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新島八重の信仰

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(1)

新 島八重の信仰

山 下 智 子

The Christian Faith of Yae Ni」

ima

Tomoko YAN4ASIITA

,マtlyJ_のん″ π′ “ ηJοr CO′′´″ ηαttscル :,c“″ "燿370‐ω6&`qoα 2 要

旨 本稿の目的は新島八重 (1845-1932)のキ リス ト教信仰 を明 らかにすることで ある。新島八重はどの様 に戊辰戦争の際に家族を殺 した敵を愛 し和解するにいた つたのか。本稿では「武士の心」 と「信者の′亡、」 に着 目しなが ら

,人

重の信仰が どの ように養われたのかを考察する。 Abstract

The purpose of this paper is to reveal the Christian faith Of Yae Nijima HO、 v

:ぷ

摺‖

:驚

l『

淵糧態‰∬鳴

[:黒

冨翼Ⅷ

(2)

1.

は じめに 本研究は新島八重 (1845年12月 1日

-1%2年

6月14日

)の

信仰について研究するもの である。特に入重がキリス ト教の中心である隣人愛の教えをどの様に受容 したかを

,戊

辰戦争時に彼女の家族を殺 した敵である薩摩の人に対する態度を踏まえ検証 していく。 人重の夫である新島襄は京都 同志社を設立 した明治を代表する宗教者 教育者 と して知られてお り

,特

に群馬県内では特に上毛かるた「平和の使徒 新島襄」の札で 親 しまれている。 しかし八重についてはどうだろう。2013年 1月 より人重を主人公 と する

NHK大

河 ドラマ「八重の桜

Jが

放映され

,八

重に対する関心が急速に高 まり関 連書籍 も次々と出版されている。 しか し人重に関しては資料が少ないこともあ り

,襄

研究 と比べてまだまだ研究が進んでいない。特にキリス ト者 としての人重のあ りよう についてはこれまでほとんど語 られてこなかつた。 人重の信lllを理解するうえで重要な手助けとなるのは「武士の心」 と「信者の心」 という言葉である。これは1885年 2月 1日 に

,裏

が八重に宛てた手紙の中に出て くる 言葉であるl。 襄は

,キ

リス ト者となり共に結婚生活を送る八重の心の中には「武士の 心

Jと

「信者の′亡ヽ

Jが

あることを的確にとらえていた。ここでいう「武士の′卜」 とは 「日新館童子訓 什の掟」の最後に記されている「ならぬことはならぬものです

Jに

よ く表されてお り

,人

重がそうであつたように

,親

兄弟を殺されるようなことがあれば 必ず仇をとろうとする姿勢につながる3。 一方で「信者の心

Jと

は聖書の中に記されて いるキリス トの言葉「敵を愛 し, 自分を迫害する者のために祈 りなさい」(マタイ

5:

4)に

よく表されおり

,敵

に対 しても広い心で許そうとする姿勢につながる3。 人重の生涯は①襄 と結婚するまでの武士の娘 山本覚馬の妹 としての時代 (1845-1876)`,② 新島襄の妻 としての時代 (1876-1890),③ 襄の死後

,篤

志看護婦 茶道 師範としての時代 (1890-1932)に 分けられる。この内①の時代は八重が「武士の心」 のみで生きた時代である。人重は会津藩の砲術指南であった山本家に生まれ

,武

士の 娘 としての誇 りと生 き方を厳 しく教えられた。戊辰戦争の際,八 重はその「武士の心」 で籠城 し

,女

性ではあつたが男装 断髪で銃を手に勇ましく戦つた。この成辰戦争で の活躍は

,八

重の生涯の中でも比較的よく知られている部分である。 しか し

,忘

れてはならないのは続 く②Эの時代に

,八

重が「武士の′とヽ」に加え「信 者の心」を持つて生 きたことである。②の時代は襄との結婚生活14年間である。人重 は1876年1月 2日,30歳 の時に京都で初めてプロテスタント キリス ト教の洗礼を受 けたキリス ト者 となつた。さらに洗礼式の翌日

,京

都で初めてプロテスタント キリ ス ト教式の結婚式をあげ

,牧

師 宣教師である要の妻 となった。③の時代は襄の死後 八重が86歳で亡 くなるまでの42年間である。つまり八重は②Эの時代

,合

計56年間を キリス ト者 として過ごしたことになる。それにもかかわらず「信者の心

Jを

持つて生

(3)

