著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 104
ページ 102‑146
発行年 2013‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013411
新島八重と茶の湯
大 越 哲 仁
はじめに
八重が女流茶人として生きたのは、
1894
年の裏千家入門から1932
(昭 和7)年の逝去までの38年に及ぶ。したがって、八重の全体像を理解す るには、茶人としての八重を理解する必要がある。しかし、現在までの先行研究は、筒井紘一氏と廣瀬千紗子氏の研究の 他、本井康博氏の一連の著作での論考と吉海直人氏の史料発掘の労作1)
など数える程度である。
そこで今回、私は、先行研究を参考にしながら、八重と茶の湯の関係 を包括的に論じたい。それは、愛夫襄逝去後の八重の後半生を論じるこ とにもなるからである2)。
1.茶人の子孫としての八重
会津の郷土史家・宮崎十三八氏によれば3)、会津藩山本家の遠祖は、
武田信玄の軍師である道鬼斎山本勘介晴幸(勘助・晴行)であるという 先祖からの言い伝えがあったという4)。
山本勘介といえば、賴山陽の『日本外史』にも登場する著名な武人で あり、軍師だった。
その著名な武人を先祖に持つことを八重の兄の覚馬も意識していたよ うだ。それは、覚馬の元服名が山本覚馬良晴であり、代々受け継いでい る「良」とともに勘介晴幸の「晴」の一字がそこにあることから明らか である5)。
覚馬・八重兄妹の先祖が山本勘介であるという言い伝えは、二人の家
系の系譜である「山本平左右衛門系譜」における七代前の先祖・山本道 珍良次の時代には、すでにそれが同家に伝わっていたということであ る6)。この山本道珍良次は、祖父である山本与一郎道句、父山本道寿と、
三代続いた著名な茶人であった。
道句は、「利休七哲」(千利休の武将の門人)の一人である古田織部や、
織部の弟子の小堀遠州に学んだ茶人である。
古田織部は、利休の賜死の後、茶の湯の世界の第一人者となったが、
織部が大坂の陣の直後、豊臣側に内通した嫌疑により切腹すると、彼の 弟子の中で小堀遠州が頭角を現し、茶の湯の世界をリードすることにな る。道句もまた、遠州流の茶人として徳川家康・秀忠の徳川宗家二代に 仕え、その後、尾張徳川家の茶師兼庭師となった7)。
道句の孫の道珍は祖父に可愛がられ、道句の尽力によって、三歳の時 に家光を通してその異母弟の保科正之に預けられたという8)。
そのために道珍は会津保科家に仕えることになり、1698(元禄11)年 には
49
歳で茶道長に就任、会津遠州流の茶祖となった9)。覚馬と八重の家系は、この道珍の次男・左平良永の時に分家して出来 たそれであり、左平は茶人ではなく一般の武士となって、後、武官、特 に馬術の師範を務めることになった。そして、二人の祖父・権八良高の 時に砲術師範となってからは、父繁之助権八と続いて砲術師範の家系と なった10)。
したがって、覚馬が山本勘助を遠祖としたのは、茶人の道珍が先祖で あるという認識を前提とするものであり、当時の武家とは家長の家柄と 系譜を最も重んじるものであることから、当然、八重もまた、自分は茶 人の子孫であるという認識を持っていたと考えられる。
2.八重の籠城戦と麟閣
周知の通り、八重は1868年10月8日から11月6日(慶応4年8月23日
~明治元年9月
22
日)11)までの約1ヶ月間、夫の川崎尚之助や家族と ともに鶴ヶ城に籠城し、新政府軍と戦っている。鶴ヶ城は、
1384
(至徳元)年に芦名直盛によって創営された東黒川館 をはじまりとするが、蒲生氏郷入城後、黒川を若松に、城の名も鶴ヶ城 と改めて七層の壮大な城郭を建設した。のち、幕命により七層の天守閣 は五層に改められるが(1639年)、縄張りは氏郷の建設当時のもので ある。氏郷は、織部とともに「利休七哲」の一人であり、茶の湯に対する愛 着と造詣が深い大名であった。そのためであろう、その鶴ヶ城には本丸 御殿の東側に茶壺櫓が建てられた。茶壺櫓は、茶壺や茶道具、更には武 器が収容された二重の塗込櫓である。そして、茶壺櫓の西側の本丸奥御 殿内には、茶室「麟閣」が建てられていた。
この麟閣は、今日も続く三千家発祥の由来を示す重要な茶室である。
千利休が秀吉に賜死された(1591年)後、氏郷は千家の茶の湯が途絶 えることを惜しみ、利休の子・少庵の身柄を引き受けて会津にかくま う12)。麟閣は、少庵が会津滞在中に鶴ヶ城本丸内に建てられた茶室で あった。
この茶室は、少庵が建てたという説13)と、氏郷が少庵のために建て たという説14)の二説があるが、いずれの説でも、茶室の赤松の床柱は 少庵自らが削ったという伝承を伝えている。
二年半以上会津にかくまわれた少庵は、家康と氏郷のとりなしで秀吉 から赦免されて京に戻り、大徳寺に入っていた子の宗旦とともに京千家 の再興に乗り出す。そして、宗旦の三人の子の宗守、宗左、宗室が、そ れぞれ、官休庵・武者小路千家、不審庵・表千家、今日庵・裏千家の 三千家を興したのである。
この茶の湯の歴史において極めて重要な麟閣は、会津籠城戦の時点で も良く保存されて本丸内にあった。だからそれは、近くにあった茶壺櫓 と共に、本丸内に1ヶ月籠城した八重たち婦女子の記憶に鮮明に残って いたはずなのである。もちろん、籠城中に茶を楽しむ贅沢は無かったで あろうが、「平和であれば、茶の湯の稽古もできたものを」という思い とともに会津の教養ある武家の娘たちは、それを見詰めていたはずなの である。
後年、八重が茶人となり、奥義・「真之行台子傳法」の許状を得た後、
彼女は、収集していた「利休宗易大居士筆始代々之筆軸物惣〆三拾四幅」
を裏千家家元の圓能斎に寄贈している。
八重がわざわざ利休や千家代々の家元の書を集めていて、それを裏千 家に贈ったところに、利休=織部=遠州に連なる自己の先祖の茶人、道 句・道珍を意識し、また、籠城戦の間に本丸内にあった麟閣・茶壺櫓を 見て、少庵を守り千家の興隆を導いた蒲生氏郷についても思いを馳せて いた彼女の心情が伺われるのである。
3. 茶の湯と茶道
ところで、私は意図的に本論考の標題に「茶道」という言葉を使わず に「茶の湯」という言葉を用い、これまでの論述でもそれを用いてきた。
