当時の思想状況にかんしては、三段論法の証明を基本とする「自己認識の演鐸的Ⅱ推論的モデル」のヴォルフ学派の心理学に対して、「自己認識の分析的Ⅱ観察的モデル」の影響から経験的心理学が人間学として位置づけ直されていったことを指摘できる。それは三つの段階に分けられる。(1)まず、推論を介さない直覚的な真理として、魂の実体性が 捉えられようになる。ビュフオンの「人間の自然史(帛穿三局目ミミ(⑩烏二・ミミの)』(’七四九年)では、魂の現実存在と思惟が内的直観を通じて直接結びつけられうると考えられている。(2)次に、自我を観察する方法に基づいて、人間自体が研究対象とされる。ボネの『心の諸力に関する分析的試論(胃ミ目・ミミ:ミ宮寺目冨鳥一言⑮)』
(’七六○年)では、感覚による観察的方法に基づいた自我の構成が試みられている。(3)最後に、魂の来歴を取り扱う人間学が成立する。カール・フリードリッヒ・フレーゲルの「人間的知性史(⑦巴&亘肩烏頃ミ曾月三s§評ミロョ烏閏)』(’七六五年)では、自我を観察する方法が魂の来歴にかかわる点で実用的なものへと方向づけられているTo)。魂の来歴を取り扱うようになった「分析的Ⅱ観察的モデル」の経験的心理学は、ヨハン・アンドレアス・ファブリキウスによって人間学として形而上学の体系内部に据えられることとなる。カント自身の思想的展開にかんしては、上述のような状況のもとで、批判哲学の体系が完成される一方で、そこから人間学が締め出されていった過程が認められる。一七七○年代のカントの経験的心理学や人間学の講義では、「分析的Ⅱ観察的モデル」の方法が採用されている。この方法により、魂の自己直観に基づいて自由かつ単純で非物質的45
な実体として、自己自身が認識される、と考えられていたのである。その一方で、|形而上学講義L1」の合理的心理学では、綜合的方法にしたがって、現実存在が前提される魂に対して、自己意識の統一から導出されるカテゴリーが適用されていた。結局、批判期に入って、「私は思考する」という命題に新たな意味を与える自己意識論に基づいて、合理的心理学の証明が斥けられると同時に、直覚的な自己認識もまた放棄される。批判期後半には、さらにこの主張が徹底されていく。『純粋理性批判」第一版では、合理的心理学批判がカテゴリーを導きとして申し立てられている。ところが、『純粋理性批判』第二版では、判断の論理的機能とカテゴリーとの関係の新たな規定がl『実践理性批判』のなかで自由のカテゴリーと自然のカテゴリーとが区別されるのと並行してl確立されたことを受けて、合理的心理学批判が判断の論理的機能に基づいてなされるようになる。ここに至って、カントにとっては、魂の客観化はもはや不可能なものなのである。以上、カントによる霊魂論の否定という歴史的事実を確認した。つまり、カントは、合理的な心理学Ⅱ霊魂論には魂という客観的対象が存在しないと主張すると同時に、経験的な心理学Ⅱ霊魂論を人間学に取って代えてしまった、という事実である。 内観心理学から超越論的心理学へさて、カントが霊魂論を否定する根拠は、超越論哲学を支える自己意識論にある。ただし、経験的な心理学Ⅱ霊魂論の残淳がそこには散見される。続いて、カントの自己意識論から心理学的要素を取り除く、『純粋理性批判』解釈の反心理主義的展開をみていこう。しばしば指摘されるように、カントの自己意識論の心理学的要素は、テーテンスに由来する。テーテンスは、『人間本性とその発展についての哲学的試論』二七七七年)で、ロックの影響のもと、観察的方法により魂の変化を「自己
感情(いの一宮祠①茸三)」を通じて認識することを試みた(11)。
そのさい、人間的魂の力が「感情らの。三)」、「表象力(ざ『⑫(・一一目、言昌)」、「思惟力(□目冥『三)」という一一一つの力ないし要素活動に分類されている。テーテンスの独自性は、対象関係について反省的な点で感情が感覚から区別されたことにある。カントに対する影響にかんして注目すべきは、表象を分解・混合する表象力の内にある「創作力(□三二『島)」が関係づける対象を理念的なものにまで高め
うるとされたところである。他方、思惟力が諸物の関係を 二『純粋理性批判』解釈の反心理主義46