きた八重 についてはあ ま り論 じられて こなか ったばか りか

,わ

ずか に触 れ られる時 に もまるで八重に信仰がないかのように語 られることさえあった5。 本研究では以上のようなことから八重の信仰に関 して隣人愛の教えの受容 と実践に 注 目して資料 を研究 し,特に八重が戊反戦争時の敵であった人々に対 して「武士の心J に勝る「信者の′し、Jをいつごろどの様 に して持つようになったのか,その「信者の心」 は晩年になってどの様 になっていったかを検証する。

2.「

武士 の心」 と「信者 の心」 人重の信仰を論 じる上で重要な点は

,八

重は「武士の′し、」 と「信者の心

Jの

どちら が強かったかということである。洗礼を受けキリス ト者となっても「武士の心

Jば

か りが強 く「信者の′し、J力鴻弓いのならば

,人

重の信仰に疑間を投げかける者がいても反 論は出来ないからである。 夫である襄は人重の′亡、の中に生きる指針として「武士の′

Jと

「信者の′」力`ある ことを感 じていた。 2度 目の渡米中であった襄が日本で留守を預かる八重に対 して 1885年2月 1日付で送った書簡には次のようにある。 己を愛する者の為に祈るのみならす己れの敵の為にも熱′亡、に祈 り

,又

其人々の′きの ママ □る迄 も其の為 に御尽 しあ らば

,神

は必 らすお前様之御身 も魂迄 もお守 り被下べ し (中略

)何

,武

士の心ばか りにては足 らす

,真

の信者の心 を以て主 と共に日々御歩 み被下度奉希候 (下線筆者)6 この手紙は八重がキ リス ト者 とな りまた襄の妻 となって9年がたった時に記 された ものである。 この時′点では襄から見 ると八重はまだ「信徒の′

Jよ

りも「武士の′ J が大 きかったことがゎかる。 では裏はどの′点において八重の「信者の心」が足 りない と考えていたのだろうか。 襄はこの時八重 に「己を愛する者の為に祈るのみならす己れの敵の為にも熱心に祈J ることを勧めている。これはイェス キ リス トの隣人愛の教え「あなたがたも開いて いるとお り,「隣人を愛 し

,敵

を憎めJと命 じられている。 しか し

,わ

た しは言つてお く。敵 を愛 し,自分を迫害する者のために祈 りなさい。

J(マ

タイ

5:43-44)と

重な り合 うものである。敵をも愛する隣人愛はキリス ト教の中心にある教えだが,この時 点では八重は信者であ りながら敵を愛することが十分できずにいたことが伺える。 人重の敵 とは誰だろうか。第一に考えられるのは戊辰戦争時の敵である。人重は正 月休みや土曜 日の晩に自宅に同志社の学生を招 き会津独自のかるたを行 うのを恒例に していた'。 しか し

,戊

辰戦争時に会津藩が戦った薩摩出身の学生はある時 まで決 し

(4)

て招かなかった。「 ならぬことはならぬ」の「武士の心」 だけでは

,敵

はどこまで も 敵のままであ り, どうして も父や弟の命 を奪った薩長の人々をゆるし受け入れること が難 しい。そのため襄は八重に「武士の′心」 を上回る大 きな「信者の心」 を持ち

,敵

を愛 し敵の為にも祈ることを勧めているのである。

3.忍

容 を約束 す る裏 との握手 「武士の心」が大 きく敵 を許せずにいた人重が,それを上回る「信者の心」で歩み, どんな人に対 しても忍耐 し寛容であろうとより積極的に努力するようになるのは襄の 晩年のことである。なぜ入重の′さ境 に変化が生 じたのだろうか。1932年人重が亡 くな る年の正月

,八

重は病床を訪ねてきた襄の教え子である足利武千代にきつかけとなつ た出来事 を振 り返 り以下のように語つた。襄の晩年

,八

重は襄 と忍容 を約束する固い 握手 を交わ したのである。 よほど晩年になりての頃裏はある感念にうたれたるおも ヽちにて私の手を固 く握 り て申さる ヽには,「夫婦相愛の間柄 とて も永 き月日の間には時に意見の相違は免れが たきものなれば今更のことではないが,お互いに心棒 して忍耐の徳 を養ひたい ものだ。 其約束のかため として該に握手を求めたのだ」。 修養 をつ ヾけ夫婦 間のみ な

てその約束 を堅 く守 り

,終

始平安の日常生活 をい となみ居るのである。(下線筆者)8 裏の晩年

,本

当に夫婦間で意見が合わないことがあつたのだろうか。たとえば襄は 1888年 5月 9日 に帝国大学のベルツ医師の診断を受け自分の心臓病が治 らないことを 知つた。5月11日 に同志社の支援者で富豪であつた土倉庄三郎に