それは、茶道と茶の湯は共通の意味概念を指す一方、それぞれが密接に 関連しつつも、厳密には異なる概念を指す場合があり、私はその異なる ところに着目しているからである。
両者の異なる意味概念を述べる前に指摘しなければならないことは、
現代の日本人にとっては茶道という言葉が一般的であるのに対して、利 休の生きた時代では、茶の湯という言葉が主流であったことである。
それは、
1587
年に秀吉が行った北野の大茶会の高札に「於北野森、十 月朔日より十日の間に、天気次第に可被成御茶湯」15)とあることや、利休が秀吉から死を賜る契機となった大徳寺の利休の木像の事件を伝え る1591年の文書に「茶湯之天下一宗易〔利休〕」16)とあることから明ら かである。
実際、江戸時代にまとまったという、利休の教えを百の歌に顕した 「 利休居士教諭百首詠」 では、茶道という言葉は現れず、「茶の湯とは 只湯を沸し茶を點て〔て〕飲計〔ばかり〕なる事と知るべし」というよ うに、茶の湯という言葉が登場している17)。
それでは、茶の湯と茶道の間で相違する意味概念とは何であろうか。
これに関して、広辞苑(第3版)では次のように説明する。すなわち、
「茶の湯(ちゃのゆ)」とは「客を招いて抹茶を立て、懐石の饗応などを すること。茶会、茶の会(え)」であり、一方、「茶道(ちゃどう、さどう)」
とは、「茶の湯によって精神を修養し、これを他人と行って交際礼法を 極める道」である。これを私なりにまとめれば、茶の湯とは、亭主が客 を饗応し、客と共に茶を楽しむことであり、茶道とは、そのような茶の 湯の精神や技能を学ぶことによる心身の鍛練ということができよう。
直心の交わり-茶の湯とは、亭主と客の間に心の交流と平和をもたらす もの
茶の湯の成立について、徳富蘇峰は『近世日本国民史』で次のように 述べている。
〔桃山時代の〕茶の湯の流行は、足利義政以来と云うべきであろう。
足利氏の末期に於いても、茶の湯は実に殺伐社会以外、平和なる人心 を宿する、一種の隠れ家となった。しかして、武将も、朝紳も、富商 も、あらゆる上流階級は、皆この茶の湯に於いて、相互の協和点を見 いだした18)。
彼〔秀吉〕は茶の湯をもって、天下を平治するの道具とした。〔略〕
秀吉が茶の湯をもって、殺伐なる人心を和らげ、乱を好む覇気を閉ざ して平和を楽しむ耽溺気分を誘うた19)。
一方の現代、今日庵(裏千家)文庫長の筒井紘一氏は、茶の湯とは、「多 くの道具を使いながら、心の交流を果たすことで成り立っている世界」
であると総括している20)。
蘇峰や筒井氏の議論をまとめれば、「茶の湯とは、亭主と客との間に 心の交流と平和をもたらすもの」と定義できる。事実、利休は、この亭 主と客どうしの清らかで正しい心の交わりを「直心の交わり」と呼んで
茶の湯の本意とした21)。
そして、この意味の茶の湯という言葉は、千家の子孫も継承して現代 に至っている。それは、現代の三千家がそれぞれ、「茶の湯のこころと美」
(表千家)、「茶の湯に出会う、日本に出会う」(裏千家)、「茶の湯の伝授 の普及に勤める」という表現で、茶の湯という言葉を伝えているとおり である22)。
私が、茶道ではなく、茶の湯というのも、まさに茶の湯における主客 の直心の交わりの意味概念を重視したためであり、この意味の茶の湯は、
八重と茶の湯の関係を理解する上で極めて重要になるのである。
現代の茶会と八重の時代までの茶事
ところで、昭和以降の一般的な茶会は、いわゆる大寄せ茶会といわれ、
お茶とお菓子だけでもてなす茶会であって、茶券を求めれば、 誰でも参 加できるものである23)。
しかし、八重の時代までの茶事、すなわち、利休の時代から江戸時代 を通して明治・大正時代まで継承された茶会とは、食事や酒のついたお 茶のもてなしであって、基本的に、客は三~五人程度の小規模なもので、
亭主と客とは、極めて昵懇の間柄で行われたものであった。ただし、現 代でも、家元や茶人はこの茶事を行っていることは勿論である。
その茶事は、季節や時間によって異なるが、時間帯で区分される暁の 茶事、朝茶、正午茶事、夜咄。ほかに、茶事後の茶事である跡見茶事、
お菓子だけの飯後茶事(お菓子の茶事)、不意の来客に対する臨時茶事 の7種類ある(「茶事七式」)。このうち、正式な茶事は正午から始まる 正午の茶事だが、これは4時間かけて、下のような流れで行われるもの である24)。
<正午の茶事の流れ>
茶事は、懐石料理をいただく初座(しょざ)、休憩である中立(な かだち)、そしていよいよ濃茶・薄茶をいただく後座(ござ)に分か れる。
【炉の時期(
11
月~4
月)】待合(待合掛拝見、湯飲み)→腰掛→蹲(つくばい)でのみそぎ→
初座 席入→床(筆軸)拝見→釜拝見→炭手前→〔懐石:お膳→酒 器→飯器→煮物椀→焼物鉢→飯器→強肴→石杯・徳利酒→箸洗(小吸 物)→干鳥杯→お湯・漬物〕→主菓子(生菓子)→中立(腰掛へ)→
後座 床(花)拝見→道具拝見→濃茶→後炭→干菓子→薄茶→退席 ※風炉の時期(5月~
10
月)は、炭点前が懐石料理と主菓子を頂 いた後に行われる。このような茶事は、茶の湯の修養をもとに、亭主が客を思い、和敬静 寂の大きな主題の下に四季や個別事象のテーマを立て、そのテーマを演 出する路地・茶室・軸・花・香・灯り・道具・懐石料理・酒・菓子・濃 茶・薄茶の「五感・五味」のフルコースによって客に最高のもてなしを 行い、自らも楽しんで、亭主と客が心の交流を行うという、千家によっ て完成された最も美的・総合的なおもてなしの会であって、いわば、「お もてなしのフルコース」とでも言うことが出来るものである。
これに対して、茶道は、本来、茶の湯と同意義のものではあるが、あ えて、茶の湯と区別して稽古場で行われる実態に着目して言えば、その ような茶の湯の精神や技能に関する「アラカルトとしての手前の修養」
と言うことが出来よう。
そして、茶会の主人を亭主といい、茶室で茶を飲む前に亭主が客と酒 を酌み交わすことからも分かるとおり、茶事とは、それが確立された利 休の時代以降、ずっと男性の世界で行われてきたものであった。