認識する能力で、その内的な自己活動性により関係概念が産出されると考えられていたことも読み取れる。諸物の関係についての探究を通じて「新しい観点で人間悟性の範囲と限界を提示する」ことが、テーテンスのこの著作での目的なのである。テーテンスからカントヘの影響は、『純粋理性批判』第一版の演鐸論での一一一重の綜合にかんする議論(く、一・シ三‐二sに見出されるT2)。そこでは、アプリオリな多様を通観す
る「感官(⑫ヨニ)」、それを綜合する「構想力(国弓一一s二mm【『畳)」、
さらにそれを統一する「統覚(シ弓の『Nの目・己)」が魂の一一一つの能力であるとされたうえで、超越論的な自己意識としての統覚の客観的な統一について論じられている。とりわけ構想力の捉え方には、カントがテーテンスの表象力の能力分析を参照したことがうかがわれるT3)。もっとも、カント
自身は、テーテンスおよびランベルトの立場とみずからの立場との相違について書き残しているT4)。そして、第一
版演鐸論における自己意識論の心理学的要素をどう捉えるかが『純粋理性批判』解釈の論争点の一つになっていったのである。超越論的心理学の「素通り」第一版演鐸論に残された心理学的要素を取り除こうとす
る解釈は、ラインホルトにさかのぼる{15}・ラインホルト
は、カントの批判哲学が心理学的要素に訴えている点で不徹底であるとして、メタ批判を提案した。興味深いことに、ラインホルトのもとで学んだフリースは、カントの不徹底をむしろ心的過程の自己観察により補おうとしており、J・B・メイヤーがこれを高く評価した。ところが、ヘルマン・コーエンは、フリースやメイヤーを完全に否定してしまうT6)。コーエンからすると、メイヤーがカントの思想の心理学的な動機を強調することをどれほど認めようとも、「超越論的」という決定的な術語を心理学の見解にしたがってフリースの意味で受け入れるような平板化は退けられなければならないのである。こうした解釈はその後、心理学の側からのカント批判であるヘルムホルッの知覚論を経て、さらに哲学の側でのフレーゲの反心理主義の影響により決定的なものになっていく。『純粋理性批判』をあらためて現代哲学の文脈に置いた、P.F・ストローソンによる言語分析哲学的解釈もまた、反心理主義的な傾向の内にあるT7)。ストローソンの解釈
では、『純粋理性批判』分析論の演鐸論から自己意識の統一と客観性との分析的連関の論証を導き出すと同時に、弁証論の誤謬推理章に即してデカルトとヒュームの自我論を論駁することが試みられた。そのさいにストローソンがと47
反心理主義すなわち認知科学的?超越論的心理学を素通りする解釈をカントの精神の形骸化と椰楡するのは容易であろう。ところが、より広い観点からみるならば、看過しえない論点もそこには含まれている。ここでは、ストローソンの試みの延長線上にあるP・ガイヤーの解釈を取り上げて、それを示そうT8)。ガイヤーは、カントの演鐸論が心理学的か否かという問題を設定したうえで、ヒュームとテーテンスの心理学的な議論の三つの基準を引き出して、それにしたがって演鐸論全体lカテゴリーの形而上学的演鐸と超越論的演鐸という一一つの議論lを評価する。心理学的な議論の三つの基準とは、(1)心的な入力という特殊な形式での現実の出来事と、心的な加工処理ないし入力への反応という特殊な行為とがそこでは要請されていること、(2)心的行為の入力と加工処理という自然本性が条件つきの真理であること、(3)それが経験的方法によってのみ明らかにされること、である。 った解釈の基本戦略は、感性と悟性とが協働する超越論的主観を超越論的心理学の「架空の主体」と断定したうえで、「綜合」という心理学的要素を完全に「素通り」することにより、カントの議論から観念性を払拭する、というものであった。 これに対して、カントの演鐸論の核心は、超越論的な自己意識に訴える部分とは別に、判断の論理的機能とカテゴリ1との同一性にかんする議論にある。この議論により、われわれの表象から区別された持続的対象があり、その対象が一定の仕方で相互に継起している状態の必然性を前提に、そうした状態とわれわれの自己意識における表象の状態の継起とを相関させる規則として、判断と概念の原理が導入される。