,襄

が亡 くなつた後 の人重の生活 を考え相談する手紙 を記 した。その中で表は「寧ろ戦地にあ りて一歩 も 退かざるは平素戦士の心得たるべ し」 と大学設立運動はじめ使命 と思 うことのためた とえ命 を縮めることになつて も働 く決意 をしている g。 その一方で7月 2日 になり入 重 も難波一医師 より襄がいつ死んで もおか しくないこと告知 された。人重はそのこと で大変心 を痛め「其夜 ヨリ夜半幾度力亡愛夫ノ寝息 ヲ伺 ヒテ油断ナク看護二怠 ラザ リ シ」 という状況だつたЮ。 ところが人重の徹底 した看護ぶ りは時に襄にとつて窮屈だつた

o7月

4日 に襄はア メリカで母同然 にお世話 になつたスーザ ン

H

イにもあらか じめ感謝 と別れ

を告げる手紙 を書いたが

,そ

の中には「My wife with me she is a SOrt of ponce man

Ner me,watching me lest I OVerdO(中 略)My wife has returned and WarnS me stop」 とあ るH。 ヽ重 は襄が働 き過 ぎて命 を縮 め るこ との ない ように絶 えず裏 のそば にいて

(5)

警 察官の ように見張 っていた。そのため襄 は八重 に用事 を言いつ け

,そ

の間に隠れて 手紙を書かねばならず

,戻

ってきた八重から早速に手紙を書 くのをやめるよう注意 を 受けている。確かに晩年の八重 と襄には

,夫

婦相愛であっても意見が合わないことが あったことがわかる。 この忍容 を約束する襄 との握手で特に重要なのは

,八

重が約束を夫婦間だけの約束 とは受け取 らなかった点である。人重は襄の との忍容の約束 を「夫婦間のみならず, 弘 く人類愛の根本義 として」 とらえそれ以降の人生を歩むことになったと語つている。

4.和

解 の カル タ会 八重が裏 との忍容の約束を「夫婦間のみならず

,弘

く人類愛の根本義 として」 とら え

,敵

でさえ愛せ とのキ リス トの教 えを思実に守ろうとする努力を始めたことを示す 象徴的な出来事がある。それは新島襄が亡 くなる直前に

,京

都で留守 を預かる八重が 薩摩の人を自宅でのかるた会に初めて招いた出来事である。前述のとお り八重は同志 社の学生などを招 き会津独 自のかるた会を行 うことを恒例にしていた。 しか し八重に とって成辰戦争時に故郷会津藩を苦 しめた敵である鹿児島の人々と和解をし

,会

津ゆ か りのなつか しいかるたを一緒に楽 しむ事は難 しかった。人重力〕文辰戦争の折に弟 三郎の形見の着物 をきて男装 をして戦ったのは「弟の敵を取 らねばならぬ

,私

は即 ち 三郎だ」2と の思いだった。八重は父 権八 もこの戦いで亡 くしてぃる。「 ならぬ もの はならぬ」では敵は敵のままであ り「敵を取 らねばならぬ」であ り続ける。 ところが 襄が亡 くなる直前 にな り八重は初めて敵 と歩み寄ろうとしたのである。「信者の′ら、J がついに「武士の心

Jよ

りも大 きく育ち八重 を動か した。 襄は前橋での療養中にこの和解の努力を伝える人重か らの手紙を受け取 り大変喜ん だ。その時に看病に当たったのは同志社看病婦学校の卒業生であった不破ゆうである。 ゆうは襄の教 え子で当時前橋教会牧師 共愛女学校長だった不破只次郎の妻であっ た。ゆうの回想によると以下の とお りである。 又上州療養中,「今 日は八重 さんか ら大変い ヽ便 りがあ りました……」 と仰せにな りますから突 き進んでお尋ねすると

,夫

人は会津御出身であられた為め

,薩

摩の人々 と何 うも和解せ られませんで したが

,到

々或る機会に鹿児島人を招んで

,か

るた会を せ られたと云 う便 りが来たので,「すべての人を愛せ よ」 と云ふ教訓 を絶えず実行 し て居 られる先生は此の和解 を大変喜んで居 られたのであ りました螂。 なお

,襄

との約束の握手が交わされた日付 については「 よほど晩年」 とあるのみで 正確な日付は不明である。約束の握手が八重力減 辰戦争の敵である薩摩の人と歩み寄

(6)

