ワロン『子どもの性格の諸起源』を読む
一研究ノートー(4)
坂 元 忠 芳
第10章 自己受容性感覚の反応と性格
ワロンは内部感覚につづいて,自己受容性感覚と性格の起源との関係につい て述べていく。
ワロンがここで自己受容1生感覚を持ち出すのは,シェリントンの見解をもと にしている。すでに述べたように,ワロンは乳幼児の表面刺激と身体的緊張と の対立について考察してきた。この対立はワロンによれば,外部感覚の未発達 と器官の成熟という二つのモメントとの対立から来る。つまり,新生児の内部 には自動運動が存在し,様々な運動のシネルジ〜ができており,器官の活動が 体系化してきている。そして睡眠・排尿などに典型的に見られるように,内臓 感覚の作用は身体の筋緊張と弛緩に深く関係してきている。ひとことで言えば,
内部的活動はアンサンブルをなして形成されているのに,これに比較して外部 活動はまだばらばらだというのである。後者についてのワロンの知見は,おそ らくその後の新生児研究によっておぎなわれなければならないが,こうした対 照的事実の存在から,ワロンの情動論が出発していることは明らかである。こ のワロンの所論は直接にはシェリントンの外部感覚(sens exteroceptif)と内 部感覚(sens interoceptif)との対立から引き出されている。
ここでやや先どりして言うと,ワロンの独創性はシェリントンによる内部感 覚と外部感覚の区別を,もうひとつの活動の面でそれを行なったキャノンの考
え方(activite exterofective, activite propriofective)とに結びつけたところに
あるとされている(ワロン『身体・自我・社会』浜田寿美男編訳,ミネルヴァ
書房1983年,218ページ,訳者による解説)。
シェリントンはこの二つの感覚が分離して対立しているのではなく,両者の いずれにも帰せられない感覚がそこに介在しているのであるという。この感覚 は,行動がある器官をとおして一方の外部感覚に関係し,その振舞いの仕方に よって,他方の内部感覚に関係している感覚である。これをシェリントンは自 己受容性感覚(sens proprioceptif)と呼んだのであるが,その存在をシェリン トンはどのように根拠づけているのだろうか。ここではとりあえずシェリトン の著作を検索することで,ワロンの意見を見ていくことにしよう。
いま手元に,シェリントンの初版本がないので,その第2版,C. Sherring−
ton, The integrative action of nervous system, second edition,1947, NEW
HAVEN YALE UNIVERSITY PRESSを取り扱ってみたい。
シェリントンは,感覚の領野をintero−ceptive field(内部感覚野)とextero−
ceptive field(外部感覚野)と,この二つを媒介するproprio−ceptive field(自 己受容感覚野)とに分けているが,それらについて彼は次のように述べている。
まず内部感覚野とは,動物が周囲の環境との交渉において,生体自身を使っ て化学的な作用や吸収作用により栄養をとる機i能を受け持つ領野で(ibid.,
p.317),これは個体の内部に分布す反射から成り立っている(ibid., p.335)。ま た外部感覚野とは,動物が周囲の環境との交渉において,環境の無数の変化と 作用とに自由にひらかれた機能を受け持つ領野で(ibid),これは個体の外部 に分布する反射から成り立っている(ibid)。これにたいして自己受容感覚野は,
その作用の結果が外部の姿勢や運動にあらわれるものであるが,しかしその感 覚自身の刺激は,生体の内部深くに存在しており,とくに筋肉とそれらの付属 的な器官(腱,関節,血管)に関係している機能をうけもつ領野として,そう した器官にかかわる反射から成り立っている(ibid., p.132)。シェリントンの 所論の特徴は,このように感覚の諸分野を反射の種類によって分類しているこ
とである。
このようにシェリントンは,感覚のあり方を三つに分類したのであるが,こ
れらはもともと身体の情報(information)の起源としての感覚分類であったと
いえる。外部感覚はいうまでもなく,外からくる情報にたいする感受性である
から,比較的明確に区別することができるが,内部感覚と自己受容性感覚とは
区別することが難しい。今述べたように,内部感覚は内臓や植物生活に特殊化 されたもので,消化・呼吸,それから満足感・体の不調・かわき・餓えなどの
感覚を与えるものと関係している(cf., Robert Lafon, Vocabulaire de Psycholo−
gie et Psychiatrie et de L enfant, PUF,1973, P.758)。これにたいして自己受容.
性感覚は,もっぱら姿勢(attitude)と運動(mouvement)そして平衡(equillibre)
についての情報をうけとる感覚である。それは位置や歩行をうまくとることを
可能にするものである(ibid., pp.758−759)。
このようなシェリントンの分類をそのまま踏襲して,ワロンはまず自己受容 性感覚の例を,三半器官と迷路からくる平衡感覚や身体の移動の感覚に求めて
いる(OCE, p.41,『性格』43−44ページ)。自己受容性感覚は外部感覚のように,
外からくる刺激にたいして直接に応えるのではなく,姿勢的で運動的な活動を 介して働くが,それはさしあたって,こうした活動によってつくりだされる自 己感覚の一種と考えられる(ibid., p.41,『性格』44ページ)。いわゆる内臓感覚
としての内部感覚は,まずは自己感覚であるが,いま述べた姿勢・運動・平衡 的な諸活動は,外界にたいして自己の身体を一定の形に保とうとする活動の結 果おこる自己感覚であり,内臓感覚のような,いわば直接的な内部感覚という より,媒介的な自己感覚である。それはワロンの言うように,感覚の性質とし ては空間的で,身体や手足の移動を行なう際の筋肉組織の働きに関係する感覚 であり,いわば緊張活動の結果つくりだされる自己感覚である。
