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破局的経験と生命の可塑性 : クレール・マラン『 病い : 内なる破局』を中心に

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破局的経験と生命の可塑性 : クレール・マラン『

病い : 内なる破局』を中心に

著者 鈴木 智之

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会志林

巻 67

号 2

ページ 35‑53

発行年 2020‑09

URL http://doi.org/10.15002/00023391

(2)

はじめに

 クレール・マランは,2014年に『病い―内なる破局』と題した小さな書物を著している。自 らの疾患経験を契機として始められた,病いと医療をめぐる彼女の哲学的考察は,『病いの暴力・

生の暴力』(2008年),『私の外で』(2008年),『熱のない人間』(2013年)を経て,この著作へと引 き継がれる。マランはその後も折に触れて疾患や健康の問題について発言1をしているが,書物と してこの領域に正面から取り組んでいるのは,目下のところ本書が最後である。この先のことはも ちろん分からないのだが,一連の思考のひとまずの到達点として受け止めることができるだろう。

 本書の章立ては以下の通りである。

 序章  自分が自分でなくなることの傷  第1章 病いと同一性

 第2章 自分を見失う苦しみ  第3章 見知らぬ身体  第4章 他人の顔  第5章 存在論的動揺

 第6章 新しい自己の習慣としての治療

 本稿の目的は,このテクストを中心的な読解の対象として,「病い」とはいかなる出来事なのか,

そして,「病む」とはどのような経験なのかを,引き続き考察していくことにある2

 その際,一方では,前稿(鈴木 2019)において整理したジョルジュ・カンギレムの生命論や医 療論をマランがどのように継承しているのか,また他方で,カトリーヌ・マラブーの「破壊的可塑

破局的経験と生命の可塑性

─クレール・マラン『病い―内なる破局』を中心に─

鈴 木 智 之

1 最近では,新型コロナウィルスの感染拡大についての Le Monde のインタビュー(2020, 03.20)がある。

2 これまでも筆者は,マランの仕事に言及しながら,「病いの経験」についての考察を重ねてきた(鈴木 2014, 2017, 2018a, 2018b, 2019)。本稿は特に,「生物学的規範性と治癒の教え」(『社会志林』第66巻・第 1号,2019年)の続編として書かれるものである。

(3)

性」論と彼女がどのように対峙しているのかを,言説文脈として意識しておくことにしよう。カン ギレムとマラブーのあいだでマランを読む。それを通じて,「病いを生きる」ということについて,

どのような視角を得ることができるだろうか。

1.カンギレムの<健康>概念と生命の可塑性

 病いを生きるとは,身体の変容を経験することである。昨日とは違うものになっていく身体,あ るいは違うものになってしまった身体。その変化が否定的なものとして現れる時,私たちは「病気 になる」のだと言える。カンギレムはそれを,生活・生命が「別な成り行き(une autre allure)」

に入っていくこと,と表現している(Canguilhem 1966=1987:69)。

 前稿で見たように,カンギレムによれば,生命体は個々に,環境とのあいだで「良い」「好まし い」と感受される「規範的(normal)」な状態を設定しており,それはそれぞれの時点で相対的に 安定的なものとして維持されている。これが,言葉の通常の意味での「健康」である。しかし,環 境からの働きかけや生体内部の変化によって,その規範的な均衡が崩れ,有機体のあり方が「否定 的な生命的価値」を帯びてしまうことがある。これが「病い」の状態である。そして,有機体は不 可逆的な時間を生きているので,ひとたび病理的な変貌を経験してしまった主体は,決して元通り の姿に回帰することはない(旧状復帰という意味での「回復」は原理的に存在しない)とカンギレ ムは言う(Canguilhem 1952, 1966)。

 ただしそれは,病理的変質を遂げた生命体がそのまま解体を続け,ただちに崩壊してしまう(死 んでしまう)ということを意味するわけではない。有機体は,ひとつの秩序が損なわれてしまって も,新しい条件のもとで別様の「生活」を創出することができる(それが「治癒(guérison)」と いう言葉の実質的に意味するところである)。したがって病いは規範性の完全な喪失ではなく,同 時に「新しい生命的次元」の出現でもある。生命有機体は,病理的な危機を乗り越えて,新たな均 衡状態を創出しようとする。生命体に備わるこの「規範形成力(normativité)」の持続こそ,本来 の意味での健康であるとカンギレムは論じる。これを,前稿に引き続き,ここでは<健康>と表記 しよう。

 <健康>は,自己の編成に変容をもたらす作用を受け止めつつ,自己と環境とのあいだに新しい 生活の形を生みだす力として理解される。したがって,カンギレムの言う「治癒」とは,生命の可 塑性(plasticité)の発現であると言うことができるだろう。

 「可塑性」とは,形を変えながら存続する力,あるいは存続しながら形を変えてしまう性質を指 す。変形しつつ,完全には損なわれない状態を作り出していく力が作動している時,それは「可塑 的」であると形容される(破壊的な力に耐えることができず崩壊してしまったものは,もはや「可 塑性」を備えているとは言えない)。したがってまた,可塑性はある種の柔軟性を指しているが,

外からの力を被り変形しながらも,元の形態に戻ることができるという意味での「弾性(élasticité)」

とは区別される。

(4)

 カンギレムが描き出した病いの行程,すなわち,生命が段階的に解体しそのつど新たな均衡が形 成されていくプロセスは,この意味での可塑性の発現過程としてある。病理的な変化を受け止めつ つ,新しい規範性を獲得していくこと。相対的な安定と危機的な動揺を反復しながら,解体と再構 築を死にいたるまで継続していくこと。そこに,解体し続けるものとしての「生」の実相があり,

医療とはこの道行きをたどる人を最後まで励まし支援し続ける,道徳的で教育的な営みなのだと彼 は論じる。「治癒の教えは可能か」と題された論文から,彼の言葉を引用しておこう。

個人の生命は,もともとが生のもつ力の縮小の過程である。健康とは,定常的な満足ではなく,驚異的 な状況を制御する力の先ア・プリオリ験性であるから,この力は相次いで生じる教育[的試練]を制御することによ って消耗していく。治癒の後の健康は,その前にあった健康と同じものではない。治癒とは元の状態へ の回帰ではないという事実についての明晰な認識は,病者を過去の状態への固執から解放することによ って,可能な限り諦めずに済むようにという病者の探求を助ける。(Canguilhem 2002:98-99)

 マランは,自己免疫疾患の当事者として,また一人の哲学者として生命の現実に向き合うなかで,

この「解体過程としての生」と「規範の再形成としての治癒」というカンギレムの考え方を受け継 ぎ,そこから病いと医療に関する思想を展開させている。

 例えば,『病いの暴力・生の暴力』では,病いを有機体に対する外在的な脅威としてではなく,

生命体そのものに内在する自己解体の力としてとらえる視点が示されている。そこから彼女は,生 命体を,「解体」と「再生」を同時に経験し続ける「可塑的」存在として位置づける。