ろうとした出来事に影響 をあたえているとするには

,握

手が和解の努力以前 にあつた 出来事である事をさらに確認 してお く必要がある。 妻は1889年10月12日 に大学設立のための募金 を呼び掛けるため

,病

を押 して京都か ら関東に向け旅立 つた。11月28日 に前橋の

MHシ

エツド宣教師宅で夕食を食べた後 体F13を崩 ししばらく前橋で療養 した。ゆうによるとこの時に八重からの和解 を伝える 手紙を受け取つたことになる。その後襄は12月 13日 より東京,12月27日 より温暖な神 奈川県大磯に移 り療養 を続けたが1890年 1月 23日 に亡 くなった。人重が襄危篤の知 ら せを受け大磯 に駆け付けたのは1月 20日夜11時の事であった。人重は10月 12日以来約 3カ 月ぶ りで変わ り果てた姿 となつた襄 と再会 した。約束の握手の際に裏が語 つた内 容は危篤の状況下では不 自然である。この約束の握手は少な くとも襄が京都 を出発 し た1889年10月12日以前 と考 えるのが自然であるH。 襄は京都を発つ直前 に

,同

志社の学生たちに自分が志半ばで旅先で倒れる事があつ て も大学設立の事業を引 き継いで完成 してほしい と涙なが らに語 り

,医

師の制上にも かかわらず関東に向かい

,実

際に群馬で病に倒れた。このことを踏まえると

,京

都で 留守 を任 されす ぐに襄の もとに行 くことのできない人重が

,襄

の死期が一層迫つてい ることを実感 させ る状況下で,襄との忍容の約束をより真剣 に受け止めた結果 として, かるた会の出来事があつた といえる。

5.襄

の信仰 に学 ぶ 新島襄が亡 くなった直後,1890年 2月 10日 に記 された「亡愛夫襄闘病 ノ覚」 には, 入重の目線で襄の闘病の様子が記 されている。1884年

,表

はスイスのサ ンゴタール峠 で心臓発作 を起 こし

,死

を覚悟 して八重 らに遺書を記 した。その後何とか2度目の渡 米を呆た したものの体力は一段 と衰え,1885年12月 に帰国 してか ら亡 くなるまで闘病 生活 を余儀 な くされた。「亡愛夫襄闘病ノ覚

Jは

,そ

の帰国後か ら亡 くなるまでの経 過が記 されている。合わせて襄を失 った直後の人重の心情 も記 されているが,14年 の 結婚生活の後46歳の若 さで襄を失つた人重の悲 しみは非常 に大 きい。この中で

,人

重 が裏の信仰 に学んでいたことが以下の通 り明らかにされている箇所がある。 実二愛情厚キ事妾死 スマデ

,又

夕後世マデモ忘 レ難シ。信仰二富 ミ

,憐

憫二富 ミ, 堪忍 ビ

,人

ヲ容スノカスベテ妾 ノ学ブベキコ ト計ナリ£実二厚情又言 ヒ難キ情ハ只 タ 神 卜妾 卜知 ル計 ナ リ。(下線筆者)・ 八重 は

,襄

の信仰 のあ りようは自身が キ リス ト者 として学ぶべ きことばか りだった とす る。そ して具体 的 に自分が裏 に学ぶべ きだ と考 えていた点 を「信仰二富 ミ

,憐

(7)

二富 ミ

,堪

忍 ビ

,人

ヲ容スノカ」 とあげている。1885年

,結

婚9年目の裏は八重に対 して「敵の為にも熱心 に祈 り,(中略

)何

,武

士の′亡、ばか りにては足 らす

,真

の信 者の心 を以て」 と願つたが

,人

重 自身 もかつて襄に指摘 された点 を

,こ

の時期には自 身の信仰 において弱い面であったと認めていたことがわかる。そ してまた

,そ

うした 自身の信仰的な弱 さを克服すべ く裏の信仰に学んで きたのである。 1885年に「真の信者の′し、を以て」 と襄か ら諭 された八重が,1889年末に実際に戊辰 戦争の敵である薩摩の人を許 し受け入れようとする具体的な行動を起こすまでにはさ らに約5年間の月日が必要だった事 になるが,この期間と襲の闘病期間はちょうど重 なってぃる。この5年間

,襄

は教師や牧師 として以前 と同 じ様 に働 くことが体力的に 難 しくなった。その一方で襄は伊香保温泉や神戸和楽園など各地で療養をしてぃる。 そ して療養先から

,以

前 とは異な り教 え子や協力者に多 くの手紙 を書 くことで教育や 伝道の働 きを担 った。人重は看病のために療養先に同行 し襄 と共に多 くの時間を過ご している。次第に体力が衰えてゆ く襄 を支えなが ら