したがって、カントの演鐸論は、心理学的な議論の三つの基準にしたがって評価されるならば、心理学の事実というよりも、むしろコンピュータの真理を与えるものと見なされる。以上がガイヤーの解釈である。ストローソンがコメントするようにT9)、ガイヤーの解釈によれば、カントの演鐸論は心理学的な議論ではないにもかかわらず、現代の認知科学にとっても真理でありうるような、ある種の心理学的な主張がそこに見出されることになる。実際、いわゆる心の哲学の観点からみて、カントの考え方は認知科学の機能主義に一致する、という指摘がある。(20)「純粋理性批判』解釈の一つの傾向として、反心理主義的展開が認められる。奇妙なことに、そうした解釈の結果として、カントの自己意識論から認知科学的な主張が引き出されているのである。
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では、カントの自己意識論から心理学的要素を取り除いて、認知科学的な主張を引き出す試みは、解釈としてどれほど妥当的であろうか。最後に、『純粋理性批判』第一版の演鐸論の細部に立ち入りつつ、それを検討しよう。第一版演鐸論の三重の綜合にかんする議論の概略は、次の通りである。すべての経験の可能性の制約を含むとともに他の能力から導出されえない、「心性(①①日ご」の能力の一一一つの根源的源泉、「魂(汗の一①)」の可能性ないし能力とは、アプリオリな多様を通観する感官、それを綜合する構想力、さらにそれを統一する統覚である。あらゆる直観には把捉の純粋綜合が、把捉の綜合と不可分に結合している再生の綜合には構想力の純粋な超越論的綜合が、それぞれ根底に存している。しかし、概念が基づく一つの意識こそ、多様なもの、順次直観されるもの、次いで再生されるものを一つの表象のうちへと合一させるものである。これに対して、認識の対象はあるもの一般ⅡXとしてのみ思考されるが、認識と対象との連関の必然性ゆえに、対象ⅡXが必然的なものとなる統一は形式的な意識の統一でなければならない。つまり、あらゆる必然性の根底に存する超越論的制約は、超越論的統覚という意識の統一である。したがって、超越 三カントは認知科学に何を語るか論的対象ⅡXは純粋概念として「すべてのわれわれの経験的概念一般に対象との連関を、つまり客観的実在性を与えうる」が、その連関は「意識の必然的統一以外の何ものでもなく、したがってまた、多様なものを一つの表象の内で結合する心性の共通の機能による(S『&、のョ①言の冨三のう①『目二・コSのmoのョ言)多様なものの綜合の必然的統一以外の何ものでもない」。それゆえ、対象との連関としての経験的認識の客観的実在性は、「超越論的法則」に基づくこととなる。このようにカントは述べている。先に指摘したように、議論に組み込まれている魂の能力分析はテーテンスからの影響をうかがわせるが、魂の能力と表象様式との一致が前提されていることに注意したい。議論の核心は、心的な機能と表象とが結びついているところに客観性を求める、まさに超越論的と呼ばれるべき心理学から、超越論的統覚という意識統一の概念が導き出される点にある。要するに、カントの超越論的心理学としての自己意識論では、カテゴリーの客観性を証明する一つのステップとして、超越論的統覚により経験的認識が可能になることが示されているのである。経験的認識の客観的実在性が基づく超越論的法則については、こう説明されている。
すなわち、すべての現象は、それを通じて対象がわれ
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「現象の綜合的統一のアプリオリな規則」とは、カテゴリーを指している。カテゴリーについては、統一する作用にかんする判断の論理的機能との同一性を介して、多様なものを統一する概念であることがあらかじめ示されている(く、一・国一三ご。ここではさらに、超越論的法則として、カテゴリーの根拠が必然的な意識統一に求められているが、それは概念による統一にかんする意識の心的な機能との同一性を介してである。つまり、「多様なものを一つの表象の内で結合する心性の共通の機能による」のである。第一版演鐸論の三重の綜合にかんする議論では、このような過程を通じて、意識統一を根拠として、カテゴリーによる経験的認識の可能性が証明される。