解体は,単なる来るべき死の同義語であるばかりではない。解体は,常に生成し続ける有機体の形成の 条件そのものである。したがってそれは,生命体の可塑性という考え方に接合する。(Marin 2018a:

163)

 あるいは,現代の人間が抱く「健康神話」,すなわち「多様性も変化もなく,いつも同一の性質 を享受する」ような揺るぎない身体への幻想を批判する文脈でも,カンギレムが参照されている。

マランによれば,人々は彼が示した<健康>の実相を忘却してしまっているのである。

人々は,人間の身体がどのようなものであるのかについて思い違いをしている。生きている身体は,常 に変わり続け,死に続け,再生し続ける。多少なりとも可視的な段階を踏んで,多様なリズムにしたが って。その唯一の恒常性は不断の変化にあり,固定的な規定力の中で固まってしまった身体のそれでは ありえない。(…)健康。それはまさに,大きな変化を受け入れ,新しいエネルギーを使いながらこれ に応え,いつもとは違う反応を呼び起こしていく,言い換えれば,新たなものを創造していく身体の力 のことである。(Marin 2013=2016:34)

(5)

 かくして,カンギレムに準拠しつつ,健康とは「ある形のしなやかさであり,適応力であり,有 機体の可塑性である」(同:34)とマランは論じる。「治癒せざるものの治療のために」という『熱 のない人間』の基本視点は,先の概念整理に置き換えれば,元通りの「健康」に復するという意味 では「回復」しえない生命体,段階的に解体しつつそのつど「治癒」を図ろうとする身体を最後ま で支え続ける医療を希求するものである。そこには,「生命の脆弱さ」を受け入れつつ,「有機体の 可塑性」に自己を託していこうとする構えを見ることができるだろう。

 しかし,自己免疫疾患の当事者として,時にマランは,身体の「規範形成力」の「先験性」を信 じ切れずにいるようである。『私の外で』には,病いの暴力が解体をもたらすと同時に身体が新た な規範性を構築していくという見方に,ちょっとした反抗を示すような言葉を読むこともできる。

 時には,怒りはおさまっていく。嵐が去ったあとの海のように,それは残していく,窪みを,波が岸 を削ったところに,それは,さしせまった要求の痕跡を残す。叫びと,力と,焼けつくような痛みがあ ったことの痕跡。もう前と同じには戻れない。誰かが主張するように新しい規範を内在化させるわけで はない。病いは規範を作り出さない。それは規範を揺さぶり,覆し,私たちをそこから引き離す。

(Marin 2008b=2015:20-21)

 カンギレムの議論に対する両義的な言及。一方で,「前と同じには戻れない」として,不可逆性 のテーゼを承認しつつ,「病いは規範を作り出さない」と言って,新たな均衡の未成立を嘆く。そ こには,病いがもたらす破局的な局面を生きる,当事者の実感が込められている。

 しかし,前稿において確認したように,この両義性は,カンギレムの思想のなかに既に存在した ものでもある。生を不断の解体としてとらえる視点と,新たな秩序を構成し続ける力の発現を信頼 する視点。彼もまた,その狭間にあって揺らぎながら,「生命」の本質を考えようとしていたので ある。

2.同一性の傷としての病い

 『病い―内なる破局』は,病いの現実をあらためて,解体と再生の拮抗過程,すなわち「可塑 性」の発現過程としてとらえ直そうとする試みである。

 それは上述したようなカンギレムの思考を引き継ぎ,その問題設定を継続させようとするもので あるが,視点の取り方は必ずしも同一ではない。というのも,マランは,病いを経験として,病む 者の視座からとらえるという態度を一貫して手放さないからである。その点では,第三者的な観察 視点からくり出されるカンギレムのいささかクールな哲学的考察とは異質な,当事者視点の生々し さが言葉遣いの内にこもっている。ただし,この著作では,自己免疫疾患だけに照準が置かれるの ではなく,彼女自身の体験に根ざしながらも,「病む」という経験の通底的な様相に迫ろうとして いる。『私の外で』が病者の一人称視点に内在する試みであったことに比べれば,自己の経験を対

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象化し,普遍化しようとする意思が強く働いているように見える。

 では,『病い』においては,どのような視点が選択されているのだろうか。

 まず,本書では「同一性(identité)」という言葉が主題的な位置に置かれていることを確認して おこう。

病いは,文字通り 破カタストロフ局 であり,内的世界の,病む人の同一性の感覚の,その存在の感覚それ自体の激 しい動揺である。(6)

 「同一性の傷」としての病い。「私たちの同一性に基盤を与えている連続性と持続に対する信頼」

を消失させる出来事として,病いをとらえるということ。こうした見方そのものに,特段の新しさ はないと言われるかもしれない。しかし,ここで問い直されている「同一性」とは一体何なのか。

それを正確につかむのは,思いのほか容易ではない。例えば,「主体の内的連続性」という言葉で マランはそれを言い表したりもしており,こうした置き換えは概念の内包を少しずつ明確にしてく れるのだが,それでも,ここで危機にあるとされる「主体」とはいったい何者なのか,その連続性 の「内的」な位相とはどのようにとらえられるものなのかという問いを,そのつど先送りしていく ことになる。問われている「同一性」の地位ははじめから明らかなわけではない。

 マランは,論述のスタイルとして,この概念をあらかじめ明晰に定義しておくのではなく,破局 的経験を通じて浮かび上がる存在の様相としてこれをとらえ,そこで揺さぶられているものは一体 何かを問いながら,テクストを書き進めているように見える。病いがもたらすものは,「宙吊りの 生,奪われた生の体験」(8)であるが,それは「私たちの実存的状況の実相に関する,ひとつの開 示」(9)である。つまり,その体験のなかで,ほころびを見せることでようやく露わになる何かが あるのだ。それによって問い直される存在としての「私」とは誰なのか。病いを「同一性の傷」と して見るという視角が私たちの前に開くのは,この傷を負うまでは問われることのなかった自己存 在の成り立ちである。私たちもまた,その正体を問いながら,少しずつテクストを読み進めること にしよう。

・「魂の損傷」

 著作の冒頭において,ここで問われるべき「同一性」にひとつのイメージを与えるメタファーが 呼び込まれている。書き出しの一節を,そのまま引用しよう。

 弦楽器のなかでは,共鳴箱にとりつけられた小さな部品が魂となり,音質に影響を与える。この部品 が傷むと,「魂の損傷」という詩的な診断名が与えられる。この表現が,以下に語りたいと思うことを,