,な

お信仰 により′さ衰える事のな い襄 を見つめる日々の後に

,人

重の「信者の心」がつぃに「武士の′心」 を以上に戊辰 戦争時の敵に対する八重の言動や生 き方 を決めるようになったのである。人重がキリ ス ト者 となり襄の妻 となって以降14年の結婚生活の果てについにもたらされた結果だ つた。

6.「

タリスト

籠書え蕗をもて心とせょ」

八重は

,襄

が亡 くなる頃を境 に「武士の心」に 勝 る大 きな「信者の′亡、」 を持つにいたった。その 後八重の「信者の心」はどのように保たれていっ たのだろうか。191o年2月 1日

,襄

の父祖の地 群馬県安中市 に建てられた安中教会で襄没後20年 の記念会が開かれ

,京

都の人重 も招かれた。八重 は記念会の午前の部で襄の遺品について説明 し, 襄の残 した手紙 を朗読 した。 また午後の部では襄 の闘病中の 日記 を朗読 した。午前の部は地域の諸 教会か らloo名程

,午

後の部は教会外の有志 も集 い250名程が出席 した“。 この 日の 日付で「 クリス ト能古 々路 をもて′亡、と =鑢 == せ よ 明治 四十 三年 二 月一 日 新 島八重子」 (大戸雅之蔵

)の

署 名が残 され てい る。 これは群馬県藤 岡市 緑野教会 にお いて当時中心的会員であった大戸甚太郎が残 した サ イン帳の中にある。襄の記念会に出席 した際 に八重に書いてもらったと考 えるのが

キη

l

π

f ヽ )

,

t

(8)

自然である′。 興味深いのは八重が署名に添えた「クリス ト能古々路をもて心 とせよ」 との言葉で ある。これはフイリピの信徒への手紙 2章 5節 の言葉である。これは「明治元訳 聖 書

Jで

は「綺署キリス トイエスあ

=を

以て意とすべ し」であ り「大正改訳 聖書

Jで

は「汝らキリス ト イエスの心を心 とせよ」 となる。 さらに注目すべ きはこの聖書箇所が どの様な心を「キリス トの心」 としているかと いう点である。この聖句の直前には「何事 も利己心や虚栄心からするのではなく

,ヘ

リくだって

,互

いに相手を自分よりも優れた者 と考え

,

めいめい自分のことだけで なく

,他

人のことにも注意を払いなさい。J(フ イリピ

2:3-4)と

ある。そしてそ の直後は「キリス トは

,神

の身分であ りながら

,神

と等 しい者であることに固執 しよ うとは思わず

,

かえつて自分を無にして

,僕

の身分にな り

,人

間と同じ者になられ ました。」(フ イリピ

2:6-7)で

始まり「キリス ト賛歌」 として知 られる箇所に続 く。つまりこの箇所は他者を思いや り受け入れる隣人愛の心を「キリス トの心」 とし てお り

,そ

の心ゆえに「神の身分」でありなが らそれに固執せず「僕の身分」になっ たキリス トの生涯を讃えている。 裏没後20年がたつても

,襄

の闘病 と死をへて大 きく養われた人重の「信者の心」が 衰える事はなかつた。それどころか旅先で署名を求められた際に,「クリス ト能古々 路をもて心 とせよ」 との言葉がす ぐに出てくるほどに

,八

重は他者を受け入れる隣人 愛の心

,つ

まり「キリス トの心」をもて自らの「信者の心

Jと

することを大切にして いたことがわかる。かつて武士の身分

,武

士の娘 として育てられた誇 りや生 き方

,つ

まり「武士の心」に固執 していた八重がそれにこだわることなくむしろ「信者の心J にこだわるようになつていた。

7.「

心和得天真」 八重にとつて「信者の心」は襄の没後20年がたつても変わらずに重要だつたことを 見たが

,更

に晩年はではどうだろうか。人重は1921年夏に故郷会津を訪問 し

,い

くつ かの書を残 している。その内「日日是好 日 新島八重 七十七歳」(個人蔵)「勇婦竹 子女史 七十七 新島八重子」(岩澤家蔵

)は

いずれも会津若松教会牧師で新島裏の 教え子である兼子重光牧師の関係者に伝わつてお り

,八

重が故郷の教会関係者 との交 流 を もっ た こ とが わ か る6。 人重の「武士の心」 と「信者の心」を考える上で重要だと思われるのは同じく1921 新島八重子 七十七歳