もちろん緊張活動は,すでに見たように,循環・呼吸・消化・性泌尿器など の内臓の興奮と結びついているから,自己受容性感覚は内部感覚と切り離され ているのではない。さらに自己受容性感覚は,姿勢・移動などの活動に関係す る自己感覚であるから,外部感覚とも全く切り離されているのではない。しか し自己受容性感覚が,たんなる外部感覚と違うのは,自己の姿勢を一定に保っ たり,運動させたりする時に自己を自己として感じとる感覚である点に特徴が あることは,記憶にとどめておく必要がある。これは一種の「姿勢感覚」といっ てもよいものである。
ワロンの引用するところによれば,シェリントンは自己受容性感覚を,内臓
感覚と関係して筋肉に緊張を与えるところから,内臓感覚とも同一性をもち,
これを「姿勢機能」(fonction postrale)をもつものと呼んでいる(OCE, p,42,
『性格』,44−5ページ)。
ワロンは子どもの性格の諸起源を問題にする時,なぜこのような自己受容性 感覚を重視するのだろうか。
ワロンは『性格』の他の個所でも,自己受容性感覚に度々触れている。第1 部第8章「心と緊張」,第2部第1章「身体意識の心理〜生理的条件」,第3部
「自我の意識」第1章「6か月までの生理〜心理的与件」などである。
ワロンがこのように,自己受容性感覚について,『性格』の各所で論じてい るのは,自己受容性感覚が,性格という自己の独自性にかかわる機能として,
きわめて重要な働きをもっているからにほかならない。
第1部第1章では,自己受容性感覚は情動生活のもっとも基底的な部分とし て,その役割が述べられている。すなわちそこでは,まだ情動活動に到らない 諸反応のレベルですでに,個体の差異が自己受容性感覚と関連して現われるこ とが述べられている。ワロンがここで取り上げているのは三半器官と迷路の刺 激にたいする興奮の結果起こる反応であるが,それはとくに運動と姿勢に関連
したトーヌス(緊張)と結びついている。もっともワロンはここで,自己受容 性感覚が運動一般と関係していることを述べているのではない。「姿勢」
(attitude)と「運動」(mouvement)とは性質が違う。「姿勢」はワロンによ れば,行なわれている「動作」(gest)の連続する諸局面と関係して,各瞬間 に一定程度の「ねばり」(consistance)と一つの形をあたえる(OCE, p.42,『性 格』,44ページ)。姿勢は運動の節々において或る静的な堅さを与えるものであ
り,運動そのものではない。それは運動に或る構えを与えるものであり,運動 の流れを変えるものである。姿勢はその意味で,運動のいわば準備的反応であ る。運動は一度始まるとそれを継続しようとする性質をもつが,姿勢はそれに 変化を与えるものであり,したがって,運動とは違った機能をもつものである。
ところでワロンは,自己受容性感覚が緊張活動にともなっておこる時,自己
受容性感覚の反応が,内臓だけでなく筋肉組織が関係する姿勢と広く関連して
いることを示している。ワロンはこの例を,迷路の刺激にかかわって説明して
いる(ibid.,同上)。ワロンの説明をさしあたって私が理解するかぎりで,迷路
とその刺激に焦点をあてて解説しておくと,迷路は内耳のことで,これは迷路 状管状の空洞とそのなかにある袋状の膜迷路からなっていて,中はリンパ液で 満たされている。迷路は大きく三つに分かれており,それぞれが異なった刺激 に応ずるようになっている。すなわち,蝸牛には振動が,前庭には傾きと直進 運動の加速度が,半規管には回転の加速度が感覚される。さきにワロンが問題
にした迷路反射は前庭迷路の刺激によっておこる反射の総称である。迷路反射 は,1)動的反射としては眼筋・頚筋・四肢筋・体躯筋に対して動的姿勢反射
(dynamic postural refrex)を起こし,2)静的反射としては眼筋への緊張性 頚反射,四肢・体躯への緊張性反射など,いわゆる迷路性緊張を与えて姿勢を 維持する。そして,単に迷路反射といえば,主として緊張性姿勢反射を指して いる(『南山堂医学大辞典』1978年,「迷路反射」の項)
ところで自己受容性感覚は,迷路の刺激に直接続いて起るのではない。迷路 の興奮の効果は先ずトーヌスの変化として現われる。すなわち迷路の興奮は,
前庭における迷路反射に典型的に見られるように,またはその他の迷路の刺激 に対する反応のように,循環器,呼吸器,消化器,性泌尿器などの内臓だけで なく,筋肉組織全体に及び,身体や手足の骨格筋にも及ぶ(OCE, ibid.,『性格』,
同上)。
自己受容性感覚はこうして,身体を支え保つ自己感覚として,個性の発生的 形成にあずかっている。もちろんこの感覚は,はじめは自動運動の域を出ない。
しかし後にワロンがくわしく展開するように,それは臓器や姿勢の緊張と結び ついて,これらの自動運動を全体として含みこむ複雑な活動が生まれたとき,
情動に大きな影響を与えることになるのである(cf., OCE, pp.109−125,『性格』
第1部第6章「子どもにおける情動の根源及び形態」を参照)。そしてそのよ うになった時,自己受容性感覚は一層個性の形成に参入してくることになる。
自己受容性感覚がもっとも典型的に働く例は,母親が赤ん坊をあやす時であ
る。ワロンによれば,子どもが泣く時には,また,乳を飲ませるよりも眠らせ
るほうがよいと判断した時には,母親は子どもを水平または垂直に支えて,斜
めや上下にゆすってやる。これは自己受容性感覚をとおして,身体や内臓の緊
張を解いていくやり方である(ibid., p.41,同上,43−44ページ)。
新生児の場合には,この感覚はもっとも純粋に現われる。というのは新生児 は,大脳皮質のコントロールを十分に受けていないからである。したがってそ こには,まだ個性が這いり込む余地はあまりない。だが各人でこの感覚の敏感 性に違いはある。例えば赤ん坊が平衡をとる最初の経験で,それほど恐怖を覚
えなかった場合でも,後で何かに蹟いて怪我をした際には,子どもによって,
ひどく恐怖を感じてしまう場合と,そうでない場合とが起る。すべり台での子 どもの経験がそうであろう。子どもは最初,それほど恐怖をもってすべってい るようには見えない。しかし一度,途中ですべり台から落ちそうになった子ど もは,この感覚に敏感な場合,そうでない子どもと比べて,恐怖感がより著し いと思われる。一般に高所恐怖症の傾向は,乳児の時のこのような経験に起因
していると予想されるが,それはこの種の感覚が個性の一端を形づくっている 証左であろう。