かなりよく表している。ヴァイオリンと同じように,人間存在のなかにもおそらく,見えない小さな部 品があって,それがずれたり罅割れたりすると,存在の音調が深いところで変わってしまい,内なる小 さなメロディーを奏でることができなくなってしまう。この基礎的な均衡,主体の同一性の本質的な要

(7)

素がずれてしまうこと。それは,どのような名前で呼ばれるにせよ,病いのひとつの様相にほかならな い。傷は決して身体的なものにはとどまらない。それはしばしば,その人の全体に及ぶ。(5)

 身体器官(オルガン)を,ひとつの楽器としてとらえてみる。楽器のなかには,奏でられる「音」

に「基礎的な均衡」を与える「部品」が備わっている。その部品が傷つくことによって生じる音質 の変化=「(楽器の)魂の損傷」が,病いのもたらす「(人間の)存在の音調」の変質になぞらえら れる。ここには,病いの現実を,症状として「外に現れる現象」においてだけではなく,「内的な 経験」の層における均衡の喪失として見る視点が示されている。楽器が傷んでしまって,どのよう に演奏しても,奏でる音に調和を感じることができない時の不全感。音楽の比喩は,この著作のな かでもくり返し用いられている3

病いは病む人から,その固有のリズムを奪い,それもまたひとつの同一性のしるしである,内なるメロ ディーを剝脱する。(23)

 「同一性の傷」は,その基底において,生命の音楽性(リズムとメロディ,音調)の破綻として 生じるのである。

 病いは,とりわけ重篤ないし慢性的な疾患の場合には,主体の同一性の感覚を根底から問い直させる 経験である。(11)

 それは,単に身体的な変質が心理的なレベルでも不安を喚起しているということを指すだけでは ない。ここで「問い直さ」れているのは,「人が自らを理解し,自分の姿を思い描き,自己規定す る,その様式」である。身体の損傷にともなう,この自己認識,自己イメージ,自己規定の動揺を,

彼女は「内なる破局(catastrophe intime)」と呼んでいる。

内的世界が動揺し,人は自分がそこにいることを明確には認識しえず,自分の姿を認めることができな い。病む人は,自分自身の生のなかで道に迷ってしまったかのようである。その内的世界は,ひっくり 返って,上も下も分からなくなっている。(12)

 ここで,ひとつの留意点が示される。

 上のような表現はともすれば,あらかじめ「主体の真の同一性」が存在し,それが病いとともに 失われてしまったのだと思わせてしまうかもしれない。だが,そうした見方では,何かをとらえそ

3 マランのテクストにおける「病いの時間」の描出で,音楽のメタファーがどのように用いられているの かについては,鈴木(2017)で考察した。

(8)

こなうことになるだろう。私たちが「同一性」と呼んでいるものは,習慣化された思考やふるまい の帰結に過ぎないのであって,病いの暴力はそれを「表面的虚構」として発見させるのではないの か,とマランは問う。だからこそ,病いは自己の喪失であると同時に,「偽りの自己の仮面」を剝 いで,「本当の自分」を浮上させる契機でもある。だとすれば,「当初の同一性が病いによって動揺 させられるのではない」(14)。「病いは支えきれない同一性の徴候,内的な緊張の身体化であり,

それを意識化させることによって,主体を解放するものにもなりうる」(13)のだ。

 ここには,主体の同一性を習慣の累積によって形づくられたかりそめのものと見る視点がある。

病いはその「主体の骨組みのあやふさや」,「その同一性の作り物的性格」(13)を暴き出す力でも ある。

 そうであるとしても,「病い」が「生活習慣を断ち切り,同一性の感覚を深層において動揺させ る」(15)ことに変わりはない。この動揺の体験は,単なる“自己の喪失”ではない,とマランは 言う。ある種の病いは,「当初の同一性の消失」の後に,「貧弱化した」,「かすれて消えかかった」

同一性を出現させ,そこに主体をつなぎ止めてしまう。それは縮小してしまった自己の固着でもあ るのだが,別の主体の可能性を開くものでもある。したがって,「そこにあるのは,自己の消失で はなく,出現なのだ」と見ることもできる。そこには,同一性の“変形”の可能性が開かれている のだ。だからこそ,治療においては,患者がかつての同一性にできる限り近い状態を取り戻すこと を目指すのか,それとも「新しい存在(生活)の形を発展させ」,かつてのそれとは異なるものが 現れるように導くべきか,が問われる。

病いを,変貌する力,変化へのうながしとして記憶すべきなのか。それとも,自己感覚の基本的な同一 性の諸要素を維持しようと努めるべきなのか。(18)

 この問いかけには,カンギレムから引き継がれた思考の響きを感じることができる。

 

・破局=変貌

 病いがもたらす傷を,身体の表層に現れる症状や損傷としてではなく,「内なる破局」として,

すなわち同一性の「内的」な動揺としてとらえること。『病い』はそのような視角設定から始まる。

しかし,テクストを読み進めていくと,その「破局的経験」は,外的な(extérieur)ものとの区 分の上にもっぱら内面的な(intérieur)ものとして把握されるのではなく,むしろ両者の密接なつ ながりの上に現れていることに気づく。ここで問われている「同一性」は,その人の姿かたち

(forme)から切り離せないものとして成立しているのだ。例えば,「病い」は「急に時間が加速し たかのように,暴力的に死を引き寄せる」(22)新たな時間経験であると指摘した上で,マランは 次のように言葉を継ぐ。

身体はいきなり,自分としてはあまりにも老いたものへと変わってしまい,病む人はその身体の内に封

(9)

じ込められる。SF小説の酷いエピソードのように,他人の皮膚のなかに投げ込まれてしまう。まだ年 齢は若いのに,見慣れない顔をした,老人のような身体の内に自分を見いだす。鏡に映る姿や写真のな かに,自分自身のシルエットを認めることができない。色々なことができなくなってしまった自分の体 を発見する。自分の記憶の綻びに,自分の精神の思いがけない傾きに狼狽する。わけもなく陽気になっ たり,突然怒り出したりする。楽しくもない形で自分自身に驚かされる。まるで,自分自身の身分を剝 ぎ取られて,ほかの誰かにとりつかれているみたいに。病いは,文字通りその顔つきや顔立ちを,さら にはそのシルエットや立ち居ふるまいを変えてしまうという意味で,人の姿かたちを歪めてしまう。

(22)

 

 病いの時間は,純粋に内的な持続の層において生きられているのではない。それは,身体の「変 形」とともに現出する。この「変貌」が「かつてそうであった自分と,病いが描き直した自分との 隔たりを証言する」(23)。