このような男性の世界に女性として飛び込んでいって、今日の女流茶 人が主流となる茶道界が形成される土台を作ったのが、新島八重であっ た。そのことを端的に物語るのが、筒井紘一氏の『茶人交友抄』である。
同書で紹介されている
32
人の茶人の中で女流茶人は新島八重だけが、第13代圓能斎の茶友として、最終章に登場するのである
25)。4.八重の裏千家入門と許状
会津戦争終結から裏千家入門まで
1871年陰暦9月3日、八重は、京都の覚馬から招かれ、母佐久と兄覚 馬の娘・みね、それに八重の実の姉と共に、当時滞在していた米沢藩士・
内藤新一郎の家を出立、翌月、山本覚馬の家に入った。夫だった川崎尚 之助は、会津藩の再興によって成立した斗南藩に向かったので、その頃 に離縁したと考えられる。
翌
1872
年、八重は、覚馬の推薦で、彼の構想によって陰暦4月15
日に 設立された新英学校女紅場の権舎長兼機織教導試補に任命される。そし て、八重は、その後の1875
年11
月、前月に新島と婚約したために免職に なるまで同所に約3年半勤める。この新英学校女紅場には、裏千家
11
代玄々斎の娘である真精院猶鹿(ゆ か)が開校と同時に茶道師範として迎えられた。真精院は我が国の学校 茶道に先鞭を付けた人として知られるが、この女紅場がその最初であっ た26)。そのために、八重は女紅場で猶鹿と知り合い、それが八重の裏千 家との出会いになったとの指摘もある27)。しかし、猶鹿は、新英学校女紅場開校の翌月(1872年陰暦5月)、駒吉(の ちの
13
代圓能斎)を産んでおり28)、当時、乳児の死亡率は一割以上であっ て29)、母としては、まずは乳児を無事に成長させるのが専決であるから、八重が勤めている3年半の間はほとんど茶道師範として教授していない はずである。したがって、八重と猶鹿はそれほど懇意にはならなかった と考えられ、それが新島と出会う前に、八重が裏千家とほとんど関わり の無かったことの一つの背景を為していると考えられる。
1890(明治23)年1月23日、夫の新島襄が逝去すると、八重は極度に 落胆する。
八重は翌2月10日、夫襄の病発覚から逝去に至る迄を綴った手記(「亡 愛夫襄の発病覚」)30)を著すが、そこでは、襄を「愛夫」、「最愛の夫」
と呼び、次の言葉で締めくくっている
明治二十三年一月二十三日、最愛の夫は二時四十分此世を去る。妾 の左手を枕となし、幾度呼びても答へなし。嗚呼、思ひ出せば涙の種、
実に断腸々々31)
「七許三従」32)という妻だけが縛られる封建的な道徳律の弊風が濃厚 で、夫と妻が絶対的に不平等であった当時、他人が読む文章で堂々と襄 を「最愛の夫」と表現した八重に、因習にとらわれない彼女の強い勇気 と、そう表現せざるを得ないほど襄を愛していた彼女の夫への強い感情 が感じられる。そして、八重の「実に断腸々々」という言葉に、文字通 り「最愛の夫」を亡くした八重の深い落胆を感じるのである。
翌月の3月5日、八重は、襄の逝去を心から悲しむ気持ちを訴える手 紙を蘇峰に書き、「とてもかえらぬ事と存じながらも来し方行く末の事 杯と思ひとかく不覚の泪にくれ居り申し候、此頃ハ庭前の梅花咲くとも 香り無如くうぐひす来り啼くとも其声あはれニきこえ、時事物々心をい たましむ許りに御座候」、襄が死んでから「実ニ月日の立ハ矢の如四拾 日餘り相成候へとも今ニゆめの様ニ思い居り申し候、〔夫は〕兼て病身 ニ御座候間、かくあらんとは覚悟ハ致し居り候らへとも実ニ人生のはか 無事せめて今三とせ〔三年〕とも此世ニながらへ置き度杯とくたらぬ事 許り思ひ暮らし居り申し候」と、辛い心境を語る。しかしながら、「同 志社の将来又大学校の事を存し候へハ、決してくつくつ致し居時ニ御座 無く候間、是より勇気を出し亡夫の心さし〔志〕を相つき申し度候」と の決意も示している33)。
しかし八重は、蘇峰に手紙を書いた前後から病気になり34)、三ヶ月後 の6月に同志社神学校の学生が八重を訪ねた際も、八重は自ら「永く神 経を疲労し、医命により出来る丈世事を棄つる様に」していると語って いる35)。
そんな罹患中の4月26日付けで、八重は日本赤十字社の正社員になっ た。
日本赤十字社は、旧佐賀藩士で元老院議院の佐野常民が提唱してつ
くった博愛社を前身とする。
1887
年、博愛社は政府の認可により日本赤 十字社と社名を改め、前年に設置され、橋本綱常が初代院長となってい た博愛社病院も日本赤十字社病院と改称されている。現在の赤十字社の事業は平時に様々な活動を行っているが、もともと の赤十字社の目的は「戦時ノ傷者病者ヲ救療愛護シ力メテ其苦患ヲ軽減 スル」ことであり、そのために「平時ニ於テハ傷者病者ノ救護ニ適応ス ヘキ人員ヲ養成シ物品ヲ蒐集シ務メテ戦時ノ準備ヲ完全ナラシムル事」
(赤十字社社則)が主要な業務であった36)。そして、正社員については
「年醵金三円以上拾弐円以下ヲ出ス者ハ之ヲ正社員トス」(同)とされて いた37)。
すなわち、八重が赤十字社の正社員となったということは、赤十字の 戦時傷病者救護という趣旨に賛同して「年醵金」を支払い始めたという 意味であって、それは、病中であっても行える行為であったろうし、そ れだけをもって、八重が襄亡き後、赤十字の社員となって自らの新しい 人生を切り開こうと考えて行った行為であるということはできない。
なぜ八重が赤十字社に寄付をしようと考えたのか、その理由は不明だ が、八重と襄は赤十字病院の院長であった橋本綱常に大変に世話になっ ており、日赤病院は平時の診療活動をおこなうものではあるが、おなじ 日赤であるから、橋本への謝意を示す意味で、八重は日赤に寄付をした 可能性がある。
新島は、八重と東京に滞在中の
1888
年6月24
日に橋本綱常に診察をし てもらい38)、逝去直前の1890年1月にも大磯で橋本の診察をうけてい る39)。特に、前者の橋本の診察は極めて重要である。八重の手記「亡愛 夫襄発病ノ覚」に、後日、八重が渡辺一医師に呼ばれて、橋本の診断内 容を伝言されたことが次のように記されているのである。七月二日、医師難波様より橋本〔綱常〕先生の伝言あり。〔略〕同氏内々 妾に申されけるは、橋本先生の見込にては、とても今度は〔襄〕先生 の御病気は全快は覚束なし。心臓の皮薄くなり居れば、若しや非常に 驚く事にてもあらば、其皮破れて血にまじり、脳まで上り、脳の筋至