ところで一度こうした恐怖心が形づくられると,そこに大脳皮質の働きが参 与するので,子どもは感覚を純粋に使用する経験を,進んでしようとしないの が普通である。ところが,すでに述べたように,大脳皮質のコントロールを人 為的に排除するスリリングな経験をおこなう試みが生まれてくるのは,むしろ,
こうした恐怖心にたいする耐性が強い性格が造られる場合,当然である。子ど もの冒険心がこの種の感覚にたいする刺激にむかうのは,或る意味で先の例の 裏返しであろう。
だからワロンが述べているように,自己受容性感覚は新生児だけに純粋に現 われるのではない。平衡感覚を揺さぶる様々な遊びは,その典型的な例である。
例えば,先に述べたように,イスラム教徒の修道僧のなかには,ぐるぐる回る ことによってエクスタシーを感じる習慣さえある。
ところで,先に述べたように,自己受容性感覚は一方で内臓感覚とつながっ ているが,他方で身体や手足の骨格筋の感覚とつながっている。しかし自己受 容性感覚は,例えば,迷路の刺激のあり方が異なることによって,内臓や身体・
手足の骨格筋の緊張の部分や形に違いを生み出す。こうして自己受容性感覚は,
身体全体の筋緊張のタイプの違いにしたがって,様々な形を生み出す。
ここでワロンは,例によって,それ以前の心理学者によって挙げられている
事例を吟味している。例えばシュテルンが「恐怖の反射」とした機能について,
ワロンは吟味する。シュテルンは,生後一ヵ月の子どもが,自分のいる位置や 状態の変化につれて,なにかに捕まろうとする現象を取り上げて,これを「恐 怖の反射」と呼んだが,ワロンによれば,この命名は後に発達するべきものを 先取りして説明するという誤りをおかしている。最初に現われるのは恐怖の感 情ではなくて,自己受容性感覚なのである。それが恐怖の感情に結びつくのは,
ワロンによれば,もっと後になって起る有機的組織と精神的複合体の水準にお いてである。ワロンはここでプライエルやフリーマンなどの例も挙げており,
総てこれらは恐怖以前のものであることを明らかにしている(ibid., p.42,同上,
45ページ)。つまり体を上下にすばやく動かす時に生ずる筋緊張は,自動的な 反射であり,いわゆる迷路反射にすぎない。しかしこれらの感覚の個性的現わ れが,すでに情動の発達にかかわっていて,自動運動に個性を付与しているの
である。
自動運動は本当に個性を持っているのであろうか。
先に機能の「縮減」がそれぞれの機能に一般的な法則性を付与することを述 べたが,それは同時に,機能のアンサンブルの発生をも意味する。このアンサ
ンブルこそ個々の自動運動の先天的現われの個別性を一層統一的なものにする のである。それはワロンによれば,要素的でない,全体的・総体的な感じ方に もとついた反応だが,このような反応が情動の発生と関係するのである(ibid.,
同上)。
それでは情動はどのようなメカニズムによって発生するのであろうか。そも そも情動とはなんなのであろうか。また情動がどのようなメカニスムによって,
個性の中心を形作るのであろうか。そして自己受容性感覚は,情動とどのよう な関係にあるのだろうか。
情動とは一つの組織された反応体系である(ibid., p.86,同上,77ページ)。
ワロンによれば,情動のもっとも原初的な反応は「くすぐり」にたいして示さ れる反応である。「くすぐり」は身体に対する,とりわけ,関節や体節にたい するかすかな刺激への「姿勢の感覚」による統合的反応である(ibid., pp.71−
72,同上,66−67ページ)。それは緊張性収縮が刺激された付近の筋肉だけで
なく内臓にも及び,とりわけ循環器と呼吸器に影響を及ぼす。そして全体的な 収縮は痙攣となり,最後には爆発的発作となる(ibid., p,73,同上,67ページ)。
この発作は原始的な笑いに見られるものである。それはしばしば涙をともなう。
ワロンはこの過程をつぎのように総括的に述べている。
「多かれ少なかれ長くつづく対立の局面ののちに,刺激の原因をなくそうと する空間動作が,それにともなう痙攣によって決定的にとってかわられ,この 痙攣が生体をその刺激から解放する。その効果は収縮の波によって拡がり,筋 緊張と快感を交互に増大させながら,負荷の限界まで達するように見える。そ の時とめどない笑いがはじまる。しかし刺激がなおも続くと,とめどない笑い では,極端な筋緊張を除去するのに十分ではあり得ない。痙攣は器質的な機能 をもった器官,とくに呼吸の器官をとらえる。そして内臓の緊張過剰に出口を あたえるために,畷り泣きがそれに代わってあらわれる。そのうえ愛撫の最初 から,眼と顔の輝き,脈拍の加速,唾液分泌,皮膚の湿潤,そして,より見え にくいその他の多くの効果が,躯幹や手足のねじれと結びついていて,これら が,筋肉と内臓の筋緊張反応や植物的・分泌腺的反応や姿勢の体制のすべてに たいして,情動がかたく依存していることを確認させる。」(ibid., p,75,同上,
68−69ページ)
情動はしたがって姿勢活動,内臓や筋肉の緊張,植物性内分泌の活動のダイ ナミズムを調節する特別な心理機能と関係をもっている。それはワロンによれ ば,生理学的には自動運動の中枢である中脳の上部の核,皮質下核ないし視線 状体の機能に関係し,後にこれらの自動運動が皮質のコントロールのもとに委 ねられる時の仲介器官となる視床の機能に関係している。したがってまずは情 動は,中脳のコントロールを受けながら,頚部反射や迷路反射に見られるよう な自己受容性感覚とも関係しながら,しかし全体としては,内臓感覚や外部感 覚とも関わって,それらの感覚を機能させる器官の緊張と弛緩とのダイナミズ
ムを集中的に仲介する視床の働きによるものと考えられる(ibid., p.162,同上,
141ページ)。
このように考えると,情動に関係する自己受容性感覚の機能がよく分かる。
ワロンは情動を筋肉の緊張に特別に係わらせすぎているという批判もあるが
(牧靖夫「いくつかの心理学・生物学体系の層構造」『思想』1982年8月号),
それもワロンが情動の発生にかかわるその地点を強調するためであったと考え られる。ワロン自身も述べているように,情動は後に大脳皮質のコントロール を受け,その点では,感情における認識的な側面がが大きくかかわることにな るのであるが,しかしそれでも,精神的な緊張と弛緩の身体的基底である筋肉 や内臓の緊張と弛緩のダイナミズムは無視できないどころか,現代のように大 脳皮質の働きに様々な抑圧が起り,皮質下の動きに問題が出てくるような状況 のもとでは,いっそう無視できないモメントであろう。したがってワロンのい