自分の服がもう自分には似合わない。実際には,自分の体がもう自分には似合わないのだ。病いと,病 いによって強いられた治療とによって,形が変わってしまったのだ。(23)

 このようにして自分のイメージが自分のものではなくなる。それは「早すぎる老い」に,「時間 の破壊的な加速に苦しむ」(24)ということである。時の加速とともに,病む人はかつての自分自 身の「輪郭」を保てなくなる。「それは微妙に変形され,ふくらんだり,縮んだりしている」(23)。

この時,「自分自身」が「本来の生の周辺」に追いやられるように感じられる。病む人は「自分自 身の影」(23)でしかないものとなる。

 私たちはここで,マランが「深く内密な混乱」(30)と呼ぶものが,身体の外形,その変貌と表 裏をなすものとしてあることを確認しておこう。それは「自分自身を固有のものとして認証するこ とを可能にするような身体的なしるしを失うということ」(28)である。ここでも,「喪失」と「発 見」が同時に生じる。私は,紛れもない私自身を,自己の正体を,病む身体に内に発見するのであ るが,「そこに発見される人間は,自分自身にとってあまりにもよそよそしく,そこに自分の姿を 認めることはできないのだ」(30)。マランはここで,哲学者ピエール・ザウイの言葉を引く。

 そこに自分自身を見いだし,同時に自分自身を失い,別のものになる―屠殺された獣,虫,猟犬,

野菜,石,化石,あるいは三途の川…4。(30)

 「同一性の喪失」とは,単なる混乱や空白ではない。それは“変身”であり,「私の体」「私の顔」

が,「見知らぬもの」として立ち現れるという出来事なのである。

4 Pierre Zaoui, La Traversée des catastrophes, Seuil, 2012, p.56-57 よりマラン引用。

(10)

 この点,すなわち「存在者の同一性」をその「姿かたち(forme)」から切り離しえぬものとし て論じる視点には,のちに見るマラブーの思想との連続性を見ることができる。「私」は,この身 体の「形」として存在している。だから,身体の変貌は私自身の「変形」でもある。こうした見方 は,病いの現実を,あるいはその経験を考える上で,退けることのできないものとしてあるのでは ないだろうか。

・よそよそしい身体,見知らぬ顔

 「この手や体が私のものであることを,どうして否定できるだろうか5」(31)とデカルトは問う ていた。それは,感覚的与件の自明性を確認するための自問であった。しかし,彼にとっては揺ら ぐことのない確信と見なされたこの身体の自明性が,病いによる身体の変形とともに疑わしいもの となるのである。

私は,この手が自分のものであることを疑う。それが以前とは違うものに感じられたり見えたりするか らである。あまりよく感じられなくなったり,あるいは逆に痛みに溢れていたり,いつもとは違う色や 冷たさ,あるいは熱を帯びていたりするのである。もしもその手が自分の体についていなければ,私は それを自分の手であるとは認識しないかもしれない。(32)

 何かに触れてみても,あるいは自分自身でそれを触れてみても,自分自身が触知しているという 実感を呼び起こさない「この手」は,「まだ私の手なのだろうか」6

 この身体のよそよそしさ,「深い水」に沈む時のように,「土台が崩れ,感覚が消失する」感覚が,

病む人の経験を適切に言い表している(33)。アルベルト・バレラ・ティスカは,病む身体が呼び 起こす感覚を,「自分の皮膚のなかにうまくおさまらない」と表現する。それは,病いが「自己と 自己のあいだ,自分の身体とその身体把握のあいだ,現実と内面化された身体図式のあいだに挿入 され,広がっていく隔たり7」(35-36)として現れることを示している。ここで,崩れ落ちそうに なっている同一性を,マランは,諸感覚に統一感を与える「風合い(goût)」のようなものだと表 現している。

 同一性の感覚は,自分自身に「風合い」のようなものを与えてくれる諸感覚の束の上に成り立ってい る。それは,ある種の家が独特の匂いをもっていたり,人にその人ならではの香りが備わっていたりす

5 René Descarte, Meditationes de prima philosophia, 1641. (山田弘明訳『省察』ちくま学芸文庫,2006年)

6 私たちはここで,「しびれ」を生きている人々の経験を記述した坂井志織の研究を思い起こすことがで きる。脊髄損傷後に感覚の麻痺(しびれ)が残存したある患者は,「自分の体に触れることで生じていた」

ような「触れる―触れられる」という応答関係がうまく成立しなくなり,自分の足に「触られている」こ とがわかっても「中は自分の足じゃないみたい」だと感じるという(坂井 2019:30-31)。

7 Alberto Barrera Tyszka, La Maladie, Gallimard, 2010. より,マラン引用。

(11)

るのと同じである。そうすると,病いとは,自己の風合いの欠如であると言えるだろう。欠落するのは,

自分自身によって感じられる風合いであり,同時に,自分を性格づける固有の風合いでもある。(36)

 この「風合い」という表現は,冒頭に提示された音楽の比喩に通じるような,全体的な調和の感 覚を示しているが,それ以上に,身体の動き,身のこなし,その外観の全体が醸し出す,その人な らではの固有性を強調するものとなっている。「自分の体に住まい,それを動かし,そこにしっか りととどまり,そこに自分の考えを課す」,その「一定の仕方」。そして,「身体が自分の姿かたち,

手触り,テンション,さらには自分の匂い,肌の肌理,髪のボリューム,食べ物の好き嫌いを備え ているということ」。「体の姿勢,知覚の鋭敏さ,身動きのリズム,移動の自在性,こうした身体的 署名のすべて」が,「自己の固有性を示す認知可能なしるし」となっているのだ。器質的,機能的 な身体の固有性だけではない,生活のなかで,習慣的反復によってはぐくまれてきた(いわば,ハ ビトゥスとしての)同一性。「病いが搔き消してしまうのは,これらのしるし」(37)なのである。

 そして,病いという名の変貌は,文字通りの意味で,その人の「顔」を見知らぬものにしていく。

病む人はしばしば,鏡に映る,あるいは他者のまなざしに映る己の顔に驚き,苛立つ。そこに自分 自身を認めることができなくなるからである。

 病いは,顔を喰い尽くすことによって,その人の前に名乗り出る。あたかも,その人はもう自分の乗 り物でしかないというように。そのよそよそしさは,ほかの人々が病者に向けるまなざしのなかにも,

また同時に,病者が自分自身に向けるまなざしのなかにも存在する。病む人が鏡のなかに見る顔は,他 人の顔のように見える。(40)

 「顔」。それは,良くも悪くも,私が私であることを物語る最も雄弁な言葉である。しかし,病い によって変容した相貌は,時に,「不快なよそよそしさ」を示す。「病む人の顔は自分自身のもので はなくなっている。それは病いの顔なのである」(41)。ここでマランは,人類学者ダヴィッド・