J(福

島県立博物館 年の会津訪間時に記された「心和得天真 蔵

)で

ある。 「心和得天真

Jは

李自の詩の一節であるが

,妻

も「心和得天真

Jの

書を残 している。

(9)

人重はこの襄の書を踏まえ数えで77歳の時に故郷でこの言葉を記 したのである。「心 和得天真

Jは

キリス ト教的に理解するならば,「心和やかにすれば神の御心を知るこ とができるJと なる。ここでいう「和やか」とは柔和さや寛容さ,さ らには敵をも許 すような′し、の事である。 しかし問題は人重が単に襄の模倣をしただけなのか

,そ

れとも何 らかの意図を持っ て特にこの書を残 したのかという点である。実は人重は「心和得天真」と内容的に重 な り合 う「心の和 きものその人は地を嗣がむ」 という書 も会津に遺 しているЮ。残念 ながらこの書は現在所在不明となってお り書かれた年代などは不明である。 しかしこ の「′亡、の和 きもの」がキリス トの言葉「 柔和な人々は

,幸

いである

,そ

の人たちは 地を受け継 ぐ」(マ タイ

5:5)で

あることは明 らかである。これはキリス トが「山 上の説教

Jの

中で真の幸いについて説いた中に出てくる。 人重が「′さ和得天真」 を会津に遺 したのは

,単

なる模倣ではなく

,八

重なりの意図 があつての事であった。襄を通 して学んだ信仰を踏まえ

,八

重はかつての自分がそう であつたように戊辰戦争による苦 しみや悲しさ

,苦

しさをいまだに抱えているだろう 故郷の人々に

,心

広 く敵を許 し受け入れることの幸いを伝えようとした。人重は襄の 死後31年を経て,故 郷の人々にも是非そのことを伝えたいと考えるほどに「武士の心」 だけでは十分ではなく「真の信者の′じ、を以て主 と共に」生きることが大切であるとの 実感を深めていたことがわかる。

8.聖

,聖

人の心 に照 らす 八重は1%2年 6月14日 に86歳で亡 くなった。晩年

,人

重はお茶を通 して建仁寺の僧竹田黙雷と親 しく交流 したため改宗疑惑がささゃかれたこともあった。またこの 頃の人重の回想に戊辰戦争時の話が多いことから「武士の′し、」への回帰ととらえられ ることもある。本当のところ最晩年の人重の「信徒の心

Jは

どうなったのだろうか。 1928年10月 5日

,八

重は襄の教え子が複数働 く東京の日本女子大学を訪れた。その 際人重は学校関係者の求めに応 じて女学生に講演をしてぃる。その際にも子どもの頃 に覚えた「日新館童子訓」を暗唱 して教せ

,そ

れが自分の「最も根本の精神」だと語 つている。 しかし興味深いのはさらに続けて「心の歪み

Jに

ついて「髪容は

,鏡

に向 かつて直すことは出来ても

,心

の歪源は直らないのであります。それは聖書

,聖

人の 心に照 した時に

,初

めて直されることであると信 じております。J"と 述べていること である。 人重にとって,「武士の心」は幼い頃から晩年まで変わりなく大切なものであった。 しか し

,八

重は「心の歪み」に関しては「武士の心」でなく「聖書」と「聖人の′さ」 によって しか解決できないと語っている。ここでぃう「聖人の′し、」とは「キリス トの

(10)

心」の事である。前述のとお り八重は敵であつても′さ広 く受け入れる「キリス トの心J をもて「信者の心」 としてきた。「武士の心」だけでは解決できない「心の歪み」 と はどのようなものがあるだろう。たとえば八重にとつては戊辰戦争時に敵対 した薩摩 出身の学生を

,家

族を殺 した本人であるわけでもないのにどうしても自宅のカルタ会 に呼びた くないといつた′心のざわつ きに対 して

,そ

れを乗 り越える力 となったのが 「聖書

Jで

あ り,「聖書

Jに

示される「キリス トの心」をもて自らの「信者の′さ

Jす

る ことだつた。 また

,す

でに述べた通 り

,襄

との握手のエ ピソー ドは人重の亡 くなる1932年の正月 の病床で語 られたものである。人重は襄のとの忍容の約束を妻の最晩年以降「夫婦間 のみならず,広 く人類愛の根本義 として」として今までずつと歩んで きたと振 り返 り, 戊辰戦争の敵 というわけではないが,自分が「信者の心」 を大切 に他者を受け入れて 歩 もうと努め続けている証 として身近なエピソー ドを紹介 している。それは「実は此 問 も看護婦 さんが此 うは蒲団を柳か不注意に取扱ひました時