う身体的緊張と弛緩のダイナミズムが情動に及ぼすモメントは軽視できない。
いずれにしてもワロンは,情動の働きを,このような身体的緊張と弛緩を基 底に持ちながらも,感覚の総合に基づいて反応することができる有機体の全体 反応の一構成部分と考えていたのであり(ibid,, p,44,同上,45ページ),その
なかで,とりわけ姿勢に関係する自己受容性感覚を重要視していたことがわか る。そしてこのことが,ワロンにあって,とくに行動の方向づけに関係する自 己受容1生感覚の個性的モメントの役割を大きくしている。
このようにワロンは,一定の姿勢が繰り返されて,子どもの性格をが形づくっ ていくことについて述べているが,姿勢は身体的なものから,じょじょに精神 的なものへと渡っていく。ワロンの研究家であったトラン・トン氏はこのメカ ニズムを「方向性」(orientation)の発達として構造的にとらえたが1),それは
もっとも身体的な姿勢から,もっとも精神的な姿勢にいたる長い過程を明かに することであった。このことからも分かるように,ワロンにとって,姿勢を統 制するメカニズムを明かにすることは,心的生活の諸要因にさかのぼることを 可能にするものであったが,ここでは彼は自己受容性感覚の最後の例として,
あくびを取り上げている。
1)私は1982年,生前のトラントン氏から,パリの自宅でこの問題に関する大部の原 稿を見せられたが,この原稿は出版されていない。
あくびは普通,精神的・肉体的に疲労した時,または睡眠の前などに,不髄
的に起る,比較的長い,深い呼吸であり,口を開いたり,四肢をのばしたりす
る運動を伴う生理的現象である。これは大脳の中心葉と関係があるとされてい
るが(『南山堂医学大辞典』1978年,「あくび」の項),ワロンによれば,それ はたんなる器官の機能である。プライエルはこれを深呼吸ととらえているが,
ワロンはこれは間違いであるといい,それは一種の伸びであるという。その際
「のび」というのは,ゆっくりとした,強い緊張であって,ひとくちに言えば,
胸廓と首と脊柱と手足の硬直である。ワロンによれば,この感覚は関節の感覚 であり,ゆっぐりとした痙攣的な姿勢のとり方を生み出す感覚,つまり,一種 の自己受容性感覚である。このような関節の感覚は,諺積した緊張を解放する 効果があるものようだとワロンは言うが,その根拠はかならずしも明かにされ ていない(ibid., p.44,同上,46ページ)。だが,ひどく体も精神も疲れている のに,眠くならず,また眠れない時に,手足とくに足の関節を動かして筋肉を 硬直させると,急にあくびがでることがある私自身のの経験からすると,あく びが筋肉の緊張を解くのか,筋肉の緊張があくびを誘い出すのかは,にわかに 判断できない。いずれにしても,あくびと疲労と筋肉の緊張・弛緩とのあいだ に関連があることは,ほぼ確かなことであろう。あくびは或る条件が眠りに抗 する時に起るもののようであり,それによって,ねむりを促進する要因をもつ が,その起因は精神的なものと肉体的なものとが両方重なっているもののよう である。しかしもう少し考えて見ると,あくびは一定程度,精神がリラックス していないと起らないし,或いは,一定の緊張が限度を越えないと起らないの は,その特徴をよく表している。したがってあくびは,精神的に自発的かまた は半ば強制的であるかにかかわらず,身体の緊張を解かざるをえない状況のも とで起るものと思われる。その際,生理的にどのような変化が起るかは,ワロ ンによれば,関節の感覚と関係している。すなわち,緊張を緩和しようとする 時に,人々は全身を伸ばしたり,指をぽきぽき折ったりするが,これは関節の 感覚が深部の調子を変えたり,刺激したりするのではないかとワロンはいうの である。この深部の調子に,先に述べたように中心葉が関係しているかどうか は,いま少し調べてみなければわからない。ワロンのいうように,あくびや緊 張緩和の際に,眼球圧迫の眼球・心臓反射のような交感神経と副交感神経を通 じて内臓活動と植物機能を支配する神経活動の強さの変化が起るのであろう
(ibid., p.44−45,同上,66−7ページ)。もっとも,これらワロンの説明は決
定的なところは何一つなく,すべて仮説的な説明になっている。
こうしてワロンは,あくびが関節の感覚と関係していることを示唆するが,
関節の感覚が,総じて深い身体的・情動的状況と関係していることを同時に示 唆する。それは,或る種の痙攣発作,情動発作,ヒステリー発作や,絶望と怒
りの発作の時の身体のよじれなどににも無介入ではないことを述べている
(ibid., p.45,同上,47ページ)
ここで,「関節の感覚」(sensibilite articulaire)についてもう少し述べてお くと,私の経験では,情動の変化は関節の感覚と深く関係している。私は疲れ ると,体全体が強ばってくるが,その時指圧をしてもらいによく行く。ところ が私のかかっている指圧師の言うところによると,肩や足や背中の筋肉の凝り 具合は,私を襲っている疲労の種類と微妙に関係しているらしいのである。例
えば不意にじわじわ襲ってくるストレスは,まず首と肩の筋肉をひどく堅くし てしまう。だから私の場合,欝屈した情動とこのような筋緊張とは関連してい るらしい。普通の体の疲れは,なぜかしら私の場合には,左の背筋や左肩の筋 肉の凝りに現われてくるように思われる。これはまだまったく荒っぽい私の感 覚なのであるが,言いたいことは,要するに,まだはっきりと分からないなが
ら,私には一種の関節の感覚があって,その動き方が,体の疲労にともなう情 動と密接に関係しているらしいという感じである。
私にはまだ関節がどのように感覚され,それがどのように情動のコントロ〜
ルと関係しているかがよく分かっていない。私は平常,首を何時もやや右に傾 けるくせがあるが,このような習慣も,普段の左の筋肉の緊張と関係している かもしれない。私の身体的・情動的調子のメルクマ〜ルは,どうも左の肩と腕 の関節の感覚に一番強く現われるように思われる。それは或いは体の左に位置 している心臓の機能と関係しているかもしれない。いずれにしても,関節の感 覚は一種の姿勢感覚であり,自己受容感覚の一種であろうと思われる。