ル・ブルトン8を参照しつつ,次のように言う。

西洋社会では,顔は身体のどの部分にもまして,主体の固有性に,人格的同一性に,さらには身体的な 内密性の表現に直接結びついている。顔は承認の媒体であり,他者に対する関係の基盤であり,したが って,その変形,あるいはそのちょっとした変質は,主体の同一性の感覚を危ういものにする。顔が傷 つくということは,もっとずっと深くまで傷つくということであり,しばしばそれは,主体性の本質的 な構成要素にまで及ぶのである。(42)

 「自分の顔が苦しみの表出面でしかないものになった時,患者はなお,いかなる自己イメージを

8 David Le Breton, Des visages, Essai d’anthropologie, Paris, Métailié, 2004.

(12)

もちうるだろうか」(46)。「もはやそこに自分の姿を認めることのできない自分自身の顔を前にし て,私たちは何者であるだろう」(47)。「病いが自分自身を空っぽにしてしまったこの主体の内に,

いったい何が残っているだろう」(48)。たたみかけるような一連の「問い」は,マランが自らの 相貌の喪失に向き合いながら,自らに投げかけていた言葉にほかならないだろう9。それは,容赦 のない「可塑性」の発現を前にして,「同一性」の破壊に怯えている主体が発する問いである。

3.新しい自己の習慣としての治療

・可塑性と同一性

 ここまで,重篤で慢性的な病いがもたらす「同一性の損傷」を「破局的経験」としてとらえるマ ランの視点を,『病い』の前半の4章にそってたどってきた。それは,カンギレムが認めた生の二 面性に即して言えば,「解体としての生」の露出を語るものであったと言えるだろう。

 だが,本書におけるマランの思考は,生の解体的な一面ばかりを強調しているわけではない。

 第5章では,病いがもたらす「断絶」を「存在論的動揺」としてとらえた上で,次のような問い が提示される。すなわちそれは,「同じひとりの人間」であり続けることを可能にする内的な統一 を,病いが破壊していることを意味しているのであろうか,と。

 病いは,実存的意味で理解されるべき裸性の試練である。それは,何が自分を形作り,支え,規定し ているのかについて,深層から問い直すように私たちを導く。それは存在論的な視角を開く。自分自身 とはある種の生活習慣以上の何かだろうか。(50)

 私たちはここで,先に投げかけられた「同一性の正体」についての問いに再び連れ戻される。病 いに先立って自己の本質をなすような「同一性」が存在したと見るのは,おそらく錯視である。し かし,自己とはある時期における「生活習慣」でしかないのだとしたら,病いによってそれが損な われた時,「同じひとりの人間」としての持続はありえないことになる。たしかに,病む身体は変 容する。そして,ひとつの規範性が奪われ,別様の生活への移行がなされなければならない。その 出来事は,ひとつの習慣の上に成り立っていた自己の「同一性」の脆さ,「自己の不変性の幻想的 性格」を暴き出してしまう。

9 『私の外で』には,次のような一節を読むことができる。「私は,私自身の生,私自身の身元から,切断 されてしまう。私はもう,これまでの私自身ではない。それは,自然の消耗,老いてゆく生命体の避けが たい息切れの結果とは違うものだ。私にはもう私自身が見分けられない。写真の中にも,想い出の中にも。

この病いは私を見知らぬ誰かにしてしまった。(…)私はこのムーンフェイスを,フグのようにふくれた 頭を求めていない。この見知らぬ顔にたじろいだまなざしが,行き場をなくしてしまう。私はもう,鏡を 見 る こ と を や め る。 体 の 変 わ り 方 が 早 す ぎ て, 内 な る 身 体 図 式 が 追 い つ い て い か な い 」(Marin 2008=2015:18-19)。

(13)

 だが,この「可塑性」の発現過程において,「私」という存在の「うつろいやすさ」のなかで,

主体の同一性の一切が断ち切られ,その深層の不連続性が露わになっているのだろうか。

 マランはこの文脈で「可塑性」をめぐるマラブーの考察を参照する。例えば重篤な病いなどによ って,「自己との断絶が高じるとしばしば,あたかも同一性そのものが可塑的であるかのように,

新しい人格が古い人格に入れ代わってしまった」ように見える時がある。マラブーはここに「破壊 的可塑性」の現れを見る。それは,先行する自己との同一性を断ち切って,新しい存在,見知らぬ 人間を現出させるような「変形」の可能性である。

私たちの誰もが,ある日別人に,まったくの別人に,それまでの自分とは決して折り合いをつけること ができないような何者かになりうるのだ10。(54)

 マラブーのこの言葉が,「病む人にとりつく基本的な不安」(54)に触れるものであることをマ ランは認める。「もはや自分自身ではないこと,根源的な他性,主体の全面的な剝脱についての怖 れ」(54)。それを怖れるのは,クレマン・ロセが言うように,私たちが「自己の根本的な不在」

(54)という現実から目をそらしているからなのだろうか。

 こうした問いを発した上で,マランは明確に,マラブーとは別の見方に立つ。少し長くなるが,

その一節を引用しよう。

私たちが擁護したいと思うのは,この仮説ではない。実際のところ病いは,主体が主体自身であること を可能にする,ある種の心理的および身体的な支柱を消失させるように見えるが,そうした支柱のすべ てを組み直してしまうわけではない。病いを抜け出す,あるいは少なくともそこから回復するというこ とは,まったく別の誰かになってしまうということではなく,「新しい皮膚」をまとうということであ る。それは,生活の習慣を変え,新しい支柱,思考と体の新たな習慣に立脚し,新たなヴァリエーショ ンのなかで自分自身であり続けることである。病いは,自分の体と思考を変形させ,それらを支え導く 内なる構造の再配置を強いる。それには,非意志的なものの新たな形の創出,主体の深みに埋め込まれ た暗黙の力の組織化された全体の創出が必要になる。可塑性が存在するとしても,おそらくそれは,破 裂的な形でかつての個人を消失させてしまうような破壊的可塑性ではなく,新しい生活習慣に形を与え,

よそよそしいものになってしまった体や心を別様に自分のものにしていく主体の力の内にある。(54- 55)

 確かにマランは,「自己の感覚」というものが,「住み慣れた場所」に積み上げられた「習慣」に よって「構築」されたものでしかないことを認めている。そして,先に見たように,「自分が自分

10 Catherine Malabou, Ontologie de l’accident, Editions Léo Scheer, 2009, p.10. (鈴木智之訳『偶発事の存 在論』法政大学出版局,2020年,6頁)より,マラン引用。

(14)