,一

寸小 ごとを云へば云 ふべ き場合あの遺訓│を実行 し

,云

ふに云はれぬ平和 を味わいました。」 とい うもので あるm。 このように八重の亡 くなる最後の時まで「武士の心」だけではな く「信者の心」を 大切に歩んだ事がわかる。

9.お

わ りに 新島入重の信仰 について,キ リス ト教の中心である隣人愛の教えを八重が どのよう に受容 し実践 したかを,「武士の心」 と「信者の心

Jと

いう言葉 をキーワー ドとして, 戊辰戦争時に敵対 した薩摩の人への対応などに注 目し検証 して きた

o新

島襄が指摘 し たように裏 と結婚 じクリスチ ヤンとなつて以降の人重の心の中には「武士の心」 と 「信者の心」の両方があつたo キ リス トが「敵 を愛 しなさい」 と教えたことか らもわかるように

,キ

リス ト教の隣 人愛は敵で さえも広い心で受け入れ許すことが求められる。人重が「武士の心」を上 回る大 きな「信者の心」により

,敵

,そ

の中で も特 に成辰戦争時の敵であつた人 々を 受け入れる具体的な行動がで きたのは

,襄

の亡 くなる直前のことであつた。すでに見 てきたように八重は1889年末 自宅でのかるた会に初めて成辰戦争の敵である薩摩の人 を招 き

,群

馬で倒れ療養中だつた襄 を喜ばせた。人重は戊辰戦争時に「弟の敵 をとら ねばならぬ」 と勇 ましい活躍をしたが

,襄

と出会いキリス ト者 となつた。 しか しす ぐ に「信者の心」が「武士の心

Jを

上回つたわけではなかつた。人重が成辰戦争の敵 を 許す具体的な行動 をとれるほどに「信者の心

Jが

育つには,14年間に及ぶ襄 との結婚 生活

,そ

の中で も襄の闘病 と早す ぎる死が大 きな意味を持った。八重の信仰的な成長

(11)

にお いて は襄 の大 きな影響 が あ った。 襄の死後 も,八重は襄を手本 として学んだ身分にこだわらず敵でさえも心広 く許し, 忍耐する「キリス トの心」 を自らの「信者の′ら、

Jと

して死ぬまで大切にした。特に 1921年に故郷会津を訪れた八重が,「′亡、和得天真」 という柔和で寛容であることの大 切 さを伝える書を残 しているのは重要である。人重自身が「武士の心」だけでは乗 り 越えられなかった戊辰戦争の悔 しさや悲 しさを「信者の′心

Jに

より乗 りこえてきたこ とを踏まえ,「信者の′亡、」に生 きること

,柔

和で寛容に敵を受け入れてい くことによ り得 られる幸いを故郷の人々に伝えているからである。 本研究では人重の信仰に焦点を当て論 じてきたが

,今

回は八重が成辰戦争時の敵で ある人々にナすして隣人愛の教えをどのように受容 し実践 したかを見るにとどめた。こ れは人重の信仰を考える上で最も重要な部分であるが, しか しながら八重の信仰の一 部にす ぎない。今後の課題 として本研究を踏まえ

,た

とえば再会の希望

,同

志社 との 関係

,祈

,教

会生活

,贅

,茶

道 との関係

,宗

教間対話などさらに細か く八重の信 仰について研究する必要があるだろう。 なお最後になったが本研究は稚拙『新島八重 ものがたりJ(日 本キリス ト教団出版 局

,2012)を

執筆 した経験を踏まえ

,そ

の際に明らかになった人重のキリス ト者とし ての姿を論文 として新たな資料からの考察も踏まえまとめたものである。 江

1

新 島襄全集編集委 員会「新 島襄全集J3巻 (同朋 舎出版.1987)329頁

2

会津 藩校 日新館 『 よみが える 日新館童子訓J(会津 藩校 日新館,21X17)7頁。

3

と くに断 りが ない場合 は「聖書 新共同訳J(日 本聖書協 会,1987)か ら引用す る。

4

本研 究 では詳 しく触 れないが,八重の兄 であ る山本覚馬 (1828年 1月11日-1892年12月28 日)は戊 辰戦争 の際,鳥羽伏見 の戦いで捕 らえ られ薩摩 藩で捕 虜 とされた。 その時 に.・Lし た『管見』 が認 め られ後 に京都府顧間 となった。人重 も兄 を頼 り1871年 に上洛 した。覚馬 は1875年 に新 島襄が 同志社英学校 を創立する際の最大の協 力者である。人重 はこの兄の影 響 を大 き く受 けている。