関節感覚(joint sensation, articular sensation, Gelenksinn)とは,関節の自
動的・他動的運動の時,関節面の接触によって生じる知覚である。それは位置
感覚や運動感覚などのような深部知覚の一要素とされている(『南山堂医学大
辞典』1978年「関節感覚」の項)。
ところで深部知覚は深部感覚によってつくられるが,この場合,深部感覚
(deep sensation, deep sensibility, Tiefenempfiding, Tiefensensibilitat, bathyes−
thesie, sensibilite profonde)とは,表面感覚に対するもので,身体内部に存在 する受容器,すなわち,筋紡錐(muscle spinde), Golgiの腱器官(tendon organ),間接包のパチニ小体(Pasinianorpusucle)などによって起る感覚で,筋・
腱・関節感覚(muscle, tendon and jointsensibility)とも呼ばれる。身体各部分 の位置(位置感覚)や運動の状態(運動感覚),身体に加わる重量,抵抗など の状態(重量感覚,力覚,抵抗感覚)を知るのにあずかっている。迷路感覚も 厳密に言えば身体内部に起る感覚であるから,深部感覚に属していると考えら れるが,これによって起る平衡感覚は深部感覚に含ませず,視覚,聴覚などと ともに特殊感覚に属させることになっている(『南山堂医学大辞典』1978年「深 部感覚」の項)。
いずれにしても,深部感覚としての関節感覚が,自律的で自動的な要素を次 第に失って複雑な活動に統合されてくると,大脳皮質のコントロ〜ルを受ける
ようになり,その純粋性を失っていくが,それは大脳皮質の感覚中枢に伝えら れて,意識に昇ってくるのである。後に見るように,ワロンによれば,情動は
とりわけ自己受容性感覚が意識化されていくことと関係して発生するが,関節 感覚をも含めて自己受容性感覚の意識化が情動と関係している地点を明確にす
ることが,ワロン心理学の重要な要点になる。
だがここではワロンは,とりあえずこのような関節感覚が純粋に現われる局 面を明かにしている。ワロンは小さい子どもが関節を自由に動かすことに喜び をもっていることを挙げているが,これは関節感覚を楽しんでいる状態である。
ワロンはさらにこの感覚が白痴にも現われることを述べている。すなわち或る 種の白痴は,関節をいじくりまわすのに熱心で,時には関節を自由に脱臼する
ことすらできる場合がある。それからワロンは,普通の大人の或る種のおどり
にも言及している。東洋のおどりのなかには複雑に平衡感覚と関節感覚とをう
こかすものがあると言うのである(OCE, p.『性格』,47ページ)。このような
状態は勿論,芸術家の場合には極めて厳密な意識化のもとではじめて起るので
あるが,東洋の芸術のなかには,例えばヨガのように人間の無意識の働きに依
拠する場合が多い。それは最後には大脳皮質のコントロ〜ルを越えてしまうと ころがあるので,いわばこのような純粋な感覚が現われてくる場合があるとワ ロンは言っているように思われる。
ワロンはこのような感覚が依拠する部位を,大脳の半球下部に属する述べて いるのであるが,そのことはこのような感覚が,或る種の障害,すなわち,半 球下部と大脳皮質との間の切断による障害によってかえって起ることをも意味
している。例えば,アテトーゼのような場合である。アテト〜ゼは主として手 の指または足の指の間に起る捻転・屈曲・伸展などのような緩慢な一種独自の 異常運動であるが,それは筋緊張の絶えざる変化によるものである。病理解剖 的に言うと,一般に線条体の大理石状態(status marumoratus)のほか,淡蒼 球,大脳基底核,大脳皮質など錐体外路系諸核の病変によるものとされている。
これはワロンが,例えば淡蒼球と視床線状体系との連絡が絶たれることから起 るといっていることを裏書きする。後に述べるように,ワロンによっで情動が 視床下部と関係していることが指摘されていることを思えば,アテト〜ゼが筋 緊張の不安定を伴いながら,情動の揺らぎとも関係していることが分かるであ
ろう。ワロンは『性格』の第1部第3章「情動の本性」で淡蒼球について触れ て,次のように書いている。「… 淡蒼球はどうやら筋緊張とそれに基づく 諸機能とを支配する中枢であるらしい。これが視床及び線状体という情動中枢
にたいして解剖学的に密接に従属していることは,情動が本質的に緊張性を
もった性格のものであることに対応しているのであろう。」(OCE, p.85,『性格』
75ページ)。
第11章 外部感覚に起源をもつ諸反応について
さてワロンは性格の起源にかかわって,もうひとつの要因を外部感覚に求め ている。この外部感覚は内部感覚や自己受容性感覚とちがって,性格の起源に どのようにかかわるのであろうか。
普通,外部感覚は外の刺激に感ずる感覚である。それは主に外からの差異に
よる感受性の違いがあるだけで,それ自身の感受性に違いはないように見える。
外部感覚の鋭さや鈍さはありえても,それは個性の違いではなくて,感覚の量 的な違いであるように見える。その上,ワロンも述べているように,新生児に おける夕倍隠覚の働きは,他の二つの感覚に比べてはるかに発達が遅れて出て くる。ワロンは「人間という種の新生児にあっては見られるように,機能的な 行動は環境との,また空間との,そして空間を占めている事物や刺激の源との,
直接的で積極的なあらゆる関係からは排除されている。」と述べているほどで
ある(OCE, p.47,『性格』,48ページ)。
補注)もっとも,ここでワロンが「排除されている」と断言していることは,その 後の新生児研究によってくつがえされている。例えば,新生児の視覚の能動的動きに ついては,新生児がすでに生後数日で,物事を選択的に見ていることが確かめられて いる(山内逸郎『新生児』岩波新書,1986年)。だから新生児の感覚の系がもっぱら 閉じられているとワロンが述べていること(OCE. ibid,,『性格』同上)は訂正されな ければならない。ワロンはあらためて,新生児がもっぱら,内部感覚や自己受容性感 覚によって,内部に感覚の起源をもっていることを強調している。もちろん,自己受 容性感覚は姿勢に関係するから,広い意味では外部にたいして身構えている。しかし,