であるということ」は,身体の外観,「姿かたち」と不可分のものであることも知っている。病い は,人を「住み慣れた場所」から立ち退かせ,「生活を構造化する見えない基準でもある習慣の襞 を消して」(56)しまう。そしてそれは,自分自身のものであるはずの身体の相貌を見知らぬ誰か のものへと変形してしまう。かくして,「損傷経験としての苦しみは,自分自身の存在の虚構性を 露わにさせる」(57)。

 だがそれでも,自己の内的な持続のすべてが損なわれてしまうわけではない。その統一性の感覚 が揺らいだとしても,それは「再度打ち立てることができるものである」(57)。そこには,カン ギレムの言う生命の「規範形成力」に対する最終的な信頼を見ることができる。解体しつつ,変形 しつつ,その構造の再配置を強いられつつ,なお持続する何ものかがある。その持続性を踏まえて はじめて,病いからの回復とは「新しい皮膚をまとう」ことだという表現が可能になる。

 そしてマランは,存在論的動揺を超えて,主体が新しい生活習慣を再創造する営みを「治療」と 名づける。

ここで私たちは,治療を,この内的なつながりを再創造し,患者が新しい生活習慣を形作るのを助ける 力と見ることができる。自分の体と頭の内に住まう新しい様式。それを新たに,自分自身の場所として 生きること。自己から遠く隔てられてしまったあとに,統一性と同一性の感覚を再創造すること。自己 の風合いを再び見いだすこと。自分の物語を語ることによって,それを再び自分のものにすること。お そらくはそのようにして,脆弱な主体は自らを修復するのである。(57-58)

 解体し続けるものとしての生命が,そのつど「新たな均衡」を構築し続けることを<健康>と呼 び,その営みを最後まで支え続けることに「医療」の役割を見いだしたカンギレムの思想が,マラ ンのこの言葉には宿っている。

 では,「治療」はいかにして可能になるのか。それが最終章のテーマとなる。

・「再教育」としての治療

 治療とは,「よそよそしい身体」,すなわち「もはや自分自身のものではなくなってしまったけれ ど,それでも自分に担わされている身体」を前にして感じている不安を乗り越えてゆく勇気を与え ることである。その核心は,近代医学の枠組みのなかでイメージされる「修復的治療」にではなく,

患者が自分自身と和解し,自分で自分を支えていけるようになるために,「患者に寄り添う」こと の内にある。

基本的な治療は,しばしば見えない治療であり,それを受ける人が自覚しないところで経験されている。

子どもを支えて,その子が自分自身になっていくのを助けるような配慮。その同一性を確認するまなざ し,自分の体と,文字通りの意味で,他者との境界とに意識を向けることを可能にするような接触。

(59-60)

(15)

 傍らにいること,まなざしを注ぐこと,手を触れること。この原初的と言えば原初的な「寄り添 い」こそ,患者が病いによって封じ込められていた受け身の状態から抜け出すことを助け,空っぽ になった「私」に再び力を注ぐことを可能にする。「そこに感覚と肉体を与えること」,「自分なり の好み(goût)と,自己への配慮と,自己愛を再び出現させること」(60)こそ,治療者がそこに いることの意味なのである。

 「治癒」の基盤は,生命体が自己と環境のあいだに新しい関係を築き上げていく,その内発的な 力にある。その可塑的な力の発現のためには,身体を医療的処置の対象としてとらえてしまうので はなく,患者が「主体として迎えられる」(61-62)ことが必要である。とはいえ,「病いによって 変わってしまった自分自身」,「別人になってしまった自分自身」を生き延びようとする「主体」の 回復は容易なものではない。たとえ,新しい生活の可能性が見いだされようとしても。「病いのも たらした苦しみ」が,言い換えれば「病んでいる自分自身」が自分のなかにとどまっている。治癒 するということは,決して苦しみの消失ではなく,「場合によっては,苦しみが自分の生の一部と なるのを受け入れるということである」(64)。病いが自分自身の身体に書き込んだもの。傷つい た身体器官に固有の感受性,苦痛に満ちた生の心理的な痕跡(65)。そうしたものを自己の内に組 み入れながら,「新しい同一性」を引き受けていく過程。それは「病者の学び」として現れてくる のだと,おそらくはカンギレムの言葉遣いを意識しながら,マランは言う。

 治療はつまるところ,病者の学びとして現れてくる。自分の体についての新しい技法の学び。その弱 さと,同時にその可能性を自覚すること。残されている可能性と,新たに見いだされる可能性を意識す ること。(65)

 治療が目指すものは,「新しい生活習慣の獲得」である。体の作り,動かし方,思考の方向性,

現実を把握する新しいやり方。病いがもたらした混沌のなかに,ひとつずつそうしたものを立ち上 げていく営み。「治療」とは,「まだはっきり自分自身のものとして見えていない,能力や弱さを自 分自身のものにしていく契機」(66)である。

自分の体が傷み,弱り,脆く,傷つきやすくなって,よそよそしいものになりうるのと同じように,自 分自身の同一性が再び取り戻されねばならないのである。この意味で,治療は,言葉の強い意味におい て,自己の再教育である。(66)

 この「再教育」という言葉が,人が「再び歩み始める」ということの本質を要約しているのだと マランは言う。

それは,身体を駆け巡る動的な流れの再掌握を可能にし,その動きをうながす。身体のパーツ,器官や

(16)

四肢のばらばらな集まりに換えて,再教育は,身体的な傾性を,身構えを置き,身動きを飼い慣らして 滑らかなものにし,固まった関節の錆を落とす。再教育の力は,苦しみにはまってしまって,妨げられ て身動きが取れなくなり,色々なことが出来なくなってしまった身体に閉じこもっていた主体を,再生 させうることにある。(66)

 生命が「主体」としての自己を再発見し,有機体としての統一性を再構築するための「練習」。

それが可能になるためには,誰かが傍らにあって,注意を向け,配慮を示し,その体に触れていな ければならない。

再教育とは,他者の手に触れられることによって,(…)自己の身体感覚との接触を取り戻し,自分の 身体にエネルギーを供給することであると理解できる。そうした接触は人に,自己の身体についての快 楽を,さらには,自己に対するある種の歓びを「目覚めさせる」。カンギレムの表現を借りれば,「妨げ られた生」から抜け出し,ある種の動きの滑らかさを取り戻すこと,また同時に,疾患が押しつけてい る心理的なこわばりやその反復的で強迫的な状態を抜け出すことが求められる。(67-68)

 こうした「治療」の力,「寄り添う者」の存在への期待はあまりにも素朴なものだと言うべきだ ろうか。しかし,病いによって剝き出しの状態に置かれた「体」が,再び「皮膚をまとう」ために は,治療者のまなざしや手が必要である。ただ包帯を巻きなおすような「技術的には取るに足らな いふるまい」が,「患者を新たによみがえらせる手段となる」(69)のだ。

