「韓日キリスト教の歴史的比較と未来の課題」に対 するコメント
著者 金 興洙
雑誌名 基督教研究
巻 63
号 1
ページ 35‑37
発行年 2001‑09‑28
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004239
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「韓日キリスト教の歴史的比較と未来の課題」に対するコメント
「韓日キリスト教の歴史的比較と 未来の課題」に対するコメント
Response Comments on Suh’s Paper
金 興 洙(キム・フンス)
Kim Heung-Soo
徐教授は、この論文で韓国の教会と日本の教会の過去を省察して二つの教会の未来 という課題を提示している。特に日本帝国主義下で両国の教会は、ともに国家と民族 問題に大きい関心を持ったが、その関心が主として政治領域に留まっただけで、二つ の国の固有の伝統的な文化の領域まで達し得なかったということ、したがって両国の 教会はそれぞれ韓国的キリスト教、日本的キリスト教としてのイメージ形成に成功で きないまま、相変らず外来宗教としての印象とイメージを与えているということであ った。このイメージから徐教授は両国キリスト教の現在の位置と未来の課題を模索し ている。
20 世紀の韓日キリスト教の歴史を見れば、二つの国の教会が主に社会的・政治的な 領域で彼らのエネルギーを使ってきたという徐教授の主張には疑問の余地がない。韓 国の場合、キリスト教は政治・経済・社会の諸領域でそのエネルギーを用い、その結 果、数多くの学校と病院の設立を見、そして民族教会が成立し、さらに民衆神学の創 出まであった。それにもかかわらず、キリスト教は相変らず韓国人に、韓国的宗教と してよりもなじみの薄い宗教、外来宗教として認識されていることも事実である。こ の点では、徐教授は日本のキリスト教も同じと見る。日本のキリスト教ほど徹底して 日本化や「日本的キリスト教」を推進して、いわゆる「国体」とひとつになるのに没 頭したキリスト教をさがすことができないと思えるが、それでも外来宗教というイメ ージにおいては韓国のキリスト教と違うところがないということである。キリスト教 が日本宗教や韓国宗教の一つとして認められるよりも外来宗教として認識されている ということは、両国のキリスト教がそれぞれの社会で主人としての振舞いができずに 客の位置に留まっているということを意味する。徐教授はその原因を文化の範疇で韓
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国化または日本化作業が展開していないからだと指摘し、これからの韓日二つの教会 の課題として、「政治から文化に」を提案する。この提案に同意しながら、幾つかの 質疑とコメントをしたい。
1、韓日二つの教会が、ともに政治的志向が強かった理由について言及があるが、
なぜ文化の領域に距離を置いたのかということについては言及がない。これは教会の 神学的立場とどのように関連するのか。韓国のキリスト教が外来宗教の汚名を払拭す ることができない根本的な理由は、宗教的な側面で見れば、保守主義的信仰態度や進 歩主義的信仰態度とともに、キリスト教の唯一絶対性を宣教しようとする動機が濃厚 であったためだと説明できる。柳東植教授は、このようなキリスト教が「韓国文化の 土台」を切り捨てようとしたと表現する。日本の教会も同じなのか。
2、発表者は、教会と文化の関係方式を提示していないが、金教臣や内村鑑三にお いて、そのモデルを発見してそれを提示している。したがって内村鑑三や金教臣にお いて見出すことができる文化の領域までを含有するような「独自的キリスト教のモデ ル」の内容と神学、そしてキリスト教の文化的外来性を「コミュニオン的に克服した 思想」といわれるその内容について、もう少し説明していただきたい。このモデルが 高く評価されたにもかかわらず、韓日教会で拡散してしまい、発展していない理由は なぜなのか。
3、発表者は、韓国教会史を通じて韓国のキリスト教を文化の領域で民族的キリス ト教に展開させようとした試みに言及しながら、特に 1960 年代以後の土着化神学の試 みが「単純な神学的論議」であり、民衆神学の試みは偏った「政治志向」であったゆ えに、文化的課題を解決するのに失敗したと見ている。60 年代初め、アジアの教会で 土着化運動が展開した時、韓国の神学者たちもこの運動に加わって、それが論争にま で発展した。それが 70 年代後半には、60 年代の土着化神学論争の主役だった一神学 者が、社会的政治的神学ではなく「宗教宇宙的神学」を提唱して、今日のアジア及び 韓国教会の神学的課題を探求することを訴えなければならないほど、土着化または韓 国の伝統的な宗教文化に対するその関心が弱まった。
これは土着化に関する論議が単純な神学的なものに留まったことに理由があるのだ ろうが、どんなに文化的課題が重要でも、教会の文化的関心が社会政治的コンテクス トからかけ離れている時は失敗してしまうことを示す良い例だと見ることができない だろうか。現在の韓国のキリスト教の巫俗化傾向は、もう一つの意味で倫理や社会正 義を排除した文化的関係をどのように認識するかという問題点をよく示している。
土着化神学の試みが失敗したとしても、韓国教会史におけるその意義は大きい。土 着化の試みは韓国キリスト教が主体的自我意織をもって福音と伝統文化を見つめよう
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とした試みであり、韓国キリスト教が、韓国社会において客のままで留まってはだめ だという一部神学者たちの自覚の中で出てきたことであった。
4、真の韓国的キリスト教または日本的キリスト教になろうとするなら、伝統文化 との交渉が増大しなければならず、文化の領域で宣教活動及び神学的省察がなされな ければならないことは明白だ。一部例外があるが、いまだに大多数の韓国神学者はア ジアの主要な宗教や哲学が扱った問題に苦心して取り組んでいることの証拠を見せて いない。しかし政治領域においても相変らず韓日両教会で神学的省察を必要とする課 題が残っていることも明白である。日本帝国主義と侵略戦争は日本人だけでなくアジ ア人たちに大きい苦痛を与えた。この点は韓日教会だけでなくアジアの諸教会の真摯 な神学的省察の主題であり続けている。
5、徐教授は韓国教会が信仰復興運動を通じて信仰の内面化を経験したが、日本教 会はその経験が不十分だとしながら、その経験の程度が今後の二つの教会の色々な経 路と密接に関連していると主張する。韓国教会の場合、信仰内面化経験は、なにより も信徒たちにmission mindを強化させて、教会成長の原動力として作用したという見 解に同意する。しかし韓国教会で信仰内面化の外延が日帝時代のキリスト教民族運動 だったなら、解放以後には分断と戦争の混乱の中で、その外延がどんな形態で現れた のかが気になる。分断と残酷な戦争の惨状の中で内面化された信仰伝統は崩壊したの か。あるいは戦争経験の中で信仰外延が民族共同体の生存と繁栄よりは、個人の生存 と幸福を希求する信仰として現れたのか。あるいは外延の他の形態があるのか。
(翻訳 イ・サンキョン、イ・チマン)
(監訳 原 誠)