つて細く、其処に心臓の皮行留まると卒中となる故に、それとなしに 大切なる事は聞置く様、予め婦人まで申せとの事40)。
このように、日本赤十字病院の院長だった橋本綱常は、新島夫妻にとっ て重要な人物であった。なお、八重が赤十字社の社員になった理由とし ては、ほかに、それが蘇峰へ手紙を出した一ヶ月後のことから、蘇峰か ら、新しい生き甲斐づくりの端緒として、日赤への参加を勧められたた めか、あるいは、「亡夫の心さしを相つき申し度」気持ちから、その実 行の一つとして、夫が設立した京都看病婦学校と同志社病院を代表する 意味で、公共的な医療奉仕組織である日本赤十字社に参加することを考 えたため、という理由が考えられる。
篤志看護婦人会への参加と裏千家入門
その後、八重は日本赤十字社京都支部篤志看護婦人会にも参加するよ うになる。八重が同会に参加した時期はおそらく、
1893
年4月に日本赤 十字社京都支部の監督の下に篤志看護婦婦人会が設立された時かその直 後であろう。なぜなら、翌1894
年には、同会から看護婦取締として広島 に派遣されるからである。彼女が同会に入会したのは、赤十字社の正社員となってから3年後の ことであり、八重の日赤入会の動機とは必ずしも連動しないが、これも
「亡夫の心さしを相つき申し度」気持ちから、自分なりに出来る社会貢 献として選んだ選択であろう。
この篤志看護婦人会は、戦時には、傷病軍人の救護、慰藉、衛生材料 の製造、慰問品の蒐集等に尽力し、平時には、戦時救護幇助の準備かつ 家庭での便益に供するために看護法を講習する目的で設立されたもので あり、皇族妃や社会的に地位の高い者の夫人を役員とすることから看護 婦の地位向上も狙ったものでもあった41)。なお、当時の日本赤十字社 京都支部篤志看護婦人会は京都に限定されたもので、日赤本社監督の同 婦人会(本部)とは全く連絡がない独立したものであった。日本赤十字 社京都支部篤志看護婦人会が、日赤本社の同婦人会(本部)の支部とし
て、日本赤十字社篤志看護婦人会京都支会になるのは
1897
年のことであ る42)。1894年 5月8日、八重は裏千家(今日庵)第12代又玅斎(ゆうみょ うさい)の名により 「入門」 と 「小習十六ヶ条」 の許状を得る。新島逝 去後4年目のことだが、その前の年の頃に八重は篤志看護婦会に参加し ているので、愛夫の死から3~4年を経たその頃、八重は、ようやくそ のショックから立ち直り、持ち前の前向きな気持ちを取り戻したと思わ れる。
八重が裏千家を選んだのは、彼女も一時教師を務めた新英学校女紅場 や、その後身の京都府立女学校で猶鹿やその夫の又玅斎が教えていたか らであろう43)。ただし、実際に八重を指導したのは、吉海氏が指摘する 通り、猶鹿であろう44)。又玅斎は
1885
年に駒吉に裏千家13
代を継承させ て引退し、以降は大阪や奈良に居を移していた45)。ところが、八重の入門直後に日清戦争が始まる。
京都の篤志看護婦婦人会は広島に救護員を派遣することを決め、既述 の通り、八重に看護婦取締を依嘱した。
八重を先頭とする40人の篤志看護婦たちは、1894年11月4日に京都を 出発。広島予備病院第三分院で傷病者の看護に尽くすことになる46)。 翌年2月12日、清国軍北洋艦隊が降伏して戦争の雌雄は決したが、八 重はまだ広島に残り、傷病軍人の看護に尽くしていた47)。
4月に日清講和条約が調印されて日清戦争が終結すると、八重も普段 の生活に戻り、中断していた茶の湯の修行を再開する。
八重は、8月3日に 「茶通函」、 「唐物点」 を得て、現代の修道課程で いう「中級」を終了し、翌
1896
年12
月28
日に 「行之行台子傳法」、翌日「台天目傳」と「盆点傳」 の許状を得て「上級」を修了した(ただし、「
台天目傳盆点傳」 は現代の課程では「中級」である)。
なお、「茶通函」以降は裏千家13代圓能斎名の許状となる。圓能斎は
1891
から東京で茶道の普及に尽くしており、帰京したのは1896
年であ る48)。圓能斎の帰京前の許状の発行名が当人であるところにも、実際に八重を指導したのが猶鹿であることが裏付けられる。
茶の湯の修行再開の3年後の1898年6月12日、八重は、「真之行台子 傳法」、すなわち、「奥義の根本となる重い習い事」を修了する。既述の 裏千家への「利休宗易大居士筆始代々之筆物」34幅の寄贈は、筒井氏が 指摘するとおり49)、この許状の返礼であろう。
また、その間の1896年4月、八重は池坊専正の門弟にもなり、華道の 修行も始めている。受領年は不明だが、「池坊門弟 新島八重子」の木 札も得ている50)。
一方、「真之行台子傳法」 の許状を得て、女流茶人として弟子たちに 茶道教授をするようになった八重51)は、次に、看護学の修得に関心を 向ける。
1899
年5月28
日には、八重は、篤志看護婦人会京都支会が主催 した「看護学」の講座を修了し52)、翌1900年7月7日には、同支会長・村雲日栄(村雲尼公)より「看護学助教」嘱託を任じられる53)。さらに、
1902年10月28日には、「看護学補修科」も修了する
54)。この看護学の講座は、上述の通り、篤志看護婦人会の平時における中 心的な活動であり、当時は、京都府立高等女学校や京都市立美術工藝学 校、市議事堂等を会場として、毎月一回土曜日午後1時もしくは2時よ り2時間の規定で開講されたものであった55)。八重も後年に「嘗て京都 市の篤志看護婦会に於て月一回宛学習せし事ありし」56)と回想してい る。
そして、
1904
年、日露戦争が始まると、篤志看護婦人会京都支会は、翌1905年1月から戦争終結後の10月に至る迄、会員8名と幹事による監 督1名、助教による副監督1名、計
10
名一チームを交代で派遣、のべ46
人が大阪陸軍病院で看護を行うことになる57)。八重は
1902
年から京都支会の幹事を依嘱されていたため、彼女も監督 として大阪に2ヶ月間赴いている。傷病兵士看護に赴く者は全員、京都 帝国大学医科大学付属病院で看護の実習を行ったというので58)、八重も 同所で看護の実習を受けたと考えられる。以上のように、八重は看護学について専門的な知識を身につけ、それ をもって実践の看護活動に活かしたのであった。