ほんのちょっとした接触だけでも,配慮が向けられていることが示されるのであれば,失われていた主 体を,少なくともその瞬間には自分自身のもとに連れ戻すことができる。あたかも,治療が可感的な外 皮を,患者が自分自身の存在を感じることを可能にする「皮膚」を作り出すかのようである。(69)

 あるいは,「語りの破綻」(ポール・リクール)と呼ばれる混沌の状況において,病んでいる自己 の身に起こったことを語り続け,誰かがその言葉を聞き続けることが,「苦痛に満ちたストーリー を再び自分自身のものにすること」(72)を助ける。

誰かに語りかけること,自分の心の苦しみや不安を物語ること,自分を自由にするためにそれを言葉に すること。それは,患者自らがその効力を体感する治療である。患者は,解放的な語りが続いていくこ とを可能にするような発話の構造を必要とする。患者は,自分の問題に対する答えを期待しているわけ ではなく,単にそれを表出しうることを求めている。(73)

 治療者の存在は,患者が自分自身の生活を形作り直し,それを通じて再び自分自身になっていく ための作業を,傍らにあって支援し続けるものとなる。

(17)

病者は(…)歩くことを,話すことを学び直し,日々の諸場面で他人に頼ることを覚えなければならな い。病いから回復すること,あるいは治癒することは,しばしば,生きる術を学び直すことであり,そ れはかつては,あまり意識せずになされてきたことであるのだが,今度は,そのために必要な努力を策 として講じなければならない。その努力は,患者本人だけでなく,彼を支え,助ける人々,患者が動揺 していた時に抱きかかえてくれた人々の双方によってなされるものである。(75)

 新しい自己の習慣を学び直す協働的な営みとしての「治療」。その可能性をめぐるマランの考察 は,破局的な動揺を経験し,解体の力に曝されながら,ひとつの同一性を脱ぎ捨て,新しい皮膚を まとい続ける,生命の可塑性を信じる言葉とともに閉じられる。

 病いを破局として定義すること,それは,生活を転覆させ,大きく動揺させる力,悲劇的で,苦痛で,

不当な転覆をもたらすその力を強調することである。しかし同時に,そこには,混沌の両義的な経験が ある。それは,おそらく自分自身では手離してしまう勇気をもてなかったであろうことも含めて,すべ てを脱ぎ捨ててしまう経験である。羽目を外したカーニバルの夜のように,自分自身を別の誰かに変え,

しかし時には解放する経験。新しい皮膚をまとうように,ひとつの同一性を脱ぎ捨てる。それは時とし てまた,自らを治療することでもある。(76)

4.破局的経験としての病い―カンギレムとマラブーのあいだで

 『病い―内なる破局』は,カンギレムが生の解体と再編として論じた病いの現実を,病む人の 経験の位相においてとらえ直し,「存在論的動揺」とそれにともなう不安や希望を読み取っていっ た著作である。「私のものとして課せられた身体」が病いとともに「私自身のそれとは感じられな くなってしまう」事態を見通しつつ,マランは,生命体がなお可塑的な力を発揮し,新たな均衡状 態(生の習慣)を構築しうること,またそのためには治療者の寄り添いが必要であることを主張し ていく。それは,「規範形成力」を生命に内在する力と見なし,医療を「治癒の教え」と位置づけ たカンギレムの思想を,あらためて踏襲するふるまいであったと言えるだろう。

 そして,その過程において,「破壊的可塑性」を語るマラブーが,対話の相手として呼び出され ていた。

 マラブーが「可塑性」を自らの哲学的考察の中心に呼び込んでいったのは,ヘーゲルの思想,と りわけ時間性に関するその思考に系統的な理解を与える鍵概念としてであった。「可塑性」は,「形 を受け取り,同時に形を与える」ことによる自己造形を指す。それは,主体の受動性と能動性の媒 介 で あ り, 人 間 存 在 の「 時 間 化 」 の 様 式,「 主 体 性 の な か で 作 用 し て い る 予 期 の 構 造 」

(Malabou1994=2005:38)を示すものでもある。可塑性の過程にある主体は,何かが到来するこ とを知りつつ,何が到来するのかを知らない。この,必然性と偶然性の交差する時間の内にある予

(18)

期の構えを,マラブーは「予見=不測(voir venir)」という言葉で表現している。何かが訪れよう としている,しかし何が起こるのかは,見てみなければわからない。予測可能性と予測不可能性の 交差する時間のなかで,主体は自らを造形し,そして変形していく。この可塑性の発現は,「創出」

と「消滅」,「創造」と「解体」の二面性を同時に生じさせるものとして理解されていた。

 マラブーはその後,可塑性をめぐる思考を脳神経科学の知見に結びつけながら,ラディカルに展 開させていくことになる。そのなかで,主体の可塑的な変形が,それまでの同一性を消去し,まっ たく新たな存在を生み出してしまう可能性,あるいはそうした解体の遍在性を指摘するようになる

(Malabou 2007=2016)。例えば,脳神経の器質的損傷を被った患者がそれまでとは別人のふるま いを見せる場合11のように,人はそれまでには見たこともなかったような新しい人物に変貌を遂げ てしまうことがある。ただし,それは「重篤な外傷的経験」によってだけではなく,時には「ほん の些細なことが原因であっても」起こりうる。「偶然に生まれるひとつの形」,「新しい人間が,生 活史のなかに開かれた深い溝から,再びこの世界に現れ出る」(Malabou 2009=2020:4)のだ。

 マラブーはこの爆発的変形の可能性,すなわち同一性の解体による可塑性の発現を「破壊的可塑 性(plasticité destructrice)」と名づける。「可塑性」という言葉は,神経科学においても一般的に 否定的な意味では用いられていない。「神経可塑性」は,例えば,脳神経のシステムが遺伝子情報 によって固定的に定められているのではなく,発達の環境のなかで柔軟に学習し,これを偶発的に 構造化していく力を有することを指す。あるいは,ひとたび損傷を負った神経システムが,構造を 組み替えながら治癒を果たしていくプロセスを指すものとして,その概念が呼び込まれる。それは,

形を変えつつ発達し,また危機を超えて生き延びていく力として,しばしばポジティヴに語られて きたのである。しかしマラブーは「可塑性」が,そのように持続的な変貌を遂げていく主体の権能 に従属するものではないこと,したがって,存在の形がごく単純に変わってしまう事態がありうる こと,そしてその時,可塑的変貌が過去の自分との決定的な断絶をもたらしうることを語る。どれ ほど外形が変わっても主体としての同一性は失われることはないという信憑を,彼女は「心理的メ シアニズム」として一掃しようとするのである。