これとても起源はおもに内部に存在するものであることは,すでに述べたことからも 想像することができるであろう。
しかもこれらの感覚は,それぞれの機能にたいする直接的で排他的な関係に したがって,それらの感覚を測定したり,統制したり,伝i播したりしている(ibid,
同上)。だから,ここでの性格のあらわれは,まだこれらの機能の個別的違い の域を出ていない。もっとも,ワロンはこれら機能間の「反響」(repercussion)
はあるという。ここでワロンが「反響」といっているのは,普通は「こだます ること」をさしているが,ここではすぐ後で,ワロンが消化と眠りとが互いに
「反応」(reagir)しあうと述べているように,「相互の反応」を指していると
考えられる(ibid.,同上)。
いずれにしても以上のことから,性格形成にたいする外部感覚の関係は,一 般的に大きくないように見える。
しかしワロンは,このようなことがらを前提にして,外界が外部感覚を通じ
て興奮を伝える場合,個人差のあることについて論じていく。
味覚について
最初にワロンが注目するのは,外部感覚の成熟の順序とその意味である。ワ ロンはカネストリニの挙げた例によって,まず味覚をとりあげる。味覚はもっ ともはやく発達するものだとされているのが,味覚が個性をもっているのは,
おそらくそれが運動反応などにたいして違った結果を引き起こすからであろ う。このことから,味覚が外部の物質にたいして一定の違った反応を作り出す 事実にたいして,それは,生れつきの一般的法則性をもっているのか,それと
も後天的に赤ん坊に与えられる食事の違いによって,そうした個性がもたらさ れるのであるか,が問われることになる。
例えば,塩辛いものは体にたいして刺激的であり,砂糖はその刺激を静める 力がある。苦さと酸っぱさは体に活発な運動反応を引き起こす(ibid., p.48,同 上,48ページ)。これは一般的な反応である。しかしここでワロンは,こうし た反応に対する個体の遺伝的傾向について言及していない。ただ味覚細胞の感 受性の先天性については,或る種の味覚に限定して,化学者フォックスによっ ても指摘されており1),それはその後の習慣にによって拡大されていくものの
ようである。
1)ジャック・ル・マニヤン『味覚と味』(岩崎友吉訳,クセジュ文庫白水社,193)
Jacqes Le Magnen二Legout et les saveurs.(Collection QUESAIS−JE?N°460)106−
8ページ参照。マニヤンはホックスがズルチンによく似たフェニルチオカルバミド の結晶の一片を舌の上にのせた時,これを強く苦いと感じる者は全体の60パーセン トにすぎないことを認めたが,後の40パーセントはこの最初の試問でなんの風味も
感じていないことを明らかにした。間もなく「味盲」として指摘されたこの現象の 研究は,生理学者によってとりあげられ,住民が被験者として登場した。それらの 結果,フォックスによって指摘された不感の割合は実際より多いことが分かった。
この感受性は両性のあいだでも差があり,すくなくともこの特殊な風味にたいして
は,女性のほうが感受性が強いということがいえるとされた。さらにこの物質にた
いする感受性は,メンデルの法則にしたがって遺伝し,劣性因子として行動するこ
とが分かった。しかしこのような現象の原因を科学的に説明することは,今のとこ
ろできていない。
臭覚について
ワロンによれば,新生児では臭覚はあまりきかない。
一般に臭覚刺激は,鼻孔を通る呼吸気流のなかに含まれる揮発性物質粒子に よってもたらされると言われる。その微粒子は鼻の上部に拡散し,感受器であ る粘膜の黄色部分に吸着される。この部分の神経細胞には長い繊毛があり,そ れが粘膜をうるおす鼻液のなかでゆらいでいる。興奮はそこに吸着された分子 が粘膜にとけて,リポイドの形で細胞繊毛のなかに吸収されることから起る。
神経興奮はこの部分の細胞のなかでおこり,化学物質に敏感な末梢ノイロンの 軸索突起にそってつたわるポテンシャルとして示される(アンリ・ピエロン『感 覚』クセジュ文庫,島崎敏樹,豊田三郎訳,白水社,1958,62−3ページ)。このポテ ンシャルは,エーレンスベルトの仮説によれば,吸収される物質の,互いに触 れ合う2溶液の境界面のポテンシャルによって示される。エーレンスベルトは,
鼻粘膜の水性層と臭覚繊毛の成分であるリポイド成分との間,また,リポイド と細胞原形質との問の水溶液の電位差の関係で二重の配合ができ,それに吸着 した分子の介入する影響が加わって,臭覚の感受系ができると述べている。と ころでピエロンは,この機序によって臭覚の感受性の特殊性がきわめて限定さ れているという。すなわち,臭覚が様々な化学物質を分けることができるのは,
接触しあう二つの液の一定の組み合わせに,ただ一つの有効物質が加わってい
て,それが臭覚の感受性にとらえられるのではないか,というのである。たと
えば,ニトロベンジンと水との間には,ノニール酸というように一定の物質が
決まってくるので,臭覚の感受性はそれをとらえることができる。ピエロンは
実際,臭覚によって同一の味を持つ各種の酸が鑑別できるのは,この一定の物
質にたいする感受性の特性によるのではないかと示唆している(同上,63ペー
ジ)。しかしピエロンは,このような感受性の機序はいぜんとしてまだよく分
かっていないという。すなわち,色々な匂いの数と同数の特殊感受器が問題に
なるし,また,わりに少ない基本臭によってつくられる,実際には無数の組み
合わせが問題になるが,ピエロンによれば,そのような基本臭のひとつだけを
興奮させることはできないし,感受器全体の興奮の空間的一時間的「型」の複
雑な構造も分かっていないという(同上。64ページ)。
したがって,臭覚の個性的発達が,ピエロンのいうような機序の個性的差異 によって生ずることは,或る程度仮定できても,すくなくともワロンの理論で はその構造はよく分からない。
皮膚感覚について
ワロンは次いで皮膚感覚について述べている。
皮膚感覚には触覚,温度感覚(温覚,冷覚),痛覚などがあるが,ここでワ ロンはそのすべてについてくわしく述べてはいない。ただ唇についての感覚の 敏感さが問題にされている。例えば冷たいものを唇にあてると,運動が乱れ,