八重が裏千家に入門したのが
49
歳、池坊に入門したのが51
歳だが、篤志 看護婦人会で看護学を修了したのが54歳、同看護学補修科を修了したの が57
歳である。50
歳前後から新たなことを学び、それによって自ら新 しい活躍の道を開き、国と社会に奉仕をした八重の積極性とバイタリ ティーには驚かされる。なお、八重は、
1901年には愛国婦人会京都支部設立委員も依嘱された。
愛国婦人会は、同年、奥村五百子を創立者として「戦死及び準戦死者の 遺族を救護する事、及び重大なる負傷兵にして廃人に属する者を救護す ること」を目的として設立された59)、戦争による傷病者と戦争遺族救済 の団体である。日清戦争の際に、看護婦取締として広島で傷病兵救護に 活躍した八重であるから、依嘱されるのも当然であろう。八重は、同婦 人会京都支部が設立されると、臨時評議員となり、のちに同会本部の通 常会員にもなった。
その後の1910年7月4日、八重は裏千家より 「名誉引次方之称号」 を 得、
1923
年2月10
日には「奥秘大圓傳法」という奥秘の伝授を授けられ、昭和3年には、「利休形模之養老頭巾」 も受けるのである。
八重の許状と現代裏千家の修道課程
今まで八重が裏千家から受けた許状については、簡単な意味を述べた だけなので、ここで、現代の同家における修道課程と比較した表を掲げ て、その詳しい意味を確認しておきたい。本表は、裏千家ホームページ
「修道のご案内」60)を基本として、同志社社史資料センター社史資料調 査員・布施智子氏、および茶道家の大越宗理氏の協力によって作成した。
八重の許状と現代の裏千家のそれの比較結果を端的に述べると、両者 はほとんど同じであって、そこには利休以来四百年以上続く千家の伝統 の継承が見られる。そして八重は、現代の茶道家が通常は得られない奥 秘まで得ていることがわかり、八重が茶道家の頂点を極めていたことが 明らかになる。
ただし、八重は、いわゆる修行としての茶道の修道は、「真之行台子
傳法」を得た時点で修了したようである。なぜなら、現代茶道の修道で は「真之行台子」の後も修道を続けて、「大円真」、「引次」、「正引次」
を経て茶名を受けることになるが、八重は、一足飛びに「名誉引次方之109 表 八重の許状と現代裏千家・修道課程 比較表
許状種目 概 要 概 要
入 門
最も基本となるおじぎの仕方から始まり、割稽古 と呼ばれる部分稽古を修得し、はじめてお茶を点 てる。
小 習 前八ヶ条と後八ヶ条の十六ヶ条の習い事。茶道の 基本を養う上で最も必要な課目。
- 茶箱点
茶箱と呼ばれる箱を使って行う点前。季節により 種類がある(取得することで初級の資格が得られ る)。
茶通箱 二種類の濃茶を同じ客に差し上げる場合の点 前。
唐 物 茶入が唐物(からもの:中国製)の場合の扱い方。
台天目 天目茶碗を台にのせて扱う点前。
盆 点 唐物茶入が盆に載った場合の点前。
- 和巾点
名物裂(めいぶつぎれ)をもって作った古帛紗の上 に、袋に入れた中次を載せて扱う点前(取得する ことで中級の資格が得られる)。
1896(明治29)年12月28日
「行之行台子傳法」 行之行台子別名「乱れ荘」ともいわれ、奥秘の基礎となるも の。行台子をもって行う。
- 大円草 大円盆(だいえんぼん)をもって行う格外の奥秘の
手続き。
- 引 次
取得することで上級(助講師)の資格が得られる。
所定の手続きを経て、弟子の許状申請(取次)を 行うことができる(教授者となることができる)。
1898(明治31)年6月12日
「真之行台子傳法」 真之行台子
一名「奥儀」といわれるもので、行之行台子を充 分に修得できた者に許される。真台子をもって行 うもので、奥儀の根本となる重い習い事。
- 大円真 大円盆をもって行う格外の奥秘の手続き。
1910(明治43)年7月4日
「名誉引次方之称号」 正引次 取得することで講師の資格が得られる。(一人で 弟子を取り、教えることが出来る。※大越宗理氏)
専任講師 (講師から 1年経過後)
茶名
茶名は利休居士以来の歴代家元の「宗」の一字 を頂くもの。修道を通じて資質を備えられた者に 授与される。取得することで専任講師の資格が得 られる。
助教授 (専任講師から
2年経過後 25歳以上)
準教授
取得することで助教授の資格が得られる。(自分 の弟子に茶名を授けることが出来る。※大越宗理 氏)
1923(大正12)年2月10日
「奥秘大圓傳法」 - - -
1928(昭和 3)年
「利休形模之養老頭巾」 - - -
1896(明治29)年12月29日
「台天目傳」「盆点傳」
(年月日不詳)
茶号「宗竹」授与書 1895(明治28)年8月3日
「茶通箱」「唐物点」
八重の許状(裏千家)
1894(明治27)年5月8日
「入門」「小習十六ケ条」
現代裏千家 修道過程(許状種目)と取得できる資格
初 級 (三種目 一括申請)
中 級 (随時 申請可)
講 師 (上級から 1年経過後) 上 級(助講
師)
(中級から 1年経過後)
ただし、八重は、いわゆる修行としての茶道の修道は、「真之行台子 傳法」を得た時点で修了したようである。なぜなら、現代茶道の修道で は「真之行台子」の後も修道を続けて、「大円真」、「引次」、「正引次」を 表 八重の許状と現代裏千家・修道課程 比較表
称号」を得ているからである。ここにある「名誉」という形容句は、正 規の修道は行っていない、という意味であろう。そして八重は、この「名 誉引次方之称号」をもって、茶名「宗竹」を得ているのである61)。この ような「名誉引次」の称号は、廣瀬氏によれば、八重以外に今日庵淑静 会(圓能斎主催の研究会)の田中宗栄、京都府立高等女学校茶道教授の 吉田宗芳、大審院検事の松井宗滴らにも授与されている62)。
5. 新島宗竹の誕生
現代の裏千家では、基本的に茶名(号)は師匠(家元)が決めるもの であり、受領者が願い出ることはできない。しかし、以前は、受領者が それを願い出ることが慣例であった63)。
したがって、八重の茶名である「宗竹」の「竹」も、慣例によって彼 女自身が願い出た一字であろう。
それでは、「竹」とは、八重にとってどういう意味を持つ文字か?