付言しておくならば、第一版 われに与えられるべきかぎり、現象の綜合的統一のアプリオリな規則にしたがわなければならず、アプリオリな規則にしたがってのみ現象の関係が経験的直観の内で可能であるということ、換言するならば、現象は経験の内で、たんなる直観における空間と時間という形式的制約と同様に、統覚の必然的統一の制約にしたがわなければならないということ、否、統覚の必然的統一の制約によってのみ、先のあらゆる経験的認識がはじめて可能となるということ、である(シ一○罠)。 演鐸論と第二版演鐸論のいずれでも証明の要となっているのは、判断、概念、意識統一における機能の同一性である(く巴・シ三〕)。ガイヤーの解釈では、超越論的な自己意識にかんする議論があらかじめ考察の外に置かれたうえで、演緯論の核心が判断の論理的機能とカテゴリーとの同一性を示す議論にあるとされている。そこから、判断と概念は物的状態と心的状態とを相関させる規則を与える、という主張が引き出されることになる。カントが構想力の超越論的綜合と呼ぶ時間の秩序づけを心的状態の継起と、判断と概念により与えられる規則を心的な加工処理と読み替えるならば、カントの自己意識論には、認知科学の機能主義との間に、たんなる言葉のうえでの類似性以上のものがあることになるかもしれない。ただし、カントによって展開された議論は、証明根拠となる超越論的統覚という意識統一の概念が切り落とされてしまっては、その可能性が十分に汲み尽くされたとは言えない。とくに注目すべきは、超越論的対象ⅡXの想定により、超越論的統覚としての意識統一が心的状態の外部にある対象へと直接関係づけられているところである。統覚の客観的な統一というカント独特の考え方lここではそれが反省的・自己関係的な意識であることだけを述べておこうlを、物的状態と心的状態との相関関係にかん
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本稿では、かつてカントが魂を消去した歴史的事実と、『純粋理性批判』解釈が心理学的要素を排除してきた歴史的過程を概観したうえで、カントの自己意識論に認知科学的な主張が読み取られるとする現代の『純粋理性批判』解釈を検討した。認知科学における意識の問題に対して、機能主義を前提にしつつ、カントの立場から自己意識とその統一の概念により答える可能性を示唆したところで、終わりとしたい。 する先行条件として捉え直すこともできるはずである。したがって、ガイヤーの解釈とは異なり、超越論的な自己意識にかんする議論にこそ、認知科学における意識の問題について考える手がかりが見出されると言えよう(2‐)。
注 結論
カントの著作からの引用や参照箇所については、慣例にしたがって『純粋理性批判』の原版第一版をA、第二版をBとして頁数を表記し、他のすべてアカデミー版の巻 (1)本稿は、二○○八年五月に行われた第二八回法政哲学会大会での共同討議の発表原稿をもとに、タイトルを改めて大幅な加筆修正を施したものである。(2)く、一・C・ミニ寓寄爵員萱聰○の呂冒奇ミ・琶Q・員号、諄昏冨員号、痔の{⑲鳥国三豊匂&§・冒昌・詳言C冒聰ごnヨロ言(・]一・シ巨言、の.四四一一の。山一[○の旨ヨョの|[①三の『六の閂.シ頁・□の具、◎すの⑫○ケ『三のご因□・隈一@m]].(3)く、一・三二角、亀&。一品己⑯ミミ・P…『『目云昏二Fの一言一m。〕⑬[○の⑫目]己の一{①菫の『穴の戸シ宮・P具①三mg①mの二『弓8国□・JU]し①壷一・(4)く、一・三○一魚、ご&・一品ミミヘミミ量…『『g云昏三Fの一三mコさ[○の、目】ョの一一の三m『六二・シ三・F臼①三m。言のs『二目因二・①。]@℃←]。(5)『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』二七六六年)では、スエーデンボリの霊界物語との対比のなかで、身体から切り離された精神、すなわち霊(○の三)の形而上学的理論が批判的に吟味されていた。ところが、教授就職論文『感性界と英知界の形式と原理』二七七○年)では、存在論とともに合理的心理学が純粋知性の普遍的原理を示して(く、二】.ごい)、経験 数と頁数で示した。