呼吸が弛緩し,時には脈も変化する。ワロンはこのような反応を,その早い成 熟にそって調べていくが,これは先にも引用されたカネストリニの実験によっ ている。例えば唇に冷たいものが当たると,さきほどのような反応が起るが,
これは,カネストリニのとった方法,すなわち,唇の反応を脳の泉門水準の動 きや呼吸,脈拍を記録することによって測定しようとするものである。脳の泉 門(fontanelle)というのは,新生児や乳児の頭蓋冠を構成する各頭蓋骨の隣…
接部にある結合組織性の膜である(『南山堂医学大辞典』1978年,「泉門」の項)。
これは各頭蓋骨の周辺部が骨化せず,結合組織のままに残存するために生ずる ものであるが,月令にしたがって次第に骨化が進み,多くは生後2年以内に閉 鎖し,縫合の状態になる(同上)。
このように泉門は,乳児の反応にとって重要な役割を果たすが,ワロンはこ うしたカストリニの実験だけでは,乳児の局所的な皮膚感覚について十全に説 明したことにはならないという(OCE, p.49,『性格』49ページ)。ワロンによれ
ば,乳児の皮膚感覚は反射から説明されるが,局所的な感覚は或る種の防御反 射以外には考えられない(ibid.,同上)。防御反射は侵害反射(pocioceptive refrex)の一種と考えられるが,それは生体にたいする過度の刺激が受容組織
に与える損傷を感じる時,それを「侵害刺激」(シェリントン)として受け取
る傾向をもっている。これは一種の痛覚であるが,たとえば,体肢の皮膚感覚
は脊髄反射中枢に入り,屈筋(fiexor muscle)と多シナプス結合を作っている。
そこで,体肢皮膚に痛覚を与えると,体肢は躯幹に引き寄せられて逃避の形を とる。これを逃避反射というが,このように,痛覚にたいする部分的な反射は,
痛覚にたいする一種の防御体制をとるので,これが防御反射と呼ばれたのであ ろうと思われる(『南山堂医学大辞典』1978年,「防衛過程」の項)。
つまり,このような反射の結果は皮膚感覚の重要な一部分をなすので,カス トリニの実験だけでは,皮膚感覚の動きは分からないと言うのである。ワロン は防御反射も,もとはといえば粘膜から出発していて,結局,臓器感覚,すな わち,内部感覚に属しているに違いないと言う(OCE, p.49.『性格』49ページ)。
しかし,このことは,もう少し実証してみる必要があろう。シェリントンに よれば,それは皮膚感覚が脊髄反射中枢に影響を及ぼしたことになり,かなら ずしも内部感覚に関係しているとは思われない。
しかし皮膚反射が,ワロンの言うように,粘膜の刺激に応ずる反応から成っ ていることはほぼ確かなことであり,実際乳児の鼻粘膜に軽く触ると,体の 全体的なふるえとともに,触った場所にはっきりした反応が起る(ibid.,同上)。
つまり,眼をしかめ,くしゃみをし,涙が出る(ibid.,同上)。
これは皮膚感覚といっても,粘膜にたいする反射の一種と考えられるが,一 般にそうでない普通の皮膚は刺激に対して鈍いとワロンは言う。例えば痛覚は 表面刺激に対してごく弱い(ibid.,同上)。このように皮膚感覚が鈍いというこ
とは,この感覚にたいする個性的発現もあまり強くないということであろうか。
しかし,先にも述べたように,内部感覚についての個性的傾向があったことを 考えると,この方面にもなにがしかの個性のあらわれがあることが予想される。
しかしこの段階では,ワロンはこのことについて述べてはいない。
ワロンの見解で,さしあたって吟味しなければならないのは,外部感覚もま た皮膚感覚においては内部感覚と強く結びあっているということであろう。粘 膜における感覚が内部感覚に属しているというワロンの見解は,例えば,食道 や腸の内壁の感覚が内部感覚であるということから比較的容易に首肯できよ
う。しかしそれが皮膚の外部に現われた場合,そうであるかどうかについては,
今後の研究が必要とされるであろう。いずれにしても,すでに述べたように,
内部感覚における個性的表出を認める立場からすれば,外部感覚における個性
的傾向の発現は,粘膜から発展していくという仮説がたてられるように思われ
る。
くりかえすが,このことはワロンが述べているように,新生児の場合,皮膚 反射が一般にきわめて鈍いことによって証明される。ワロンは新生児の皮膚感 覚が鈍い例として,皮膚にたいしては,かなり広く強く刺激しないと反応が起 らない事実をあげている。ワロンによれば,血がでるくらいまで針でさしても,
なんともないゲンッメルの例が挙げられているし(ibid., p.50,同上,50ページ),
皮膚刺激にたいする反応が刺激された部位から,かなりかけはなれたところに 起ること,また,足の裏をこすって,顔をしかめたり,全身的にもがいたり,
叫びをおこしたりすることなどが挙げられている。これらはすでに述べたよう に,心理的機能の縮減されていない例であるが,それは外部感覚が多分に内部 感覚と溶けあっていることを示す例であろう。このことからワロンは基本的に,
個性的傾向が内部感覚のほうに強く依存している,としているのであると思わ
れる。
だがこのことは,外部感覚の傾向がその後の個性的傾向にどのような役割を はたすかについて,ワロンがかならずしも説明していないことを示している。
くりかえすが,ワロンは全体として内部感覚や自己受容性感覚のような身体 的・内部的状況に,むしろ個性的傾向が強く依存している点を強調しているよ
うに思われる。
視覚と聴覚について
次にワロンは,視覚について述べている。
視覚については,すでに運動機能のところで触れたが,ここではワロンは強
い光にたいして,新生児が大人の恐怖に似た反応を示すことを述べている。脳
の容積が増し,呼吸が変化・変動し,興奮し,または,非常にまれに沈静に戻
るといったことである(ibid., p.48,同上,49ページ)。これなども,心理機能
がまだ縮減されておらず,視覚についての反射が身体全体の興奮や沈静につな
がる例であろう。おそらくこれは,視覚の興奮が筋肉だけでなく,呼吸につい
ての内部感覚にもつながっていて,それが身体の全体に広がっていることを示
している例に違いない。
聴覚についても,ワロンは言及している。
聴覚は外部感覚のなかでも一番おくれて発達するものだといわれるが,これ はフレクシヒの研究にもあるように,新生児の聴覚神経のミエリン化がもっと