竹は、「節(ふし)」があり、真っ直ぐに育つから武士に通じる。新撰 組の隊士だった永倉新八の遺歌・「武士乃節を尽くして厭まても貫現竹 の心そ一筋」 64)は有名である。
八重も、愛夫の逝去直後、次のような悲しみに満ちた歌を詠んでいる が、そこで歌われている竹は襄を仮託したものである。
たのみつる竹は深雪に埋もれて世のうきふしをたれとかたらむ
1890
年2月10
日65)
さらに、会津の婦女子にとって、竹は特別の意味を持つ。節に殉じる 自己を弱竹(なよ竹、女竹)にたとえているからである。
国家老・西郷頼母一族の婦女子二十一人は、籠城戦開始当日に自害す るが、その時の頼母の妻、千重子の辞世は次のとおりである。
なよ竹の風にまかする身ながらも たゆまぬ節はありとこそ知れ66)
そして、会津の善龍寺における会津戦争で殉死した232人の婦女子を 供養する碑は「奈與竹能碑」である。
会津で竹といえば、いわゆる「娘子軍」で勇敢に戦った中野竹子のこ とも思い出される。「娘子軍」といっても、会津藩の正規軍のことでは ない。薙刀の修行を積んだ会津武家の婦女子たちが、藩に懇請して敵軍 と戦ったことを後年そう呼んだのである。
中野竹子は、母幸子、妹優子とともにその「娘子軍」の中核となった 女性で薙刀の師範であり、文武と美貌に優れた女性であった。
八重も薙刀を習っており、「娘子軍」への参加を誘われるが、「トテモ 本戦ノ時ニ薙刀デ戦争ハ出来ナイ」と思い、それを謝絶して砲術の組に 参加した67)。
その後、竹子は敵の銃弾に倒れ、首級は母妹が切り落とし、母妹は仲 間と共に苦労を重ねて入城した。そして、城内で幸子が八重に「アナタ ガドウシテ私共ノ組ニオ入リニナラナイカト思ツテ卑怯者ノ様ニ思ヒマ シタガ、ドウシテモ鉄砲ノ中デハ薙刀ハイケマセン。ヨウヤツト自分ノ 娘ガ討死シテカラ悟リマシタ」と告白し、竹子の妹に鉄砲を教えるよう に依頼した。そこで八重は、優子に鉄砲を教えたのであった68)。中野竹 子は書をよくし、「小竹女子」と号した。
したがって、八重の茶名である「宗竹」の「竹」は、過去に武士であっ た夫の襄や、会津戦争に殉じた肉親や友人知人の魂の安らぎを願う意味 があると思われるのである。
6. 八重におけるキリスト教と茶の湯
茶の湯が禅宗の影響下に成立していることは、臨済宗の開祖である栄 西が日本に新しい茶の種と栽培法、喫茶法(『喫茶養生記』)を伝え、茶 祖と呼ばれることから明らかである。「利休居士教諭百首詠」 にも、「な らひをば 塵芥ぞと思へかし 書物は反故腰ばりになせ」のように、禅 宗の影響を色濃く残す言葉がある69)。
一方、茶の湯の成立の時期が、戦国時代のキリスト教の伝来の時期と 重なることもあって、茶の湯には、キリスト教の影響もある、特に、カ トリック教会における聖水及び聖水盤は、茶の湯における手水鉢と精神 面において共通している、と指摘するのが、裏千家第十五代家元の千玄 室氏である70)。
前述したように、茶の湯の本意が「直心の交わり」であって、亭主と 客との間に心の交流と平和をもたらすものであることを考えるとき、新 島が「キリストノ愛ヲ学ヒ之ヲ施シ人之ヲ受クレハ、此レ愛彼ニ通、彼 ノ愛此ニ通、真ノ朋友タルベク互ニ命ヲ以テ相愛シ相助クベシ」71)と 述べるとおり、茶の湯の修道とキリスト教の求道は互いに接近すること になる。殊に八重の心中においてそれが二つながら育っていった、と私 は考えるのである。
もともと八重がキリスト教を学び始めたのは新島に会う以前のことで あって、
1875
年の春、第4回京都博覧会の期間に、宣教師ゴードンが療 養を兼ねて京都を訪れ、山本覚馬に『天道溯源』を渡して、覚馬がそれ を読んでキリスト教への関心を著しく高めた結果72)、八重も木屋町の ゴードンの借間に聖書(マタイ伝)を学ぶことになったからであった。そして、そのゴードンの借間があった家の玄関で靴を磨いていた襄と出 会ったのである。
その後、新島が八重に惚れ込み、話は進んで同年
10
月15
日に二人は婚 約する。翌11月23日、新島は「アメリカの母」であるスーザン・ハーディー に八重との婚約を報告する手紙を送ったが、その手紙の中で「彼女はま だ水で洗礼を受けていないが、すでに精神的には洗礼を受けていると信 じる」と述べている73)。八重は時々、女紅場でキリストの真理を語り始 めたという。そして、キリスト者の襄と婚約したことで女紅場の仕事を 突然解雇されてもまったく後悔せず、「これから福音の真理を学ぶ時間 をより得ることが出来た」74)とさえ語ったことも、襄はスーザンに報 告したのである。そして、翌1976年1月2日に受洗し、翌日に襄と結婚した八重は、
1879
年には第二公会(後の同志社教会)の執事になる。また、襄と夫婦 で各地の教会を尋ね、伝道を行う。そのあたりの事情は吉海氏の著書に 詳しい75)。それでは、八重は模範的なクリスチャンだったかというと、襄の八重 宛て書翰を読むとそうとも言い難い。襄は「一視同仁」76)の人物であっ たが、八重は人を区別しており、会津出身者は厚遇する一方、薩摩出身 の学生などには冷たかったようだ。それは、戊辰戦争で薩摩・長州藩を 中心とする官軍に父や弟を殺されたのだからやむを得ない面もある77)。 また、いろいろと身辺に不平不満もあったようで、それを夫に訴えてい たようだ。
そのため、襄は、単身での二度目の欧米旅行中、次のような文言を手 紙に認めて彼女に書き送っている。
神に祈り神に事へ主ト共ニ常ニアリ又人ヲ容ル丶事之怠無之様奉希候
1884
年4月14
日78)我等己を愛する者愛せは何の報かあらん、我等宜しく己をのろふ者を 祝し、之を愛し之か為に祈るへし
1884
年7月27
日79)何事も心之儘にならぬ時あらはクリストの十字架を御覧あり度候、
〔略〕私共其万分一丈でも学ひ候はゞよき神の御心ニ叶ふ信者に相成 可申
1884年12月30日
80)少々の事ニ力落さす、少々の事を気にかけす、何事も静に勘弁し、又 何事も広き愛の心を以て為し、如何に人に厭はるゝも人に咀はるゝも、
又そしらるゝも常に心をゆたかに持ち、祈りを常に為し、己を愛する 者の為に祈るのみならす己れの敵の為にも熱心に祈り、又其人々の心 の□る迄も其の為に御尽しあらば、神ハ必らすお前様之御身も魂迄も
御守り被下べし、〔略〕何卒武士の心ばかりにては足らす、真の信者 の心を以て主と共に日々御歩み被下度奉希候
1885
年2月1日81)このように新島は八重に繰り返し「説教」を行っているが、ここで 引用した4通の書簡を書く間に一度も八重に会っていないのだから、
ちょっとしつこいように思える。しかし、新島が何度も繰り返さざるを 得ないほど、彼から見れば、八重には、人を選り好みしたり、どうして も許せない事があったり、常に鬱憤を溜めているところがあったように 思える。
ところが、八重は次第に新島の「説教」に感じ入るようになったよう だ。襄が上州で療養中、八重は、それまで会津出身の生徒を集めて行っ ていたカルタ会に鹿児島出身者を招いたのである。そのことを知らせて きた手紙を読んだ襄は、看護婦の不破ゆうに「今日は八重さんから大変 いい便りがありました」と喜んだという82)。
襄に次第に感化されて人を許すようになった八重だが、彼を「最愛の 夫」と綴るほど夫に濃い愛情を注いだので、既述の通り、八重は夫が逝 去すると落胆して病気にもなった。その時、おそらく彼女は、欧米に向 かう旅先の襄から送られた次の手紙を繰り返し読んだのだと私は考えて いる。
先日香港より一筆さし上申候、其後御隠居様初如何御暮被成候哉、如 比数千里之遠方ニ出懸候得バ益々家を思ふ事ハ切ニ相成申候、乍去御 同様ニ真之神様ニ仕ユル事相叶候ハヾ心之平和を抱き、山河を隔つる も同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異ならす、返 す返すも真の神様に依り頼み活ける信仰を御持被下度候。〔略〕
1884年4月20日
83)この書簡は、襄の八重宛のラブレターであり、心のこもった説教であ
る。そして、この書簡には、次のような漢詩も添えられている。
臨西遊 告別于家人
生別切於死別情 河梁焉得意揚々 春風秋雨西遊客 夜々夢回鴨水傍
〔生別は死別の情よりも切なり 河梁いずくんぞ得ん意揚々たるを 春風秋雨西遊の客 夜々夢を回らす鴨水傍〕
歌題にある家人は、 家族を指すが、詩では特に妻を指す。起句の「生 別切於死別情」は、八重宛ての書翰であることと書簡の文脈からみると、