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的心理学が内的感官の現象を説明する、と述べられるのみであった(く、一・国辿召)。もっとも、新しい時空論により、感性的認識と知性的認識とを区別する七○年論文のテーゼはすでに、自然影響説、予定調和説、機会原因説という魂(汗①|の)と身体(【OBの『)の交互作用を説明する三つの理論のいずれとも相容れないものになっている。結局、一七七二年二月一一一日付のマルクス・ヘルツ宛書簡に記された、「われわれの内で表象と呼ばれるものが対象に関係するのは、いかなる根拠に基づくか」(×』ご)という純粋悟性概念の演鐸に対する課題を自覚するに至って、カントは探究の視座を感性と悟性という魂の能力へと向けていった。(6)カントが教科書として講義に用いていた教科書は、ヴォルフ学派の一人であるバウムガルテンの「形而上学』であり、経験的心理学と合理的心理学の二つの部門もそこに含まれている。それぞれの心理学の全体構成については、ヴオルフとバウムガルテンの問に大きな違いはない。ただし、ヴオルフの合理的心理学には経験的命題が組み入れられているのに対して、バウムガルテンの合理的心理学にはそれがみられないことには注意が必要である。(7)H・ファイヒンガーが『純粋理性批判」方法論での 全形而上学についての記述を次のように整理している。く、一・田・ぐ酉一三二mのn六○ミミ句ミミ圏云『口琶冒云へ、ミ《烏、『而冒曾尽冒員武因二・房m・ざ。 哲学
、舩鯛抽川鰍韓
H口鈍」』LL 広義の形而上学)批判)(広義)性の体系)而上学論哲学(存在論)的自然学越的自然学宇宙論(狭義の形而上学)神学在的自然学合理的物理学合理的心理学而上学
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(8)魂の科学を不可能とする理由としてここで指摘されているのは、内的感官の現象とその法則に数学が適用できないこと、内的観察が分析技術や実験に適当でないこと、である。また、『実用的見地における人間学』二七九八年)の冒頭では、「脳の神経や繊維」について「理屈をこれる」のが無駄なので、「生理学的
(でごm-C一・四ms)」な人間学とは距離を置く、とも語られ
ている(く、一・二』」ご【)。加えて、「人間本性そのものに付着する重大な困難」として、人間があるがままにみずからを示しえないか、あるがままを知られるのを欲しないこと、人間の自己自身の探究のさいには、自己自身の観察は不可能であること、習慣がもう一つの本性として、自己自身や他人についての判断を困難にすること、以上一一一点が挙げられている(く、一・二〕」巳)。カントが脳の機能の自然科学的な分析に対して無関心であり、経験的心理学の内的観察には消極的な態度をとっていたことがここに垣間見えよう。(9)ぐ、一・西・[【一のヨョの》呑冒唇、三・堕呂言冒旨匂の雪辱胃ミミ言言量量§三.書信国磑巴・言ミニ㈹二(⑩§&言短慰目ミ評、ミミ身ご・雪ミヨSの二畳宮⑯冒鐘三拝ご鳥三§冒喜(蚕昌‐田。『m・言信の貝団二・コ)・出色ョ宮漏》二①ごn二g⑦. 、)カントもまた、経験的心理学を実用的な人間学へと置き換えていった。一七六五/六六年冬学期の講義予告では、「人間にかんする形而上学的な経験科学」である経験的心理学から講義を開始することが宣言された
(く、二】.]三)。その後、一七七一一一年末のマルクス・ヘル
ツ宛書簡には、人間学講義の意図が「道徳」や「練達」など「いっさいの実践的なものを究明すること」にある、と記されている。遅くとも一七七五年までには、人間学が実用的なものと見なされていたようである(く巴・×[内三石)。(u)く、一・]・Z・恵一①二m.、三・匂s言・言尽国憲・言尋9号
ミの冨・ミニn言『ミ雇員(言ごミロミ衰団『:『切目二.Pの一つN一mコヨヨ〉一目z2Q『巨C【の、①一{gの『己三一○m○つ三⑫sの『諄『【p因『い、・く・己の『蚕昌、§--,s三・国二・三国の『一ヨニ]・(、)言うまでもなく、カント自身はロックの生理学的、経験的な導出とみずからの超越論的演鐸との違いを強調している(ごm一・国二P里弓【)。(四)ごm一・三・の昌一・ロ⑯、三二⑲(鴇喜否ミロ冒与ミ急旦