も遅れる,とされているからである(ibid., p.50,同上,50ページ)。ところが 他方,この事実と一見反するように,シュテルンは新生児が生まれて二日にし
て,音にびっくりすることを認めている(ibid.,同上)。ワロンは,多くの心理 学者たち(フレクシヒ,シュテルン,シャンプネイ,キュウスマウル,フェル
トバウフ,モルデンハウザー,ゲンツメル)の,聴覚が働く時期についての意 見を紹介しながら,一方で,新生児の聴覚の働きがおそく現われるという意見 があるにもかかわらず,他方で,それが早く現われるという意見が存在するこ
と,この両者の意見の矛盾について問題にしている(ibid., pp.50−51,同上,
50ページ)。
ワロンは,総じて新生児が早くから聴くことができるということのなかには,
本来的な意味で「聴く」というのではなくて,それよりもはるかに原始的な,
全身的な諸反応といったことが起るのではないかとしている(ibid, p.51,同 上)。これは,ワロンによれば,「びくっとし(sursaut)たり」の働き「ふるえ」
(tressaillement)たりする動きをともなう反応であるが,この行為は多分に,
手足や胴体の筋肉,つまり,姿勢を保ったり,平衡をつかさどる神経に支配さ れる筋肉の働きによるものである。これは明かに,緊張性の筋肉,すなわち,
内部感覚や自己受容性感覚にかかわる作用である(ibid.,同上)。
ワロンによれば,このような働きは,魚が耳の装置に刺激を感じてぴくっと したり,人が急に眠り込んだりする時など,筋肉の中枢の抑制が不意に解けて 身ぶるいするのに似ている(ibid.,同上,50−51ページ)。ワロンは大人でも覚 醒時にこのようにぴくっとすることがあるという。これは心身の感覚が弛緩し ていて,鈍くなっている時とか,逆に,感情の高ぶりを押さえて,皮質下の中 枢を緊張させている時に,ちょっとした刺激で痙攣が起る例であろう(ibid.,
p.51,同上,51ページ)。例えば私たちが,うつらうつらしている時に,なにか
の拍子で大きな音を聴いたり,なにかの刺激で緊張をあたえられたりすると,
ぴくっと全身を動かすことはよくあることである。
ワロンは,戦争などでよく見られる兵士のヒステリー性発作は,このような 起源によるものだとし,ヒステリーは幼児的表出への退行だという理由づけに よって,このことを説明している(ibid., pp.51−52,同上)。いずれにしても,
このようなワロンの説明は,聴覚にともなう反応を単純に聴覚のそれに限定せ ずに,広く内部感覚や自己受容性感覚の反応とむすびつけて考えていることで あろう。ワロンはこうして,やはり外部感覚が最初は独自に存在することは考 えられず,内部感覚や自己の受容性感覚とそれが溶け合っていることを強調し たかったのだと思われる。
ここでも,ワロンは外部感覚による個性の出現が,もっとも原始的な段階で は内部感覚や自己受容性感覚と結びついていること,したがって,その個性的 発現が内的な遺伝による身体的個性からもきていることを示唆していると思わ れる。ワロンは,とくに聴覚について,それが筋肉にたいして様々な振動を与 える機能を同時にもっていることを,いくつかの例で述べている。ローヴェン フェルトが神経ショックの性質を認めたのは,このような聴覚による,一連の 筋肉の緊張昂進とその低下の現出についてであった。そしてこのことは,おそ らく聴覚の個性がたんに外界にたいする聴覚器官の敏感性の先天的相違からの みくるのではなく,多分にそれに随伴する筋緊張とその弛緩のダイナミズムと 関係していること,したがって,後に見るように,情動的な対応と深く関係し ていることを予想させる。このような現象は,新生児の段階で見られるだけで なく,大人において,大脳のコントロールが少なくなるような状況のなかでも 起るのであるから,こうした個性は,いつまでも聴覚の個性についてまわるこ
とが予想される。つまり,ワロンは外部感覚について,一見その個性的発現に あまり言及していないように見えて,しかし実は,このようなメカニズムを指 摘することによって,感覚からくる個性の問題を総合的に見たかったのだと考 えられる。つまり総じて,個性はそのもっとも深部のメカニズムをもっている のであり,これが情動的現象と深く結びついていることを指摘するのが,当面 のワロンの課題なのであると考えられるのである。
ところできわめて興味深いのは,ここでローヴェンフエルトが指摘している
ような反応の発達を,ワロンが追っていることである。すなわち,生後2か月 頃には,そのような反応は40種類もみられるのであるが,8か月では16に減り,
継続時間は3か月頃から減りはじめる(ibid., p.51,同上,51ページ)。このよ うな原因は,ワロンによれば,別の反射が重要さを増してきているからである が,それは,眼が次には頭が,直接音のするほうへ向いていくという反応に見
られる。これは聴覚の直接的な反応が全身的な反応と区別される過程であり,
つまり,そのような反応が縮減されていく過程である。それは新しい心理的結 合が聴覚とその他の感覚との間に作り上げられることを意味するものと思われ る。ここで考えられるのは,個々の外部感覚が独立の機能として縮減されてい
く過程で,この縮減のいわば組み合わせの色合いによって,新生児の個性がつ くりあげられていくのではないか,ということである。それはもちろん,外部 感覚の敏感さの違いとしても起るものであろう。例えば音楽家の音にたいする 敏感さは,このことによって説明されるものであろう。しかしここで重要なの は,このような組み合わせの色合いにたいして,情動がとくに関連する内部感 覚と自己受容性感覚が重要な働きをしていることであろう。
ワロンは,このような内部感覚・自己受容性感覚が外部感覚とやがて「対立」
していくこと,すなわち,これらの感覚の融合の状態から,分離の状態へと進 んでいくことを示唆している。すなわち,次第に後者が前者とはコントロール の部位が違うことを,身体自身が明かにしていくのであるが,このことは,刺 激に対する感覚機能の縮減をまさに意味することである。だから,刺激の種類 やその強さにしたがって,両者の感覚反応が交替することも起るとされるので
ある(ibid., p.52,同上)。