5

他 のノヽ重研 究 を踏 まえての議論 は別 の機会に譲るが,これ までの八重 の信仰 に関す る議論 は本井康 博 「八重 さん,お乗 りにな ります か 新 島襲 を語 る 別 冊 (■)J(思文 閣出版, 2012)100122頁 に詳 しい。

6 F新

島襄全集

J3巻

,328-329頁。

7

同志社社史資料室 F追悼集JⅥ (同志社社史資料室,1993)397-398頁。人重主催のかる た会の証言は他 に同志社社史資料室「草創期の同志社」(同志社社史資料室,1986)131, 149,204頁など。会津独 自かるたが どのようなものであるかについては吉海直人「新島八 重 愛 と闘いの生涯J角川選書505(角川学芸出版

,2012)%-82頁

に詳 しい。 8 F追悼集』Ⅵ,387頁。

9

「新島裏/1N集

J3巻

,“8頁 。なお大学設立運動 とは同志社英学校 として始 まった同志社を 総合大学にするための運動で,教会合同問題 とならび晩年の襄の大 きな関′亡ヽ事であった。

(12)

10 新島八重子「亡愛夫襄闘病 ノ覚J「同志社談叢J10号 (同志社社史資料室,1900)82頁。

11

「新島襄全集』6巻 ,333-334頁。 12 吉海直人「新 島八重 の「懐古談J補遺」f同志社女子大学総合文化研究所紀要J24巻 (同 志社女子大学総合文化研究所,21X17)213頁。

13

「追悼集JⅥ,355頁。 14 F新島襄全集

J8巻

,545,555,r。63,574,576頁。

15

「亡愛夫裏闘病ノ覚」83頁 。 16 F上毛教界月報J復刻版, 4巻136号,(不二出版,1984)164-165頁。 17 山下智子「新 島八重 ものがた りJ(日本キ リス ト教団出版局,2012)130頁。 18 同上,120頁。

19

「会津図書館移転記念 会津三人山川浩 廣澤安任 新島八重子遺墨展覧会J目録,(会 津図書館,1946)12頁。 20 r人重さん,お 乗りになりますかJ95頁。八重の日本女子大訪間についてはこの本の88-99 頁に肩羊しい。

21

『追悼集』Ⅵ,387頁。

<参

考文献

>

「会津図書館移転記念 会津二人山川浩 廣澤安任 新島八重子遺墨展覧会」目録,(会津図書 館,1946) 「上毛教界月報J復刻版,4巻,(不二出版,19斜) rよみがえる 日新館童子訓J(会津藩校 日新館,21X17) 飯沼二郎 片野真佐子編 「柏木義円 日記J(行路社,1"8) 岩澤信千代 「不一 新島八重の遺 した ものJ(アイミライ.2012) 「現代語で読む新島襄J編集委員会編「現代語で読む新島襄J(丸善,21XXl) 河野仁昭編 「新島覚馬 新島八重兄妹の生涯J増補改訂版 (同志社,1992) 同志社社史資料室 「追悼集

J I, 1,V,Ⅵ

(同志社社史資料室,1993) 徳富蔵花「黒い眼 と茶色の 目J(新橋堂,1914) 永沢嘉巳男編 「新島八重子回想録』復刻版 (大空社,19%) 新島襲全集編集委員会 『新島襄全集』3,6,8巻 (同朋舎出版,1987) 新島八重子「亡愛夫襄闘病 ノ覚J「同志社談叢』10号 (同志社社史資料室,19∞) 早川廣中 本井康博『増補改訂 新島八重 と夫,襄一会津 京都 同志社」(思文閣出版,2012) 平石弁蔵編「会津戊辰戦争増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』復刻版 (鈴木屋書店,1976) 本井康博「ハ ンサムに生 きる 新 島襄 を語 る (七)」 (思文閣出版,2010) 本井康博 「日本の元気印 新島八重新島襄 を語 る 別巻 (一)J(思文閣出版,2012) 本井康博「八重 さん,お乗 りにな りますか 別巻 (二)J(思文閣出版,2012) 山下智子 「新島八重 ものがた り』(日本 キ リス ト教団出版局,2012) 吉海直人「「新島八重子刀 自懐古談Jの紹介 (全文翻刻)解題」「同志社談叢J20号 (同志社社 史資料室,20∞) 吉海直人「新 島八重の「懐 古談

J補

遺」「同志社女子大学総合文化研究所紀要」24巻 (同志社 女子大学総合文化研究所,21X17) 吉海直人 r新島八重 愛 と闘いの生涯」(角川学芸出版,2012)

参照

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