ミミロ⑯畳ご二号、容信。、言己・こ畠(.①ニヨ、・三℃壱・⑫.一己鹿なお、カールの見解では、カントが認識能力の超越論的理論を主張したのは、’七七○年代の終わりのデュイルブルク遺稿と因百の紙片が書き残された53
間で、合理的心理学の誤謬推理の発見に続くとされる。これに対して、自己直観に依拠する独断的な主観の統一と独断論的な経験認識や合理的心理学による基礎づけとの関係について、クレンメが異議を唱えている。ぐ、一・の胃一・口・ロ.○・・m]田》【]のヨョPQ・P○・・m』ご・
(哩)「私は、テーテンスのように概念の開展(団く・一三目)(そ
れを通じて概念が産出されるすべての働き)に従事しているのではなく、ランベルトのようにその分析にでもなく、たんにその客観的妥当性に従事しているのである。私はこれらの人物とは全く競合していない」(【おg)。「テーテンスは、純粋理性の概念をたんに主観的に(人間本性)探究したが、私は客観的に探究する。前者の分析は経験的で、後者は超越論的である」(【←cc二。(胆)ごm弓.o・因四三壽三⑩&記§:Qの§§、三・こご
弓・ミ否ミ「・二言害:a己昌ご・『ぃ旨で『のm二℃召・已旨①勇・厄【一二呂否ミ奇早口弓。§烏ミミ、ごS&P空。×ずaごCP壱・J【(蛆)く、一・四・n.言Pご冒壽&⑮ミロ呑言員.ご亘、
シ昌長①.m①『一ヨ]しⅨ.⑫・凶己鹿(ロ)ストローソンの解釈は、おおよそ次のようにまとめられる。客観性を含意する重みのある意味での経験は、 経験の自己帰属の可能性に対して要求されるような、経験がそれ自体に関して思考する余地を与える再帰性を、したがって経験が概念的・認知的要素を含むことを前提する。しかし、そのさいには、経験の自己帰属のために、人格同一性の基準は用いられない。つまり、経験主観が現在の意識状態や想起された意識状態を自己自身に帰属させるとき、その経験主観を指示する代名詞「私」を使用することを正当化するために、人格同一性のいかなる基準も要求されてはいない。しかも、そうした基準のない自己帰属であっても、経験的に同定可能な主観への指示は現実的には失われない。こうした解釈は、端的に言うならば、カントの自己意識論を一人称代名詞「私」の意味論として再構成する試みであり、したがって行動主義的な解釈として特徴づけられる。く、一・勺・田.⑫【『四三m。P二⑯国・§号&貯冒P壹醇匂ミ・寓言員啄三『宮内&、§宛§・嵩・亘の三目唇の。.Fa」Ca。(『意味の限界』熊谷直男、鈴木恒夫、横田栄一訳、勁草書房)(咽)で.⑦この『・勺望s○一.空目。一言『『gmon己自国一己&巨呂。P
言団・田◎三の『(の□).ごミ啄自冒冨。§鳥ミミロのミミ・弓》の【目註己己昌く①『、一口で『のmいち宅.(四)く、一・両田・の一国三mCPmの三二一冥己己①『、戸自ニヨ、》回己弓の54
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(卯)く、一・【二s具弓亘・弓』二【なお、戸田山氏によれば、
心が何であるかではなく、何をするかを問う点で、カントの超越論的議論と認知科学の機能主義とは一致するが、そのように問いつつ、カントが自由意志を自然科学の外部へと隔離しようとするところは、認知科学では受け入れられないとされる。しかし、カントの理性批判では、結果として自由概念が経験の外部に追いやられるが、霊魂論が否定されるさいに、あらかじめ自由意志が確保されていたわけではない。カントは自由についても、それが何であるかではなく、何をするかを探究したとも言える。むしろ、認知科学が自由意志の消去を前提として、自由概念そのものを倭小化しているのではないか。経験の内部で自由意志を説明する可能性も残されているであろう。この点については、次の文献を参照。戸田山和久「カントを自然化する」、『日本カント研究8カントと心の哲学』日本カント協会編、理想社、二○○七年、五○頁以下。a)戸田山、前掲書、五四頁以下を参照。自己意識とその統一にかんするカントの考え方は、脳神経科学の知見とうまく整合しないが、意識経験が可能なシステム 一般の条件にかんする新しいアイデアとなりうる部分もある、というのがカントに対する戸田山氏の評価である。55