 マランが抵抗を示しているのは,生命体の病理的な変質がいともたやすく同一性の「破壊」と

「断絶」をもたらすのだと語るマラブーの,こうした身もふたもないふるまいに対してである。マ ランもまた,病いにともなう変貌は本質的に「解体」の過程であり,かつての習慣のなかで形作ら れていた「同一性」には回帰することがないと考えている。また,自己存在の同一性が,それぞれ の時点での「姿かたち」とは別の次元に温存されるわけではないということ,外形と本質を切り分

11 その代表例としてしばしば言及されるのが,フィアネス・ゲージの症例である。1848年,アメリカ北 東部のニューイングランドにおいて建設工事現場監督を務めていたゲージは,爆発事故によって,鉄棒が 頭蓋部に突き刺さるという大怪我を負う。幸いにも一命をとりとめ,知的能力に異常もなく,回復に向か うのだが,事故の前後でまったく別の人格に変わってしまう。「穏健」な性格で,「エネルギッシュにしか も粘り強く」仕事をこなす有能な男として知られていたゲージは,「頑固」で「移り気」で「優柔不断」

で,かつひどく「下品」な言動をする人間になってしまったのである(Damasio 1994→2005=2010 参照)。

(19)

けることはできないということを認めているように見える。「私たちの生」は「本質的にほころび ていくもの」であり,「おそらく病いにおいて,その解け散る様は最も苦痛なものになる」。そして

「損傷経験としての苦しみは,自分自身の存在の構築性を露わにさせる」(57)。だからこそ,治療 は,損なわれてしまった習慣への回帰ではなく,「新たな習慣を採用し」,自らのものとして内面化 していくことによって,「病む人が過去から引きずっている同一性を乗り越えていく」過程となら ざるをえない。それは,新しい自己の創造である。しかし,「まったく別の誰か」になってしまう ということではない。病いのもたらす解体と変貌が「自己の不在」を感じさせ,かつて自分が信じ ていた「同一性」がきわめて脆弱なものでしかなかったことを露わにしているとしても,そこから 新たに「統一性の感覚を再創造する」ことを可能にする何ものか―主体の深みに埋め込まれた力

―の持続がなければ,「治癒」は可能にならない。それが人間的な意志や技術的な制御を超えて 発現する不可測の力であるとしても,「生命体」そのものの可塑性にもう少し信頼を寄せることが できるのではないか。マランが,自らの疾患経験と治療経験,そこに生じた「断絶」を超えて生き 延びている当事者として語るのは,こうした意味での「治癒」への希望であり,「可塑性」の構築 的な力の粘り強さである。

 マランが選択するこの「仮説」は,論理的な次元でマラブーへの強力な反論となりえているだろ うか。そのように問えば,「構築的可塑性」の持続を根拠づけるものを一切示しえていないという 点で,不十分であると言わざるをえない。それは,マラブーによってひとたび開かれてしまった

「破壊的変形」への不安を,確実に払拭しえていない。その意味では,マランの立場決定は,ある 種の「祈り」や「希望」の域を超えていないのかもしれない。しかし視点を換えてみれば,それは,

経験的な現実においてマランの祈りが通じないということを意味するわけではない。まして,生命 と人格の持続性に賭けて治療に努める臨床実践の価値が否定されるわけでは決してない。抽象的な 論争のレベルで,両者のどちらに理があるのかを論じることに,さほどの意味はないように思える。

 その上で,マランによるマラブーへの応答において何が問われたことになるのか。これをさらに 掘り下げて考えてみなければならないだろう。そのためには,マラブーの思想の射程をより正確に 測定していく必要があるし,他方では,「断絶=別れ(rupture)」をめぐるマランの思考の展開

(Marin 2019)をたどらなければならない。その課題は,また次の機会に委ねたいと思う。

【テクスト】

Marin, Claire (2014)La maladie, catastrophe intime, PUF.

【参考文献】

Canguilhem, Georges(1952)La connaissance de la vie, Achette. → 2e édition, J.Vrin, 1965.(杉山吉弘訳

『生命の認識』,法政大学出版局,2002年)

― (1966)Le normal et le pathologique, P.U.F.(滝沢武久訳『正常と病理』,法政大学出版局,1987 年)

(20)

― (1983)Études d’histoire et de philosophie des sciences, J.Vrin.(金森修監訳『科学史・科学哲学研 究』,法政大学出版局,1991年)

― (2002)Écrits sur la médecine, Seuil.

Damaio, Antonio, R. (1994 → 2005), Descarte’s Error, Emotion, Reason, and the Human Brain. Penguin Group. (田中光彦訳『デカルトの誤り 情動,理性,人間の脳』,ちくま学芸文庫,2010年)

Frank, Arthur W. (1995)The W ounded Storyteller, The University of Chicago Press. (鈴木智之訳『傷つい た物語の語り手 身体・病い・倫理』,ゆみる出版,2002年)

Malabou, Catherine (2007)Les Nouveaux blessés: De Freud à la neurologie, penser les traumatismes contemporains, Bayard. (平野徹訳『新たなる傷つきし者―フロイトから神経学へ,現代の心的外 傷を考える』,河出書房新社,2016年)

― (2009)Ontologie de l’accident, Essai sur la plasticité destructrice, Editions Léo Scheer.(鈴木智之 訳『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』,法政大学出版局,2020年)

Marin, Claire(2008)V iolences de la maladie, violence de la vie, Armand Colin.

― (2008)Hors de moi, Allia. (鈴木智之訳『私の外で 自己免疫疾患を生きる』,ゆみる出版,2015 年)

― (2013)L’Homme sans fièvre, Armand Colin.(鈴木智之訳『熱のない人間 治癒せざるものの治 療のために』,法政大学出版局,2016年)

― (2019)Ruture(s), L’Observatoire.

坂井志織(2019)『しびれている身体で生きる』,日本看護協会出版会

鈴木智之(2014)「生との闘い―クレール・マラン『私の外で』を読む」,『社会志林』,第60巻・第4号,

法政大学社会学部学会

― (2017)「<病いの時間>―クレール・マランの経験と思考を手がかりとして」,『社会志林』,

第64巻・第3号,法政大学社会学部学会

― (2018a)「病いの語りとホロコーストの証言―サヴァイヴァーズ・ナラティヴの社会学のため に」,『三田社会学』,第23号,三田社会学会

― (2018b)「病いに触れる―意味経験のなかの無意味なもの」,『質的心理学フォーラム』第10号,

日本質的心理学会

― (2019)「生物学的規範性と治癒の教え―ジョルジュ・カンギレムにおける「正常」と「病理」,

「健康」と「病い」(研究ノート)」,『社会志林』,第66巻・第1号,法政大学社会学部学会

参照

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