八重のことを指しているのは明らかである。そして、結句の 「夜々夢を 回らす鴨水傍」 の「鴨水傍」は、鴨川の近くの新島夫妻の家(現在の新 島旧邸)をさす。20年前の1864(元治元)年、新島は国法を破り単身海 外に飛び出したが、その時読んだ歌の結句に「枕頭猶是夢郷家」や「枕 頭尚夢古園花」があった84)。ちょうど20年後に2度目の欧米旅行に旅 立った新島は、その歌を思い出して類似した詩を再び書いたのであろう が、当時の「郷家」や「古園花」は、今、八重が留守を守る「鴨水傍」
の二人の家に変わったのであって、それを思うと、新島は八重に対して
「生別切於死別情」という強い愛情からくる惜別の苦しさを歌わざるを 得なかった、と解釈したい。この手紙と歌は、「最愛の夫」逝去後、特 に八重の胸に迫ったはずである。
私がこの書簡を注目し、以上のことを考えたのは、この書翰で説いた 襄のキリスト教信仰の影響が、晩年の八重の次の談話の中に見られるか らである。
私などは親しき人達は皆先きに召されて天国に昇つしまつて今度は自 分の番かと只天命を待つてゐるばかりです。早く天国に昇らせて頂い て先きに行かれた人達と会ふ事を楽しみとしてゐますからこんな大き な家に只一人住んでゐましても決して淋しいなどと思つた事はありま
せぬ。さうした信仰を持つて残る老先きの年を全ふする事の出来るの を只々神様のみ恵みと感謝してゐます。
丁度明日で満八十才になります。二十人位のお茶のお友達をお招き して静かなお茶の席に神様すべての事感謝しつヽ、誕生日を味ひ度い と思ってます。85)
襄は先の書簡で「真之神様ニ仕ユル事相叶候ハヾ心之平和を抱き、山 河を隔つるも同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異な らす、返す返すも真の神様に依り頼み活ける信仰を御持被下度」と八重 に語りかけたが、晩年の八重は、襄の言葉通り、そのような確たる信仰 を持つようになった。八重は信仰によって「心之平和」を得て、天国で
「先きに行かれた人達と会ふ事を楽しみ」とするようになった。八重が、
大きな家に一人で暮らしても「決して淋しいなどと思つた事ありませぬ」
と明快に語る理由は、亡くなった襄と自分は天国と地上を隔ててはいる が、「同じ神之御前ニ伏す事なれば矢張一所ニ居ると少しも異ならす」
と考えるようになったからであろう。
しかし、繰り返すが、襄逝去直後、八重は寂しくて寂しくて仕方がな かった。
そうであるから、八重が硬いキリスト教信仰を得て寂寥の思いから乗 り越えられたのは、襄逝去後しばらくしてからのことであろう。
我々は、襄逝去後の八重が強い信仰に芽生え、教会に足繁く通い始め た、というような事例を知らない。残された史料からみれば、そのよう な事実はなかったであろう。
それでは、襄逝去後の八重に確固たる信仰と「心之平和」を与えたの は何か。
それは、一つには、八重に残された、彼女宛の襄の信仰に溢れた手紙 であり、もう一つには、亭主と客との間に心の交流と平和をもたらす「直 心の交わり」を本意とする茶の湯であった、そう私は考える。
八重がのべた「二十人位のお茶のお友達をお招きして静かなお茶の席 に神様すべての事感謝しつヽ、誕生日を味ひ度い」という言葉は、キリ
スト者の女流茶人である八重こそが語ることのできた言葉だと思うので ある。
7. 露地と茶室としての新島旧邸
「寂中庵」の構造
八重は、襄逝去後、自宅1階の襄の書斎の隣の洋間に畳廊下を敷き、
窓側に茶室を造った。八重が茶室を造った時期については、八重が交流 していた大沢徳太郎の娘である武間富貴が、
1907
(明治40
)年頃にはす でにあったと回想している。そして武間は、その茶室は、亡夫の書斎の 南側の部屋を改造したもので「お茶席に入るには必ず、先生のご書斎を 通り抜けなくてはならなかった」と回想している86)。その後の
1912
年、圓能斎は、八重の茶室を「寂中庵」と命名している。「寂中庵」の「寂」は、利休の茶の湯の四規「和敬静寂」の「寂」で あろう。「寂中」とは禅語の「空空寂寂中」、煩悩や執着がなく、無我・
無心の境地の意味であると考えられる。
私見によれば、八重は「私」すなわち、私利、私欲が無い人のように 思える。決死の覚悟で戦った鶴ヶ城の籠城戦、その後の新島の大学設立 運動を支えた「内助の功」と新島の看護。新島逝去後は、新島の遺志を 汲んで、 自分なりに世の中のために尽くそうと考え励んだ篤志看護婦、
愛国婦人会活動。茶人としてもそうであったからこそ、圓能斎は八重の 茶室にその茶名を与えたのであろう。
新島旧邸は御所の東側、丸太町を上がったところの、南北に通る寺町 通りの東側にあり、南側を広い庭にした北側に建てられ、母家の一階の 部屋は、台所等を除いて、ほぼ田の字形に四部屋ある。新島の書斎は南 東の部屋だが、八重の茶室は新島の書斎の西隣の部屋の中に、西側の窓 と北側の壁に寄せて四畳半の畳を敷き、南面と東面に壁を立ててつくっ たものである。
この「寂中庵」は炉が四畳半本勝手切りに切られた茶室である。本勝
- 125 -
手とは、亭主の座る点前畳(道具畳)の右側、半畳の畳に炉が切ってあ り、客が亭主の右側に座る茶席をいう。
「寂中庵」で特徴的なところは次の3点である(図1参照)。
1)南面の貴人畳の長辺に沿って床があり、床の隣に襖の入り口を設け ている。
2)東面の踏込畳の短辺に沿って、もう一つ襖の入り口を設けている。
3)にじり口が無い。
通常、茶室では、茶室に入ると 床が正面に見える、客畳みの短辺 に沿ってにじり口を設ける。しか し、八重の家は、その壁の後ろ側 が収納庫となっていて茶室の入り 口を設けられない。そして、西側 は窓付きの壁となっているので、
こちらにも入り口を設けられない ために、床の面に入り口を設けて いるのである。
そうすると、この二つの入り口のうち、どちらが客の入り口でどちら が亭主の入り口(茶道口)になるのか問題になる。
そこで、私が
2012
年7月25
日に現地調査をした結果、床の東隣の襖の 上の梁の外側に、L字型の風雅な花釘(折釘)が2本、ちょうど簾掛け に使うような間隔で打ち付けられていたことが分かった(写真1)。この花釘について、新島旧邸の説明係の方に質問したところ、ご本人 も今まで花釘自体の存在に気付かなかった、ということであった。
この花釘こそ、床側の入り口をにじり口にするための簾掛けであるこ とは間違いない。
すなわち、「寂中庵」にはにじり口を設けておらないので、この入り 口に簾を掛けて、にじり口の高さにまでそれを巻き上げておき、客は、
その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお にはそう思えるのである。
図1
炉
洞 庫 棚
床 客 畳
踏込畳
貴人畳
点 前 畳 炉
畳
図2
同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド
(http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用 写真1
図1
- 126 - ろして、戸を閉めた形にするのである。
このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口に するために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているもので あって87)、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。
八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の 木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」は、
にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、簾 の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の茶 事を先取りする茶室として、 茶室の歴史上も重要であると考える。
そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の 短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それ は、図2のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶 道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広 い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、
襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎 を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。
119
その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお ろして、戸を閉めた形にするのである。
このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口に するために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているものであ って87
八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の 木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」
は、にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、
簾の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の 茶事を先取りする茶室として、茶室の歴史上も重要であると考える。
、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。
そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の 短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それ は、図2のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶 道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広 い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、
襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎 を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。
写真1 図2 同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド
(http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用
その下をくぐって茶室に入り、最後の客は、この巻き上げてある簾をお ろして、戸を閉めた形にするのである。
このアイデアは実は、現代の茶室のない家において、襖をにじり口に するために簾を活用する工夫として茶人には良く知られているものであ って
87八重の家すなわち新島旧邸は、日本人のために立てられた和洋折衷の 木造二階建て住宅として価値が高いが、その中に設けられた「寂中庵」
は、 にじり口を設けないことで洋間と調和した開放的なものとする一方、
簾の利用によって、茶事においてはにじり口をつくるという、現代風の 茶事を先取りする茶室として、茶室の歴史上も重要であると考える。
、八重はそれを現代から百年以上前に実践していたのである。
そして、床の隣に客の入り口(にじり口)を設けることは、踏込畳の 短辺側の入り口が亭主の入り口(茶道口)になることを意味する。それ は、図 2 のとおり、新島旧邸の間取りに合わせたものと考えられる。茶 道口は台所に近いので、懐石料理を運ぶにも都合がよい。茶道口前が広 い廊下なので、簡易的な水屋も置くことが出来る。そして、にじり口は、
襄の書斎のすぐそばにあるので、武間富貴の回想の通り、客が襄の書斎 を通って茶室へ入る場合、その動線が自然なものとなるのである。
写真
1
図2
同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド(
http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html
)の図を転用写真1
図2
同志社大学ホームページ 新島旧邸ガイド
(http://www.doshisha.ac.jp/yae/facility/oldhouse/tour/index.html)の図を転用
露地と茶室としての新島旧邸
女流茶人の地位を確立した八重は、自宅で茶会を開いて茶友を招き、
しばしば招いた。
1922年正月には自宅で初釜を掛けている記録がある88)。初釜という と、懐石料理でももてなす正式な茶事である。
自宅で正式な茶事を行おうとしても、茶室一つあればそれができるわ けではない。
上述の通り、茶事には、初座・中立・後座という流れがあり、そのた めには、露地、待合、腰掛、茶室、水屋という広い空間が必要である。
したがって、八重が自宅で正式な茶事を行っていたことは、自宅の庭 や茶室以外の他の部屋をそれらの茶事のために用いていたことを意味す る。
それでは、茶会に必要な空間に対して、家の何処を利用したのであろ うか。
まず露地だが、それは、もろもろの情念がうずまく俗の浮世と浄らか な茶室の間にあって、客は、この露地を通ることで浮世の妄念や執念を ひとつずつ捨て去って浄かな心になる場所である89)。
八重がこの露地の役割を与えたのは、彼女の家の門から玄関までの長 いアプローチ(写真2)及び、邸宅の東側の庭(写真3)と考えられる。
写真2 写真3
前久夫氏の『京が残す先賢の住まい』には、八重の家の前庭について 次のように記されている。
近年の新島会館などの新築で、廷内は著しく狭められているが、か つては実を結ぶ木の好きだったという新島が植えた、カキ・ミカン・
イチジクなど、四季の味覚がたのしめたという。また未亡人となった 八重の好みで植えられた門から玄関に至る通路両側の南天の並木が、
正月にはその赤い実を美しくたれていたという90)。
南天は、前氏のいうとおり、新島逝去後、おそらく茶道入門以降に八 重が植えられたものであろう。南天は邪気を払う厄除けとして植えられ るから、それもあったのであろう。
茶人の客が露地を通って玄 関(写真4)に上がり、最初に 入る部屋は待合だが、これは、
広い応接間を利用したのであろ う。
客がそこで襄が壁に掛けたワ シントンの絵や勝海舟の書、そ れに茶会のテーマに関わる「待 合掛」という掛け物を見ている 間に客が揃うと、半東(八重の 助手を務める茶友)がおそらく 食堂のテーブルに湯を出す。皆が揃ってそれを頂いた後、階段前の廊下 のドアを出て、露地の腰掛に出る。
その腰掛が置かれたのは、邸宅の東側の庭(写真3)であろう。玄関(写 真4)は、私の印象だが、腰掛を置くような閑寂さが無いように思える。
そして、腰掛けの側にはつくばいが置かれ、亭主の八重が、その水替 桶をもって現れ、水を替えてから、無言で(どうぞお入り下さい)と黙 礼して客を迎える。
写真4
腰掛でその迎えを待っていた客は、廊下から襄の書斎を通り、簾が半 分巻き上げられたにじり口から茶室に入り、初座が始まるのである。
襄の書斎をわざわざ通すのは、襄の思い出を語ることも「寂中庵」の 茶会のテーマとするためであろう。
このように八重の行ったであろう茶会を通して新島旧邸を見ると、そ の家は、庭や襄の書斎も含めた全体が八重の茶事の空間であったと捉え ることが出来るのである。
8.八重と裏千家家元
既述の通り、八重は、
1894
年に裏千家12
代又玅斎に弟子入りし、翌年(実際には圓能斎が帰京する1896年)から13代圓能斎の直弟子となった。
圓能斎にはすでに、
1893
年に、後に14
代となる淡々斎が生まれており、淡々斎の長男・鵬雲斎、すなわち、15代千宗室、現・千玄室氏が生まれ た
1923
年当時八重は健在であって、八重が亡くなったのは、玄室氏が9 歳の1932年のことである。八重はその間、長く圓能斎と交流し、女流茶人のトップの一人となっ た。例えば、1918年11月の宗旦忌冒頭の圓能斎による供茶式では彼女は 正客を務めている91)。
この八重と裏千家家元の交流の影響により、同志社と裏千家に縁が出 来たと私は考えている。たとえば、同志社大学の茶道部は、そのルーツ として八重を挙げている92)。
それがあって、また、同志社大学今出川キャンパス内の二条家ゆかり の茶室に対して、1954年、14代淡々斎が「寒梅軒」と命名したのであろ う。また、千玄室氏、